(2013年03月31日投稿 2/2)

 

「貧乏人がいいように騙されて巻き上げられてきた。でも大学まで出してもらいながら、子供でも一寸考えればわかるような事にも気づかずボケっとしているのが沢山居る、そんな事ではいけない」となげかれ、ものを考える事が出来るようにと丁寧に説いて頂いた。そうして人々が利口になれば悪人は困るはず

だから私達もそれが出来るようにならなければいけない。

非難するのではなく、何故いけないのかを説明してわからせなければいけない。それが出来なければ「決まった事」があっては困る勢力にいいように転がされてしまう。

「決まった事」があると困るのは宗教団体のトップだけではない。

 

 

安くて全く同じものなら皆安い方を買う。高いならそれに見合う違いを示し納得させる事が出来なければいけない。小さいお店にも勝ち目はある。買う方も見かけに騙されてはいけない。様々な業種において「何も違わない、だから安くて便利な方がいい」という勢力に負け気味の世の中なのではないだろうか。

でもそういう人達の中にも、否定されるのではなく違いを示され「この点が優れているからそちらは高い、こちらはその優れた点は要らないから安い方がいいと思う人が買えばいい」と納得すると、意外と喜ぶというか…嫌がらない人も少なくないようだ。

 

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宗教も同じだと思う。

本物だというのなら、臭教と違うというのなら、その違いを示し、わからせる事ができなければいけない。

違いを示し、説明し、わからせることができなくなってしまったから、論理的思考 か の よ う に もっともらしく響く煙に巻くような話法や、耳障りの良い目先の得になる餌で、偽物を彼岸へ渡るための宝と信じこませて金儲けや権力集めに利用する勢力が優勢となり本物が負けてしまって…そして末法・滅法へと進むのではないだろうか。

 

偽物を売る法は「ニセモノだけど…買って♪」とは言わない。

そして、少なくとも宗教に関しては、「その他、そういうのもあってもいい」とはいかない。

宗教は、答えは1つしかない。

 

それであれば、違いを示し、説明するべき役目にあるのは、本物を解く方。

それも、臭教団体のトップだけではなく、大衆の方に…

 

大聖がなさってきた事のように思っている。