今回は「ストリップの見方/観方」について私なりの見解を述べさせてもらいます。今回も、こりゃ小難しくなりそうだなぁ~ 覚悟してね!

 

 宮本武蔵の『五輪の書』に「観(かん)の目つよく、見(けん)の目よわく」という言葉ある。これは、普通の人は物事のうわべしか見ようとしないが、物事の本質を見極められるように心眼を鍛えなさいという意ですが、このまま話を進めると読んでもらえないので、話をストリップの話に切り換えますね。

 

では、「ステージを観る」と書いたり「ステージを見る」と書いたりしますが、この二つの使い分けを考えたことがありますか?

  だいたいストリップのお客というのは、性欲発散、仕事の疲れを癒しに来るわけで(私のような常連は他にすることもなく自然と足が向くわけだが)、肩の力も抜き、ぼーっとステージを眺めていることが多い。肩の力が抜けすぎるとコックリが始まったりする。(失礼!)こういうレベルはまさに「ステージを見る」ということになるだろう。

  では「ステージを観る」レベルはどうなのか? 漫然と見ているわけではなく、少なくとも身を乗り出して食い入るように見ているわけか。でも、これだけでは性欲発散と区別がつかない。

 おそらく踊り子さんと一体になっている状態ではないか。ステージに吸い込まれている状態とも云えるかな。

 前にも話したが、自信をもった演技というのはステージそのものが語りかけてくることがある。踊り子さんがこれまでどんなに一生懸命に練習してきたか、今回の出し物に対してどれだけ熱意がこもっているか等等、これらは踊り子さんの姿勢であり、思いであり、

人生そのものである。そういう総意がステージから伝わってくることがある。我々ファンはそれをひしひしと感じながらステージを見ることがあるが、それを「ステージを観る」と云うのでないかと私は思う。

 

 では、どうすれば、「見る」ではなく「観る」になれるか?

  一言で云えば、人間に興味を持たなくてはならない。つまり踊り子さんを単なるセックス・シンボルとして見ているうちは「見る」しかできないが、ひとりの女性として興味を持つことから始まる。

 

 ストリップというのは人間観察の場だなと思うことがある。

 踊り子さんというのは外見はみなさん容姿端麗で本当に綺麗な方ばかり。一緒に街をデートしたいなぁなんて考える男もいるだろう。しかし、気の弱い根暗な性格のストリップ・ファンが踊り子さんと付き合えるものだろうか。

踊り子さんの内面というか性格を考えてみよう。ステージに立つこと自体、並みの神経ではできない。一見おしとやかそうに見えても、根は強いはず。一般の女性と比べたら「ど根性ガエル」クラスの強さを持っているのだろうと推し量れる。(失礼!)

 踊り子さんというのは足は開いてくれても、心はなかなか開いてくれない。裸は見せてくれても、本当の姿は見せようとはしないもの。

 

 私は書くのが趣味ということもあって、以前、好きな踊り子さんについて「○○さん物語」でも書きたいなぁ、だから彼女のことをいろいろ知りたいものだと思ったことがある。しかし、踊り子さんというのはいろんな事情があってステージに立っているのであって、あまり個人の事情に深入りすべきでないと思い至った。

 むしろ、「ステージから抱いた自分のイメージ」を大切にしたいと思うようになった。

 踊り子さんは「虚の像」、つまり我々ファンがアイドル像として創り上げるものではないのかな。バーチャルというか、架空世界の人間像になるかもしれないが、それでいいんじゃないのかな。

 踊り子さんによっては、お客さんと親しくしようと近づいてくれる方もいるが、(個人的なお付き合いは別だが)一般客と親しくするにしても一線は守るべきなのかなと個人的には思う。踊り子像という偶像をキープするためにも。

 

 踊り子さんも、せっかくこのお仕事をしているわけだから、男性観察の場としてとらえたら面白いと思う。

 ほんとにいろんなタイプの男性がいるよね。一生懸命にあそこを見ているときも、男のいやらしさだけでなく、男のかわいさなんかも感じないかな。私も単なるスケベ親父ではないよと言いたくてこうして文章を書いたりしている。一人の人でもいろんな面を兼ね備えている。だから人間っておもしろいのだと思う。

 悪い人はほとんどいないと思う。だからこそ、劇場という場を借りて、楽しくお付き合いするのが一番いいのだと思っている。