「知らない」ということ
:人は、世界も自分も 理解できない
無明とは、知らないことである。
なにを、知らないのか?
現実の世界には「意味や価値」などない
ことを 知らない。
現実のわたしは「なにものでもない」
ことを 知らない。
つまり、「空」 と 「無我」 を 知らない。
人は、
世界と 自分を理解できると信じていて、
「理解できない」ということを知らない。
だから、
分からないものを 分からないまま
にしておくことが、できない。
人間は、
ありのままのリアルな現実を そのままでなく、
評価して 概念に変換した上で理解している。
「理解」とは そのようなものであり、
このやり方を「認知(思考:想)」 と呼ぶ。
認知は、
リアルな快/不快の感覚も 評価・判断して
非リアルな善/悪という 「概念」 に
変換している。
この リアルな 現実から
非リアルな 概念(妄想)
への変換が、無明である。
変換することによって
「知ったつもり」になっているが、
本当は「何も知らない」
本来
意味を持たない 非二元(空)の現実に、
対になる概念を付与して 二元化(色)し、
意味のない現実を 「意味づける」ことが
無明である。
意味づけることで 価値を与え、
ストーリーを創りあげ、
世界を理解したつもりになった。
二元の対極を線で結ぶと「軸」ができる。
この「軸」に沿って評価がなされ、
比較・競争が発生することになった。
その評価を前提にして
比べたり・争ったりしながら、
嬉しいとか悔しいと言って暮らしているのが、
色の世界に生きる わたしたちの姿である。
さらに 二元の対立する それぞれの極を
「純粋な or 極端な」形で抽象化し、
世界を真っ二つに分離し、
二元論的な対比によって 断定している。
そして、
あの人は 「善い人」 なのか 「悪い人」 なのか、
これは 「善いこと」 なのか 「悪いこと」 なのか、
「勝った」のか「負けた」のか、
「成功」なのか「失敗」なのか、
としか見れなくなっている。
そうやって
リアルである「善と悪との中間」や、
その「混合」や、
どちらとも言い難いものを 捨て去って、
忘れてしまう。
わたしたちは「どっちなんだ?」って、
すぐに 答えを求めようとしてしまう。
いつも 誰にとっても 「善い人」 だなんて
あり得ないのに・・
「善い人」 であると同時に 「悪い人」 でもあり、
「善い側面」 と 「悪い側面」 の両方を持つのが
人間なのに・・・
これ以外のやり方で、
脳は 世界を理解することはできない。
認知(思考)という フィルターを通して
価値判断をしながら、 ストーリーを創って、
「わたし」 という 限定された感覚を介して
何かと 何かを 比べてしか、
世界と 自分を 理解することができない。
だが その理解は仮のものであり、
限定されていて、一時的なものである。
したがって 言葉による理解(認知)とは
妄想(マーヤー)なのである。
現実の世界を
(善悪などの)対になる概念で二分・分割
(分析)したのち、
細切れにされた要素を様々な方法で再構成し、
特定の意味のある結論を導きだすのが
認知のやっている仕事である。
そこで得られた結論は
「仮のもの」に過ぎないのに、
「分かった」つもりになってしまう。
限定された状況(部分)での傾向を、
普遍的な真理(全体)であると
思い違えてしまう。
このやり方(認知)では、けっして
全体としての 普遍的な真理に到達する
ことはできない。
つまり 本当の意味で、
世界と 自分を 「分かる」 ことは できない。
わたしたちは
仮に 知ったつもりになっているだけで、
実は なにも分かっていない。
「無明」とは、
なにも「知らない」ということを
知らない(分からない)ことであり、
分かったつもり になっていることである。
とかく
エゴは知りたがり、 解釈せずにはいられない。
そして その勝手な解釈に執着し、
それを追い求めるサンカーラ:行を発生させ、
手放せなくなってしまう。
【無明→行→識】十二縁起を参照
「感じる」こと
わたしたちは、ありのままの現実を
決して 理解すること、 知ることはできない。
全体を 全体のまま理解することはできない。
「世界と自分のあるがまま」は、
ダイレクトに 直感によって
感じとることしかできない。
知ることはできず、 感じることしかできない。
しかし、感じたことに対しては、
それが適切か否かを証明する手立てがない。
でも そもそも、
「適切も 否も」あり得ないのではないか?
感じたことは、 そのままで ありのままだ。
「わたし」 がそう感じた、 ということ
だけが事実だ。
感じたことに「善い」も「悪い」もない。
わたしとあなたの感じ方が 同じである
必要もない。
感じることは 二元論を超えることであり、
論理や証明を超えることである。
マインドフルネスのもとで
「サンカーラ」 を見張り、
「適切に感じる」 ことだけを
意識していればいい。
現実とは、そして 人生とは、
その集積に過ぎないものではないのか?
エゴが
「証明」 にこだわっているだけではないのか?
リアルなものは、認知(思考)ではなく
感じたことだけだ。
感じるとき、素直に感じているか?
「行」の影響を受けていないか?
「識」を介してでなく、
「座」がダイレクトに感じているか?
マインドフルネスに徹して、あとは
自分自身の感性(感じる力)を信じるしかない。
確実には知り得ないということを知っていて、
何が正しいのかを知るものは誰もいない
ことを知っていて、
知らないことに寛いでいられれば、
物事を断定することがなくなり、
いつでも可能性(夢・希望)が残されている
ことが分かり、
そこに 平穏を見いだすことができる。
なるように なる。
なんとか なる。
なるようにしか ならない。
だから「知る」理性を 絶対視せずに、
「感じる」感性を より大切にしよう。
正しく知ることは、
正しく感じることに基礎を置いている。
それが 「サンカーラ 」 の魔力から自由になる、
唯一の方法である。
分析すること・理屈をこねること・
頭で理解しようとすること、
それも「必要なこと」だが、そんなものに
いつまでも「こだわって」いてはいけない。
わたしたちが 真に従うべきものは、
それとは 別のものではないのか?
もっと 素直になろう! 正直になろう!
無明とは、
リアルな現実を 非リアルな概念(想)に
変換することで、
知ったつもり になってしまうことである。
その人類最大の
サバイバルのための武器(理性)が、
「苦悩」 を生みだす原因(無明)でもあった。
概念化(認知)の能力によって人類は
発展・繁栄してきた。が、それが
苦しみの原因でもあった。
だからといって、
もちろん 概念化を否定すべきではない。
概念化の仕組みをよく知り、
その限界を見極める ことが大事なのだ。
概念(正義など)を 絶対視するのでなく、
概念を ただのツールとして使いこなせばいい。
認知という思考が
いつも 苦しみを生みだすわけではない。
サンカーラを発生させない(複合体を形成しない)
純粋な思考【八正道の中の正思惟】は、
問題解決のツールとして有用なものだ。
一方、価値を伴う思考は
容易にサンカーラと 感情(貪・瞋)を
発生させてしまうので、
「取り扱い」要注意である。
サバイバルは、
「いのち」 にとって重大事であり、
「いのち」の最高目的のように見える。
しかし そうではなく、
もっと大切なものがあるのだ。
だが 思考では、 それを知ることはできない。
思考を捨て、
「瞑想・感じること」 で それに気づくしかない。
サバイバルより大切なものとは、なにか?
無明を超えるリアルな存在とは、なにか?
無明を理解すれば 謙虚になり、
それが何かが 分かるようになるだろう。
(最終改訂:2022年1月6日)