実以のブログ -47ページ目

モリエール作 鈴木力衛訳『タルチュフ』岩波文庫1956年

高校時代、演劇部で文化祭に上演する劇について話しあっていた時、『タルチュフ』が候補作にあがりました。記憶があいまいですが1度は読み合わせもしたような。今から思うと高校生が上演しようなどと考えたのが恐ろしい…この作を推薦した先輩はどうしてこれを選んだのか? オルゴン家の居間で繰り広げられるホームドラマで場面転換がないから舞台装置が簡単で済むと思ったのかな?

 

資産家オルゴンとその母ペルネル夫人が信奉するのがタルチュフ。もともとは教会に来て物乞いをしていた男だが熱烈に祈ったり、施されたものを他の貧者に分け与える姿を見せてオルゴンを魅了し、彼の家に寄食することに。家長に気に入られていることをいいことにぜいたくな食事を取り、オルゴンの妻エルミールに手を出したり、したい放題。タルチュフの正体がぺてん師と見抜いているエルミールの兄クレアント、息子ダミス、小間使いドリーヌが諫めてもオルゴンは聞かず、既に恋人ヴァレールと婚約している娘のマリアーヌをタルチュフと結婚させようとする。しかしドリーヌらによってタルチュフがエルミールに迫る現場を見せられたオルゴンは怒ってタルチュフを追放。本性を現したタルチュフは既にオルゴンが締結していた財産贈与の契約によって家屋敷を明け渡すよう主張し、さらにオルゴンが亡命した友人から箱を預かっていることを訴えて全てを奪おうとする。しかし国王が使わした警吏が現れ、タルチュフが名うての詐欺師であることが露見したことを告げ、オルゴンはおとがめなしで一件落着。

 

 

モリエールの戯曲は上演を観るとすごく面白いのでしょうね。例えば屋敷に帰ったばかりのオルゴンが、ドリーヌがエルミールの体調不良を訴えても耳をかさず、「タルチュフは?」とだけ問い返す場面、いきなりタルチュフと結婚しろと言われて戸惑うマリアーヌと恋人ヴァレールが若さゆえの意地の張り合いから決裂しそうになるところをドリーヌがまとめる場面、そしてタルチュフがいかにも高尚な言葉をつらねながらもふてぶてしくエルミールに迫る場面等々。

ただ読み物としてはセリフが皆、長いし、展開もどこか強引に感じたりします。西洋演劇史にはあまり詳しくはないのですが、フランス古典劇の三一致の法則=「時の単一」「場の単一」「筋の単一」に則って書かれているからでしょう。上記のお話を現代で映画やドラマにしようとするのであれば、オルゴンが教会でタルチェフを見かけるところから始まったりするのでしょうが、「時の単一」の決まりのために物語のさまざまな背景が登場人物の台詞の中で説明されます。幕開けに登場するペルネル夫人が死んだ嫁と比べてエルミールにだめ出しをするくだりでエルミールが後妻で結婚する年齢の息子や娘のいるオルゴンの妻にしては若く美しいためにタルチュフにねらわれるのだと理解できます。タルチュフがこの家に入り込むきっかけもオルゴンの台詞の中で語られます。本当演じる俳優は大変ですね。高校の文化祭でやらなくて本当に良かった。

気になる台詞は冒頭場面でのドリーヌの言葉。「ひとにいちばん笑われるようなふるまいをする連中が、いつでもまっさきに他人の悪口を言うもんですわ」現代でもこういうことありますよね。

それからタルチェフがエルミールに迫るのを目撃したダミスがオルゴンに知らせようとするのをおさえるエルミールの台詞。「こんな些細な話で、夫の心を掻き乱すものじゃないし、そんなことで体面がどうのこうのってほどのこともありますまい。自分の身を守るすべさえわきまえていれば、それでいいのじゃないかしら」前の場でタルチェフはエルミールの膝に触ったりしているのです。それ、些細などうのこうのってほどじゃないとはうしても思えないけれど、そこがその時代の感覚? あるいはエルミールは夫にタルチェフの行為を訴えても逆効果で、下手をすると自分の方が追い出されるのをおそれているのでしょうか。

『タルチュフ、またはぺてん師』と題されていますが、タルチュフの悪行や人間像よりも彼に振り回されるオルゴン家の人々の群像劇のように思います。オルゴンはフロンドの乱での功績もあり、貴族社会の人望も得ているようですが、タルチュフの偽聖者ぶりにだまされ、夢中になってしまいます。そういう単純なお人好しだけに彼の正体を見たとたん、財産贈与の取り消し手続きもせず、その場でたたきだしてしまったが故に窮地に立たされます。

 

巻末の解説によれば、モリエールがこの劇を発表した時、宗教界からの反発で上演禁止になったとのことです。タルチュフの役の説明としては「偽信者」と

なっていて司祭や修道士ではなく、当時の社会的位置づけが今ひとつ私にはわかりません。元は高貴な生まれながら新約聖書のマタイ伝でイエスが金持ちの青年にいう言葉「持ち物を売って貧しい人たちに与えた上で私について来なさい」という言葉を実践したために乞食になったなどと称していたのか? こうした人物を厚遇することがモリエールの時代には奨励されていたのでしょうか? 

 

タルチュフをぺてん師だという人々にたいしてオルゴンとペルネル夫人は彼らがそう感じるのは彼ら自身が不信心者だからと主張します。キリスト教であれ、仏教であれ、神道であれ、あらゆる宗教がそれを信じない人から見るとぺてんなのかも? キリスト教会で権威を持っていた人々にとって価値観をひっくり返し、自分たちを否定する危険を含んだ芝居だったのかもしれません。

 

喜劇となっているけれどケタケタ笑えて観た後にハッピーな気分になれるかといえばそうではない劇。ちなみに今年3月に無名塾で上演されるそうです。

観に行くかどうかはわかりませんが。

 

 

 

『半七捕物帳(四)(光文社時代小説文庫1986年)より『正雪の絵馬』

年末年始のお休みの初日、銀座に出かけました。暮れに『ウルトラマンA』の美川隊員を演じられた西恵子さんの喫茶店、蕃が閉店すると聞いたのでご挨拶のために訪れたのです。幸いにもマダムと少しお話ができ、ブレンドとミルフィーユを味わいました。

その後、何故か神田明神にお参りしました。神田は長く働いた地なのでその氏神様に一度参拝しようとふと思ったのです。

 

仕事と父の眼病のことを祈るために500円の祈願絵馬を買おうとしたのですが、「祈願絵馬は暮れには売っておらず、新年からとのこと」。500円の縁結び絵馬か1500円のキャラクター絵馬のみ。

 

キャラクターもガンダムとかキティとか私の知っているものであれば買いますが世代がちがってまるきり知らないキャラでした。仕方がないので縁結び絵馬に我が家にお金と縁ができるようにと書きました―今までお金に縁が薄かったので(笑)

 

そんなわけで岡本綺堂の『半七捕物帳』に『正雪の絵馬』という話があるのを

思い出し、お正月に再読しました。

 

参考サイト

https://www.amazon.co.jp/半七捕物帳〈4〉-光文社時代小説文庫-岡本-綺堂/dp/4334732445

私が持っている本はアマゾン販売中のものとカバーがちがいます。

 

https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%8A%E4%B8%83%E6%8D%95%E7%89%A9%E5%B8%B3-50-%E6%AD%A3%E9%9B%AA%E3%81%AE%E7%B5%B5%E9%A6%AC-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E7%B6%BA%E5%A0%82-ebook/dp/B009IXS7SM/ref=cm_cr_arp_d_product_top?ie=UTF8

 

絵馬は今は神社か寺でしか売っていませんが、半七老人が語るには活躍した幕末のころには「絵馬は流行していて絵馬専門の絵馬屋という商売もあった」とのこと。また切手やコインを集めるように絵馬を蒐集する趣味の人々も少なくなかったとのこと。絵馬屋で買うだけでは満足できず、神社に奉納されているものを物色してもらい受けたり、あるいは無断で!引っぱずして来たり。

 

和田村(今の杉並区)の大宮八幡に由井正雪が奉納したと伝わる有名な絵馬がありました。横二尺四五寸、丈一尺三四寸といいますからかなりの大きさ。

 

絵馬蒐集家がコレクションを披露する集まりで皆を驚かせたのは油屋丸多の主人多左衛門。まさにこの正雪の絵馬を見せたのです。後で家に押しかけて

入手方法を尋ねるコレクター仲間についついそれを話してしまいます。

「ここだけの話」では済むはずはなく、お城坊主の次男万次郎に丸多はゆすられることに。

 

人が神に祈りをこめて捧げた絵馬を盗んだりしたら、それだけでもばちが

当たりそうですが、それがあの由井正雪、つまり幕府転覆を企てた謀反人の絵馬であることがこの物語のスケールを大きくしています。

 

前半は絵馬蒐集という道楽にのめりこんだ多左衛門とその家族の

悲劇。後半は多左衛門をカモにした絵馬屋と女絵師、

万次郎に恋する絵馬屋の娘の愛憎劇。短編ながら読み応えがあり、

『半七捕物帳』の中ではサスペンスとしても楽しめるほうだと

思います。

 

著者の岡本綺堂は子供のころからいろいろな人形を集め、中年までには

かなりの数を所有していましたが、関東大震災でコレクションを失いました。

それでがっくりした思いを『人形の趣味』『震災の記』などに綴っています。

そんな綺堂ですから趣味で身を亡ぼす者の心理をきめ細かく描くことが

できたのではないでしょうか。

 

21世紀でも趣味が高じて善悪の判断を失い、高額のフィギュアを盗んだ

などという事件が起こります。そういうふうにならないように

蒐集趣味のある方にお勧めの物語です。私もオタクだといわれますから

気をつけなくては。

2019年の観劇より―シアタークラシックスワークショップ 『ショートショート』

シアタークラシックスからお手紙を頂き、2019年10月30日、ウッディシアター中目黒で友人と『ショートショート―現代を生きる女性たちの物語』を鑑賞いたしました。

 

 

ショートショートとはアメリカの作家たちによる上演時間5~10分のひとり芝居の新作プレゼンテーション、本来は新作の可能性を検討するためのもので一般公開はされない創作プロセスなのだそうです。

 

第1部は世代順に3人の女優が演じるお話。

 

1400gの超未熟児を産んだ10代の母。子供が病院に収容されるまでのほんの数分間、赤ん坊を抱いた時間を生涯でもっとも幸せだったと語り、小さすぎるために管を頭につけられた我が子に「かわいいものをたくさん用意したから生きて…」と語りかけます。

 

両親が離婚したために幼くして別れた父に会った女性。父がいないつらさを

味わってきた人生でしたが「パパとママがうまく行かなかっただけ、誰が

悪いのでもない」のだと思うに到ります。観ていて私の父のことを思い出しました。

 

父も幼い頃、祖父と祖母が離婚し、祖母は家を出てしまったのです。それは

子供にとって相当につらいことだったでしょう。何とかそうならない道は

なかったのか?と考えてしまい、ひょっとしたら自分がもっと良い子だったら

なんて思うかも…父の娘の私はいやおうなく、その祖母に似ています。だから

わかるのです。祖母のような女性は昭和20年代までの日本で普通の家庭の

主婦におさまっているのは無理だったと思うのです。だから誰が悪いのでも

ないのです。

 

そして虐待児童を法律側で支えてきた女性が、保護した子供の扱いに

ついて疑われ、弁明する姿。

 

第2部は女優の丸山真奈美さんが次々と7人の女性を演じられました。

すばらしい演技力!

 

誇り高く生きてきた女流作家とペットのビッグセキセイ。音信不通になっていた娘を思う母。夫に先立たれた後、生前彼が留守番電話に吹き込んだ待ち受けアナウンスを外から家に電話して聞く妻…一番感動したのは優等生で天才的なスポーツ選手だった息子を交通事故で失った母の言葉。息子はチームの勝利を祝うパーティで飲酒した後に運転していたのです。「次の試合を息子のために戦おう」と言うチームメイトらに「息子の死を美化しないで」と言います。彼の死はまさに彼の責任であって、失われた命はゲームの勝利では

取り戻せないのだからと…。

 

このショートショートを観てから、この2ヶ月ほど時々、思い出して考えていました。現実に突然、我が子を失ったら母親は半狂乱でこんな風に語ることはまず出来ないでしょう。もしも現実にそうできる母がいたら、葬儀に参列した人はひょっとすると違和感を感じるかもしれません。ですがこのショートショートはまさにそうした立場にたった者の真実を表現しているのです。

 

現実そのままではない、現実には表現しにくい真実を舞台上に描き出す、それが演劇―そう思った時、自分が若い頃抱えていたある疑問が解けてくる

のを感じました。

 

中学生ぐらいから三十代まで!(笑)。私はよく「ぶりっ子」とか言っていることが「わざとらしい」とか「白々しい」とか「芝居がかっている」という批判を

受けました。それも必死で心から伝えたいことを言っている時に限って言われるのです。う、それこそ好きな人に思いを訴えているような時に…何かの精神的な病気のせいかなと思った時もあります。

 

 

私は子供の頃、読書好きでいわゆる大人風の言葉を覚えるのが同じ年頃の他の子よりも早かったのです。そしておそらく、本で読んだり、テレビで視たりして知った言葉が自分の伝えたいことにぴったり来ると感じたら、ためらいなく使い、口にしていたのでしょう。そう文章に書くか、舞台上で言うべき言葉

を現実の会話に使ってしまっていたので「ぶりっ子」という評価につながった

のですね。私以外の普通の子は小説やドラマの言葉を生活に使う時、

ある種の違和感、ためらいのようなものを持つのに、私にはそれがなかった

ようなのです。

 

今頃、気づいてもおそいという気もしますが、信長より長く生きたおかげで

(笑)青春時代の謎が解けました。そしてこれもまた演劇鑑賞の効能なのでしょう。

 

 

 

2019年の観劇より―国立劇場10月公演『通し狂言天竺徳兵衛韓話』(てんじくとくべえいこくばなし

青春時代にはいわゆる伝統芸能にあまり興味のなかった私は40を過ぎて通信制大学のレポートを書く必要から始めて歌舞伎を劇場で観た時、自分の心持ちが特撮番組を視ている時のものに似ていると感じました。

 

歌舞伎と特撮には共通するものがあるのではないか?

 

円谷英二の前世は四世鶴屋南北だったのではないか…スピリチュアルを信奉してはいないのですが、なんと申しましょうか? 常人には考えも及ばない仕掛けを考えて舞台で、映像で人々を魅了した点が似ているように思うのです。

 

そんなわけでこれまで『盟三五大切』『絵本合法衢』『桜姫東文章』などを観ました。歌舞伎鑑賞の前にはいつも図書館で関連書籍などを読んで予習するのですが、今回は観に行く気力が出るかどうか自分でもわからず…

直前になって空席などを調べてみたら休日の昼の部に幸運にも2800円で

2回最前列(端ではありますが)が取れました。

 

公演サイト

 

https://www.ntj.jac.go.jp/kabuki/2019/kabuki_10.html

 

通しで上演されるのは20年ぶりとのこと。重い腰を上げて観て本当によかったです。チケットが安く取れたのに気をよくして公演プログラムと上演台本を

買ってしまいました。

 

序幕『北野天満宮鳥居前の場』『同別当所広間の場』ではこのお話の2枚目である佐々木桂之介がその恋人銀杏の前に横恋慕する山名時五郎氏連の謀略によって追い詰められます。美女をめぐる美男と敵役の争いは歌舞伎の定番ですが、佐々木家の家臣石割源吾が山名より先に桂之介が主君足利義政より預かった宝剣『浪切丸』を盗んでいるのです。

 

南北の芝居はこんなふうにあらすじや人間関係を文で書こうとすると

ややこしくて面倒になるのですが、 実際に上演を観ると不思議に

難解には感じられず、すっと受け入れることができるのです。

『盟三五大切』を観た時もそう感じました。 これは私に限っての

ことかもしれませんが、鑑賞中に眠くなることもありません。なので

今まで歌舞伎に縁のなかった方が初めて見る場合、南北はお勧めです。

いくらか血なまぐさかったり、愛憎がドロドロするのが苦手でなければ。

 

二幕目『吉岡宗観の場』。罪を得て家老吉岡宗観の屋敷に蟄居する桂之介ら

の前で5年前に漂流して天竺へ行ってきたという船頭徳兵衛が異国の

話を語ります。いよいよヒーローの登場。ダークヒーローなのですが。

 

この徳兵衛の語りのシーンがこのお芝居の見せ場の一つ。実在する

沖縄やハワイの観光名所が語られて客席を沸かせます。その後、

徳兵衛は屋敷の主の宗観の顔に死相が出ていると指摘。

紛失した浪切丸が見つからないことに絶望して自害しようとする桂之介を

宗観はとめて『浪切丸』は自分が詮議するといい、彼と銀杏の前を

逃がします。そして将軍の使者としてやってきた梅津掃部と山名時五郎の

前で責任を取って自害、そして徳兵衛に向かい、実は父親であると

語ります。宗観は元は明の国王の臣下木曽官(もくそかん)で正体を

隠して義政に仕え、蝦蟇の妖術で謀反を起こそうとしていたのです。

この術に必要だったのは名高き名剣『浪切丸』と蛙千匹の血。

庭の筧に隠していた刀を渡し、徳兵衛に妖術を授けます。その

妖術で出現した蝦蟇に乗って屋敷をつぶし、追手を翻弄する徳兵衛。この

この場面で登場する巨大な蝦蟇がこのお芝居の目玉。確かに巨大ですが、ぴょこん、ぴょこんした動きにはかわいらしさを感じました。

 

それにしても三歳の時に置き去りにした親の宗観から徳兵衛がいきなり謀反の野望を受け継ぐのは不思議ですが、そこが歌舞伎なのですね。

 

クライマックスの舞台は梅津掃部の館。この場のヒロインは掃部の側室葛城。葛城が摘んだ花の中から蛇が這い出しますがそれは彼女が巳の年月日時が揃った生まれのため。

 

掃部が佐々木家の世継ぎを匿い、蝦蟇仙人に帰依しているのではという疑いをただしに将軍から使わされた細川修理之助政元。座頭徳市が現れ、木琴をかなでながら歌いますが、正体が天竺徳兵衛であることを見抜かれて逃げます。

 

二幕目『吉岡宗観の場』。罪を得て家老吉岡宗観の屋敷に蟄居する桂之介ら

の前で5年前に漂流して天竺へ行ってきたという船頭徳兵衛が異国の

話を語ります。いよいよヒーローの登場。ダークヒーローなのですが。

 

この徳兵衛の語りのシーンがこのお芝居の見せ場の一つ。実在する

沖縄やハワイの観光名所が語られて客席を沸かせます。その後、

徳兵衛は屋敷の主の宗観の顔に死相が出ていると指摘。

紛失した浪切丸が見つからないことに絶望して自害しようとする桂之介を

宗観はとめて『浪切丸』は自分が詮議するといい、彼と銀杏の前を

逃がします。そして将軍の使者としてやってきた梅津掃部と山名時五郎の

前で責任を取って自害、そして徳兵衛に向かい、実は父親であると

語ります。宗観は元は明の国王の臣下木曽官(もくそかん)で正体を

隠して義政に仕え、蝦蟇の妖術で謀反を起こそうとしていたのです。

この術に必要だったのは名高き名剣『浪切丸』と蛙千匹の血。

庭の筧に隠していた刀を渡し、徳兵衛に妖術を授けます。その

妖術で出現した蝦蟇に乗って屋敷をつぶし、追手を翻弄する徳兵衛。この

この場面で登場する巨大な蝦蟇がこのお芝居の目玉。確かに大きいのですが、ぴょこん、ぴょこんした動きにはかわいらしさを感じました。

 

それにしても三歳の時に置き去りにした親の宗観から徳兵衛がいきなり謀反の野望を受け継ぐのは不思議ですが、そこが歌舞伎なのですね。

 

クライマックスの舞台は梅津掃部の館。この場のヒロインは掃部の側室葛城。葛城が摘んだ花の中から蛇が這い出しますがそれは彼女が巳の年月日時が揃った生まれのため。掃部が佐々木家の世継ぎを匿い、蝦蟇仙人に帰依しているのではという疑いをただしに将軍から使わされた細川修理之助政元。座頭徳市が現れ、木琴をかなでながら歌いますが、正体が天竺徳兵衛であることを見抜かれて逃げます。

 

そこへ将軍の使と名乗って斯波左衛門義照がやってきました。互いに偽物だと疑いあう政元と義照。梅津の奥座敷で側室葛城はなぜか斯波に恋するかのような態度を取り、小指を切ります。そしてその血に驚いた斯波に斬りかかり、斯波に殺されます。

 

斯波の正体は天竺徳兵衛。正体を表して名乗りをあげ、呪文を唱えますが

巳の年月が揃った女、葛城の血を浴びてしまったため妖術は使えなくなって

おり、『浪切丸』を奪い返されてしまいます。それでも降参せず、今は逃げるが再来するという徳兵衛。

 

吉岡屋敷で天竺の話をする徳兵衛の着物がアイヌ風だったり、宗観が

息子に授ける呪文に「南無さったるまぐんたりぎや」「はらいそ」などキリシタンを思わせる言葉が入っていたり江戸の人々が考えた異国情緒、ごちゃまぜの

魅力たっぷりの歌舞伎です。テレビドラマにするとしたら特撮が必要ですね。

 

最後に勝つ正義の味方は山名と吉岡の陰謀を見抜き、側室の命を

犠牲にして刀を取り返した梅津なのですが、観客の心をとらえる

主人公はまぎれもなく天竺徳兵衛。寛永年間に長崎からマカオ、

ベトナムなどへ渡ってきた実在の人物がモデルとのこと。異文化への怖れとあこがれから生まれたヒーローですね。

 

今年は元気が出ない時、「南無さったるまぐんたりぎや」と唱えてみようかしら(笑)

 

『舌切り雀』三種

昨年秋、弟が「舌切雀」の絵本が見たいというので図書館から3種、借りて

読み聞かせをしてみました。

 

ちなみに私の弟は正式な病名は不明ですが自閉症気味。中学を出ると

自閉症の療育がある東京の高等専門学校に入学、その学校に求人が来た工場に就職して今に至っています。ですので40代後半にも関わらず、不意に子供向け絵本を見たがったりもするのです。他人から見ると不気味かと

も思いますが家族としては別に犯罪ではないので気に病んでもしかたありません。 しっかり生活費は出してくれているし。

 

子供向けのお話の本と言ってもこうして3種類並べてみると個性豊か。

 

巻頭の解説で童話作家の佐藤さとるが子供時代、昭和13年頃に隣の家で

見たという講談社の復刻版の『舌切雀』。

日本画の大家鴨下晁湖が講談社の求めに応じて描いているとのことで、どのページも表装して飾りたいような本格的な日本画の作品。足にけがをしたこすずめを入れた鳥籠を縁側でおじいさんと子供たちが囲んでいる背景に山吹と桐、こすずめがおばあさんののりをついばんでいる傍らにはあざみとたんぽぽと美しい草花も描きこまれています。

 

表紙を見てもわかるようにおじいさんと雀たちの着物もすてき。この絵本の雀のお宿は黒い金具で縁取った木の扉のある豪族の住まいのような門構えのお屋敷。お父さん?雀は裃でおじいさんをお迎えし、牡丹を描いたついたて、ショウブを描いた屏風、お膳に載ったご馳走は尾頭付きの鯛もある豪華さ、振り袖を着て踊る姿の雀は扇や傘をもって身をしならせ、見事な舞姿。この絵本では老夫婦もわりと裕福なようで最後のページでおばあさんは茶釜を載せた炉のある上品なお座敷でおじいさんに謝っています。

 

次は絵本ではありませんが、講談社『青い鳥文庫』の松谷みよ子再話の『舌切りすずめ』(2008年新装版) 。

松谷作品は『ちいさいモモちゃん』や『龍の子太郎』など小学生の時かなり読んだように思うのですが『舌切りすずめ』は記憶にありません。さらに私にとって記憶にない展開が…。

 

おばあさんに舌を切られ、追い出された子雀を探しに出たおじいさんは誰にどう教えられることもなく、「すずめ、すずめお宿はどこだ?」と言っているだけで何となく竹やぶに入り、すずめのお宿に到着したと記憶しており、先に紹介した復刻版『舌切雀』もその通り。しかし『青い鳥文庫』では家を出たおじいさんは馬を洗っている男に出会い、すずめが通らなかったかと尋ねます。馬洗いは「馬の洗い汁を七おけ飲んだら教える」と答え、おじいさんはがっぽがっぽ。その後、おじいさんは牛洗いに出会い、やはり「牛の洗い汁」を七おけ飲んで「山をまわっていくと竹やぶがある」と教えられ、すずめがはたを織る音を聞いて子雀と再会。おばあさんも同じ道をたどります。どうもこのくだりのある方がこの昔話の原型に近いようです。さらにすずめたちがおじいさんには

「赤いおぜんに赤いおわん、白いままにおさかなそえてたあんとごちそう」、

おばあさんには「ぬりのはげたおぜんに、かけたおわん」とあからさまに接待に差をつけているのも面白いですね。もっとも上記の鴨下晁湖版のおばあさんは「わたしはいそがしいから、ごちそうもすずめおどりもいりませんよ。おみやげをもらったらすぐにかえりますからね」と言っていますが。

 

三冊目は岩波書店の『てのひらむかしばなし』の「したきりすずめ」(2004年)。

サイズも小さく、絵も21世紀風に可愛い絵本です。山の畑をたがやしに行ったおじいさんが昼時、お弁当箱の中で米粒をつけてくうくう寝ている子雀を見つけ家に連れ帰ります。松谷版も同じくおじいさんのお弁当を食べてしまって

眠りこけ…とするともともと食い意地の張っている雀で、だからおばあさんの

糊も…鴨下晁湖版では足をけがした雀を保護。

 

『てのひらむかしばなし』版でもおじいさんとおばあさんはすずめのお宿へ

行く途中で馬洗いと牛洗いに出会い、洗い汁を飲んでおります。またおじいさんとおばあさんへのごちそうも差があり、もてなし場面におじいさんの前には

赤いお膳に尾頭付き、色とりどりの着物で踊る雀に三味線を弾く雀。

おばあさんには一羽の雀だけが応対。食事は「かけたおわんにかけたさら、へびのさしみやかえるのにしめ」。

 

『てのひらむかしばなし』の絵は鴨下晁湖版のように芸術性は感じませんが

すずめもおじいさん、おばあさんの表情も愛らしくほのぼのとしています。

すずめのお宿は茅葺きでお屋敷とまではいきませんが屏風のある座敷で

おもてなし。今、もし子供に買ってあげるならこの絵本でしょう。

描いているましませつこ氏は1937年生まれとのことなので、現代的では

ありますが確かな画力を持った方なのでしょう。

 

おじいさんの小さなつづらから出てくる宝物、おばあさんの大きなつづらから

出る化け物たちなどの描き方も3種類見比べるとなかなかに楽しめます。

講談社復刻版はすぐれた日本画作品ですので他のお話も読んでみようかおt思っております。

2019年の観劇より―劇団昴『他人の金』

お正月のお休みにすることと言えば…どうしても前年のやりのこし…

2019年6月に観た舞台を今頃…本当は観劇後、すぐに書くべきなのでしょうが時間がとれなかったり、心に受けたものをなかなか言葉にできなかったり。

 

劇団昴サイト

http://www.theatercompany-subaru.com/public_2019.html

参考サイト

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/255806

 

『他人の金』は登場人物わずか5人にも関わらず、構成にむだがなく

企業買収という大きなテーマを私のようにあまり知識のない人間にもわかり

やすく描いた戯曲。翻訳劇のためか長台詞が多く、演じられた俳優の皆様の

力量には脱帽いたします。

 

親から引き継いだ電線メーカー、ニューイングランド・ワイヤー・アンド・ケーブル社を守ろうとする老会長アンドリュー・ジョーゲンソン(金子由之)、その会社を乗っ取ろうとする資本家ローレンス・ガーフィンクル。現在のケーブル社の社長ビル・コール(石田博英)はジョーゲンソンに恩義を感じてはいるものの血縁ではなく、雇われなので微妙な立場。長年ジョーゲンソンの秘書を勤め、密かに彼を愛してきた秘書のビー・サリバン(一柳みる)は都会で弁護士になっている娘ケート(米倉紀之子)に助けを求めます。ガーフィンクルとケートの丁々発止のやりとりの後、ついに天下分け目の株主総会が開かれます。

 

「額に汗して生まれた金こそ価値がある」、「今使われているワイヤーが

いずれ老朽化してまた需要が増える、その時にはこの会社が必要」と語るジョーゲンソンの言葉には説得力があります。「マネーゲームで湧いてくる金」を武器にするガーフィンクルよりもこちらに義があるのです。しかし結果はコールの寝返りもあり、会社はガーフィンクルのものに。

 

会社を失ったジョーゲンソンは2年後に死去。そして意外なことにガーフィンクルとケートは結婚します。このカップルの成り行きについて一緒に鑑賞した友人に「どう思う?」と訊かれてその時は答えが見つかりませんでした。

 

しかししばらくたって考えてみると不思議ではない成り行きかも…と思えてきました。

 

私としては自分と年齢が近く、長く同じ会社で働いてきたという点が共通している登場人物の秘書のビー・サリバンが気になります。(私は秘書ではなく、勤め先は買収屋が見向きもしない零細企業ですが)。

 

若きジョーゲンソンが社長業を継いだ時から愛しさを感じてきた彼女が一人でガーフィンクルを訪ね、コツコツとためてきた金とひきかえにこの買収から手をひいてほしいと頼みます。しかしガーフィンクルは「寡婦の金などほしくない」と拒むのです。ガーフィンクルは体型も太めで振る舞いもふてぶてしい憎々しげな人物として描かれますが、金に汚いだけの守銭奴ではないことがこの場面でわかります。

 

愛する人のために貯えを捧げようとするビーの姿は美しく気高く…も見えるのですが、娘のケートの立場からみるとそういう「情」の部分で時代に立ち向かえると思っている母親の考えがあまりにスケールが小さく、いらだちを感じていたのではないでしょうか。

 

古い情緒の世界にいる母への反発が ケートが新しい時代を運んできたガーフィンクルへ心が傾いていくきっかけになったのかもしれません。

 

近年、勤め先の世代交代、50年近く同じ地にあったところからの移転などを

経験して私にとってとても考えさせられる観劇でした。

 

 

今日は元旦―今年もよろしくお願いいたします

ブログを読んでくださる皆様、旧年中はお世話になり、ありがとうござい

ました。

本年もよろしくお願いいたします。

 

今年の抱負は?

 

今年の抱負は…まずはブログを週1回ぐらいは更新すること…

読書でも観劇でも視たテレビ、書きたいことはいろいろあるのですが

なかなか書けないのを何とかしたい、何か意識を変えないと

いけないのでしょうね。

 

 

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それから…毎年正月には似たようなことを書いている気もするのですが

語学などの勉強をすること。歌もまた学びたいのですが月謝が払えるかしら?

 

そしてよりいっそうの…財政緊縮。今年は何も飾りのついていない

100円の鏡餅を買い、家にある折り紙で飾りをつけてみました。

葉つきみかんの葉も正月がくる前にひからびたので折り紙です(笑)。

門にかけるしめ飾りも今年は100円ショップで

買ってしまいましたが、来年のは折り紙で作ろうかと。

母が赤い実がなる木が好きだったので

センリョウなどの入った正月用の花束を毎年買っていましたが、

今年は買わずに母と冬の散歩で眺めていた公園の木

(たぶんクロガネモチ)を眺めて済ますつもりです(笑)

 

これも母と楽しんだサザンカが今も咲いています。サザンカは桜などとちがい、寒い季節に長く咲いていてくれる花。でもそれだけに不憫なのは風や寒気のために散らずに咲いたまま傷んでしまう花もあること。

今はもう片付けられてしまいましたが12月前半までは花壇に

マリーゴールドも咲いていました。

今、NHK教育のウィーンフィルニューイヤーコンサートを聴きながら、いつも

この放送を気持ちよさそうに聴いていた母の様子を思い出しています。本当、

あともう一度でいいから母と正月を過ごせたらよかったのにと。

心の中で母が「だから欲を言えばきりがないよ」と笑います。

 

弟は長野へ出かけています。今日は善光寺に初詣をして本堂にある

おびんずる様(木像)の眼をなでて父の網膜静脈閉塞症の平癒を

祈ってくれたと電話がありました。父は長年、足腰の痛みで整形外科へ通っているので下半身もなでてくれたようです。身体に悪いところのある人は

このおびんずる様の木像の自分の病んでいる部分を

なでて祈るとよいと言われています。

 

考えてみると父の眼病も天からの贈り物なのかもしれません。

眼のことであれやこれやと忙しいので父は「去年の今頃はお母さんがいたなあ」などとくよくよ落ち込まずに済んでいるのかもしれないのです。

 

私もこのところ、なぜか昔あったつらいことが思い出されて

今ひとつ元気が出なかったのですが、今、ウィーンフィルのワルツを聴いて

気持ちが落ち着いてきました。過ぎ去ったことはしかたがない、

考えてもしかたがないことは考えないのが一番とわかっているのですが

その「考えないようにする」力がわかないで困っていたのです。

でもその力が少し出てきたようです。

 

「私には音楽が一番の薬」という母の言葉を思い出します。

母は中学しか出ておらず、ベートーベンがどうのカラヤンがどうのと

いった知識はあまりありませんでしたが、とにかくクラシックを

聴くことは好きでした。

 

娘の私にとってもあれこれ考えるのはやめて音楽にひたること、

そして花や緑を眺めることは薬になるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

ウルトラの父にお願い? 父の眼病

11月、父が右目が見えにくいというので以前、左眼の白内障手術を受けた眼科に連れていきました。右目の白内障が進んだのだと父は思っていたようでしたが、た加齢黄斑変性をわずらっているとのこと。その眼科は診察室に入るためにかなり急な階段を使うしかなく、「足が弱っていて階段が無理なのでどこかエレベーター付きの眼科を紹介してくれませんか」と言うと地元の大病院に紹介状を書いてくれました。

 

その大病院で検査、診察を受けた結果―右目は血管がつまっている、脳で同じことが起これば脳梗塞の状態。眼球注射などの治療を行っても以前と同じ視力は戻らないかも……

 

さらに細かい血管がつまりやすい病気があるかもしれないのでかかりつけの内科医に眼のことを話しておくようにと言われました。そこでいつも父がかかりつけの内科に持病の薬をもらいに行く時、私も付き添い、この話をしました。すると内科の先生は「その眼科の先生の紹介状を持ってこない限り、私は何もできない」。

 

どうやらそこで受けている定期検査の範囲では特に異常はないらしいのですが、この木で鼻をくくったような言い方に気持ちが落ち込んでしまいました。

父の症状は老人には珍しくないことかもしれません。でも「これが脳なら脳梗塞」と言われた本人とその家族はショックと不安の中にあるのです。

紹介状がないと何もできないのは事実だとしても、もう少しものの言いようがあるのではないでしょうか。

 

12月半ば、父が右目に眼球注射を受けます。いくらかでも気分が明るくなるようにバラと小さなりんご、モミの枝のキッチンブーケを買ってみました。

クリスマスが近づいてくると思い出すのが『ウルトラマンA』の第38話。父は別にスノーギランに

襲われたわけではないのですが…我が家は掃除などなどが行き届いていないのでひょっとするとナマハゲに

よく思われていないかもしれません。

今年は大まじめ?で南夕子が父の瞳に虹色の光線を送ってくれるよう祈らなくてはなりません。

 

まずはウルトラの父を思い浮かべつつ、プッチーニの

『お父様にお願い』(私のお父さん)を歌って

みようかしら?

 

 

 

 

今日は地球感謝の日

地球に感謝をヒトコト!

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子供の頃はヒーローがあなたを守ってくれると
思っていました。
 
でもあなたを守るのは私たちの暮らしなのですね。
 
あなたのために暮らしを見直しています。
だからいつまでも元気でいて下さい。
 
あなたの上に住まう私たちが殺しあいやけなしあいを
やめられますように。

島田清次郎『地上―地に潜むもの』(1995年 季節社)

ずいぶん前にkindleで買っていたのですが、どうも読み進むことができません。結局勤め先近くの図書館で借りました。表紙は破滅的な短い生涯を生きた著者の写真。やはり実物の本がいいですね。特に長編は。

 

貧乏だが勉強はできて級長になっている中学生大河平一郎。小説は少年が主人公にしては衝撃的な話から始まります。乱暴者の同級生長田に「稚児さん」つまり同性愛の相手になれと強要されている美少年深井を助ける平一郎。深井の家の隣に恋する吉倉和歌子が住んでいることを知ります。彼が和歌子を知ったのは小学6年生の時。なので彼は思います。「和歌子さんは己のものだ! 自分と和歌子さんとは、そんな今日や昨日のことではないのだ!」

 

15歳の少年のこの一方的な燃え上がり方! 現代の感覚だと情熱的というよりも気味が悪いというか。しかし幸いなことに和歌子も同じ気持ちだったので彼はストーカー呼ばわりはされません。彼らが初めて出会った6年生の集まりで和歌子が自分の母が父の赴任先の朝鮮で虎に襲われて落命する話をまるでおとぎ話のように淡々と語るのも衝撃的。

 

平一郎を苦しめ続けるのは貧しさ。三歳で父が亡くし、それでも小学5年生までは持ち家でいたのに、母は生活費と教育費のため手放さざるを得ず、「広い家の代りに、八畳と四畳の二階借り、しかも階下は芸娼妓の紹介を仕事にしている家族」という環境に。そしてそこも出て母の親友である芸者冬子のいる春風楼へ住むことに。平一郎の没落感の描写の生々しさに著者の若さを感じます。大人は子供に対して「君たちは将来があるんだから、小さい頃のことを思い出してくよくよしたりしないで今はつらくてもこれからがんばれば」てなことをカンタンにいいますが、貧しさや喪失感は暮らしのあれこれに追われ続ける親より子供の心を打ちのめすのです。二十歳前だった著者はその直撃のさなかにいてそれを言葉にしています。

 

主人公親子の友である冬子は色ではなく芸で身をたてようと志す名妓。その冬子が春風楼の午前10時に眠っている女たちの寝姿を見る場面。そこで語られる女たちの個性、東京の柳橋の芸者の娘に生まれて金沢に流れてきた者、物心ついた時には既にここにいてこきつかわれつつ育ってきた者、意に反して継母に強制されてこの道に入り、色を売るつらさを日々感じている者もいれば、男たちを誘惑する毎日に疲労を感じない者等々。中でも読んでいて凍りついてしまったのは小妻という女の不幸。好きな男の子供を身ごもったまま親の決めた嫁入りを断れなかったばかりに「わたしはいつも眠ったまま、眼ざめるときがなければよいと思いましてよ」というような境遇に。第三章で春風楼の女将が得意客の求めに応じて女たちをフル稼働させたために小妻の願いはついに実現、小妻の死を見た朋輩茂子は発狂。著者は小妻の死を明治天皇の崩御を対比させています。

 

貧しい平一郎と外交官の娘和歌子の恋は大人たちからはふしだらと決めつけられ、和歌子は東京へ嫁がされてしまいます。「わたしは長生きいたします、きっと。平一郎さま、短気を起こさずにほんとにえらくなって下さいまし。そしてこの哀れな背いた女を

見反えるようになって下さいまし。…わたしの夫になる人はあなたとは十も年上の洋画家です」と書き送る和歌子。夫より長生きしてリベンジ?をするつもりなのかしら。

 

和歌子のいうように貧しさに苦しみつつ、「いつかはえらくなる」という思いが平一郎を支え、勉学に励ませてきたのですが、和歌子の一件で停学となり、復学後は学校も面白くなくなった彼は親友深井の紹介で文学の仲間と出会います。そして世界では自分や春風楼の女たちのような社会的弱者を描く物語があることを知るのです。

 

小説の前半で平一郎の母お光に「一生に一人はこの人の子をどうか授けて下さいと祈るような方にあってみたい」と語っていた冬子。ついに尊敬できる男と出会います。それは東京から来た実業家天野栄介。天野に身請けされ、東京へ行く冬子。この天野と平一郎の母お光との因縁。第5章で描かれるお光の育った北野家の歴史とお光が平一郎の父と結ばれるまでの物語も壮絶。

 

冬子の縁で、東京へ出て天野家から基督教主義のM学院に通学することになった平一郎。金沢にはいない広い世界を知る教師たちと出会い、ようやくえらくなる夢の第一歩を踏み出したかに見えましたが…アメリカから来たキリスト教会の第一人者の講演中、平一郎は…。

 

確かにすごい小説です。すごいという形容詞しか思い浮かばない自分が情けない…書かれた当時ベストセラーになったのも不思議ではありません。著者はこの小説を書いた後身をあやまってしまい、早世しました。続編も書いてはいますが、この作品ほど

名作でないとも言われています。でも平一郎、和歌子、冬子たちの運命の行方が気になります。           

 

何と申しましょうか、この小説の題の通り、地上でもがく者、貧困や抑圧の中にある人々の声が込められた物語で、21世紀の今もその「声」に耳を傾ける必要があると思うのです。