「気楽な飯ですよ?あんま気負わないでYESって言ってくれれば。」

 

ジュンさんはそう言って、いつものキラキラした笑顔で首を傾げる。

まるで爽やかな風に正面からぶつかられたように、一瞬首から上が煽られる。

シパシパと瞬きしてから、口の中に入ったままになっていたいんげんの胡麻和えを飲み込む。

 

「い・・・えす。」

 

「ふはは。やった。」

 

低い声でそう言うと、ジュンさんは満足そうな顔で食事を続ける。

食べ物を頬張っていてもカッコいい人っているんだな、などと考える。

そうだ、やっぱりジュンさんは好みの顔なのだ。

 

 

「翔がね。」

 

「ん?」

 

「翔が、最近よく言ってるんですよ。智さんの専属のセラピストになって全国回っちゃったりしてね、ははは!とか。飲むたびに言うから多分本気。」

 

「・・・へえ。」

 

「それで俺が、じゃあ俺はマネージャーになって一緒に回るわって言って。プロデューサーでもいいけど。」

 

「ふふ。」

 

あまりに突飛な話で笑ってしまう。

それは楽しそうだけど、別に全国を回るようなアーティストを目指しているわけでも、ダンスでそんなことができるとも思っていない。

 

 

「智さんは、夢とかってあるんですか?」

 

「夢・・・あんまないかな。今くらい食えてたら満足だし。」

 

「へえ、もったいない。俺、智さんの振付すんげぇ好きです。しかもそれを一番うまく踊れるのが智さんだと思ってます。」

 

「ふふ。ニノと雅紀は・・・あ、俺の仲間の、 」

 

「動画一緒にやってる?」

 

「そう。あいつらは、もうちょっと真剣に考えてるんですけど。俺はどうしてもひとつのことにずっとは無理で。」

 

「そうなんだ。他になにやるんですか?」

 

「他は金にならない趣味です。釣りとかキャンプとか絵とか。けどやんなきゃ生きてけないから、あんま忙しくなりたくないんですよね。」

 

「・・・そっか。」

 

 

ジュンさんはなにかを真剣に考えるそぶりで、お弁当に箸を添えたまま黙り込む。

伏せたまつげが長い。

目をそらすために壁の時計を見る。

休憩はあと15分ほどで終わる。

 

半分ほど残っているお弁当に集中する。

ジュンさんはなにも言わない。

食べる様子もないけれど、とりあえず踊りの再開前に5分は欲しいと、話しかけることもせず食べ続ける。

銀鮭が旨い。

すごく気を使って選んでくれたのだと分かる。

 

ジュンさんを見る。

いつのまにか、また食べ始めていた。

 

 

 

「いいかげん俺に相談したらいいじゃん。」

 

ソファに片腕をのせて床に座るニノが突然言う。

 

また突然やってきて、お茶をいれろと言って和菓子を差し出してきたのだ。

 

「あ?」

 

「無理やり聞かないでいいやと思ってたのよ?けど、もう悩み過ぎてんじゃん。俺が大福食べながら聴いてやるって言ってんの。」

 

「・・・偉そうに。」

 

「こうでもしないと自分からは言わないでしょうが。」

 

「・・・・。」

 

その通りだし、そろそろ一人で悩むのにも限界がきていたのも事実だった。

ニノはいつもタイミングよくこうしてやってくる。

 

 

「言い出すのムズイなら質問形式にする?」

 

「・・・ん。」

 

「んじゃあ、それはあのマッサージセラピストのことですか?」

 

「・・・はい。」

 

「ん~、告白をしたいのですか?」

 

「・・・されました。」

 

「は?!じゃあなに悩んでんの?好きなんでしょ?」

 

「好きだね・・・。」

 

「あれ?」

 

 

ニノは頬に手をすべらせながら、優しくも鋭い目線を向けてくる。

 

今のこの気持ちをどう伝えていいのか分からない。

自分でも分かっていないのだから。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「じゃあ今日はこちらのカメラでメイキングを撮るので。カメラマンの菊池です。どこかで発表するにしてもまだ先ではあるんですけど。なんか居心地悪いなーとか感じたら、俺に言ってくれたら一旦オフにするんで、遠慮なく言ってください。」

 

「はい。よろしくお願いします。」

 

紹介された、それほど大きくはないカメラを抱えた菊池さんに頭を下げる。

菊池さんは小さく「っす」と吐く息と混じったような声を出す。

気取らない感じが逆に好感を持てた。

 

 

「・・・智さん?」

 

「はい?」

 

さっきからジュンさんの目が見れなかったことに、とうとう気づかれてしまっただろうか。

櫻井さんから聞いた話のせいで、なんだか照れくさかった。

 

 

「智さん、なんか・・・あ、いや俺の気のせいかもなんですが・・・。」

 

「・・・・。」

 

無言でジュンさんを見る。

目をそらしたくなるのを一生懸命我慢した。

 

「ああ、目が合いましたね。朝から目が合わないなぁって思ってたんで。」

 

ジュンさんが可愛らしい笑顔で少し首を傾げる。

胸がズキンとする。

これはなんだろう。

 

「俺も今日はずっとこっちにいるんで。端の方で見てますから。菊池にはたまにどこ撮って欲しいかとか口出すんですけど、智さんはいつも通りでお願いします。」

 

「あい。」

 

「ホントに、居心地悪くなったらいつでも言ってくださいよ?」

 

黙って頷く。

居心地はすでに良くはない。

でも、別にカメラを意識しているからじゃない。

 

 

 

 

「俺と付き合ってくれませんか?」

 

「え。」

 

「あ、いや!今日の今日で返事欲しいとかそんな贅沢言わないんで、ちょっと時間かけて考えていただいてですね・・・。」

 

「・・・はい。じゃあ・・・考えます。」

 

すぐに返事をしても良かったのかもしれない。

でも、なんとなくだけど、言い切れない何かがあった。

顔は赤かったと思うし、櫻井さんだってもう分かっているかもしれない。

そうは思ったけれど・・・。

 

 

 

 

「そんじゃ、今日はアップ後にすぐ通しでやっていきます。明後日は本番です。気合入れていきましょう!」

 

「うっす!」

 

そんなやり取りの後、まずは体を慣らしていく。

昨日のカッサがどんな効果をもたらしたのかは分からない。

眠りが深くなるとは言われたものの、あんなことがあった後では結局なかなか眠りにつけなかった。

あんなに想っていた人に告白をされて、迷いのようなものが生じるなんて思っていなかった。

 

櫻井さんの顔が浮かぶ。

心臓がキューっと縮むような痛みを感じる。

胸に手をやって、息を深く吐き出す。

反動で入り込んできた酸素は体をビリビリ言わせながら全身に行き渡る。

 

 

「大野くん、今日足重いかー?」

 

「あ、いえ!」

 

足が上がりきっていなかった。

すぐに見破られてしまうから気を付けなくてはいけない。

というか、集中だ。

 

「おお、いいねぇ!次ブリッジ!5秒ホールド!」

 

 

やってみると、寝不足の割には体はよく動いているのが分かる。

このまま集中して、しばらく頭を空っぽにしてしまいたい。

 

カメラが動き回っているのが目の端に映る。

「あんなに練習した後にこれか」などと誰にも思われたくない。

 

 

 

「明後日の本番なんですけど、車で迎えに行くんで、朝。」

 

弁当のふたを開けながらジュンさんが言う。

当たり前のようなトーンに、断る気も起きない。

 

「ちょっと遠いし、電車混んでると速攻疲れちゃうじゃないですか。もともと運ぶ物多くて車なんで、ついでっていうかですけど。」

 

「お願いします。」

 

「ふは。良かった。今朝の感じだと断られるかと思った。」

 

揚げ出し豆腐を頬張るふりをして、なにも言わなかった。

ジュンさんは気にする様子もなく、自分の弁当から野菜を口に入れる。

 

「豆腐。」

 

「ん?」

 

「豆腐が入ってる弁当って、なかなかないんですよね。智さん好きだからと思っていつものところに頼んでみたら、揚げ出しなら入れられるって言われて。」

 

「ああ、これ?!わざわざ?」

 

「ふはは。言わなくてもよかったんですけど、なんか言っちゃいました。」

 

 

相変わらずの笑顔で照れているジュンさんの瞳の光に目を奪われる。

櫻井さんからあんなことを聞いたせいで、変に意識してしまっているのだろうか。

いや、以前からジュンさんにはそうだった。

これは昨日聞いたこととは関係ない。

単純に顔が好みなのかもしれない。

 

食べながらそんなことを考える。

 

 

「智さん、明後日の本番の後、良かったら飯でも行きません?」

 

 

心臓が跳ね上がるような感覚になる。

目を上げて見たジュンさんは、穏やかな表情のままだった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「え、ジュンさん。」

 

「えっ。あれ、今日俺がここにいること言ってある・・・。」

 

迷ったけれど、出てみることにした。

急な用事だとしたら、明日の仕事に関してかもしれない。

 

 

「もしもし。」

 

『あ、智さん?もう翔の練習終わりました?』

 

「あ。はい。いまちょっと、お茶を・・・。」

 

『おお、そうですか。じゃあ、俺もちょっとお邪魔してもいいですか?』

 

「今からですか?」

 

『はい。ちょっと明日のことでお話ししたいってのもあるんですけど、せっかく2人いるならって。』

 

「ああ・・・。ちょ、ちょっと待ってくださいね。」

 

 

櫻井さんに目で合図をする。

櫻井さんは目を少し見開いて、なんですか?と表情で応える。

スマホを手で覆って、少し体から離して櫻井さんに小声で伝える。

 

「ジュンさん。今からここに来たいって言ってます。」

 

「は?・・・ちょっと俺が話してもいいですか?」

 

「あ、はい。」

 

櫻井さんにスマホを渡す。

 

 

「ジュン。」

 

電話の向こうのジュンさんの声は聞こえない。

ただ、櫻井さんはさっきのカチコチの感じではなくなっていた。

 

「いや、俺ももうお暇するところだから。大野さんはこれからもう明日に備えて寝てほしいのよ。」

 

「分かった。15分くらいで行く。ん。ジュンも寝る準備する時間だろ?寝不足続いてんだから。んじゃな。はいよ。」

 

耳を離した櫻井さんがそのままスマホを差し出してくる。

受け取ってみると、まだ通話はつながっている。

 

「もしもし。」

 

『あ、じゃあ、用件だけ。明日なんですけど、ちょっとメイキングの撮影入っても大丈夫ですか?多分11時くらいから終わりまでいると思うんですけど。』

 

「それって断ったり・・・?」

 

『ふはは。されると困ります。でも、断ってもいいですよ?嫌ですか?』

 

「ふふ。ちょっと聞いてみたかっただけです。断らないです。」

 

『良かった。じゃあ、俺も明日は一日いるつもりなので。朝会いましょ。』

 

「はい。よろしくお願いします。」

 

『ふはは。硬いんだよなぁ。じゃあ、翔のことすぐ追い出していいんですからね?』

 

「ふふ。はい。」

 

『じゃ、おやすみなさい。』

 

「おやすみなさい。」

 

 

ジュンさんは不思議だ。

胸につかえていた固い何かが消えてしまったようにすっきりした気分になる。

後ろには櫻井さんがいるっていうのに。

 

 

「なんか図々しくてすみません。」

 

「ジュンさんですか?全然です。」

 

「この後ちゃんと言っておきます。」

 

「・・・あの。ジュンさんって、櫻井さんの・・・。」

 

「ああ、えっと、・・・元カレっていうんですかね。」

 

「パートナーっていうのは・・・?」

 

「あっと、もう恋人ではないんですけど、なにも変わらずの距離感なんで、ちょうどいい呼び方としてパートナーって呼んでます。ややこしいけど、これまで困ったことなくて。・・・でも、大野さんと会って、ちょっとそれがなんていうか・・・。」

 

「・・・・。」

 

 

耳まで熱くなってくる。

これは、誤解ではなくそういう意味なのだろうか。

 

 

「ぶっちゃけちゃうと・・・俺は初めに会った時から大野さんが好きになってしまっていて。クライエントとしていて欲しくて、言わずにこのままの関係でって思ってはいたんです。あ!いや!体に触れたいからとか、そういうのではないですよ!?」

 

「ふふ。」

 

「壊したくなかったんです。好きなんて言って、気持ち悪いと思われるのも怖くて。」

 

「はい。」

 

もうきっと櫻井さんは分かっていると思う。

耳だってなんだって真っ赤に違いない。

 

 

「ジュンが・・・ジュンが言い出したんです。俺が勝手にあいつのこと言うのはルール違反かもと思うんですけど、俺はそういうズルいところもあるんで・・・。あいつが俺より先に口にして、一緒にいた時のこととか話されて、俺はなんとなく毎日焦って。」

 

「ジュンさんが、なんて?」

 

 

どういう意味なのか分からなかった。

櫻井さんを焦らせるなにか。

 

 

「ジュンが、『智さんは素敵だから、仕事が終わったら誘う』って言いだして。」

 

「え?」

 

「毎日のように言ってくるんで。まじで気が気じゃなくて。ジュンは人たらしなところがあって。」

 

「ふふ。それは櫻井さんも同じです。」

 

「え?俺ですか?」

 

 

実感できる範疇を超えたからだろうか、言葉が口をついて出てくるようになっていることに気づく。

でも、目の前の櫻井さんはいつになく素敵だった。

顔を赤くして視線をきょろきょろと外しているところも、とても可愛らしかった。

 

 

ふと気づく。

もしかしたら、櫻井さんと・・・?

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「大野さん、ごめんなさい。おれ休憩のことも考えずいつもより長くなってました。」

 

「あ、いや。なんか今日お茶飲みすぎたかも・・・昼間釣りに行って、ポカポカしてたから・・・。」

 

櫻井さんは気づかなかったように見えた。

気を使っているのかどうかまでは分からない。

 

「釣り?今日釣り行ったんですか?」

 

「は、はい。」

 

「いいなー。どこですか?海?」

 

「あ、いや、今日は釣り堀で。」

 

「釣り堀!?近くにあるんですか?」

 

「近く・・・でもないかな。遠くもないですけど。あの、井の頭公園の方で。」

 

「へえ!俺も行ってみたいなぁ。今日昼間空いてたのに、残念。」

 

「ふふ。じゃあ今度、是非。」

 

「誘ってくれます!?やった。」

 

櫻井さんは小さくガッツポーズをする。

本当に嬉しそうな表情に、さっきの出来事を忘れていい気がしてくる。

矢継ぎ早の質問やコメントは、どこか取り繕っているようにも聞こえなくはないけれど。

心配し過ぎだろうか。

 

 

「いやー。今日は本当に助かりました。けど正直、俺ちょっと大野さんに甘えずぎてるかもって思ってます。」

 

「え?ふふ。」

 

「思いません?嫌じゃないですか?」

 

「嫌とか別に。」

 

「あー。それなら良かったけど。ちゃんと言ってくださいね?俺好きになると突っ走っ・・・。」

 

「・・・え?」

 

「あ、や、その、なんていうか・・・。あー。あぁ・・・。すみません。変なこと言って。」

 

「あ、いや。変とか・・・。」

 

嘘だろ。

いや、聞き間違いかもしれない。

櫻井さんにはジュンさんがいるのだから。

友達としての意味かもしれない。

だとしたら。

だとしても、素直に嬉しい。

 

 

「口滑らせてとかカッコ悪いですよね。男らしくちゃんと言いたかったんですけど。まあ、男らしくってのももう古いか。」

 

「あの・・・。」

 

「ちょ、ちょっと待ってください。大野さん寒くなる前に服着てもらって。その間に俺は態勢を立て直します。ちょっと今、だいぶ動揺しています。すいません。」

 

「あ、ああ、服。どうりでちょっと寒いと思った。でも部分的にはまだポカポカしてるっていうか。」

 

つい口数が多くなる。

少しの間待った末、なにが起きるのだろう。

心臓が痛いくらいに強く脈打っている。

耳元でも聞こえるその音は、なんだか逃げ出したくなるほど攻撃的に聞こえた。

 

 

服を着終わってから、所在なくてお茶を入れにキッチンに向かう。

温かいお茶でも飲めば、2人とも少しリラックスできるかもと思う。

いや、リラックスとかもう無理かもしれない。

 

櫻井さんは荷物を片付けながら、なにかにものすごく集中しているような横顔を見せている。

唇が軽くとがっているのが、かわいらしいと思う。

そして、そんなことを思う余裕があることに少しびっくりする。

 

なにがどう伝えられたとしても、ここにある気持ちは変わらない。

自然と胸に手を当てていた。

深呼吸をする。

急須に入れたばかりの茶葉の香りが入り込んでくる。

 

 

お湯が沸く音が微かに聞こえてくる。

櫻井さんは荷物のはいったカバンの前で正座している。

まだ横顔はさっきのまま変わらない。

よく見ると、後頭部のところの髪の毛が一束乱れている。

いつそんなことになったのだろう。

いつもきれいに整っているので、そんな姿も新鮮で良かった。

 

 

「櫻井さん、お茶もうすぐできるので、ソファでどうですか。」

 

「あ、はい。」

 

シャキッと音がしそうな動作で、櫻井さんが立ち上がってソファに向かう。

窓側の端に座ると、背筋を伸ばして眉を寄せてまっすぐ前を見る。

こんな風に硬くなっている櫻井さんを初めて見る。

逆に心を落ち着かせている自分に気づく。

もう、なるようになれ、だ。

 

 

いつか好きな人と使いたいと思っていた揃いの湯呑に、淹れたての緑茶をなみなみと注いで、ソファに向かう。

緊張で冷えていた手にその熱が気持ちいい。

熱すぎると感じる前にはテーブルに並べて、櫻井さんから少し離れて座る。

 

 

「コーヒーが良かったかな・・・。どうぞ。」

 

「・・・頂きます。」

 

櫻井さんは、いつもより早口だった。

相変わらずの硬い動作で湯呑に触れるけれど、熱かったようで一瞬指を離す。

 

 

「すいません。熱いですか?俺熱いのが好きで。」

 

「あ、大丈夫です。でも、もうちょっと待つことにします。こぼしちゃうかもだし。はは。」

 

「ふふ。」

 

「すいません。なんか。」

 

「いえ。俺こそ、なんていうか・・・。」

 

 

2人とも黙り込む。

 

ちょうどその時、ベッドの上に放り投げてあったスマホが震える音が聞こえてくる。

ニノは今日櫻井さんが来ていることを知っている。

雅紀にも今夜は忙しいと伝えてある。

しかも、どちらも電話なんてめったにしてこない。

 

「出ないでいいんですか?」

 

「あー。じゃ、ちょっと。」

 

 

気まずさに負けてスマホを取りに立つ。

 

画面に表示されていたのは「ジュンさん」の文字だった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

少しは痛いだろうと想像していたけれど、櫻井さんがひとつひとつ説明してくれている声を聴いていたら、痛みなんてどこか遠くの出来事のようだった。

それに、ツボを押されるとき以外はどちらにしても痛みはない。

 

いい香りのオイルを都度手に取って塗ってくれるのも、温かな手の平が心地よかった。

もちろん、好きな人の手の平が自分の肌に触れるのは内心穏やかではない。

いつものようにタオルが間にあるわけではないというのが、唯一緊張した理由だった。

言わなかったけれど。

 

途中何度も、目に入る床にそっと置かれたような小さな埃を数えるように意識をそらした。

マッサージをしている相手に変な気分になられるほど嫌なこともないだろう。

そうしながら、施術が進んでリラックスしてくると、いつの間にか気にならなくなっていた。

体中のツボや血管の話をしてくれる櫻井さんの声が嬉しそうなのが幸せだった。

 

 

「大野さん、ちょっと感覚に集中してもらっていいですか?これからもう一個のカッサに替えてみるので、どっちの感触が好きか教えてほしいんです。」

 

首に手を軽く添えながら櫻井さんが言う。

 

「了解です。」

 

「あ、ちょっとあっためるので待ってください?」

 

「ふふ。」

 

「天然石ってけっこう冷たくなるから。」

 

「はい。」

 

手の平で温めたのだろうか、「じゃあいきますね」と言って首を優しく擦る。

オイルのせいでそれほどの違いを感じない。

でも、さっきまでのものより肌に密着する感じがあった。

 

「これまで使っていたのは木製のものなんですが、今のは天然のローズクォーツです。どっちが好きとかありました?」

 

「木製の方がさらさらした感じがしてました。石の方は密着する感じ。どっちも俺は好きです。」

 

「へえ・・・。」

 

櫻井さんがしばらく黙り込む。

その間にも首を擦る手は止まらない。

 

 

「あ、ごめんなさい。実は俺には違いがほとんど分からなくて。大野さんやっぱり五感が優れてるのかな。」

 

「五感ですか?」

 

「はい。踊るのって耳とか目とかしっかり使えないとだし、これは触感だし、あとは・・・。」

 

「別にそんな自覚はないですけど。」

 

「はは。そうですか。でもそうだと思うなぁ。」

 

うつ伏せ状態で首を全体的に終わると、櫻井さんが手を止める。

 

 

「大野さん、顔やるのってどう思います?カッサはきれいなものに替えるんですけど、触られるの嫌だとかあります?」

 

「ないです。」

 

本当は、肩より上はちょっと苦手だった。

だけど、今のところ大丈夫だったからそう返事をした。

目を閉じるのだし、なにも問題はないと思う。

いつもより櫻井さんが近いことは少し緊張するけれど。

いつもの首周辺のリンパマッサージと、それほどの違いはないはずだと思った。

 

 

「じゃ、仰向けになってもらって。今度のオイルはスクワランオイルにほんのちょっとだけラベンダーの精油を入れたものになります。眠くなったら寝ちゃってくださいね。」

 

「あい。」

 

仰向けになって目を閉じ、いつものように体のポジションを決めると、額と頬に相変わらずの優しさでオイルを塗られる。

そこから全体に軽くのばすようにしてから、額をカッサが滑る。

 

櫻井さんの息遣いが近い。

いつも後ろを歩くときにふわりと感じる櫻井さんの香りが、オイルに混ざったラベンダーをかき分けて鼻をくすぐってくる。

確かに、嗅覚も敏感なのかもしれない。

こんなに櫻井さんを近くに感じるのは初めてだった。

 

 

「大野さん・・・。」

 

「ん。」

 

櫻井さんがささやくような声を出す。

口を動かせない気がして、喉だけで返事をする。

胸の高鳴りが響いていませんように。

首筋の血管から脈の速さがバレてしまいませんように。

そんなことを咄嗟に思う。

 

「まつげが・・・あ、いや。はは。なんでもないです。」

 

なんだろう。

気になるけれど、今声を出したら、口から心臓が飛び出してしまうかもしれない。

耳が熱い。

赤くなっているかもしれない。

 

 

「すでに血行が良くなってきてますね。マッサージしててもいつも思うけど、大野さんて感度が抜群なんですよ。」

 

 

ドキドキし続けているからだろうか、櫻井さんの言葉を変に受け取ってしまう。

ふと、数か月前に別れたセフレの声が頭の中を響き渡る。

 

『智、感度いい。もっと声聴かせて。』

 

 

下半身に血が集まるのを感じて、目を開ける。

櫻井さんが目に入る。

穏やかな表情が驚きの色に変わる。

 

 

「ご、ごめんなさいっ。ちょ、トイレ!」

 

「は、はい!どうぞ!」

 

飛び起きてトイレに向かう。

背後で固まっているだろう櫻井さんの動きは聞こえてこない。

 

 

やってしまった。

気づかれただろうか。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「なに?なんで分かるの?」

 

「さあね。長い付き合いだからじゃない?」

 

「だからってそんなの分かる?会話が聞こえてたわけでもないじゃん。」

 

「まあ、雰囲気とかだね。智は分かりやすいしね。」

 

「・・・ふふ。なんか・・・。」

 

「なに?一生懸命隠してたのに、って?」

 

「・・・怖えわ。」

 

「はははは。隠す必要なんてないってことよ?今更なにがどうなるってのよ。」

 

ニノに言われて考える。

何を恐れていたのか。

でも、簡単に言えることでもない。

大切な相手だからこそ言えないこともある。

 

だけど、確かに馬鹿な心配だった。

 

 

「俺も見てみたいよ。智がそんな風に惚れちゃう相手。」

 

「いや。」

 

「雅紀は遭遇したって言ってたじゃん。あいつはなんも気づいてないと思うけど。」

 

「ふふ。」

 

「まあ、なんかあったらいつでも言って?できることはするからさ。」

 

「ん。頼もしいよ。」

 

「ん。」

 

 

弁当の空き箱を捨てると、お湯を沸かしなおす。

 

「もっとコーヒー飲む?」

 

「智は何飲むの?」

 

「俺は緑茶。」

 

「じゃあ、俺も。」

 

「あいよ。」

 

なんだか照れくさい。

この年になって、好きな人の話なんてそうそうするものじゃない。

しかも片思いなんて。

 

ゆっくりお茶の準備をする。

ニノの横に戻るのがなんとなく気まずい。

 

 

「そう言えばさ、あの動画軽くバズってる。このままだと歴代でもいい線行きそう。」

 

「どれ?」

 

「智がつけたリンキンパークの。」

 

「ああ。まじで?」

 

「あーれ、踊ってて気持ちよかったなぁ。俺ああいうのもっとやりたい。」

 

「うん。」

 

「よろしく。」

 

「ふふ。分かった。」

 

 

お茶を持って戻ってから、踊りたい曲について話した。

コミカルなものもやりたいとか、汗を飛ばしながらみたいなものもいいとか、2人とも体がいい具合に暖まるくらいの熱量でアイデアを投げ合った。

 

 

「そんじゃ俺帰るわ。」

 

突然立ち上がりながらニノが言う。

 

「・・・来るのも帰るのも突然だな。」

 

「まあね。気が向いたらまた来てあげるよ。」

 

「ふふふ。」

 

「へへ。次はなんかご馳走してね。」

 

「振付で許して。」

 

「ははは!やだよ。雅紀と3人で飲み行こうぜ。」

 

 

荷物もなにも持たないニノが帰ってしまうのはとても速かった。

うるさいわけじゃないけど、ちょっとした竜巻でもやってきたみたいな感じだった。

だけど、気持ちは落ち着いていた。

せめて誰かが知っていてくれる。

それだけで良かったのだと気づく。

 

 

 

 

「昨日のお友達って、この間お会いした・・・相葉さんでしたっけ?」

 

櫻井さんが施術の準備をしながら聞く。

夕飯を雅紀と早くに済ませ、帰ってきてからシャワーも浴びた。

ソファで眠りそうになっていたところで、櫻井さんが来たのだ。

ソワソワと動き回らないでいたのが珍しいと、振り返ってみると不思議に思う。

 

 

「ああ、いえ。昨日のは別の。ダンスの仲間っていうか、まあ親友です。」

 

「へえ。いいなー。俺はもう夜部屋で一緒に過ごす友達なんていないから。」

 

「ふふ。勝手に来たんです。」

 

「勝手に来るのなんてジュンくらいですよ。ははは。」

 

 

ズキンと胸が痛む。

櫻井さんとジュンさんが2人でソファで寄り添って座っているところが目に浮かんで、頭を振る。

イメージは消えたけど、気持ちが消えない。

 

 

「大野さん、お友達多いんですね。ジュンもなんか友達になろうとしてるとかなんとか。」

 

「多くないですよ。あの2人だけです。ジュンさんも楽しいですけど。」

 

「智さんって呼んでたから、なんか羨ましくなっちゃいました。」

 

「え。ふふ。」

 

一度、呼び捨てにされたことを思い出す。

別にそのままでも良かったけれど、次の時にはまた「さん」がついていた。

案外、繊細にいろいろと考えてくれているのだろうと親近感が湧いたけれど、伝えてはいない。

 

 

「じゃ、カッサの説明だけしちゃいますね。」

 

櫻井さんは丁寧に、笑顔を絶やさずにカッサについて説明を終える。

櫻井さんがしてくれることならなんでもいいと思っていたけれど、こういう人がプロというものなのだと感心する。

 

「なんか質問とか心配事とかありますか?言っても俺まだ他の人には施術したことないので。」

 

「ないです。」

 

「怖いとか・・・?」

 

「まったく。信用してます。」

 

「はは!嬉しいです。」

 

櫻井さんの笑顔が変わる。

本当に嬉しそうで、見ていて胸がギュッと掴まれたようになる。

 

こんな顔をさせることができるのか。

もっと見たい。

そんな欲が湧いてくるのが、少し怖かった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「あ、智、LINE電話きてる。」

 

ニノがキッチンに置きっぱなしにしていたスマホを持って小走りに戻ってくる。

 

「櫻井さん?」

 

「え。」

 

「だれ?」

 

「ま、マッサージの・・・。」

 

「ああ。イケメンのね。」

 

ニノの前で櫻井さんと話すのがなんとなく嫌で躊躇する。

理由はそれだけじゃないけど、ニノのせいにした。

 

 

「出なよ。俺はコーヒー淹れるから。」

 

 

「・・・・。もしもし。」

 

『あっ、大野さん。ごめんなさい急に電話して。』

 

「あ、いや。」

 

『あの、明日お休みだって聞いて。』

 

「ああ、はい。」

 

『良かったらなんですけど、この間話した練習をさせてもらえないかなって・・・。どうでしょう?』

 

「練習・・・。」

 

『ああ、今俺カッサっていう道具を使ったマッサージを習ってて、もうすぐ実技の中間試験があるんです。それの練習をお願いできませんか?』

 

「カッサ・・・ですか?」

 

『はい。天然石の道具使ってやるものなんですが、血行促進とかむくみ解消とかに効果があって。気持ちいいですよ?』

 

 

どう答えるべきかを考えてしばらく沈黙する。

櫻井さんもそれに付き合って沈黙する。

ニノはコーヒーを淹れる手を止めているような気配がする。

 

 

「明日は・・・夜しか空いてなくて。」

 

『あ、予定入っちゃってましたか。ちょっと遅かったかぁ・・・。急いだつもりだったんだけどなぁ。ジュンに聞いてすぐ連絡したんですよ。』

 

「すみません。」

 

『・・・夜は・・・ダメですよね・・・?』

 

「夜・・・。」

 

 

「夜でいいって言いな。」

 

ニノがキッチンから口を出す。

ニノを見ると、ふざけているようでもなく、真剣なまなざしが返ってくる。

何が分かっているのか、ニノにこんな表情で何かを言われるのは久しぶりだった。

 

「夜でいいよって。」

 

ニノが少し声を大きくしてまた言う。

 

 

『ん?あ、お客さんですか?すいません、お邪魔しちゃって。じゃ、俺また連絡しますね?』

 

「あ、櫻井さんっ。」

 

慌てて呼び止める。

引き受けると決めたわけではなかった。

ただ、このまま通話を終えてしまうのが嫌だった。

 

『はい。』

 

「あ、いや。」

 

 

「いいですよー!智、夜空いてるんでー!」

 

ニノが大きな声で言いながら、スマホに向かって近づいてくる。

 

「なにやって・・・。」

 

「智空いてまーす。明日の夜よろしくお願いしまーす。」

 

「ニノっ。」

 

『はははっ。お友達ですか?』

 

「すいません。酔ってもないのに。」

 

『いえ。こちらはその声を信じたいです。』

 

「・・・じゃあ、8時過ぎでもいいですか?」

 

『いいんですか?ありがとうございます!8時でも9時でもそれ以降でも、俺は大丈夫です。そのままベッドに入って寝ちゃえるようにしておいてくれれば、いくら遅くても俺は大丈夫なんで。』

 

嬉しそうな声で一気に言う櫻井さんに、少し笑う。

ニノはいつの間にかキッチンに戻っている。

 

「じゃあ、明日のお昼くらいに連絡します。」

 

『はい。お待ちしています。お友達さんにお邪魔しましたって伝えてください!』

 

「ふふ。おやすみなさい。」

 

『おやすみなさい。』

 

しばらく通話の終わったスマホの画面を見つめたまま考える。

明日の夜、櫻井さんに会える。

胸が高鳴るのと同時に、微かなモヤモヤも感じる。

 

ニノを見る、というよりは軽く睨む。

目が合う。

 

「なによ。俺は応援してるって言ったでしょ?」

 

「え?」

 

「雅紀にはメシは別々って言っときな。そしたら早く帰れるっしょ。」

 

 

頼もしいような恐ろしいような。

でも、ニノがいてくれて良かった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「なにこの弁当。豪華だね。」

 

「うん。練習の時いつも差し入れしてくれる。」

 

「だれ?」

 

「あー、広告会社の担当の。」

 

「智のことスカウトしたって人?」

 

「ん。食う?」

 

「いや、俺は食ってきた。食いな。見てるから。」

 

「ふふ。見なくていいし。」

 

「へへ。」

 

 

ニノはやっぱり当たり障りのないことだけを話題にした。

話し続けることもなく、沈黙も温かい。

楽だなと思う。

 

 

「そーいや、さっきイケメン歩いてた。」

 

「ふふ。なんの報告?」

 

「いや、あんま見ないくらいのイケメンだったからなんか言いたくなった。」

 

「へえ。」

 

ジュンさんならそう思うこともあるかもと、ふと思う。

櫻井さんも相当なイケメンだけど、表情の親しみやすさの分だけちょっとイメージが違うかもしれない。

でも、ジュンさんも会う時はいつも穏やかで優しい笑顔をしている。

 

 

「なに考えてんの?」

 

「ん?いや。最近イケメンとの接触が増えててさ。」

 

「へえ。カポエラで?」

 

「その担当の人もすんごいイケメンだし。」

 

「だし?」

 

「・・・その、俺のマッサージをやってくれる人も。」

 

 

なにか突っ込まれるかと思ったけど、ニノは普通に流した。

 

「そーなんだ。結構いるもんだね。」

 

「・・・お前も悪くないよ。雅紀も。」

 

「おまけで褒めんのやめてくれる?言われたことはあるけど。」

 

「ふふ。」

 

弁当箱の右上に2つ入っているがんもどきのひとつを口に含む。

ジュワッと染み出した汁にむせそうになるのをギリギリで耐える。

旨い。

いいところのお弁当なのだろうなと思いながら、ジュンさんを思い出す。

瞳の奥が輝いている笑顔。

 

胸がぎゅっとなる。

 

なんだろう。

 

 

「あ、雅紀からLINE来た。明日釣り行くのか聞いている。」

 

「行く。」

 

「どこ?」

 

「決めてないけど、釣り堀。」

 

「釣り堀?釣り堀なら俺も行こうかな。」

 

「俺はさー、釣りの時は静かにしてたいの。」

 

「ふうん。で?」

 

「お前が来たら雅紀と騒ぐじゃんか?」

 

「騒がない。まるで騒がない。信じられないくらい静か。」

 

軽い口調でそんなことを言いながら、ニノはキッチンに向かう。

そして、ちらちら振り返りながら、コーヒーを入れる準備を始める。

 

 

「それは信じられない。」

 

「なによ。やなの?」

 

「久々だから。」

 

「ふうん。じゃあ、雅紀と離れたところでやるよ。どこか決まったら教えて。」

 

「・・・・。」

 

 

めんどくさいことになった。

雅紀だけなら穏やかに過ごせるかもしれないけど。

2人揃ったら、退屈だとかもうメシにしようだとか、いろいろうるさいに違いない。

2人揃うとガキに戻るのだ。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

返事をどうしようかと考えていると、いつの間にかマンションの前に着いていた。

電車にも乗ったし、駅からの道もしっかりと歩いたけれど、あまり記憶に残っていない。

マッサージは断るつもりだけど、どう断るかが問題だ。

 

それにしても決まらない。

なぜなら、インスタでのつながりは正直いらないと思ったから、DMでの返事にも抵抗がある。

アカウントがあることも忘れていたのに、この先新しい投稿をするつもりもないのに。

それを、うまく伝えられる気がしない。

 

まあつまり、櫻井さんを断るということが、なにしろ難しい。

どんな言い方をしても、自分のなかから櫻井さんを排除しているようで苦しい。

この気持ちは、いつかしっかり消さなくてはいけないけれど。

 

 

電話が鳴る。

立ち止まってスマホを取り出す。

ジュンさんだった。

 

 

「もしもし。」

 

『あ、智さん。お疲れ様でした。もう家ですか?』

 

「はい。ちょうど着いたところで。」

 

『そっか。車でお送りできなくてすみませんでした。』

 

「全然です。少し歩けて気持ちよかったです。」

 

『ふはは。運動の後に運動ですか。メシは?』

 

「お弁当もらってきました。美味しそうなの、いつもありがとうございます。」

 

『良かった。智さん遠慮しがちだから、ちょっと心配してました。』

 

「ふふ。」

 

『そんじゃ、また明後日。』

 

「はい。」

 

『ゆっくり休んでくださいね。』

 

 

ジュンさんは電話でも爽やかな風のような雰囲気を残していくのだなと思った。

明るい声に、つられて気分が少し上がる。

きっと電話越しにも笑顔で瞳を輝かせていたのだろう。

 

「ふふ。」

 

マンションのエントランスのドアを押す。

重めのドアに足を少し踏ん張ると、筋肉が固くなったお尻を感じる。

筋膜剥がしのローラーでも当てておこうと思う。

 

 部屋は寒かったけど、空気が滞っている気がして、窓を開けた。

ついでにもう一度星を見あげようとベランダに出る。

裸足の足の裏から冷たさが登ってきて身震いする。

 

「うっ、さっむ。」

 

肩を竦めて下を見ると、歩道を歩いている人がなんとなく気になった。

遠ざかっていく姿をしばらく見つめる。

 

「さく・・・いや、違うか。」

 

違うかと思ったけど、もう一度ちゃんと見る。

そうかもと思って見ると、もうそんな気がしてくる。

でも、後頭部なら見慣れている。

櫻井さんのとは違うと思う。

 

「・・・会いたいだけじゃんか。」

 

そう気づいて落ち込む。

昨日会ったばかりだし、諦めたいし。

でも、まるっきり上手くいかないのだ。

 

本当に上手くいかない。

 

 

だけど、似たような人を見ただけでときめく感じは気持ちがよくもある。

それが困るのだけど、でも認めるしかない。

恋をしているのだ。

 

 

ピンポーン ピンポーン

 

チャイムが鳴る。

体ひとつ分開けていた窓から走りこんでインターホンに向かう。

櫻井さんかもと期待していたのだと思う。

鼓動が速くなる。

 

ニノだった。

 

「え、なに?」

 

『なにってなによ。寒いから早く開けて。』

 

「あ、うん。」

 

ボタンを押してロビーのドアを解錠する。

2、3分でドアの前に着くだろう。

急いでやかんを火にかけてから、玄関のカギを開ける。

あとは勝手に入ってくる。

 

何の用だろう。

長く居られてもちょっと嫌だなと思いながら緑茶をいれる準備をする。

 

 

「お疲れ。おじゃましまーす。」

 

「おう。なに?」

 

「だから、その聞き方なんなのよ。失礼でしょ?」

 

「だって急に来るじゃん。」

 

「そうよ。聞いたら断るでしょ。でも今あんま一人でいない方がいいんでしょ?」

 

「・・・ああ、まあ。」

 

 

ニノは柔らかな笑顔を見せると、来ていたコートを脱いで、横に来てシンクで手を洗う。

 

「だと思って。明日は釣りとか行こうと思ってる?雅紀が釣り行きたがってたよ?」

 

「なんで分かんの?雅紀も?」

 

「あいつはただ本能かな。急に釣り行きたいとか言い出して、自分で首ひねってたから。はは。」

 

「ふふ。」

 

 

ありがたいなと思った。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

確かに尻に来ている。

 

予告どおりに、少し複雑になったカポエラの練習の後、ストレッチを兼ねて一駅分を歩いて帰ることにした。

いつもより早く終わったこともあって、昼間の太陽に温められた空気はまだそれほど冷たくない。

 

ジュンさんは忙しかったようで、今日は始まりに少し顔を見せただけだった。

差し入れはいつも通り美味しいものを揃えてくれていた。

いつも嬉しそうに見に来てくれるから、きっと悔しがっていただろうと思う。

 

 

腰は痛くならなかった。

昨日、櫻井さんがたっぷりとほぐしておいてくれたのが良かったのかもしれない。

カポエラの体勢の低さにもかなり慣れてきた。

 

 

見上げると冬の星がキレイに見える。

東京とは言え、この辺には視界を遮る光はそれほどない。

田舎の10分の1程度だろうとは思うけど、これだけキレイならいいと思う。

 

 

「明日休みか・・・何しよ。」

 

久しぶりの休みのような気がする。

最近は、休みと言えばニノと雅紀とで踊っていた。

心の余裕もあまり無かったから、それでそんな気持ちになるのかもしれない。

実際は、半日休みだったりすることも結構あった。

 

 

釣りでも行こうか。

冬の海は寒いから、この間なにかで観た釣り堀を探して行ってみてもいいかもしれない。

ゆっくりとした時の流れに身を任せて、背中から日を浴びて過ごす昼下がりを想像する。

 

「いいな。」

 

 

帰ったら、もらってきた弁当を食べながら検索してみよう。

10時くらいに家を出て、どこかでサンドイッチでも買って向かおう。

 

 

ブッブ

 

尻のポケットに入れたスマホが振動するのを感じる。

なにかの通知だけど、メッセージではなさそうだ。

帰ったら見ればいい。

暗さに慣れてきた目に、スマホの明かりを入れたくなくてそう決める。

 

ブッブ

 

二度目は気になる。

そんなに通知が来るようなアプリを入れていない。

 

 

「ま、いっか。」

 

ポケットからスマホを取り出して立ち止まる。

画面に触れると、ロックされていない画面に時間が表示される。

 

17:50

 

その下に、2つ重なった通知がある。

 

「あ?なにこれ。」

 

よく見ると、ニノと雅紀とやっているインスタのDMのようだった。

 

「なんで俺に通知?設定してたっけ。」

 

こういうのはニノがやっている。

だから、通知が来るのも変だと思った。

放っておきたい気持ちもあったけれど、なんとなく指を置く。

 

インスタが開いて、DMの画面が映し出される。

 

 

「フォローさせてもらっちゃいました。次の更新楽しみにしています。」

「今夜は身体大丈夫ですか?19時以降は空いてますので、必要なら呼んでください。」

 

 

櫻井さんだった。

 

「え。」

 

3人のアカウント・・・じゃない?

 

「ちょ・・・。」

 

 

スマホを操り、LINEでニノを探す。

通話を選んで指でトンと叩く。

急いでいるのが自分でも分かる。

 

 

『あいよ?』

 

「ニノ、俺インスタのアカウント持ってんの?」

 

『智の個人の?』

 

「うん。お前が作った?」

 

『えー、忘れちゃったの?あれ・・・9月くらいだったか飲んだとき、智が頼んできたんじゃん。』

 

「あ?」

 

『覚えてないの?ダンスの動画いくつかあげといてくれって言われてやったけど。』

 

「なんで?」

 

『知んない。なんか仕事がどうとかは言ってたけど、ちゃんとは聞いてないよ。』

 

「・・・そうか。」

 

『飲み過ぎた日だもんね。』

 

「9月ね・・・。ああ、あったね。次の日覚えてなかった日。」

 

『んー。で、それがどした?』

 

「あー、いや。急に通知が来てびっくりしちゃって。」

 

『通知?誰かがいいねしてくれた?あれ、でも、いいねの通知は切ってあるはずだけどね。』

 

「ん、いや、DM。」

 

『そうなの?仕事の連絡とか?』

 

「んー。知り合いだった。」

 

『そっか。もっといろいろ載っけとくならまたやるけど?どうせ自分でできないんでしょ?』

 

「いや。いい。」

 

『ふーん・・・。んで、今日の練習はどうだったの?慣れた?』

 

「うん。慣れてきたし、楽しいよ。今度ちょっと見せるね。」

 

『おー。見たい見たい。』

 

「ほんじゃね。急にごめん。」

 

『いいよ。またね、来週末のことあとで連絡する。』

 

 

この間の話はどうなった?なんて聞いてこないのがニノらしい。

さっきは焦っていたけど、ニノののんびりとした声を聴いて落ち着いた。

 

櫻井さんが、偶然インスタで見つけて連絡をしてきたということだろう。

びっくりしたけど、嫌であるはずがない。

 

いや・・・どうかな。

こうして繋がりが増えることで、不安は増すのかもしれない。

 

 

気持ちも。

 

 

 

 

(つづく)