少しは痛いだろうと想像していたけれど、櫻井さんがひとつひとつ説明してくれている声を聴いていたら、痛みなんてどこか遠くの出来事のようだった。

それに、ツボを押されるとき以外はどちらにしても痛みはない。

 

いい香りのオイルを都度手に取って塗ってくれるのも、温かな手の平が心地よかった。

もちろん、好きな人の手の平が自分の肌に触れるのは内心穏やかではない。

いつものようにタオルが間にあるわけではないというのが、唯一緊張した理由だった。

言わなかったけれど。

 

途中何度も、目に入る床にそっと置かれたような小さな埃を数えるように意識をそらした。

マッサージをしている相手に変な気分になられるほど嫌なこともないだろう。

そうしながら、施術が進んでリラックスしてくると、いつの間にか気にならなくなっていた。

体中のツボや血管の話をしてくれる櫻井さんの声が嬉しそうなのが幸せだった。

 

 

「大野さん、ちょっと感覚に集中してもらっていいですか?これからもう一個のカッサに替えてみるので、どっちの感触が好きか教えてほしいんです。」

 

首に手を軽く添えながら櫻井さんが言う。

 

「了解です。」

 

「あ、ちょっとあっためるので待ってください?」

 

「ふふ。」

 

「天然石ってけっこう冷たくなるから。」

 

「はい。」

 

手の平で温めたのだろうか、「じゃあいきますね」と言って首を優しく擦る。

オイルのせいでそれほどの違いを感じない。

でも、さっきまでのものより肌に密着する感じがあった。

 

「これまで使っていたのは木製のものなんですが、今のは天然のローズクォーツです。どっちが好きとかありました?」

 

「木製の方がさらさらした感じがしてました。石の方は密着する感じ。どっちも俺は好きです。」

 

「へえ・・・。」

 

櫻井さんがしばらく黙り込む。

その間にも首を擦る手は止まらない。

 

 

「あ、ごめんなさい。実は俺には違いがほとんど分からなくて。大野さんやっぱり五感が優れてるのかな。」

 

「五感ですか?」

 

「はい。踊るのって耳とか目とかしっかり使えないとだし、これは触感だし、あとは・・・。」

 

「別にそんな自覚はないですけど。」

 

「はは。そうですか。でもそうだと思うなぁ。」

 

うつ伏せ状態で首を全体的に終わると、櫻井さんが手を止める。

 

 

「大野さん、顔やるのってどう思います?カッサはきれいなものに替えるんですけど、触られるの嫌だとかあります?」

 

「ないです。」

 

本当は、肩より上はちょっと苦手だった。

だけど、今のところ大丈夫だったからそう返事をした。

目を閉じるのだし、なにも問題はないと思う。

いつもより櫻井さんが近いことは少し緊張するけれど。

いつもの首周辺のリンパマッサージと、それほどの違いはないはずだと思った。

 

 

「じゃ、仰向けになってもらって。今度のオイルはスクワランオイルにほんのちょっとだけラベンダーの精油を入れたものになります。眠くなったら寝ちゃってくださいね。」

 

「あい。」

 

仰向けになって目を閉じ、いつものように体のポジションを決めると、額と頬に相変わらずの優しさでオイルを塗られる。

そこから全体に軽くのばすようにしてから、額をカッサが滑る。

 

櫻井さんの息遣いが近い。

いつも後ろを歩くときにふわりと感じる櫻井さんの香りが、オイルに混ざったラベンダーをかき分けて鼻をくすぐってくる。

確かに、嗅覚も敏感なのかもしれない。

こんなに櫻井さんを近くに感じるのは初めてだった。

 

 

「大野さん・・・。」

 

「ん。」

 

櫻井さんがささやくような声を出す。

口を動かせない気がして、喉だけで返事をする。

胸の高鳴りが響いていませんように。

首筋の血管から脈の速さがバレてしまいませんように。

そんなことを咄嗟に思う。

 

「まつげが・・・あ、いや。はは。なんでもないです。」

 

なんだろう。

気になるけれど、今声を出したら、口から心臓が飛び出してしまうかもしれない。

耳が熱い。

赤くなっているかもしれない。

 

 

「すでに血行が良くなってきてますね。マッサージしててもいつも思うけど、大野さんて感度が抜群なんですよ。」

 

 

ドキドキし続けているからだろうか、櫻井さんの言葉を変に受け取ってしまう。

ふと、数か月前に別れたセフレの声が頭の中を響き渡る。

 

『智、感度いい。もっと声聴かせて。』

 

 

下半身に血が集まるのを感じて、目を開ける。

櫻井さんが目に入る。

穏やかな表情が驚きの色に変わる。

 

 

「ご、ごめんなさいっ。ちょ、トイレ!」

 

「は、はい!どうぞ!」

 

飛び起きてトイレに向かう。

背後で固まっているだろう櫻井さんの動きは聞こえてこない。

 

 

やってしまった。

気づかれただろうか。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「なに?なんで分かるの?」

 

「さあね。長い付き合いだからじゃない?」

 

「だからってそんなの分かる?会話が聞こえてたわけでもないじゃん。」

 

「まあ、雰囲気とかだね。智は分かりやすいしね。」

 

「・・・ふふ。なんか・・・。」

 

「なに?一生懸命隠してたのに、って?」

 

「・・・怖えわ。」

 

「はははは。隠す必要なんてないってことよ?今更なにがどうなるってのよ。」

 

ニノに言われて考える。

何を恐れていたのか。

でも、簡単に言えることでもない。

大切な相手だからこそ言えないこともある。

 

だけど、確かに馬鹿な心配だった。

 

 

「俺も見てみたいよ。智がそんな風に惚れちゃう相手。」

 

「いや。」

 

「雅紀は遭遇したって言ってたじゃん。あいつはなんも気づいてないと思うけど。」

 

「ふふ。」

 

「まあ、なんかあったらいつでも言って?できることはするからさ。」

 

「ん。頼もしいよ。」

 

「ん。」

 

 

弁当の空き箱を捨てると、お湯を沸かしなおす。

 

「もっとコーヒー飲む?」

 

「智は何飲むの?」

 

「俺は緑茶。」

 

「じゃあ、俺も。」

 

「あいよ。」

 

なんだか照れくさい。

この年になって、好きな人の話なんてそうそうするものじゃない。

しかも片思いなんて。

 

ゆっくりお茶の準備をする。

ニノの横に戻るのがなんとなく気まずい。

 

 

「そう言えばさ、あの動画軽くバズってる。このままだと歴代でもいい線行きそう。」

 

「どれ?」

 

「智がつけたリンキンパークの。」

 

「ああ。まじで?」

 

「あーれ、踊ってて気持ちよかったなぁ。俺ああいうのもっとやりたい。」

 

「うん。」

 

「よろしく。」

 

「ふふ。分かった。」

 

 

お茶を持って戻ってから、踊りたい曲について話した。

コミカルなものもやりたいとか、汗を飛ばしながらみたいなものもいいとか、2人とも体がいい具合に暖まるくらいの熱量でアイデアを投げ合った。

 

 

「そんじゃ俺帰るわ。」

 

突然立ち上がりながらニノが言う。

 

「・・・来るのも帰るのも突然だな。」

 

「まあね。気が向いたらまた来てあげるよ。」

 

「ふふふ。」

 

「へへ。次はなんかご馳走してね。」

 

「振付で許して。」

 

「ははは!やだよ。雅紀と3人で飲み行こうぜ。」

 

 

荷物もなにも持たないニノが帰ってしまうのはとても速かった。

うるさいわけじゃないけど、ちょっとした竜巻でもやってきたみたいな感じだった。

だけど、気持ちは落ち着いていた。

せめて誰かが知っていてくれる。

それだけで良かったのだと気づく。

 

 

 

 

「昨日のお友達って、この間お会いした・・・相葉さんでしたっけ?」

 

櫻井さんが施術の準備をしながら聞く。

夕飯を雅紀と早くに済ませ、帰ってきてからシャワーも浴びた。

ソファで眠りそうになっていたところで、櫻井さんが来たのだ。

ソワソワと動き回らないでいたのが珍しいと、振り返ってみると不思議に思う。

 

 

「ああ、いえ。昨日のは別の。ダンスの仲間っていうか、まあ親友です。」

 

「へえ。いいなー。俺はもう夜部屋で一緒に過ごす友達なんていないから。」

 

「ふふ。勝手に来たんです。」

 

「勝手に来るのなんてジュンくらいですよ。ははは。」

 

 

ズキンと胸が痛む。

櫻井さんとジュンさんが2人でソファで寄り添って座っているところが目に浮かんで、頭を振る。

イメージは消えたけど、気持ちが消えない。

 

 

「大野さん、お友達多いんですね。ジュンもなんか友達になろうとしてるとかなんとか。」

 

「多くないですよ。あの2人だけです。ジュンさんも楽しいですけど。」

 

「智さんって呼んでたから、なんか羨ましくなっちゃいました。」

 

「え。ふふ。」

 

一度、呼び捨てにされたことを思い出す。

別にそのままでも良かったけれど、次の時にはまた「さん」がついていた。

案外、繊細にいろいろと考えてくれているのだろうと親近感が湧いたけれど、伝えてはいない。

 

 

「じゃ、カッサの説明だけしちゃいますね。」

 

櫻井さんは丁寧に、笑顔を絶やさずにカッサについて説明を終える。

櫻井さんがしてくれることならなんでもいいと思っていたけれど、こういう人がプロというものなのだと感心する。

 

「なんか質問とか心配事とかありますか?言っても俺まだ他の人には施術したことないので。」

 

「ないです。」

 

「怖いとか・・・?」

 

「まったく。信用してます。」

 

「はは!嬉しいです。」

 

櫻井さんの笑顔が変わる。

本当に嬉しそうで、見ていて胸がギュッと掴まれたようになる。

 

こんな顔をさせることができるのか。

もっと見たい。

そんな欲が湧いてくるのが、少し怖かった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「あ、智、LINE電話きてる。」

 

ニノがキッチンに置きっぱなしにしていたスマホを持って小走りに戻ってくる。

 

「櫻井さん?」

 

「え。」

 

「だれ?」

 

「ま、マッサージの・・・。」

 

「ああ。イケメンのね。」

 

ニノの前で櫻井さんと話すのがなんとなく嫌で躊躇する。

理由はそれだけじゃないけど、ニノのせいにした。

 

 

「出なよ。俺はコーヒー淹れるから。」

 

 

「・・・・。もしもし。」

 

『あっ、大野さん。ごめんなさい急に電話して。』

 

「あ、いや。」

 

『あの、明日お休みだって聞いて。』

 

「ああ、はい。」

 

『良かったらなんですけど、この間話した練習をさせてもらえないかなって・・・。どうでしょう?』

 

「練習・・・。」

 

『ああ、今俺カッサっていう道具を使ったマッサージを習ってて、もうすぐ実技の中間試験があるんです。それの練習をお願いできませんか?』

 

「カッサ・・・ですか?」

 

『はい。天然石の道具使ってやるものなんですが、血行促進とかむくみ解消とかに効果があって。気持ちいいですよ?』

 

 

どう答えるべきかを考えてしばらく沈黙する。

櫻井さんもそれに付き合って沈黙する。

ニノはコーヒーを淹れる手を止めているような気配がする。

 

 

「明日は・・・夜しか空いてなくて。」

 

『あ、予定入っちゃってましたか。ちょっと遅かったかぁ・・・。急いだつもりだったんだけどなぁ。ジュンに聞いてすぐ連絡したんですよ。』

 

「すみません。」

 

『・・・夜は・・・ダメですよね・・・?』

 

「夜・・・。」

 

 

「夜でいいって言いな。」

 

ニノがキッチンから口を出す。

ニノを見ると、ふざけているようでもなく、真剣なまなざしが返ってくる。

何が分かっているのか、ニノにこんな表情で何かを言われるのは久しぶりだった。

 

「夜でいいよって。」

 

ニノが少し声を大きくしてまた言う。

 

 

『ん?あ、お客さんですか?すいません、お邪魔しちゃって。じゃ、俺また連絡しますね?』

 

「あ、櫻井さんっ。」

 

慌てて呼び止める。

引き受けると決めたわけではなかった。

ただ、このまま通話を終えてしまうのが嫌だった。

 

『はい。』

 

「あ、いや。」

 

 

「いいですよー!智、夜空いてるんでー!」

 

ニノが大きな声で言いながら、スマホに向かって近づいてくる。

 

「なにやって・・・。」

 

「智空いてまーす。明日の夜よろしくお願いしまーす。」

 

「ニノっ。」

 

『はははっ。お友達ですか?』

 

「すいません。酔ってもないのに。」

 

『いえ。こちらはその声を信じたいです。』

 

「・・・じゃあ、8時過ぎでもいいですか?」

 

『いいんですか?ありがとうございます!8時でも9時でもそれ以降でも、俺は大丈夫です。そのままベッドに入って寝ちゃえるようにしておいてくれれば、いくら遅くても俺は大丈夫なんで。』

 

嬉しそうな声で一気に言う櫻井さんに、少し笑う。

ニノはいつの間にかキッチンに戻っている。

 

「じゃあ、明日のお昼くらいに連絡します。」

 

『はい。お待ちしています。お友達さんにお邪魔しましたって伝えてください!』

 

「ふふ。おやすみなさい。」

 

『おやすみなさい。』

 

しばらく通話の終わったスマホの画面を見つめたまま考える。

明日の夜、櫻井さんに会える。

胸が高鳴るのと同時に、微かなモヤモヤも感じる。

 

ニノを見る、というよりは軽く睨む。

目が合う。

 

「なによ。俺は応援してるって言ったでしょ?」

 

「え?」

 

「雅紀にはメシは別々って言っときな。そしたら早く帰れるっしょ。」

 

 

頼もしいような恐ろしいような。

でも、ニノがいてくれて良かった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「なにこの弁当。豪華だね。」

 

「うん。練習の時いつも差し入れしてくれる。」

 

「だれ?」

 

「あー、広告会社の担当の。」

 

「智のことスカウトしたって人?」

 

「ん。食う?」

 

「いや、俺は食ってきた。食いな。見てるから。」

 

「ふふ。見なくていいし。」

 

「へへ。」

 

 

ニノはやっぱり当たり障りのないことだけを話題にした。

話し続けることもなく、沈黙も温かい。

楽だなと思う。

 

 

「そーいや、さっきイケメン歩いてた。」

 

「ふふ。なんの報告?」

 

「いや、あんま見ないくらいのイケメンだったからなんか言いたくなった。」

 

「へえ。」

 

ジュンさんならそう思うこともあるかもと、ふと思う。

櫻井さんも相当なイケメンだけど、表情の親しみやすさの分だけちょっとイメージが違うかもしれない。

でも、ジュンさんも会う時はいつも穏やかで優しい笑顔をしている。

 

 

「なに考えてんの?」

 

「ん?いや。最近イケメンとの接触が増えててさ。」

 

「へえ。カポエラで?」

 

「その担当の人もすんごいイケメンだし。」

 

「だし?」

 

「・・・その、俺のマッサージをやってくれる人も。」

 

 

なにか突っ込まれるかと思ったけど、ニノは普通に流した。

 

「そーなんだ。結構いるもんだね。」

 

「・・・お前も悪くないよ。雅紀も。」

 

「おまけで褒めんのやめてくれる?言われたことはあるけど。」

 

「ふふ。」

 

弁当箱の右上に2つ入っているがんもどきのひとつを口に含む。

ジュワッと染み出した汁にむせそうになるのをギリギリで耐える。

旨い。

いいところのお弁当なのだろうなと思いながら、ジュンさんを思い出す。

瞳の奥が輝いている笑顔。

 

胸がぎゅっとなる。

 

なんだろう。

 

 

「あ、雅紀からLINE来た。明日釣り行くのか聞いている。」

 

「行く。」

 

「どこ?」

 

「決めてないけど、釣り堀。」

 

「釣り堀?釣り堀なら俺も行こうかな。」

 

「俺はさー、釣りの時は静かにしてたいの。」

 

「ふうん。で?」

 

「お前が来たら雅紀と騒ぐじゃんか?」

 

「騒がない。まるで騒がない。信じられないくらい静か。」

 

軽い口調でそんなことを言いながら、ニノはキッチンに向かう。

そして、ちらちら振り返りながら、コーヒーを入れる準備を始める。

 

 

「それは信じられない。」

 

「なによ。やなの?」

 

「久々だから。」

 

「ふうん。じゃあ、雅紀と離れたところでやるよ。どこか決まったら教えて。」

 

「・・・・。」

 

 

めんどくさいことになった。

雅紀だけなら穏やかに過ごせるかもしれないけど。

2人揃ったら、退屈だとかもうメシにしようだとか、いろいろうるさいに違いない。

2人揃うとガキに戻るのだ。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

返事をどうしようかと考えていると、いつの間にかマンションの前に着いていた。

電車にも乗ったし、駅からの道もしっかりと歩いたけれど、あまり記憶に残っていない。

マッサージは断るつもりだけど、どう断るかが問題だ。

 

それにしても決まらない。

なぜなら、インスタでのつながりは正直いらないと思ったから、DMでの返事にも抵抗がある。

アカウントがあることも忘れていたのに、この先新しい投稿をするつもりもないのに。

それを、うまく伝えられる気がしない。

 

まあつまり、櫻井さんを断るということが、なにしろ難しい。

どんな言い方をしても、自分のなかから櫻井さんを排除しているようで苦しい。

この気持ちは、いつかしっかり消さなくてはいけないけれど。

 

 

電話が鳴る。

立ち止まってスマホを取り出す。

ジュンさんだった。

 

 

「もしもし。」

 

『あ、智さん。お疲れ様でした。もう家ですか?』

 

「はい。ちょうど着いたところで。」

 

『そっか。車でお送りできなくてすみませんでした。』

 

「全然です。少し歩けて気持ちよかったです。」

 

『ふはは。運動の後に運動ですか。メシは?』

 

「お弁当もらってきました。美味しそうなの、いつもありがとうございます。」

 

『良かった。智さん遠慮しがちだから、ちょっと心配してました。』

 

「ふふ。」

 

『そんじゃ、また明後日。』

 

「はい。」

 

『ゆっくり休んでくださいね。』

 

 

ジュンさんは電話でも爽やかな風のような雰囲気を残していくのだなと思った。

明るい声に、つられて気分が少し上がる。

きっと電話越しにも笑顔で瞳を輝かせていたのだろう。

 

「ふふ。」

 

マンションのエントランスのドアを押す。

重めのドアに足を少し踏ん張ると、筋肉が固くなったお尻を感じる。

筋膜剥がしのローラーでも当てておこうと思う。

 

 部屋は寒かったけど、空気が滞っている気がして、窓を開けた。

ついでにもう一度星を見あげようとベランダに出る。

裸足の足の裏から冷たさが登ってきて身震いする。

 

「うっ、さっむ。」

 

肩を竦めて下を見ると、歩道を歩いている人がなんとなく気になった。

遠ざかっていく姿をしばらく見つめる。

 

「さく・・・いや、違うか。」

 

違うかと思ったけど、もう一度ちゃんと見る。

そうかもと思って見ると、もうそんな気がしてくる。

でも、後頭部なら見慣れている。

櫻井さんのとは違うと思う。

 

「・・・会いたいだけじゃんか。」

 

そう気づいて落ち込む。

昨日会ったばかりだし、諦めたいし。

でも、まるっきり上手くいかないのだ。

 

本当に上手くいかない。

 

 

だけど、似たような人を見ただけでときめく感じは気持ちがよくもある。

それが困るのだけど、でも認めるしかない。

恋をしているのだ。

 

 

ピンポーン ピンポーン

 

チャイムが鳴る。

体ひとつ分開けていた窓から走りこんでインターホンに向かう。

櫻井さんかもと期待していたのだと思う。

鼓動が速くなる。

 

ニノだった。

 

「え、なに?」

 

『なにってなによ。寒いから早く開けて。』

 

「あ、うん。」

 

ボタンを押してロビーのドアを解錠する。

2、3分でドアの前に着くだろう。

急いでやかんを火にかけてから、玄関のカギを開ける。

あとは勝手に入ってくる。

 

何の用だろう。

長く居られてもちょっと嫌だなと思いながら緑茶をいれる準備をする。

 

 

「お疲れ。おじゃましまーす。」

 

「おう。なに?」

 

「だから、その聞き方なんなのよ。失礼でしょ?」

 

「だって急に来るじゃん。」

 

「そうよ。聞いたら断るでしょ。でも今あんま一人でいない方がいいんでしょ?」

 

「・・・ああ、まあ。」

 

 

ニノは柔らかな笑顔を見せると、来ていたコートを脱いで、横に来てシンクで手を洗う。

 

「だと思って。明日は釣りとか行こうと思ってる?雅紀が釣り行きたがってたよ?」

 

「なんで分かんの?雅紀も?」

 

「あいつはただ本能かな。急に釣り行きたいとか言い出して、自分で首ひねってたから。はは。」

 

「ふふ。」

 

 

ありがたいなと思った。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

確かに尻に来ている。

 

予告どおりに、少し複雑になったカポエラの練習の後、ストレッチを兼ねて一駅分を歩いて帰ることにした。

いつもより早く終わったこともあって、昼間の太陽に温められた空気はまだそれほど冷たくない。

 

ジュンさんは忙しかったようで、今日は始まりに少し顔を見せただけだった。

差し入れはいつも通り美味しいものを揃えてくれていた。

いつも嬉しそうに見に来てくれるから、きっと悔しがっていただろうと思う。

 

 

腰は痛くならなかった。

昨日、櫻井さんがたっぷりとほぐしておいてくれたのが良かったのかもしれない。

カポエラの体勢の低さにもかなり慣れてきた。

 

 

見上げると冬の星がキレイに見える。

東京とは言え、この辺には視界を遮る光はそれほどない。

田舎の10分の1程度だろうとは思うけど、これだけキレイならいいと思う。

 

 

「明日休みか・・・何しよ。」

 

久しぶりの休みのような気がする。

最近は、休みと言えばニノと雅紀とで踊っていた。

心の余裕もあまり無かったから、それでそんな気持ちになるのかもしれない。

実際は、半日休みだったりすることも結構あった。

 

 

釣りでも行こうか。

冬の海は寒いから、この間なにかで観た釣り堀を探して行ってみてもいいかもしれない。

ゆっくりとした時の流れに身を任せて、背中から日を浴びて過ごす昼下がりを想像する。

 

「いいな。」

 

 

帰ったら、もらってきた弁当を食べながら検索してみよう。

10時くらいに家を出て、どこかでサンドイッチでも買って向かおう。

 

 

ブッブ

 

尻のポケットに入れたスマホが振動するのを感じる。

なにかの通知だけど、メッセージではなさそうだ。

帰ったら見ればいい。

暗さに慣れてきた目に、スマホの明かりを入れたくなくてそう決める。

 

ブッブ

 

二度目は気になる。

そんなに通知が来るようなアプリを入れていない。

 

 

「ま、いっか。」

 

ポケットからスマホを取り出して立ち止まる。

画面に触れると、ロックされていない画面に時間が表示される。

 

17:50

 

その下に、2つ重なった通知がある。

 

「あ?なにこれ。」

 

よく見ると、ニノと雅紀とやっているインスタのDMのようだった。

 

「なんで俺に通知?設定してたっけ。」

 

こういうのはニノがやっている。

だから、通知が来るのも変だと思った。

放っておきたい気持ちもあったけれど、なんとなく指を置く。

 

インスタが開いて、DMの画面が映し出される。

 

 

「フォローさせてもらっちゃいました。次の更新楽しみにしています。」

「今夜は身体大丈夫ですか?19時以降は空いてますので、必要なら呼んでください。」

 

 

櫻井さんだった。

 

「え。」

 

3人のアカウント・・・じゃない?

 

「ちょ・・・。」

 

 

スマホを操り、LINEでニノを探す。

通話を選んで指でトンと叩く。

急いでいるのが自分でも分かる。

 

 

『あいよ?』

 

「ニノ、俺インスタのアカウント持ってんの?」

 

『智の個人の?』

 

「うん。お前が作った?」

 

『えー、忘れちゃったの?あれ・・・9月くらいだったか飲んだとき、智が頼んできたんじゃん。』

 

「あ?」

 

『覚えてないの?ダンスの動画いくつかあげといてくれって言われてやったけど。』

 

「なんで?」

 

『知んない。なんか仕事がどうとかは言ってたけど、ちゃんとは聞いてないよ。』

 

「・・・そうか。」

 

『飲み過ぎた日だもんね。』

 

「9月ね・・・。ああ、あったね。次の日覚えてなかった日。」

 

『んー。で、それがどした?』

 

「あー、いや。急に通知が来てびっくりしちゃって。」

 

『通知?誰かがいいねしてくれた?あれ、でも、いいねの通知は切ってあるはずだけどね。』

 

「ん、いや、DM。」

 

『そうなの?仕事の連絡とか?』

 

「んー。知り合いだった。」

 

『そっか。もっといろいろ載っけとくならまたやるけど?どうせ自分でできないんでしょ?』

 

「いや。いい。」

 

『ふーん・・・。んで、今日の練習はどうだったの?慣れた?』

 

「うん。慣れてきたし、楽しいよ。今度ちょっと見せるね。」

 

『おー。見たい見たい。』

 

「ほんじゃね。急にごめん。」

 

『いいよ。またね、来週末のことあとで連絡する。』

 

 

この間の話はどうなった?なんて聞いてこないのがニノらしい。

さっきは焦っていたけど、ニノののんびりとした声を聴いて落ち着いた。

 

櫻井さんが、偶然インスタで見つけて連絡をしてきたということだろう。

びっくりしたけど、嫌であるはずがない。

 

いや・・・どうかな。

こうして繋がりが増えることで、不安は増すのかもしれない。

 

 

気持ちも。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

「腰に疲れは感じるけど、柔らかいですよ?お尻もそんなには。慣れてきてるんですね。」

 

櫻井さんは、そう言ってから、考えるような間を置く。

なんだか久しぶりに会ったような気分になるのはなぜだろうか。

 

 

 

 

「お待たせしちゃいました。」

 

「いえいえ。残ってたパン食べてたので。夕飯済んじゃいました。」

 

相変わらずの輝きを瞳に宿して、ジュンさんが微笑む。

パイプ椅子に座っているだけなのにかっこいいのは、気のせいなのかなんなのか。

 

 

「それでおしまいですか?腹減りません?」

 

「本当は夜はお米がいいんだけど、見てたら我慢できなかったので。そういうところ面倒くさい奴なんです。」

 

ジュンさんは、小さな仕草で自分を指さして言う。

 

 

「そうなんですね。」

 

「そう言う智さんだって、食は気をつけてるでしょ?」

 

「いや、俺のは好みが半分以上で。」

 

「ああ、そうだった。好みが健康的なんだった。」

 

「ふふ。今夜は俺ももらったパンで済ませます。」

 

 

「翔に電話しといたんで、帰り待ってますよ。嬉しそうな声出してました。」

 

「え。」

 

「あ、時間とか相談したかったですか?」

 

「あ、いえ。ありがとうございます。」

 

 

満足そうにニコニコするジュンさんを見ながら、感じた違和感について考える。

なんだろう。

ただ、自分が連絡を取りたかっただけだろうか。

モヤモヤするけれど、出どころは分からない。

 

 

「翔、智さんの練習ある間、夜はなるべく空けておきたいんだって。俺が誘っても仕事だからって簡単に断るくせに。付き合い長いとそうなってくるんですかねぇ。」

 

全然不満そうじゃないジュンさんが、ベーコンエピにかじりついているところを覗き込んでくる。

リアクションの仕方が分からなくて、もぐもぐして誤魔化す。

 

「美味いでしょ?」

 

頷いて応える。

 

 

「俺らもう10年くらいになるんですよ。昨日数えてびっくりしました。俺は高校卒業のちょっと手前で。翔はもうセラピストだったけど。

 

当時大学受かって浮かれてた友達が、なんか知らないけど体当たりしてきて。結構な衝撃で壁に打ち付けられて腰やっちゃったっていう。ふはは。」

 

「痛そう。」

 

「めっちゃ痛かったんですけど、翔がちょっとやってくれたらすんごい楽になって。そのときは短かったけど、その後なにかあるとずっと翔のとこ行ってたんです。」

 

「へえ。」

 

 

「ふはは。変な昔話、すいません。どぞ。」

 

 

車のドアを開けてくれくれるジュンさんに、軽く頭を下げて乗り込む。

パンはカスがでるから車内では食べないように、袋にしまい込む。

 

「食べてから出ますか?」

 

「あ、いや。大丈夫です。ジュンさんも疲れてるから早く帰りましょ。」

 

「了解です。翔には9時くらいで伝えてあるので、帰ってからも少し余裕あるかと。」

 

「はい。何からなにまでありがとうございます。」

 

 

「ふはは。やっぱりちょっと距離感じるんだよなぁ。終わる頃にはジュンって読んでくださいよね。」

 

「え。ふふ。」

 

「本気ですからね?俺も明日から智で通しますよ?」

 

「ふふ。分かりました。」

 

 

 

 

「しかし、潤が電話してくると思わなかったから、びっくりしちゃいました。」

 

「ああ。シャワーしてる間に連絡してくださってて。」

 

「ははは。『くださって』とかなんかウケますね。あいつはかなり大野さんと仲良くなったみたいに言ってくるんで。」

 

「ふふ。よくしてもらってます。」

 

「はは。仕事以上になんか大野さんのこと大好きみたいですね。」

 

「え、ふふ。」

 

 

櫻井さんは、つま先から順に足の付根までを手のひらで(多分)こするようにほぐしながら話し続ける。

いつもは黙っていることの方が多いから、なんとなく戸惑いつつ会話に応える。

 

 

「明日から少しレベル上がるって聞きました。」

 

「はい。」

 

「その準備ってことですよね。」

 

「はい。」

 

「ははは。潤がマネージャーみたいに伝えてくるから、なんかすみません。勝手に知ってて。」

 

「あ、いえ。俺は別に。」

 

 

「けど嬉しかったです。」

 

「え?」

 

「役に立てるの。ほら、相葉さんといたとき言ったじゃないですか。俺あれ割りと本気なんで。」

 

 

ダンスのツアーに専属のマッサージセラピストとして帯同するという話だろう。

でも、そんな未来があるはずがない。

まず、そんな所を目指してもいないのだから。

 

 

「なんてね。はは。」

 

「あ、ふふ。本気かと思っちゃいました。」

 

「んー、まあ。夢ではあります。」

 

誰か有名な人の専属になりたいのだろうか。

そういう働き方に憧れているということだろうか。

 

 

「あ、そう言えば、今教えてもらってるカポエラの先生には専属の方がいらっしゃいます。終わるといつもストレッチからやってて。その先生に言われて今日はお願いしたんです。」

 

「へえ!じゃあ、大野さんが教える側に回ったとしても大丈夫ってことですね!」

 

「あ、いや・・・。」

 

「いやー、夢が広がるなあ。」

 

 

混乱する。

喜んでいいのかが分からなくて。

そんなにずっと、こうして体を整えてもらえるのなら・・・。

でも、だとすると一体どこでこの気持ちに区切りをつけたらいいのだろう。

 

心配する必要のなさそうな遠い非現実を思って、少し胸が痛くなった。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

ココアのカフェインをものともせず、すぐに眠気はやってきた。

久しぶりに、布団の中で眠れない居心地の悪さを感じずに済んだ。

 

小説はきっと面白いのだろう。

情景が浮かびやすい丁寧な描写で、犯罪を追う主人公の状況をしっかりと思い浮かべることができた。

だけど、それだけだ。

もくじを含めた5ページ目で、もう字面を追うことさえできなくなった。

 

フラフラしながら歯を磨いて、すぐに布団に潜り込んだ。

夢も見なかった。

 

 

 

「智さん、今日もよろしくお願いします。」

 

「あ、はい。よろしくお願いします。」

 

大きな荷物を抱えてやってきたジュンさんに、下の名前で呼ばれて一瞬とまどう。

本人はなんら気にした様子もなく、慌てて寄ってきたスタッフに荷物を渡している。

何が入っているのか説明しているようだけど、聞こえなかった。

 

 

「智さん、昨日は眠れました?」

 

「もう、ぐっすりでした。」

 

「良かった。翔が心配してたんで。」

 

「櫻井さんが?」

 

「ああ、まあ、ちょっとだけですよ?なんか返事がスタンプだったからって。」

 

「ああ・・・ふふ。疲れすぎてて。」

 

「そんなことだろうと思ったんで、気にするなって言っておきましたけど。翔は、なんか智さんのことになると・・・」

 

 

そこまで言って、ジュンさんは深く考えるような表情をする。

ドキドキして、逃げたい気持ちを我慢しながら、黙り込むジュンさんを待つ。

 

 

「昨日も、帰ったら俺のうちにいて。『こっちの方が大野さんちに近いから』とか言って。」

 

「え?」

 

「必要ないってなったら、帰ろうかなぁとか言ってるから、羽交い締めにしてやりましたよ。」

 

「ふ・・・ふふ。」

 

 

ジュンさんの目を見るのが怖かった。

きっとまたキラキラと輝く瞳が、嫌になるくらい魅力的なのだ。

 

 

「あ、じゃあ、俺はこの辺で一旦会社に戻るんで。智さんはストレッチ始まりますよね。」

 

そう言われて振り向くと、そろそろ皆集まり始めていた。

 

「終わるちょっと前にはまた来ます。今日も一緒に帰りましょ?」

 

「ああ、はい。」

 

「・・・ふは。また距離開いちゃったかぁ。手強いなー、智さん。んじゃ、また後で。」

 

 

手のひらをビシッとこちらに向けて見せて、広角をクッと上げると、軽く頭を下げて去っていく。

なんとか同じ様に手を挙げて見せる。

 

羽交い締めされる櫻井さんを、楽しそうに羽交い締めにするジュンさん。

羽交い締めされる櫻井さんも、きっと、たまに出るあの笑い声を楽しそうに立てていたのだろう。

なんとも幸せそうな構図が、なんとも鋭くえぐってくるこの痛みにも、だんだん慣れてくるのだろうか。

 

 

 

「今日はちょっと体念入りにほぐしておいたほうがいいですよ。」

 

そう言ったのは、カポエラの先生が連れてきているストレッチの先生だ。

60歳は超えていそうに見えるストレッチの先生は50歳くらいのカポエラの先生の体をほぐしながら、「大野さんは腰と尻」と言う。

 

「腰と尻・・・。」

 

「うん。マッサージかストレッチ。ちゃんとしといて。」

 

「そうそう。明日はちょっとチャレンジングな動きしてくからさ。大野くんできるから、なんかもっと深めたくなっちゃったのよ。悪いけど備えといて?」

 

「あ、はい。」

 

これ以上チャレンジングになるのか。

今でも割りときついのにな。

そんなことを考えながら、櫻井さんのことを思い浮かべる。

今夜のスケジュールはどうだろうか。

 

会いたいような、会いたくないような、複雑な気持ちが湧き上がる。

でも、やっておけと言われたら、やるべきだと思う。

 

 

「智、おつかれ〜。」

 

「さ・・・。」

 

「ふはは。もうちょっと早く来るつもりだったんだけど、遅れちゃいました。すみません。」

 

「あ、いえ。お忙しいですね。」

 

「そうでもないんですけどねえ。で、今日はどうでした?」

 

「楽しかったけど、ヘトヘトです。」

 

「食べました?」

 

「あ、今日はちょこっと食べました。メロンパンあったから。」

 

ニノが大好きなメロンパンを見て、なんとなく嬉しくなって食べたのだ。

でも、直前に開けてしまったスポーツドリンクとの相性は最悪だった。

 

 

「あ、あれ、この間のカフェで出してるパン屋で買ってきたんですよ。」

 

「ああ。あの。」

 

「美味かったでしょ。」

 

「はい。」

 

「残ってるパン、持って帰ってくださいね。」

 

「遠慮なく。ふふ。」

 

 

急に変な距離の詰め方をしてきたジュンさんが可愛らしくて、笑ってしまう。

まるで何も無かったかのように、口調も割りと丁寧に話し続けるから、どうなっているのだろう。

 

 

「ふはは。」

 

「ふふ。」

 

「やっぱなんか恥ずかしくなっちゃって、無かったことにしたかったけど、ダメでしたね。」

 

「ダメでした。」

 

「なら、引き続き『智』でいかせていただきます。」

 

「どうぞ。」

 

「ふはは。翔に焼かれちゃうなあ。」

 

「ん?」

 

「いや、こっちの話です。今日はシャワーしてきます?」

 

「あ、そうだった。帰ったらマッサージお願いしたいから、浴びてこうかな。」

 

「お、今日は翔の出勤ですか。」

 

「先生にほぐしとけって言われちゃって。」

 

「なるほど。すごい喜ぶと思います。」

 

 

嬉しそうにするジュンさんが不思議だった。

いや、当然か。

仕事なのだから。

別に、ジュンさんがやきもちを焼いたりする筋合いはない。

 

それとも、それくらい2人の関係は安定しているということだろうか。

 

 

 

 

(つづく)

 

 

楽しい雑談だった。

タクシーの中で、ジュンさんは色んな話をしつつ、ちょうど良い質問を重ねてきた。

なんの気負いもなくその質問に答え、そこから広がる話に笑ったり感心したり、ほとんど黙ることなく会話を続けた。

 

別れ際のジュンさんの笑顔がまだ目に焼き付いている。

優しくて親しげで、でもなんとなく切なさが混じったりして。

でも、切なさは勝手な投影かもしれない。

楽しかったせいで、こんなに心が揺れてしまうことがあるのだと知った。

 

 

シャワーを出て、腰にタオルを巻いてリビングに行くと、ちょうどそのタイミングでLINE通知の振動が聞こえる。ニノか雅紀だろうと適当に想像する。

カポエラに興味を示した2人が、様子を知りたくて連絡して来たのだと思った。

 

ゆっくり全身を乾かして、脱衣所に持ち込むのを忘れた寝巻きを着てからスマホを手に取る。

櫻井さんからだった。

 

一瞬で、ゆっくりしていたことを後悔する。

 

『練習初日、お疲れ様です。こちらいつでも出動できますので 』

 

語尾には親指を立てた可愛い絵文字が笑っている。

 

「ふふ。」

 

笑いながら、一瞬で涙で視界が曇る。

 

「できたら・・・放っておいて欲しいんだよな・・・」

 

心にもないことを呟いてみる。

いや、これも本音だ。

近づくほどに想いは増して、同じように苦しみも増していく。

キレイな正比例だ。

踊りで表現したらさぞかし美しい動きになるだろう。

 

「病気だ。」

 

こんな時にダンスのことを考えなくてもいいのに。

そんな美しさは求めてもいない。

手の甲で目尻の涙を拭いながら、どう返事をしようか考える。

疲れてもいるからか、言葉がまるで浮かばない。

既読をつけたあとで、放置して寝てしまったらどう思われるだろう。

 

 

それにしても、ずっと櫻井さんを好きになるスピードが恐怖だった。

なにもかもが、早すぎる気がした。

こんなに泣いたり、眠れなくて健康を損ねたり。

今まで、こんな恋愛をしたことが無かったから、余計に怖いのだろうけれど。

 

暖かいココアでも飲もうか。

そして、滅多にしない読書でもしたら、安らかな眠りが訪れるかもしれない。

 

とりあえず、櫻井さんへの返信はスタンプに託すことにした。

「ありがとう」と打ち込むと、可愛いスタンプのオススメがずらりと並ぶ。

ひとつを選んで送ってから、「大丈夫」と打ち込む。

またひとつ選んで送信する。

 

ごめんなさい。

今夜はこれが精一杯だから。

 

お湯を沸かすのも億劫で、マグカップに入れた水をレンジで温める。

ほんの少しだけ牛乳を足すために、ちょっと熱めにする。

 

森永のココアは甘いけど好きだ。

スプーン半分くらい多めに入れて、ガシガシとかき混ぜる。

普段あまり出さない大きな音で、耳の奥が満たされる。

たまには大きな音もいいんだな。

 

 

 

カポエラの練習は今週で終わる。

短いCMのために随分ちゃんと準備をするんだなと思ったら、どうやらシリーズで考えられているようだったことを、今日知った。

ジュンさんは「隠してた訳じゃないけど。評判良ければ、ですよ?」とからかうように言った。

 

 

「なるべく長く続くようにって、俺は思ってます。」

 

「長くって?どのくらいのことですか?」

 

「ダンスの種類変えて何年も、とかどうですか?ドキュメンタリータッチで、大野さんの姿を追うみたいな。」

 

「は?」

 

「ふはは。冗談です。でも、3パターンはもう考えてるんで。それ以降は、結果を見てです。」

 

「プレッシャー。」

 

「ふは。ごめんごめん。こっちの腕にかかってるんで。大野さんは踊りに集中するだけで。」

 

ジュンさんは、力こぶを作ってポンポンとそれを叩く。

笑顔が大きくて可愛い。

軽い口調だけど、なんだか信じられる。

不思議な人だなと思う。

 

櫻井さんと2人でいるときも、あんな感じなのだろうか。

いっそのこと2人同時に会ってしまったら、諦めがつくだろうか。

 

ズキンと鈍くて重い痛みを胸に感じながら、ココアと本を持ってソファに座る。

 

ずっと前に雅紀に勧められて買ってみた小説だ。

読まずに置いてある本は他にもあるけれど、たしかこの小説は恋愛要素は無いと言っていたような気がする。

今は、他人の恋愛の話はいいや。

ハードボイルドぐらいがちょうどいい。

 

だけど、きっとすぐに眠くなる。

幸い、表紙のイラストによると主人公はゴッツくて色黒だ。

櫻井さんを思い浮かべることもないだろう。

 

 

(つづく)

 

 

「お疲れ様。すぐ帰ります?」

 

練習が終わって解散になると、ジュンさんが声を掛けてくる。

途中から来て、スタジオの端で誰かと何かを相談しながら見ていた。

 

 

「汗流したいですよね。一緒にサウナでもどうですか?」

 

「サウナか。魅力的だけど、ちょっと腹減ってて。」

 

「あれ?ケータリングは?」

 

「さっきはまるで食欲なくて。緊張してたからか。」

 

「そっか。まだいろいろ残ってると思うから、持って帰ってくださいよ。」

 

「ありがたいです。」

 

 

「・・・ふは。」

 

ジュンさんが可愛らしく笑うので、なんとなくドキリとする。

目を合わせると、そらさずにじっと見つめてくる。

戸惑いながらも聞く。

 

「なんですか?」

 

「・・・いや。なんかすっかりよそよそしく戻っちゃったなって思って。」

 

「え?」

 

「俺はあの日かなり意気投合したと思ったんだけど。違ったかぁ。」

 

頬を人差し指でポリポリとかく仕草をしながら、ジュンさんはまた笑顔を見せる。

スタジをのライトが瞳に反射して、すごくキレイに光っている。

ああ。

相変わらず敵う気がしない。

 

 

「あ、ごめん。変なプレッシャーかけてますよね。でも、ちょっと残念だな。」

 

「すんません。」

 

「ふはは。いいんです。いいんです。また頑張って縮めます。」

 

「縮める?」

 

「距離。俺だって、翔に負けないくらい性格だっていいんで。」

 

「え・・・。」

 

「まあ、翔をライバル視するのもバカらしいんですけどね。」

 

そう言って、ジュンさんはスタジオの入口近くのテーブルに向かって歩いていく。

途中、「お疲れ様」と他のダンサーやスタッフに声をかける。

皆、嬉しそうな笑顔で挨拶を返している。

 

 

「肉?魚?」

 

振り向いてジュンさんが聞く。

 

「あ、じゃあ、魚。」

 

「鮭?サワラ?サワラは西京漬けかな。」

 

「んー、鮭、かな。」

 

 

「後は・・・豆腐サラダ?ポテトサラダ?」

 

「・・・豆腐で。」

 

「健康的だ。」

 

「ふふ。好きなだけです。」

 

 

「そっか。じゃあ、これと、あとは適当にプロテインバーとかも入れときますね。」

 

そう言ってジュンさんは、脇にたたまれていた紙袋にいろいろと入れていく。

 

「まあ、明日もあるから、明日ももらえばいっか。ね?」

 

「あ、はい。そんなに食えないし。」

 

「ふはは。じゃ、はい、これ。」

 

 

ジュンさんが袋を差し出して、首を少し傾げる。

ワンコみたいだな。

あるいは・・・いや、小鳥よりはワンコか。

 

残り数メートルを駆け寄って受け取る。

既に足に来ているのを感じる。

特に太ももだ。

欲を言えば、今夜のうちに櫻井さんにほぐしてもらいたい。

同時に、こんな疲れ方をしている時は、なんとなく心配でもある。

変に甘えたり、余計なことを言ってしまいそうな気もする。

 

 

「大丈夫?」

 

黙っていたせいで、ジュンさんが心配顔を見せる。

 

「あ、はい。ふふ。」

 

「疲れたでしょ?車出しますよ。どうせ家近いし。シャワーどうします?」

 

「あ、家で。臭いかな。」

 

「どれ。」

 

ジュンさんが鼻を近づけてクンクンする。

避けたい気持ちを抑えてジッと堪える。

 

「えー。全然臭くない。なんで?」

 

「まじですか。」

 

自分でも嗅いでみるけど、よく分からない。

 

「不思議だな。」

 

ジュンさんが言う。

黙ってコロコロと変わる表情を見ていた。

 

 

「ん?ふは。いや、俺けっこう匂いにはうるさいっていうか。翔が仕事でいろんなオイル使うでしょう?ああいうのも苦手なの多いし。なんなら、施術した人の汗の匂いとか分かるときあって。・・・けど、大野さん・・・体臭ないのかな。」

 

「ふふ。あるでしょ。」

 

「ふはは。まあそうか。でもなんで臭く感じないかなぁ。」

 

 

なんとか普通の反応をする。

ジュンさんは不思議そうに鼻をこすってみたりしている。

櫻井さんの話が出てきて、変にジュンさんと2人でいる場面を想像してしまったせいで、とたんに座り込みたくなってくる。

 

膝に手を当てて下を向くと、少し目眩を感じる。

カボエラの練習中は、むしろよく動けていた。

精神的な問題なんだと実感する。

 

 

「あ、じゃあ俺タクシー呼んじゃうんで。着替えて来てください。肩貸しますか?」

 

「あ、ううん。大丈夫です。」

 

「じゃ、出口にいます。」

 

「はい。」

 

ジュンさんは、スタジオを簡単にモップがけしているスタッフに声を掛けてから出ていく。

まっすぐ立ち上がるのに、大きく息を吸い込んでから腹筋に力を入れる。

腹筋もまた、こき使った後の感触がある。

 

明日もまたここで練習なのだし、もらったお弁当を食べたらシャワーを浴びてすぐに寝てしまおう。

明日もこんな姿を見せたら、雇ったことを後悔させてしまう。

櫻井さんには、また今度・・・。

 

 

本当は、今すぐにでも会いたいけれど。

そんなワガママを言っていい理由がなかった。

 

 

 

 

(つづく)