サンカーラ (行)
誰かや 何かに対して、
すべての生命体(生きもの)は、
生存を方向づけている「受」に対して、
リアルな五識の感覚に対する
直接的で 過剰な追求(行) すなわち
「感覚的な快楽を どこまでも求めること」
が「渇愛」である。
もっとも安易な渇愛は 食欲であり、
その結果として
肥満という現象が人類にだけ見られる。
「渇愛」とは、
受(感覚)を 想(概念)に変換することなく、
ダイレクトに「受の快という 二次感覚」を、
どこまでも極限まで追求しようとしてしまう
強い欲求・衝動・願望のことである。
一方、そのリアルな快/不快の感覚(受)を、
意見・見解・イデオロギーへの執着
(取:思い込み)は、ときに
渇愛よりも激しく人を囚え、苦しめる。
リアルな二次感覚である 「快/不快」 という 「受」を、
人類特有の能力(想=無明=思考)によって
非リアルな 「善/悪」 という概念(想)に変換し、
それを どこまでも追求/否定しようとする
欲求・衝動・願望・意志が
「取」というサンカーラである。
「渇愛」も「取」も
サンカーラのより具体的な内容である。
五蘊の受レベルにおける快である
「心地よさ・楽しさ」を 追求し執着する
サンカーラが「愛」
五蘊の想レベルにおける快である
「正しさ・正義」 という価値を 追求し執着する
サンカーラが「取」
である、と考えると分かりやすいだろう。
「渇愛」か「取」の どちらか が、
もしくは 両方 が
人生の目的 または 生きる意味として
捉えられる傾向がある。
自我(エゴ)にとっては
まさに「そうだ」と言える。
つまりサンカーラとは、多くの人にとって
まるで
「人生の意味そのもの」のように思える、
そして実際 そう思っているものなのだ。
であれば、それが「思い込み」であり
そこから脱けだすことが いかに 難しいか、
少しは 想像できるだろう。
そして、世の中には
「渇愛」を選びとるタイプと
「取」を選びとるタイプの
二種類のタイプの人間がいるように見える。
「渇愛」を選ぶ人たちは
「取」を信じる人たちを 理解できず、
「取」を選ぶ人たちは
「渇愛」を喜ぶ人たちを 見下す傾向がある
ように見える。
だが、
「渇愛」 と 「取」 のバランスを取りながら
上手くやっているように見える人たちもいる。
バランスを理解している このような人たちは
比較的上手く 人生をこなして行けるだろう。
片方のサンカーラだけだと、
ときに大きく崩れることがある。
もしくは、
「渇愛」 は プライベートな(私的)価値であり、
「取」 は パブリックな (公的)価値である
と、 完全に分けて考えている人たちもいる。
政治家と呼ばれる人たちに このタイプが多い
ように見える。
「承認欲求」と呼ばれる行は、
「愛」ではなく「取」の方に含まれる。
承認欲求とは、他人から
「それでいいんだよ とか すごいねー」って
認めて または褒めてもらいたい気持ちの
ことであり、
極端に言えば「名誉欲」 という言葉と同じものだ。
これは
人間にとって かなり根源的な欲求であり、
仲間(社会の一員)になるためには不可欠なもので、
いつも必ずしも悪しきもの とは限らないが、
行き過ぎて 大きな落とし穴になることも
しばしばであり、
「苦悩」を引き起こす大元おおもとである
と言ってよい。
承認されるために、
「〜ねばならない」と思い込んでしまう
ことも よくあることだ。
正しいと信じることを
「〜ねばならない」と追求することは、
「観念的な快楽の追求」
と言い換えてもいいだろう。
「渇愛」 は 「感覚的な快楽の追求」 であり、
「取」 は 「観念的な快楽:正義 の追求」 ある
と言えるだろう。
正義とは「気持ちいい」ものだ。
間違っていると信じている(思い込んでいる)ことを
「〜であってはいけない」 と否定することも
また、「取」というサンカーラである。
このように
「自分が」 信じていることを追求することを
「承認欲求」 と呼ぶのは変だ、
と思われるかも知れない。
でも では「なぜ」
そう信じるようになったのか? と考えれば、
それは 世間(他者)の価値観を
自分の中に取り込んだ結果である
ことが分かるだろう。
「世間とは親のこと」 であることも しばしばだ。
だから、
自分が信じる「正しさ」を追求することを
と呼んでもいいだろう。
現実を
概念や数値(お金・IQ・点数など)のような
評価できるものに変換すること【無明】は、
生存のために人類が採用した戦略であるが、
概念化や数値化することができずに
そこから こぼれ落ちて 「失われるもの」 がある。
苦悩の発生を説明する 十二縁起によれば、
① 無明 → ② サンカーラであり、
無明とも呼ばれる思考(概念化)によって
すぐにサンカーラが生じてしまう。
そして いったん
「取」 というサンカーラが生まれてしまえば、
概念に変換することによって
こぼれ落ちてしまった大切なものを忘れたまま
思い出すことができなくなってしまい、
それが 最終的に 「苦悩」 を生みだしてしまう。
「苦」を避けるために、 世界(と自分)を
思い通りにコントロールしたいのが
「サンカーラ」の在り方である。
老死の「苦」は 避けがたいことなのに、
それを無視して
生存を永続(不死)させようとして、
(衰退し消えていく)無常という真理に
逆らっているのが
「取」 というサンカーラの姿である。
だから
サンカーラに取り憑かれている間は、
「死」が 怖ろしく、
「死」を 忘れようとしている。
忘れてはいけないものを、
忘れたがっている。
サンカーラが 死を否定しようとして、
たんなる「苦」である死を
「苦悩」に変えている。
メメント・モリ
無明が世界を二分して 善と悪を生みだし、
その 善を求め、
悪を避けようとする欲望が
サンカーラである。
善悪二元論という世界観が
サンカーラを支えている。
サンカーラ:取とは 「欲望」 のことであり、
特定の価値に基づく意図を持って
「〜したい/したくないと欲する意志」
のことである。
善を追求し 悪を否定することが、
サンカーラである。
だとすれば そりゃ〜 サンカーラは、
「ありのまま」を認めたくないだろう。
「受け入れる」ことなんて、
とてもじゃないが 出来やしないだろう。
「悪しき」 を避け、 「善」 をなせ とは
ブッダの言葉であるが、
ブッダの言う「善/悪」と
サンカーラの対象となる「善/悪」は
もちろん 違うものである。
ブッダの言う「善/悪」とは
思考によって生みだされた 概念ではない。
「同じ言葉に 異なる意味がある」ことを、
ここで銘記しておいて欲しい。
サンカーラは
(二分することで生まれた)比較を原理としている。
だから 自分と他人を比較し
他人に勝とうとしてしまう。
その意図に基づく努力も また
サンカーラのなせる技である。
だから
他人に勝つための努力は サンカーラであり、
一方 自分の喜びのための努力は
サンカーラと無縁のものだ。
概念化できるものは 部分的な価値だけであり、
全体としての価値や
生きているという絶対的な意味を
概念化して 思考で理解することはできない。
二分・分割することによって
失われた大切なものとは、
その絶対的な意味のことである。
それは何か?
その「絶対的な意味」を
クリックしてみて下さい。
「愛」について、語られています。
この「愛」はもちろん、
「渇愛」とは違う愛のことです。
この「愛」のことを
仏教では「慈悲」と呼びます。
もちろん、
目的や期待を持ってはいけない
というワケではありません。
何のための目的なのか、その期待は
どんなメカニズムに支えられているのか、
(つまり なぜ期待してしまうのか)
それを チャンと理解しておきましょう、
そしていつも そのことに意識的でいて
もっとも大切なものを
忘れないようにしましょう、
そうすれば「囚われる」ことはないですよ、
と そういうことです。
一番大切なものは 「絶対的な意味」 です。
それが 何なのかが分かれば、
目的や期待を相対化することができ、
絶対的なものとして「囚われる」
ことがなくなり、
状況に応じて 目的や期待を
「手放す」ことができるようになります。
繰り返しになりますが、
「快に向かい・不快を避ける」ことは
本来「あるがまま」なのですが、
それに固執し 過剰にしてしまったものが
サンカーラでした。
そして 固執せざるを得なかったのは、
愛 を「忘れて」しまったからです。
ですから、
絶対的な意味である 愛 の理解が完成し
それを しっかりと思い出したなら、
「固執する」 ことも 「過剰になる」 ことも
不要になるでしょう。
サンカーラから離れることは、
そんなに難しいことではないのです。
24時間365日 いつも、
一番大切なものを忘れず、
そのことに意識的でいましょう。
(参考ブログ記事]
心の構造と状態(3)行の発生と解消
心の構造と状態(4)行の分類
心の状態と構造(7)再び 行
心の状態と構造(8)高次の行を生みだすもの
(最終改訂:2022年1月16日)