心の構造と状態(1)心の構造
心の構造:
要素と座の二重構造
要素は 二種類
合わせて 三点構造
心の座と呼べるようなものがあって、
その座の上には 何かが載っていて、
座を占拠している。
心は、「心の座」と
「その座を占拠するもの:要素」
から成り立っていて、
「座」は そこを占拠している「要素」
を認識している。
そして 座の上の要素は、さらに
リアルと非リアルの二種類のもの
に分けられる。
この「座 と 座の上の要素」という
心の二重構造
そして
要素は リアルと非リアルの二種類
という 三つのものから成り立つ
心の三点構造
を理解することは、
「目覚めと悟り」のために
決定的に重要である。
【心は、座と リアルな要素と
非リアルな要素という
三つのものから成り立っている
:心の三点構造】
「載っている・認識している」ことを、
仏教は「触」という言葉で表現している。
そして 一般的には、認識している主体は
要素の中の一つである「識」である
と思われているのだが、
その下(奥)に さらに、
それら すべての要素を認識している
(載せている)「座」が存在している。
仏教では、載っている「要素」のことを
「五蘊」と呼ぶ。
要素は 座によって認識されることによって、
初めて その姿を現し(現象化し)
存在することができる。
以下のように 言い換えてもいい。
私たちが 心と呼んでいるものは、
変わることのない 心そのもの(座)と
絶えず揺れ動く 心の状態(要素)の
二つから成り立っている。
(二重構造をしている)
座を「容れ物」
要素を「内容」 と 言ってもいいだろう。
心そのものは(本当の自分・本質)
心の状態を知る(観る)働きを持つ
もっとも根源的な実在であり、
わたしたちを生かしている
そこは「神かみの宿るところ」 であり、
この神かみは、一神教の神ヤハウェではない。
別の記事[アビダンマ]にある、
「新しいアビダンマの図」 も参照して下さい。
【そして、
「心」 を 「自分」 と読み換えることも可能】
心の座は 空っぽのスペースであり、
それ故に
その状態は常に変わらない【非無常】
一方 座を占める要素は
「因と縁」によって生まれ
(つまり、外部との関わりで縁起し)
その状態を一定期間保ち、
そして なくなってしまう【無常】
要素は 「無常」 だが、
座は 「非無常」 である。
(わたしの)「心」は
このように 二重の構造をしているのだが、
日常の会話で これを意識することはない。
日常会話での 心という言葉は、
要素としての心(想・行・識という心の状態)
を指す場合と、
座としての心(本当の自分:心そのもの)
を指す場合があるのだが、
みんな この二つを混同して使っている。
要素としての心は、要素としての 「わたし」
と言い換えることもでき、
それは「偽のわたし」 である。
(要素としての)心や わたしは、
想行識複合体であると言ってもいいし、
それを代表する「識:自我」のことであると
言ってもいい。
一方、
座としての わたしが 「本当のわたし」 である。
ときに人は、 「本当の自分は 何なんだろう」
とか
「本当に自分がしたいことは 何なんだろう」
と思い、
もう一人の 本当の自分(座)を見つけよう
とすることがある。
だが 正しくこの二重構造を理解し、 それを
いつも意識しているワケではないので、
それ(座:心そのもの)は なかなか見つからない。
だから、 いのちのエネルギーを上手く使えない。
そして、認識のレベルを
「要素の 識( 偽 の わたし)」 から
「座(本当の わたし)」 そのものへ
シフトすることが マインドフルネスであり、
マインドフルであれば、いつも
本当の自分に気づいていられる。
【本当の自分が 自分自身に気づいていられる】
マインドフルネスとは、
「本当の自分」 を見つけるための技術である。
心の要素 の在り方
心の要素は、
まず 大きくリアル(色)と非リアル(名)
の二つに分かれる。
色は さらに 二つの要素を含み、
名は さらに 三つの要素を含んでいる。
合わせて 五つの要素がある、
と 仏教は想定する。
仏教では、この心の要素のことを
まとめて「五蘊」と呼び、
五蘊は 色 受 想 行 識 の五つの要素から
成り立っている。
[ 五蘊 ] 色 → 受 → 想 → 行 → 識
「色」は、
外部 または身体内部の情報を 「一次感覚」
として伝える 五蘊の入り口になる要素であり、
感覚器官のことでもあり、
その感覚器官が属する身体(からだ)
のことでもある。
この一次感覚には、
心地よい(楽:快)or 嫌な(苦:不快)
or どちらでもない(不苦不楽)という
「二次感覚」が 必ず付随し、
これを「受」と呼ぶ。
上記の
色と受の二つが、リアル(色)である。
「想」は、このリアルな二次感覚を、
「快」は (好きなことは)
生存に有利な状況を反映するので 「良いこと」
「不快」は (嫌いなことは)
生存に不利な状況を反映するので 「悪いこと」
という 非リアルな 「概念」 に変換すること or
変換された概念・観念・思い込み などのもの。
「行」は、 この変換された概念(思い込み)を
「良いこと」は 追求し、
「悪いこと」は 否定しようとする、
欲求・意志・思いなどのこと。
そして「識」は、
この「思い込み」に基づいて「欲求」する
「主体」 としての 「わたし:自我:エゴ」 のこと。
上記の 想と行と識の三つが、
非リアル(名)である。
六入 ⇨ 六境
(眼耳鼻舌身•意)⇨(色声香味触•法)
五入 ⇨ 五境
(眼耳鼻舌身) ⇨ (色声香味触)
一入 ⇨ 一境
(意) ⇨ (法)
五蘊で色と呼ばれたものは、
六入(or 六処 or 六根)という言葉を使って
もう少し詳しく説明される。
六入の内容は「眼 耳 鼻 舌 身 意」の
六つの感覚器官である。
そこから生みだされる要素を六境と呼び、
その内容は
「色 声 香 味 触 法」の六つの感覚である。
六入は、
「わたし」が 世界を感じる入り口であり、
認識のスタート地点となる。
この六入は、眼耳鼻舌身という
いわゆる五感を感じる感覚器官と、
「意」という 聴いたことのない
不思議な感覚器官からなる。
「眼耳鼻舌身」 という感覚器官からは
「色声香味触」 という感覚が生まれ、
「意」 という感覚器官からは
「法」 という感覚が生まれるという。
「意や法」 とは、いったい何のことか?
[五蘊の バリエーション] 法 → 行 → 識
先の 五蘊の説明で、
「想」 は 受という二次感覚に次いで
発生すると言った。
「想」は そのように感覚を介する思考:概念
(経験をキッカケにして生じた考え)
のことであるが、
「法」は 感覚を介することなく
突然 フワッと
頭の中に浮かび上がる思考のことである。
心の座を占拠するものは
リアルな感覚か非リアルな思考の
どちらかであるが、
感覚を介さない思考を
「感覚」と呼ぶことにしたものが
「法」であった。
法が感覚なら その感覚器官も必要なので、
ついでに「意」という
実体を伴わない概念も追加された。
「法」は、座を占拠する要素を
まとめて六境(感覚)と呼ぶために
無理やり創られた
仏教固有の概念なのである。
では、なぜ こんな手の込んだ
面倒臭い概念を持ち出したのか?
それは
リアルな現実と非リアルな概念・虚構を
分けて考えること【名色分離智】が
きわめて重要だからだろう。
六境の 「色 声 香 味 触 法」 のうち
「色 声 香 味 触」 の五つ(五感)は、
身体からだを通して 現実世界(リアル)と
しっかりとつながった 感覚(R)である。
リアルとは、
感覚と その感覚に直接つながっている
内・外の自然のことであり、
内の自然とは 自分の身体のことである。
それらに対して
六境の 最後の一つの「法」は、
頭の中(非リアル)で
人間が勝手に創りあげたもの
(非R)である。
この感覚(R:名)と 思考(法:非R:色)は、
瞑想するときに座の上に存在し得る
たった二つの要素であり、
「感覚」 があれば「思考」 は存在せず
「思考」 があれば「感覚」 は存在しない、
という相反する関係にある。
瞑想とは 認識を意識化することでもあるが、
「認識」 とは、
感覚と思考の どちらかしか存在できない、
椅子取りゲームのようなものなのだ。
瞑想のトレーニングを行い、
この関係に気づくことが
「名色分離智」への第一歩である。
たぶん それに気づかせようとして、
こんな 分かりにくい仕掛けを創ったのだろう。
心の座に載っているものが R(色:感覚)
なのか 非R(名:法:想:思考:概念)
なのか を観分ける智慧を、
「名色分離智」と呼ぶ。
すべての生き物の心は二重構造であるが、
人間だけが 非Rの要素(とその蓄積)
を持っていて、
「わたしという感覚:識」 に囚われている。
名色分離智は、その「わたしという感覚」
の発生 の有無を観分ける智慧である。
マインドフルネスのトレーニングで
名色分離智が身につくと、
「いまここ」の 心の状態が
R(感覚)なのか 非R(思考)なのか、
座の上に「わたしという感覚」 が
発生しているのか どうか、
容易に見分けがつくようになる。
Rの中に 非Rが 入り混じる様さまや
湧き上がる思考の様子が、
よく分かるようになる。
マインドフルネスのトレーニングとは、
座の上の要素を 非RからRへ戻す、
繰り返し繰り返し何度でも Rに立ち戻る、
頭あたまから 体からだに立ち返る練習である。
つまり「思考」をなくして、
「感覚」に戻る練習である。
「座 と 座の上の要素」という
心の二重構造を理解することは、
「目覚めと悟り」のために
決定的に重要であった。
そして、座の上の要素が
リアルと非リアルという二種類から
成り立っていて それを観分けることが、
「目覚めと悟り」のために
二番目に重要なことである。
リアルな一次感覚である 「五境」 には、
(五境の集合体である 「経験」 には)
「快(楽)/不快(苦)」 という
二次感覚(感覚)が付随するが、
ものの見方・解釈である
非リアルな 「思考」 にも、
「快/不快(苦悩)」 という二次的なもの
(感情)が 付随することがある。
たとえば
「ダメだと判定されるような嫌な考え方」 に伴う
それを否定しようとする 苦悩の感情のことを
「瞋しん・じん」と呼ぶ。
リアルな体感覚である R:経験に付随する
「快/不快」 の二次感覚を
自分で変えることはできないが、
見方・解釈である 非R:思考に付随する
「快/不快」 の 感情は、
見方・解釈を変えることで
容易にコントロールできる。
見方や解釈というものは 自分(の頭)が
創りだしたものなのだから、
その見方・解釈に固執さえしなければ
簡単に変えられる。
見方・解釈は 一時的なもので 仮のもの
と分かっているなら
固執することはなく、 変更も容易だろう。
この「快/不快」を 過剰に「追求/否定」
する欲求が「行」であり、それは
ものの見方や解釈に基づく
非リアルな反応である。
「行と それに続く識」 が発生するか どうかが、
心の(要素の)状態に大きな影響を与え、
発生した行には 感情を循環させて増幅し、
その感情を長く持続させる働きもある。
名色分離智によって いち早く
「非リアルな想(法)や 行(サンカーラ)」
を見つけだすことで、
感情(情動)の発生を未然に防ぎ、
心の安らぎを得ることができる。
名色分離智によって いち早く
発生した感情に気づくことで、
その感情を循環させることなく
最小限に押しとどめ、
心の安らぎを得ることもできる。
座の上の要素は、
リアル(R)と非リアル(非R)に
分けることができた。
R:現実 は 因縁の流れの中で生起する
(縁によって起こる)もの、
すなわち 自分の意思によらない
(思い通りに ならない:どうに もならない)
ものである。
非Rな「法と想」は
どちらも 思考・観念であるが、
その発生の仕方が異なっている。
「法」は、脳内の因縁の流れの中で
勝手に生起するもの、
すなわち その発生は
自分の意思によらないものであるが、
発生した後に「気づく」ことは可能だ。
一方「想」は、因縁の中で形成される
経験に伴う 「受」 に反応して 頭の中で
人間が勝手に創りあげるものであった。
であれば「想」は その発生自体を、
自分のマインドフルな意思で
どうにかできるものである。
そして 発生したとしても
後から「気づく」ことも可能だ。
このようにして、わたしたちが住む
「現実と虚構」 という二つの世界は ともに
因縁(縁起ネットワーク)の中にある。
だが わたしたちは、因縁という
思い通りにならないものの中にあっても、
けっして 無力ではない。
自らのマインドフルネスの技術によって、
リアルな どうにもならないもの
の受け止め方や 反応の仕方を 選択する
ことができ、さらに 非リアルな想の
発生自体をコントロールする
(想を発生させずに リアルな状況を ただ観ている
:三昧:サマーディ:定)こともできる。
どうにもならないものと
どうにかなるものを 観分ける智慧も、
「名色分離智」である。
[参考ブログ:ニーバーの祈り]
[まとめ]
心は
要素と座の二つから成り立っていて、
二重構造をしている。
要素の状態は 一人ひとり様々であり、
色々に異なっていて 比較可能、
かつ 刻々と変化している。
それは、たまたまの現象であり
座の個人的な表現形である【色:二元】
一方、
座の状態は みなまったく同じもので、
いつも同じ姿で、差を見いだせず
比べることなどできない。
それは、無限の要素を収納し得る
(載せている・観ている・認識している)広大で
空っぽのスペースである【空:非二元】
心の要素は、 さらに リアルと非リアルの
二通りに分けることができ、
この違いを観分ける智慧が
名色分離智であり、
これにより 要素の状態をコントロールし、
ついには「心の座」を
見つけることができる。
いま何が起きているのか
実は いつも同じことが起きていて、
それは とてもシンプルです。
起きていることへの 「気づき」と、
気づきの中で展開している 「内容」
この二つだけです。
「気づき」というのは、
存在を存在として認識している力
【心の座】のこと。
例えば いま
あなたは モニターを見ていますが、
このモニターの存在に気づいているから
モニターが存在しています。
もし ここに 気づきがなければ、
何も存在しませんし 何も見えていませんね。
聞こえてる音もそうです。肌の感覚も、
そして 湧き続ける思考も。
これらは すべて、気づいている
あなたが いる から存在できています。
くどいようですが、 もしあなたが
自分の 思考に気づかなければ、
思考も存在できていません。
森羅万象を
森羅万象として 在らしめているもの、
それが 「気づき」 です。
【「気づき」 とは 「心の座」 の(機能の)こと】
そして もう一つが、
気づいている「内容」です。
見えている もの、聞こえてる 音、
それらに対する 解釈、
その解釈をつなぎ合わせた ストーリー、
楽しいとか 悲しいとかの 感情。
これら全てが、
我々が現実と呼んでいる「内容」です。
【 「内容」 とは「座の上の要素」のこと】
気づきと、
気づきの中に現れている内容、この二つが、
いまここに 絶え間なく起き続けているのです。
【この二つがあることが、心の二重構造】
人が陥ってしまった問題は、
「気づき」 と 「気づきの内容」の二つ
があるにもかかわらず、
気づきの方を忘れて、
内容に埋没してしまったところにあります。
【 「気づいている心の座」 という
「本当の自分」 を忘れてしまうことが問題】
現実 と呼んでいる内容は、
自己本位の捉え方で解釈されていて、
リアリティーとは程遠いのですが、人は
それだけが現実だと信じて生きています。
【 「要素」 だけでなく 「座」 も現実である】
それらのストーリーに埋没していると、
ストーリーに登場する 「私」 というものが
確かなものとして感じるようになります。
「私」との 同一化です。
【ここで言う「私」 とは 偽の自分のことで
「同一化」 とは、本当の自分を見失い
偽の自分:自我エゴだけになってしまうこと】
これが
全体との分離という幻想を生んでいます。
【偽の自分だけになると、
全体から切り離されてしまったように感じる】
大切なのは 起きている内容以前に、
それらの内容に
気づいている存在があると言うこと。
そして、その気づきの存在こそが
本当のあなただということです。
【 気づき = 座 = 本当の自分 】
このような話を
繰り返し聴くことによって、
人の幻想(現実だと思っている内容)は
揺らぎ始めます。
そして 心の奥ですでに知っている
真理が浮上するのです。早い話が、
本当のあなたは 全ての存在に気づいている
純粋な気づき意識だ ということです。
この意識は 肉体を超えていて
【?、そう言えないこともないが... 】
起きている内容と関係なく、
いつもいまここに、
罪も穢れも無く在り続けています。
【罪や穢れは 二元的価値であり、
「この意識」は 非二元なのだから、
「罪も 穢れも」 あるハズはなく、
同時に 「善なるもの」 でもない】
【 「わたし」 は、 「気づき」 であるだけでなく、
「気づきの内容」 でもある。だから
「気づきの内容」 の方は余計だと言って、
切り捨ててしまっていいワケでない。
「気づき」とは「座(の機能)」であり、
非二元。
「気づきの内容」とは「座の上の要素」
のことであり、二元。
「容れ物」は「空(非二元)」 であり、
「内容」 は「色 (二元)」 である。
「わたし」 とは、「内容」である
と同時に「気づき(容れ物)」 でもある。
容れ物と内容が揃って、初めてモノになる。
空であり、 非二元である
「気づきとしての 本当のわたし」だけを
強調し過ぎるのは 良くないだろう。
現実の世界を生きていくためには、
「容れ物(座)」 だけでなく 「内容(要素)」
も必要である。
偽のわたしも「わたし」であり、
「偽」 と 「本当」の両方がそろって
「わたし」なのだ。
それを 忘れてはいけない。
「偽:自我」を捨ててはいけない。
色 即是 空 即是 色 なのだ】
(最終改訂:2022年5月5日)