万教一源の探求(その101)・知と信のルネサンス | げんきにたのしくのブログ

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さきごろ、10月27日、東京・上野の日本学士院会館で、公開講演会が行われました。第57回になるそうです。今回は、藤田昌久会員の「都市の発展と文化」、内田祥哉会員の「日本建築の保存と活用」の二つの講演でした。
藤田氏は、日本の現状を「高度成長のあと長期停滞」にあるとの認識を示し、これからは、「欧米へのCatch-up型の発展から知のフロンティア開拓の時代へ」と、進むべき方向と、持つべき役割理念を提言されました。                                                                     そして、「世界に開かれ、多様性の豊かな日本へ」、とこれからの日本のあるべき姿を描き、その柱立てを、「独自の産業集積と独自の文化・知の集積をもつ多様な地域を発展させよう」と提言されました。そのために、「知のルネサンス」を巻き起こそう、と呼びかけをされました。私の関心からは、このことばが、特に印象深い提言でした。
私は、この「知のルネサンス」を、との提言を聴いていて、それと同様に、あるいは、それ以上に、いまの日本には、「信のルネサンス」も必要だと思わされました。
知はいったん仕入れればそれで一生もつというようなのもではない、ということは、学校教育のなかでも、知の基本心得として教えてほしいと切望しますし、大人たちの心得としても、そのことを共有して、できるだけ多くの国民が、知の現代化や更新を日々実践してゆくことが、当人の生活力にもなりますし、日本国の国力にもなると思います。「人間は一生勉強だ」というようなことばは、私たちの周囲でもときに聞くことばですが、その真実性と効用を、実践のなかで確かめたいものです。
さて、ここでの、私の関心は、信のルネサンスにあります。
信もまた、一度確立すれば、それで、信の課題との取り組みは、もう終わりということではありません。信を確立することが、そもそも、一般的には容易ではないということも心得ておくべきですが、しかし、信は、ある一つの信で固定してしまいますと、やがて、その信では動きがとれなくなるという事態にぶつかることもままあります。
信のルネサンスが必要なことは、知のルネサンスが必要であることと、いわば、歩調を合わせるべきことでもあります。「知は力なり」と言いますが、「信は力なり」とも申します。そのとおりではないでしょうか。しかも知にしろ、信にしろ、それが固定観念になってしまいますと、人を自由にするはずの真理につながらなくなってしまい、人を縛るもの、人の動きを窮屈に束縛するものになってしまう危険さえあります。
どうして、そうなるか。真理は生きているのに、存在は生成発展しているのに、その真理なり存在に対応するための知や信が、対応能力を失っていたのでは、知としての力を発揮できない、信としての役目を果たせない、そういう事態に陥ることがある、そういう問題認識が必要であるということではないでしょうか。「存続は発展以外にない」ということばがありますが、知も信も発展させなければ、存在意味を劣化させることにならざるを得ません。
日本が、これから新しい発展をするためには、そのための原動力が必要です。その原動力になるのは、日本人が何千年、何万年来、日々の生活と学問探求のなかで蓄積してきた精神文化に自信を持つことだと思います。
そういう意味で、信のルネサンスとは、永続的に行うべきことであり、知もまた同然でありと言うべきでしょう。ところで、信にしろ、知にしろ、ルネサンスとは、ころころと無責任に変えていいというようなことでないことは、真理なり存在なりが厳然と教えてくれていることですから、そのことについて、くどくどこだわることもないでしょう。知の探求も、信の探求も、人間にとっては、どこかで、生死に直結しているのですから。