イエス自身、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」に言及し、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」と言ったと聖書には記されています(『マタイ』22:32)。パスカルはこの箇所も踏まえているのだろうと思います。しかし、本ブログは、キリスト教神学の内部に入って、イエスの言葉の意味や整合性を種々検討することを課題としてはおりませんので、このくらいにしておきます。
ところで、イエスが「エリ」と呼びかけた場面は、日本人だったら、「神様」と叫んだような場面だと思います。つまり、ヘブル語の「エル」とか「エローヒーム」ということばは、日本語の「かみ」に相当する、そのことこそ、普遍的な存在としての「かみ」の唯一性、万国共通性を意味していると思います。
ヘブル語の「エル」は「真の神ヤハウェ」を意味しているそうですが(『新聖書大辞典』キリスト教新聞社による)、「ヤハウェ」は、モーセが神に、名を聞いたときに、神が「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられた(『出エジプト記』3:13~14)と記されている神のことだとみなされています。
そういう位階の神はヘブライ人のみの独占し得る神でしょうか。逆に、その神がヘブライ人専門の守護神であるのであるならば、ヘブライ人以外の人々にとっては、そういう神を信仰するわけにはいかないことが起こるのも当然ではないでしょうか。
普遍存在としての神ならば、民族によって待遇差別をするなどということはしないはずだと思うのは、人間として当然の思いではないでしょうか。
普遍存在としての神をいずれか一つの宗教が独占管理するなどということをすべきではないし、許してはならないとは、このことです。
神の普遍性が高まるならば、それに応じて、万人を公正・公平に守護もし、罰しもするでしょう。そうしたごく平凡な庶民の感覚を、信者が何億人という宗教の管理運営に当たる方々も、高級な神学者の方々も、心にとどめていただきたいと思います。
そして、個別神としての神であるにもかかわらず、その神を以て、唯一の普遍神は自分たちのこの神だ、と主張することは、すべきではないことになります。 神は神である、神以外には神は存在しないという神の普遍性、唯一絶対性は、万人が承認できることです。しかし、そういう神は万人にとって、昔も今も、常に探求課題であって、現実に人間が経験しうる神は、「真の神」と言おうと、「唯一の普遍神」と言おうと、その特化した個別神の位階の神であるという、神と人間の関係における例外のない階層構造を、世界の人類は共有し、認め合いたいと思います。そのことを言いたくて、私はこれまで取り組んできました。
日本語の「かみ」も、「かみ」以外の存在ではありえない唯一の「かみ」、「かみそのもの」として、他のことばでは代替不可能な用語法と
さまざまな個別の「かみ」としての用語法と、二段階の用語法があると思います。
神道神学では、普遍神としての唯一の「かみ」について、その存在論をすることはあまりないようです。しかし、自然神、機能神、人格神などの個別神については、さまざまに信仰もされ、研究もされ、探求もされてきたこと、そして、今後もそうであろうことは周知のとおりです。