1. 感じている (リアルな現実を)
2. 考えている(非リアルな幻想を)
3. 眠っている
の3通りしかない。
1.は 2.よりも、 本質的で重要である。
「考える」 中には、「感情」 を伴う場合と
伴わない場合の 二通りある。
「感情」 で 頭がいっぱいのとき、 そこに
「思考」 はないように見えるが、 実は必ず
感情を支えて その元になっている
思考が潜在している。
瞑想とは、
意識の状態を 2.から1.にシフトする
トレーニングである。
このトレーニングをすることによって、
「心」とは何か が
そして
「自分の心」の状態 が
さらに
「自分とは何ものなのか」 が観えてくる。
瞑想とは そのためのテクニックであり、
手段である。
瞑想とは、 「自分の心の状態」 を
「感じている」 意識の 在あり様ようである。
と呼べるようなものがあって、
その座の上には
載っかって占拠しているもの:要素がある。
このように、 心は 「座」 と 「要素」 という
二つの次元で構成される
二重構造になっている。
要素は 大きくRと非Rの 二つに分かれ、
一つは この現実世界(リアル : R)としっかり
とつながった感覚(リアル : R)で、
もう一つは、 現実世界とは直接の関係がない
頭の中で 人間が勝手に創りあげたものである
概念・観念・思想体系・欲求・感情 など、
「思考」 が生みだした
非リアル : 非Rな虚構である。
Rは 「感覚」 で、 非Rは 「虚構:妄想」 である。
「欲求や感情」 も、 現れては消える 無常なもの
であり、 実は 「虚構」 なのである。
Rは 「身体:からだ」 で、
非Rは 「精神:こころ」 である。
Rは 「感覚」 で、 非Rは 「感情:貪瞋」 である。
欲求にも、 リアルな欲求(自然な欲求)と
思考が創りあげた 非リアルな欲求の二つがある。
リアルな欲求とは、 身体からだの欲求であり、
二次感覚である 「受」 の 快:楽と 不快:苦の
基となるものである。
一方、リアルでない 思考(考え方)に基づく
非リアルな こころの欲求の方が引き起こす
貪とん瞋じんという感情が、
「苦しい」 という 「苦悩」 を呼び起こす。
この非リアルな 体でない 心の 欲求、 つまり
自然でない 虚構の欲求の方のことを
サンカーラ(行)と呼ぶ。
心は、 座と要素の二つの次元を持っていて、
心の座と その座を占拠する 二種類の要素
(R or 非R)から成り立っている。
この 「座と座の上の要素 の二つの次元」 と
そして 「要素は Rと非Rの二種類」という、
心の三点構造を理解することが
決定的に重要である。
「座の上の要素である想行識」のことを心 と呼んだりしていて、
きちんと 定義されていない。
アビダンマでは、 「識」のことを心、
「受想行」のことを心所 と呼んでいる。
その 心の要素を表す仏教の代表的な言葉が、
「六境」 と 「五蘊」である。
六境は
入力情報の根幹である「一次感覚」のこと
であり、
五蘊のスタート要素である 「色」 の
具体的な内容である。
五蘊は
その感覚を元に「自我」が発生するまでの
要素の流れを説明している。
六境には Rと非Rの両方が 含まれ、
五蘊にも 同様に Rと非Rが 含まれている。
* 厳密には、六境は 感覚の対象であり、
感覚そのものは 六識と呼ばれているが、ここでは
六境と六識の二つとも 同じように 「広義の六境」
と呼ぶことにする。
六境
座を占拠する要素は六種類あり、
それを 仏教では六境:六つの感覚と呼ぶが、
六境を R:色と 非R:名の二つに分けて考える
智慧【名色分離智】が、
瞑想を始めて 最初に現れる智慧である。
この六つの感覚は
「色・声・香・味・触・法」と呼ばれ、
この感覚を生みだす 六つの感覚器官のことを
六入(または 六処・六根・六門)と呼び、
その内容は
「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つである。
「色・声・香・味・触・法」の六境のうち、
「色・声・香・味・触」の五つ(五境)が
身体からだを通して現実世界リアルと しっかり
とつながった感覚(R)であり、
最後の一つの「法」は 実は感覚ではなく、
頭の中で 人間が勝手に創りあげたもの(非R)
である。
「法」 と 「法以外のもの」 を分けて観る
ことが、「名色分離智」 である。
Rと非Rからなる
この六境を認識する主体である。
私たちの意識は起きているあいだ、 つねに
六境の いずれかの要素に占拠されている。
その要素の種類は 一瞬一瞬(刹那刹那)
目まぐるしく移り変わっていて、
同じ要素であり続けることが難しい。
無常とは、 この座の上の要素が 刹那刹那
ものすごい速さで変化することでもある。
六境の中の「法」は、
実は 五蘊の中の「想」と同じもので、
【参考ブログ記事:五蘊のバリエーション】
法(想)は、
法(想)単独で 存在する場合と、
(行と識と一体化した)
複合体として 存在する場合の、
二通りの在り方がある。
「輪廻」とは、
この座の上の要素が 「想行識複合体」 という
非Rの形になって、
その内容が 次々と永遠に変化し続ける様さま
のことである。
名(想行識)でなく 色(感覚)の状態で、
より具体的には
六境の中のRの要素:五境 だけで
維持し続けようとするのが
瞑想トレーニングである。
型のある瞑想では、
一種類のRの要素を維持しようとするが、
型のない(日常生活での)瞑想では、
Rと非Rの違いを意識していて、
非Rから すぐに
Rの状態に切り替えられるようにすればいい。
そして Rの状態は何でもよくて、
かつ 一種類に絞り込む必要もなく、
五種類のRを 次々と移り変わってもいい。
非Rにはまり込んだ:複合体になったときは、
それに 気づいて すぐに
そこから 脱出しようとするのも
瞑想トレーニングであり、
それが簡単にできるようになることを
解脱と呼ぶ。
「解脱」とは、 輪廻する 非Rの
想行識複合体の形 から脱することだが、
それは
Rのレベルに 留まり続けることでなく、
非Rから すぐに Rに戻れることである。
五蘊
五蘊は、
色→受→想→行→識 という
流れの構造になっている。
「色」 とは 身体のことであると説明されるが、
実は 六入の中の
「眼・耳・鼻・舌・身」の
五つの感覚器官のことであり、
その感覚器官を通して生まれる
「色・声・香・味・触」という
五つのリアルな感覚(五感:五境)のこと
でもある。
感覚器官は 身体の一部であり、
そこから生じる感覚も また身体に属している。
だから、
感覚器官も 感覚も 「色:リアル」 である。
「色」 とは 身体のことであると説明されるが、
より正確には、 感覚器官と
それによって引き起こされる
リアルな一次感覚である 五境のことである。
この感覚は、
個体が生きのびるための貴重な情報であり、
それが 生存に
有利であれば その情報を 快:楽と感じて
そちらに 向かおうとし、
不利で危険であれば 不快:苦と感じて
そこから 離れようとする。
どちらでもないときは
不苦不楽と感じる(苦も楽も感じない)
この「色:五境」に付随する 快 または不快な
二次感覚のことを「受」と呼ぶ。
「色」 の感覚は 一次感覚であり、
そこから「受」という 二次感覚が素早く
分離不可能な状態で引き起こされる。
五蘊の「色:五境」 は 一次感覚であり、
「受:快/不快」は 二次感覚であるが、
ともに リアルな感覚である。
「色と受」 の 二種類のリアルな感覚は
名色の「色」であり、
名色の「色」は、
五蘊の「色だけでなく色と受」の二つを
合わせたものである。
すべての生きものに共通する
リアルなものであるが、
人類だけが「受」を さらに「想」という
非リアルな概念に変換し、
その「善/悪・優/劣」という
価値軸を形成する概念の一方の極を
追求/否定することで、
生存を
より有利で 確実なものにしようとした。
その 追求/否定したいという気持ち・願い
・欲求が「行」であり、
行には 貪 or 瞋という感情が付随している。
「想→行」というものは、ともに
人間が その頭の中で勝手に創りあげた
非リアルなものであり、
さらに 想・行の機能をより強化するため、
想・行の主体として「識」と呼ばれる
「わたし:自我」が生みだされた。
この「想→行→識」という非リアルな
流れ・複合体は、
人類が生みだした
(生きのびるための)生存戦略である。
だが、その生存戦略ゆえに(副作用として)
「苦悩」を抱え込んでしまったのだ。
【想→行→識 = 無明→行→識】
五蘊も 六境と同じく、
R(色)と 非R(名)の 二つに分けて
考えることができ、
色(色→受)と 名(想→行→識)を
観分ける智慧が「名色分離智」である。
Rは「色と受」
非Rは「想と行と識」のことであり、
「想行識」 と 「法行識」 は同じものである。
したがって、
「想」 と 「法」 と 「無明」 は 同じものである。
ただし この 「法」 は、ダルマではない。
* アビダンマでは、以上の説明と異なり、
R(色)は 「色」 のことだけで、
非R(名)は「受と想と行と識」のことである と説明している。
触
認識の主体である心の座の上には、
六境のうちの たった一つの要素しか載らない。
リアルか非リアルの どちらか一つしか載らない。
ある瞬間(一刹那)に、
「色・声・香・味・触・法」のうちの
たった一つの要素しか載らない【十二縁起の触】
「色・声・香・味・触」 の五感五境が載って
【触れて】いるとき、
心(の要素)は 「いまここ:リアル」 にある。
五感の情報は「いまここ」の情報だから
である。
一方 六境のうち五感でないもの、
つまり「法」が載っているとき、
心(の要素)は 「いまここ」 にない。
それは、非リアルな状態である。
「法」 と 「想」 は 同じものであった。
「想」 は 「受」 という二次感覚を介して発生
するものだが、
「法」 は感覚を介することなく
いきなり座の上に現れる。
何かを見て(感覚を感じて)
考えが思い浮かぶこともあるが、
きっかけとなる感覚を必要とする ことなしに、
思考だけが 勝手に
どこからともなくやって来て
ふわっと浮かぶこともある。
この 二種類の思考の生まれ方に対して、
「想」 と 「法」 という言葉を
割り当てただけのことだ。
心の座の上に載る:触れるものは 六種類あった。
そのうち五種類は
「色からだ」 の感覚であったが、
もう一つ:法は 感覚ではないものであった。
心の座の上に載るものの総称として
六境という言葉を持ちだしたが、
そのうち 五つまでが感覚であったので、
方便として 六つまとめて
すべて 「感覚」 と呼ぶことにした。
感覚には 感覚器官が必要なので、
「意」 という 感覚器官を
架空の概念として 創りだした(想定した)
六境という言葉の内容を初めて聴いたとき、
「意」 ってなんだ? 「法」 ってなんなんだ?
と思った。
仏教に特有の分かりにくさであるが、
それを説明しようとすれば
こういうことになるだろう。
だが、 リアルな感覚と 非リアルな思考を
分けて観ること(名色分離)は、
仏教・瞑想にとって 基本中の基本なのに、
それを一緒にして「六境」という
一つの言葉:概念にしてしまったことで、
理解が難しくなってしまった気もする。
座を占拠する要素としては
感覚も思考もまったく同等である
ということを言いたかったのであろうが、
内容が 名と色という二種類に分かれる
ことを 強調しておくべきだったろう。
名色 (名は 非リアル:非R、色は リアル:R)
座の上の要素が Rであるときは、
「いまここ」にいる【色】
リアルな感覚情報は
「いまここ」の情報だからである。
一方、要素が 非Rのとき、
心は 過去か未来か ここでないどこか
に行ってしまっている【名】
座の上には 一つの要素しか載らず、
思考している(非Rの)とき、
Rの情報は 排除され
「いまここ」は消え失せているからだ。
その思考は
追求/否定・比較/競争・防衛/攻撃という
「行」 を引き起こし、
その行には 貪とんや瞋じんという感情が付随し、
感情は 再び新しい想(思考)を発生させて
「想」 と 「行」 が循環して 複合体を形成する。
このような
想行複合体:思考感情コンプレックス状態
のとき、苦しいと(苦悩を)感じてしまう。
一方、
「想」 が価値判断に関わっていないとき、
思考は 問題解決のための重要なツールだ。
このときは(純粋な)想だけに留まり、
「行」 は発生していない。
だから 苦しくない。
わたしたちは 「いまここ」 にいるときだけ、
生きているという実感を 手に入れられる。
瞑想
心の座の上の要素を
五境+受のリアルな感覚に保とうとする
練習だ。
そうしようとしてみれば、
そのRを保つのが いかに難しく、
ひっきりなしに 非Rが
そこに 侵入してくるのが分かるだろう。
さらに「受」の内容が 苦:不快であるとき、
そのRを保つことは、
よりいっそう困難になる。
瞑想トレーニングを始めてみて 初めて、
日常生活において こんなにも多くの時間
座が 非Rに占拠されていたこと に気づく。
非Rの状態でも、
問題解決のためのときは
苦しみを伴わないが、
行にまで進み
思考感情複合体 状態:コンプレックス
となって、
苦しみ:苦悩に捉えられてしまうときもある。
非Rの状態が いつも苦しいわけでなく、
価値判断に関わる思考をもとに
行と 貪や瞋の感情を発生させて
一体化:フュージョンしている
ときが 問題なのだ。
問題解決を主要な課題とする 男性脳は
非Rの状態に 慣れ親しんでいるので、
価値判断にまで踏み込んで
苦悩に陥ってしまうことがよくある。
問題解決能力(男性性)と苦悩には、
親和性があるようだ。
そして 苦悩に囚われた 男性性は、
自らのだけでなく 配偶者や身近な他者の
女性性(共感・仲間意識:愛)をも
抑圧してしまう。
非Rの二種類の状態も きちんと分けて
理解しておくこ とが大切である。
つまり
R・行なし非R・行つき非R の三つを、
きちんと分けて理解することが大切だ。
R・行なし非Rは 大切なものだが、
行つき非Rは 取り扱い注意対象であり、
行が過剰になって 非Rと一体化したものは
「要らない 余計なもの」である。
瞑想のトレーニングでもたらされる
本来の 名色分離の能力は、
Rと非Rの区別を容易にするものだが、
非Rの二つの状態の区別も
容易にしてくれる。
瞑想の目的は、非Rのうちの
「苦しんでいる方の状態である行つき非R」
をなくすことでもあるが、
そのために 心の座の上を、
非Rでなく Rの状態に保つ訓練を行う。
初めのころは、
Rの状態を保とうとしても
すぐに非Rに引き寄せられてしまう。
しかし それを根気よく 何度も何度も
繰り返して練習していると、
しだいに 比較的長い時間
Rに留まることができるようになる。
もしくは、
非Rに 引き寄せられたとしても
すぐに それに気づき、
再び Rに戻れるようになり、
さらには 一体化することなく
非Rの状態に留まることも
できるようになる。
アンダーラインを引いた箇所の能力は、
すべて
マインドフルネスによってもたらされる。
マインドフルネスとは
日常生活での瞑想のことであり、
日常生活を マインドフルネスで
埋めつくすことができるようになれば、
日常生活での 自分の心の状態を知る
ことができるようになる。
すなわち、 いま 自分の心の状態は、
① 「R」なのか、
② 「苦しんでいる非R」なのか、
③「問題解決のための非R」なのか、
が分かるようになる。
【 ② と ③ は 紛らわしいので 要注意】
心の座の上の要素が
① 「R」
② 行と一体化した「非R」:感情
③ 行を伴わない 「非R」:思考
の三種類のいずれかによって、
三種類の心の状態が生まれる。
【ここの 「非R」 とは 思考モードのこと】
Rとは
「色声香味触の一次感覚+受という二次感覚」
のことであり、
非Rとは、「法」 であり 「想」 のこと
すなわち 「思考」のことであり、
非Rは さらに
「単独の想」 と 「想行識複合体の中の想」
の二種類の状態に分かれる。
「単独の想」 は 「問題解決のための非R」
であり、
「想行識複合体の中の想」 が
「苦しんでいる非R」 である。
【想行識複合体の中の行に注目すれば、
それは 「感情」 のことである と言える。
つまり、 ②は感情であり ③は思考である】
マインドフルネスによって、
これらのことが 観えて・分かってくる。
さらに、
「行を伴う非R」 と
一体化し 苦悩することなく
その状態を 客観視できるようになると、
苦しみのもとになっている 「行」 の内容が
明確になり、次いで
「行」を支えている 考え方・見方:想 も
諦あきらかになる。
それができれば「思考感情複合体」
は崩壊し、脱フュージョンが起こる。
これが「幸せ」への道である。
瞑想トレーニングとは、
心の座の上の要素を
Rに保とうとすることであるが、
そのトレーニングの方法には、
Rの中の
特定の細かい・狭い感覚を意識し、
それを固定して、
そこから
意識をけっして逸らそうとしない
やり方がある。
これは 集中力を必要とするので、
集中力をつけるためには
よいトレーニングだが、上記の
「日常生活において 自分の心の状態を知る」
という目的とは 異なるものだ。
「日常生活において 自分の心の状態を知る」
ためには「いまここ」 に戻る必要があり、
「いまここ」 に戻るためには
ある程度の集中力が必要なので、
修行を開始する初めのころには
このやり方も必要だ。
だが、日常生活の中で ある程度
「いまここ」に戻れる(非RからRへ戻せる)
ようになったら、
そのような 集中瞑想はほどほどにして、
日常生活での瞑想を 主眼にするべきだ。
集中瞑想の最中には、ときに
神秘体験と思えるような 異常感覚を
体感することもあるようだが、
これは
仏教や瞑想の目的と 何の関係もない。
この体験をもって 「目覚め」 や 「悟り」 と
勘違いすることは、 きわめて危険であり、
これは
オウム真理教が陥った罠と同じものだ。
禅では 「魔境」 と呼ばれ、 注意されている。
『さあ これから瞑想するぞ』という
瞑想のための時間をとってする
「型のある瞑想」 さえ続けていれば、
自然と日常生活でもマインドフルになれる
と思っている人がいるようだが、
そうではない。
日常生活でマインドフルになるためには、
そのための練習が必要だ。
「型のある瞑想」のときも
それを意識したものであるべきだし、
実際に 日常生活の中で
マインドフルであるためには、
日常生活の中で 練習しなくてはならない。
そのために、
自分で工夫し 努力すべきである。
型のある瞑想は、
野球で言えば 「素振り」 の練習のようなもの。
本番の試合は 日常生活の方である。
日常生活の中でマインドフルでなければ、
意味がない。
日常の暮らしの中で
マインドフルになっていけば、
型のある瞑想の必要性は
だんだんと薄れていく。
極端な言い方かも知れないが、
朝 起きてから 夜 眠るまでの一日中の
マインドフルネスを目標としてみる。
それを続けていけば いつの間にか、
日常のマインドフルネスが
身についているだろう。
日常生活での瞑想では、
Rに意識を戻すときでも
感覚の種類を限定・固定する必要はなく、
むしろ 固定しない・ゆるい感じで、
ぐるぐると サーチライトを照らすように
五感のリアルな一次感覚(色声香味触)に
触れ続けようとするのがいいだろう。
その間に 非Rが入り込んでくるが、
そこから すぐに脱出するもよし、
一体化せずに しばらく留まって
その状態を眺めながら、
その内容を解明してみるのもいいだろう。
いつもいつも
「いまここ」にいなければならない、
というものでもない。
味わったり・触れたりするとき、
瞑想トレーニングをする前の
「苦しんでいる状態の人」には
そのRの状態を純粋に保つことが難しく、
瞬間瞬間において 非Rの要素が
しょっちゅう入り込み・入り混じって
純粋なRの感覚が希釈されてしまい、
世界が 薄ぼんやりとした・モノトーンな
ものに感じられている。
瞑想トレーニングが進み、
座の上の状態を Rの要素だけで維持する
ことができるようになると、
世界全体が純化され その景色は一変する。
色も形もそれらの質感も、まるで
生まれて初めて感じるような
瑞々みずみずしさだ。
世界の美しさと驚異に
思わず声を上げたくなるだろう。
そのとき、
「わたし」 が 「何か」 を見ているという
「主体・客体の分離感」もなくなり、
世界は一つに感じられる。
それ( I t )しか存在していない。。
毎日の食事も美味しくなる。
どこかに ご馳走を食べに行かなくとも、
「いまここ」の 我が家の食事が
一番美味しいことが 分かるようになる。
問題解決のために、
非Rの思考を作動させているときも
同様だ。
余計なRが混じったり、
行や感情が入り込んで来ないので、
目的に沿った思考を
効率よく進めることができるようになる。
座の上の状態を Rの要素だけで
維持することができるようになると、
全身の一次感覚が鋭敏になり、
「気の感覚」と言われる
手のひらや足を中心として全身に広がる
ピリピリ・シュワシュワとした
痺れのような感覚を感じたり、
「ナーダ音」と呼ばれる
振幅の唸うなりを伴う
ウィーンウィーンという
耳鳴りのような音が
聞こえて来たりすることもある。
「ナーダ音」 は お鈴の音ねにも似ているし、
ジンジンと セミが鳴いているようでもある。
このような感覚や音を感じるのは、
「いまここ」 に意識が戻っている
証拠である。
こんなときには、
それまで 気になっていたことが
どこかに行ってしまい、
どうでもいいこと のように思われる。
気持ちはとても楽で 落ち着いている。
瞑想のトレーニングが ある程度進むと、
「気の感覚」 や 「ナーダ音」 を
自由に呼び起こすことが可能になるので、
Rの状態に戻り
それを維持しようとするために、
これらを利用することができる。
「苦しみを伴った非R」の状態から
「純粋なR」 の状態に意識がシフトすると、
それまでの「苦悩」の 辛い感覚が
スーッと消えてなくなるのを経験する。
これの 極端で 強烈な
非常にインパクトの大きい経験が
「一瞥体験」と 呼ばれるものであろう。
「一瞥体験」が 起こるときは、
Rに留まろうと意識しなくても
自動的に 比較的長い時間
その状態が続くようである。
目覚め・悟り
いつか、
世界とはなにか? 自分とはなにか?
が観えてくる。
空とはなにか? 無我とはどういうことか?
が分かってくる。
縁起ネットワークによる全体性に気づき、
世界はひとつなんだと 納得できる。
そして、
心の 「座」 と 「要素」 という
わたしの二次元構造を理解し、
「座」 が 「涅槃」 であると気づく【目覚め】
すると そこから先に、
どんどん進めるようになる。
どんどん楽になって、自由に 遊ぶように
生きることができるようになる。
世界はみんな 仲間であり、
そのままで 愛されていて 大丈夫なんだ
って 分かる。
ボクらは 「ひとつ」なんだって 分かる。
そうやって
「愛する人生」の実践【悟り】
が可能になる。
参考記事:
マインドフルネス・ストレス低減法
(最終改訂:2022年4月14日)