心の状態 「行」の発生と解消
「行」 につながっているか否かが、
「非純粋」 か 「純粋」 の違い。
「行」 につながって複合体を形成することが、
「苦悩」を生みだす。
だから
「非純粋」 な状態が、「苦悩」 状態である。
心の座の上に載っているのが、
「行」 の入り混じっていない(につながっていない)
「純粋」 なR または非Rだけのときは、
純粋な感覚: Rだけを感じているか
純粋に思考:非Rが進行しているか
のどちらかであり、
そのときは「苦悩」 と無縁である。
これらの純粋な感覚や思考に対して
執着すると「行」につながり、
「苦悩」状態に落ち込むことになるが、
一般的には、24時間365日
いつも同じ状態が続いているわけではない。
【執着とは 感覚や思考を追求/否定すること】
日常生活においては、その 「行」 が
純粋なR/非Rの状態に混入して、
それを希釈・鈍麻・不純化させる形で、
「苦悩」 が発生している。
日常の大部分は、
このように 行に希釈され 鈍麻した状態で、
知らぬまに どんよりとした苦しみの中にいる。
「いまここ」に立ち戻り、
この 鈍麻した心の状態に気づくことが
正念(サティ)である。
過去や未来や知らないどこかにいるとき、
「いまここ(のピュアな感覚)」 を思いだす
のが サティの役割だ。
その上で
「いまここのあるがままの状況」
に留まり続けること、
つまり「行」 に結びつけないことと
「行」 の発生に気づいてそれを断ち切ること
(行を解消すること) の二つが、
正定(サマーディ)である。
マインドフルネスは、
この 「正念と正定:サティとサマーディ」 の
両方を含んでいる。
サティによって
「いまここ」 に立ち返って心の状態に気づき、
サマーディによって
「行」 による希釈・鈍麻が解消され
純粋に戻ると、
世界は驚嘆すべき姿を現し
薄ぼんやりとした日常生活が 驚異に変わる。
そのとき
「いのち」 の神秘が 不純なベールを脱ぎ捨て、
世界が輝き出す。
普段の暮らしでも、たまに
このような体験が得られることがあるが、
それは ほんの一瞬に留まるだろう。
だが サマーディがあれば、
いつでも これを味わうことができ、
その体験をもっと広げ、
深めることもできる。
そして 「座の上の状態」が観えてくると、
それまでの日常生活の中で
ムダに力を入れていたことが分かってくる。
すると、力を入れるポイントと
力を抜くポイントの違いが分かってきて、
どこでも リラックスして休むことが出来る
ようになる。
マインドフルネスとは、
なにかをする(doing)ことではなく、
なにもしないでいる(being)ことである。
わたしたちは、
体:Rでは なにもしていないつもりでも、
頭の中:非Rでは いつもなにかをしている。
自分の 「座の上の状態」 が 観えてくると、
日常生活の中で
他者の 「座の上の状態」 も
よく観えるようになる。
他者の心の中の「行」 の有無が、
よく分かるようになる。
他者の「行」に 対して
自分の「行」が 刺激されて、
反応しようとする。
それも よく観えるようになる。
そのとき、
「行」 に対して「行」 を返さないことだ。
「感情」に対して
「感情」で反応してはいけない。
強いものであれ 弱いものであれ、
「感情」 が湧き上がってきたときが、 要注意だ。
だから
自分の感情に敏感でなくてはならない。
感情が起きたときの、 その瞬間を捕まえよう。
そして 自分の心の中をよく観て、
その感情が 何に基づいているのか
よく感じてみよう。
「行」 の対象が「感覚」 のとき、
それは 分かりやすい。
しかし
「行」 の対象が「思考:考え方:価値観」 であるとき、
それは とても分かりにくく、
なかなか観えてこない。
「行と感情」 を支えている 「思考」 が何なのか、
自分の世界観とは どういうものなのか、
自分は何を大切にして、 何に囚われているのか、
普段から よくよく観ていなくてはならない。
まず、 自分の世界観を 疑ってみることだ。
自分が 正しいと思うことを、
本当にそうなのかと、 徹底的に疑ってみよう。
そうすれば、
「自分が 何に 囚われているのか」が
観えてくるだろう。
でも 強烈な 「行」 に取り囲まれたときに
平静な心でいられるのは、かなり難しい。
一瞥体験
ところで、
「目覚め(悟り)の一瞥」 とか 「一瞥体験」
と呼ばれる経験があるようだ。
多くのスピリチュアルティーチャー:伝道者は、
この経験を持っているように思われる。
それは、
「行」 が発生して 「苦悩」 状態に陥り、
それが24時間365日続くような
極端な苦悩の状況にあるとき、
突然「いまここ」に立ち戻って
「行」 が解消されたときの体験
なのではないか?
極端な苦悩(頭の中の doing)から
なにもしていない(being)という経験に、
つまり
非純粋な非Rから 純粋なRに切り替わった
ときの「体験」なのではないだろうか?
それは 突然の「空」の体験であり、
「無我」の体験であり、
「ワンネス」の体験なのだろう。
「わたしはいない」という経験であり、
「すべてはわたし」という経験でもある。
それが どれほどの喜びなのか、
「至福」 と呼べるほどのものであろうことは
容易に想像できる。
その体験の強烈さ・真実さゆえに、
その体験者はその虜になり、
それを 「悟り」 と思い込み、
それを多くの人に伝えようとして、
伝道者となる道を歩みだすのではないか?
持って生まれた体質として、
そのような体験をしやすい人たちが、
人類の中には一定頻度で存在するのだろう。
それが
真理の目撃瞬間であることに違いはないが、
でも
それを 「悟り」 と呼んではいけないだろう。
それと同じこと、
純粋に感覚だけを感じ続けている状態
【梵我一如】は、
適切なマインドフルネスのトレーニングで
実現できる。
トレーニングなしでも、
人は時々(もしくはごく稀に)
その状態を経験しているだろう。
しかし トレーニングなしでは、
その状態は 偶然たまたま出現するだけで、
自分でコントロールすることはできない。
トレーニングなしで、比較的多くの時間を
純粋な状態で過ごす人たちもいるだろう。
しかし「苦悩」の中にある人には、
適切なトレーニングが必要だ。
日々の暮らしの中で
マインドフルネスのトレーニングをしていると、
生活の場の中で 苦しみが
スーッと消える瞬間を 体験することがある。
これは意識が「いまここ」 に引き戻され
「行」 との接続が切り離された瞬間だ。
そのような体験を大切にして、
積み重ねていこう。
何度も何度も 繰り返していこう。
一瞥体験というのは、このような
座の上の要素が切り替わる(行が消滅する)
瞬間の経験の、 たんに極端なものだろう。
だから、 その強烈さに囚われてはいけない。
「行」が生起し それにつながるか 否かが、
「苦悩」の発生の分岐点となる。
それを見極めるためには、
「いまここ」 にいて
心の状態が観えていなくてはならない。
「行」 につながることが 「囚われる」 ことであり、
それ(行)を断ち切ることを 「手放す」 という。
日常生活の中で
マインドフルネスを続けていると、
心の状態が観えるようになり、
心の要素(想や行)の状態を
コントロールすることが容易になり、
行に 囚われ難がたくなる。
そうやっているうちに、行(欲望:願い)を
簡単に「手放す」ことができるようになる。
(最終改訂:2022年6月6日)