<構成>  起 ▪︎ 承・・承・結 ▪︎ 転・結  

 

              

              ●●●●●●●●

 

 

「根本原理」は倭成大聖が開示宣説する「太言霊と太法図」の別言であり、不動である。

聖人の考えも不動である。

それに対して思う事は人によって百様であっても、根本原理は一つである。

気に入らないと思う人がいても(気に入らない人の方が圧倒的に多いだろうが)答えは変わらない。

人間がそれと認めるから「神」「宗教」「聖人」なのではない。

 

聖人の言には、人間の分際で言葉を挟むなど、一切許されない。

『大神が聖人を通してお授け下された大神経を討議したり審議しようとは、

 思い上がりも甚だしい。ただ平伏し拝受すればそれで良い』と書かれている。

 

『不議は不疑。疑いがあるから議論するのであり、疑いがなければ議論はない』

『疑いを抱くから議論するのである』

『太法図に対して寸足らずの曲がり尺を持ち出して口論/論争する事を、

 神に対する最大の裏切り/最大の背信という』と書かれている。

 

「太言霊と太法図」は議論の対象ではない。

「あえて異論を唱えて議論を活発にする」だのもない

 

聖人の言に疑問を抱くとしたら、それは、

それに対する自分が持っている概念と違うから~

例えば「神とは」「宗教とは」「聖人とは」こういうものだと思っていたのと違うとか、

この世を眺めた時に一致しない(相反する)と思うからではないだろうか。

(それ故に、聖人の言をすんなり飲み込む事ができない。つかえて入らない。)

 

『この世から一度失われてしまったら、もう人間にはどうする事もできない、

 聖人にしか顕現する事はできない』(現に数千年人類が頭を寄せ合って考えても、経文が説明する”太法図””完成された智慧”がなんなのかわからなかった)

それ故に、聖人がご出現になった。

『だから『黙って受け「わかりました」と言えばいいのだ』と書かれている。

 

 

 

 

倭成大聖によって開示された「太言霊と太法図」は

現代に蔓延る「宗教とは」「神とは」「仏教とは」の概念を否定する。

初期の頃、大聖が書かれた「眞説般若心経」(大部分が、その後刊行された仏説般若心経と重複する)の副題は『似て非なる説を正す』である。(「以て非なる説を制す」をかけられたかどうかはわからないが)

書中には『参図(太法図)に降る事を降参という』とも書かれている。

 

 

 

 

                ▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎

 

 

長年信じたシュウキョウが間違っていたと気付く事は辛く、長く深く関わり、熱心にやってきた人程、承服し難いだろうが、それは今生の数十年やそこらではなく、きっと過去生からの縁があるが故に親しみを覚え、惹かれ(或いはお寺の子として生まれるなど)親密に関わってきているはずである。

 

太言霊と太法図を飲み込み難い/承服し難いのは、あなた自身の器が間違ったシュウキョウで満たされているから。器の入り口が塞がれているから…

全て自分の側の問題である。

「私は…!」「だって…!」という言葉を…

「我見」を「我/ガ」を「自分の主張」を引っ込めないと入らない。

例え、先生が生徒に合わせたハードルを用意したとしても、生徒がなんとかそのハードルを飛ぼうとしなければ力はつかない。

子供が道に座り込んで駄々をこねるのと同じである。

 

『皆さんに信じてもらうために、どうすれば良いかといえば、

 皆さんが言って欲しい事を言えば良い』は痛快である。

本当の事(あなたが買ったダイヤは偽物です/あなたが大事にしている経文をいくら唱えても彼岸へは渡れない)を言えば嫌われる…それでも、あなたの命に関わる事だから嘘を言う事はできない、あなたの命を大切に思うから本当の事を言うのだ、と。

赤ん坊がいくらステーキやお酒を欲しがっても、与えるわけにはいかない。ダメなものはダメ。

あなたが嫌がらないように、あなたの価値観に沿うように答えが変わったのなら、あなたを懐かせる事が最大の目的であって、

不動の教えではない/あなたに合わせるために変えてしまっても良いものという事。

🔁

不動の教えに出会いたい/不動の教えを授けていただきたければ(目の前にいる先生が宝とする事を教わりたいと思うなら)

「我/ガ」は引っ込めた方が良い。

もっとも、「不動のもの」はとうの昔に失われ「不動のものなんかない」というのが常識となって久しいのが

現代の世の中であり、それ故に「我見」を主張するのだろうけれど。

 

「救世主なら俺達の事も救ってくれるんだろ」と言う臭教団体は、この世での繁栄/快楽にしか考えが及んでない。

その「救う」という言葉で意味している事は「これまでの臭教ビジネスを続ける/

その為に太法図を(都合よく捻じ曲げて、切り刻んで)利用する」ではないか。

聖人は人類の魂を救うべくご出現になる。

 

 

 

                ・・・・・・・・

 

 

「言葉が違うだけで同じものを説明してるんだから、自分が信じてきた経文を使って説明してほしい」と思うか?まず。それは手コピでピアノを教わってきた生徒が、そうではないお教室に行って手コピで教えてくれと言うのと同じ。そして…

 

宗派の開祖や、高僧とされる人の教えとして残る経文も(例えそれが文化財として指定される重要とされるものであっても、芸術的な書であっても、さも高尚に見える漢文であっても)

その高僧が太法図を得ていなければ

例えそこに太法図を表す言葉/大聖が説明なさる言葉…例えば「色即是空」や

「摩訶般若波羅蜜多」「観世音自在菩薩」などの言葉があったとしても、それもまた

「人々を惹きつけ、何らかの勢力/思想/一般世間法に従わせるために書かれた説明文/勧誘文」であり、「狗肉を売るために仏頭を利用した~捉えにくい概念として、好き勝手な解釈をつけるのに好都合だったから」という事である。(太法図を説明していない)

(或いは、その教祖も「物質的現象には実態がない。実態がないからこそ物質的現象でありうるのである」だの「綺麗な人(色)を見て(受)綺麗だなと想う(想)すると手を握りたいという意欲が出て(行)、そういう事全体がわかる事が(識)」だのいう話を本当にありがたい教えだと思っていた人という事である)

 

そして「私達の経典も同じ事が書かれているから読んで見てほしい。読めば同じだってわかるはずだから」とバンキョウキイツを勘違いしたのが寄ってくる。

「私達の先生の所に、このようにお告げがありましたが、どのようにその図と繋がるのか...」それを説明するのがバンキョウキイツだと思っているようである。

 

バンキョウキイツ違い

 

 

「同じ言葉が並んでいるからこれも太法図を説明しているはず。だから

太法図とどう繋がるのか、どう説明すればいいのか見てほしい」というその主張は

「仏頭狗肉の経文に太法図の帯をつけて売りたい/仏頭狗肉の経文に大聖の御本にある言葉を冠し、正当化し、本物だったって事にしたい」である。

私がしばしば「適当に話を合わせて上手く立ち回りながら、何かを正す事ができる人もいるだろうから…

秘密工作員になったらいいんじゃないか」と書くのは、臭教団体とコテコテに絡んでいて、そこから離れたら

生活が立ち行かなくなるような人もいるだろうから…そして「相反する相がお互いの中にも ...」だから、

それでいいんじゃないか/そうやって生きていくしかないんじゃないか、と思って書く事である。

でもあなた方がしている事は、臭教団体側の工作員として活動し、それにおいて大聖の御本にあるのと同じ言葉などを適当に並べて話を合わせている、である。バンキョウキイツを勘違いしているがゆえに「同じ部分があるからそこをキーとして一緒にやれる、パートナーになれる」と。

 

「説明の仕方が悪いのかな、でもそれだけ」「ただの誤訳だ」と思っているのかもしれないが、 仮 にそうだとしても(いつの間にか紛失して法図が抜け落ちちゃったのだとしても)「人々を地獄に叩き落としながら、自分達は金儲けをしてきた」である。

しかも、少なくとも一部の上層部は、それでは彼岸へ渡れない事を知っていたはずである。

それも本当は、悪気なくでもなければ、ただの誤訳でもなく、更には開教時からペテンの認識をもってペテンやってきた所も多いんじゃないの?

仮に「正しく訳した正しい説明書」だったとしても、それだけでは彼岸へ渡る通行手形とはならないし、「正しい説明書」なら、それだけでは彼岸に渡れない事がわかるように書かれている。

 

仏頭狗肉の経文に大聖の御本にある言葉を冠し、正当化しようと目論む者達は、今迄同様

「今まで売ってきた仏頭狗肉の経文が彼岸に渡れない事が示される部分を隠しておけば...」とでも企んでいるのだろう。いい加減にしろ!!!クソッタレ!亜法!クズ

 

 

太法図は根本原理であり、諸の本物の宗教は太法図に帰一する。

それだと都合悪いから「諸の聖人がこの太法図を説いた、ってとこは内緒にして...」

許されねーの

 

                  ・・・

 

大聖は『唐から入った念仏には肝心要の法図がなかった』と書かれている。

そして下馬評というか…浮世の常を知る人の見立てとしては「釈尊が説かれた真髄/太法図は(ごくごく秘伝/私伝ではあったとしても、公式?には)中国はおろか、インドさえ出ていないかもしれない」ってとこではないだろうか。

 

 

大聖は『漢字訳の般若心経を唱える場合は、<色即是空>と<阿耨多羅三藐三菩提>と

<羯帝呪>と<摩訶般若波羅蜜多>の他は無用と言っても過言ではない』と書かれている。

 

                

                ・・・・・・・・

 

 

 

太言霊と太法図を承服し飲み込めるかどうか、そこを解決できるのは、とどのつまりは

自分自身(のみ)のはずである。

 

何とかする方向が逆

 

 

自分の識大/魂/心と向き合い…

貴方の魂/命を誰よりも大切に思い、太法図を刻み込んでやる事ができるのは、

あなた自身である。

自分自身しかいないはずである。

 

わかりたいと思うなら、飲み込みたいと思うなら、すぐにわからなくとも、頭の隅に置いておいて、牛の反芻が如く、事あるごとに思い出して考えたらいい。

それは「なるほど!」とわかったと思った事でも、後になって更に深い意味がある事に

気づいたり、「根本原理だから、こっちにも当てはまるんだなあ」という事が沢山あるはずである。

そうやって「太言霊と太法図が根本原理である」「釈尊の智恵は慧智図から湧き出るもの」であると信解に至るのではないだろうか。

枝葉にとらわれる/迷わされるのは、根幹が見えていないからではないだろうか。いつの間にか何の話だったかわからなくなる程、どこから来てどこへ向かっていたのかわからなくなる程、枝葉の中をはしゃぎ回っているのではないか。

 

数学の定理だか公理だか?のように、

まず「太言霊と太法図・倭成大聖の言は正しい」という事を前提として

「だとすると・・・」って感じで…そこに疑念があるから前提とするのが嫌なのだろうが、検証はできないので(「仏教を例に」参照)

「太言霊と太法図が、諸の聖人仏陀が説かれた根本原理であるとするならば」として考え、その答えの検算をし…それを繰り返す事で、その前提としたものが正しいはずだという考えに至る、的な考え方をしてみると良いのではないだろうか。

なぜ「神とは皆がそれぞれ思い描くものだ、皆違っていい」なんて事になったのかと考えると「太言霊と太法図が失われ、いくら考えても研究しても答えが見出せなかったからだ/

皆それぞれ解釈をすれば良い、って事にしておかないと金儲けができないから/

その方が都合がいいからだろうな」とか。

(どうやら正しそうだ、となればなる程葛藤は増すのかもしれないが)

 

物理の話などでピンとこない事もあるかもしれないが、それも、因縁あって、理由あって、お説きになっている事である。時に、いと高きご存在のご意志によって、

大聖の肉体を借りて、下賜されているという事かもしれない。

貴方はわからなくとも、ある人にとってはとてもわかりやすいトピックなのだと思う。

それを専門とする友達に話してみれば、その人が反応して、それが解明されている事がいかに凄い事か、あなたに教えてくれるかもしれない。

 

 

『倭成が顕示したこの法図は真の物理学者によって、その正しさが証明されるだろう。

 神理学は物理学であり、悟学は語学である』と書かれている。

『必ずや、幾人かの科学者が、これの恩恵を受ける事になるだろう。

 倭成はかげで楽しみにしている』

(お陰様を忘れてはならない。

 ノーベル賞でも取ったら、授賞式へは  心 に 大聖印のフンドシをつけていくといいのではないか

 

 

『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』発刊当初の案内チラシ

「反面教師が始めた××××」の<ついで>参照


                

                ・・・・・・・・

 

 

長年臭教を良いものだと信じてきた人は、自分もその団体の主体となって(団体が一人称であるかのように)或いは自分の親を否定されたような、親が大罪人であったと知るが如く…

「なんとか救ってもらえないものか」「それ程悪い事ではないのではないか」と思うのかもしれない。(時に先祖代々信じてきていれば、それに対する思いもあるだろう)

 

倭成大聖がなさる「諸のホンモノの聖人・仏陀が、説かれた太法図を開示宣説」は、即ち「世界に宗教は行われてこなかった」という事の説明である。

それを認め「これまで説いてきた事は嘘であった/間違っていた/自分の所の経典は偽物である」と公表できる団体はない。

各個人が太言霊と太法図を学び、(皇室がしてきたように)密かに脈々と伝えていくという事になるのではないだろうか。

 

 

 

 

臭教団体と一緒に心中する事はない。

 

『他人にとっていかに重大な事柄であろうとも、

 自分のつとめ(正法の見聞受時と弘伝をやめてまで協力してはならぬ。

 自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ』

『我が子を、親も救う事はできない』

 

仏教に限らず、ホンモノの聖人・仏陀が開かれた、他の宗教も皆同様である。

大聖は「いかなる宗派とも組みしない。真法(太言霊と太法図)を求める者と組みする」と書かれている。

 

 

 

 

                ▪︎▪︎▪︎

 

 

 

「悩む人」とか「考えがまとまらない/自分が出来上がってない状態の子供」などが、

それを人に相談するというのは弱点を曝け出した状態で、信頼する人が相手なら、

言葉巧みに如何様にもその考えを誘導されてしまう。

疑問や悩みに答えをつけてくれる人というのは、まあ...しばしば従わせようとする人…

向こうから寄ってきたら、何かしら自分に利益があるからである(「お役に立ちたい、

お役に立てると嬉しい」もあるだろうが、それも大抵臭教団体の人に多く、勧誘のきっかけづくりである。仲良くなって徐々に引き込もうとする)

 

もう少し大人になって(斜に構えて)「色々な人の意見を聞いて…」といっても、

実は自分が求めている/言って欲しい事を言ってくれる人に親しみを覚え、

それを正しいと判断して(したって事にして)選択してるだけ、って事も少なくないはずである。(もっとも、それもまた過去生からの因縁あって惹かれるのだと思うが)

 

 

                ・・・

 

 

わからないと悩む事、それに無理に答えを見出そうと思う事、それ自体が無防備で、

魔の付け入る隙となる。

それに対し、わからない状態をそのまま受け入れられるという事、携えていられるという事は強さ/自信である。(プラスとマイナス両方あるという事、自分の中のマイナスを認識し、それを自分の一部であると受け入れるという事...それをもって完璧←太法図を表す言葉である)

 

 

「結局のところ、それを飲み込む事ができるかどうかは自分次第、解決できるのは

自分自身」という認識をもって、わからない事はそのまま携え、わからない事をわかった気になろうともせず、頭の隅に置いて、自分の課題として常に/事あるごとに考えている方が

良いのではないだろうか。

 

 

Ya-i-Noヤイノ言うのではなく、内(A/ア)なる成熟につとめ…

「内(A/ア) ”平” らかに、外(YA/ヤ) "成 " る」ではないだろうか。

 

 

 

そしてそれもまた、大聖が仰る

「わしこんなんですけどどうでしょ?わしじゃだめですか?と思ってたら五音が下された」

「自分の事やっとりゃええ」「努力(女の又の力)は必要ない」に通じる事だとも思う。