知は知であり、信は信である。厳密に論考しようとすれば、知を信と取り間違えることも、信を知と取り間違えることも、知と信についての議論を混乱させてしまいます。議論の場面によっては、その心得を、一度は確認しておく必要があります。この原則を踏まえてこそ、現実の日常生活のなかでは、知と信の複合や重層性があるのだと思います。 たとえば、「地球の公転周期 1年は、31,556,925.9747秒(1956-1967)である。」という一文は、測定した当の研究者にとっては知識ですが、それを聞く私にとっては信です。そう考えますと、私はいかに多くの情報を知としてよりも、信として、得ているかがわかります。なにもかも自分で知識として確かめなければ意思決定しない、行動しないなどということは、とても現実にはできないことです。そういう意味でも、私は信なくしては、生きられません。まさに人と人の間の相互信用関係は人が生きてゆくうえで根本的に不可欠であることを思い知らされます。
ある歌謡曲のことばに「うわさを信じちゃいけないよ」とあります。これは、「うわさを知る」ことと「うわさを信じる」ことは意味が違うことを、私たちの日々の生活のなかでも使い分けるべきことを教えてくれます。知ると信じるを判別しなければ、人と人の会話は知なり信なりを正しく伝えあうことができなくなります。従って、相手が誤解することを意図的に仕組んだ言葉使いをするならば、その結果は、不信状態が生じることになり、うそつきだ、詐欺だ、などということになります。 そういう知と信をめぐる問題が、人間と人間を超越する存在との間のことになりますと、これは、その重大さと深刻さにおいて、また、作用効果の功罪の度合いにおいて、桁違いになります。それだけに、宗教における教義や教理の問題、また、啓示や神託の問題は、しっかりと取り組む人がいるべきだ、ということでもあります。
人は信じたために泣きをみる、信じなかったために悔しい思いをする、などの経験をさまざまにしますが、信をめぐる問題は、知をめぐる問題と一体として扱うくらいの対応をする方がいいようです。知と信は違う、しかも知と信は密接な関係にある、そういう判別と認識を持っていたいと思います。知と信の関係如何、この問題は、人間の真理探求の問題として、聖界の真理探求問題としても、俗界の真理探求問題としても、取り組むべきだと思います。