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人間の苦しみ(苦悩)の根源を代表する
3種類の害毒を三毒と呼ぶ。
煩悩と呼ばれるものの
より具体的な内容がこの三つだ。
その内容は、
「貪とん」と「瞋じん」と「痴ち」である。
人間の体は、
外界 もしくは 自分の体の状態 を
五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)で
常にモニターしていて、
その一次感覚(色声香味触)に付随して
分かち難く「受」という
二次感覚を発生させる。
「受」は、
生存可能性の指標となる大切な感覚であり、
すべての生命は この感覚を頼りに
自らの行動を選択している。
「受」の3種類の
楽・苦・不苦不楽という感覚に対して、
「楽」の方向に 向かい
(生存に有利な 好都合な状況を 指し示す 「楽」 を 求め)
「苦」からは 遠ざかり
(生存を脅かす 不都合な状況を 教えている 「苦」 を 避け)
「不苦不楽」 に対しては何の反応も示さない。
貪・瞋・痴は、
「受」の この楽・苦・不苦不楽の
3種類の状態に対応していて、
「貪」は「楽:楽しいこと」を追求するときの
ポジティブな楽しい感情
「瞋」は「苦:嫌なこと」 を否定するときの
ネガティブな嫌な 感情
「痴」は「受」の反応がないので
無関心な 無視しているときの状態である。
つまり 煩悩とは感情のことであり、
「苦悩」 というのは、この
「感情に支配されている状態」 のことである。
と言えば、
「楽しい感情」 も 「苦悩」 なのか? と
怪訝に思うかも知れないが、
それについては
以下の「貪」の解説を参照してほしい。
すべての 「良い:楽しい?」 感情が
煩悩(苦悩)という訳ではなく、
穏やかな・落ち着いた 「幸せだな〜」 という
「感情?」 もある。
だが これを 「感情」 と呼ぶべきなのか どうか
は微妙なところだろう。
それとも、 幸せな 「感覚」 と呼ぶべきだろうか?
この 「感覚」 は、
一次感覚である 「五感の感覚」 とも違う 「感覚」 だ。
この「幸せ感」 と 「貪に伴う楽しい感情」
が 区別されていないことが 大問題なのだ。
そして 人々が本当に求めているものは、
「楽しい感情」 でなく 「幸せ感」 の方なのだ。
「感情」 や 「感覚」 という言葉が指し示す内容
について、よく検討してみた方がいい。
私のブログで 感情という言葉を使うときは、
この 「貪や瞋」 のことをイメージしている。
「貪とん」の 追求が満たされて
貪むさぼっているときの感情は、
苦しいワケではなく
むしろ楽しく 非常に気持ちいい。
気力が充実し 自信に満ち、
何でも出来そうな高揚感を伴っている。
つまり ハイである。このときは 同時に
傲慢でもあり 優越感に浸っているのだが、
そのことに気づいていない。
しかし その欲求は止むことがなく、
これで十分という限度がないので、
いつも充足されるとは限らない。
楽しく感じられるためには
条件が達成されていることが必要だが、
その条件が満たされない または失われたとき、
それは「瞋」に転換して
「転換苦」となってしまう。
優越感は劣等感に代わり、
ハイな気分は うつ症状に 取って代わられ、
「楽しさ」は「辛さ」に 代わり、
苦しむ(苦悩する)ことになる。
貪のときは 気持ちよい感情なので、 まさか
そこに「苦悩」が隠されているとは
なかなか気づかないだろう。
その「気持ちよさ」が
不適切なものであることを知らず、 まるで
それが「幸せ」である と勘違いしてしまう。
「貪」とは どういう状態なのかを 知ること、
そして 自分の「貪」に 気づくことは、
きわめて難しい。
貪を「むさぼり」と言い換えたところで
何の説明にもなっていないし、
それが気づきにつながるワケでもない。
「むさぼり」とは、一体 何なのだ?
よく考えてみよう。
上手くいっている(ように感じている)ときこそ、
要注意なのだ。
貪 → 瞋
(貪は かならず瞋に代わる:欲望が苦悩をつくる)
「苦」を「悪」に変換して否定するとき、
瞋じんという感情に取り憑かれる。
良くない と判断した こと や 人 に対して、
「ダメだ・ダメだ・そんなんじゃ ダメだ!」
と 激しく糾弾するときの 「怒り」 の感情が
その典型的なものである。
小さな怒りは「不機嫌」とも呼ばれる。
「瞋」は まさに
「苦悩」の感覚そのものの感情であり、
怒りだけでなく イライラ・不満感・嫉妬心・
後悔・不安・恐怖・うつなど
ありとあらゆる ネガティブな感情
すべてが「瞋」である。
これらの感情に取り憑かれ、
逃れられない状態が「苦悩状態」である。
怒りの炎は 外側に向かっているようで、
実は 自分自身を燃やし尽くしてしまう。
瞋状態のとき
人はとても辛く 苦しいと感じているので、
一刻も早く
その状態から脱したいと願うのだが、
それが発生する原因が分からないので、
どうすることもできない。
だがマインドフルネスであれば
その原因も簡単に見つかり、
一度そのコツをつかむと その状態から
一瞬で抜け出ることもできるようになる。
そして、瞋状態も
無常に変化するこの世(此岸・色)の
ひとコマのシーンに過ぎず、いつか
かならず 消え去ることを知っていれば、
怖くなくなるだろう。
瞋が「苦悩」そのものであることは、
とても分かりやすい。
瞋
(瞋こそが 苦しみの感情である:瞋が苦悩)
貪や瞋と違って、
「痴」そのものは 感情ではない。
「苦の感覚を伴う(嫌だなーと感じる)課題」
を無視して、知らないことにしてしまう
ことが「痴」である。
それは、
本来 知らなくてはならないこと(課題)
を無視してしまうことや
無関心で 知ろうとしないことによる
「無知」である。
適切に関心を寄せれば
本当は 「苦」 であることが判明するのに、
それが怖くて 無視していれば、
苦でも楽でもない感覚(不苦不楽)
のままでいられる。
知らないことにして
「苦」から 逃げようとすることが
「痴」であり、
無関心や 無視による「無知」もまた、
いずれ
大きな「苦悩」となって戻ってくる。
本当は
いま対処しなくてはならない
状況(課題)なのに、
面倒がって もしくは苦に対処することを怖れて、
逃げてしまうのが「痴」であるが、
しかし いくら逃げたところで
苦は いずれ かならず
苦悩に姿を変えて 再び迫ってくる。
苦(という二次感覚を伴う課題)から
逃げおおせるものではない。
苦(課題)に対しては きちんと向き合い
適切に対処しなくてはならない。
そして、それが対処不能なときは
ジタバタせずに じっと耐え、
苦とともに居るしかない。
そうやって 苦を受け入れる。
「目覚め」ても 苦はなくならないが、
(否定したり 無視することなく)
苦を受け入れることができるようになる。
「空・無我」を知り、
苦と ともに歩む生き方が
「悟りの人生」であり、
「悟りの人生」 に(苦はあっても)苦悩はない。
だから、無視し続けたり
そこから居なくなる(逃げる)ことは、
何一つ課題の解決につながらない。
無関心であれば、対処すべき事柄に
早めに気づくこともできない。
いつも アンテナを張り、
世界と自分の状況に気づいていよう。
これは、
いたずらに不安や恐怖に取り憑かれる
こととは まったく違う。
一方、 何もしなくていい課題もある。
このときの課題の解決策は、
「何もしない」ことである。
何を 「行い」 何を 「しない」のかも、
マインドフルネスが教えてくれる。
「苦」を否定・糾弾しようとすれば、
「怒り」という
ダイレクトな瞋の感情に取り憑かれる。
それが嫌で 「苦」 を知らないフリをして
一時的にやり過ごしたとしても、
いずれ 抑圧された瞋が蘇り、
それに取り憑かれることになる。
抑圧された瞋とは、
イライラ・不満感・嫉妬心・後悔・不安・
恐怖・うつ など のことである。
こうして
「痴」も いずれ「瞋」に転換される。
痴 → 瞋
(痴も いずれ瞋に代わる)
また 知らないフリをしている間に、
「痴」は
「貪」にのめり込んでしまうこともある。
痴 → 貪 → 瞋
(痴は 貪を介して 瞋に代わることもある)
したがって、痴こそが 苦悩を生みだす
もっとも深いところに
隠れているものである。
こうして
すべて「瞋(苦悩)」にたどり着く。
三毒もまた 五蘊や 十二縁起と同じように、
たんに 「苦悩の状態」 を表す というよりは
「苦悩の発生」 を説明するための言葉であった。
だからといって もちろん、
「楽しい感情」 を 「まったく」 追い求めるな、
ということではない。
「傲慢さ」 を避け、
この 「感情」 は 一時的なものだと知った上で
楽しめばいい。
この「楽しみ」 も、身体からだとしての人間
にとっては、 それなりに必要なものなのだ。
「苦行」 を追い求めてはならない。
(最終改訂:2022年4月23日)