最近、踊り子さんを三つの目(観点)、すなわち「美」「愛」「心」から見るようになった。

 

1.「美」の目

 

 ストリップというのは「動く美術館」。アートの世界である。

 女性のヌードそのものが美であるとともに、ショーアップされたステージは美の演出である。浅草ロックを観劇すると、まさにそう感じる。一見客にとっては「美」の目だけで必要十分である。

 我々ストリップ・ファンも、踊り子さんの持つ美の部分から目を奪われていくことは間違いない事実。まずは外見、つまりルックス、スタイル、そして踊りの上手さなど目に見える部分から踊り子さんを評価していく。その結果として、彼女のファンになり、追っかけが始まっていくことになる。

 

2.「愛」の目

 

 私は「美」だけでファンになるわけではない。もうひとつ別の何かが自分の感性に訴えてこないと踊り子さんとの関係は長続きしない。それを私は「愛」というキーワードで整理している。

一言で「愛」と云っても、その概念は広い。大切なのはお互いが互いに関心を抱いている事実。私が一方的に踊り子さんを好きでもダメ。踊り子さんが私のどこか、それは私の笑顔、手拍子・拍手、私の手紙・エッセイなど、なんでもいいから太郎ワールドのファンにならないとやはり関係は続かないことになる。その相思相愛関係の維持のために「愛」が潤滑油になる。

お気に入りの踊り子さんと接していると愛に満ちてくる。その感じがとてもいい。ファンとして長く応援させて頂くために、その「愛」を大切にしていきたいと考えている。

 

 話が少しそれるが、ストリップにおける最大の問題点は「飽きること」だと思う。いくら好きでも毎日追っかけるうちに新鮮味が薄れてくる。ときめきを感じなくなる。これはファン側だけでなく、踊り子さん自身にも云え、ファンに対して新鮮味がなくなっていくと対応がおざなりになってくる。お互いのマンネリこそがストリップ最大の癌だと思う。踊り子さんはファンに飽きられないために必死だろう。新作を次々と出したり、踊りの練習に励み、ファン・サービスにも心を砕く。後からどんどん新人がデビューしてくるわけだから、何もしないで現状のままというのは実質後退を意味する厳しい世界でもある。

 この癌への特効薬があるすれば、それは「愛」なのだ。踊り子というのは沢山のファンの愛に支えられて輝く存在。愛に応えるために、愛をもってステージを演じる。その相思相愛の関係が持続していれば人気は不動になる。踊り子とそのファンは、その踊り子がステージにのっているほんの短い間で小さな小さな愛のドラマを演じている。

 一般の恋愛でも、最大の危機はマンネリにある。ところが、結婚してしまえばその愛は持続する。しかし、ストリップの場合、結婚するわけにはいかないが、同じ状態になればいいわけだ。

ストリップの愛は、一般の愛と比べると、サラッとした「ゆるい関係」にある。男性側としては会いたいときに会いに行ける自由度の高いところに特徴がある。単なる遊びだと割り切ってしまえばそれでもいいのだが、ある意味、その愛の特徴を活かしたらいい。私は片思いでも擬似恋愛でもなんでもいいから、愛を感じるためにストリップに通っている。

 

3.「心」の目

 

 そして、最後は「心」となる。

「愛」と「心」は表裏一体。愛があるから心に訴え、心が通じるから愛を感じる。

 お互い愛し合っている夫婦でも、心の通い合いというのが大切。長く夫婦関係を続けていると、お互い空気のような存在にはなるが、だからこそお互い心が通じていることを確かめ合うこと、そしてその時間が必要になる。それが夫婦の‘対話’であったり、時に身体を重ね合う‘体話’であったりする。そうした努力をまめにし続けないと夫婦といえども関係が破綻していく。

 ましてや、ストリップの場合、踊り子さんと話す時間はほとんど無い。ポラ・タイムのほんの短い瞬間だけ。ただこの時間は二人だけに与えられた貴重な一瞬。お互い目なり表情なりでも語り合える。関係を維持するための最低のコミュニケーションは可能。だから関係維持のためファンは皆ポラを買って挨拶をするのである。

 

 人間は感情の動物である。踊り子さんとファンは、お互い愛を演じながらも、心が通じてないとやはり関係は冷めていく。やはり、長い間ファンとして応援し続けるためには、なにがしかの心の通い合いが大切なのだと思う。

 ストリップという縁を通じて知りあったわけだから、できれば、その縁を楽しく活かしたいと思って踊り子さんと接している。

 

 

 まだまだ言いたいことはたくさんあるけれど、私の勝手な思いをつらつら聞くのも疲れるでしょうから、この辺で一旦区切りますね。