知は知であり、信は信である。厳密に論考しようとすれば、知を信と取り間違えることも、信を知と取り間違えることも、知と信についての議論を混乱させてしまいます。議論の場面によっては、その心得を、一度は確認しておく必要があります。この原則を踏まえてこそ、現実の日常生活のなかでは、知と信の複合や重層性があるのだと思います。 たとえば、「地球の公転周期 1年は、31,556,925.9747秒(1956-1967)である。」という一文は、測定した当の研究者にとっては知識ですが、それを聞く私にとっては信です。そう考えますと、私はいかに多くの情報を知としてよりも、信として、得ているかがわかります。なにもかも自分で知識として確かめなければ意思決定しない、行動しないなどということは、とても現実にはできないことです。そういう意味でも、私は信なくしては、生きられません。まさに人と人の間の相互信用関係は人が生きてゆくうえで根本的に不可欠であることを思い知らされます。
ある歌謡曲のことばに「うわさを信じちゃいけないよ」とあります。これは、「うわさを知る」ことと「うわさを信じる」ことは意味が違うことを、私たちの日々の生活のなかでも使い分けるべきことを教えてくれます。知ると信じるを判別しなければ、人と人の会話は知なり信なりを正しく伝えあうことができなくなります。従って、相手が誤解することを意図的に仕組んだ言葉使いをするならば、その結果は、不信状態が生じることになり、うそつきだ、詐欺だ、などということになります。 そういう知と信をめぐる問題が、人間と人間を超越する存在との間のことになりますと、これは、その重大さと深刻さにおいて、また、作用効果の功罪の度合いにおいて、桁違いになります。それだけに、宗教における教義や教理の問題、また、啓示や神託の問題は、しっかりと取り組む人がいるべきだ、ということでもあります。
人は信じたために泣きをみる、信じなかったために悔しい思いをする、などの経験をさまざまにしますが、信をめぐる問題は、知をめぐる問題と一体として扱うくらいの対応をする方がいいようです。知と信は違う、しかも知と信は密接な関係にある、そういう判別と認識を持っていたいと思います。知と信の関係如何、この問題は、人間の真理探求の問題として、聖界の真理探求問題としても、俗界の真理探求問題としても、取り組むべきだと思います。
私たちの生活では、知と信の関係は、決して混じりけなしの知とか、純粋な信という区分はできないことが多いのではないでしょうか。
たとえば、地動説と天動説。私には、自分の石頭と鈍感のなせるわざか、いまもって感覚的には太陽は朝方に東から出て、中天を通って、夕方西に沈むように見えます。そして、太陽が地球の周りをまわっているという天動説は間違いでないように思ってしまいます。しかし、実際は、地球が太陽の周りをまわっているのだと教えられていますから、地動説を信じています。 自分で観測して天文学の探求結果としてそのことを知っている人にとっては、地動説は知でしょうが、私のように、そのことを自分の観測結果として知っているわけではない者にとっては、日常生活感覚をさらして言えば、地動説は、知ではなく、信なのです。
「知識が完成すれば、同時に信仰は廃棄される」と、ホッブスは『人間論』(14章4節)で述べているそうですが、論理的にはそうだとしても、そんなことは人間における知識と信仰の関係として達成されることはありうるでしょうか。ない。私は、断言します。人間にとって、知を完成するなどということは出来るはずがない、そう力んで言いたくなります。
知は何ものかについての知、何ごとかについての知でしょうが、その何ものか、何ごとかは、どんなものにせよ、どんなことにせよ、その由来や未来を、その構造や関係を、なにもかも知るなどということが、人間にできるものでしょうか。
人間が知を重んじることは当然ですが、しかし、信を一切排除して、生きられるものでしょうか。私はきょうも、このブログを記したあと、きのう行ったスーパーマーケットへ買物に行くことにしていますが、きょうもあるかどうか、電話で確かめて、最新の知を得てから、などということはしません。きょうも営業していることを信じて行きます。
桑田変じて海となると言います。かつて知っていたとおりにあすもそのまま続くと信じるのは愚かなことだと、私たちは教えられています。まさに、知も信も、その対象は、万象万物、人間の持ちうる知と信以上の存在だということを、私たちは、経験や探求のなかで、心得るのではないでしょうか。
啓示や神託と人間の関係に戻ります。啓示は知か、信かという二者択一の問題ではないことを検討しておきます。 神からの啓示は、その啓示を受ける本人にとっては、神からの直接知とみるべきではないでしょうか。現場の知でしょう。しかし、その啓示を伝聞として与えられる他の人々にとっては、知ではなく、信ではないでしょうか。ある特定の啓示は、そして、どの啓示も、万人にとって知であるのではなく、その啓示を直接受けた当の人にとっては知であるが、その啓示を伝え聞く人々にとっては、信の対象である、ということではないでしょうか。啓示が知でありうるのは、啓示を受ける当人とその啓示の授受に立ち会った人までのことであるというのが、人間と啓示をめぐる知と信の区分になるのではないでしょうか。
たとえば、地動説と天動説。私には、自分の石頭と鈍感のなせるわざか、いまもって感覚的には太陽は朝方に東から出て、中天を通って、夕方西に沈むように見えます。そして、太陽が地球の周りをまわっているという天動説は間違いでないように思ってしまいます。しかし、実際は、地球が太陽の周りをまわっているのだと教えられていますから、地動説を信じています。 自分で観測して天文学の探求結果としてそのことを知っている人にとっては、地動説は知でしょうが、私のように、そのことを自分の観測結果として知っているわけではない者にとっては、日常生活感覚をさらして言えば、地動説は、知ではなく、信なのです。
「知識が完成すれば、同時に信仰は廃棄される」と、ホッブスは『人間論』(14章4節)で述べているそうですが、論理的にはそうだとしても、そんなことは人間における知識と信仰の関係として達成されることはありうるでしょうか。ない。私は、断言します。人間にとって、知を完成するなどということは出来るはずがない、そう力んで言いたくなります。
知は何ものかについての知、何ごとかについての知でしょうが、その何ものか、何ごとかは、どんなものにせよ、どんなことにせよ、その由来や未来を、その構造や関係を、なにもかも知るなどということが、人間にできるものでしょうか。
人間が知を重んじることは当然ですが、しかし、信を一切排除して、生きられるものでしょうか。私はきょうも、このブログを記したあと、きのう行ったスーパーマーケットへ買物に行くことにしていますが、きょうもあるかどうか、電話で確かめて、最新の知を得てから、などということはしません。きょうも営業していることを信じて行きます。
桑田変じて海となると言います。かつて知っていたとおりにあすもそのまま続くと信じるのは愚かなことだと、私たちは教えられています。まさに、知も信も、その対象は、万象万物、人間の持ちうる知と信以上の存在だということを、私たちは、経験や探求のなかで、心得るのではないでしょうか。
啓示や神託と人間の関係に戻ります。啓示は知か、信かという二者択一の問題ではないことを検討しておきます。 神からの啓示は、その啓示を受ける本人にとっては、神からの直接知とみるべきではないでしょうか。現場の知でしょう。しかし、その啓示を伝聞として与えられる他の人々にとっては、知ではなく、信ではないでしょうか。ある特定の啓示は、そして、どの啓示も、万人にとって知であるのではなく、その啓示を直接受けた当の人にとっては知であるが、その啓示を伝え聞く人々にとっては、信の対象である、ということではないでしょうか。啓示が知でありうるのは、啓示を受ける当人とその啓示の授受に立ち会った人までのことであるというのが、人間と啓示をめぐる知と信の区分になるのではないでしょうか。
知のルネサンスと信のルネサンスを相呼応させて、その相乗効果を発揮させながら、日本人としての自信のルネサンスにしましょう。いまの日本人に贈ることばは、このようになりそうです。
万教一源の探求という本ブログの課題として、知と信はいかなる関係にあるか、検討してみます。 神と人は、啓示や神託をめぐって、知と信はどのような関係にあるでしょうか。神道神学においては、人から神に向かって、神意を問い、求めるという方向での神学が基本であると言ってよいと思います。この方向は、一言で言えば、人の神に向かう信から始まって、神からの知を求める方向ではないでしょうか。しかし、神道には、多くの流派が存在します。神道のなかには、神から人に向かうことから始まっている流派があります。この方向は、神が人に与える知から始まって、人はその知に対する信を持つという方向であると言えるでしょう。 人から神に向かう神学方向、言い換えれば、人が啓示を求める能動神学が一つ。そして、神から人に向かう、神の啓示が人に向かう受動神学がもう一つ。この二つの神と人との相互方向性をどちらも経験もし、探求もしてきたのが、日本の神道神学だと言える、という検討は、これまで、しつこいくらいにやってきました。 なお、啓示や神託に相当する言葉は、流派によってそれぞれ独自の言い方をしていることも、私たちは知っています。 人から神に向かう神学を基本にする流派においては、人の求めに応じて神からの教えが示され得ること、そして、その例をいくつも見いだせること、そうした古い記録を古事記や日本書紀に見いだせることは、言うまでもありません。 しかもまた、神意を求める人間の祈願や請願が常に人間の期待する時間幅で答えを与えられるとは限らないことも、私たちは知っています。
そのように考えますと、神道をひとくくりにして、神道は啓示なき宗教であるとか、自然発生的な宗教であるなどとみる言い方は、神道の歴史と実態に合っていないことは明らかです。
そのとき、神道における啓示や神託は、啓示や神託として本物ではないなどと、だれが、いかなる根拠や権限をもとに、言えるのでしょうか。これは、宗教における神と人との関係の根本問題ですから、大変なことになります。そのことを、世界の宗教学者や神学者は、よく心得ておられると思いますが、私たち日本人自身も、そのことを心得ておきたいと思います。世界の宗教学者、神学者、哲学者ばかりでなく、多くの人々は、啓示と人間の関係をどう認識すべきか、なみなみならぬ苦労を払ってきた歴史があることを、私たちは心得ておく必要があります。啓示や神託と人間の関係についての歴史を無視したり、軽視したりしないのがいいと思います。 正確を期すためには、啓示や神託の真偽は、一つ一つ個別に精査するなら精査するべきであって、啓示や神託を無差別一律に論断するべきではないと思います。
万教一源の探求という本ブログの課題として、知と信はいかなる関係にあるか、検討してみます。 神と人は、啓示や神託をめぐって、知と信はどのような関係にあるでしょうか。神道神学においては、人から神に向かって、神意を問い、求めるという方向での神学が基本であると言ってよいと思います。この方向は、一言で言えば、人の神に向かう信から始まって、神からの知を求める方向ではないでしょうか。しかし、神道には、多くの流派が存在します。神道のなかには、神から人に向かうことから始まっている流派があります。この方向は、神が人に与える知から始まって、人はその知に対する信を持つという方向であると言えるでしょう。 人から神に向かう神学方向、言い換えれば、人が啓示を求める能動神学が一つ。そして、神から人に向かう、神の啓示が人に向かう受動神学がもう一つ。この二つの神と人との相互方向性をどちらも経験もし、探求もしてきたのが、日本の神道神学だと言える、という検討は、これまで、しつこいくらいにやってきました。 なお、啓示や神託に相当する言葉は、流派によってそれぞれ独自の言い方をしていることも、私たちは知っています。 人から神に向かう神学を基本にする流派においては、人の求めに応じて神からの教えが示され得ること、そして、その例をいくつも見いだせること、そうした古い記録を古事記や日本書紀に見いだせることは、言うまでもありません。 しかもまた、神意を求める人間の祈願や請願が常に人間の期待する時間幅で答えを与えられるとは限らないことも、私たちは知っています。
そのように考えますと、神道をひとくくりにして、神道は啓示なき宗教であるとか、自然発生的な宗教であるなどとみる言い方は、神道の歴史と実態に合っていないことは明らかです。
そのとき、神道における啓示や神託は、啓示や神託として本物ではないなどと、だれが、いかなる根拠や権限をもとに、言えるのでしょうか。これは、宗教における神と人との関係の根本問題ですから、大変なことになります。そのことを、世界の宗教学者や神学者は、よく心得ておられると思いますが、私たち日本人自身も、そのことを心得ておきたいと思います。世界の宗教学者、神学者、哲学者ばかりでなく、多くの人々は、啓示と人間の関係をどう認識すべきか、なみなみならぬ苦労を払ってきた歴史があることを、私たちは心得ておく必要があります。啓示や神託と人間の関係についての歴史を無視したり、軽視したりしないのがいいと思います。 正確を期すためには、啓示や神託の真偽は、一つ一つ個別に精査するなら精査するべきであって、啓示や神託を無差別一律に論断するべきではないと思います。
さきごろ、10月27日、東京・上野の日本学士院会館で、公開講演会が行われました。第57回になるそうです。今回は、藤田昌久会員の「都市の発展と文化」、内田祥哉会員の「日本建築の保存と活用」の二つの講演でした。
藤田氏は、日本の現状を「高度成長のあと長期停滞」にあるとの認識を示し、これからは、「欧米へのCatch-up型の発展から知のフロンティア開拓の時代へ」と、進むべき方向と、持つべき役割理念を提言されました。 そして、「世界に開かれ、多様性の豊かな日本へ」、とこれからの日本のあるべき姿を描き、その柱立てを、「独自の産業集積と独自の文化・知の集積をもつ多様な地域を発展させよう」と提言されました。そのために、「知のルネサンス」を巻き起こそう、と呼びかけをされました。私の関心からは、このことばが、特に印象深い提言でした。
私は、この「知のルネサンス」を、との提言を聴いていて、それと同様に、あるいは、それ以上に、いまの日本には、「信のルネサンス」も必要だと思わされました。
知はいったん仕入れればそれで一生もつというようなのもではない、ということは、学校教育のなかでも、知の基本心得として教えてほしいと切望しますし、大人たちの心得としても、そのことを共有して、できるだけ多くの国民が、知の現代化や更新を日々実践してゆくことが、当人の生活力にもなりますし、日本国の国力にもなると思います。「人間は一生勉強だ」というようなことばは、私たちの周囲でもときに聞くことばですが、その真実性と効用を、実践のなかで確かめたいものです。
さて、ここでの、私の関心は、信のルネサンスにあります。
信もまた、一度確立すれば、それで、信の課題との取り組みは、もう終わりということではありません。信を確立することが、そもそも、一般的には容易ではないということも心得ておくべきですが、しかし、信は、ある一つの信で固定してしまいますと、やがて、その信では動きがとれなくなるという事態にぶつかることもままあります。
信のルネサンスが必要なことは、知のルネサンスが必要であることと、いわば、歩調を合わせるべきことでもあります。「知は力なり」と言いますが、「信は力なり」とも申します。そのとおりではないでしょうか。しかも知にしろ、信にしろ、それが固定観念になってしまいますと、人を自由にするはずの真理につながらなくなってしまい、人を縛るもの、人の動きを窮屈に束縛するものになってしまう危険さえあります。
どうして、そうなるか。真理は生きているのに、存在は生成発展しているのに、その真理なり存在に対応するための知や信が、対応能力を失っていたのでは、知としての力を発揮できない、信としての役目を果たせない、そういう事態に陥ることがある、そういう問題認識が必要であるということではないでしょうか。「存続は発展以外にない」ということばがありますが、知も信も発展させなければ、存在意味を劣化させることにならざるを得ません。
日本が、これから新しい発展をするためには、そのための原動力が必要です。その原動力になるのは、日本人が何千年、何万年来、日々の生活と学問探求のなかで蓄積してきた精神文化に自信を持つことだと思います。
そういう意味で、信のルネサンスとは、永続的に行うべきことであり、知もまた同然でありと言うべきでしょう。ところで、信にしろ、知にしろ、ルネサンスとは、ころころと無責任に変えていいというようなことでないことは、真理なり存在なりが厳然と教えてくれていることですから、そのことについて、くどくどこだわることもないでしょう。知の探求も、信の探求も、人間にとっては、どこかで、生死に直結しているのですから。
藤田氏は、日本の現状を「高度成長のあと長期停滞」にあるとの認識を示し、これからは、「欧米へのCatch-up型の発展から知のフロンティア開拓の時代へ」と、進むべき方向と、持つべき役割理念を提言されました。 そして、「世界に開かれ、多様性の豊かな日本へ」、とこれからの日本のあるべき姿を描き、その柱立てを、「独自の産業集積と独自の文化・知の集積をもつ多様な地域を発展させよう」と提言されました。そのために、「知のルネサンス」を巻き起こそう、と呼びかけをされました。私の関心からは、このことばが、特に印象深い提言でした。
私は、この「知のルネサンス」を、との提言を聴いていて、それと同様に、あるいは、それ以上に、いまの日本には、「信のルネサンス」も必要だと思わされました。
知はいったん仕入れればそれで一生もつというようなのもではない、ということは、学校教育のなかでも、知の基本心得として教えてほしいと切望しますし、大人たちの心得としても、そのことを共有して、できるだけ多くの国民が、知の現代化や更新を日々実践してゆくことが、当人の生活力にもなりますし、日本国の国力にもなると思います。「人間は一生勉強だ」というようなことばは、私たちの周囲でもときに聞くことばですが、その真実性と効用を、実践のなかで確かめたいものです。
さて、ここでの、私の関心は、信のルネサンスにあります。
信もまた、一度確立すれば、それで、信の課題との取り組みは、もう終わりということではありません。信を確立することが、そもそも、一般的には容易ではないということも心得ておくべきですが、しかし、信は、ある一つの信で固定してしまいますと、やがて、その信では動きがとれなくなるという事態にぶつかることもままあります。
信のルネサンスが必要なことは、知のルネサンスが必要であることと、いわば、歩調を合わせるべきことでもあります。「知は力なり」と言いますが、「信は力なり」とも申します。そのとおりではないでしょうか。しかも知にしろ、信にしろ、それが固定観念になってしまいますと、人を自由にするはずの真理につながらなくなってしまい、人を縛るもの、人の動きを窮屈に束縛するものになってしまう危険さえあります。
どうして、そうなるか。真理は生きているのに、存在は生成発展しているのに、その真理なり存在に対応するための知や信が、対応能力を失っていたのでは、知としての力を発揮できない、信としての役目を果たせない、そういう事態に陥ることがある、そういう問題認識が必要であるということではないでしょうか。「存続は発展以外にない」ということばがありますが、知も信も発展させなければ、存在意味を劣化させることにならざるを得ません。
日本が、これから新しい発展をするためには、そのための原動力が必要です。その原動力になるのは、日本人が何千年、何万年来、日々の生活と学問探求のなかで蓄積してきた精神文化に自信を持つことだと思います。
そういう意味で、信のルネサンスとは、永続的に行うべきことであり、知もまた同然でありと言うべきでしょう。ところで、信にしろ、知にしろ、ルネサンスとは、ころころと無責任に変えていいというようなことでないことは、真理なり存在なりが厳然と教えてくれていることですから、そのことについて、くどくどこだわることもないでしょう。知の探求も、信の探求も、人間にとっては、どこかで、生死に直結しているのですから。
私たち人類はこの地球上で、いかなる存在位置にあるのか、また、いかにあるべきか、そういう問題は、どうでもいいことでしょうか。繰り返しになりますが、私たちは、人それぞれにいろいろやらねばならぬことがありますから、70億人の人々が全員そういうことに朝から晩まで取り組んでいるわけにはいきません。
しかし、70億人のなかに、だれもそういうことを考える人がいない、みなやりたいことをやり、やりたくないことはやらない、考えたくないことは考えないとなりますと、これは、人類の命運としては恐ろしいことになるのではないでしょうか。
人間同士の殺し合いを放置しておくのか。人間同士の騙し合いを続けるのか、などと考えれば身近のこととしても、人類規模のこととしても、別の生き方、別の価値観などを求めて、共に生きようとか、信義を大切にしようなどと説き、かつは実行する人が出てくることをだれも目指すことがなくていいのか、ということになります。
さいわいなことに、人類の大多数の構成員は、天与の心の善用に努め、親子代々そのことを伝承し、懸命に生きてきましたし、いまも生きています。そのことを大切にしましょう。地上の五大陸のどこでもそうでしょう。
そう考えますと、常民の心をいかに健康に保持するかという問題は、宗教にとっても、政治にとっても、基本問題中の基本問題です。それなのに、政治が、あるいは経済が、ひどいときには、宗教までが、常民の善心や健康を犠牲にすることを仕組むようなことになりますと、人類としては悲惨です。私は、このことを、いまの時代、世界規模で、未然に防ぐべく協同していくことが必要でもあり、可能にもなったと思います。しかも、もしかしたら、最後の機会かもしれません。
こうした物言いが、大言壮語の類であることは、承知しています。しかし、この思いは、草の根の思いでもあります。声なき声でもあります。
今回は、このブログが100回目になるものですから、なんとなく、そのことを意識してしまい、こんな文章になりました。
次回から、また、地道に取り組むことを心がけます。
しかし、70億人のなかに、だれもそういうことを考える人がいない、みなやりたいことをやり、やりたくないことはやらない、考えたくないことは考えないとなりますと、これは、人類の命運としては恐ろしいことになるのではないでしょうか。
人間同士の殺し合いを放置しておくのか。人間同士の騙し合いを続けるのか、などと考えれば身近のこととしても、人類規模のこととしても、別の生き方、別の価値観などを求めて、共に生きようとか、信義を大切にしようなどと説き、かつは実行する人が出てくることをだれも目指すことがなくていいのか、ということになります。
さいわいなことに、人類の大多数の構成員は、天与の心の善用に努め、親子代々そのことを伝承し、懸命に生きてきましたし、いまも生きています。そのことを大切にしましょう。地上の五大陸のどこでもそうでしょう。
そう考えますと、常民の心をいかに健康に保持するかという問題は、宗教にとっても、政治にとっても、基本問題中の基本問題です。それなのに、政治が、あるいは経済が、ひどいときには、宗教までが、常民の善心や健康を犠牲にすることを仕組むようなことになりますと、人類としては悲惨です。私は、このことを、いまの時代、世界規模で、未然に防ぐべく協同していくことが必要でもあり、可能にもなったと思います。しかも、もしかしたら、最後の機会かもしれません。
こうした物言いが、大言壮語の類であることは、承知しています。しかし、この思いは、草の根の思いでもあります。声なき声でもあります。
今回は、このブログが100回目になるものですから、なんとなく、そのことを意識してしまい、こんな文章になりました。
次回から、また、地道に取り組むことを心がけます。
個別宗教の神として特化した神を宗教源としての普遍神そのものであると主張することは、人間の神認識として不当である。私がこれまでこのブログで取り組んできましたことの要点を一言で申せば、そうなります。
人が神をもつということは、普遍神からの特化神をもつということであって、普遍神をまるごと持つということではありません。それなのに、ある個人なり、民族なりが、排他特権的に普遍神を独占して持っているかのように考えるなら、その神観念は間違いであると明確に指摘しなければなりません。 唯一にして真の神は、ある人なり、民族なりに、あるとき、ある方式で、啓示を与えることはあるでしょう。しかし、普遍神からの啓示はこれだけが唯一絶対の啓示で、それ以外にはないと考えたり、他の人々にそう思わせようとするとするなら、それは、神から人に与えられる啓示の解釈を自己中心的
に独断しているに過ぎない、と言わざるをえません。
神の存在が、人類の歴史をはるかに超え、人類格のはじまりからおわりまでをも超える存在であり、働きであると想定することは、人間の神探求の試みとして許されるのではないでしょうか。そういう神格を考えてみますと、神は、いつ、だれに、どのような啓示を与えるか、それは神が決めることであって、人間が決めることではないと思います。
世界には、現実に、啓示宗教と言われるものは複数ありますが、神から私共にはこういう啓示があったが、他のだれかには、別の啓示が与えられているかもしれない、と考えることができないと、啓示宗教と啓示宗教の間での対話や協力は不可能です。個別の啓示と啓示相互の間でも、同然です。
いまや、世界規模で、この地球上での人類としてのありようをいかにすべきかが現実問題になっているとき、人類の内部の争いで人類を自滅させるようなことは止めよ、という啓示がすでに、だれかに与えられているかもしれない、そのくらいのことは考えたほうがいいと思います。
啓示と言おうと、神の言葉と言おうと、これだけが唯一の真なる神の意志であるとして、他の啓示、他の神の言葉の可能性を認めないなら、そういう人や宗教は、他の人や宗教が別の啓示や神の言葉を持っていて、その正当性を負けず劣らず主張するとき、どのように、この争いを決着つけるのでしょうか。
これまでの人類の歴史では、神を旗印に掲げながら、腕力で、武力で、最新の兵器で、決着をつけてきた、ということが世界各地にあったことを、日本国内にもあったことを、私たちは学んでいます。しかし、その方式の不当性と愚かしさは、今では、ますます多くの人が身にしみてわかっているのではないでしょうか。
人類が生きるよりどころとしているこの地球は、人類のためだけのものではないということも、いまでは、小学生や中学生の学習事項になっている時代なのですから、そのことを、どう人類として実践するか、諸々の宗教は宗教の角度から、貢献したいものです。
イエス自身、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」に言及し、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」と言ったと聖書には記されています(『マタイ』22:32)。パスカルはこの箇所も踏まえているのだろうと思います。しかし、本ブログは、キリスト教神学の内部に入って、イエスの言葉の意味や整合性を種々検討することを課題としてはおりませんので、このくらいにしておきます。
ところで、イエスが「エリ」と呼びかけた場面は、日本人だったら、「神様」と叫んだような場面だと思います。つまり、ヘブル語の「エル」とか「エローヒーム」ということばは、日本語の「かみ」に相当する、そのことこそ、普遍的な存在としての「かみ」の唯一性、万国共通性を意味していると思います。
ヘブル語の「エル」は「真の神ヤハウェ」を意味しているそうですが(『新聖書大辞典』キリスト教新聞社による)、「ヤハウェ」は、モーセが神に、名を聞いたときに、神が「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられた(『出エジプト記』3:13~14)と記されている神のことだとみなされています。
そういう位階の神はヘブライ人のみの独占し得る神でしょうか。逆に、その神がヘブライ人専門の守護神であるのであるならば、ヘブライ人以外の人々にとっては、そういう神を信仰するわけにはいかないことが起こるのも当然ではないでしょうか。
普遍存在としての神ならば、民族によって待遇差別をするなどということはしないはずだと思うのは、人間として当然の思いではないでしょうか。
普遍存在としての神をいずれか一つの宗教が独占管理するなどということをすべきではないし、許してはならないとは、このことです。
神の普遍性が高まるならば、それに応じて、万人を公正・公平に守護もし、罰しもするでしょう。そうしたごく平凡な庶民の感覚を、信者が何億人という宗教の管理運営に当たる方々も、高級な神学者の方々も、心にとどめていただきたいと思います。
そして、個別神としての神であるにもかかわらず、その神を以て、唯一の普遍神は自分たちのこの神だ、と主張することは、すべきではないことになります。 神は神である、神以外には神は存在しないという神の普遍性、唯一絶対性は、万人が承認できることです。しかし、そういう神は万人にとって、昔も今も、常に探求課題であって、現実に人間が経験しうる神は、「真の神」と言おうと、「唯一の普遍神」と言おうと、その特化した個別神の位階の神であるという、神と人間の関係における例外のない階層構造を、世界の人類は共有し、認め合いたいと思います。そのことを言いたくて、私はこれまで取り組んできました。
日本語の「かみ」も、「かみ」以外の存在ではありえない唯一の「かみ」、「かみそのもの」として、他のことばでは代替不可能な用語法と
さまざまな個別の「かみ」としての用語法と、二段階の用語法があると思います。
神道神学では、普遍神としての唯一の「かみ」について、その存在論をすることはあまりないようです。しかし、自然神、機能神、人格神などの個別神については、さまざまに信仰もされ、研究もされ、探求もされてきたこと、そして、今後もそうであろうことは周知のとおりです。
ところで、イエスが「エリ」と呼びかけた場面は、日本人だったら、「神様」と叫んだような場面だと思います。つまり、ヘブル語の「エル」とか「エローヒーム」ということばは、日本語の「かみ」に相当する、そのことこそ、普遍的な存在としての「かみ」の唯一性、万国共通性を意味していると思います。
ヘブル語の「エル」は「真の神ヤハウェ」を意味しているそうですが(『新聖書大辞典』キリスト教新聞社による)、「ヤハウェ」は、モーセが神に、名を聞いたときに、神が「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられた(『出エジプト記』3:13~14)と記されている神のことだとみなされています。
そういう位階の神はヘブライ人のみの独占し得る神でしょうか。逆に、その神がヘブライ人専門の守護神であるのであるならば、ヘブライ人以外の人々にとっては、そういう神を信仰するわけにはいかないことが起こるのも当然ではないでしょうか。
普遍存在としての神ならば、民族によって待遇差別をするなどということはしないはずだと思うのは、人間として当然の思いではないでしょうか。
普遍存在としての神をいずれか一つの宗教が独占管理するなどということをすべきではないし、許してはならないとは、このことです。
神の普遍性が高まるならば、それに応じて、万人を公正・公平に守護もし、罰しもするでしょう。そうしたごく平凡な庶民の感覚を、信者が何億人という宗教の管理運営に当たる方々も、高級な神学者の方々も、心にとどめていただきたいと思います。
そして、個別神としての神であるにもかかわらず、その神を以て、唯一の普遍神は自分たちのこの神だ、と主張することは、すべきではないことになります。 神は神である、神以外には神は存在しないという神の普遍性、唯一絶対性は、万人が承認できることです。しかし、そういう神は万人にとって、昔も今も、常に探求課題であって、現実に人間が経験しうる神は、「真の神」と言おうと、「唯一の普遍神」と言おうと、その特化した個別神の位階の神であるという、神と人間の関係における例外のない階層構造を、世界の人類は共有し、認め合いたいと思います。そのことを言いたくて、私はこれまで取り組んできました。
日本語の「かみ」も、「かみ」以外の存在ではありえない唯一の「かみ」、「かみそのもの」として、他のことばでは代替不可能な用語法と
さまざまな個別の「かみ」としての用語法と、二段階の用語法があると思います。
神道神学では、普遍神としての唯一の「かみ」について、その存在論をすることはあまりないようです。しかし、自然神、機能神、人格神などの個別神については、さまざまに信仰もされ、研究もされ、探求もされてきたこと、そして、今後もそうであろうことは周知のとおりです。
私は先に、普遍存在としての霊魂、言い換えれば神、からの啓示を否定してしまえば、人間の持ちうる宗教の少なくともその半分を失ってしまう、と申しました(本ブログ・その71) 。 その文意は、啓示には、天啓、神託、開示、密語、その他、多くの同義語がありますから、人により、宗教により、こうした別のことばを充てるのが相応しいことになります。 人間を超える存在から人間に与えられる啓示を大切にしたいと思います。
そのことは、反面、人間の方から神に向かう神学と宗教を否定してしまうなら、これまた人間のもちうる神学ないし宗教の後半分を捨てることになってしいます。実は、そのことを皆様に問 いかけたかったのです。人間が人間を超える存在の啓示を求める探求行為を同様に大切にしたいと思います。
人から神への方向の神学を能動神学と呼び、神から人への神学(神教というべきか)を受動神学と呼び、この二方向の神学をいずれも、私たちは同等に大切にするのがいいと思うとの検討も本ブログで試みました(その32)。
その点、何度も引き合いに出しますが、「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う」という御成敗式目のことば(本ブログ・その06他)は、神と人との相互関係性についての人としての信心を、これ以下の言葉数では表現しえない最小限の言葉で表現しえていると思います。 私は、はるか遠い昔から続く神道神学が、この一言に結晶しえた神探求の歴史と実績を持つことを、日本人としての精神的誇りとも支えともして、大切にしていきたいと思います。 人から神へ、そして神から人へ、この双方向において、神と人は相互に働き合う、この信心を、日本人は何千年から何万年にわたる日々の生活のなかで、確認してきたのだと、私は思います。
啓示神学に対する自然神学という対比構図は、神と人との関係の歴史と可能性に対して、公正さや公平さにおいて問題がある、ということも論じました(本ブログ・その06)。
なぜ、そのことにこだわるか、検討しておきます。パスカルの『覚書』のなかの、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、哲学者と学識者の神にあらず」という言葉をどう解釈するかの問題になります。 この言葉は一見説得力があります。しかし、その通りですとして、神学研究をその先へ進めることを止めてしまうなら、それは神学の現実認識や公正さにおいて問題が残るからです。この言葉は、旧約聖書や新約聖書の神のみが真の神だという主張のようにさえ響きます。万人がそれで承服するでしょうか。 パスカルに、それでは、「イエスの神はどうなのですか」と問いたいです。 パスカルは、 旧約聖書の「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。」とモーセが聴いた神の言葉(『出エジプト記』3:15)を踏まえているわけですが、新約聖書には、イエスが十字架にかけられて死ぬ直前、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と神に向かって叫んだ場面(『マタイ』27:46)があります。 イエスがこのように呼びかけた神は、どういう神でしょうか。 モーセに語りかけた神は、はっきりと、「イスラエル人の神」と名のっています。それに対して、イエスが訴えかけた神は、イエスからすれば、そういう限定を超えているのではないでしょうか。 イエスのことばとして、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」(『マタイ』5:45)とあります。この神は、公平性・公正性の広さや大きさにおいて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは違うと思います。 そして、イエス自身、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(『マタイ』7:7)と言っています。 この言葉は、哲学者の神や学識者の神ばかりでなく、漁夫の神、農夫の神が、あるいは、ローマ人やギリシャ人の求める神など、その例示をどんどん並べてゆけば、日本人その他世界中の諸々の人々の求める神が、イエスが十字架上で「エリ」と呼びかけたその同じ神に通じうることを意味してはいないでしょうか。
なぜ、そのことにこだわるか、検討しておきます。パスカルの『覚書』のなかの、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、哲学者と学識者の神にあらず」という言葉をどう解釈するかの問題になります。 この言葉は一見説得力があります。しかし、その通りですとして、神学研究をその先へ進めることを止めてしまうなら、それは神学の現実認識や公正さにおいて問題が残るからです。この言葉は、旧約聖書や新約聖書の神のみが真の神だという主張のようにさえ響きます。万人がそれで承服するでしょうか。 パスカルに、それでは、「イエスの神はどうなのですか」と問いたいです。 パスカルは、 旧約聖書の「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。」とモーセが聴いた神の言葉(『出エジプト記』3:15)を踏まえているわけですが、新約聖書には、イエスが十字架にかけられて死ぬ直前、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と神に向かって叫んだ場面(『マタイ』27:46)があります。 イエスがこのように呼びかけた神は、どういう神でしょうか。 モーセに語りかけた神は、はっきりと、「イスラエル人の神」と名のっています。それに対して、イエスが訴えかけた神は、イエスからすれば、そういう限定を超えているのではないでしょうか。 イエスのことばとして、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」(『マタイ』5:45)とあります。この神は、公平性・公正性の広さや大きさにおいて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは違うと思います。 そして、イエス自身、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(『マタイ』7:7)と言っています。 この言葉は、哲学者の神や学識者の神ばかりでなく、漁夫の神、農夫の神が、あるいは、ローマ人やギリシャ人の求める神など、その例示をどんどん並べてゆけば、日本人その他世界中の諸々の人々の求める神が、イエスが十字架上で「エリ」と呼びかけたその同じ神に通じうることを意味してはいないでしょうか。
神社本庁は昭和三一(一九五六)年に、「敬神生活の綱領」を発表しました。
この綱領は、「神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である。」ということばで始まり、「ここにこの綱領をかかげて向ふところを明らかにし、実践につとめて以て大道を宣揚することを期する。」としています。そして、綱領三項目の第二として、「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固めなすこと。」があります。
私たちは日常の生活では、いちいちこういうことを意識しながら話をしたり、行動したりする必要は感じないと思います。しかし、いったん、人生における重要な経験に臨んだり、困難な判断や選択を迫られるときには、また、国家としても、対応をどうするか、決断と行動を要するとき、人間界のこととしてだけ考えていたのでは足らない、と意識することはないでしょうか。
神学とは、そういう場面において、よりどころともなり、進むべきみちしるべともなることを役目としているのではないでしょうか。
神学論争が、ときとして、いのちがけになるのはそのためで、当然だと思います。一人ひとりの生死にもかかわり、国や人類の命運にもかかわるのが、神の探求であり、宗教であるということが、神学や宗教の根本にあると思います。
だからこそ、神学論争は、いつか、どこかで、しっかりやっておかないと、人一人ひとりのこととしてばかりでなく、国のこととしても、そして、いまや人類という一つの生物種全体のこととしても、「手遅れです」では、すまないことにもなります。
予防外交ということばがあり、そのことのために尽力しておられる方々もいるようです。神学においても、予防神学というような考え方と実践が求められていると言ってよいようです。
神道神学に今日期待されている役目は多いと思いますが、まずは、折角持っている「敬神生活の綱領」を広く、国民に共有されることを目指して、国民一人一人がよりよく生きるための力となるように、国としては、世界における日本国としてのありかたをしっかりさせるべく、広報や啓発に努めてほしい、ということを、私は訴えておきます。 そして、ひとこと、付け加えておきます。この綱領に掲げられたことばに託された心は、政治だけは神のみことを無視してよいとか、神意はどうかと考慮する必要はない、ということでしょうか、と。
「神人相依」については、もう少し、続けます。SPAN>
さらに、明治二十二(一八八九)年二月十一日に公布された大日本帝国憲法をみてみます。この憲法は、まず告文と憲法発布勅語を記し、その後に第一章天皇以下本文が記される構成になっています。
その最初に置かれた告文は、「皇祖皇宗及皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ神霊此レヲ鑒ミタマヘ」と結ばれます。
天皇が神佑を祷り、此の憲章を履行することを誓うので、神霊が鑒みたまうよう庶幾する、というこの告文の構造は、まさに神人相依思想の表明です。
神道神学の「神人相依」ということばは、文字面の構成は神と人とが同等・対等であるかのようにみえますが、その心は、神あっての人であるという人としての心得を意味しているのではないか、と私は思います。
天と地なしには人は存在できない、人間にとって存在可能な天地あっての人間界である、そのことを今や、人類は危機感を以て意識しはじめている時代ではないでしょうか。
同様に、神の恵みや助けがあっての人間存在である、神の意志や働きを無視したり、反抗したりしては、人としての存在を維持できない、そういう思想であり、信心として、「神人相依」ということばを伝承したい、というのが今回の取り組みです。
この「神人相依」の思想・信心は、今日の私たちにとっては、単に歴史上の遺物のようなものなのかどうか、そのことについて、もう少し考えてみます。