「智、そのハンカチ、すげえいい色だね。」

 

トイレで遭遇した翔が僕の手元に目をやって言う。

 

 

「あ、これね。」

 

ついこの間、母の誕生日プレゼントを探しに行ったデパートでつい買ってしまった物だ。

この青に惹かれて。

 

 

「ってか、智ハンカチたくさん持ってない?なんかいつも違うの持ってるみたいなイメージ。」

 

「ふふ。うん。なんか集まっちゃって。・・・20枚くらいはあるかも。」

 

「多っ!俺まずそんなに持ってるアイテムが無いかも。」

 

「ふふ。ハンカチでもさすがにかさばって来てるよ。」

 

「だろうね。」

 

 

今日は朝から雨で、自転車で来られなかった。

カーテンを開けて雨が窓を濡らしているのを見た瞬間からモヤモヤが止まらないのは、きっと昔の感情を引きずったままだからだと分かっている。

そしてそんな日は、青いハンカチを選んでしまうことも、最近薄々分かってきているところだ。

 

 

 

 

雨の日は潤と二人乗りができなかった。

雨の朝は目に見えて元気の無い僕に、母はいつも言ってくれた。

 

「雨がやまなかったことなんて無いんだから。」

 

 

僕は「そりゃ、そうだけど」なんて言いながら、母が出してくれる牛乳を飲んで、朝ごはんを食べる。

 

 

「雨だねー。」

 

「うん。」

 

家の前で顔を合わせると、残念そうな声で潤が言う。

でも、僕ほどは落ち込んでいない。

それは、気持ちの大きさの差なんだと、僕は思っていた。

 

 

「智、今日は俺んち来てよ。」

 

「ん?」

 

「雨やまなかったら、自転車無理じゃん?」

 

「んー。」

 

「いいっしょ?」

 

「いいよ。何すんの?」

 

「んー。ゴロゴロする?」

 

「ふふふ。」

 

「明日のための休息日ってことで。」

 

潤が歯を見せて笑って、僕はその笑顔に癒されて。

「まあいいか」って少し気持ちを楽にした。

 

 

 

自転車に乗って隣町のそばまで行くといつも、帰ってくる前に僕らは河原で座って話をした。

話と言っても、小中学生の男子がする話なんてたかが知れている。

内容の薄い、笑い話がほとんどだった。

 

 

でもたまに、僕らは将来の話をした。

どんな風にずっと同じことをしているかを。

どんな風にまだ一緒にいるかを。

 そして2人ともが、本気でそれを望んでいた。

 

望んでいたのだけど。

 

 

 

 

 

「青が好きなんだよね。」

 

僕は手の中のハンカチを見ながら翔に言う。

 

 

「はは。うん、そうだろうね。」

 

「なんか、気持ちのいい空の色とか。思い出も含めて、青にたくさん関わりがあって。」

 

「ふーん。智は五感をすごく大切にしてるんだね。」

 

「五感?」

 

「うん。この間は匂いでなんか思い出すって言ってたし、それが嗅覚なら、青色でって言うのは視覚。多分、いろんなことをちゃんと感じながら生きてるんだよ。」

 

「・・・なるほど。」

 

「ははは。にしても最近なんか昔のこと色々思い出してるんじゃない?なんかあった?」

 

 

「いや、なんもないけど。」

 

 

何もない。

けど、きっとなにか起きて欲しいと、本能的に求めているのだろうと思う。

パイナップルジュースの香りをきっかけに、上手くしまい込んだと思った感情が漏れ出して。

寂しいとか、恋しいとか、悔しいとか。

そういう、忘れたかったやつらが僕にまとわりついて。

 

 

昔からずっと、そう、潤と会えなくなってからずっと、僕はこの複雑な感情とうまく付き合う術を見つけられずにいる。

たまに戻ってきては胸の中にくすぶる感情たちに、少なからず心を乱されるのだ。

なにをすれば慣れるのかも分からないし、誰かに相談したこともない。

そんなんだから、僕だけずっと潤が恋しいまま。

 

 

「まあ、俺も少しくらいはそういうのあるから分かるけど。俺で良ければ聞くからさ。」

 

「ふふ。うん。ありがと。」

 

「・・・そのつもりはなさそうだね。」

 

「え?ふふ。まあ、自分でもよく分からないんだよね。」

 

「そっか。ま、俺がいること覚えておいてくれればさ。」

 

「うん。」

 

 

僕らは笑顔を交わし合って、それぞれの仕事に戻る。

 

僕の頭の中にはやっぱり潤がいて、白い歯を見せて笑っている。

最後に見た潤は、太めの眉を怒らせて、僕を睨めつけていたけれど。

 

 

 

 

 (つづく)

 

 

満面に笑みをたたえた潤が両腕を後ろにして僕の前に立っている。

 

 

「智、今日はなんの日でしょう。」

 

なんで毎年、潤の方が嬉しそうなんだろう。

もちろん僕は潤に今年も祝ってもらえることを喜んでいた。

 

 

「ふふふ。さー、俺にはちょっと。」

 

「はあ?ふざけんな。ちゃんと答えて。」

 

「んー。ああ、もしかすると、俺が14年前に生まれた日?」

 

 

「大正解!!ハッピーバースデー!!」

 

 

潤は更に笑顔を大きくすると、不器用に包まれたプレゼントを僕に押し付けるようにしてくる。

僕はそのところどころクシャクシャした包みを受け取ると、努めて冷静にお礼を言う。

 

 

「毎年ありがとうございます。今年はなにかな。」

 

「まあ、落ち着いていられるのも今だけだぞ。開けたら俺に抱きついてくるかんな?」

 

「ホントかよ?」

 

 

いい考えだな。

なんて考えながら、ニヤつくのを我慢して家の前の道路に座り込む。

 

 

「あ、中入る?」

 

リボンに手をかけてからふと思いついて言う。

 

 

「ん?どっちでも。今日そんなに寒くないし。」

 

「や、部屋行こうぜ。万が一抱きつきたくなったら恥ずいから。」

 

「万が一じゃねーし。もう100パー抱きついてくるし。」

 

「じゃあ、恥ずいから中行こうぜ。」

 

 

僕は立ち上がると、先に立って玄関のドアを開ける。

 

中では僕の誕生日だからと休みを取った母が僕の好物を作る匂いがしている。

ホワイトシチューだ。

他にもいろいろあるらしい。

「今日は張り切るよ」って今朝言っていた。

 

 

「めっちゃいい匂い!」

 

潤が大きな声を出すと、母がキッチンから声をかける。

 

 

「今日、潤も一緒に食べるよねえ?」

 

「うん。食べる。後で母ちゃんが飲み物買ってきてくれるから、持ってくる。」

 

潤が応えながらキッチンを覗く。

 

 

「ああ、そんなのいいよ。連絡しとこ。」

 

「いつものサラダは作るって言ってたけど。」

 

「ああ、それは大歓迎。」

 

 

母はニッコリ笑顔になると、僕の手の中の包みに気づいて、潤に聞く。

 

 

「また奮発したの?」

 

「まあまあね。でも毎年怒られるから、そんなにはかけてない。」

 

「ははは。智が潤のときにお金かけたくないからでしょ。」 

 

「そんなわけあるか!ほら潤、部屋行こうぜ。」

 

「おう。」

 

僕は潤の腕を引っ張ると2階にある僕の部屋を目指す。

 

 

「智、ケーキは何選んだの?」

 

引っ張られるままに後ろを歩く潤が聞く。

 

「今年はチョコレート。どこのかは知らないけど。」

 

「へえ、チョコケーキか。」

 

 

部屋に入ると、僕は早速床に座り込む。

 

 

「開けるよ?」

 

「どーぞ。」

 

「なんか柔らかい?」

 

「だね。」

 

潤は僕の正面にあぐらをかいて座る。

 

 

包みを開くと、マフラーと手袋、それにマフラーに包まれた魚のぬいぐるみが出てくる。

 

 

「なにこれ!?サバ?すげえ!」

 

「ふはは!やっぱりそれが一番テンション高いかー。」

 

「サバ!」

 

「そっちはチャリの時寒くなってきたからいるかなーって。」

 

「うん!いる!サイコー!ありがと、潤!」

 

「うん。おめでと、智。」

 

 

「ハグ!ハグするわ!」

 

僕は立ち上がると潤の手を取って引っ張りあげる。

そして、そのままガッシリとハグをする。

 

 

「ほらね、言ったじゃん。」

 

「知らねー。」

 

「ふははは!」

 

潤がギュッと抱き締め返してくれたのを合図に、僕は潤から離れる。

 

 

「サバ見つけた時の俺のテンションも相当なもんだったかんね。」

 

「ふふふ。」

 

「父ちゃんがビビってたもん。え、サバ?って。」

 

「ふふふ。」

 

「手袋とマフラーは必須だったけど、もう1個なんかって思ってたらさ。」

 

「うん。まじサンキュー。今日から一緒に寝るわ。」

 

 

僕はサバを拾い上げて抱きしめる。

 

潤はそれを見て一瞬黙ると、すぐに破顔して言う。

 

 

「ふは。ちょっと俺にも。」

 

「なんでよ。」

 

「いいじゃん、ちょっとだけ。」

 

僕が潤にサバを渡すと、潤はすかさずギュッと抱きしめる。

 

「きもちー。俺も買おうかな。」

 

そう言いながら頬ずりまでしているのを見ると、なんだかちょっと嫉妬してしまう。

 

 

「返せって。」

 

僕は潤からサバを奪い取ると、ベッドの上にポイと放り投げる。

そして座り込むと、マフラーと手袋をそれぞれ身に着ける。

 

 

「似合う。」

 

「そう?」

 

「うん。いつもよりカッコいい。」

 

「ふふ。」

 

「その青が似合いそうだと思ったんだよね。」

 

「うん。いい青だね。」

 

 

それは、いつも二人乗りしている自転車と同じ、鮮やかだけど派手すぎない、僕のお気に入りの青だった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「で、さっきなんだって?」

 

「ん?あれ、なんだっけ。」

 

「ははは。じゃ、ちょっとおトイレ行ってくるから、思い出しといて。」

 

そう言って翔は席を立つ。

 

 

「あ、思い出した、今夜空いてる?」

 

僕は歩く翔の背中に言う。

翔は振り向いて、少し考えるようにして答える。

 

 

「空いてるー、とー、思う。ちょっと待ってて、漏れるから。はは。」

 

 

翔はそれだけ言うと、急いで行ってしまう。

 

翔が行ってしまってから、僕の正面に座る後輩が僕を見ているのに気づいて、目線を合わせる。

 

 

「どした?」

 

「あ、いや。仲いいなーと思って。翔さん、智さんと話すときちょっとふざけるじゃないですか。おどけるっていうか。」

 

「んー?」

 

「ずっと思ってたけど、俺、他の人とあんな風に喋る翔さん見たことないです。」

 

「へえ。」

 

「ちょっと可愛くなるの、いい関係だなって。」

 

「ふふ。そうか?まあ同期だからね。」

 

「二人が喋ってるとなんかホッとします。」

 

 

そうか。

普段、翔はちょっと気取っているからな。

でも確かに、部長も進んで翔を飲みに誘おうとしない。

翔の楽しさを知らなくて、ただの優秀な部下だと思っているのかもしれない。

他の社員もどちらかと言うと翔は尊敬の対象で、僕に対するときとは少し違っているのかもしれない。

 

 

「ただいま。」

 

「翔、休憩入れる?」

 

「ん?ああ、いいよ?ラウンジでも行く?」

 

「5分くらいだけど。」

 

「ああ、俺もそのくらいで戻らなくちゃだし。」

 

 

僕らは揃ってラウンジへ向かう。

コーヒーメーカーには朝誰かが作っておいてくれたコーヒーがまだ残っている。

それとも、もう何回目かを他の誰かが淹れてくれているのだろうか。

 

翔が先にカップを2つ手に取って、さっさとコーヒーを注いでくれる。

 

 

「あー、俺マグカップ持ってこようと思ってんのにずっと忘れてるー。はいよ。」

 

「ありがと。はいよ。」

 

僕は誰かが置いたお土産の缶から鳩サブレを翔に手渡す。

 

 

「鳩サブレのお土産とかセンスいい。」

 

「ふふ、ホント。これ大好き。」

 

「ラッキー。」

 

 

僕らは丸テーブルの12時と15時の位置に座って袋を開ける。

 

 

「今夜がなんだって?」

 

「ああ、そうだ。部長のストレス解消、誘われてて。奢りだっていうから翔もどうかなって。」

 

「ああ、部長か。」

 

「うん。19時以降にしてって言ったからそのくらい。」

 

「俺はてっきり智と飯でも行けるのかと思ったよ。」

 

「え?」

 

 

翔はニコニコしながら鳩サブレを大きくひとかじりする。

そしてそのまま頬を膨らませてモグモグしていて、何も言うつもりはないらしい。

 

 

「そういや、さっき永瀬が翔のこと可愛いって言ってたよ。」

 

「は?なんで?」

 

「漏れるとか言うからでしょ。ふふ。」

 

「ははは。周りにみんないるの忘れてた。」

 

「ふふふ。なにそれ。」

 

 

翔は残りのけっこうな大きさの欠片を口に入れると、また何も言わずにニコニコしている。

確かに可愛い。

こういうふざけたところを見ると、完璧なだけじゃない魅力を感じるのはなにも永瀬だけじゃないだろう。

 

 

潤も、そういうところがあったな。

あのクッキリとした尖った目を、ちょっと怖がっている同級生も少なからずいたのを知っている。

 

逆に、あの白い歯を思い切り見せた大きな笑顔を見たことがある人が、どのくらいいたのだろう。

 

 

ああ、あの笑顔をなぜ今の僕は見ることができずにいるんだろう。

 

最近の僕は潤のことばかり考えている。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「今日50m測った。」

 

あれは小学校最後の年。

 

 

「あ、俺も水曜日だ。」

 

「俺、間違って本気で走っちゃったんだよね。」

 

「どういうこと?」

 

「リレーの選手にされるかも。」

 

「ふはは。いいじゃん。」

 

「やだよ。めんどくさい。」

 

 

目立つのは嫌いだ。

それに、運動会に向けてバトンを渡す練習とか、そういうのを放課後しなくちゃいけなくなるのも嫌だった。

だって、潤と遊ぶ時間が減ってしまうから。

 

 

「俺智が走ったら敵でも応援するけど?」

 

「ああ?いいんだよ、そんなの。」

 

僕は心底うんざりしながら母親が出してくれたサキイカを皿から取る。

 

 

「うおっ、これ太っ。見て、潤。」

 

「すげー。え、半分ちょうだい?」

 

「なんでよ、自分の取んな。」

 

「やだ、それがいい。」

 

 

潤が手を伸ばす。

その手を前に、僕は断ることができずに、半分に裂いて食べた残りを手渡す。

 

 

「サンキュー。」

 

嬉しそうに、もうそんなに太くなくなったサキイカを手にする潤が可愛い。

かじりながら目を伏せると、まつげがバサバサ音を立てそうに動く。

 

 

「なんなんだよ。」

 

僕は小さく文句を言う。

 

 

「なに?」

 

「なんでもねー。」

 

「ふはは。てか、智〜、確か明日雨って母ちゃんが言ってたから、今日は2周くらいしない?」

 

「明日雨なの?」

 

「母ちゃんが言うにはね?」

 

「くそお。雨かー。」

 

 

雨がこんなに嫌いになったのも、潤と二人乗りをするようになってからだ。

自転車を二人乗りしている時が、どんな時よりも潤を身近に感じる。

物理的な距離だけじゃない。

心と心がちゃんと触れ合っている感覚。

それがなんとも楽しかったし、嬉しかった。

 

 

 

「今日生田にさ、後ろに乗るの怖くね?って聞かれて。」

 

川沿いの道をゆっくりと足を慣らしている時に潤が後ろで言う。

スピードが出ていない時は少しふらつきやすいから、潤の掴まる手は僕の腰に触れていることが多い。

くすぐったい時もあるけど、何も言わずに我慢する。

本当はしっかりと腕を回してくれればもっと安定するのだけど、それもなんだか照れくさい。

 

潤はなにを思っていつもシャツを掴んでいるのだろう。

 

 

「ってか、智の後ろで怖いとかありえねえし。」

 

「ふふふ。ホントかよ。」

 

「ホントだよ!俺の人生で一番信じてんもん。」

 

「そう?」

 

「そうだよ!母ちゃんより父ちゃんより智だかんね?まじ、そんなん当たり前じゃん。」

 

「ふふふ。怒んなよ。」

 

「ふはは。怒ってないけど。なんかムキになっちった。」

 

「ふふふ。」

 

 

 

たかだか10年ちょっと生きてきただけの、まだ顔だって丸い僕らがそんなことを言ったって、いつか笑い話になるだけだ。

今なら分かる。

だけど、あのときの僕らは、そんな気持ちが一生続くと信じて疑いもしなかった。

 

 

自転車の後ろで僕に命を預ける潤を、一生そばで大切にしようと、本気で思っていた。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

通勤に乗る自転車は、入社してしばらくして買ったロードバイクだ。

荷物をウォータープルーフのバックパックにつめて背負って、ヘルメットを被る。

幸い会社はスーツを着なくていいし、必要な時にはロッカーにネクタイも含め常備してある。

 

梅雨の時期以外は月のほとんどを自転車で通勤できる。

都心に入るまでの、季節を感じながら飛ばす道のりは本当に気持ちいい。

 

 

「智、ヘルメットヘア・・・。今日はいつもよりオラついてる。」

 

翔が「くくく」と笑いながら僕の襟足を撫でていく。

 

 

「オラついてるってどういう意味?」

 

「なんてんだろ、なんかヤンキー感が。ははは。少し伸びてきたんじゃない?」

 

「どこ?」

 

「いいよ、いいよ。どうせ昼前には自然と直っちゃうよ。もう少し楽しませて。」

 

「・・・勝手にしてよ。」

 

 

僕は軽く髪に手を当てるけど、すぐにどうでも良くなって仕事に戻る。

さっき部長から返ってきた企画書をまたすぐに持っていかなくてはいけないのだ。

 

 

確かにそろそろ散髪のタイミングだ。

昼休みにでもいつもの床屋を予約しよう。

 

 

「よし。完璧。」

 

 

僕は数箇所の直しを済ませると、原本を部の数人にメールで送信して、プリンターにも送る。

プリントした一部は部長用。

部長は紙が好きなのだ。

 

 

「大野、今夜空いてるか?」

 

企画書にOKを出して、部長が言う。

 

 

「まあ。」

 

「この企画、採用になりそうだから前祝いどうだ?」

 

「部長の奢りすか?」

 

「もちろんだ。」

 

「じゃあ。あ、チャリ家に置いてからになるんで19時くらいがいいす。」

 

「いいよ。俺も夕方社長に呼ばれてるから。」

 

 

「・・・それ、完全にホニャララ解消のためじゃないすか。お祝いじゃなくて。」

 

「ははは、バレたか。まあ付き合え。」

 

「いいすけどね。あ、今回は櫻井くん誘います?」

 

「暇なら連れてこいよ。」

 

「あい。じゃ、失礼します。」

 

「ああ。後でメールする。これご苦労様。」

 

 

部長とはよく飲みに行く。

といっても月一か多くても二くらいで、部長のストレス解消が目的だ。

「大野のマイナスイオンを浴びるときが来た」とか言って、本当に浴びるのはお酒だったりする。

僕はただ一緒に飲んでいるだけで、部長の話もそんなに聞いていない。

でも、また誘われるから、部長も別にそれでいいのだろう。

 

 

「翔、今夜空いてる?」

 

「ちょいまち、今これ・・・。」

 

翔はラップトップから目を上げずに応える。

僕はデスクの上の直しの入った企画書を取ると、リサイクルの箱に入れに向かう。

ついでにコーヒーメーカーのそばにいつもあるお菓子のカゴから小さな2枚入りのクッキーを持ってデスクに戻る。

 

戻り際見えた翔のラップトップはメールの画面で、多分取引先の質問か何かに答えているのだろう。

きれいな箇条書きが見えた。

 

 

「細かい。細かいのよ。でも、そこがやりやすいの、A社さんは。」

 

大きな独り言を、あるいは僕に聞かせるために翔が口にする。

 

 

「そうなんだ。」

 

僕も、別に翔が聞いていなくてもいいと思いながらそれに反応する。

 

 

「けど、時間はかかるの。すんごい。俺の時間の3割はA社とのプロジェクトに注がれている。6社もあるのによ?」

 

「6社も担当してんの?」

 

「そこだよね、そこ驚くとこだよね。ちょっと部長に言ってやって欲しいのよ、智から。だって6社全部プロジェクトサイズは同じなの。」

 

「わあ・・・。俺つくづく翔みたいにできる男じゃなくて良かったわ。」

 

 

「おいー。」

 

そこでようやく翔が顔を上げる。

そして、目が合うと破顔して言う。

 

 

「完了。」

 

「ふふふ。」

 

「ははは。あー、ありがたい。」

 

「仕事があってこそだもんね。」

 

 

「はは。それもだけど、違う。」

 

「ん?」

 

 

「智がそこにいることが、ありがたい。それ1枚ちょうだい?」

 

 

翔が手を出して言うのを、僕はなにがなんだか分からずに、キョロキョロする。

 

 

「クッキー。美味そう。」

 

「あー、これ、あっちにあるよ?」

 

「それがいいの。」

 

「・・・わけわかんない。はいよ。」

 

 

僕は少し腰を浮かせて、斜め前の翔に1枚残ったクッキーの小袋を渡す。

 

 

「サンキュー。」

 

 

嬉しそうに目尻にシワを寄せる翔が可愛く思える。

 

 

そして、ふとまた潤を思い出す。

 

 

潤もこんな風に僕が食べているものを欲しがることがあった。

けっこう頻繁に。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

潤と僕は生まれたときからお隣さん同士だった。

母親同士の仲がとても良くて、まるで兄弟か近しい従兄弟のように育ってきた。

 

どっちかの親が忙しければそうじゃない方が面倒を見る。

小学校に上がってからは、登下校も一緒、おやつも宿題も一緒。

 

どちらかと言えば運動は僕が、勉強は潤の方が得意だった。

もっともそんなことを意識したのは中学校に上がってからだけど。

 

 

 

「たまには潤が漕げば?」

 

2人乗りをするようになって少しした頃、僕は潤に提案した。

潤は当たり前のように断ってきた。

僕は潤に弱い。

いつでも、潤が幸せな方を選んでしまうのだ。

 

 

「やだ。智の方が速い。」

 

「はあ?別に速くなくたっていいし。」

 

「速いほうが気持ちいいじゃん。」

 

「・・・まあいいけど。ちゃんと掴まれよ?」

 

「掴まってる。」

 

 

自転車が一台しかなかったわけじゃない。

ただ、ある日潤が家の前で遊んでいて膝を擦りむいて、僕が慰めがてら後ろに乗せたのが始まりだった。

元気になった潤がはしゃいで饒舌になったのが可愛くて、僕はたまに後ろに乗れと誘うようになった。

 

 

 

「どっかもっととばせるところ行こうよ。」

 

 

あるとき潤が言って、僕らは近くの川沿いの道を思いついた。

視界もいいし、まっすぐだ。

舗装もされているからぐらつくこともない。

 

おやつを食べた後でコソコソ移動しようとした僕らを母が見つけて、ヘルメットを持たせた。

 

 

「死ぬときは一緒なんだからいいのにな。」

 

玄関を出て潤が言うのを、僕はなんとも言えない気持ちで否定した。

 

「死なないほうがずっと一緒にいられんじゃん?」

 

「おお!ほんとだ!」

 

潤はそう言って嬉しそうに笑った。

 

 

ホッとした。

もっと長く一緒にいたいと思っているのは僕だけじゃなかった。

 

 

「めっちゃ気持ちいい!智もっと速く!」

 

「オマエ、簡単に言うなよ!」

 

「ふははは!智ならいける!」

 

「うおぉぉ!!」

 

僕は座ったままで出せる精一杯のスピードで、前だけを目指して漕いだ。

 

 

「すげー!はえー!はははは!」

 

「見たかコノヤロー!!」

 

「ふははは!誰に言ってんの!?」

 

「知らねー!!」

 

 

潤は可笑しそうに笑い続けて、僕はその笑い声にエネルギーをもらって足を動かし続ける。

 

夢へと続く滑走路を2人で走っている。

この先に続く未来が、僕らを待っている。

そんな風に感じていた。

 

 

実際はただ、隣町に入っただけだったし、砂利道の手前でUターンして戻って来ただけなのだけど。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

中学1年の春。

入学して何週間も経たない頃。

 

着慣れない制服から開放された僕らは、すぐに着替えて家の外で落ち合った。

 

 

「あー、疲れた。なんか心が疲れた。」

 

「ふふ。うちでゴロゴロする?」

 

「やだ。チャリ飛ばしてスッキリしたい。智疲れてる?」

 

「俺は平気だよ。」

 

「さっきも言ったけど、俺は今でも智とクラスが違うことに納得いってない。」

 

「ふふふ。そんなこと言ってるから疲れるんだよ。切り替えな。毎日会えんだからさ。」

 

 

事実、登下校はもちろん、休み時間も大半は一緒にいる。

放課後だって、今のところ毎日。

 

 

「そういうことじゃないんだよなー。」

 

「ふふ。どういうことよ?」

 

「まあいいよ。」

 

諦めたような声を出したけど、横顔の潤は別に機嫌が悪そうでもなくて。

むしろなんだか嬉しそうな顔をしているように見える。

 

 

「部活、入んなくて良かったの?バドミントン、誘われたんでしょ?」

 

「斗真から聞いたの?いや、部活とか疲れるだけじゃん。・・・潤は?」

 

「俺ははなから入るつもりなんてないよ。智と遊べなくなっちゃうじゃん。」

 

そう言った潤は僕に白い歯を大きく見せた笑顔を向ける。

 

 

「はっ、ずりぃなー。そんなら俺だっておんなじだよ。先に言いやがって。」

 

「先も後もないよ。サンキュー、智。」

 

「ふふ。」

 

 

潤はこの上なく素直で、中学生にもなって僕が一番だと声高に言うことができて。

でも、僕はなかなか上手くできなかった。

こうしてたまに潤に便乗するくらい。

 

 

でも、お互いに言葉を幾つ重ねたって、僕らはずっと幼なじみで親友で。

僕の望む関係とは永遠に少し違う。

 

 

 

「もう葉っぱだらけだね。」

 

川沿いの桜を指して潤が言う。

入学式の頃もう散り始めていた桜は、暖かな陽気にどんどん緑を増している。

視界の色が変わっていくことも季節の移ろいを感じさせたけど、もうひとつ季節を感じる理由があった。

 

 

虫だ。

 

暖かくなると川沿いにはいわゆる「蚊柱」があちこちに立ち始める。

ゆっくり走れば避けることもできたけど、スピードを出しているとそうもいかない。

 

全開のおでこにたまに当たる虫が嫌だったけど、前を見ようと顔を突き出した潤の口に入った時がなにより嫌だった。

あの時はもう、潤を見る度に僕の気持ちは高まるばかりで。

潤の形のいい唇に虫が先に触れることになろうとは。

 

 

「ふざけんな虫!」

 

「あー、キモ!」

 

自転車を止めて、脇の草場に虫を吐く潤を後ろから見ていた。

 

「くそお・・・」

 

「・・・いや、なんで智の方が怒ってんの?てか、ハンカチない?」

 

「ねえよ、そんなもん!」

 

「いやいや。」

 

「あ、ごめん。てか、俺がハンカチ?」

 

「ふはは。」

 

持っていれば良かったと本気で思った。

 

 

その日の夜、僕は母親にハンカチを買ってきておいてくれと頼んだ。

 

 

「え?あんたがハンカチ?ああ、でもまあそうよね。制服で拭くわけにはいかないしね。分かったよ。」

 

 

母は次の日、仕事帰りにハンカチを数枚買ってくると、夜のうちに他の細々したものと一緒に洗濯を済ませてくれた。

 

 

「智、明日ハンカチ持っていけるからね。」

 

「ありがと。」

 

「他にも必要なものあったら早めに言いな?あー、潤のも買ってくれば良かったね。半分あげようか?」

 

「あ?いや、それはいいよ。あいつはあいつで。」

 

「そ?潤だって必要でしょ?もう持ってる?」

 

 

「持ってる持ってる。大丈夫。」

 

 

多分、持ってないけど。

小学校のときも持っていたのを見たことがないし。

でも、潤が必要なときに僕が貸すのが目的なんだから。

 

母はそれ以上なにも言わなかった。

 

 

そして僕は翌日からいつでもハンカチをポケットに入れているようになった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「ねえ、俺ら大人になってもさ、俺のこと後ろに乗せて走ってよ。」

 

「やだよ。絶対お前の方が大きくなんじゃん。」

 

「ふははは。なんでだよ。いいじゃん。」

 

 

僕らは川辺の道、風を切りながら笑った。

楽しくて嬉しくて、なんだかくすぐったくて。

後ろに乗った君は僕のシャツの裾を掴んで、ときおり遠慮がちに触れる手は温かくって。


 

 

 


初夏の風が前髪を揺らす感覚を額に感じて、僕は意識を現在に戻す。

 

輝きすぎてて眩しいくらいのあの日々の思い出が、時々こうして蘇る。

最近それが頻繁になって、どんな時なんだろうって考えたら、そうかこの匂いのせいかって。

 

 

 

「智、なに飲んでんの?」

 

「ん?ああ、これ?パイナップルジュース。」

 

「美味いの?」

 

「んー。美味いよ?なんで?」

 

「なんかニコニコしてるから。」

 

「え、まじで?」

 

「ニヤニヤっていうか。」

 

「ふふふ。そう?」

 

 

同期の翔が僕の隣に座る。

 

小さなビルの屋上のベンチは大きな鉢に植えてある木を囲むように円になっていて、僕は日陰を選んで休憩中だ。

 

 

「あー、疲れた。」

 

翔が伸びをしながら言う。

 

 

「すごい集中してたね。」

 

「んー。ふと気づいたら智がいなかった。」

 

「ふふ。俺の集中力はかなり前に切れた。」

 

「例の企画書、17時までに終わらせろって今朝言われてさー。」

 

「いけそうなの?」

 

「うん。あと2時間もあれば。」

 

「さすが。」

 

「ははは。それ部長にも言われたけど、いらねー。」

 

「ふふふ。」

 

 

僕らが勤めている会社は規模としては中小企業に分類される。

成長中の広告会社だ。

 

 

翔は企画・営業部のエース。

企画からプレゼンテーションまで全部が得意。

特に対面での交渉に長けている。

みんながみんな分かりやすく彼に期待している。

本人はそんなことあまり気にしていない。

爽やかに、スマートにただこなしているだけ。

 

 

僕は同じ企画・営業部にいるけれど成績は中くらい。

対人は苦手じゃないけど、褒められるのは企画のアイデア。

そしてそのポジションを動くつもりはない。

 

同期はもう一人いるけど、彼女はあまり僕らと絡みたがらない。

3年間特に何も無く一緒に働いている。

嫌われているわけではなさそうだけど。

 

 

「ちょっと味見させてよ。」

 

「いいよ。気に入ったら販売機にある。」

 

「新しいやつ?」

 

「うん。先々週くらいに入った。」

 

「へえー、濃厚。美味いけどたくさんは飲めないな。ありがと。」

 

翔はなんだか苦いものでも口にしたように顔を歪めて、缶を僕に返す。

 

 

 

「ふふふ。小学生の頃しょっちゅう飲んでて懐かしくて。」

 

「へえ。智の小学生時代かぁ。想像つかないな。でも可愛かっただろうな。」

 

 

「ふふ。まあまあだよ。翔ほどではないだろうけどね。」

 

「俺ははっきり言って可愛かったよ。電車で高校生のお姉さんたちに可愛いって言われたりしてたもん。」

 

「ふふ。俺はただのわんぱく少年だよ。自転車二人乗りしてよく怒られてた。」

 

 

 

そう、よく叱られていた。

道行くおじさんとかおばさんに。

「降りて歩きなさい」とか「危ないよ〜」とか。

でももちろん聞かなかった。

返事だけ、「は〜い」なんて大きな声でしたけれど。

 

 

「楽しそう!俺はそういう子供時代なかったなぁ。あれ、智、今通勤チャリでしょ?今度後ろ乗せてよ。」

 

「無理だよ。そういうチャリじゃない。」

 

「なんだ。残念。」

 

「ふふ。それにこんな都会でやってたら捕まっちゃうよ。」

 

「ははは。それもそうだ。」

 

 

「・・・最近よく思い出すんだ。多分これのせいで。」

 

 

僕はパイナップルジュースの缶を口元に運んで、口を付ける前にクンクンと匂いをかむ。

 

そうだ。

この香りだ。

 

 

またふっと潤の顔が目に浮かぶ。

 

 

さっきとは違う、中学生くらいの潤だった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

大野さんは僕を見つめたり、ちょっと照れたように目をそらしたりしながら、穏やかな声で話し続ける。

 

 

「友達としてどっかにいて、助けてって言われて飛んでいくのもいいけど、やっぱり俺は櫻井さんのそばにいてあんなのもう起こらなくて済むように支えたいなって。そんなことできるものなのか分からないけど。でももっと心も体も近くにいたいなって。」

 

「心も、体も・・・。」

 

「ふふふ。変な意味でじゃないですよ?まあ、別にそういう意味でも俺は構わないんですけど。ふふふ。」

 

「っははは。お、俺だって構わないですよ。そりゃ、そんなの・・・。」

 

「ふふ。でも心が近づいたら、なんて言うんだろ、窮地を救うのも偶然じゃなくなって行くのかなって。」

 

 

顔が熱い。

ってか、全部熱い。

全身。

 

 

「ふふふ。で、さっきそんなこと考えながら歩いてたら、いたんです。櫻井さんが。」

 

「すげえ。」

 

「でも、もう一度伝えるのはもう少し先にしようって。」

 

「・・・俺が興味のないふりをしたからですよね。」

 

 

「違いますよ。もっとちゃんと守れる自信を持ちたかったんです。偶然に任せなくてもちゃんと俺が守れる立場になりたかったんです。まずは、友達としてあの松本さんを超えてから、って。」

 

「でも、友達じゃやだって。」

 

「けど、櫻井さんを落とすにはもっと時間が必要だと思ってたから。ふふ。」

 

「そ、そっか。はは。」

 

「松本さんはむしろライバルなのかなって思ってたし。」

 

「はは!それはないです。彼はもうずっと想ってる人がいて。」

 

「そうなんだ。」

 

 

大野さんが僕を落とそうとしてすることはどんなことだったのだろう。

僕はそんなことをされなくてもとうに大野さんにズブズブとはまっていたのだから、そんなことされたらどうなってしまったことか。

 

でも、ちょっとそれは体験してみたかったな・・・。

 

 

「手、触ってもいいですか?」

 

「え、あ、はいっ。」

 

僕はいつの間にか固く握っていた拳を解いて大野さんに差し出す。

 

 

「手汗が・・・」

 

「ふふふ。気にしません。」

 

 

嬉しそうに、愛おしそうに、大野さんは僕の手を取って、自分の両手に包み込む。

 

 

「櫻井さん。俺と付き合ってください。」

 

僕の手に話しかけるように大野さんが言う。

 

 

「お、俺で良ければ是非。」

 

「やった。」

 

大野さんは一瞬で子供のように表情を崩すと、僕を見てまた言う。

 

 

「大好きです。ずっとずっと。」

 

「お・・・」

 

 

僕は一度黙って深く息を吸ってから目を閉じてそれを吐き出す。

大野さんは何も言わずに僕の言葉を待っている。

 

 

さっき、ペンを操るそのキレイな手を見つめていた。

その手が今は僕の手を優しい力強さで包んでいて。

相変わらずうるさい鼓動は静まる予定もなさそうだけど、それだってもう心地良い。

この音が僕を傷つけることはない。

少なくともしばらくは。

 

 

「俺を見つけてくれてありがとうございます。ラッキーだったのは俺だから。大野さんが雑誌の俺を見つけてくれた日から、多分ずっと。」

 

「・・・すんごい口説き文句。これ以上好きにさせてどうするんですか。ふふふ。」

 

「ははは。俺だって大野さんを捕まえておくために努力しますよ。ずっと一緒にいたいんですから。」

 

「ふふふ。」

 

「はは。」

 

 

お互い照れてしまって目をそらして、でもまた見つめ合って。

 

 

そして僕らはキスをした。

 

僕の人生で、一番ドキドキするキスだった。

 

 

 

 

 

 

「翔くん、ハンカチ。」

 

「あ、ありがと。智くん、今日合鍵作って来られる?」

 

「うん。でも翔くん帰ってきてからでもいいよ?」

 

「嫌じゃなければ今日作っちゃってよ。俺がいなくてもここで描きたいでしょ?」

 

「嫌じゃないからそうする。」

 

「まあ俺の持っててもいいけど。」

 

「ううん。作ってくる。」

 

「うん。」

 

 

僕は明日から2泊の出張で、昨日は会えなくなる前にと智くんがうちに泊まった。

 

朝を一緒に迎えるのはもう何回目か分からないほどになったけど、目覚めるとまだなんとなく照れくさい。

それは智くんも同じのようで、朝食を食べるときの僕らは目をあまり合わせない。

 

 

だからというわけではないけど、別々の一日を始めようとバタつき始めると、急に離れがたくなる。

もっと顔を見たい。

もっと声が聞きたい。

もっと触りたい。

 

 

僕は何かをわざと置き忘れて、智くんは僕の忘れ物を探して部屋中に目を走らせる。

見つけた物を持ってきてくれる智くんを、僕はガッチリと抱きしめてしばらくそのまま会話をする。

 

 

「ああ、やだな。なんで今日ミーティングなんて入っちゃったんだろ。」

 

「ふふふ。マサキの陰謀か?」

 

「はははっ。ヤキモチか?」

 

「ふふ。でも俺も今日は定例会議の日だからさ。」

 

「チクショー。もっと一緒にいたかった。」

 

 

12時間一緒にいても、24時間一緒にいても、僕らは多分満足しない。

 

 

だから今夜、智くんが合鍵を作ったあとで僕は提案するつもりだ。

 

 

 

 

「智くん、そろそろここで一緒に住まない?」

 

「え、うん、住む。ふふ。いいの?」

 

「うんっ。別にどんなに離れてても俺の気持ちは変わらないけどさ、一緒にいられるならいたいって思うし。」

 

「ふふふ。うん。」

 

「喧嘩とかしても?一緒に住んでたら仲直りも簡単だし?」

 

「喧嘩なんてしないけど?」

 

「はは。まあそうだけど。まあ、なんか困難なことが起きてもさ、 」

 

「一緒にいれば大丈夫だもんね。」

 

「うん。」

 

 

 

僕をモヤモヤとした場所から救い出したのは、間違いなく智くんだ。

何度も本当にスーパーヒーローのように僕を助けてくれた。

発作が起こらなくなってからも、智くんの存在は絶対的な僕の支えだ。

 

 

僕はどれだけ智くんの支えになれているだろうと、たまに不安にもなるけれど、お互いへの感謝をちゃんと口にすることで、それを解消する。

 

 

そしてまた智くんは僕を救うのだ。

 

 

いつも、どこにいても。

 

 

 

 

(おわり)

 

 

「うそだあ・・・。」

 

大野さんは眉間に入っていた力を抜くと、弱々しい声で言う。

 

 

「俺のこと可哀想だと思ってます?マサキと別れたこと聞いたとか?」

 

「可哀想だなんてそんなっ。」

 

 

僕は顔の前で手をブンブンと振り回して否定するけど、大野さんはまだ訝しんでいる。

 

 

「あ、別れたっていうのはついさっき松本から聞きました。でも、違うんです。ちゃんと全部話すんで。」

 

「・・・はい。」

 

 

僕は順を追って大野さんに説明する。

 

いつからかははっきりしないけど、大野さんが伝えてくれたときはもうとっくに好きだったこと。

その時点で自分の気持ちを言えなかった理由。

あの日散々泣いたこと。

松本とした会話。

今日松本からもらった電話のことも。

 

それから、ずっとずっといつでも会いたくて仕方なかったこと。

 

大野さんは僕が話している間も色んな表情を見せてくれた。

疑ってるような表情もあったし、喜んだり、多分感動したりもしていた。

 

 

「信じられない。」

 

僕が息をつくと大野さんが言う。

 

 

「まだ信じられませんか?」

 

「あ、違くて。・・・じゃあ、つまりは俺は櫻井さんと両想いってことですか?」

 

「・・・もし大野さんがまだ俺のこと、 」

 

「好きですっ!」

 

 

大野さんが乗り出すようにして小さく叫ぶ。

その瞳をまっすぐと見つめる。

 

 

僕の心臓はもう破けそうに膨らんで、嬉しくて嬉しくて叫びたいくらいだけど。

ここは僕の空間だとしても外だしと、かろうじて働いた理性でそれを抑える。

 

 

耳が熱い。

その耳の中に響き渡る鼓動。

 

ほんのちょっと腕を伸ばせば触れることのできる距離で、大野さんがやっぱり僕を見つめている。

 

 

「大野さん、好きです・・・。」

 

「ふふ。」

 

 

フワッと表情を崩した大野さんが今までで一番柔らかくてキラキラした笑顔を見せる。

僕は目がチカチカしたようになって、その後の言葉を繋げない。

 

 

「俺・・・」

 

「じゃあ、櫻井さんにとっても今日は最高の日だってことだ。」

 

「え・・・」

 

「俺が感じてた運命を櫻井さんも?」

 

「あ・・・はい。そう、それは多分初めてあった日から。あのチューリップが頭から消えなくて。」

 

 

僕がそう言うと、大野さんはペンをどかしてスケッチブックをめくりだす。

 

 

「これ。」

 

 

大野さんが開いたページはあのときのチューリップの絵のところで、そのチューリップは花の部分だけが着色されている。

 

 

「うわぁ・・・」

 

「ふふふ。」

 

花だけが着色されているからなのだろうか、その佇まいは夢の中で見ているような不思議さをまとっている。

あのときのチューリップに限りなく近いピンク。

 

 

「櫻井さんと公園に行った日の夜に色つけてみたんです。俺もずっと頭にあったから、すぐに色も決まったし。」

 

「はい・・・。」

 

「終わったら、なんか知らないけど泣いてました。なんか言い表せない複雑な気持ちでした。嬉しいやら、悲しくて苦しいやら。後悔とか、怒りなんかもちょっと。」

 

「怒り・・・ですか?」

 

 

「自分に対するものです。櫻井さんにあんな風に気持ち投げつけて、なのにちゃんと本当の気持ちでさえなくて。」

 

 

大野さんは親指でチューリップの花を愛おしそうになでる。

 

 

「花言葉。『愛の芽生え』とか『誠実な愛』なんだって、知ってました?」

 

「え・・・、知らなかったです。」

 

「ふふ。俺もです。昨日カズに聞いてびっくりしちゃって。」

 

 

「カズに?」

 

「意外ですよね。ふふ。あ、いや、キャラクターの相談をちょっとしてて、そしたらこれが出てきて。『なんかこれだけ違うじゃん』って言われて説明したら、そんな話になって。」

 

「ああ、なるほど。」

 

「『芽生えたのか?』とか『チャラくない誠実なやつなのか?』とかなんか責めるように言ってくるからウザくて。ふふふ。」

 

「ははは。うぜえ。」

 

 

「でもそれでちょっと考え直してたんです。」

 

 

大野さんはまた僕をまっすぐ見つめて言う。

 

 

「俺、別に全然櫻井さんと友達でいたくないなって。」

 

「はは・・・」

 

「恋人がいいのになって。」

 

「あ・・・ああ、ああ!」

 

 

急にまた心臓が暴れだす。

 

 

両思いになれたら、もうこんなにドキドキしないと思っていた。

片思いだからこその痛みだと思っていた。

 

 

そうか、本気の恋の痛みは、想いが通じる通じないは関係ないのか。

 

常にドキドキズキズキするものなんだ。

 

 

 

 

(つづく)