<前半> 反面教師1号が始めた××××

<後半> 大聖が声聞界について書かれたという事

<ついで>

                         文字数比8:2:1

 

                ■■■■■

 

 

 

<前半> 反面教師1号が始めた××××

 

 

私が最初に「仲間同士、思った事を語り合えばいい」と書いたのは、我が反面教師1号が

以前やっていた(?その時既にフェイドアウトしていたかもしれないが)

「セミナー」と称するものを想って書いた事である。

 

「わかる事をかわる様に説明し、できる事をやらせてあげないといけない。次にやる事を決めてもらわないと

自分では動けない人には課題を与えつつ…」と書いたのは「大聖がなさってきた事をお手本に」という思いで

書いた事である。

また、私がしばしば「私は思う」とわざわざ付け加えるのは、「大聖の言ではない」と明確にし「ただのバカ女が言ってるだけだけどね」とする意味であって、自己主張のニュアンスではない。

 

そして8年程前に、反面教師1号から正法の「学ぶ会」を開くという案内が(再開?すると称するにあたって)郵送されてきたのだが、その会の名称は、

それ以前に「セミナー/勉強会と称して行われていた会の名称」とは違うものだった。

大聖のご講義会も「その会の主催」として開かれていたので、そちらにも使っていた名称だが、あらためて郵送されてきたその案内には、以前の会の名称はどこにも記されていなかった。

 

「以前の会/セミナーを始めた当初(35年程前)は、大神経普伝会の後援のもとに始め、

普伝会がなくなった(色々な事情があるが、大局的には「役目を終えた」という事だと思う)後も流れでそのまま続けていたのに対して、今はそれとは違うから」或いは

「今はもうセミナーという程の規模ではないから」と思っての事かもしれないが、

「大聖のご講義会にも使っている会の名称を使わない」という事は、

すなわち「今度の会で会費として集まったお金は、大聖のご講義会/大聖へのお布施には算入しない/それでも構わない/是とする」という事であり、要するに「反面教師1号の小遣い稼ぎ(「手数料通信費と称するお金が少々手元に残っても/少々のお金を得たっていいではないか/宗教の話だからお布施だ」会場は自身経営の音楽院なので「その家賃の足しに」)

それに了承/賛同/希望する人が参加する会」という事である。

 

・・・・・

 

もっとも、それ以前の会の会費も(特に大神経普伝会自体がなくなって以降は)同様の扱いだっただろうと思ってはいるが。

当初は「大神経普伝会が運営する道場開設にあたり、同じ場所で同時に、

反面教師1号の経営する音楽院を開設」という状態/経緯で始められた会であった。

普伝会は株式会社として活動していたが、その道場/賃貸物件の広さ等を考えると利益はでていなかったはずである。(むしろ社長が自腹で支えてくれていたのではないかと思う)

社長は別に自分の事業/会社を持っている人だった。

反面教師は、恐らく負担家賃相当よりだいぶ立派な店構えで音楽院ができるという事だったろうし、その道場の責任者という肩書であった。

参加者は社会人もいたが、特に毎週の定例セミナーでは高校生/大学生の方が多く、

いずれも反面教師1号から正法の話を聞いた知人や生徒など繋がりのある人が殆どの会で、

それがそのまま続いていたものである。反面教師は「自分が正法の話をして、

ある程度わかるようになったと自分が判断した人に、聖人のご講義会への出席を認める」

という 感 覚 でいただろうと思う。

道場が閉鎖された後、移転した反面教師の音楽院で続けられていたその会も末期?には音楽関係の馴染みの顔が5人も集まれば多い方(私が知っているのは今から16年程前まで)

だったし、皆社会人となり、 多 分 フェイドアウトしていたのではないかと思う。

(それでいいのだと思う)

 

今から8年程前に郵送されてきた、その「学ぶ会」と称する会の案内には

「欠席とさせて頂く。(「理由はお答えしない」も書いたかな?)

今後、またご案内を頂ければその都度検討させて頂くが、今回と同様のご案内であれば

欠席とさせて頂くだろうと思う」と文書でお答えした。反面教師1号は、私が意図した事はわからなかっただろうが、それをどう受け止め何を始めるかは推して知るべしである。それに対して私がどう対応したかは多分一般的ではないので反面教師1号でなくとも不可解かもしれないがわかる人にはわかるだろう😉)

 

それまで年に数回郵送されてきていた「(多分、大神経普伝会から貰い受けたであろう物だが)写経書をお授け頂く事にしたので希望者は…」「会から聖人にお布施を送付する事としました」という案内にも、反面教師1号の実父が亡くなったと赤べこづてで連絡が来た時も、黙って淡々と送金(後者には御仏前としてお悔やみ文は添えた)していたので、意外だったであろう。

 

・・・・・

 

私が中学高校大学生の頃の事を、今思うと…

「人が知らない様な事」に異常なまでに反応し、

「人と違う事を言う/面白い先生として自分の周りに人が集まっている状態」指向でそれが

目的化している我が反面教師1号の性質を「反面教師1号を先生として慕う中高生など」

当時のその段階で必要だった者を集めるために有効な駒として、

目に見えない力がをお使いになられた、という事だと思っている。

 

でも、昨今新たに正法に出会う人達を相手にするならば

大聖のご講義会の資料(並の読解力があれば、小学生でも読める)などを「どう?これはすごいよ!」と言って読み上げながら、古株の赤べこに頷かせるのがせいぜい。

古株以外には「読むだけなら、その資料くれるだけでいい、会費はそれの代金」と言われるのが関の山である。

おぼえた漢字の説明などを「この部分がA/アで、ここがYA/ヤで、NA/ナは…」とホワイトボードに書いても「見ればわかる、だから何?どうすごいの?生活に/人生にどう関係あるの?」と言われ、「いや、これはすごいんだよ。すごいのわからない?そっか、わからないか、わからない人もいるから仕方ないな」と言って黙らせるのが関の山である。更には

大聖の御本の言葉に、自分の主張/皆にどう思わせどう動かしたいかいかを織り混ぜ飲み込ませようとするだろう。毒団子である。道場がなくなった後、反面教師の音楽院で続けていたセミナーに、月1くらいで話をしにきてくれていた普伝会の社長が、その会の事を「ここは××教だな←××は反面教師の名前」と言っていたが、

全てを言い表した言葉だと思う。

私の立場でできる事は、ただ「××教(←反面教師の名前)には共鳴しない、その勉強会には出席しない、何としても関わるべからず、を実践/表明する」である。屁理屈問答の相手をしてわからせてあげようとも思わない。

 

 

 

途中の説明を飛ばしていうなら、やろうとしている事は(当人は気づいてないだろうが)

とどのつまり「大聖の御本をコピーして売る」である。

「大聖の御本の販売促進」を名目とするにしても、現実的には「集まったお金を、

自分が大聖の御本を授けて頂く足しにする」が精々否どうやって売るかと思えば…売れない方が

良い。苦し紛れの代替え案はブックカフェ式のはずである。

 

もし大聖が、その会において大聖の御本の一部を資料として使用/配布の許可を出すとしたら、それは「そこに自分なりの解釈をつけて小遣い稼ぎする事を認める」という事でしかない。

(大聖のご講義会ではメンバーが減ってお布施の捻出が困難だっただろうが、多くの人が集まる事が是でもないし、すべきでもないし、新しく人を増やす事は大聖が望まなかったはずである。会の参加者は皆社会人となっていたが経済力には差があるはずなので、収支を詳らかに開示し費用の負担を皆にお願いする事も出来たはずであるが、収支を開示する事自体も、それにより出資者の発言力が増すのも、嫌だっただろうと思う。

私が学生の頃、どうやら会に参加する社会人(反面教師の同僚)からその辺りの要望(恐らくお布施の額を教える事も渋々だったろうと思う)があったようで「大人はなっ、お金の事とか色々言ってくるんだっ💢汚れてるんだっ」と暗に「お前らはそういう事言い出すんじゃないぞ」と洗脳に努めていたのを思い出す。そしてその言葉には「自分の生徒が他の大人を慕わないように/近づき自分の支配力が削がれるのを防ぐ」という狙いもある。

自分の知らない所で自分の配下とする者が自分以外の人から影響を受ける事、配下とする者同士の繋がりに

自分の目が届かない事を嫌い、そしてその感情を消化しコントロールする事ができない人である。

同様の例としては、帰国中の留学した弟子(←自身の親戚)の話を私達にしてくれたのが

「××君と音楽の話してたら「こう言うと先生は違うって言うだろうけど…」って言うんだぞ!?

あの イイ子 の××君がそういう事言い出すんだぞ、俺先生だぞ!?」である。

 

ちなみにその案内に書かれていた主旨は「門人が御恩に報いる具体的な行動とはどんなものか?自分のやっている事は見聞受時と弘伝になるのか?という質問がよくあるから、直接お会いして、より具体的な考え方について学ぶ」だそうである(「自由参加ですので無理はしないで下さい」とも書かれてあるwもう一つちなみに、書かれていた日程は違う年度のカレンダーからとったような…

恐らく昔作ったものをそのまま→「日程が違うみたいですけど」などと連絡してくる事を狙った釣り、

「予定を聞いてから決めようと思って」などと話をもって行きつつ、生活などに探りを入れたかったのだろうと思っている)

 

・・・・・

 

じゃあ、どうすればいいか、何ならできるかと考えると「交流の場の提供」だろうと思った。(私は、参加したいとは全く思わない事も念の為書いておく)

「親に正法の話をしたらこう言われた」「子供にはこう説いている」とか

この世の営みをしながらこの世を眺めて「なるほど、

太法図の通りだ/太法図が失われたからこうなったんだ」と気づいた事を語り合う、或いは

「これまで信じたものを否定されてしまった、その葛藤に寄り添う仲間」そんな場の提供…

そんな場を望む人もいるカモしれないから、お茶とお菓子と場所代を分担程度の会費で、

そんな集いをすればいいんじゃないかと思いながら書いた事である。

「太法図の学びをする人が周りに沢山いるから何となく一緒に」というのも、そんな中で

「どっちでも良いけど、皆が行く方に行く」という人が居てもそれも縁。そうやって魔の手から守られるならそれで良い。そんな中で少しづつ学びを続ければいい。

(反面教師がやろうとする事のイメージ「自分が正法の先生として説明する、相談を受け悩みに答えをつける」とは合致しないだろうが。反面教師が抱く イ メ ー ジ は、規模はごく小さくとも「営利を目的とせず会費の使途は会員に公開され了承を得るべき自治体やサークルではなく、自分が経営する事業/教室と、そのお客さん/生徒」である。←その形態でないと多少なりともお金を受けとれない。「マッチングや交流の場を提供する」という事業はあっても”指導”相当の単価は取れない。反面教師好みの代替え案は

「古株に講師風に白板の前で話させ(自分の所有物的感覚の赤べこに客を取らせて上りは自分が頂く的)

←正法の説明をする機会もないだろうから練習/実習になるとでも称し、後で上手くできてるかどうか講評を出す

…否、説明の仕方を教えると称し、話す内容は仕込んで自分が主張したい事を代弁させるだろう(←赤べこと

二正面から攻める事で効果を上げる作戦&「指示して動かす/従わせる」がやりたくて仕方ない)その古株には

会費免除等「運営側気分」「他の人とは違う別格、わかってる人」というご褒美を与え引きつける、だろうか。←他の人をイイ子にさせるのにも有効な手段である。例えお金にならなくても、反面教師にとっては「そういう形態をとる事は目的化する程」好みだろうと思う。

 

とはいえ「イイ子にしていれば/わかる人と認められれば聖人に会わせてもらえる」のエサも

「大聖のご著書の一部をもらえる」のエサもなければ人は継続的には集まらないだろうが。

そしてそれらの事情も、反面教師の性質も全て、大聖はご承知のはずである。

 

当時そんな会を開かなくとも馴染みの顔の殆どはレッスンなどでしばしば顔を合わせる機会があったはずなので「日常的に顔を合わせる機会がない人に声をかけるきっかけに」が念頭に…目的だったと言えるだろうと思う。

 

私は、反面教師1号の言う事はどうにも首を縦に振る事ができない事ばかり。にも関わらず首を縦に振らないと前にも後ろにも進めない状況を強いられるので(「相反する相が...」に書いたのはその一例。自分を介して/自分の解釈で(を)聖人の言を飲み込ませたがる。毒団子である。印籠を自分 が 出したい格さん、そして黄門様になった気でいる格さんである。)、大聖のご講義会ではとにかく集団に埋もれて反面教師とも赤べことも直接会話をしない様にしていたので、反面教師1号の念頭には「それを何とかしたい、個別にコンタクトしたい」があったはずである。その理由の中には「〇〇には金蔓がありそうだ、何とかそっちを…まずは交友関係を探る所から」 も あっただろう。「お金を沢山持っている人は会費も多く負担するべきだ、自分は誰がどの程度お金を持っているかわかる/知ってる/判断できる←経済状況を知る権利さえある気なっている。転じて、知りたくて仕方ない懐具合(や交友関係も。それら全てを相談し答えを求めるポジションに自分を据えないのが気に入らないでいる)を詳らかに開示し自分に教えるべきだとさえ思っている→誰にどの程度出させるか決める権限が自分にはある→余分に負担してくれるようお願いなんかしたくない/余分に出さない方が悪いのだから了承を得る必要もない/運営に口を出させないためには金を多く負担していると知らせない方がいい」の思考回路により「皆同じである」が前提の案内を装い、人によって違う会費などを記載などしようものなら、その証拠を掴まれようものなら、親告罪の時効は発生していないと水を得た魚が如き〇〇に突き出される。

「その金蔓からこっちにも金を出させよう…〇〇が困るような事をネタに脅迫しようか…〇〇とその金蔓は引き離してやろう、困れば何か言ってくるだろうから困らせよう」とどこまでもエスカレートかねない、それが私からみた反面教師である。そしてそこに「〇〇を利用したい/する事に口を出したい/上に乗りたい/内と外の区別のない組合員」などが同じ部分を持っているが故に共鳴するであろう。〇〇の事を反面教師と話した事がある人は「あなたが実は〇〇と繋がっているのではないか、あなたから〇〇の交友関係/金蔓/収入の事などを聞き出せるかもしれない」と…それが念頭にある言葉が並んでいた、と思い当たる事があるはずである。その場で〇〇に電話してみろと言われた人もいるのではないだろうか。そして〇〇を連れて来させようとするだろう。「〇〇と違って俺の話を聞いてよくわかるようになった。イイ子だ。わかる人/正法の仲間だ。〇〇もあなたのように俺の話を聞くようにと、あなたが教えてあげればいい」と...

あなたがつけ込まれたのは、後から来たというコンプレックスと、上/内になりたい(知ってるヅラしたい)願望と、「イイ子だ、わかっている」という評価/よく思われたい=人爵を求める弱さと(顔つなぎ/人脈作りに正法を利用しようと思っていれば当然そうなる)自分には見えてない事情が何かあるかもしれないと思う事「無知の知」の欠如。反面教師1〜3号+例の幹部ファミリーなどから立ち入る事が許されるかのように乗せられた/〇〇を知ってると勘違いしている組合員。了承を得ず内に入ろうとするのは強盗・強姦。(キャッチボールする事に同意してない人にボールを投げつけたら暴行。「遊ぼ♪」という代わりにボールを投げつけておいて「打ち返すとかキャッチするとかやめてっていうとかしないのが悪いんだ」というのが当たり屋。間違っても、私に大切に思ってもらえる/寄り添ってもらえる、なんて思うんじゃねーぞ。未来永劫後の世まで決して許されると思うなかれ)例え大切に思ったとしても、その言動はあなた方が思うそれと一致しない

 

 

・・・・・

 

現実的には、古株の子供達と先生として関わるきっかけとするとか、

知人を連れて来させるか…人を集めたいと思えば/集めようとようとすればする程、人脈作りのお付合い/顔つなぎ程度の認識の者が(同じ部分を持っているが故に、共鳴するが故に)集まるだろう。人脈作りを熱心にする人の中には「アンタに用はない、聖人に会わせてくれないなら、

聖人の言葉をそっくりそのまま教えてくれればそれでいい」と言う事に何も問題を感じない人も居て大なり小なりそういうのが波長が会うが故に集まるだろう←私はこの「そういうの」は失礼だと思うし、そういう人は嫌いであるし、私はそういう事はしない。😏反面教師は「聖人のご講義会には来るのに、俺が正法の話をするって言っても聞きに来ないじゃないか」と言うだろうが😏

 

<後半>現代人が思い描くシュウキョウのイメージ

 

 

或いは、臭教団体(自分達が金儲けに使ってきた詐欺文書に太法図の帯をつけて正当化しようと目論む)の回し者(=例え本人にその認識がなくとも”バンキョウキイツ/連携/融和/お取り立て”のキーとなるべく動く機動部隊)が群がるはずである。

 

そして反面教師1号自身にも、「太言霊と太法図に己勝手な解釈をつけて売る」を先立ってやらせるべく、その許可を大聖に出させようとする臭教何某が取り憑いて、乗せられているはずである。

「お金を払ってもいいから正法の話が聞きたい」と言って正法教室をやらせようとする機動部隊(末端では、多少なりとも本当に正法の話が聞きたいと思っている人が起用される)に踊らされているはずである。(その他声聞衆もどこかしらと繋がっているはずである。話が逸れるが、

釈尊の十大弟子やイエス聖の十二使徒とされる人達もそうだったんだろうな、と思う。当然そういう事が起こっただろうから)

 

 

               ■■■■■

 

 

<後半> 大聖が声聞界について書かれたという事

 

 

彼岸の一番下の界は、聖人の声を直に聞いた者達が行く声聞界だそうである。

死んでみないとわからない、証明できない部分だと思うが

「じゃあ大聖の隣の家の人とか、馴染みのカラオケボックスのお兄さんとか、

正法が全然わからない人が彼岸に行けちゃうのか」と思うと理不尽な様に感じるのも無理ないかもしれない。

 

でも「そこに食いつく、そう言われるのが嫌な人」が嫌がっているは、

あの世の事についてではなく、むしろこの世での事…

「声聞衆が思った事/考え/意見/言」が、その他の人のそれと区別される事、声聞衆の意見が

正しいかのように扱われるのが嫌なのではないだろうか。

 

確かに、それはもっともである。

 

大聖の近くに配置された人の中には、釈尊の弾除けや毒見役で死んだ者がそのご褒美として/或いは聖人が飼っていた可愛い犬が今回も癒しを与える存在として近くに配置されたが

正法の話はさっぱりわかってない、なんて事もあるかもしれない。

それでも「その言葉の意味もわからず、オウムのようにただ繰り返しているだけでも、

それを聞いてわかる者があるはずだから」と、お遣いになる事があると思う。

そんな人が、何においても自分が正しいかのように振る舞えば愚かだし、自分にはない

優れた部分を持っている人に対する敬意がないのもダメだし、自分の意見を通すために/

相手を自分が思う様に動かそう/自分の利得のために、

最高神印の印籠を振り回せば、それも大罪である。

 

 

 

でも「だから声聞衆云々は言わない方がいい、区別しない方が良い」というその言葉/

そう言う人の背後にもまた

「太言霊と太法図に自分なりの解釈をつけて売りたい(自分の言に声聞衆の肩書きがないから、差別化されると困る)」人、更には

「大聖がお説きになる事を、自分の解釈と並列に扱いたい人」がいるはずである。

(他方では声聞衆を取り込み担ぐという作戦を目論む者もあるだろう)

 

 

                    ・・・・・

 

大聖が、声聞界について書かれたのである。

最高神が、大聖の口を借りて、人間にお伝えになっているという事でもあるかもしれない。

聖人の言に口を挟む事は一切許されない。

『聖人を己の利欲のために利用せんとするモノの罪がいかほどに甚大であるかを知らない』

『太陽を己の望むように動かし働かせうると思っておるものがあるすれば狂気のものだ』

 

 

 

 

 

その教えは、

この世のモノサシにおいて「優秀」とされる…例えば沢山のお金や政治を動かしている人や

雄弁な人、頭脳明晰で権威ある(人間に認められた)賞を取る様な人ではなく、

「太言霊と太法図をお守りだと思って、ただただ大切にしているだけの人」も

神は高く評価なさるという事を/そういう名もないちっぽけに思える存在もなくてはならない存在で、皆それらに支えられているという事を/神のモノサシは人爵とは違うという事を、

示している様にも思う。

また、そこからは「相反する相がお互いの中にも相手の特性を持ち」も連想されるし

 

或いは、現世だけでなく、過去生からの因縁があるという事を人々に意識させる事にもなると思う。(「やってきた事が違うから今が違う、やってきた事が違うのに同じ結果になったら、それこそフェアじゃない」というのは、幾代もの前世からの話である)

 

 

 

万物の源「太言霊と太法図」をお示し下さり、

そして「あの世はこうなっている」と説かれたのだから…

2+◻︎=5の数式のうち◻︎は考えればわかる、というのと同様に…

(考え方として。今の話でいうなら、2が太言霊と太法図で5が声聞界があるという事、

 ◻︎は神がどういうお考えでそうおつくりになったか/どんな意味があるのかという事)

それは神の価値観を知り、太法図の各相が持つ意味/メカニズムを知るための教材となるはずである。

成神成仏をめざすなら、神の価値観を知り、学び、理解しようとするのは、必修科目と言えると思う。

 

そして、大聖は

『聖人に付き従ったように振る舞うことがどれ程の罪であるかを世の人々は知らない。

 聖人を己の利欲のために利用せんとするモノの罪がいかほどに甚大であるかを知らない』

と説かれている。

「わかったふりをする、付き従ったふりをする」というのはこの世の日常ではよくある事かもしれないけれど、相手が聖人ならとんでもない事になる…(恐らく「理解を示す/相手を認める」的な感覚で同調を示す、という感じの事もあるだろうが、「認める」というのは上位に対してする事ではない。また「同意を示す」は時に「話を誘導する/時にカウンセリングのノウハウ」としてもされているはずで、これもまた上位に対してする事ではない)

それは「声聞衆はご褒美が大きい分、罪を犯した時の罰も大きい」それを背負っているという事だと思う。

声聞衆に限った事ではなく、太法図に出会いながらも、それを嫌い、誹り、

如来出生の本懐を妨げる者の罪は、太法図に出会う事が叶わなかったものよりも、

大きくなるのだろうと思う。

 

そしてまた「あの世があるという事」「識大が本体であり、肉体は今生限りのつかの間のものであるという事」もまた、太法図/掟(オキテ/置きテ←シャレではない。手/3を定置する)で説明される通りあり、それを否定する事は、太法図を否定する事である。<ついで↓>

 

                ■■■■■

 

<ついで>

 

「手」(te/TA-eかな??)は写真のように「3つの部分からなる」の意味で、

漢字も「3つが1つに」を表している。

 

そしてそれは「triangle」「truss」「three」に通じると教わった。

「鳥/トリ」は嘴の△からきている。

 

『大神秘伝授仏説般若心経「三種の神器」開示宣説書』発刊当初の案内チラシ

 

で。

頭がAで菩提心がa(←コロコロ/うつろうで例えられたと記憶している→)不定冠詞、

に対してtheが定冠詞とつながる(うる覚えだが多分…で、テーゼthesisにもつながるんだ、たしか。truthもだろうな、きっと)

 

そして、合掌はこのようにして、菩提心が入る所もつくって

「YA/ヤ」の部分を形づくって、手を合わせる。

両手分の3+3…

このように合掌しない者を「六でなし」というと教わった。スラング的に?は「こうならない♂を

ロクデナシという」そうである。これも大聖が仰っていた。

 

で。「六」といえば、仏教で出てくる「六大」=『地水火風空+識大』

地につける足、腹水で連想されるお腹、胸焼けで連想される胸

風の通り道の喉(これらの例えも、教わった言葉そのままである)

頭が空大で、その上の識大、

五輪塔とか卒塔婆の形で、丸で表されているのが(ポンポコリンといえばの)お腹

頭の葱坊主型は「上に何かある」の意味だそうである。

 

でまた、A/アの部分にも「3」も「6」もあるのだけれど。

 

そして「この世はあの世のうつし世」とも解かれる。

識大が開いた状態で示される図はたしかコンパクト鏡みたくパタンとなってて←太法図の外環二重環は識大が

裏にある事を表してるって言ったでしょ。で、輪ゴムみたくねじれてるのがコロっとなって死ぬって...だから・・・

 

六道冥幽苦界の「六」から連想されて(多分そう教わってはいない気がする)

思い出した<ついで>である。