今回は、ストリップにおける「自由」という話をしてみたい。

 

 

遊びというのは、個人の時間を拘束するものとそうでないものとがある。

 私のストリップ仲間で、休日は草野球かストリップで過ごす方がいる。草野球はチームで楽しむために、草野球が決まっている場合はそちらを優先しなければならない。ただ彼に言わせると、ひいきの踊り子さんが出演したときには土日はストリップに行きたくてたまらなくなるそうだ。

 自由と拘束のどちらを選びますか? と問われれば、人はまちがいなく自由を選ぶ。

 大げさに云えば、自由主義か社会主義かの結論は、ソ連の崩壊とともに自由主義に軍配が上がっている。そういう話を持ち出さなくても、人間にとって拘束されるほど嫌なものはない。ドイツのナチ政策、シベリア抑留、最近では北朝鮮の拉致など悲惨な歴史が物語っている。

 今はまさに自由な世の中。選択の自由がたくさんあるということは豊かさの象徴。

 しかし、あまりに選択の幅が多すぎて選べないで困っている人もいる。こういう人には、こういうふうにしなさいと言ってあげないと先に進まない。そして彼らは言われたことを嬉々としてやっている。これも一種の拘束である。従って、無意識のうちに拘束を好んでいる人たちもたくさんいるという事実。SMの世界でいえば、M嗜好の方になるのかな。拘束プレイなんてのもある。もっと身近な例では、夫婦関係でも妻の言うとおりにやっていた方が楽と言っている旦那も多い。

 そう考えてみると、すべての人に自由という権利が与えられているとはいうものの、この世は自由と拘束の微妙なバランスのうえに成り立っている。

 

 

 ストリップという遊びのひとつのポイントは「自由」であることと言えると思う。

 誰に強制されることもなく、自分の都合のいい時間に、好きな劇場に、一人で勝手気ままに足を運べばいい。いつ行ってもいいし、何時間居てもいい。

この点は、先ほどの草野球のように何人かが集まって行うものとは根本的に違う。集団で遊ぶものはメンバーが欠ければ成立しないがために、集まることを強制される。

 ストリップの場合は、リボンさんでさえも、強制はされない。自分の好きな踊り子さんに、いつでも、どこでも、自分の都合のいいときに投げればいい。(もちろん、他のリボンさんとの兼ね合いはあるが・・)

 おそらく、ストリップが強制的であったり、自由を拘束するものであったなら、一気に魅力薄になってしまう。たとえば、全国どこであろうがある踊り子さんの応援に必ず行かなければならない、また一日中必ずリボンを投げなければならなくなったら、しだいに苦痛になっていく。自由であるからこそ、好きで追っかけて、好きでリボンを投げたり、献身的に応援できるのだと思う。

 

 恋愛でも、相手の自由を奪うことで破綻するケースが多い。

 好きな人から拘束されたいと思うかもしれないが、実際拘束されだしたら窮屈でたまらない。女の人で親しくなると相手にベタベタしたがる方がいるが、そういうのを嫌う男性も多い。嫉妬心から相手を拘束するなんてのは最低である。つまるところ、人間の本質には「相手の拘束から逃れ、自由気ままでいたい」というのがある。

 仕事でも、長く同じ仕事に関わるといろんなシガラミが出来てきて、知らず知らずのうちにプレッシャーがどんどん蓄積されていく。そうしたときに転勤などで、いまの仕事の呪縛から解き放たれるときにはたまらない快感がある。私はだいたい三年おきに職場が変わっているので、この仕事からの開放感というのがよく理解できる。

 

 要は、自分が好きで自由に行動できるWillの状態であれば満足するが、人から強制されて行うMustの状態であれば苦痛になっていく。

 仕事は本来義務的でMustであるのだが、いかに部下をWillの気持ちで仕事に取り組ませるかが人を使う要諦である。

 恋愛も同じ。相手に拘束されるようなMustの状態は長続きしない。いかに気持ちよく相手のために行動できるかというWillの状態がキープできればその関係は長続きする。

 

 ストリップも同じかなと思う。

 昔は劇団のごとく狭い家世界があって大変だったと思うが、今の踊り子さんは拘束されるのを嫌う方が多いと思う。仕事柄、地方公演もあったりで、時間が拘束されることが多いが、連投から開放されたときはホッとするようだ。

 それ以上に人間関係については敏感だと思う。地方公演なんかでは缶詰状態になるから踊り子さん同士でも大変だろうし、ファンとの間でもいろいろあるだろう。

 リボンさんの中には独占欲の強い人が多いと聞く。リボンを投げてもらって嬉しい反面、これも踊り子さんとって心の縛りになっていく。お客というのはリボンさんでも一見客でも皆平等である。同じように踊り子さんを好きになれるし、また踊り子さんもお客みんなから好かれたいと思っている。だからこそ、そういう独占欲の強いリボンさんを嫌う踊り子さんも多い。

 ファンの方も同じかな。「必ず来てね!」というより、「よろしかったらまた観に来て下さいね」と言われる方が気が楽だと思う。一概には言えませんが・・。

ある熱烈なファンがずっと長くある特定の踊り子さんを追いかけていた。彼女の出演する劇場なら全国どこであろうが遠征し、リボンやタンバリンでステージを盛り上げる。彼にとって彼女は完全に生活の一部になっていた。あるとき、その踊り子が突然辞めてしまった。さぞかし彼の心の空隙は酷かろうと想像する。たしかに一時落ち込んでいたが、ある種ホッとしたところがあったという話を聞いた。それは彼女の呪縛からの開放感なのだ。ただ、そういう性格の男性は次の踊り子さんを求めて、そしてまた追っかけを始めることになるだろうが・・。

 

人間の集まるところには必ず人間関係というシガラミが発生する。それは避けられないことである。

しかし、ストリップというものは出来る限り「自由気まま」に楽しめるものであってほしいと思う。

 

 

 

   

 

 

 

 

最近、なんのために連日のようにストリップ通いしているのかなと自問自答する。

その答えが自分の内側から返ってくる。

「愛」を感じたいからなんだよ!

 

男が女を求めて連日ストリップに通うというのは(単に観るだけというのではなく)、異性と仲良くなれるという実感があるからなんだと思う。その点は、お気に入りの娘目当てでキャバクラ通いするのとなんら変わらない気がする。たまたま、それがストリップであったに過ぎない。

仙台ロックなんかで平日仕事帰りに寄る。「お仕事おつかれさま!今日は遅かったのね。待ってたのよ」なんて声をかけられると、単身赴任の身にじわっと嬉しさが広がっていく。今週はAさんが現地妻の代わりをしてくれ、そして翌週は別のBさんへと変わっていく。それがうまく循環していくと毎日楽しい日々が続く。仙台という遠隔地で勤務していても淋しさは紛れる。ところが、そういう親しくしてくれる踊り子さんがいない場合、その週は無性に淋しいものになる。逆に「愛」を感じさせてくれる踊り子さんがいる週は最高にハッピーな時間が過ぎていく。

 

その「愛」とは何か?

心のときめきは、顔なじみのベテランさんに対する懐かしさ/やすらぎのときもあれば、初々しい新人さんと仲良くなれるときめきの瞬間のときもある。

私の顔を見つけて喜んでくれるその笑顔に接したくて劇場に足を入れる。ベテランの方でも、単に私が劇場に来てポラを買ってくれる存在としか考えてくれないと、それは接していて段々感じるものが薄れてくる。人間だからそういうのは敏感なもの。自分に対する関心、つまり「愛」が薄れているなと思うと冷めてくるものがある。

新人さんは、応援してほしいという一生懸命さがある分、好感度が大きい。親しくなっていく過程、可能性というのが楽しい。「愛」の可能性を楽しむとでも言うのかな。

 

ストリップにおける愛・・・

ストリップというのはお気に入りの踊り子さんが輝くように一生懸命応援する場である。ファンは、自分たちのような女性に縁薄い男性のために、裸で接してくれる踊り子さんに対して感謝を込めて応援する。なんの見返りを求めてもいけない。踊り子さんが気持ちよく踊れるようにGive & Giveの気持ちで踊り子さんに接していかなければならない。

ストリップというのは「見守る愛」である。どんなに踊り子さんを好きになっても自分のものにはできない。踊り子さんはみんなのもの。みんなで踊り子さんを盛り上げていかなければならない。これが大切なこと。「見守る愛」には直接的なSEXなどない。むしろ、娘を想う親心に近い。だからこそ、「見守る愛」とはピュアで崇高なもの。少なくとも私はそういう気持ちで踊り子さんと接している。

 

それに対して、踊り子さんはファンの「愛」をステージで返す義務がある。

愛をもってステージを表現しなければならない。踊り子さんはヌードや性器を見せるのを仕事と考えてはいけない。もちろん、自分を愛してくれるファンの目を楽しませることで、自分も楽しむことは当然だが、それだけではない。踊り子というのはステージの上で全身をさらけ出すことで、まさに全身を使った愛を伝えているのである。

愛を伝えられてこそ本物の踊り子なのだ。ファンはその愛を感じる限り応援し続ける。

ただ、すべてのファンがその愛を感じとれるわけではない。要は感受性の問題。

先日、ある踊り子さんとファンの方のポラ時の会話を耳にした。「いつもポラ買ってくれるのに、今日はどうして買ってくれないの」と踊り子さんが尋ねる。「××ちゃん、最近、

ぼくに冷たいよね」とファンが答えていた。聞く方も聞く方だが答える方も答える方だ。そこには愛のかけらもない。ポラは踊り子さんの魅力が買わせるものであって、客に押し売りするものであってはいけない。ファンの方も、踊り子さんは自分のものではないのだから、自分に対してだけ優しくできるわけがない。なにを勘違いしているのか。そんなんではポラを買う価値も、応援する資格もない。

 

手紙を始め、私のストリップに対する思いをどう感じるかは踊り子さん次第。

私の感情を何も感じてくれない方もいれば、すごく敏感に反応してくれる方もいる。最後は「心の問題」だと思う。心で感じなければ何も始まらないし、何も残らない。

踊り子さんと私は、おそらく凄い偶然でいま目の前にいる。私がたまたまストリップにはまり、そして踊り子さんがデビューしてきた。私がストリップにはまらなかったら出会えなかったし、ストリップを観ている時期にほんの少し時間差があったら一生会えなかった。すごい縁を感じる。だからこそ、縁のきっかけにポラを買い、お手紙を渡してみる。しかし、すべての踊り子さんと仲良くなれて、その縁が続くわけではない。

 

愛がなくなれば、その踊り子さんとの縁は切れる。

縁を大切にすることはとても大切なこと。でも無理に縁を保つことは悪縁になる。ポラを買うための交際費も馬鹿にならない。だから良縁を求めるために愛の薄れた縁は切ろうと思っている。縁の取捨選択とでもいうのかな。これは仕方ないことだと思う。

踊り子さんは少しでもたくさんポラを売るために大変だと思うが、無理に愛をつなぐ必要はない。商売とはいえ、しょせん男と女の世界。好き嫌いや相性は当然ある。一人のファンを失っても次の新しいファンを得られればそれでいいと割り切ったらいい。

 

踊り子とファン・・・

しょせん男と女の世界。たまたまストリップという縁で知り合った関係。でも、出会ったからにはそこにドラマが生まれる。狭いストリップ劇場という時空、その中での擬似恋愛とはいえ相思相愛であることもあれば、私の愛だけが一方的に大きいこともあれば、その逆もあろう。そのドラマをどう演じるか、それもまた踊り子とファンの間で自然に決まっていくものなのだろう。

ただ一般の恋愛と違いドロッとしたものではなく、あくまで擬似恋愛というサラッとしたゆるい関係ではある。ではあるが、せっかくの縁である。私は「心で観て、心で感じるから、心を伝えたい」そうでなかったら出会った意味がないような気がする。それができる踊り子さんと出会い親しくしたいと思っている。

踊り子さんもこう考えてほしいな。

「心でステージを演じ、心でお客と接すれば、必ず心が伝わる」と。

 

 

平成21年7月                           仙台ロックにて 

 

 

 

 

 

 最近、踊り子さんを三つの目(観点)、すなわち「美」「愛」「心」から見るようになった。

 

1.「美」の目

 

 ストリップというのは「動く美術館」。アートの世界である。

 女性のヌードそのものが美であるとともに、ショーアップされたステージは美の演出である。浅草ロックを観劇すると、まさにそう感じる。一見客にとっては「美」の目だけで必要十分である。

 我々ストリップ・ファンも、踊り子さんの持つ美の部分から目を奪われていくことは間違いない事実。まずは外見、つまりルックス、スタイル、そして踊りの上手さなど目に見える部分から踊り子さんを評価していく。その結果として、彼女のファンになり、追っかけが始まっていくことになる。

 

2.「愛」の目

 

 私は「美」だけでファンになるわけではない。もうひとつ別の何かが自分の感性に訴えてこないと踊り子さんとの関係は長続きしない。それを私は「愛」というキーワードで整理している。

一言で「愛」と云っても、その概念は広い。大切なのはお互いが互いに関心を抱いている事実。私が一方的に踊り子さんを好きでもダメ。踊り子さんが私のどこか、それは私の笑顔、手拍子・拍手、私の手紙・エッセイなど、なんでもいいから太郎ワールドのファンにならないとやはり関係は続かないことになる。その相思相愛関係の維持のために「愛」が潤滑油になる。

お気に入りの踊り子さんと接していると愛に満ちてくる。その感じがとてもいい。ファンとして長く応援させて頂くために、その「愛」を大切にしていきたいと考えている。

 

 話が少しそれるが、ストリップにおける最大の問題点は「飽きること」だと思う。いくら好きでも毎日追っかけるうちに新鮮味が薄れてくる。ときめきを感じなくなる。これはファン側だけでなく、踊り子さん自身にも云え、ファンに対して新鮮味がなくなっていくと対応がおざなりになってくる。お互いのマンネリこそがストリップ最大の癌だと思う。踊り子さんはファンに飽きられないために必死だろう。新作を次々と出したり、踊りの練習に励み、ファン・サービスにも心を砕く。後からどんどん新人がデビューしてくるわけだから、何もしないで現状のままというのは実質後退を意味する厳しい世界でもある。

 この癌への特効薬があるすれば、それは「愛」なのだ。踊り子というのは沢山のファンの愛に支えられて輝く存在。愛に応えるために、愛をもってステージを演じる。その相思相愛の関係が持続していれば人気は不動になる。踊り子とそのファンは、その踊り子がステージにのっているほんの短い間で小さな小さな愛のドラマを演じている。

 一般の恋愛でも、最大の危機はマンネリにある。ところが、結婚してしまえばその愛は持続する。しかし、ストリップの場合、結婚するわけにはいかないが、同じ状態になればいいわけだ。

ストリップの愛は、一般の愛と比べると、サラッとした「ゆるい関係」にある。男性側としては会いたいときに会いに行ける自由度の高いところに特徴がある。単なる遊びだと割り切ってしまえばそれでもいいのだが、ある意味、その愛の特徴を活かしたらいい。私は片思いでも擬似恋愛でもなんでもいいから、愛を感じるためにストリップに通っている。

 

3.「心」の目

 

 そして、最後は「心」となる。

「愛」と「心」は表裏一体。愛があるから心に訴え、心が通じるから愛を感じる。

 お互い愛し合っている夫婦でも、心の通い合いというのが大切。長く夫婦関係を続けていると、お互い空気のような存在にはなるが、だからこそお互い心が通じていることを確かめ合うこと、そしてその時間が必要になる。それが夫婦の‘対話’であったり、時に身体を重ね合う‘体話’であったりする。そうした努力をまめにし続けないと夫婦といえども関係が破綻していく。

 ましてや、ストリップの場合、踊り子さんと話す時間はほとんど無い。ポラ・タイムのほんの短い瞬間だけ。ただこの時間は二人だけに与えられた貴重な一瞬。お互い目なり表情なりでも語り合える。関係を維持するための最低のコミュニケーションは可能。だから関係維持のためファンは皆ポラを買って挨拶をするのである。

 

 人間は感情の動物である。踊り子さんとファンは、お互い愛を演じながらも、心が通じてないとやはり関係は冷めていく。やはり、長い間ファンとして応援し続けるためには、なにがしかの心の通い合いが大切なのだと思う。

 ストリップという縁を通じて知りあったわけだから、できれば、その縁を楽しく活かしたいと思って踊り子さんと接している。

 

 

 まだまだ言いたいことはたくさんあるけれど、私の勝手な思いをつらつら聞くのも疲れるでしょうから、この辺で一旦区切りますね。

 

 

 

 

 

 今回は、お客はどういう角度から踊り子さんを見ているかを私流に述べてみたいと思います。

 

 人間の見る目というのは凄いなと思う。瞬時にして、初めて会った人のことをかなり見抜ける。無意識のうちにも、その人は自分に関係してくる人かそうでないかを判別する。ただ、やはり相手に興味をもって接すると見る目も変わってくる。そうすると、かなりの部分が見えてくる。

 以前、「ストリップは人間観察の場である」という話をしたと思うが、人間というのは相手のことをどういう観点から判断するのかを考えてみたい。

 

 最初に目に入るのは外見である。男性が女性を見る場合は容姿なども気にかかる。女性の場合は生理的に受け付けるかどうか。不潔だったり嫌らしい感じであれば即シャットダウンとなる。むしろ、外見というより最初は相手のもつ雰囲気からいろいろと判別している。自分を受け入れる温かく優しい雰囲気か、あるいは自分を受け入れる隙のない冷たい雰囲気かどうか。この第一印象というのはかなりウエートが大きく、このイメージがあるがゆえ、なかなか相手を受け入れようとしないということがままある。ある意味、第一印象は障害となることもある。

 

 本当に相手のことを知ろうとすれば、どういう観点から見なければならないのだろうか。

 私流には三つの観点があると考えている。

 ひとつ目は、本当の彼あるいは彼女を知ろうとする、相手の本質を見極める「深い目」

 打算的に近づいてくる人がいる。こういう人は丁寧に接してくれてもなかなか好きになれないもの。たとえば財産目当てで近づいてくる人を結婚相手にはしたくないだろう。

 上辺だけの優しさと心からの優しさというのは全く違う。そこを感じ分けることが相手を知ることにつながる。つまるところ、人間として相手を好きか、相手から好かれているかが分かれ目になる。まさに単に上辺だけの付き合いになるか、一歩踏み込んで相手の中身を知ろうとするかの分水嶺となる。

 

 ストリップという世界は「うつせみの世界」でもある。うつせみとは空蝉と書き、まさに蝉(せみ)の抜け殻のことであり、現実の虚しさを比喩した言葉。この世に生きている人間そのものを意味している。

 綺麗な女性が惜しげもなくヌードを披露してくれる竜宮城のような場が現実の世界であるはずがない。ストリップ劇場はもてない男性の慰めの場であり、虚しくもあり悲しい「うつせみの世界」といえる。

 しかし、そういう中にも人間関係というのは存する。

踊り子さん側からは下心があってプレゼントしてくる客というのはなんとなく感じるだろう。そういう輩をは適当にあしらわなければならない。一方、逆の立場として、私のような常連になるとポラを買ってもらうためだけに接してくる踊り子さんには距離を置きたくなる。私の場合は気持ち的になにか通じるものがなければファンになれないと感じている。その気持ちに触れることが最大の慰め、そして楽しみになっている。私も空蝉であり、悲しくも虚しい1人の男ということか。話が少し逸れてしまった。

 

 ふたつ目は、「広い目」で相手を見ること。

 相手の性格は、相手の人間関係の中から見えてくる。家族構成、友人関係など。また、趣味や仕事など、本人の嗜好や環境から見えてくるものがある。そのように、広い角度から相手を見ることで本当の人物が見えてくる。

 私的にはあまり好きなことではないが、他人と比較することで相手が見えてくることもある。たとえば、結婚相手を決めるにも、目の前の彼女よりもっと自分に相応しい人がいるかもしれない。

 

 大切なことは、一部の限定した中で物事を見るのでなく、もっと全体観をもって物事を見て判断しなければならないということ。

 ことストリップというのは裏の世界である。これを現実と勘違いしてはいけない。踊り子さんに憧れるのは結構なことだが、踊り子さんを結婚相手に考えることはどうかと思う。

客も踊り子さんもお互いが非現実的な世界と割り切って楽しむ世界なのだと思う。

 

 みっつ目は、「長い目」で相手を見ること。

 人間というのは長い過去があって、現在の自分がいる。また、将来どういう人間になりたいかによっても人の評価は変わってくる。このように、時間という基軸をもって人間を見ることは極めて大切。

 例えがあまり良くないが、若いときに高齢の女性に恋をしたとする。そこまではいいが結婚したいと考え出す。子供はできないかもしれない、彼女の方が早く死ぬかもしれない、でもいま彼女がいればそれでいいと思う。素晴らしい恋ではある。しかし果たして彼の判断は正しかったかどうかは長い年月が経たないと分からない。それは幸せな人生だったのか、はたまた若気の過ちだったのか。

 物事を判断するとき、一過性的な感情に左右されないためには時間を置いて考えることが功を奏する。長いスパンで物事を考えられれば失敗は少ない。

 ただ気をつけなければいけないのは、時間を置き過ぎてチャンスを逃すこと。いい縁であったのに、タイミングを逸して幸せを逃してしまうことは多々ある。人生とはチャンスとタイミングに左右されるもの。

 

 ストリップというのは、一瞬にして泡のように消え去る「うつせみの世界」。そこで働く踊り子さんもそもそも限られた短い時期しか存在しない。あまりに1人の踊り子さんに入れ込んだがゆえに、突然の引退に空蝉状態になっている客をよく目にする。

 たくさんの踊り子さんが登場し、そしてたくさんの踊り子さんが辞めていく。潮が満ちたり干いたりするように。しかし、入れ替わっただけでストリップ劇場そのものはなんら変わっていない。そういうものと割り切ってみることも必要なのかもしれない。

 そうした非現実的な龍宮城の世界ではあるが、一時の時間を踊り子さんと時間を共有して楽しめた喜びを感じていたい。

 

 以上、話が脱線しつつも、「深い目」「広い目」「長い目」の三つの目について話をした。実はこの三つの目は私が仕事をするうえで心掛けている視点なのです。仕事である事象にぶつかったとき、①物事の本質はなにか、②全体観から見て正しいか、大所高所から見てどうか、③時間軸からはどうか、を自問自答するようにしている。全ての勉強がこの三つの目を養うためのものと云っても過言ではない。

 仕事に限らず、全てのことに通じる。もちろんストリップもそういう目で見ると色んなことが見えてきて面白い。

 

 

平成20年8月                          仙台ロックにて 

 

 

 

 

 

 あおいさんから新人さんの処遇を聞いて驚きました。

 私も長くストリップ通いしているので沢山の新人さんのデビューを見てきましたが、ほんとうに定着率が悪く、すぐに辞めてしまう方がほとんどです。そのため、私なりに思う事をお手紙に書いて、励みにしてもらおうとしているところです。

 一番最初に渡した手紙の中に、新人さんがなぜ辞めていくのかを私なりに徒然考えて次のように列記しました。

・   華やかなイメージがあったが、最初に思っていた世界と違う。

・   踊りは好きだがおぼえるのも大変だし、上手く踊れる自信がない。

・   オープンやポラができない。

・   お客さんの態度が悪い。野次られてへこむことが多い。

・   女の世界なので難しいところがある。

・   風俗なので世間体が悪い。     などなど・・・        

ところが、あおいさんの話によると、踊り子さんのステージに対する戸惑いではなく、もっとベース部分にあたる処遇に問題があるようですね。

 

あおいさんが指摘する点を改めてひとつひとつ確認してみます。

①    新人さんは仕事が一度に多く入って休めない 

②    会社の扱いが雑 

③    自分より有名な新人さんがデビューする時に会社が出すお金に目にみえた衣装の差があり、有名じゃない新人さんは落ち込む。一番多い理由だと思います。差があるのは仕方ないですが、あまりにあり過ぎると女の子は自分は期待されていないと落ち込みます。正直。そこの扱いがすごい下手だと思います。私は会社にはっきりNOは言えますが、言えない子も多々いると思います。

④    デビュー以後は、交通費や衣装代は全て自分持ちです。

 

①「新人さんは仕事が一度に多く入って休めない」

 たしかに新人がデビューする時には、次と次々回くらいはスケジュールされているのが多いですね。いったんデビューさせたのだから、そこまではノルマだという経営方針みたいです。

 問題は間隔じゃないのな。新人さんは緊張の連続で精神的にも肉体的にもかなり疲労しているはずです。それを連続でのせるというのは横暴。後で話すけど、同じ東洋の先輩、姫乃りおさんも休み無く働かされ腰を痛め辞めざるをえなくなってしまった。

 新人を働かせ過ぎるのは絶対にマイナス。踊り子さんは宝であり、とくに新人は金の卵。

この業界の発展のために経営資源を大事にしなければならないのは当然の理です。

 ロック系を見ていると、客寄せのため関東でデビューさせるが、次はたとえばここ仙台ロックのような地方劇場でのんびりステージになれさせるなんていうのもよくあるようです。 

 

②「会社の扱いが雑」

 これも全く同様のことが云えますね。

 以前、東洋のある新人さんからこんなことを聞き驚きました。「私はストリップは何かも分からず「大阪に行く」と事務所で言われ、夜の11時に大阪に着いて、そこで『ストリップの先生』が待っていて、朝までわけもわからず練習…。10時から本番という・・始まりは過酷でした。けれど、どういう形であっても、自分を表現していけるこの世界は、素敵だなって思います。一度入ったからには、納得がいくまで、やりたいです。」 頑張って続けてくれるかなと期待していましたが、彼女も三ヶ月ほどで舞台にのらなくなりました。

 これは一例でしょうが、一事が万事、会社の扱いはこんなものなんでしょうね。

 会社の対応の仕方が変わらないことには、新人はなかなか定着してくれないと思います。

 

③「他の子との差別」

 これも分かるような気がします。是非ステージにのってみないかと説得され一大決心して出演してみたものの、他の子と比較してみたら、全く違う。だんだん嫌気をさし、また落ち込んだりするのでしょうね。あからさまに対応が違うとたまらなくなりますよね。気持ちは分かります。

 ただこの点は、どの世界にもあります。見方によれば、優遇される子にはそれなりのプレッシャーがあります。いきなりトリをはらされてお客を呼べない責任を感じさせられ、それが嫌で続かない子もいます。

 一番大切なのは、ストリップを好きかどうかで、好きで始めたからには自分が納得するまで頑張ることです。他の子がどうかではなく、お客さんが自分をどう見てくれるか、すべてはそこに収斂していきます。そのためにも自分の気持ちを強くもつことです。長く頑張った人には最後に必ず神様(お客様?)が微笑んでくれます。

 

④「金銭面の処遇」

 えぇ~っ、交通費まで自分持ちなんですか。。。

 これはあるストリップ仲間から聞いたのですが、踊り子さんの日給は3万円ぐらい、トップクラスでも5~6万円か。実際に劇場が事務所側に払うのはもっと多いが、トップクラスでも10万円がせいぜい。

 本当かどうか分かりませんが、あまりに少なすぎて驚きました。私の感覚では日給10万円、月10日間で100万円、年間1200万円。頑張ればもう少し稼げて、世間一般の部長クラスの年収になる。一見高そうでも、この仕事は長くできる保証はないので、若い時期にがっちり稼ぐためにはこのくらいの金額は欲しいところ、と思っていた。

 現実このくらい稼ぐためには殆ど休み無い状態で働かなければならなくなる。

 

 これも本当かどうか分かりませんが、従業員のボーナスも踊り子さんが出す?

  衣装代が大変という話はよく聞いていました。先輩の踊り子さんが若手の子によく衣装を回したりしています。結構なことだと思います。

 それにしても、こんな処遇では、貧乏暇なし状態。こんな「ストリップ貧乏」ではいい新人も入ってきませんよね。

 

 私が声を大にして言いたいのは、劇場経営者側の問題ですね。経営の仕方がなっていないから集客が悪く、それがひいては踊り子さんの処遇改善につながらないのだと思います。一般の企業では組合があって経営側と労使交渉をするものです。この業界には踊り子さんの組合なんてありませんからね。まぁ組合を作る必要はありませんが、経営側は踊り子さんによって自分たちの生活ができているんだということを自覚して、もっと真剣に経営に取組んでいくべきだと思います。

 ストリップファンとして、この業界がますます発展していくことを願って止みません。

 

 

平成19年6月                          仙台ロックにて     

 

 

 

 

 

 

 毎年たくさんの新人さんがデビューするが、続けてくれている方は非常に少ない。なんですぐに辞めちゃうのかな。ヌードを見せる抵抗感か・・・いやAV出身の方も多くデビューしており、単にヌードを見せるということに関しては一般の素人さんに比べれば抵抗感なくストリップの世界に入ってこれたと思うが、必ずしも定着していない。プレッシャーとか、人間関係とかいろいろあるのかなぁ。

 あるベテランの踊り子さんが「最後はダンスが好きかどうかかな」と話してくれた。なるほど、ヌードで稼ぐ仕事はいろいろあるけれど、あえてストリッパーになりたいと思う一番の要素は踊りが好きだからということだろう。また仕事だからいろいろ嫌なこともあると思うが、辞めたいと思う気持ちより踊りたいという気持ちが勝れば続けられるということか。すごく納得した。

 

 2007年アメリカ映画「ヘアスプレー」が日本でも上映されて大ヒットした。この映画の原作はジョン・ウォーターズ監督『ヘアスプレー』('87)で、その後ブロードウェイで舞台ミュージカル化されて大人気となり2003年度のトニー賞で8部門を獲得した作品で、今回それを再映画化したもの。

 舞台は1962年のボルチモア。起床するなりハイテンション、プニプニした肥満体にハッピー感をみなぎらせつつ歌い踊るトレイシー(ニッキー・ブロンスキー)に、たちまち心を奪われる。彼女は、音楽とダンスとおしゃれに夢中な、天真爛漫な女子高生。ひょんなきっかけで10代の子たちに大人気のTV番組「コーニー・コリンズ・ショー」のオーディションに合格し、一躍シンデレラガールに。

 彼女はおデブのコンプレックスなんてブッ飛ぶほど、ポジティブで無邪気。そのエネルギーが「思わず踊り出したくなっちゃう」世界を創っている。

 

 改めて、この映画は、踊り子はどういう心構えをもつべきかを示唆してくれているなと思えた。

 ひとつは自分を受け入れることがいかに大事なことか。どんなにおデブでもそのコンプレックスを跳ね飛ばすほどポジティブに切り換えるトレーシーの逞しさ。またトレーシーは差別撤廃を訴えるデモ行動を起こすほどで差別の醜さをきっちり伝えてくれる。つまり、彼女は自分を受け入れると同時に、他人をも受け入れようとする優しさを兼ね備えている。そんな人間として魅力的なトレーシーが踊り子としてデビューしたら私は絶対にファンになるだろうな。(笑)

 踊り子さんの中には容姿にコンプレックスをもっている方もいるだろうが、それを個性・持ち味に変えていく努力をしなければならない。コンプレックスを前面に出してしまうとステージが暗いものになってしまうから。コンプレックスを跳ね飛ばす元気があって、はじめてお客に元気を与えることができる。

 他の踊り子さんのことを綺麗だとか踊りが上手いとか思って自信をなくすこともあろうが、他の踊り子さんの魅力をしっかり受け止めることが大事で、そして他人に憧れをもつことによって自分を磨いていったらいい。

 

 女の子というのは生来、歌やダンスが大好き。私にも2人の娘がいるが、お遊戯会や運動会の前になると、家の中でいろいろ披露してくれるのが楽しかったものだ。小さいときからダンスを習ったりもしている。

トレーシーを見ていると本当にそうなんだなと確信する。トレーシーは人前で踊りたいという夢を持ち、それを見事に実現できた。簡単に実現できたわけではなく、母親に反対され、一度目のオーディションには失敗・挫折もし、ライバルの親子からの妨害など苦難もあった、だからこそ感動を呼ぶ。

踊り子さんというのは当然その延長線にいる。ようやくデビューできたのに何故すぐに辞めてしまうのか。気に入って、さぁ応援しようと思った新人さんがすぐに辞めてしまうとホント悲しくなってくる。・・・

 

 ともあれ、踊り子さんにはこの映画「ヘアスプレー」を是非観てほしいな。

絶対に、踊り子魂を刺激されて、やる気満々になりますよ。

 

 

                              

 

 

 

 

 

 

 あるベテランの踊り子さんが「お客さんが新人ちゃんのポラを買いたがる気持ちはよく分かるの。だからこそ、これだけ長い私のポラを買ってくれるみなさんには本当に感謝×2なんです。お客さんに支えられてると実感してます」と言っていた。

 たしかに新人さんのポラが売れるというのはヌード目的が大きいが、何度もポラを買っている踊り子さんに対してはもうヌード目的というのはなくなり、純粋にその踊り子さんが好きだからという感情に変わっていく。ベテランの踊り子さんがいつもポラを買ってくれるお客に対して感謝する気持ちというのはよく分かるし、またそういう気持ちでお客に接することはとても大事なことだと思う。

 

 以前話したかもしれないが、「ステージあってのお客ではなく、お客あってのステージ」だと思う。どんなにいいステージをしたって、お客がだれも観なかったらステージは成り立たないわけだから。ステージで食べているという自覚があれば当然そうなる。

 さて、踊り子さんはそうしたお客に対する感謝を何でお返しするかというと、やはりステージで返すということになる。いいステージをして、お客に元気を与える、これがステージの目的なのである。きつい言い方をすると、どんなにいいステージをしていてもお客が満足しなければ、それは自己満足に過ぎず、いいステージとはいえない。

 

ステージとは、お客の人生への応援歌である」と思うことがある。

 いつも健康でステージを観に来てほしい、当たり前だが病気になったりすれば観に来れなくなる。仕事などで疲れていたりストレスが溜まっていたら、劇場で発散して元気になってほしい。劇場に遊びに来るためにも、仕事はしっかり頑張ってほしい。などなど、これらは生きることへの応援なのだ。

 

 私はご存知のように踊り子さんにお手紙を書いている。ある新人の踊り子さんから、これほどストリップに対して熱い気持ちをもっている方を初めてみました、と言われたことがあるが、まさにストリップに対する熱い気持ちというか、こんなことを考えたんだよとついつい話してみたくなる。踊り子さんによっては、内容が濃過ぎるのでもう少しサラッと書いたらとアドバイスしてくれる方もいる(笑)が、私が文章によって自己表現するという趣味に対して頑張って書いてねと励ましてくれる方も多い。その言葉にすごく元気になる。

 たとえばリボンさんも同じじゃないのかな。私なんかから見るとステージも観ないであんな面倒なリボン巻きをせっせとして好きな踊り子さんに奉仕しているわけで、その踊り子さんから感謝されなかったら立つ瀬がない。もちろん本人も自分の技能を発揮できて楽しんでいるものと思うが、やはり踊り子さんからの「ありがとう」の一言が元気の素だろう。

 

 つまるところ、ストリップというのは人間対人間の遊び、つまり人間に興味がないと成り立たない遊びなのだと思う。

 ストリップというのは女性のヌードを見たくて劇場に来るのだろうが、最後にはその踊り子さんに興味がなくなったら足を運ばなくなってしまう。

 たとえば歌手に興味がなくなったら、その人の歌は聞かなくなる。本も同じで、作家に興味がなくなったらその人の書いた本を読みたいとも思わなくなる。時間の無駄とまで思ってしまう。

 本当はそうじゃないのかもしれない。食わず嫌いしたため、もしかしたら素敵なことを得たり吸収できたのに逃してしまったのかもしれない。

 しかし、人間には好き嫌いという感情がある。こと人間がやることは、人間に興味がないとなかなか受け入れないものである。

 

 吸い込まれるような魅力的なステージがあるが、そうしたとき我々ファンはその踊り子さんに人間としてすごい興味をもって望んでいる。

 踊り子さんが、そういうお客に対して関心をもち、そのお客の人生に応援できるようになって初めて、お客は長くファンとして応援し続けるのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 今回は「ストリップの見方/観方」について私なりの見解を述べさせてもらいます。今回も、こりゃ小難しくなりそうだなぁ~ 覚悟してね!

 

 宮本武蔵の『五輪の書』に「観(かん)の目つよく、見(けん)の目よわく」という言葉ある。これは、普通の人は物事のうわべしか見ようとしないが、物事の本質を見極められるように心眼を鍛えなさいという意ですが、このまま話を進めると読んでもらえないので、話をストリップの話に切り換えますね。

 

では、「ステージを観る」と書いたり「ステージを見る」と書いたりしますが、この二つの使い分けを考えたことがありますか?

  だいたいストリップのお客というのは、性欲発散、仕事の疲れを癒しに来るわけで(私のような常連は他にすることもなく自然と足が向くわけだが)、肩の力も抜き、ぼーっとステージを眺めていることが多い。肩の力が抜けすぎるとコックリが始まったりする。(失礼!)こういうレベルはまさに「ステージを見る」ということになるだろう。

  では「ステージを観る」レベルはどうなのか? 漫然と見ているわけではなく、少なくとも身を乗り出して食い入るように見ているわけか。でも、これだけでは性欲発散と区別がつかない。

 おそらく踊り子さんと一体になっている状態ではないか。ステージに吸い込まれている状態とも云えるかな。

 前にも話したが、自信をもった演技というのはステージそのものが語りかけてくることがある。踊り子さんがこれまでどんなに一生懸命に練習してきたか、今回の出し物に対してどれだけ熱意がこもっているか等等、これらは踊り子さんの姿勢であり、思いであり、

人生そのものである。そういう総意がステージから伝わってくることがある。我々ファンはそれをひしひしと感じながらステージを見ることがあるが、それを「ステージを観る」と云うのでないかと私は思う。

 

 では、どうすれば、「見る」ではなく「観る」になれるか?

  一言で云えば、人間に興味を持たなくてはならない。つまり踊り子さんを単なるセックス・シンボルとして見ているうちは「見る」しかできないが、ひとりの女性として興味を持つことから始まる。

 

 ストリップというのは人間観察の場だなと思うことがある。

 踊り子さんというのは外見はみなさん容姿端麗で本当に綺麗な方ばかり。一緒に街をデートしたいなぁなんて考える男もいるだろう。しかし、気の弱い根暗な性格のストリップ・ファンが踊り子さんと付き合えるものだろうか。

踊り子さんの内面というか性格を考えてみよう。ステージに立つこと自体、並みの神経ではできない。一見おしとやかそうに見えても、根は強いはず。一般の女性と比べたら「ど根性ガエル」クラスの強さを持っているのだろうと推し量れる。(失礼!)

 踊り子さんというのは足は開いてくれても、心はなかなか開いてくれない。裸は見せてくれても、本当の姿は見せようとはしないもの。

 

 私は書くのが趣味ということもあって、以前、好きな踊り子さんについて「○○さん物語」でも書きたいなぁ、だから彼女のことをいろいろ知りたいものだと思ったことがある。しかし、踊り子さんというのはいろんな事情があってステージに立っているのであって、あまり個人の事情に深入りすべきでないと思い至った。

 むしろ、「ステージから抱いた自分のイメージ」を大切にしたいと思うようになった。

 踊り子さんは「虚の像」、つまり我々ファンがアイドル像として創り上げるものではないのかな。バーチャルというか、架空世界の人間像になるかもしれないが、それでいいんじゃないのかな。

 踊り子さんによっては、お客さんと親しくしようと近づいてくれる方もいるが、(個人的なお付き合いは別だが)一般客と親しくするにしても一線は守るべきなのかなと個人的には思う。踊り子像という偶像をキープするためにも。

 

 踊り子さんも、せっかくこのお仕事をしているわけだから、男性観察の場としてとらえたら面白いと思う。

 ほんとにいろんなタイプの男性がいるよね。一生懸命にあそこを見ているときも、男のいやらしさだけでなく、男のかわいさなんかも感じないかな。私も単なるスケベ親父ではないよと言いたくてこうして文章を書いたりしている。一人の人でもいろんな面を兼ね備えている。だから人間っておもしろいのだと思う。

 悪い人はほとんどいないと思う。だからこそ、劇場という場を借りて、楽しくお付き合いするのが一番いいのだと思っている。

 

 

 

 

 

 

 最近、踊り子さんやストリップ仲間から、ブロクの苦情をよく聞く。気楽にお喋りができて手軽で便利なものだが、ひとつ間違うと厄介なものに変ずる。

 ひどいことを書く輩がいるためだ。マナー違反にも程がある。

 踊り子さんを中傷する中には、以前その踊り子さんのファンだったが、相手にされないのか逆恨みしているという輩、そういうのが一番性質(たち)が悪い。困ったものだ。

 ちなみに、私は今は単身赴任で会社でしかインターネットを見ないので、こういうブロクはほとんど観ることはない。

 

 言葉というのは時に刃(やいば)になって人の心に突き刺さることがある。

 踊り子さんとのコミュニケーションでもちょっとした配慮なくして放った言葉が知らずに傷つけてしまうこともある。

 反省も含めて、いくつか思いつくことを述べてみたい。

 

 新人さんがデビューした初日、彼女のポラが飛ぶように売れていた。まさに行列のできるポラだった。

 新人でこれだけサインするのも大変だ。私はいつものように手紙を添えてポラサインを頼んだのだが、驚いたことにしっかり返事が返ってきた。気に入って毎回ポラを買って、ラストは劇場にポラを預けておいてほしいとお願いした。そのとき、彼女が「お手紙書きたいんですがいいですか?」と言っていた。

 またその劇場に行った時に預けていたポラを回収した。添えてあったお手紙に感激した。

私のエッセイへの感想に始まり、いろんなことが書いてあった。その中に、デビュー初日の体験談があり、こんなことが記されてあった。名前を伏せてそのまま載せさせていただく。

『私は人が何気なく放った一言でダメになっちゃうんです。今日いきなりソレがあって...4stの時は目がすこし赤くなっちゃってて・・。「サイン早く!」ってそのお客さんが何気に言った一言で、もう限界だったんです。忙しくて休憩が全く無い位にたくさんの楽屋ポラ・・・。私は基本的にポラにサインだけってのはすっごく嫌なので、ゆっくり書きたいのにーっ!無理―っ!ってパンクしてしまいました。一瞬・・なんで?こんなにいっぱいいっぱいなのに全部書く時間なんて無いよ?って、サインですら書き慣れないのに・・って頭の中はもうマイナスのことで埋まってしまいました・・。』

 気持ちがよく伝わってきた。

 私の隣の席のお客がたしかにそう言っていた。そのときには聞き流していたが改めて考えたら、ポラはあくまでサービスなんだから急かすなんてマナー違反だよな、と彼女に同情した。同時に、そんなお客の顔は忘れてしまった、という彼女の気持ちの切り替えにも感心させられた。

 

 もうひとつ、Mさん(桜澤まみさん、H19引退)への一言。

 Mさんはいろんな演目に挑戦するので、毎回出し物に興味をもって観ている。

 少し前の出し物で「ドラゴンボール」があった。太極拳らしくしっかり足も上がっており、よく練習したあとが感じられた出来栄えだった。ただ、よい演技であるがゆえに、たったひとつ側転の出来が気になった。ショーが始まってすぐの側転のため、きれいに決まるのを期待して観てしまうからだ。

 踊り子さんの中には側転の上手な人が多い。一般に、雨宮琴さん(H19引退)や三浦アイカさん(引退)のように身体の細い方が身軽で上手い。私の好みのヒップの大きい方はあまり得意ではない、が、雨宮衣織さん、葉山小姫さん、上原舞さん(H19引退)、杏野ルイさんなどはカッコよく決めてくれる。側転がうまく見えるコツは、できるだけ床と90℃に近く足を回すことだ。

 フィギュアスケートのようにひねりの回転系にはヒップの大きく下半身に安定感があった方がいい。ところが、そういう方は器械体操のような回転系向きではない。側転は器械体操の部類になる。

 Mさんはヒップが大きいので側転には向かないと思えた。せっかくいい演技なので、むしろこの側転を抜いて構成し直したらどうかと思ったほどだ。

 新作を見た最初のポラのときに、すごくいい演技であること、合わせて後は側転をうまく練習したらいい旨を口頭で一言話した。

 さりげなく話したつもりであったが、次に仙台ロックで会った時の第一声が「側転どうだった?ちゃんと観てくれた?」であった。頭のいい彼女のこと、ずっと私の一言を気にしていたのだった。正直驚いた。いい加減なことは言えないなぁと考えてしまった。

 

 長くなって恐縮だが、もうひとつ、Iさん(林泉水さん、H24引退)との一言。

 人魚姫の演目はわりかしポピュラーで、何人かの方のステージを見てきた。私の記憶に残っている方でも、TSの早瀬みなさん、ロックでは佐藤美砂さん、林泉水さん、小池菜奈さん、そしてさいとう真央さん等がいる。いろんなことに積極的に取り組む方は一度は演じてみたいと思う演目のひとつかなと思う。

 Iさんの人魚姫にこんな思い出がある。

 私が彼女の人魚姫を見る前に、知っているファンの方からIさんの新作について話を聞いた。彼曰く、今度のIさんは汚れ役に挑戦していた。ドラックを飲んでステージでふらふらしていた、と言う。えぇ~っ 本当かぁ??

 実際に彼女のステージを見ながら、おもわず彼のセリフを思い出して笑ってしまった。Iさんは、人魚が人間になるための薬を飲む場面を演じていたのだ。彼の勘違いにも程があるね。Iさんのファンとはとてもいえないなぁ。

 私はつい面白半分で、そのことをお手紙に書いた。あわせて、衣装を変えたほうがいいとアドバイスを添えた。ふつう人魚姫の衣装は下半身が魚の格好をしたもの。その点、彼女の衣装はふつうのパンツルック。色は水色とはいえ、できれば魚の鱗が入ったデザインが望ましい。勘違いされないためにも、衣装を変えてみたらどうでしょうか、と書いた。

 いつも気さくに手紙へのコメントをくれる彼女が、そのことに一切触れてない。しかも、次に観に行ったときには早々に人魚姫の演目を止め新作になっていた。もしかして私の一言が気に障ったのかなと頭をよぎった。いまだに直接確かめる勇気もないまま、相変わらずファンとして応援は続けている。

 

 踊り子さんからはよく新作やステージの出し物の感想を聞かれますが、不用意な発言は控えるべきだと反省しました。

 本人はもちろん真剣に取り組んでいるわけで、面白半分で言ってはいけないことは当然のことながら、一方で的を得ている場合も問題です。簡単に直せないことだってありますし、気に障ることだってありますよね。

 聞かれたときには、よいところを見つけて褒めてあげるのが一番いいのかなと思います。

なかなか難しいことです。

 

 

平成18年                        

 

 

 

 

 

 

 本屋に行くとよく「××を10倍楽しむ方法」なるタイトルのノウハウ本が並んでいる。今回は私も負けずに「ストリップを10倍楽しむ方法」なるものを考えてみた。

 

1.     ヌード観賞を楽しむ

 

あたりまえのことだが、ストリップに行くということは女性のヌードを観に行くこと。

ここで大切なことは、楽しんで観ること。せっかくお金を払って劇場に入ったのだから、恥ずかしがってこそこそすることもなく、盆前でもどこでも気に入った席に座って堂々と観ればいい。また難しい顔をする必要はなく、楽しければニコニコして観ればいい。ニヤニヤ顔で見たって構わない。踊り子さんにはニコニコもニヤニヤも区別つかない(笑)。

 私がストリップに通い出した頃、相沢かれんさんから「いつも、どうしてそんなにニコニコしているんですか?」と言われたことがある。それに対して私は「だって、楽しくてしょうがないんだもん」と答えた。それを聞いたかれんさんが嬉しそうな顔をして「それを聞いて、ますますヤル気が出てきたわ」と言ってくれた。

 踊り子さんが美しいヌードを披露してくれ、それをお客がまさに穴があくほど一生懸命に見て楽しむ、それを見た踊り子さんがまた張り切って頑張る。この「楽しさのサイクル(輪)」こそがストリップの基本パターン。「お盆は楽しさを回す輪(リング)」だといつも思っている。

 以前、ある劇場で見知らぬおっさんから「あんたはいい表情(かお)でステージを観ているねぇ。あんたの表情(かお)を見たら、踊り子さんはすごく喜ぶわな」と言われた。踊り子さんから「太郎さんの笑顔はとてもいい」とよく言われるが、お客さんから言われたのは初めてで驚いた。また、そのおっさんの言い方がとても粋な感じがした。

 ストリップを粋に楽しむ。そんな見方ができたら最高だなぁと思う。

 

2. ショーとして楽しむ

 

 一般にストリップというとヌード観賞ということになるが、単にヌードだけを楽しむのはエロの域を超えない。本当の楽しみは「ショーとして楽しむ」ことにある。踊り子さんは日夜ショー・アップすることに全身全霊を注いでいる。そこを評価し観賞できれば本物のストリップ・ファンになれる。

 ショーにはそれぞれの踊り子さんの個性が反映される。だから、踊り子さんの数だけショーが楽しめ、また1人の踊り子さんが努力して多くのレパートリーに挑戦する分だけ相乗的にショーの数が増える。

ストリップがファンの心を離さないのは、ひとえに飽きることなくショーが楽しめるからである。

 

さて、そこまでは常識だが、それ以上にストリップを楽しむ通としてのポイントを思いつくまま話してみたい。

 

3. 踊り子さんと仲良くなること

 

ストリップにはまる1つのきっかけは、特定の踊り子さんを気に入ること。せっせとポラを買ったり、中には出演する劇場を追っかけたりする(プライベートまで追っかけるとストーカーになるから注意!)。

今の私も、劇場を選ぶポイントは親しくしてもらっている踊り子さんが出ているかどうか、その踊り子さんの応援が主目的になっている。顔見知りのストリップ仲間はたいがいこの部類に入っている。

踊り子さんと仲良くなるためにはどうするかという点についてはたくさん話したいことがあり長くなるので別にまとめて話す。

ここでひとつ付け加えておきたいのは、踊り子さんと仲良くなるためには、ファンの努力も当然だが、踊り子さん側もいいファンを作るために努力がいるということだ。私が始めて劇場通いを始めたのは若松劇場だったが、初めて早見聖子さん(H16引退)のステージを見たとき彼女の美しさに感服した。まさに「一服の絵」を見ているようだった。そこでポラを撮り始めたが、何度ポラを撮っても彼女とは親しくなれる感じがしなかった。愛想ないのだ。自然に冷めていくものがあった。その点、対照的にいりえまこさん(H18引退)のスマイルにはどんどんはまっていった。まこさんも童話をかいたりしているらしく、私の手紙やエッセイによく反応してくれた。つまるところ、ファンに楽しいなぁ~と思わせる努力をしている踊り子さんの方がやはり魅力的。こういう方は私の顔を見ただけで嬉しそうにしてくれる。それを見て私も来て良かったな思う。ファンはそういうエネルギーに引き付けられて劇場に足を運んでしまうのだと思う。

 

4.「創造の喜び」を感じること

 

 ストリップを通じて「創造の喜び」を感じるというのは究極の楽しみ方だと思う。

 どういう方が「創造の喜び」を感じるかというと、もちろんストリップに関係する方々は当然だろうが、例えばダンサー、振付け師、デザイナー、脚本家などの仕事をしている方なんかは職業柄ストリップを通じて刺激されるものがきっとあるだろう。

 以前、絵描きらしき人が、ストリップを見ながら即興で踊り子さんの似顔絵を書いて、踊り子さんに渡しているのを見かけたことがある。絵心のある人は絵を通じてストリップから「創造の喜び」を感じることができる。ただ、踊り子さんにとっては絵に夢中になっていてステージをちゃんと観てくれないのは嫌だろうね。

 私の場合はご存知のように文章で表現しようとする。大好きなストリップを通じて感じることを文章にまとめたいという願望が沸々と湧き上がってくる。よく踊り子さんに手紙のネタが尽きませんねと感心されることがあるが、どんどん湧き出してくるのでネタには全く困らない。

 クマのプーさんのお話の中に、うららかな春の日差しの下でプーさんがのほほんと唄を歌ってて、それを見た忙し好きのウサギが「プーさんはいつものんきに唄なんか歌っていていいね」と小馬鹿にするシーンがある。そのとき、プーが「ぼくは唄を歌っているんじゃないんだ。唄が勝手に僕の中に飛び込んでくるんだ」という。なるほど、いい唄というのは、作曲家が死に物狂いで作り上げるというのでなく、むしろ作曲家の中に自然に入り込んできたメロディをそのまままとめただけということが多いという。私もストリップを見ているとリラックスした気分になっているので、いろんな声が飛び込んでくる。それを「書いておけ」という神の声に従ってまとめているだけ。仕事でもないから全然苦痛にならないし、それどころか楽しくてしょうがない。正直、私はこれに嵌まったからストリップの魅力から抜けられなくなった。

 以前「人生において必要な知恵は全て幼稚園の砂場から学んだ」という本が大ベストセラーになったが、まったく同様に私には「人生の大切なものが全てストリップの中に見える」気がしている。真理が見え、物語がある。それをそのまま文章にしてみたいと常々考えている。

 

 最近、ストリップに関する自分のブログを作っている方も見かける。情報の提供、データの整理、日記風のコラムなど。これも典型的な自己表現のひとつ。

 こうしたファンや踊り子さんが作ったブログを通してストリップを楽しむことも可能だ。

 

 踊り子さんも自分自身でステージを創ろうという域に達してくると、単にいわれるがままに踊るのとは全く違った喜びを感じ出す。

「創造の喜び」の世界は無限である。これを知ってしまうと抜けられなくなるほど楽しい。

 

5.「自己実現の喜び」を知ること

 

 ステージというのは踊り子さんの自己実現の場。いうまでもないが、本来持っている美、それに加え、培った演出の美をステージという場を借りて表現する。それは神が踊り子さんという特別な人に与えたもうた特別な世界だと私には思える。

このステージという特別な場で、唯一お客の立場で自己実現の喜びを感じている方がいる。それはリボンさん。

 リボンさんを見ていると、大好きな踊り子さんのために嬉々として奉仕している。踊り子さんが喜ぶだけでなく、観客も喜び、なによりもリボンさん自身が喜んでいる。

リボンさんにとっては、そこが自分の腕・技を披露できる場でもある。

 

仙台ロックでは常連さん達がコスプレを楽しんで場を盛り上げている。コスプレ自身が楽しいものであるならば、それも自己実現のひとつと言えよう。

お客さんの中には、踊り子さんにお金をばら撒いている方もいる。遣い切れない老後の余資を大好きな踊り子さんに奉仕するのも老人のひとつの自己実現とも云えるだろう。他人にものを与えるというのは快感である。彼はGIVEの喜びを得て満足しているのだから、踊り子さんも遠慮することはない。

それぞれ、このステージという場でいろんな喜び、楽しみを感じている。

 

 以上、私が勝手に思いつくことを記したが、他にもストリップを通じていろんな楽しみ方があると思う。また、いろんな楽しみ方があって欲しいとも思う。

 ひとりでも多くの方が、ストリップの世界に触れ、その魅力を楽しんでほしいものだ。

 

平成19年