万教一源の探求(その109)・神学とはなにか | げんきにたのしくのブログ

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私のこのブログは、神道神学は世界のいかなる宗教における神学と比較しても、対等にして同等の足場に立っており、かつ、実績を築いてきたことを論証することを主題としております。そこで、これまでの検討経過を振り返りながら、先へ進みたいと思います。
まず、神道ということばはどういう意味か。そのことにつきましては、『日本書紀』巻第二十一 用明天皇紀の「天皇、仏法を信けたまひ神道を尊びたまふ」をもとに、検討しました(本ブログ・その41)。この記事が、今日に伝承されている「神道」についての最古の記述であることはよく知られております。
この一文の「仏法」は、「ほとけのみのり」、「神道」は「かみのみち」と、それぞれ訓読されています。
『日本書紀』において、そもそも、「かみ」と訓読されていることばの最初の記事は、巻第一 神代上の「故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」の「神聖」です。「神聖」ということばが「かみ」と訓読されていること、これが『日本書紀』に最初に出てくる「かみ」であること、言い換えれば、神道の「かみ」を漢字で「神聖」と表記したことに、日本の神道神学の核心をみることができると言ってよいのではないでしょうか。
自然・天地・宇宙を「かみのみち」と呼び、その天地の中に「かみ」が顕現した、生れた、とするのが、神道神学の基本中の基本であることを、忘れないでいたいと、私は思います。
そして、仏法も神道も、私たちにとっては探求課題でもあり、探求成果でもある両様の意味を持つことばとして、日本人は使ってきたこと、この学問の伝統は、ロゴス、道、法、理、などということばを、探求課題としても、探求成果としても使ってきた世界諸国の人々の学問の歴史と符合します。このこともまた、しっかり心得ておきたいと思います(本ブログ・その41をご参照ください)。
ことばと人との関係におけるこの二重構造は、他にも、真理、イデア、プラグマ、意志、運命、自然、生命、自我、世界など、挙げるならば、いろいろ挙げることができると思います。仏教教学でいわれる真俗二諦論にもつながるかと思います。
さて、本項としての検討課題は、「神学」とはなにか、そのことについて、今の段階なりに、一つの解釈を試みることです。
神道神学の歴史のなかで精査しますならば、神学を定義した探求の跡をいくつも見いだせると思いますが、その一つに、「神道に関する学問」というのがあります。これは、『日本国語大辞典』第7巻(小学館)にあるものです。神道および神について、今回引用しました日本書紀の記事の意味用法を踏まえて、世界にはさまざまな神学があることもまた心得たうえで、私たち日本人は、このような神学観を共有することを大切にしたいと思います。