目次  <隠された至言>

    <仏教の経緯>

    <末法時の様子>

    <提案+α>       文字数比/1:4:8:5 位

 

    <補足、ついで>   

 

          ●●●●●

 

<隠された至言>

 

「正法は人の象に似たり」と訳される「Sad Dharma prati Rupaka」という梵語の句

が残っている事は、仏教学者やまともな僧侶であれば知っているはずの事、だそうである。

(そこの宗派の教義やその教え方、人生相談の問答事例なども教わるであろう住職の資格を取るための養成コースみたいなのでは教えないのだろうけれど?)

それが信ぴょう性のある文献であり、かつ大衆に知られると困る内容だからこそ

「人目につかないようにした」という事ではないだろうか。

 

また「写経とは、経または経文の筆写(経と経文を明確に別なものとしている)」も

「像法時には證果なし」「證果とは修行の結果得られる果報、すなわち成仏をいう」も、

模範仏教辞典(大文館書店より昭和7年初版、昭和60年21版発行)に書かれている。

(大聖がご講義の時にご用意下さった資料が手元にある)

辞典に載っているこれらも、何らかの文献をもとに書かれているはずである。

小品般若心経という経文の中には「菩薩は般若波羅蜜多を文字で書き写さず」ともあるそうである。

仏教の経典の話ではないが「示は日月星の三垂と伝わっている」という文献もある、と

神 聖 図 形(大神経普伝会刊行)に書かれている。

 

大聖は「漢訳般若心経には”図”の一文字がない」釈尊の教えが「図/太法図」を説いている、という事が隠されてしまった」と

「pra-jna-paramita」は「完成された智図/完璧な智図」である

(”智慧”の完成などではない)と説かれている。

“図”の一文字を取り除いた結果、ただ「般若波羅蜜多」「法」という、

「なんだか大切なもの」「ポワンとした掴みどころのない概念」的な話、

転じて一般世間法/処世のノウハウを教える話(世間で「法話」と称して語られるものは大抵それらではないのか)として伝わる事となっているのではないだろうか。

大聖はそこにあるべき”図”の一文字と、その「図」を示してお説きになっている。

 

世に残る漢訳般若心経だけを眺めても「色はすなわち空なり」などとあまりに珍紛漢紛で

「図か何かがそこにあって、それをを説明している文章なのではないか?」程度に

推測した人もあるのではないだろうか。

また、日本には「一円を笑うものは一円になく(ちっぽけなものだからと蔑ろにすると痛い目に合う、の意)」というが、この言葉が、通貨が円になってから言われるようになったとは考えにくい

 

 

<仏教の経緯>

 

インドに釈尊がにあられたのは大体紀元前4世紀以前とされる(日本では弥生時代か縄文時代である)

そこから1000年間程の時代に、文字や図を書き残す事がどの程度可能であったか、

また、口頭での伝承の様子はどんな風かと想像してみる。

 

まず伝える”人”が介するという事。正しく伝えたか。

良くも悪くも、その人の理解によって、異なった伝わり方をする。

説明の仕方/言葉/トピックが違うだけで「大元オオモト」が正しく伝わるならよいが、

人はその「説明に用いる言葉」が違うと戸惑う。(時にそれだけで分派を起こす)

 

また、いつの時代もどこの国でも、既存の「宗教/思想/価値観」によって嫌われるであろう。

更に、シュウキョウはしばしば権力によって「人を集め束ねる勢力権拡大のための旗印」

時に「入植の手段」としても用いられてきた。(それはスローガン的にキャッチーならそれでよく内容の是非は重要ではないらしい)

それを目的として、都合よく捻じ曲げられ、真実は隠される。

そして「ある国家に宗教が正式に伝来する」という時は、誰か個人ひとりの信仰心によってもたらされるのではなく何らかの権力の意向によるのだろうし、逆に「外国に宗教を学びに行く」というのも個人の力でできる事でもなく、これも権力の支援を受けている…

そういうものだったのではないだろうか。

 

小さい単位の人と人の関わりにおいてはマウントの道具にもなるし、更には「正しい事を言う」とそれだけで嫌われる事も少なくない。事によっては殺される(『正しい事を言えば好かれると思ってなはらぬ』と大聖版ダルマパダにも書かれている)

それとも、それは現代の心の汚れた人の話で、仏教が栄えた古代にはそんな事はなかっただろうか。

 

そんな中、どの程度広い範囲の人々に 正しく 伝えられていただろうか。

 

            ▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎

 

現在、日本でブッキョウとして多くの宗派に分かれているそれらの多くは

中国経由で(その後さらに朝鮮などを経由し?)もたらされたもの…

日本に入ってきた時点(いわゆる仏教伝来/公伝は6世紀前半)で既に釈尊が説かれた

「太言霊と太法図」は失われ、入ってきていない可能性は大いにある、と私は思う。

(入ってきていたとしても、極々秘伝でこっそり伝えられたものかもしれない)

開かれた時から、釈尊が説かれた「太言霊と太法図」を説いていないのは、現代においていわゆる新興宗教とされる所だけでないのではないだろうか。

 

ではその「由緒正しい伝統ブッキョウ」とされる数々の宗派が中国で最初に開かれた時点ではどうだったか?(wikiによると大体6世紀以降)

現在広く流通している漢訳の般若心経(多くの宗派で読まれ、仏教の真髄とも言われる)は、インドで学んだ中国の玄奘という僧(玄奘の弟子が法相宗を開いた)が中国で漢訳したもの…

玄奘の生きた7世紀は釈尊入滅後約1000年。

大聖は「正法時・像法時・末法時の三時の節からすれば、インドは像法時も末期である」と書かれている。

 

まず、そもそも玄奘が学んだというインドのナーランダ寺では、

正法「太言霊と太法図」が説かれていたのか?教えて貰えたのか?

玄奘は、太法図を示しながら、その説明として般若心経をよまれたのか?

漢訳する前の原文/梵文に「法図」を表す言葉があったのか否か、

玄奘が漢訳般若心経を編纂(?)した時点ではそこに「図」という漢字はあったのか?

漢訳した時点で既に「図」という文字がなかった場合、「法図」と訳すべきところを、ただ「法」としてしまった誤訳なのか、或いは意図的に消したのか、いつ誰が消したのか。

 

或いは、玄奘がインドに仏教を学びに行く以前から既に中国にあったブッキョウはどうだっただろうか?

wikiによるとインドから中国に仏教がもたらされたとされるのが1世紀頃。

その時点でも、釈尊入滅から既に約500年が経過している。

その奥義は伝わっていただろうか?

 

大聖のホームページに「インドの僧/逹磨大師は、ニセモノの仏教を広めている中国に、

釈尊の本物の教えを弘めようと中国に来られた」と、書かれている。

(520年に中国に来られて528年に暗殺されたと書かれているから、その後もニセモノが蔓延る時代が続いたという事…

そんな中で「今中国で流行っているそれは偽物な気がする、本家へ行って本物を求めよう」と思った玄奘などがインドに学びに行ったのか?時の反体制派の支援を受けたのか?

でも般若心経を持ち帰っても殺されずに歓待されたなら、時の勢力にとって不都合な事はしなかった、書かなかったからなのではないか)

 

玄奘訳の般若心経に限らず、種々の経文が編纂(?)され、仏像がつくられた時代…

釈尊が太法図を示しながら「三体を正置した驚嘆すべきスートラは黄金に輝き、

色と空が一体で…」と説かれたその言葉だけを太法図から切り離し、経文だけを

(薬は与えず、その説明書/効能書きだけを)もって「大切な法」「教え」「教義」とし、

仏像を作り「本尊」とし=像法時←現在日本で行われている由緒あるブッキョウとされるものが日本に入ってくる前、本家中国で宗派が起こった頃がこれではないだろうか。

日本のいわゆるブッキョウは当時のそれら/中国で行われていたブッキョウを手本としてきたという事ではないだろうか。

 

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日本では「仏教公伝以前にも私伝として伝わっていた」とwikiにある。

大聖からも「私伝というのがある」と伺ったことがある。

また、大聖は「弘法大師は天津法図の太法図を修されて、その確証のために中国へ渡られた」「弘法大師が唱えておられた心経は梵語原典で あ っ た 」と書かれている。

ニセモノの公伝より先に、私伝として日本に伝わっていたホンモノの仏教で太法図を学ばれたという事だろうか。(或いは日本に古来からあった神道の筋で…天皇だけが秘め伝えてきたとされるが、どこかから漏れてそちらで学ばれた方もあっただろうか?)

いずれにせよ、日本で太法図を得ていた誰かが「世間を賑わすブッキョウなるもの、

太法図が欠落した説明書だけを扱う偽物とみえるが、その本家中国には太法図があるのか?」と考え…政権筋か皇室筋かの指示で偵察に行った部隊、なんていうのもあるかもしれない(弘法大師は遣唐使として中国へ渡っている)

 

大聖は「日本には”梵文”の般若心経が残っているが、中国にはどういう訳か残っていないとされる。不思議な事である」と書かれている。

まずい事があって(大衆には見せず、こっそりとっておく事もせず)処分したのか?火災等で紛失したのか?現存しないって事にしてるだけなのか?

話が逸れるが、大聖が「太法図から作られた大切な漢字の説明」をなさっているが、それらの漢字が作られたのは、釈尊の説かれた太法図が中国に伝わったかもしれない時代よりも前じゃん?って気がするので「その漢字が作られた時、その場所には、それ以前にどこの筋からか伝わった太法図があったという事になるな」と思う。

 

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こうやって2500年の経緯を考えた時、貴方が信じてきたシュウキョウ/宗派が、いつの時代に起きたものかとか、釈尊から数えて何代目の弟子が教祖であるとか…それによって何か変わるだろうか。大差あるだろうか。宗派の開祖が太法図を得ていたからといって、

開祖が太法図を得ていない所を笑えるだろうか。(何故そこを問題にしたがるのか)

大衆の目が届かないように隠されてきた釈尊の金言と合わせて見た時

それでもなお、貴方がこれまで信じてきた事、シュウキョウで教わった事について、或いはその他この世で見聞/学んだ事について「じゃあこれは?」などという言葉が出るだろうか。

自分が信じてきたものが間違っていたと思いたくなくて、せめて

「全部間違ってたわけじゃない、一部は正しかった」と思いたいのではないか?

否定されたのが悔しくて、一矢報いたいのではないか?

わかりたいのではなく、わかりたくないのではないか?

一生懸命学んだ自分を、学んだ事を褒めてもらい/認めてもらいたいのではないか?

(存続を請願する背後の何某の足掻きを代弁しているのではないか。その末にやり始める事は「暴言/誹り」という投石行為である)

 

 

<末法時の様子>

 

学者は、仏教の真髄を求めて古い資料を集めたりして「わかろう」とするのだから

「未だ、釈尊がお説きになった真実がわからない/

Sad Dharma prati Rupakaの人の象に似たものが何なのかわからない」と言っていれば、

そして(調査状況、過程を公表して資金を調達し)分かった事を皆に教えてくれる先生…それならいいけれど、

・「いつまでたってもわからない」じゃカッコつかないからか

・結果を出さないと研究予算がつかないからか

・或いは大嘘をついて金儲けしている臭教団体に対する忖度か

・研究資金出してるのが臭教団体なのか

・臭教団体と結託してるのか

→権威ある学者として嘘を広める事となっているが、聞く方も、本人が「私はこう思う」と言ってるのと、証拠を揃えてでた結論と混同して(なんとなく話の雰囲気だけを?)聞いているから悪いのではないか?(そこに考えが及ばないように騙されているという側面もある)

 

もとは「仏教とは何か、釈尊が説いた真実」を求めるはずの学問で、

そのために例えば伝達のルートだとか、僧の出生からの足取りだとかを調べ始めた

←それは釈尊が説いた真実を知るに至る事を目的とした手段だったはずなのに、

いつの間にかその手段が目的化/絶対化されているのではないか。

1000年も2000年も(どこからか資金/支援を受けて?)調査し、皆で頭を寄せ合って考えても「釈尊が説いた”人の象に似たもの”が何だったのか」の答えが出せなかったが故に

諦めてそうなったという側面があるのかもしれないが、結果的にであるとはいえ、

それらの「変遷の歴史の研究」が目的となれば本末転倒。枝葉末節を主としたもはや

別な学門である。

(「道なくば徳の積みようなし」同様「学ぶというのは太法図を得た後それを学ぶ、の意味である」と教わった記憶があるので、学ぶという表現を使わずに書いてみた)

 

大聖は、学者を「ひけらかし屋」と仰る。

『枝葉は繁り繁って根幹を隠す、その繁った葉を見て学の発展と称して自讃するはひけらかしなり』と。

「宗教/仏教/釈尊がお説きになった、人の象に似た法図」とは何かがわからない者が

「釈尊の教えを知りたい」と願う大衆に

自分が「わかってない人だ」という事を気づかれないように、

人々の関心事/目をその枝葉にに向け、それこそが重要な学問であるかのように示し振る舞っていると。

 

そしてそんな学者達を「立派な学者/先生/手本」とする末の方のブッキョウ徒は、

例えば(流石に例えが陳腐すぎるかもしれないが)

「いや、ナーランダ寺ではなく、あれは僧院だ」だの

「般若心経にも旧約があって...」だのと

「それらを研究する事が目的/大事な事、それが仏教学、それを

よく知っているのがよく学んだ人/立派な人」という事になっているのではないだろうか。

だから、それを示そうとキバってひけらかす。

 

中には「信仰している”感じ”/難解な本を読んで勉強している”感じ”の自分に酔っている」

ような人もいるだろう。

大聖はそれを「敬虔ぶりっ子ちゃん」と仰る。

少々意地悪く(厳しく)響くかもしれないが、その通りだと思う。

そして「それを頑張った人/それを上手くやる人」は、その価値観を流布する人達により褒められ、その組織での階級を与えられ、オトモダチを連れてくるとステータスが上がったり、金銭的利益にもつながるのだろう。

 

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もう少し具体的な様子をのぞいてみると・・・

例えば色即是空。

太言霊と太法図の説明をして頂いたら、あとは

「般若心経にある色即是空という言葉は、太言霊と太法図の事で…」と言われればそれだけで、一瞬で(一目で)わかる。

 

でも「太言霊と太法図」が失われてしまい、言葉だけが残った末法時の世間では

「色は即ち空である」

「物質的現象には実態がない。実態がないからこそ物質的現象でありうるのである」

←意味不明←が名訳という事になっているそうである。

世界中の学者/人々が、数百年、数千年、人生をかけて考え、探究しても答えが見つからなかった。

で、どうなるかというと

「人それぞれ思い思いの解釈をすれば良い、違って良い。★で共通

著名な学者の訳も一つの例にすぎず、皆も思い思いに想像したらいい」と。

絵画や詩を鑑賞するが如く「色は即ち空かぁ、わぁ、どーゆー意味だろー」と

思いを巡らせる事、それが宗教/仏教だと!信仰だと!

(「空と…地平が接する所って綺麗だから、その事かもしれない♪」とか…

それが仏陀/釈尊/聖人がお説きになる事だと本当に思うか)

 

「釈尊はどういう意味でおっしゃったのだろう?」とその真意を真実を知ろうとするなら

良いけれど、人間は「知ろうとする事/考える事」をやめ/あきらめ、

「わからないから、人それぞれ想像すれば良い事にしよう。幻想を膨らませばいいじゃん!」と好き勝手を言っている。

 

  それを「信仰」とは言わない。

釈尊に対して不敬だと思わないか。

『日本に世界に仏教は行われていない(いなかった)』その通りではないか。

 

(例えば「Aさんがどう考えているか」について、周囲が「きっとこう考えているのではないか」と想像する事は百様でも、当のAさんが考えている事、その事実、答えは一つである。周囲が「その答えがわからない」のであって、答え/事実/真実がないのではない。

そして、本人がどう考えているか知ろうとする事は当然あるべき敬意ではないか)

 

そして「芸術作品同様、世に出せば人それぞれ違った受け止め方をされる、そういうものだ」「憲法と同様、時代によって解釈を変えるべきだ」

「キョウギというもの戦時中など時代と共に変わる、そういうものだ」と始める。

 

「それぞれ好きな解釈をしていい」と言われそれが楽しかったのに、それではダメだと言われるのが嫌なだけであろう。(それは「人生色々、人それぞれの目的を見出し、

その為に生きる」という事になっていたのに「人は正法の見聞受持と弘伝のために生きる

そして死ぬとその太言霊と太法図を大切にしたかどうかの一点により裁かれる、この世の

価値観により得た評価は役に立たない」と言われるのが嫌、につながるはずである)

 

「信仰」というのは、まず信じるものがあってこそであり、

釈尊/仏教の教えがわからないものに信仰はない/仏教徒ではない。

  『教えは学ばねばならず、道は行ずるものなり』

  『道なくば徳の積みようなし』

 

釈尊が説かれた太言霊と太法図がわからなくなったこの世において、

仏教を行う事は不可能であり、行われてこなかった/今まであなた方が思っていた

「ブッキョウ」「シンコウ」はそれとは違う別なものだった、という事である。

「釈尊の/仏教のイメージに恋してる/惹かれ憧れている」が妥当ではないか?

(信仰の前段階でしかない)

 

後半「現代のシュウキョウのイメージ」

 

 

或いはまた、例えば写経。

「写経とは経または経文の筆写」「菩薩は経文の写経をしない」という言葉が残っている事を内緒にして

←そんな事言えば「この経文ではない経とは何ですか?この経文の筆写で彼岸に行けるのですか」と始まって困るので、その至言が存在する事を内緒にして

「経文を書き写す事が尊い、功徳になる」と煙に巻いて、何言ってるかわからない無図かしい経文を聞き取りにくく読経して、ゴォーンと大音量で鐘を鳴らして、人々の思考力を止め…(←洗脳の手法。別のシュウキョウもそんな事してるねえ)

 

絵を描くその「時間」を楽しむのと同様、書道もいつもと違う脳を使って、頭が休まる感じがしたり、作品をつくる愉しみがあったり…そりゃあやりたい人が趣味としてやったらいい。

でも、その書くものが経文だと「写経をする会←彼岸に行けると謳っているが嘘」として、その会費は宗教法人が故に非課税はダメだろ。

「宗教である/彼岸に行ける」と謳わなきゃいいかって?ただの習字/書道の会なのに非課税はダメだろ。

普通の法人として税金払えばいいかって?仏教を看板にし「それが彼岸へ渡れる手段」と人を騙して金取ったらダメだろ。羊頭狗肉である。

 

(別な視点から見れば「売りやすいシュウキョウという商品、手に取る物質がないから濡れ手に粟。シェアを広げ顧客を増やすために外国へ進出。実態は本人が死ぬまで嘘がバレない詐欺」ってだけではないか)

 

          ▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎

 

そこに聖人が現れると何を言い出すかというと、

「これまで同様、宗派によって握りしめる経典が違うように、あそこは図を教義だと言っている、ってだけだ」

「お告げがあったという人は沢山いる、最新のお告げと自称する人だ」と(補足1

世にある数々のシュウキョウと同じ、いわゆる新興宗教の扱いをしようとする。

「太言霊と太法図を否定したい」or

「太言霊と太法図だけが特別な訳ではない、経文と「太言霊と太法図」は一種の並列」

と思いたいのである。

「これは知らないんじゃないか?万教帰一なんて言ってるけど…これは説明できないんじゃないか」と「ひけらかし専攻」が気張る。

 

そして「本物かどうか、我こそが見定めてやろう」と。

 

無理もないかもしれない。それでいいのかもしれない。

むしろ健全で、変な臭教に引っかからないためにも必要な事かもしれない。

 

でも忘れてはならない。

その検証に必要な、現在この世に残るシュウキョウが偽物であると知れるに至る証拠は、

大衆の目が届かないように隠されている(あなたが持っているのは寸足らずの曲がり尺)

 

 

たとえ「無理のない事、それが健全」だとしても、その言動にはお気をつけになられよ。

それが本物だったら、失礼な言動は「知らなかったからでは済まない」

  『まちがった見解にもとづいて、正法(人の象に似たり)に依拠して生きる人々を、

   罵り謗りたるものは、報いを受ける』

 

          ・・・・・

 

次にどうくるかといえば

「その図はホンモノで釈尊が説いたものらしい…それなら

同じ経文も宗派によって解釈が違うように、皆それぞれの解釈でいいじゃないか」★で共通

「俺だってもっといい解釈ができる」

「皆で仲良く共同利用するべきだ。万教帰一って、そーゆー事だろ」

(「占有権を持ち回り」なんて気狂いまでいた。「議長国持ち回り」を手本にした屁理屈らしい)

 

これまで世の中で謳われたバンキョウキイツは「ウチもソチラも偽物、だからそこを指摘なんてせず、適宜擁護し合って、うまく共存しましょう」である。

「バンキョウキイツ、皆同じ、うちもそちらも同じ」と

大聖の仰る事を「一つの解釈の例」として扱い(引きづりおろし)自分とこの宗派を並列としたい、それが彼らのバンキョウキイツである。

 

彼らがそれら言葉で「内心主張したい思い/その人を操る背後の存在の意図」は

要するに「存続請願」「お取立て願い」である。

「これも太法図の名残/そこから派生されたものかな」と思うもの(例えば…手印の組み方/人を葬る作法/自然界の物質の結晶の形、等々)について、或いは自分の宗派の教義/解釈について

大聖から「そこの部分は正しい」の一言を引き出し(子分を送り込むなどして聞いてきて欲しい)正当化したいのも同様である。

 

「バンキョウキイツという言葉を用い」狙っている事は、

「太言霊と太法図」「大聖の御本に書いてある言葉」をもって自分達の教義/経典を

正当化し「仏頭狗肉の商売/金儲け」に都合よく利用したいだけではないか。★で共通

他のシュウキョウと差別化し上に出よう、それに利用しよう、としているだけではないか。

(大聖をbrother呼ばわりする取り巻き、或いは黙殺を決め込む何某も目にうかぶ)

 

大聖は『いかなる宗派とも組みしない。ただ真法(神法)を求める者に組みする』と

書かれている。

それを知っている背後の何某が、その言葉を突破して入り込み「組みしても貰おう」と

それを知らない下っ端を焚きつけ、突かせているのである。(「我こそが」という思いに魔は付け入り機動部隊として利用する。終戦間近の下級将校みたいだ)

(「教えは上から下に垂れ下されるものであるという事🔁そうあるべき事なのだな」という事とも、頭の隅で少し関連づく。上下は、内の回転からヌゥッと垂れ下される事によって自ずと生じるものではないだろうか)

 

 

諸のホンモノの宗教はこの「太言霊と太法図」「根本原理」であり

それは最高神宝。

そこから派生された万物/それに対して人々が思う事は多様でも

「根本原理」は一つである。

諸の本物の聖人がお説きになるのは「太言霊と太法図」「根本原理」の解説

「それが何であるか」であり(方便は違っても)答えは1つ。多様ではない。

仏教だけの話ではない。補足1の写真

 

               ・・・・・

 

そして切り札的お得意の文句は「いいものはいい」。

「関連企業や支援事業で良い事やってる」とアピールし、連携を進める←下っ端を利用したバンキョウキイツ工作/万教帰一ゴッコである。

全く関係ない話(という認識がないのかもしれないが)を同じ土俵に乗せて話したがる、

その理由…

その仮面の下の実態/目的は「出てしまった真実(太言霊と太法図)を抱え込み操る/利用する。秘密裏に、今まで同様なかった事にする」ではないか。★で共通

手法は「天照大御神を引っ張り出そうとチンドンやった」のと同類。

大聖の秘蔵っ子/懐刀を自分達の方に取り込みたいのではないか。

 

末端の派生事業をを入り口に「大聖にお取り立て頂く」といえば聞こえ  は  マシだが

「俺達がいなかったら困るだろ、あの企業もこの企業も俺達が支配してる、芸術分野の権威者もいるぞ、取り立ててやってもいいぞ、教えてもらいたくないのか」を含んではいないか。

資材も人材も全て残してor全部持って、他国へでも移られるか?

 

          ▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎

 

「太言霊と太法図」に帰依する人/学ぼうとする人達

「疑念を持たせて正法から離れさせよう、内部崩壊させようとする勢力/その回し者」と

対峙するだろう。

理論武装しなければならない。補足3

それには多くの知識~派生の末のカスの詳細などを知る必要はないはずである。

大聖は「わずかな知識でもその質が良質であれば、数千巻の読書から得られた雑識の山に

勝る」と書かれている。

 

相手を説き伏せる必要もない(わかりたいのではなく、わかりたくない人の相手をしてやる必要もない)

釈尊が説かれた法図の誤訳の説明書や、それどころか法図の説明をしていない

仏頭狗肉の臭教団体へのフィッシング文書や、そこの詐欺文書を握りしめ

「ここにこう書いてある、万教帰一なら説明しろ」

「できないの?できるならやって見なさいよ」という輩の相手をしてやる必要があろうものか。

 

  『正法を授ける人と授かった人を害せんとする者あらば、神仏が下す罰は

   害せんとするものに下る。天に唾せばその唾がオノレの顔にかかるように』

  『神の宝をを犬(ご用学者)に与えるなかれ。貴方を攻撃してくるだろう

     真珠を豚(ニセ宗教家)に投げてやるな。ただ足で踏み躙るだけである』

   (マタイによる福音書の大聖訳)

 

対外的である必要もない。自分の心を守ればいい。補足3

  『激流にも流される事のない島を作れ。その島を「正法/人の象に似たり」という』

 

          ・・・・・

 

「識大が本体。太言霊と太法図の学びをするためにこの身は授けられた」

それは「この世にあるもの/営みは、太言霊と太法図が諸の聖人仏陀が説かれたものであり、万物の源/根本原理であると確信/信解に至るためにある」という事である。

大聖は『この世は修行道場』と書かれている。

世間も、反対勢力も、正法の学びのために用意された「自分を磨くための砥石」である。

だから「大聖に、この世の営み、或いはに人々が研究している科学技術などの役にたつ事を求める」というのは(この世のしがらみに巻き込んではいけないという側面もあるが)

変というか、本末転倒というか…間違いである。だから失礼なのである。

 

「雑識は肥やし。太言霊と太法図の教えを受けた者にとっては、信解に至るための肥料となるが、肥やしだけでは臭いだけ」と教わった。(雑識という妾想/迷妾を取り除かない限り、正法は人の象に似たりの教えは受け難い」「田畑は雑草によって害われる。人は雑識によって損なわれる」とも説かれる)

「これも太法図の名残/そこから派生されたものかな」と思う物も

「太法図は万物の源。だから太法図で説明がつくんだ、世にあるものは全て

太法図から派生されてるんだ」と確信を揺らぎないものにするための肥やしである。

それらは正法に興味を持つきっかけにもなり、正法を説く時の役に立つはずである。補足3

 

「経と経文」

「薬と説明書」を混同してはいけない。本末転倒してはいけない

 

 

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 <提案+α>

 

いわゆる騙されてきた一般の方々

 

一度「あなたが信じてきたシュウキョウは偽物と言われた」という事は頭の隅に置いておいて、まずは「聖人が御出現になり、根本原理だという図を説かれている」という事から考えてみてはいかがか。

そして「諸の、ホンモノの聖人・仏陀が説いたものは、皆、同じく

その”図”=根本原理/万物の源であった」と説かれている、と。

 

 

 

 

仏教だけの話ではない。

古今東西、諸のホンモノの聖人・仏陀はこの

「太言霊と太法図」を説くためにご出現なされたと説かれている。

 

袈裟をつけた方々も、本部の動向を注視しつつ、上司には内緒で

大聖のご著書を読んで学ばれたらいかがか。

 

 

世界では密かに、国家主導で大聖の御本の翻訳に取り組んでいる所も、あるのではないだろうか。

(大聖が御成道された後「誰か人間は落ちておらんかのう」とひっそり御本を出されていた頃とは違う。インターネットにより教えは広まり、世界の多くの有名人に知られる超有名人、いや超有名人の中の超々有名人である。目に見えない力によって守られているとはいえ、この世でも国家元首以上の警護がされている事だろう)

科学技術あたりの学者さん達にとっても興味深い事も多いのではないかと思うが、日本語堪能な理科専門家ってもの多くはないだろうし、シュウキョウ畑では隠そうとするか、否定しようと気張るばかり…?

国としても、他所から入ってくる宗教というのは厄介なものなのだろうが根本原理ですもの。

数千年の時を経て聖人が御出現しちゃったんですもの。世界は大転換機に入っちゃったんですもの。

この世の損得勘定だけで考えても、まずは識って学ばなければ、って事になるのではないだろうか。

その御本が、日本語がわかる人なら、大衆でも自分で読む事が叶う。

 

その太言霊と太法図が一般に開示されたという事の凄さ、いかに大変な一大事かというのは、私達の想像が及ばない程の”一大事”なのではないだろうか。

大聖は「太言霊と太法図を世に出すという事は命懸けなのだ。だから

気安く太法図を教えて下さい、などというものではないのだ。それは私のために

死ぬ覚悟をして下さい、という事なのだ」と書かれている。

 

        ・・・・・

 

また、本を読む事に著しい困難がある方々。

そういう人は教わらなくても太法図をみただけで、例えば天文物理学の専門家ならブラックホールや宇宙の始まりが解明できちゃったり、これが相対性理論だとわかっちゃったりするかもしれない。そんな感性を損なわないように、貴方には本を読む力が与えられなかったのかもしれない。

そして、一生懸命大聖のご著書を読んで学ぶ人を見て、内心

「他の皆は、読まないと/教わらないとわからない人達だ、オキノドク-」と思っていても結構。

 

でもそんな自分をスタンダード化すべく「大聖のご著書を読まなくたっていい」

「人それぞれ、図を見て思いたい様に思えばいいんだ」と、自分同様、

大聖のご著書を読まない人を増やそうとするのはやめてもらおう。

その言葉は「正しく伝えよ」の厳命を否定している。★で共通

  『教えは学ばねばならず、道は行ずるものなり』

  『道なくば徳の積みようなし』

(「大聖の御本をより沢山読んだ方が優という事もないだろう」というのは、全ての人において「読まない方が好ましい」を意味しない)

 

神が自らに似せて/神の宝である太法図に似せて(大切な、大好きを通り越した

”宝物”だからこそ、それに似せて)人間を作られたように…

それを学んだ人間が太法図に敬意をこめて、或いは教えて頂いた事に感謝して「それを設計図として家を建てたらいいのではないか?」「なるほど人間の体は法図の通りになっている」「相手の分を犯す事なく正接一体…人間関係もそうするのがいいな」と帰依して生きるのと、切り刻んで好き勝手な事言うのとは違う。(「学ぶというのは太法図を得た後、それを学ぶ事」と教わった記憶がある)

 

少なくともその主張/言葉は「子分が大聖のご著書を読んで太言霊と太法図の学びをし、

わかった人になる事を阻止したい/自分の側の勢力から離れるのを阻止したい」

「大聖がお説きになる事を”自分が思うのと並列な解釈扱い”したい」悪ボスと同じ。

わからないが故にわかろうとするのをやめてしまった学者達とも共通点はあるし

正法時から末法時に向かう変遷の過程、釈尊の大金言が大衆の目から隠され、その衰退の始まった時、そのものではないか。★で共通

 

そしてご自分の周りを見回してみられよ。正法を否定したい勢力の人に

「そうだそれでいい、人それぞれ思いたい様に思えばいい」と乗せられていないか?

(その人はパルパティーン議長として貴方を支配し、オビワンと貴方を仲違いさせようとするシスの暗黒卿ではないか?そういう勢力の工作員/代弁者として利用されてはいないか?)

 

最高神は ア ヤ ナ ワ ン の五音しか発しないご存在。

聖人はそれを聞いただけで全てがわからないといけないそうである。

聖人も同様に、黙っていて済むならその方が良いはずである。

でも「人間はそれではわからないから、種々の方便を用いるのだ」と書かれている。

あれ程沢山の説明書を書いてくださっている事をなんと心得るか。

 

聖人がお出ましくださり、世の中はついに正法時に入り、

人々は太言霊と太法図の学びをする事が叶う日を迎えた。

それは、数千年もの間、太法図を目にする事さえ叶わず六道迷幽苦界に沈んだ数多の先祖代々の悲願である。(映画タイタニックでローズを板に乗せ海に沈んでいったジャックの無限倍である)子供に立派な教育を受けさせたいと必死に働いた両親の無限倍である。

今こうして正法に出会えた私達を支える為だけに生きた様な人達の悲願である。

そしてまた、私達自身の、過去の輪廻を経た悲願である。

邪魔はしないでもらおう。

 

 『目あるものよ、見よ/耳ある者よ聞け/手有る者よ受持せよ/足あるものよ往て伝えよ』

釈尊の時代とは違う現代なら、大聖のご著書を読む事もこれらに当てはめても良いのではないか。

 

        ・・・・・

 

外国語話者で日本語が読めないのであれば、誰かに翻訳してもらったらどうか。

大聖のご著書でなくとも、ホームページでもいい。

それによって、そのお友達もそれを読み、太法図を目にする事になる。

正法の話をするきっかけになるではないか。

世界の中には日本より宗教の話をするのがタブーではない国/風土もあるのではないか?

(とはいえ太言霊と太法図の教えはどのシュウキョウにとってもだいぶショッキングだから、やっぱりこっそりか)

 

          ▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎

 

いわゆるシュウキョウ屋の方々

中間管理職的な方々(国内責任者あたりも)

 

現代では兼業住職というのも多いようだし、後継が減れば農業等と同様、国などが保護しなければ(教義の中身がアレだし)廃れていくのだろうけれど、1000年以上もの間

私達の先祖から「法事だ、お塔婆だ、戒名は文字数によって値段が違う」だのと巻き上げた金はどうされたか。他国へ流したか、着服したか、使っちゃってもうありませんで済ませるのか。

私達の先祖は皆「死んだ後良い所に行ける」と言われたのを信じて

或いは子や孫がこの世で営みをするのを助けて貰える様にと、必死に払ったお金…

更には会費等と称してとった所場代が(「死んだら彼岸へ渡れる」と嘘をついて騙し取った金が)なぜか非課税?(オレオレ詐欺の受け子が詐欺とは知らなかった言っても

それで彼岸へ渡れると信じていたとしても罪、子供だとしても捕まるのと同じ)

国際詐欺グループが可愛く思える程の悪の大玉ではないか(詐欺グループを呼び込み、

ベンチャー臭教をサポートし発展を促す事を目的とした税法/国家システムみたいな宗教法人法って何だよ、と思い調べたらはwikiによると昭和26年にできたらしい)

 

概ねビジネス協力連合なんだから、なんとかして1000年にわたって積もり積もった被害者の子孫(対象は全国民/全会員。1000年も遡ればだいぶ重複するんだから)に還元したらいかがか

 

          ▪︎▪︎▪︎▪︎▪︎

 

各宗派の、ごく中枢の(ほぼ輸出元)の方々

更にその元締め的な所の方々

 

大聖は、御成道後ずっと説かれてきた事が正しい事を裏付ける梵文

「prajna-paramita, prati varnika/摩訶般若波羅蜜多は人の象に似たり」

「仏陀とはtri -skandaha-patha-desika/三蘊道の開示宣説者をいう」という文献を

御成道から10年程経ってから見る事ができた、と書かれているが、出典は書かれていないので、公に刊行されている書物ではなく、どこかに秘められていた文献がもたらされた、という事かもしれない。

 

大聖は、大聖がお説きになられる太言霊と太法図がホンモノであると、認識されるに足りる証拠がこの世に残っている間に、全く失われてしまう前に、ご出現されているはずである。

一般の人が知るはずのない、まさに聖人でなければ解き得ない事を

倭成大聖が説かれていると、それを裏付ける文献などあるのではないだろうか。

(それこそ、どこぞの国家元首クラスでも教えてもらえない程、ごく中枢にだけ伝わっていたものなのではないだろうか)

 

それを倭成大聖に献上なされたらいかがか。

「今まで言ってきた事は全部ウソで、それによって彼岸へ渡ったものはいない、

日本に本物の仏陀が現れて、わからなくなって久しかった釈尊の教えをお説き下さって

いるから、そちらから教わってくれ、と公表しろ」とは仰らないだろうから。

だからと言って「黙殺して知らんふり」では済まないでしょう。

 

「倭成大聖が開示宣説なされた太言霊と太法図が、釈尊がお説きになったものであると

裏付ける、証拠となる資料を伝え持っております」

と畏み、献上されたらいかがか。

きっとおよろこびになられる。

 

   万教は帰一する

 

仏教に限った事ではない。

諸の本物の聖人/仏陀は、皆同じく、この太言霊と太法図をお説きになった、

そのためにご出現なされたのだ、とお説きになっている。

それらのどれもが、大体同じような経緯を辿ってきているはずである。

 

「太言霊と太法図は人間の思考の延長線上にあるものではない。一度失われてしまったら、もう人間にはどうする事もできない、できる は ず が な い のだ。

聖人でなければ太法図を顕す事はできない、だから聖人は出現するのだ」と仰っている。

大聖は「太言霊と太法図」のこの世における扱い/占有権を委ねられたお方である。

大聖は「日本は日の本の国、宗源国なり」と説かれる。これも世界中から大ブーイングの嵐だろうと思うが、これも、それと知れる文献などがあって、各宗教の元締め的な所では認めているのではないだろうか

 

 

          ●●●●●

 

 

<補足1>

どうも勘違いしてた人が多そうなのが、太法図を大聖の「発明品」のように思っていたパターン。

違いますからね。

「太言霊と太法図は根本原理であり、大神により、聖人に授けられたもの。

だから諸のホンモノの聖人/仏陀は、皆、同じくこの太法図を説かれた」です。

大聖が全部を繋げられるような「発明品」を作り出したのでもなく、こじつけで説明しているのでもありません。

「本来の本物の経典は、全て太法図を説明したものだから、それゆえに

太法図をもって説明がつく。太法図があればその経典の意味がわかる/なければわからない」です。

 

『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』発刊当初の案内チラシ

2枚目の写真の左下、昭和天皇から、今の上皇陛下に当てられた手紙にある

「涙をのんで降伏してまでも守るべき三種の神器」が、数千年前から伝えてきた

「超アンティークな鏡と剣と勾玉←サビの塊と石っころ?」だとは考えにくい。

昭和天皇が、自らの命や皇室の行末が不透明でな中で、何とか「皇室が天照大御神から受け継いできた三種の神器とは、表向きの超アンティークな鏡と剣と勾玉←サビの塊と石っころの事ではない」と伝えようとしたのではないか、と私は思う。

 

<補足2>

大聖は、なぜただの聖人ではなく大聖人かというと、

諸の聖人の教えが等しく、太言霊と太法図の教えであると、説き明かし、

諸の聖人の教えの、成れの果ての末法時を再び正法時へと導かれたから、

それは、即ち、諸の聖人より上だからできる事、

だから大聖人とお呼びしているのです。

(多分、大聖が自らそう宣言されてる。聖人とは人がそれと認めるから聖人なのではない)

 

<補足3>

お腹の中の赤ん坊が守られて育つが如く、内に秘めるというのは、外からは手出しができない状態で...

その中で、外の音に耳をすませ、反対勢力がどんな矢を放ってくるのかを知り、それが間違った見解だと理解する力を蓄えたらいいと思う。

JAPANは「五音PANをジャプジャプ低唱するJAP」の意味で、

日本人は「何だかブツブツ五音を低唱している人」という意味だそうである。

 

 

<ついで1>

 

「わかる人とわからない人がいる、この世はそれらが一緒に暮らす場所」

「わからないという事は辛い事だから…そんな思いをさせてはいけない」

「縁ある者は正法を受け入れるのに多くの時間を要せず」

「人間は額に神の印が刻まれている。それ故に誰でも理解できる事」

「神の縁に繋がり、仏の慮いがあるから信解しうる」

 

という言葉から、私は「人間のカタチをしてはいるけれど、額に太法図(アヤボッコ)の刻まれていない人」というのもいるのかもしれないな」と思っている。

額に太法図の刻まれていない動物達が太法図を理解できないように

正法の説明を聞いても「そこに居るのに目に見えないアクリル板で仕切られた別世界にいる」かのように、さっぱりわからない人、というのがいるのではないかと…

そんな人の気持ちを想像すると…皆がワイワイ言っている所で「なんとか話を合わせねば」と努力(フェイク。女の股の力参照)して、一緒に頷いてなんとなく皆と同じ言葉を並べて…そんな気持ちを想像すると気の毒である。(だからやはり秘め伝えるべきものなのではないだろうか。それにクリクリだのシコシコだの大っぴらにするような話ではない。補足3

 

でもアヤボッコが刻まれているかどうかなんて、この世に生きる人間にはわからない事だし、わかる必要もない、むしろそんな判断をしてはいけない事。

誤った判断をするのも大変な事だけれど、それによって差別やマウントがはじまる。

わかる人もわからない人も一緒に暮らす、それがこの世であり、修行道場である。

そして、それは刻まれてないのではなく、長い輪廻の中で薄れたり汚れが厚く覆い被さり、曇ってしまっているだけかもしれない。

  『蜜を持った花(神縁仏慮の者)だけに伝えよ。

   受け入れるべき人々は多くの時間を要せず

   神縁仏慮に遠い人々は今はまだ救済の時にあらず。

   よく熟した柿は枝を少しゆすっただけで落ちるが、青い柿はたやすくは落ちない』

でも、どんなに頑張っても、逆立ちしても、どーやってもわからない(はずの/事になってる)人もいるらしい、と言う事を頭の隅に置き「無理をさせない、無理強いない、苦しませる事がないように」という姿勢でいる事は大切なのだと思う。

そして「謗る」「付き従ったフリをする」という罪を犯させないように。

「アノ正法とやらが私の大事な人の心を奪った!彼氏との間を引き裂いた!」なんて思わせないように。

間違った事を弘めさせないように。

  『正しく伝えよ

  『意識の低い者に与えてはならぬ。そのものは必ずや牙を剥いてくるであろう。

   わからないが故に

  『まちがった見解にもとづいて、正法(人の象に似たり)に依拠して生きる人々を、

   罵り謗りたるものは、報いを受ける』

 

そして

  『イノチは夫婦のものにあらず』

  『他人にとっていかに重大な事柄であろうとも、

   自分のつとめ(正法の見聞受時と弘伝)をやめてまで協力してはならぬ』

も忘れずに。

 

私達の先祖は皆、太言霊と太法図を得る事が叶うはずのない時代に生き、正法に出会える可能性のある所は遠い所で、一生懸命働き、彼岸へ渡れると騙され、それを信じ、法事だ葬式だ戒名だと金を巻き上げられ、子や孫の繁栄を願い...でも六道迷幽苦界に沈んだ。

今こうして正法の学びをする私達を支えるためだけに、私達が正法に出会える、

そのために生きたような人達である。

その祖先に、精一杯の敬意と感謝の気持ちをもって、太言霊と太法図をお供えするがごとく...

溺れ苦しむ祖先になんとか浮き輪が届きますようにと

有縁の私達を支えてくれた魂として、はやく来世へ、そして今度は正法に出会える縁の所に生まれ変わらせて貰えるように、と願うように...

(『正法を得たものの功徳は、過去七代、末七代に及ぶ』とどこかに書いてある)

 

もし、あなたの大切な人がどうしても正法を受け入れないとしたら…

今回は信解に至らずとも、せめて「有縁の者の近くにいた、それを支えてくれた者である」と閻魔様に伝わるように…

「なんだかわからないけれどお守りだからちゃんと覚えておけって言われた」と持っているだけでもと…わかる事をわかるように伝え、できる事をさせてあげないといけない。

どう言えば、どの程度なら受け付けるか、それは、その人を大切に思うあなたが一番よくわかる事のはずである。

 

 

<ついで2>

「マグ」は「まぐわう」のマグであるから、マグマといういじょう、マグマは2つあるはずだ、っていってたよー。2〜3回きいた