私たち人間は神を直接認識することはできないという取り組みの記録を、日本の本居宣長とドイツのカントの場合に拠りながら、先に話題にしました(本ブログ・その067~069)。そして、私たちは神を認識することはできないけれども、その存在を信じることはできる、そのことは神に対する人間の態度として、大切なことだという見解は、この二人に共通であった、と私たちは理解することができます。私は、この二人の神学探求を、賛同しつつ、受け継ぎたいと思います。
神は認識できない。しかし、私たちは、日月を証明として、神の存在を信じることができる、と卜部兼俱は神道神学において、論じました(本ブログ・その009)。神道文献を検索すれば、他にも同旨のことを述べている人はいると思います。キリスト教においては、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」という記述があります(『ローマ人への手紙』1:20)。
神道神学においても、キリスト教神学においても、それこそ膨大な研究記録があり、多種多様な見解があるわけですから、私がこのブログに引いてくるのとは違う論考や見解も多々あるであろうことは言うまでもありません。そのことは私も心得ております。
私は、宗教間対話と協調は、進めようとする意思があるならば、できないはずはない、ということを信じて、そのための資料を集めるという意図で、本ブログを綴っております。ですから、当然、それに資すると思われる言葉や見解を並べております。 宗教間対話は、神観念が根本的に違う宗教の間では、やっても無駄だ、というような見解があることは、私も、承知しております。しかし、果たして、人類の持っているさまざまな神観念は、人間同士でまるで理解し合えないほどに違うものなのかどうか。そのことについては、そんなことはないはずだ、という思いを、私は捨てることはできません。互いに相手を拒否したり、屈服させたりすることを目指すのであれば、理解し合おうとする意思のないところでは、神については言うまでもなく、人間界内部のこととしての、正しさとは何か、という一つのことだって、理解し合えないでしょう。
古来、霊、気、空、あるいは、生命源や存在源などと呼ばれて哲学や宗教の探求課題とされてきたものが、今日の科学的知見としてのダークマターやダークエネルギーと呼ばれて探求されているものに相当する、と科学的に判明する日が来てもなお、それらの存在の意味を問い、それらの存在の行く末を尋ね、人間との関係を探求する、などの未知の探求課題は残るのではないでしょうか。 そういう意味では、天地宇宙・世界に人間が存在する限り、科学探求ばかりでなく、神学あるいは宗教探求の役目もあるのではなでしょうか。 さて、前々回(その112)、「神の持ち分け」思想は、神道神学の大切な教えだと申しました。
そのことを、神道の歴史においてみますと、このことばは、どのような使われ方をしてきたのか、受け継いでいく価値があると思います。
「持つ」ということばは、複合語として、「持ち斎く」「受け持つ」「持ち分ける」「取り持つ」などと使われてきました。次回から、検討してみます。
前回(112回)私は、唯一絶対の普遍存在である神を信じることは万人に開かれている、と申しました。しかし、その神は、この自然界・天地宇宙において、万物に働き、作用し、活動を続けているからには、この地球上に生きる人々は、その神をさまざまに個別個別の経験をし、認識をし、また、探求もする、そういう存在である、という神認識、神観念を持つことと組み合わせて理解することには、なんら不当性もないし、間違ってもいない、と言いたかったのです。 そういう意味で、一神観念と多神観念は、決して不倶戴天のような関係ではなく、人間の持ちうる神観念の二層構造として、調和整合することだ、と言いたかったのです。 一神教と多神教は、いずれが神認識として優れているかとかというような問題に仕立てて論争することは、やればできますが、それよりは、むしろ、人間の持つさまざまな神観念の構造分析をして、体系化し、宗教間の相互理解を世界規模で行うには、どうするか、そういうことに取り組みたいと思います。
多神教は、唯一絶対存在としての神という位階における神観念をそれほど強く認識することがなかった、また、反面、一神教は、神が生きとし生けるものや万物万象にさまざまな働きをするという神観念を持つことはそれほど強くなかった、などという対比はできるのではないでしょうか。
神は、人間にとっては、唯一絶対の存在としての探求課題ともなるし、無辺無量にして多種多様な働きをする存在としても探求課題になる、そういう捉え方をしてみてはどうでしょうか。
絶対ということばは、絶対値、絶対温度、絶対主義、絶対音感などなど、さまざまに使われています。そういう用語の実態を認めながら、絶対という概念が相対という概念と対になって、相互に、人間の学問や実践において、有効な働きをしていくように、したいものです。 イデアにしろ、
愛にしろ、力にしろ、善にしろ、光や闇にしろ、親や子にしろ、いずれのことばも、それぞれのことばを充てる以外には特定しえない存在や働きを意味することが想定されればこそ、普遍にして唯一絶対性をもちます。同時に、それらのことばは、個別にして千種千様の具体的な存在や働きを指し示し、名づけることばとして、私たちは、相対的にも使います。その事情は、神についても、同然なのではないでしょうか。
人間の諸々の探求学問行為の歴史において、相対と絶対という組み合わせの認識枠を持ちえたことを、私たちは、先人に感謝いつつ、大切にするのがいいのではないでしょうか。
人間の諸々の探求学問行為の歴史において、相対と絶対という組み合わせの認識枠を持ちえたことを、私たちは、先人に感謝いつつ、大切にするのがいいのではないでしょうか。
神は神であり、神以外のいかなるものでもない、そのことは、万人が同意しなければ、神についての会話も議論も成り立ちません。神を神以外の存在としたり、神ならざる存在を神とするとき、会話も議論も混乱してしまいます。
そういう意味では、神は神以外の存在ではないのですから、唯一絶対だと言えるでしょう。
しかし、人類にとって、神は唯一絶対の存在であると信じることと、この地球上の人々のだれかが、自分たちの宗教は、その唯一絶対の神を一手に独占管理する権能を持っていると主張することとは、違います。
神は唯一絶対であると信じたり、認めたりすることと、その神は、この地球上に生きる人々に対して、さまざまな時代に、さまざまなところで、さまざまな人々に、さまざまな啓示を与えたり、顕現したりすることがあると、信じたり、認めたりすることは、整合します。
神は、唯一絶対の普遍存在・万物万象の存在源・一切の例外もなく公正公平に働く存在、などとして、信じることはだれにも開かれています。しかし、そういう神につながっているのは私だけである、と信じたり、公言することは、排他独善主義と唯我独尊の極みです。 そのことは、いまや、地球は一つ、世界は一つという認識が広く共有されるにつれて、人類のなかの諸宗教の歴史や特徴を対比し、理解を深めるに応じて、否定のしようがないことが、はっきりしてきたのではないでしょうか。
神と人との関係は、唯一にして絶対、普遍にして公正、公平な神、諸々の存在を存在せしめる力などとして、世界の万人、万物が共有する階層があると認めることと、諸々の存在が、それぞれの関わり方とつながり方で、神とさまざまな関わり方があり、さまざまな神経験、神認識がありうること、そういう神と人との多様な関係を持ち分けることがありうることを認める階層との間には、何の不都合もありません。
敢えて申しますならば、この、神の持ち分け、という観念は、神道神学の大切な教えとして、伝承されてきたことを、思いおこしたいと思います。
一神教と多神教は、神と人との関わり方及び理解の仕方についての二層構造を示すものです。この二つの神と人との関係論は、両立します。この両論は整合するし、させなければならない神認識です。
一神教は神の唯一性のみを主張し、多神教は神の顕現や啓示の多様性のみを主張し、互いに他方を批判する構図は、人類全体としては、不幸なことです。 ですから、仮定の話ですが、もし、世界の諸宗教が、対話や協力をめざして会合したとき、いずれかの宗教の代表が、真の神はわが神のみだ、真の神の啓示や顕現を与えられているのは、われわれの宗教のみだ、などと主張し、譲ることがないとしたら、その会合は先へ進めないのではないでしょうか。
鈍にして渋なることを自覚しつつも、一言付け加えておきます。それは、啓示とはいかなるものかについて、世界の諸宗教が、理解し合う日が来ることを切に願うがゆえです、と申しておきます。
『日本書紀』において、「かみ」と訓読されていることばの最初の記事は、巻第一 神代上の「故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」の「神聖」であり、「神聖」ということばが「かみ」と訓読されていること、これが『日本書紀』に最初に出てくる「かみ」であることを前々回(本ブログ・109)、話題にしました。
これは、神と人との関係記述としては、人からすれば、神の存在を人がはっきりと認識し、経験したことを記したことばです。この場面は、言い換えれば、神の顕現を記録したものです。ということは、世界的な宗教間対話の席において、神学用語を使って表現するならば、それは、エピファニーと呼ばれる場面の記録でもあります。もし、エピファニーということばが、特定の宗教色を強く感じさせるとしたら、別の言い方にかえて、テオファニーと呼ばれる場面です。
人によっては、神道神学においては、啓示はない、と認識しているかも知れません。しかし、それは、神道についての根本的な誤解をしていると言わなければなりません。
また、人によっては、日本の神道においては、啓示があるとしても、それは、せいぜい自然的啓示どまりだ、と言うかもしれません。
では、自然啓示は、それ以外のどんな啓示と対比して、そう言うのでしょうか。神の自己啓示、特殊啓示などとくらべて言うのでしょうか。
私はお聞きしたいです。自然啓示は、啓示であるからには、神からのものではありませんか、と。啓示は、人間に対する神由来の知であり、予告や約束であり、戒めであり、怒りであり、教訓であり、宣言であり、などでしょうが、一つの例外もなく、神のもの、であるときに、啓示ということばを使うのではないでしょうか。
そうであれば、神の啓示(神託、預言、開示、黙示など、数多くの呼び方があります)は、すべて、神と人との関係においては、決して無時間的なことではなく、少なくとも人間側のこととしては、一つ一つの啓示は、いつか、どこかで、だれかに示された個別の啓示であるという出自は動かしようもありませんし、それが間違いだというのであれば、啓示論はやる必要もありません。
「天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」という記述は、神代のこととしかなっていないわけですが、歴史上の時間特定ができないこと、平成○○年のことなどとなっていないことは、啓示の伝承として、少しも、その啓示経験の価値を下げるものではありません。世界のいくつかの啓示伝承と比べてみても同然です。 この啓示記録は、たった一回のことではなく、ただ一人の経験でもないかもしれません。この秋津島に生きていた何千何万人もの人々が、幾歳月にもわたって共有してきた神認識と経験を集約することばとして読むべきかもしれません。遠き日々のご先祖の皆さまのかみに対する確信の結晶語として読むのはどうでしょうか。
『日本書紀』において、「かみ」と訓読されていることばの最初の記事は、巻第一 神代上の「故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」の「神聖」であり、「神聖」ということばが「かみ」と訓読されていること、これが『日本書紀』に最初に出てくる「かみ」であることを前々回(本ブログ・109)、話題にしました。
これは、神と人との関係記述としては、人からすれば、神の存在を人がはっきりと認識し、経験したことを記したことばです。この場面は、言い換えれば、神の顕現を記録したものです。ということは、世界的な宗教間対話の席において、神学用語を使って表現するならば、それは、エピファニーと呼ばれる場面の記録でもあります。もし、エピファニーということばが、特定の宗教色を強く感じさせるとしたら、別の言い方にかえて、テオファニーと呼ばれる場面です。
人によっては、神道神学においては、啓示はない、と認識しているかも知れません。しかし、それは、神道についての根本的な誤解をしていると言わなければなりません。
また、人によっては、日本の神道においては、啓示があるとしても、それは、せいぜい自然的啓示どまりだ、と言うかもしれません。
では、自然啓示は、それ以外のどんな啓示と対比して、そう言うのでしょうか。神の自己啓示、特殊啓示などとくらべて言うのでしょうか。
私はお聞きしたいです。自然啓示は、啓示であるからには、神からのものではありませんか、と。啓示は、人間に対する神由来の知であり、予告や約束であり、戒めであり、怒りであり、教訓であり、宣言であり、などでしょうが、一つの例外もなく、神のもの、であるときに、啓示ということばを使うのではないでしょうか。
そうであれば、神の啓示(神託、預言、開示、黙示など、数多くの呼び方があります)は、すべて、神と人との関係においては、決して無時間的なことではなく、少なくとも人間側のこととしては、一つ一つの啓示は、いつか、どこかで、だれかに示された個別の啓示であるという出自は動かしようもありませんし、それが間違いだというのであれば、啓示論はやる必要もありません。
「天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」という記述は、神代のこととしかなっていないわけですが、歴史上の時間特定ができないこと、平成○○年のことなどとなっていないことは、啓示の伝承として、少しも、その啓示経験の価値を下げるものではありません。世界のいくつかの啓示伝承と比べてみても同然です。 この啓示記録は、たった一回のことではなく、ただ一人の経験でもないかもしれません。この秋津島に生きていた何千何万人もの人々が、幾歳月にもわたって共有してきた神認識と経験を集約することばとして読むべきかもしれません。遠き日々のご先祖の皆さまのかみに対する確信の結晶語として読むのはどうでしょうか。
よく言えば根気よく、悪く言えば鈍重かつ執拗に、神道神学は何を探求対象にしてきたか、あるいは、これから何を探求するべきか、そのことを考えておきます。神道が天地そのものを探求課題としてきた記録を、前回、日本書紀でみました。仏教においても、空海(宝亀五・七七四~承和二・八三五)の言葉、「乾坤ハ經籍ノ箱ナリ」(『性霊集』)にも同旨の天地観をみることができます。
その伝統はしっかりと受け継がれて、文明一六(一四八四)年ころ、神道家の卜部兼俱は、「吾が神道は天地を以て書籍と爲し、日月を以て証明と爲す。」(『唯一神道名法要集』)と論じたこともすでにみました(本ブログ・009)。
この伝統は私たちも継承し、これからもそうするのがいいのではないでしょうか。神学は空論ではありません。切実にして真剣な日本人の生活探求そのものです。
今日の素粒子論、宇宙論などの研究者の研究によれば、「万物は原子でできている」とみる宇宙観は、近年大きく変わり、「宇宙には暗黒エネルギー(ダークエネルギー)が充満している」とのことです。そして、「宇宙は加速膨張している」のだそうです。(東京大学国際高等研究所 カブリ数物連携宇宙研究機構の発行資料 による)
宇宙の組成比は、星:0.5%、原子:4.4%、ニュートリノ:0.1%?、暗黒物質:22%、暗黒エネルギー:73% と、私たちは、研究状況を教えられてもいます(同上資料による)。暗黒エネルギーは、空間自身が持つエネルギーで、宇宙膨張を加速させています。そういう知見と整合するものとして、神学は神学として、天地・宇宙を考え、人間の存在意味を探求することは、むしろ奨励されていいことなのではないでしょうか。
一つのiPS細胞の振舞いに心臓をどきどきさせ、何億光年かなたの星の光に感動すること、それらは、みなどこかでつながっているのではないでしょうか。
私の友人で、水はH2Oだと知れば、それで水がわかったことにはならないよ、と言う人がいますが、私も同感です。
水も、土も、火も、空も、ことごとく、人間にとって、科学的探求と神学的探求は、親和的に、協力する気になれば、できるし、それは、必要なのではないでしょうか。知のルネサンスと信のルネサンスを協調・相乗させて、日本の国民力と国力のルネサンスを進めたいものです。
その伝統はしっかりと受け継がれて、文明一六(一四八四)年ころ、神道家の卜部兼俱は、「吾が神道は天地を以て書籍と爲し、日月を以て証明と爲す。」(『唯一神道名法要集』)と論じたこともすでにみました(本ブログ・009)。
この伝統は私たちも継承し、これからもそうするのがいいのではないでしょうか。神学は空論ではありません。切実にして真剣な日本人の生活探求そのものです。
今日の素粒子論、宇宙論などの研究者の研究によれば、「万物は原子でできている」とみる宇宙観は、近年大きく変わり、「宇宙には暗黒エネルギー(ダークエネルギー)が充満している」とのことです。そして、「宇宙は加速膨張している」のだそうです。(東京大学国際高等研究所 カブリ数物連携宇宙研究機構の発行資料 による)
宇宙の組成比は、星:0.5%、原子:4.4%、ニュートリノ:0.1%?、暗黒物質:22%、暗黒エネルギー:73% と、私たちは、研究状況を教えられてもいます(同上資料による)。暗黒エネルギーは、空間自身が持つエネルギーで、宇宙膨張を加速させています。そういう知見と整合するものとして、神学は神学として、天地・宇宙を考え、人間の存在意味を探求することは、むしろ奨励されていいことなのではないでしょうか。
一つのiPS細胞の振舞いに心臓をどきどきさせ、何億光年かなたの星の光に感動すること、それらは、みなどこかでつながっているのではないでしょうか。
私の友人で、水はH2Oだと知れば、それで水がわかったことにはならないよ、と言う人がいますが、私も同感です。
水も、土も、火も、空も、ことごとく、人間にとって、科学的探求と神学的探求は、親和的に、協力する気になれば、できるし、それは、必要なのではないでしょうか。知のルネサンスと信のルネサンスを協調・相乗させて、日本の国民力と国力のルネサンスを進めたいものです。
私のこのブログは、神道神学は世界のいかなる宗教における神学と比較しても、対等にして同等の足場に立っており、かつ、実績を築いてきたことを論証することを主題としております。そこで、これまでの検討経過を振り返りながら、先へ進みたいと思います。
まず、神道ということばはどういう意味か。そのことにつきましては、『日本書紀』巻第二十一 用明天皇紀の「天皇、仏法を信けたまひ神道を尊びたまふ」をもとに、検討しました(本ブログ・その41)。この記事が、今日に伝承されている「神道」についての最古の記述であることはよく知られております。
この一文の「仏法」は、「ほとけのみのり」、「神道」は「かみのみち」と、それぞれ訓読されています。
『日本書紀』において、そもそも、「かみ」と訓読されていることばの最初の記事は、巻第一 神代上の「故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」の「神聖」です。「神聖」ということばが「かみ」と訓読されていること、これが『日本書紀』に最初に出てくる「かみ」であること、言い換えれば、神道の「かみ」を漢字で「神聖」と表記したことに、日本の神道神学の核心をみることができると言ってよいのではないでしょうか。
自然・天地・宇宙を「かみのみち」と呼び、その天地の中に「かみ」が顕現した、生れた、とするのが、神道神学の基本中の基本であることを、忘れないでいたいと、私は思います。
そして、仏法も神道も、私たちにとっては探求課題でもあり、探求成果でもある両様の意味を持つことばとして、日本人は使ってきたこと、この学問の伝統は、ロゴス、道、法、理、などということばを、探求課題としても、探求成果としても使ってきた世界諸国の人々の学問の歴史と符合します。このこともまた、しっかり心得ておきたいと思います(本ブログ・その41をご参照ください)。
ことばと人との関係におけるこの二重構造は、他にも、真理、イデア、プラグマ、意志、運命、自然、生命、自我、世界など、挙げるならば、いろいろ挙げることができると思います。仏教教学でいわれる真俗二諦論にもつながるかと思います。
さて、本項としての検討課題は、「神学」とはなにか、そのことについて、今の段階なりに、一つの解釈を試みることです。
神道神学の歴史のなかで精査しますならば、神学を定義した探求の跡をいくつも見いだせると思いますが、その一つに、「神道に関する学問」というのがあります。これは、『日本国語大辞典』第7巻(小学館)にあるものです。神道および神について、今回引用しました日本書紀の記事の意味用法を踏まえて、世界にはさまざまな神学があることもまた心得たうえで、私たち日本人は、このような神学観を共有することを大切にしたいと思います。
まず、神道ということばはどういう意味か。そのことにつきましては、『日本書紀』巻第二十一 用明天皇紀の「天皇、仏法を信けたまひ神道を尊びたまふ」をもとに、検討しました(本ブログ・その41)。この記事が、今日に伝承されている「神道」についての最古の記述であることはよく知られております。
この一文の「仏法」は、「ほとけのみのり」、「神道」は「かみのみち」と、それぞれ訓読されています。
『日本書紀』において、そもそも、「かみ」と訓読されていることばの最初の記事は、巻第一 神代上の「故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」の「神聖」です。「神聖」ということばが「かみ」と訓読されていること、これが『日本書紀』に最初に出てくる「かみ」であること、言い換えれば、神道の「かみ」を漢字で「神聖」と表記したことに、日本の神道神学の核心をみることができると言ってよいのではないでしょうか。
自然・天地・宇宙を「かみのみち」と呼び、その天地の中に「かみ」が顕現した、生れた、とするのが、神道神学の基本中の基本であることを、忘れないでいたいと、私は思います。
そして、仏法も神道も、私たちにとっては探求課題でもあり、探求成果でもある両様の意味を持つことばとして、日本人は使ってきたこと、この学問の伝統は、ロゴス、道、法、理、などということばを、探求課題としても、探求成果としても使ってきた世界諸国の人々の学問の歴史と符合します。このこともまた、しっかり心得ておきたいと思います(本ブログ・その41をご参照ください)。
ことばと人との関係におけるこの二重構造は、他にも、真理、イデア、プラグマ、意志、運命、自然、生命、自我、世界など、挙げるならば、いろいろ挙げることができると思います。仏教教学でいわれる真俗二諦論にもつながるかと思います。
さて、本項としての検討課題は、「神学」とはなにか、そのことについて、今の段階なりに、一つの解釈を試みることです。
神道神学の歴史のなかで精査しますならば、神学を定義した探求の跡をいくつも見いだせると思いますが、その一つに、「神道に関する学問」というのがあります。これは、『日本国語大辞典』第7巻(小学館)にあるものです。神道および神について、今回引用しました日本書紀の記事の意味用法を踏まえて、世界にはさまざまな神学があることもまた心得たうえで、私たち日本人は、このような神学観を共有することを大切にしたいと思います。
前回のブログ(その107)に、いまの時代、科学と宗教の背反や対立を主張する論説に頭を悩ます必要はなくなったように思う、と記しました。科学と宗教の関係はそんな単純なものではないよという内なる声を聞いていながらも、敢えて、そう記しました。
科学と宗教を対立的に捉えて、科学が進歩すれば、宗教の役目は終わるとか、科学と宗教は敵対関係にあるとするような論説と現実がもう一方にあることを、私は問題だと思っているものですから、そういう見解に対して、科学と宗教の関係はそれだけではないよということを言いたくて、敢えて前回の言い方を選びました。
神学は人間学であると言った人がいますが、そう言った人の思いとは違う意味で、私は、その言い方に同意しないわけにはいきません。人間の持っている神学は、いずれの神学も、そういう神学を持っている人たちの人となりを示している一面があるので、その人たちを知るための学問となりうる、という意味においてです。また、人間の持ちうる神認識は、いかに公正であろうと心しても、いかに全体的であろうと努めても、人間という生物特有の認識特性と限界を帯びていることから免れないという意味においても、です。
ヒトは自己認識においても、世界認識においても、ヒト特有の先天的特性を帯びているという研究は哲学でも、生物行動学でも行われていることを知りますと、神学だけは例外だなどとは言えない、と思わざるをえません。
そういう反省をしますなら、知の探求も然り。結局、人間の思い、考えること、やることなすことの一切は、人間的特性を帯びていると認めるのが妥当だということでしょう。神学に限らず、人間の関わることはすべて、人間にとって自己認識のための学問資料ともなります。 古代ギリシャにおいて、フィジカに対してメタフィジカ、ノイアに対してメタノイアを探求した学問の歴史にならえば、神学に対してメタ神学、人間学に対してメタ人間学を置いて探求する視点も持つということになるでしょうか。
そして、そうした反省を心得ながら、なおかつ、人間は、真理の探求を続けることをやめないほうがいいと、私は思います。なぜなら、「人間は人間になりゆく存在である」という自己認識は、二十世紀のドイツの哲学者にもありましたが、「人となり、人とならバや」という生き方が、戦国時代の日本の武将の心得にもあったことを教えられますと、いつの時代でも、生きて悔いなし、死にて悔いなしという人生道を旅するためには、真理の探求は不可欠だと理解できるからです。
ついでに、余計な憎まれ口をたたいておきます。世渡りのうまい人間が地位や権力を握る、あるいは、地位や権力を握るためには、世渡りをうまくやる、そういう人生観の人が地位や権力を持ち、一国の命運を左右する役職に就くようになりますと、そういう国は不幸です。なぜなら、一国の命運を左右する役職に求められる資質と能力は「世を渡る」ためのものではなく、「世を渡す」ためのものであるからです。「世を渡る能力」と「世を渡す能力」はそれを身につけるための生き方及び勉強の内容は違うはずです。権力はほしい、しかし、それに対応する責任を負う心得は持っていない、そういう人には、一国の命運のかじ取りは任せられません。任せてはいけないのです。
余計なことを言いました。本題に戻ります。
知と信の関係です。知は存在に先回りすることはない、存在があっての知です。これが知の特性の一つとしてあげられます。それに対して、信は存在に先回りすることができます。人間は、存在の認識されていないことについて、認識されていないときに、ありうべき存在について信をもつことができます。これが信の特性の一つとしてあげられます。知による道は安全確実かもしれません。しかし、人間を活性化するものは、信です。しかも、信は、その本性からして、危険を含んでいます。
知と信の問題として霊魂を考えますと、霊魂は知の対象でしょうか。それとも信の対象でしょうか。霊魂は人間にとって知の対象として認識できるものではないとみなされてきたのではないでしょうか。人間の認識能力では、その存在を知ることはできない、しかし、人間の知的認識を超えて存在し、働いているものがあることを信じることはできる、そういう存在と働きを、人々は、霊魂と呼んできたとさえ言えるのではないでしょうか。人により、宗教により、学問により、そういう働きを、存在原理、理、法、道、生命原理などと呼んできたのではないでしょうか。当然ながら、それぞれの呼称、認識仮説、あるいは信仰は、意味範囲において、共通部分もあり、独自の部分もあると思います。 人間自身のことにせよ、アメーバやバクテリアにせよ、日月にせよ、素粒子から宇宙まで、人間には認識できる部分と認識できない部分があることにおいては、例外はないのではないでしょうか。人間にはわからないことがある、知りたいこと、知らねばならないことがある、やりたいこと、やらねばならないことがある、そうであればこそ、人間には、いつでも、どこでも、だれでも、何か課題があり、何か目標があり、何かできることがあるのだと思います。
科学と宗教は、自然・天地・宇宙の探求において協力関係を作れることは明らかではないでしょうか。いまの時代、科学と宗教の背反や対立を主張する論説に頭を悩ます必要はなくなったように思います。科学と宗教は、探求の仕方、認識の仕方や角度は違う、しかし、それぞれに、存在の意味や由来と未来について、真理を探求しようとする心は同じだ、とみてよいと思います。
正しいい知見を得ようとする科学の方面からと正しい信仰を得ようとする宗教の方面からと相助け合うことで、人間の真理探求を確実なものにすることができるのではないでしょうか。
そう考えますと、人類内部で、宗教間の抗争や対立で、殺し合いをするなどということは、人類として、何という不幸なことか、と思わざるを得ません。
いつまで、人間界内部で殺し合いなどして、不幸な日々を繰り返しているのだ、人類格を自ら貶め続けるのだ、という声なき声は、世界各地にあるのではありませんか。ホモサピエンスと自称し、万物の霊と自己認識している人間が、果たしてその自称と自己認識に相応しいかどうか、それは人間自らが証明すべき実践課題でしょう。
私のような平々凡々たる市井の人間がそういうことをわめいているのは、なさけない状況だとも思いますが、虫の声もかぼそくなってきた立冬の夜に記しておきます。
科学と宗教は、自然・天地・宇宙の探求において協力関係を作れることは明らかではないでしょうか。いまの時代、科学と宗教の背反や対立を主張する論説に頭を悩ます必要はなくなったように思います。科学と宗教は、探求の仕方、認識の仕方や角度は違う、しかし、それぞれに、存在の意味や由来と未来について、真理を探求しようとする心は同じだ、とみてよいと思います。
正しいい知見を得ようとする科学の方面からと正しい信仰を得ようとする宗教の方面からと相助け合うことで、人間の真理探求を確実なものにすることができるのではないでしょうか。
そう考えますと、人類内部で、宗教間の抗争や対立で、殺し合いをするなどということは、人類として、何という不幸なことか、と思わざるを得ません。
いつまで、人間界内部で殺し合いなどして、不幸な日々を繰り返しているのだ、人類格を自ら貶め続けるのだ、という声なき声は、世界各地にあるのではありませんか。ホモサピエンスと自称し、万物の霊と自己認識している人間が、果たしてその自称と自己認識に相応しいかどうか、それは人間自らが証明すべき実践課題でしょう。
私のような平々凡々たる市井の人間がそういうことをわめいているのは、なさけない状況だとも思いますが、虫の声もかぼそくなってきた立冬の夜に記しておきます。
知り方が違えば見え方が違うということについて、ど素人の思いを一つ記すことをお許しください。
光について、ニュートンは粒子だと言い、ホイヘンスは波動だと言ったが、二人は、光の物理的な性質をそれぞれにその一面を言ったのであって、いまでは、そのどちらも光の性質として正しいと認識されているとのことです。なるほどと思います。そして、私たちヒトも、見ようによって、粒子だし、波動でもあると言ってよいのではないでしょうか。一人ひとりの人間は、個体としては粒状をなしているでしょうが、その個体粒子の生活行動の軌跡を追ってゆけば、一つの流れをなしているように思います。人の誕生から死に至るまでの行住坐臥をずっと追い続ければ、その流れに緩急はありますが、一つの波動記録がとれると思います。くだらぬことを言っているのではないとおしかりを受けそうですので、やめます。 それでは、太陽は火の玉か、それとも神か、という論争はどうでしょう。
この論争は、どちらか一方は正しく、他方は間違っているという扱いをしないほうがいいと、私は思います。 世界各地で、太陽を神として崇拝する歴史があることを、私たちは知っています。他方、太陽は真っ赤に燃える火の球であって、それを神として拝むな、というような見方もあります。この論争で、どちらか一方のみを正しいとする裁定を下そうとするようなことは、する必要がないと思います。むしろ、そういう二者択一の問題に設定することをやめるべきだと思います。
天文学者の研究によれば、太陽はほとんどが水素とヘリウムでできているそうです。そして、太陽は約二億年かけて天の川銀河系の周りを一周するのだそうです。太陽の大きさ、質量、明るさ、温度、放射するエネルギー、年齢、寿命、なども計算されているようです。
そうした人間同胞の学問探求の成果に、私は敬意を抱きます。しかもなお、人々が朝の日の出に荘厳さを感じ、沈む夕日に郷愁や永遠性を思い、もろもろのいのちのおおもととも信じて感謝する、などの心情を抱くことを、太古から今に至るまでそうしてきたことを、人間の現実あるいは真実として大切にし続けるのがいいと思います。
一人の人が太陽を火の玉とも見るし神とも見る、言い換えれば、太陽の物性も神性も見る、そういう複合的、多面的な見方をするとしたら、そのことは批判するには当たらず、むしろ、どちらの見方もできる方が望ましいとさえ言えるのではないでしょうか。
光について、ニュートンは粒子だと言い、ホイヘンスは波動だと言ったが、二人は、光の物理的な性質をそれぞれにその一面を言ったのであって、いまでは、そのどちらも光の性質として正しいと認識されているとのことです。なるほどと思います。そして、私たちヒトも、見ようによって、粒子だし、波動でもあると言ってよいのではないでしょうか。一人ひとりの人間は、個体としては粒状をなしているでしょうが、その個体粒子の生活行動の軌跡を追ってゆけば、一つの流れをなしているように思います。人の誕生から死に至るまでの行住坐臥をずっと追い続ければ、その流れに緩急はありますが、一つの波動記録がとれると思います。くだらぬことを言っているのではないとおしかりを受けそうですので、やめます。 それでは、太陽は火の玉か、それとも神か、という論争はどうでしょう。
この論争は、どちらか一方は正しく、他方は間違っているという扱いをしないほうがいいと、私は思います。 世界各地で、太陽を神として崇拝する歴史があることを、私たちは知っています。他方、太陽は真っ赤に燃える火の球であって、それを神として拝むな、というような見方もあります。この論争で、どちらか一方のみを正しいとする裁定を下そうとするようなことは、する必要がないと思います。むしろ、そういう二者択一の問題に設定することをやめるべきだと思います。
天文学者の研究によれば、太陽はほとんどが水素とヘリウムでできているそうです。そして、太陽は約二億年かけて天の川銀河系の周りを一周するのだそうです。太陽の大きさ、質量、明るさ、温度、放射するエネルギー、年齢、寿命、なども計算されているようです。
そうした人間同胞の学問探求の成果に、私は敬意を抱きます。しかもなお、人々が朝の日の出に荘厳さを感じ、沈む夕日に郷愁や永遠性を思い、もろもろのいのちのおおもととも信じて感謝する、などの心情を抱くことを、太古から今に至るまでそうしてきたことを、人間の現実あるいは真実として大切にし続けるのがいいと思います。
一人の人が太陽を火の玉とも見るし神とも見る、言い換えれば、太陽の物性も神性も見る、そういう複合的、多面的な見方をするとしたら、そのことは批判するには当たらず、むしろ、どちらの見方もできる方が望ましいとさえ言えるのではないでしょうか。
聖界はどこに、俗界はどこにあるのでしょうか。宗教辞典には、神道ではこう、仏教ではこう、キリスト教ではこう、などと説明がされていることと思いますが、結局は、世界をどうみるか、という問題として考えますと、人間が設定する聖界と俗界の境界は、人それぞれであって、これだけが唯一正当な見解であるなどということは言えないのではないでしょうか。人間界を超越するところから、聖界とはこういうところだ、俗界とはこういうところだという啓示なりがあれば、それは尊重すべきだと思いますが、そういう聖界を定義するような啓示の類があるかどうか、私は知りません。
そこで、出すぎたことながら、これまで見聞してきた聖界論・俗界論をもとに私なりに解釈しますなら、聖界は遥か彼方にもあるでしょうし、私たちの身の周りはもちろん、私たちの一人ひとりのなかにもあるのではないでしょうか。一寸の虫にも五分の魂と言いますが、一つひとつのアメーバのような生物にも、一つ一つの分子や原子にも、聖なるものが宿っているのではないでしょうか。こういう考え方は概ね神道的と言えるでしょが、私は、そういう聖界観に賛同したい思いです。
今年のノーベル医学・生理学賞を受けることになり、きのう11月3日に文化勲章を受けた山中伸弥教授の研究の様子を報道する記事に、つぎのようなものがありました。
ヒトiPS細胞を培養したところ、神経や骨、筋肉など、さまざまな細胞に分化することを確認。生命活動の根幹を担う心臓の
細胞ができた瞬間は、今も忘れられないという。
「拍動する心臓細胞を顕微鏡で見たときは、自分の心臓の鼓動が高まり、指先が震えた」
(産経新聞 平成24年10月9日)
私は、この感動、感覚は、聖なる世界との出会いを示す場面の一つとして、受け止めることが相応しいと思います。
そのようなみかたをしますなら、私たちの世界は、さまざまに聖なるものでなりたっていることを認識することにつながるように思います。いまから何十年も前のことですが、知り方が違えば見え方が違ってくると教えられたとき、深く感銘したことを思い起こします。
そこで、出すぎたことながら、これまで見聞してきた聖界論・俗界論をもとに私なりに解釈しますなら、聖界は遥か彼方にもあるでしょうし、私たちの身の周りはもちろん、私たちの一人ひとりのなかにもあるのではないでしょうか。一寸の虫にも五分の魂と言いますが、一つひとつのアメーバのような生物にも、一つ一つの分子や原子にも、聖なるものが宿っているのではないでしょうか。こういう考え方は概ね神道的と言えるでしょが、私は、そういう聖界観に賛同したい思いです。
今年のノーベル医学・生理学賞を受けることになり、きのう11月3日に文化勲章を受けた山中伸弥教授の研究の様子を報道する記事に、つぎのようなものがありました。
ヒトiPS細胞を培養したところ、神経や骨、筋肉など、さまざまな細胞に分化することを確認。生命活動の根幹を担う心臓の
細胞ができた瞬間は、今も忘れられないという。
「拍動する心臓細胞を顕微鏡で見たときは、自分の心臓の鼓動が高まり、指先が震えた」
(産経新聞 平成24年10月9日)
私は、この感動、感覚は、聖なる世界との出会いを示す場面の一つとして、受け止めることが相応しいと思います。
そのようなみかたをしますなら、私たちの世界は、さまざまに聖なるものでなりたっていることを認識することにつながるように思います。いまから何十年も前のことですが、知り方が違えば見え方が違ってくると教えられたとき、深く感銘したことを思い起こします。
