神社本庁は昭和三一(一九五六)年に、「敬神生活の綱領」を発表しました。
この綱領は、「神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である。」ということばで始まり、「ここにこの綱領をかかげて向ふところを明らかにし、実践につとめて以て大道を宣揚することを期する。」としています。そして、綱領三項目の第二として、「世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固めなすこと。」があります。
私たちは日常の生活では、いちいちこういうことを意識しながら話をしたり、行動したりする必要は感じないと思います。しかし、いったん、人生における重要な経験に臨んだり、困難な判断や選択を迫られるときには、また、国家としても、対応をどうするか、決断と行動を要するとき、人間界のこととしてだけ考えていたのでは足らない、と意識することはないでしょうか。
神学とは、そういう場面において、よりどころともなり、進むべきみちしるべともなることを役目としているのではないでしょうか。
神学論争が、ときとして、いのちがけになるのはそのためで、当然だと思います。一人ひとりの生死にもかかわり、国や人類の命運にもかかわるのが、神の探求であり、宗教であるということが、神学や宗教の根本にあると思います。
だからこそ、神学論争は、いつか、どこかで、しっかりやっておかないと、人一人ひとりのこととしてばかりでなく、国のこととしても、そして、いまや人類という一つの生物種全体のこととしても、「手遅れです」では、すまないことにもなります。
予防外交ということばがあり、そのことのために尽力しておられる方々もいるようです。神学においても、予防神学というような考え方と実践が求められていると言ってよいようです。
神道神学に今日期待されている役目は多いと思いますが、まずは、折角持っている「敬神生活の綱領」を広く、国民に共有されることを目指して、国民一人一人がよりよく生きるための力となるように、国としては、世界における日本国としてのありかたをしっかりさせるべく、広報や啓発に努めてほしい、ということを、私は訴えておきます。 そして、ひとこと、付け加えておきます。この綱領に掲げられたことばに託された心は、政治だけは神のみことを無視してよいとか、神意はどうかと考慮する必要はない、ということでしょうか、と。
「神人相依」については、もう少し、続けます。SPAN>