心の状態 行(サンカーラ)の分類
:6種類の行
五蘊
(色・受・想・行・識)という
言葉を使って、 「心の要素の状態」 を
別の視点
(発生する行の種類)から見てみる。「色しき」 とは「身体」のことで、
われわれは「色からだ」 を通して
外の世界とつながっている。
「色」は外界の刺激を、
感覚(R:リアル)として 心に伝えている。
六入(のうち「意」を除くもの)と
六境(のうち「法」を除くもの)は、
この感覚の内容を
細分化して説明したものであり、
五蘊の「色」の
補足説明のようなものである。
感覚は 色・声・香・味・触 の
五種類(五感:五つのRリアル)に分かれるが、
このうち「触」だけは
外界の刺激に対応する感覚だけでなく、
内なる自然である
自分自身の体の情報も含んでいる。
* 五蘊の「色(からだ)」 と五感の「色(いろ・かたち)」 は
同じ漢字だが、違う意味である。
「色からだの感覚器官」 が、 外 または 内の自然を
感覚に変換して「心の座」に伝えている。
「心の座」 は、 感覚(R)を通して
リアルな 現実の世界と つながっている。
だから、 感覚を 「感じる」 ことが、
直接的に「生きる」 ことである。
「感じて」いるときは、 「考えて」いない。
だから、
考えていないときは 直接的に生きていて、
考えている ときは 間接的に生きている
ことになる。
考えているときは、
非リアルな世界(虚構)を生きている。
虚構とは ウソのことではなく、
現実ではない 概念のことである。
「六入」のうちの
五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)が、
「わたし」が世界を感じる入り口であり、
スタート地点となる。
わたしは まず感じ:R、次いで 考える:非R。
五感に留まっているときは、 考えていない。
この「一次的感覚(R)」 には、
「快(楽)」 または 「不快(苦)」 の
二次的感覚(受:これもR)が
付随したり、しなかったりする。
一次感覚は 五つのR であったが、
付随する二次感覚は、
快(楽)と不快(苦)の 二つのR。
1:付随するときは、さらに
「快」を 過剰に追求*したり
「不快」を 過剰に否定*しようとする
心理である「行:非リアルな欲望」が
発生することがある。
* のとき、
positive feedback による悪循環が起きている。
「行」に囚われると 「苦悩」が発生する。
2:また 受レベルの
「快」を 否定したり
「不快」を 追求しようとする、
奇妙な 倒錯した心理が 発生することもある、
これも「行:欲求」 と呼べるだろう。
3:上記 1 のように
Rに付随する快/不快(受)を
直接 追求/否定するのでなく、
快/不快を「善/悪」 「優/劣」などの
概念(想)に変換(想)し、
その変換された概念:幻想(虚構)を
間接的に 追求/否定するという
より高次の「行」が発生することもある。
以上のように、合わせて
6種類の「行:欲望:意志」 が 存在する。
以下で、
より詳細に検討してみることにする。
1:「受」 レベルの 「低次の行」 の発生
Rの「受」のレベルで「行」が
直接 反応し・循環する
2つのパターンは、以下の通りである。
① 快(楽)を追求する 享楽的欲求
② 不快(苦)を否定する 逃避的欲求
① と ② は、 自然な 人間の欲求だろう。
本来は「リアルで自然な」欲求なのだが、
それに執着して「悪循環」が成立すると
「非リアルな行:欲求」になってしまう。
「非リアルな欲求」とは、
「行き過ぎた(過剰な)欲求」 のことである。
まず ① について
楽しいことは 追いかけたい。しかし
楽しいことを 続けるのは難しいので、
ほどほど にしなくてはならない。
追いかけ「続ける」ことは できない。
それでも「続けようとする」ことが、
苦悩を 生みだす。
この ① は、
「依存症」と呼ばれることもある。
自然な欲求としての快感覚全体を
バランスよく・ほどほどに
充足させることができていないため、
自分の本当の欲求が分からなくなっている
ことが 依存の背景になっている。
現代においては、
食事が ① になっている可能性が高く、
それが 肥満の原因になっていることもある。
食べ物(エサ)に向かうことは
生命体にとってもっとも基本的な快欲求
なのだから、快楽としての食事は
容易に依存に転化する。
しかし「美味しさ」 や 「量」 を
「過剰に」求めてしまうのは、
「基本的な快欲求のレベル」を超えている。
太りやすい体質があるとはいえ、
「自然な欲求」の範囲内で
「不自然な肥満」になることはないだろう。
「食」に対する欲求だけでなく、
異性に対する「性的」欲求もまた
① の典型的な在り方であり、
一般的な恋愛感情*は ① と紛まぎらわしい。
結婚生活は「恋」から始まるのであって、
「愛」から始まることは 稀だろうが、
① のようなもの からスタートしたとしても
結婚を通して「本当の愛」を見つけだす
ことは 十分に可能だ。
「恋愛」 と 「愛」の違いを見きわめる力も、
「本当の愛」を見つける 力も、
マインドフルネスが 与えてくれる。
性的な欲求も また自然なものであり、
ほどほどにコントロールすればいい
だけのことで、本能のまま それを
「過剰に」追求することが 問題なのだ。
だから、何も
それを「抑圧」する必要はない。
抑圧してしまえば、
下記の ③ になってしまう。
一般人までもが
サンガの 「戒」 にしたがう必要はない。
* 一般的な恋愛感情は、
① ではない「自然な」快欲求に基づくものである。
食欲と性欲に対する享楽的な態度が、
① の典型例であろう。
これ以外も、感覚的な楽しさのみを
追求し続けることは すべて ① である。
「アルコール依存症」・「買い物依存症」
なども、① だろう。
では、「仕事依存症」は?
① の場合もあるし、
下記の ⑤ の場合もありそうだ。
ついで ②
嫌なことは 嫌に決まっているし、
嫌なことは 見たくもない。が、
いつまでも逃げおおせるものではない。
やがて
立ち向かわなければならないときが、
かならずやって来る。
三相(無常・苦・無我)の「苦」は、
この「逃げだしたくなるような苦」
のことである。
逃げだしたくなるかも知れないが、
「苦」は 逃げだしてはならない
当たり前の真実(ダルマ)なのだ。
真実(ダルマ)に逆らっては いけない。
② のような態度を取るのではなく、
「苦という真実」 から逃げずに 受け止める・
受け入れる(受容する)ことが
「幸せ」への道なのである。
この三相の苦(感受の苦でもある)という法(真理)
を否定しようとする態度である ② が、
「苦悩」の 根本的な発生原因になっている。
① の典型例として食欲と性欲を挙げたが、
それらの欲求を
簡便に満たしてくれるものが 「お金」 であり、
その目的のために
「お金」を とにかくたくさん欲しい
と思うことは、
もっともあからさまな享楽的欲求であろう。
「お金」を欲しいと思うことは、
1. 生きるための 必要最低限の欲求であるが、
同時に
2. 享楽的欲求の代表的なものであるとも言える。
さらに
3. 下記に述べるように、
「お金持ち」であることが
「立派なこと」であると思い込んで、
お金を貯めること自体が目的になり、
⑤ の 「善の追求」 としての 「サンカーラ」
になっていることがある。
これは、「承認欲求」の典型例である。
そして もしも、
享楽的欲求生活を長く続けたいから長生きしたい
(死にたくない)と願うなら、
それもまた 「苦悩」 の原因になってしまう。
2:「受」 レベルの 「高次の行」 の発生
Rの 「受」 のレベルで 「行」 が発生する
別の2つのパターンは、 以下の通りである。
③ 快(楽)を否定する 「禁欲」
④ 不快(苦)を追求する 「苦行」
③ と ④ はちょっとひねくれている。
自然な欲求に「逆らって」いる、
という点が ひねくれている。
これらはいずれも、
自然な欲求に「従う」ことが 「苦悩」 の原因だ
と 「間違って理解・解釈してしまった」 ため、
欲求そのものを否定することが
「幸せ」 への道だと
「思い込んで」 しまったためだ。
本来 自然な欲求に
「適度」 に従うことにまったく問題はないのに、
「問題ない」どろこか「必要」なのに、
それらの欲求を善/悪などの 「想:価値概念」
に変換して追求/否定しようとする
「より高次の行(サンカーラ)」 のなせる、
ひねくれた技わざである。
このとき
快の追求は悪、不快の追求は善、
と価値判断(想)している。
価値判断されたことを 追求/否定することは、
その内容がなんであれ 「承認欲求」 である。
「高次」とは、
「価値判断されたものを」 という 意味である。
したがって この③と④も、 承認欲求である。
「価値判断されたもの」 とは 「思い込んだもの」
「受(快/不快)」 に対しては、
過剰に反応しない 「中道」 の態度
が求められる。
③ ④ は、
探求者(修行者)の陥りやすい罠であり、
欲求の対象は 「受」 レベルの快/不快だが、
それらを生みだすものは 「想」 である。
③ と ④ は、自己犠牲に発展しやすい。
早い話が、
Rの「受」レベルの欲求に対しては、
追求し過ぎず、否定(抑圧)し過ぎない
(中道・ほどほど)という、
ただ それだけの対応ができればいい
だけのことだ。
なーんだ それだけか、 という程のことである。
「それだけ」のことではあるが、
実は この「ほどほど」が難しい。
追求し過ぎれば
「享楽的な」 渇愛になってしまうが、
渇愛を否定しようとすれば
「禁欲」 に陥るだろう。
「ほどほど」 の程度を知るためには、
「もっとも大切なこと」 を
知っていなくてはならない。
3:「想」 レベルの 「高次の行」 の発生
一方 非Rの「想」のレベルで
「行」が反応するときは、
以下の 2つのパターンがある。
⑤ 善・ 正義 ・優れたものの追求
⑥ 悪・間違い・ダメなものの否定
これらは、
当たり前のことに思われるだろう。
「〜ねばならない(追求)」
「〜ではいけない(否定)」
と教えられ、それを取り込み・内面化し、
そうやって皆
この社会を生きてきたのだから。
それが
「社会で生きる」 ための必要条件であり、
社会が その構成員に、 それを要求してきた。
その要求に応えようとする気持ちが
「承認欲求」 であり、
それを内面に取り込めば、
あたかも「自分」が
それを「望んでいる」ように感じられる。
だから「承認欲求」 とは、
他者からの要求:期待に応えるだけでなく、
自ら 「思い込んだこと」 に 応えることでもある。
「思い込んだこと」 とは 「内面化された善/悪」
だから
この「想(善/悪)」 レベルの「高次の行」
である ⑤ ⑥ は、
「承認欲求」 のことなのである。
でも その元になる「善や悪」は、
本当に「当たり前のこと」なのか?
「受」レベルの「苦」の代表的なものは
「飢え」である。
それを克服するため、人類は
農耕を発明して食料生産性を飛躍的に高め、
定住生活が始まり、
群れ集団が大きくなって社会が形成された。
その社会を 円滑かつ効率的に運営するために
「分業」が発達し、
人々はそれぞれ その一端を担うことになった。
社会生活における 「飢え:苦 = 経済的困窮
= 社会的に不利な立場」 を避けるために、
社会的に有利になるために、
分業において有利な立場を獲得するために、
「善・正義・優」などという概念を生みだし、
それを追求することになった。
「善と正義」 を実現する 「優れた」 ものたちは、
社会に認められて 強者となった。
それが「より高次の行」である。
この「非Rレベルの行」は、
「Rレベルの ② の行」 の存在を前提として
それを強化するために
生みだされたものである。
つまり
「苦」 を否定しようとして(逃避したために)
ただの 「苦」 が 非リアルな 「苦悩」 に
変わってしまったのだ。
でもそれ(善・優)は「本当のこと」か?
それは「法(ダルマ:真理)」 である
と言えるのか?
それは リアルか?
どんな場合・どんなとき・どんな状態
にもかかわらず、それらは
いつも正しく・優れたものなのか?
正しさや優秀さとは、 普遍的で絶対的なものか?
あなたは、
正しさとか優秀さというものを、
とことん 徹底的に考え抜いたことがあるか?
思い込みに囚われず 素直に考えてみたなら、
それらは 単に 非リアルな「概念」に過ぎず、
人間が とりあえず 「道具」 として創りあげた
「仮のもの:幻想」であることに
すぐに 気づくだろう。
マインドフルネスがあれば、
それが分かるはずだ。
「想」はサバイバル(有)のための
「仮のもの」なのだから、
そのことを理解し、
適正に「利用」すればよい。
そんなものを追求し過ぎて、
循環(positive feedback)させてはいけない。
それが「苦悩」の元になっているだ。
自由と解放(という幸せ)のために、
Rの「受」レベルの欲求に対しては、
適切な(中道の)対応が求められたが、
非Rの 「想」 レベルの欲求(行)に対しては、
それを意識化し、
世間を生きるための道具として
使いこなせばいいだけだ。
「想」 も 「行」 も、 道具に過ぎない。
道具として使っていれば、
過剰な欲求に囚われて
苦悩に落ち込むことなどなくなるだろう。
行とは 不自然(非リアル)な
過剰な欲求のことであるが、
本来の自然(リアル)な欲求は
適度なもの(中道)である。
① から ⑥ まで すべての「行」は、
いずれも「苦悩」を引き起こす。
無意識的に「行」に囚われていることで
「苦悩」が発生しているが、これを
意識化するのがマインドフルネスである。
「行」 を、そして 行を支えている 「想」 を
意識化する(観る)のが、
マインドフルネスの働きだ。
① と ② は 十二縁起の 8番目の渇愛、
③ から ⑥ は 十二縁起の 9番目の取 だ。
渇愛よりも 取の方が、意識化することが
難しいだろう。
わたしたちは 生き延びる(有)ために
「想」を生みだして、
それに こだわって(行)きた。
「有」が脅かされれば脅かされるほど、
「想と行」を(必要条件として)
承認欲求を、強化してきた。
哺乳類の子供が可愛いのは 「有」 の戦略だ。
「可愛さ」 とは 必要条件としての生存戦略なのだ。
幼いときは、親の愛を得ることが
最大のサバイバル戦略なのだから。
そしていつの間にか 親が他者に代わり、
そうやって ずっと
「他者の愛(承認)を得よう」としながら、
振り返りもせずに歩いてきた。
そうやって、 愛と承認を 取り違えてきた。
しかし、
「愛」は すでに当たり前のものとして
存在していたことを知ったいま、
「想と行」 を手放すことは 簡単だろう。
わたしたち生きとし生けるものは みな、
その存在の最初から最後まで、
根拠なしに「完全な愛」の中にいる。
そして いのちの十分条件とは、
そんな 「愛」を知ることであった。
幸せにも 根拠はいらない。
それは、
愛に根拠が必要ないのと同様に諦あきらかだ。
誰かを・何かを好きになるとき、
理由がないのと同じだ。
好きなものは好き、 としか言えないだろう。
根拠のある愛・根拠を必要とする幸せは、
ニセモノだ。
ホンモノの愛と幸せは、根拠なく
「いま・ここ」にある。
対極を持たない愛にとって
愛でないものなど存在しないし、
ホンモノの幸せは
「不幸」 という対極を持たないので
「不幸」 になり得ない(転換し得ない)
幸せになるために
必要条件:承認と 十分条件:愛を
取り違えてはいけない。
(最終改訂:2022年6月7日)