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げんきにたのしくのブログ

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神道神学には、神学の方向性として、神から人への方向と人から神への方向の二つの方向のどちらもあります。神道神学は、この両方向性をえこひいきなしに認識もしてきたし、経験もしてきたし、探求もしてきた、という検討を、本ブログで、これまでにしてきました。(その06~08など)。そして、神人相依思想と言われる思想ないしは信心が、その核心をなしていることをみてきました。(その84他)。                                                                            ところで、神と人との相互関係は、人が神に対する関係と、神が人に対する関係とは同等だとは考えてこなかったことも、神道神学の神人相依思想を伝承する心得として忘れてはならないと思います。 
神あっての人であるとの神人相依思想であり信心でした。

『御成敗式目』においては、本文五十一条の後に、「御評定の間、理非決断の事」と題する、「起請」の文が続きますが、起請の最後には、「梵天帝釋、四大天王、惣じて日本國中六十余州の大小神祇、別けても伊豆笞根兩所権現、三嶋大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神、部類眷属、神罰冥罰、各罷り蒙るべきものなり。仍って、起請件の如し。」とあります。

この神人相依思想は、明治維新のときの五箇条の御誓文や明治二十二年に発布された大日本帝国憲法にも、見ることができます。                                                  五箇条の御誓文は、慶応四(明治元・一八六八)年三月十四日(旧暦)、京都御所紫宸殿において、明治天皇が天地神明に誓ったもの(奉読者は三条実美)でした。その誓いの言葉には、「我国未曾有の変革を為さんとし、朕躬を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大に是国是を定め、万民保全の道を立んとす」とあります。この儀式は神人相依思想あればこその儀式であり、誓文です。「一、広く会議を興し、万機公論に決すべし」で始まる五箇条は、天地神明に誓うものでした。奏上文のなかの「今日の誓約に違わむ者は」「天神地祇の」「刑罰給わむ物ぞ」という言葉は、神道の伝統に則った起請文そのものです。                                                               
付記
私はこのブログを公開した後で、読み返すことがあります。そして、文脈が不明だと思われるところを整理したり、言葉足らずだったと思うところを表現しなおすことなどがたまにあります。最近では、<その92>の記事に、300字ほど書き足しました。そういうことがごくたまにありますことをお許し願います。ただし、文意そのものを変えて、肯定文を否定文にするようなことはありません。

神と人間の関係はすべて個別具体的であるという認識と、その関係のもとになっている人間に超越する存在としての神は普遍的で、国境を超え、個別宗教を超えている、そういう構造をなしているのではないか、という検討をこれまでに本ブログで試みました(その87他)。                     人が神の存在を意識しようがしまいが、人は人をあらしめている存在の働きがあって存在しているのではないでしょうか。私たちは、日ごろは、そのいわば無自覚の信心に支えられて生きているのではないか、と思います。 それを意識的にそういう存在の力を求めたり、自ずと感じ取ったり、そういう存在と自分との断絶感を持たざるを得ない、などのさまざまな人生経験が現実にはあるということではないでしょうか。そうしたさまざまな人間と神との関係について、正確な認識を持ちたい、よりよい関係を持つにはどうすべきか、そういう願望や探求が、科学ともなり、神学ともなり、しているのではないでしょうか。                                                                                                一つ一つの事象なり問題なりを、これは神仏の領域のことだ、これは人間の領域のことだと、判然と分けることは難しく、また、この二つの領域は本来分化しているわけではないのかもしれず、調和を目指すべきでもあるでしょうから、個別に、慎重に、取り組む必要があることは明らかです。
そのとき、人間の苦悩や悲しみや孤独感や無知や絶望感を、神仏との関係における問題にせず、人と人との関係の問題として、その由来を認識し、解決方法を目指すべきだという認識と実践もまた、日々なされることにもなります。                                               そもそも、神人相依の思想ないしは信心は、決して日本人に特有のことではなく、世界の人類に共通であり、世界の諸宗教に共通なのではないでしょうか。                                                                                            むずかしくて、なかなか、こういう問題には答えが出ませんが、少なくとも、身の回りの一つ一つの問題について、どういう問題なのか、目をそらすことなく、根気よく取り組み続けようではりませんか。そして、いろいろ知恵を出し合い、意見や探求の進み具合を共有し合っていきませんか、というのが、きょうの私の思いです。

   東日本大震災から一周年の3月11日、一周年追悼式が行われました。                       国立劇場で行われた追悼式のなかで、岩手県の遺族代表・大槌町の川口博美さん(63)が、遺族代表として述べた言葉は次のようでした。

   まず、はじめの部分で、「本日ここに、東日本大震災により、尊い命を天に召された御霊の追悼式が執り行われるにあたり謹んで哀悼の言葉をささげます。」

   最後は次の言葉で結ばれています。「最後に、東日本大震災で犠牲になられた皆さまのやすらかなご冥福をお祈りします。」

   この川口博美さんのことばの中には、次の一文があります。「天災とは言うものの、この世には神も仏も存在しないものだと今もあの時を思い出すと涙があふれてしまいます。」
川口さんはこの震災で、妻、母、4歳の誕生日を迎えたばかりの孫を失ったことを知らされますと、「尊い命を天に召された御霊」「ご冥福をお祈りします」という言葉に込めた川口さんの思いを、聞いている私たちは、考え続けようと思います。                                          そして、特に、「
この世には神も仏も存在しないものだ」と言わないではいられなかった胸の内はいかばかりだったか、人間と人間をあらしめもし、また人間を亡くしもする存在とその力との関係はどのようになっているのか、神仏界のこととしても、人間界のこととしても、また、その両界の入り組み具合がどうなっていたために、そのような犠牲者を出すことになったのか、皆で取り組む必要があります。政治や行政、学問や科学、経済や倫理、思想や価値観、勤勉や手抜き、権限と責任、知識や情報の有無、原因と結果の時間差の特定などなど、取り組むべき角度はいろいろあると思います。
「安全対策は高くつく。しかし、事故はもっと高くつく。」という教訓を活用しなければ、犠牲者は浮かばれません。

テレビドラマ「梅ちゃん先生」、あるスポーツ選手のことば、東日本大震災一周年追悼式、この三つの事例を通して、現代日本人と神仏との関係について考えてみたいと思います。
まず、「梅ちゃん先生」。これは、平成24年(2012年)度上半期のNHKの連続テレビ小説として放送されていたものです。
梅ちゃんがまだ女学生だった終戦直後のこと、第二次世界大戦末期の空襲で焦土となった東京・蒲田で、戦災孤児の少年に出会う場面があります。空襲で親を亡くし、泥棒をしながらの生活のなかで、その少年は落ちていた饅頭を食べて食中毒になって、道端に倒れて苦しんでいたのでした。そこへ通りがかった梅ちゃんは、少年を背負って、父親の開いている医院へ連れていきます。その少年は、身体も心も疲労、衰弱し、すさんでいましたから、診察を受けながら、「生きていてもいいことない」という一言を言います。すると、梅ちゃんは、たしなめたり励ましたりするなかで、「がんばってれば神様がきっとごほうびをくれる」と言います。
私はこの場面を見ていて、当時の日本人の困窮した生活のありようと複雑な心の思いを見ているような気がしました。(この記事を書くのに、Wikipediaの「梅ちゃん先生」を参照しました)
次は、3年前の2009年3月24日、第2回ワールド・ベースボール・クラシックで、日本チームが優勝したときのことです。
アメリカ・ロサンゼルスのドジャーススタジアムに5万4846人の観客を集めて韓国チームを相手に決勝戦を行い、日本が同点の延長十回にイチロー(マリナーズ)の2点適時打で勝ち越し、韓国を5-3で振り切った。(産経新聞09・3・25)
イチロー選手はテレビ局のインタビューに、「日本のためにやりました」と答えました。優勝インタビューで、「谷しかなかったけど、最後で山に登れた」とも答えたそうです。また、イチロー選手は、「僕は(強運を)持っている。神が降りてきた」とも答えたと、同日の産経新聞に報じられました。
テレビで報道された画面では、イチローは「いやあ、神が降りてきましたね」と答えていました。
「神は死んだ」とか「神は人間がつくった虚構だ」などと言う人が時にいますが、私は、そういう人はイチローのこのことばを考えてみるといいのではないか、と思います。そして、私自身、神と人との関係について、知ったかぶりをしてはいけない、との思いを強くします。なお、あたかも、ニーチェがこの「神は死んだ」ということばの元祖のように論じる人がいますが、それは、ニーチェに対する誤解を招きやすく、注意を要すると思います。機会があったら、そのことも話題にしたいと思います。
三番目は、東日本大震災一周年追悼式に関してです。次回の話題にします。
「道草を食う」とは、馬が、人や荷物を運ぶ道中、一休みかたがた道沿いに生えている草を食むことを言いました。そして、その脇で、馬方も一服している、そういう風景を目にすることも滅多になくなり、日々の生活や農作業などに馬が大きな役目を担っていた時代は遠いものとなりました。 きょうも懐旧談のようになりますが、映画「男はつらいよ」シリーズの主題歌も「男はつらいよ」の名前で、主人公“寅さん”役の渥美清が唄っていました。歌の前と後に台詞がついていて、出だしの方は「私生まれも育ちも 葛飾柴又です 帝釈天でうぶ湯を使い  姓は車 名は寅次郎 人呼んで フーテンの寅と発します」。作詞は星野哲郎、作曲は山本直純。 私はこの帝釈天という神がもとはインドの神であり、インドラと呼ばれた天空神であること、アーリア人のヴェーダ神話に見える雷霆と雨の神であること、それが仏法を守護する神とされたこと、言ってみれば、この神にもそういうルーツを辿れることに興味を感じます。イランの聖典『アヴェスタ』にも「インドラ」という形で現れ、この神はインド・イラン民族が未分化の時代にまでさかのぼりうると言われています。(主として、中村元編『仏教語源散策』による。このなかに、インドラ神がいかにして帝釈天という呼び名を持つに至ったか、その説明もあります)  
神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う」という『御成敗式目』に記された神人相依思想というか信心というか、そういうものがあればこそ、こうして、古代インドの神が現代日本で映画の主題歌のなかにも登場する、ということかと思います。現代の日本人にとって神人相依についての思想ないしは信心はどうなのか、次回の話題にしたいと思います。
今回は道草を食うことから始めます。
いまからもう60年以上も前、私が小学1年生のころ、昭和22年ころのことです。
栃木県小山市の一画になっている当時は穂積村と言った農村地帯でのことです。
大人たちが、何の話をしていたのか憶えていませんが、会話のなかで、「ごたくをならべやがって」と言っておりました。あの野郎は云々という話の流れのなかでのことでした。
私はこの「ごたく」ということばをはじめて耳にしました。そのことばの意味もわかりませんでした。それなのに妙に気になりました。どういう意味だろうとずっと心にかけていました。
そのうち、「ごたく」とは「ご託宣」を縮めた言い方であることがわかりました。そして、託宣とは神のお告げというような意味のことばであることもわかりました。
神託や啓示と並ぶ同義語だったわけです。それが、すっかり神のお告げというありがたみも、信用も失って、まるで軽蔑され、拒否される文脈において、使われたわけです。
もう一つ、「おべっか」ということばを聞いたときも、意味がわかりませんでした。
田植えが終わった後のある日の夕方、「あした(明日)はさなぼりおことで、会所でおべっかだかんない」という伝言が回ってきました。「おべっか」とは何か。
これも、何十年も経ってから、やっと、「おべっか」とは「お別火」のことだったのだ、とわかりました。いまでも、「おべっかを使う」などという言い方を聞いたことのある方もおられるかと思いますが、そのもとの意味までご存知の方はどれだけおられるでしょうか。
元々は、「お別火」とは、神をもてなすために、日常使っているかまどではなく、神にささげる食物を調理するために特別しつらえたかまどの火を使う、というような意味だったようです。
「おべっか」については、調べてみますと、別の説もあるようですが、私は、自分のこどものころに、日々の実際の生活のなかで、大人たちが寄り合いをして、おことのために煮炊きを行い、飲食をする行事を指すことばとして聞きましたから、間違っていないと思います。
啓示や神託や託宣と人間の関係を考えるとき、ふと、思い起こすことがあります。



一神教にせよ、多神教にせよ、神と人との関係における基本問題の一つについて、検討しておきます。
それは、神のことは神のこととし、人のことは人のこととすべし、ということです。
どこからどこまでが神のことで、どこからが人のことか、その区切りを正しく行うことはしばしば至難であることは、これまでの神と人との関係の歴史において、人は学んでいると思います。
しかし、少なくとも、人が意図的に他の人に対して、神のことを人のことだとしたり、逆に、人のことを神のことだと、すり替えたりして、神のことと人のことを混乱させたり、虚偽の解釈や運用をすることはしてはならない、と思います。これはあまりにも、当然至極に心得ておくべきことのようですが、実際にはそういう、言ってみれば、神に対する冒涜、人に対する詐欺となるようなことが行われてきたことから、私たちは学ぶ必要があります。
身近なこととしては宗教犯罪、世界規模のこととしては、神託や啓示の誤用や悪用などがあります。神託や啓示が神からのものであって、その真理性は確かであっても、その神託や啓示の解釈・運用は人が行うことですから、その段階での誤謬や悪用はないか、そのことが問われます。
聖界と俗界はどのようにつながっているのか、人間はどこから人間のこととして応答・責任の範囲にすべきか、そのことは問い続けなければならない探求課題です。
宗教源は一にして唯一の普遍的存在であるという言い方をしました。そして、そこから諸々の個別宗教が特化している、という認識を記しました。しかし、それは神は唯一とする一神教の見解なのかとなれば、私はそのことだけを言おうとしたのではありません。
普遍存在としての神を唯一とすることは、その一がいかなる一であるのか、そのことを問い、かつは、認識を深める必要があります。
空海はその認識探求を仏教における法(それは仏でもある)の問題として取り組んでいます。空海は、「一は一にあらずして一なり無数を一となす」(『吽字義』読み下し文)と言いました。このことは本ブログ(その56)で一度触れました。
一はその実は無慮大数とでも解すべきであるという空海のことばは、一神教と多神教の関係を考えるとき、示唆を与えてくれます。
愛、力、真理などさまざまなことばを考えてみれば、明らかです。愛は一つ、力は一つ、真理は一つです。しかし、人間にとって現実の愛は、親子の愛、男女の愛、自然愛、神の愛、などさまざまです。一切の個別性を超えた純粋な愛などという考え方は否定すべきではありませんが、人間にとっては、常に探求課題であり続けます。力も然り。人間にとって力とは風力であり、水力でり、電気力であり、精神力であり、火事場の馬鹿力である、などと、すべて、個別具体的な力です。如何なる個別性をも超越した力、無条件の普遍的な力、そういう力は人間にとっては、認識叶わざる力です。しかも、人間はそういう次元の力概念を捨てるべきではないと思います。真理も同じ。数学的真理、物理的真理、地理的真理などであり、人間の行為や意図の記述の真理性や虚偽性などです。まさに真理は至るところにあります。従って人間は真理探求もさまざまに行っています。真理はただ一つという真理観と真理は無数にあるという真理観は決して二律背反の問題として、二者択一を求めるべきことではありません。真理は唯一にして不変不動ということを問題にする探求と、時々刻々の生きている真理の一つ一つを探求することととでは、探求の意味が違います。
                                             そして、一神教と多神教の関係も同じです。神学の基本問題として、いずれか一方の神観が正しく、もう一方は間違いなのではないか、などという問題を立てる人がいるとしたら、そういう問題の立て方をやめましょう、と私は呼びかけます。一神教と多神教は、神についての認識の次元なり、探求の仕方が違うのであって、神は、人間との関わりにおいては、さまざまな個別性を持っている存在であり、働きであることは、世界の宗教をみれば、だれにとっても明白ではありませんか。人間にとって、さまざまな超越性と内在性をもつ存在として働いているのが、神と人間の歴史であり、現実ではありませんか。                    しかもなお、神は神以外には神と呼ぶべきべき存在はない、と考える神観もまた人間にとっては、神学の基本中の基本として、見失うべきではないと思います。
そのようにみてきますと、神道においてはは八百万の神を拝するなどと言いますが、そのことの正当性も明らかではありませんか。
私は多神教と言われる神道神学の神学としての正当性を支持します。また、もし、世界に我が宗教は普遍宗教であると名のる個別宗教があるならば、神道もまた、宗教源でもあり、学問源でもあり、人間の存在源でもある普遍存
につながっているからには、普遍宗教であると名のることについて、他のいかなる個別宗教にも劣らず、対等に、その資格を持っています。 (この一文は、本ブログ・その77の検討を別の角度から論じてみました)    



宗教源は一つ、その宗教源から個別に特化した宗教が、人類の持っている諸々の宗教、そういう認識から、私はこのブログに「万教一源」という題をつけました。
もし、世界の諸宗教のなかに、自分たちの宗教は宗教源の全体を、言い換えれば唯一の普遍存在の真理全体を特権的、独占的に管理し、解釈し、運用する宗教だと主張するものがあるとしたら、それは違う、とそのことを言いたくて、あれやこれや検討を続けています。
宗教間対話や協力は、そのことを互いに認め合うことなしには進まないのではないでしょうか。反面、そのことを互いに認め合うならば、私たちの宗教はこのような神意を受けているとか、このような啓示を持っている、などと紹介し、対話相手の宗教から、どのような神意を受けているのか、どのような神託を与えられているのかを教えてもらう、そのことで、諸々の個別宗教と普遍宗教源との関係がどうなっているのかを、人類規模で考えることができることになるのではないでしょうか。
また、啓示や神託から始まる宗教ばかりでなく、啓示や神託を目指す宗教の立場からすれば、諸科学・諸学問の成果や課題を共有しながら、宗教源にして存在源でもある普遍存在と人類の関係はいかにありうるか、あるべきか、そういうことについて、意見を交換するなかで、この地球上における自分たちのあるべきようを探求することができるのではないでしょうか。
考えようによっては、人類の歴史上はじめてそういうことに取り組むことが可能となったのが、いまの時代であるとも言えるでしょうし、いまの時代になってはじめて人類はその必要性を切実に意識することになったとも言えるのではないでしょうか。
神道の宗教としての普遍性と独自性ということを、前回のブログ(その84)に記しましたが、宗教の普遍性とは何かについて、検討しておおきたいと思います。
まず、宗教の普遍性とは、自らを普遍宗教だと名のれば、自動的に普遍宗教の地位につくことができる、といようなものではない、そのことは明らかです。                     神道の歴史において、祭政一致を宣言すれば、実態もそうであるとは言えないし、そのことが実現するようなものでもないこと、それは、実現や達成が至難な探求課題であり、しかもなお、目標として掲げ続けるべき課題であることを、本ブログでも少々検討しました(その60~64)。
世界の諸宗教のうちに、普遍宗教はあるか。無条件にそう言えるものは一つもない、一つの例外もない、そう言っても、そう言ったことのゆえに普遍存在としての神から罰せられることはない、と私は信じています。                                          特権的に普遍宗教の地位に就いて、人類は、自他共にそのことを認めるべきである、そういう宗教は一つもない、と言っても、神を冒涜することにはならないと思います。
なぜか。人類が持っているこの地球上に存在する宗教は、どの宗教にせよ、いかに普遍存在としての宗教源とのつながりが強く、密接であろうとも、普遍存在としての神(あるいは、法、理、道など、他の呼称で呼ぶにしても)から、その権能全体を専権的に委託されているなどと自称することのほうが、神に対する越権行為であることはあきらかだからです。
神は人間の知力や認識力を超える存在であり、人間圏内で話題にされるような公平性や公正さをはるかに超える公平で公正な存在である、と信じてよいでしょう。ですから、人間内部からみても公正さや公平性を欠くとみられるようなことばや行為を普遍神由来のものだとして承服するわけにはいかない、そういう事例を、私たちは人類の歴史のなかで学んでいるのではないでしょうか。
そこで、神道は、この唯一の普遍的存在である神(宗教源としての普遍存在)とつながっており、あるいは、つながろうとしているからには、自らの身分を宗教としての普遍性を持っていると紹介することは、世界の他のいずれの宗教と対話する場合でも、正当であり、有効であると思います。
しかし、神道は、普遍存在のはじめからおわりまで、天地宇宙のはじからはじまでを委託管理するべく神権を受けているなどとは、言えるはずもなく、言ったこともない、そういう意味では、個別の宗教であり、神道としての独自性を持っていることもまた、はっきりしています。
そして、神道について言える宗教としての普遍性と独自性は、他のいずれの宗教においても、言えることだ、というのが、きょうの検討事項です。