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An Ulterior Weblog

更新は全く不定期です。広告は勝手に付き、外す費用も馬鹿らしく、アメーバからも一切頂いておりません(コメント・読者登録もアフィリエイト狙い多く、受けておりません。ご容赦下さい)
Read-only, not set communicative and periodical updating, sorry.

夏休みも終りだが、子供が犬の散歩に同行する姿を何度か見かけた。住宅街で近くに大きな公園もあるため、犬・猫を飼っているお宅が多い。その数は徐々に増えている。新築の家が増えてきていることとも関係しているのだろう。野良猫も多く、我が家も庭に糞害を受けていた。どの地域でも庭をお持ちの人はたぶん、近所に猫がいたら必ず被害を受けているはずである。


猫は飼い猫でも勝手に出歩くので制御が効かず、また、ご近所との関係であまり強く言うのも難しい。なので、直接的な手段としては忌避剤を撒くぐらいの対策しかない。

犬の方は庭にこそ入って来ないが、塀沿いや道路でオシッコがしょっちゅうされる。たまにウンチが転がる。


犬の散歩では概して何も持たない人が多い。また、犬の行動を全然見てなくて、本人はスマホをいじってばかりの人もいる。ご近所には畑や空き地がいくつかあるので、ウンチは飼い主が持ち帰ってという看板をよくみかけるが、そのまま放置の人が少なくない。オシッコに至っては水を持っている人がずっと少ない。公園の方がほかの散歩者の目が多いせいかまだ守られているようだが、それでもたまにウンチが転がっている。


多くの散歩の人達の様子を見ていると、家の中ではさせずに道路や公園に来て済ましているように思われる。その方がペットシーツの費用や掃除の手間が省けるからだろう。外飼いなら庭が臭くなるのを防げる。我が家も犬を飼っているのでそれはよくわかるが、それでは道路や公園に散歩に出るのは自分で汚した場所にまた連れ出すことになる。ペットだけでなく人間にとっても不衛生である。


我が犬の場合、どうも屋内は自分のテリトリーと思っていて、そこを汚したくないために外でしようとするようだ。できるだけサークルの中で済ますようにしてはいるが、庭も多い。庭でしないと道路や公園でする率がぐっと上がってしまう。特に、ほかの犬がしたと思われる場所でつられてしまうのか、することが多い(まったく悪循環)。道路や公園で済ます率は今もって1/4ぐらいか。何とかゼロへ近づけたいところだ。


我が犬は中型なので、オシッコもウンチも量があり、ボトルは1リットルのものを携帯している(大工用のベルトと工具入れにウンチ袋やボトルを入れてお尻中央の上に位置させる。歩きの邪魔にならず、見た目もアスリートのようで様になるので是非やってみてほしい。周囲ではこのような例は見たことはない。アルペンレーサーのインスペクショングッズをヒントに考案した)。それぐらいないと両方をされると綺麗に流せない。オシッコ1回で600mlは使う。本当は2リットルぐらいほしいがさすがに重くて邪魔だ。妻が持ち歩けない。朝夕にそれぞれ4、5キロは当たり前に歩くので、人間の負荷が高すぎる。

何より、外をトイレにするのはよくないので、できるだけ屋内でさせるか、出発前に庭で促してから出かけるようにしている。その結果か、猫による糞害は消えている。


空き地の前ならまだいいが、ご近所の家の前でやられるのはほんとに参ってしまう。恥ずかしい限り。

自省も含めて、もう少し飼い主のモラルが上がってほしいものだ。



ゴールデンレトリバーなどの大型犬の場合に見かけたウンチ処理の見事さには恐れ入った。捕虫網か釣りのたも網のようなものを携帯し、その体勢になった途端すかさず差しだしていた。

今まで見かけた一番大きい散歩犬はグレートピレニーズ。とても大きく犬に見えず。中型の我が犬もまるで仔犬にしか見えなかった。この飼い主も網を持参していた。推定数百グラムのウンチはかなり大きいだろうから、たしかに一度落としたものを拾い上げるのも一苦労だろう。よく飼えるなぁと感心する。


※※

各国や日本でも一部の地域では公園や道路、公共施設の近くにペット用トイレが設けられているところもある。ペットを持たない利用者にとってはありがたいことだろうし、実際に助かる飼い主もいると思うが、私はできれば利用したくない。そこにどんな病気を持ったペットの糞尿があるかわからないからである。人間でも不特定多数の利用者の場所は衛生設備が整っているところ以外は敬遠するだろう。病気を一番うつされる場所は病院である。集中的に集まる場所は避けた方がいい。となれば、用は屋内で足すべきだ。私は極力、犬が多く集まる大きい公園などは避けている。

いわゆる盆の時期からずらして月命日も兼ねて初盆のお経をあげて頂いた。今回は四十九日と異なり、ご住職は月命日供養と同じ簡易な法衣だった。時間も短かった(これは事前に伺っていた)。朝だったのでお布施2万円とお車料5千円をお渡しした。車料まであるとは思っていなかったような取り方だった。

次の一周忌の日程は私の都合を鑑みて来年ご相談で決めるということになった。


無事終わった初盆ではあるが、前日慌てた。廻り焼香用の香炉を準備していなかったのだ。四十九日では葬儀屋さんの御好意で貸して頂いていたために、すっかり忘れていた。お店が閉まる直前に駆け込んで一式揃えることができた。とんだ恥を掻くところだった。


想定の倍以上の人が弔問に来られた葬儀時と違って、初盆は予想外に少なかった。家族関係者を除くと父方が4人、母方が2人。母方の来訪が少ないのには訳があり、葬儀のあと、叔父が病いで倒れて入院したためだった。下手するとそのまま葬儀になる一歩手前だった。実は今年初めにも母の弟が1人他界しており、初盆は2つだったのである。母方にとってはまさに厄年と言うべき状況。


意外だったのが、30年以上前の父のお知り合いの方。葬儀前にもすぐに駆けつけて遺体を前にご弔問頂いていた。今度は奥様(葬儀の時は入院されていた)もご同行されて、ご焼香頂いた。遠く離れたところからわざわざ来ていただいた。対応したのは父だけだったが、感謝の念に堪えない。父もお知り合いがここまで供養に来られるとは全く思っていなかったという。

一方、ご近所で父が葬儀に出向き、香典を差し上げても一切、弔問に来られない人も何人かいる。別に体が悪い人たちではない。こういうときに人柄が出るとはよく言われる。


なお、今回もご香典、お供え物、お線香などを新たに頂いたが、小額なこともあってお返しはしないということにした(香典返しを省くよう小額にと気遣われたようだ)。


これから寒くなる。仏壇を父が毎日の供養がしやすいよう、温かいリビングに移して母の初盆は終わった。

地方再生の苦しい現実は以前に書いた。

一方で、日本の国力を確保するためには強い経済圏が必要である。その筆頭が東京中心とした関東圏であるが、その次はどこかという将来像はそう簡単ではない。

多くは関西圏だと思うだろう。これまでの下地から言えばしばらくはそうだが、実は名古屋を中心とした中京圏になる。


なぜか?

関西圏には土地がないのである。いま以上に伸びようがない(各都市の人口も長い間伸びていない。福岡、札幌の発展に及ばない)。関東圏が4千万規模の世界一の人口地域になったのは日本一広大な平野部と内海があったからである。自然の恩恵だ。

同じことで、産業や文化によって人が集まる力があれば、平野部にどんどん人が入り込み、海があればそこから海外との貿易が可能なわけである。貿易は飛行機では賄いきれない。タンカー接岸が必須である。日本がどうして経済大国になれたかというのは海岸整備とそこでの貿易を積極的に進めたからである。航空事情は凄まじく改善されたが、それでもコスト的に大型船の代わりにはならない。


名古屋周辺を見渡せば、東は浜松から西は伊勢までぐるりと都市連携がとれる。これだけの広さに匹敵するのは北海道の石狩、十勝、釧路の平野群しかない。しかし、北海道は全体でも550万で、名古屋に対して札幌が接近しても中京経済圏ほどの人がいないのである。また港の整備という点でも、苫小牧擁する石狩と釧路しかない。札幌が名古屋を越えるのはまだ可能だが、石狩圏が中京圏を越えることはこの少子化では無理だ。


では、ほかに対抗可能な経済圏はとなると、福岡、久留米、大牟田、熊本、佐賀の筑紫中心の地域だ。ここはそこそこ人がまだ集まってくる可能性を持つ。

しかし、ここも簡単ではない。理由は関西のもう1つの問題と同じ。京都は日本文化の中心として他との融合を好まない。奈良も同じ。神戸も大阪と同一的な意識はない。つまりばらばらなのである。福岡と熊本はもともと文化意識的に馴染まないし、佐賀も同様。ここが札幌あたりや名古屋近郊との違いである。


椎名誠が「偉大なる田舎」と呼んだ名古屋。昔から200万以上の人口を擁していたのに文化的にも政治的にもほとんど発信がない。昔、200万以上の都市は世界でもまだ多くないときですら、何も発信しない。それは名より実を取るせこさから来ているとよく揶揄された。

数人で軽く食事をして、「奢るよ」と言うのが東京、「割り勘で」と言うのが大阪、誰かが奢ると言い出すのを待つのが名古屋と言われる。どれが社会的に膨らんでいく可能性が高いか明白だろう。北海道での歪なほどの札幌一極集中も問題だが、札幌がぐんぐん伸びて名古屋が迫られているのもこういった文化背景の違いによる開放的発展の差となっているように思う。札幌に移り住むのと名古屋に移り住むのとで受ける印象の違いとなって現れるとも言える。


100万超都市と言えど、もう経済力強化としては単一では不十分で周囲の都市との連携による経済圏強化を図っていかないと生き残っていくのは厳しくなる。

もし、名古屋が意識が変わり、積極的に打って出て来ると、あっという間に関西圏に追いつき追い越すことが可能だろう。ただ、いつまでも上のようなせこさ意識が抜けないなら周囲からの協力は望めない。偉大なる田舎で終わるのか、本当に偉大なる経済圏になるのか、それはこれからだろう。

そして関西圏を越える経済圏ができるかどうかが日本の浮沈を決めるものと実は考えている。関東だけでいつまでも受け入れることができるかどうかというのと、地震災害のときの別の強い経済圏が要るからだ(巨大台風への配慮も要る)。中京圏はその最有力候補であり、それを石狩圏や筑紫圏が補う形でできるかどうか、それが国家百年の計だと思う。



噴火でも中京、関西が中心にならざるを得ないだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=SVi6yIdjDlw


※※

名古屋が海外で歌詞に出て来るのはおそらくこの曲だけだろう。かつて存在した有名フュージョンバンド ウェザーリポートの演奏。2:03で言われている。

Where the Moon Goes

歌詞はこちら。

https://groups.yahoo.com/neo/groups/zawinulfans/conversations/topics/717

夏休みも後半に入った。

昔、映画がまだ娯楽の大きな中心であった頃、『東映まんがまつり』というものがあった。とても小さい頃のことなので記憶が定かではないが、アニメ映画3つだったかを放映するものだった。その頃、いくら入館に払っていたか定かではないが大人で500円ぐらいだったろうか。映画館の中ではお菓子や飲み物も売っていた。買った記憶はない。町には映画館は3つかそれ以上あったようだが、現在は1つもない。


たしか、春、夏、冬の休みごとにまとまって行われて、子供たちがよく見に行っていたし、学校の社会授業として学年ごとで見に行くなどということもあった。

東映まんがまつりとしての作品の記憶はほとんどないのだが、『長靴をはいた猫』シリーズが有名だったと思う。

それ以外には『宇宙戦艦ヤマト』シリーズがあるが、何となく「まんがまつり」の感じがしない。


一方、さらに人気だったのが東宝と大映を中心とした怪獣シリーズ。ゴジラ、ガメラである。生まれる前からの作品群なので、TVの再放送で初めて見たというのも少なくない。それぞれに思い入れのある人がいるだろう。TVではウルトラシリーズも始まっていた。

『東映まんがまつり』の方はあまり行かなかったのか、とんと印象がないが、怪獣映画はある。その後、TVでの再放送などを見て、いま振り返って生々しさを感じた作品は以下。残念ながら後になればなるほど身に迫る緊迫感が得られなくなった。娯楽として狙いすぎる感じがあった。


◆東宝

・大怪獣バラン(白黒で生々しくおどろおどろしい。かなりの名作と思っている)

https://www.youtube.com/watch?v=m4m2RTtsd5c

・フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ

https://www.youtube.com/watch?v=HcqtnQsZLq0

 この中のL作戦には衝撃を受けた。https://www.youtube.com/watch?v=6cU6Z2VOWLU

・フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン

https://www.youtube.com/watch?v=24NDUZkVPBI

(なお、フランケンシュタインは火野正平ではありません)


◆大映

・ガメラ対バルゴン

https://www.youtube.com/watch?v=-YuJV7mWZrs

(初期の大映は東宝よりセットから画質から美しい気がする)


ほかにも宇宙怪獣ギララとかガッパとか宇宙人だ地底人だといろいろあるが、見て恐怖し、現実感を感じたのはこれらの作品ぐらいである。ラドンやモスラもよいが、ここは評価は高いがあまり有名でないと思われるものをあげてみた。

暑い夏を少し涼しく過ごせるかもしれない。


※まんがまつりで唯一よいと思ったのが『空飛ぶゆうれい船』(1969)

https://www.youtube.com/watch?v=Jvzl9ft7Jeo

ステルス機能の話まで出て来る、意外に先を見ていたSFアニメ映画。とても60年代の作品とは思えない出来。TVの再放送で見たが、出来の良さの割に意外にリピート放送されない。内容は結構社会的で大人でも楽しめる。逆に、小学5、6年でもこの話が理解できるか疑問なほど。


2020東京五輪のエンブレムの発表の瞬間を偶々見ていた。都庁の中で不要なまでの派手な演出にまず呆れたが、それで出てきた2つのエンブレムを見て、なお呆れた。全くパッとしないデザインだからだ。1964年に負けてるではないか。


一時期、工業デザイナーを目指そうとしたことがある。デザインで食べているわけではないので、プロではないがそれなりの知識と感覚はあるつもりだ。その観点からはこのデザインには共感するものが全くなかった。もっとましなデザインは無かったのかと。

その後、盗用疑惑が浮上。元とされたデザインと今回のを見ると、盗用に間違いないと思った。こんな大きなイベントの出品に堂々と盗用で出すとはもう常習犯だろうと思った(盗用しかできない人かもしれない)。


ところが、当初、デザイナーとかクリエイターとか言われる人たちがこの常習犯を擁護していた。現在では皆、掌を返したようではあるが。それについてネット上での批判もずいぶんあるようで、デザイナーとかクリエイター全体が批判対象となり、評価が失墜しかけているとも言える。


この問題、そう簡単ではない。

デザイナーとかクリエイターとか、持て囃されてる間はいいが、一度、繋がりが切れると一挙に生活が大変になる浮き沈みが極端な職業だ。しかし、人間にも限界がある。よほどの天賦の才でもなければ、人々を惹き付ける作品を世に出し続けることは至難だ。ましてやそれがずっと受け入れられ続けるなんてのは驚異である。例えば、スタジオジブリは世界でもあそこだけだと言えるクリエイティビティと思う。多くは食べていくのでさえ大変だ。

また、そのネタ仕込みも日日大変で、まず、普通に仕事をしている人なら、スケッチブックなりスマホショットで気になったデザインのものや自然の造形を手元に残しているはずである。今回、問題の元となったベルギーのデザイン(このデザインそのものは簡素で素晴らしい)もそういう形でストックされていたのだろう。

つまり、多かれ少なかれデザインには源泉があり、全く新しいものがひょこっと現れるということはまずない。そういう意味で、盗用的要素が常に付き纏う世界なのは致し方ない。これを完全否定したら、彼らの職業そのものが成立しにくくなる。擁護が多くあったのはその背景が彼らの背中を押していたのだろうと思う。

常にトップレベルのオリジナル作品を出せ、それがプロだろと批判するのは誰でもできる。口先だけの人間であればあるほどそう言う。仕事というものにきちんと向き合ったことのない人間の所業だ。人間の仕事に均一高位安定などということは1人か2人というような話で業界全体でということは不可能だ。ロボット社会ではない。人間否定しても意味がない。批判する前に自省した方がいいだろう。


それでも、盗用か新たな展開かとの違いはあるし、それを示さなければ作品にならない。それに見合ったレベルに今回の作品は至っていない。あまりにオリジナルの流用部分が多すぎて、いくら類似物が出やすいデザインの世界と言っても、ここまでの類似は異常である。

審査はしっかりしていたのか?という疑問はあるだろう。商標データーベースはあるはずなので、その中から識別できるソフトがあれば、除去は可能だろうが、おそらく有効なソフトは現j時点ではまだないのではと思う。今の技術なら作ることはそれほど困難ではないと思うが、人間には無理だろう。理念に合致したデザインかどうかを判断することはできても、類似物をすべて抽出することはできない。そこを常習犯は狙っていたわけである。


もう1つ。こういう1人で生きていかなければならない世界ではあまり世間的なモラルを要求しても仕方がない。芸能界にモラルを期待する人はまともに世間を歩いているならまずいないと思うが、それと同じ。

平和主義者のように言われている井上ひさし氏の家庭内暴力は有名で、奥さんもなかなかの曲者だったせいなのか、奥さんの腕の1本も折らないと作品ができないと業界では言われていたとか。言動が一致しない連中には違いない。だから、今回のデザイナーも平気の面で無実を押し通していられるのだろうとも思う。


クリエイティビティで食べていくというのは現実的には不可能なこと、と思っている。なので、それに敢えて飛び込んで頑張っている人たちにはエールを送りたいし、敬服する。ただ、さすがに今回のは擁護すべき対象ではなかったと思う。


それにしても、新国立競技場といいエンブレムといい、おもてなし服のいまいち感といい、今回の五輪はミソがずいぶんついた(新競技場は最終選考11作品を見たが、シンボルデザインとしてはザハ氏になるのは仕方ないと感じた。ほかに選ぶとしたら妹島氏のだろう。これなら槇氏も何も言わなかったと思う)。お祓いした方がいいかもしれない。少なくとも、文科省の中では誰ももう積極的に五輪プロジェクトのリーダーを目指すことは無くなったと思う。傍流の役人が起死回生で手を挙げるぐらいか。といって、ベストリーダーで牽引しなければ、2020には恥をかくことになりかねない。日本の社会全体がおかしくなった証左の1つだと思う。



※後日、常習犯の原案は少し違うものだったが、それがまたこのデザインに似ていると話題になっている。

http://getnews.jp/archives/1112786

ではベルギーの人とこの人の間の類似性はどうなのか、という問題にもなる。こういった感じで幾何学的に簡素でオリジナルな商標は大方出尽くした感があり、全くオリジナルなものを新たに出すのは難しい。

全国で猛暑が続いている。我が家のところも35℃を超える日が続く。しかも強風のときもある。35℃を越える強熱風は堪える。暑いなんてものではない。高温風でどんどん体温が上がっていくからだ。


今年は春先から冷房の負荷を下げる工夫をしている(家の詳細な構造に関わる工夫なので略す)。そのせいか、外気温は例年より明らかに高いのに、強い冷房を必要としていない。温度設定は27か28℃。エアコンは2Fの奥に一台あるだけだが、うまく風を回して、1Fの奥にいる妻にまで届いている。昼間1人で27℃設定で寒いというときがあり、28℃にしてる場合が多いという。

昨年の夏は扇風機を併用していたのだが、今年はそれさえ無いし、温度設定が高め。昨年までは25か26℃でやっていた。扇風機併用で27℃だった。

外から戻ると夜でも涼しく感じる。湿度が低い。大体、60%前後で推移している。朝日が出る前に窓をあけたりもするが、外気ではあまり涼しくならない。


寝るときはタイマーにして28か29℃設定にしている。27では風邪を引きかけるかというようなときがあったりした。エアコンの始動は1階に朝日が入る6時半から7時あたりである(停止は8時間程度と1日のほぼ1/3)。

エアコンは日中ずっと動いているが(今年は猛暑が続いているだけでなく、別の事情で不在でも日中の冷房が必要になってしまっている)、パワーはわずかである。風量がほぼずっと微小のまま(6段階の最小)。動いていることも忘れてしまうほどなので電力は意外にかかっていない。このところは猛暑で少し上がるだろうが、実は猛暑を家の中では実感できない。むしろ、晴れか曇りかで差が大きい。陽射しがあるだけで暑い。


あるとき、女性客2名が来られた。どの部屋も大きいのにエアコンが見当たらない。で、涼しい。どうしてか?と訊かれた(同じ疑問を別の男性客2名が来られたときにも言われている)。2人とも新築の家に住んでいる。サイディングで通気層がちゃんとあるという。でも、この涼しさとは全然違うと言う。壁も暑いし、各部屋にエアコンが必要で、部屋の中で温度差が大きいと。

図らずも内覧会となった。2Fに上がってエアコンを見せた(ダイキン製。商品に問題あって、ダイキンの対応もひどく悪く、苦労させられた一品。ダイキンそのものをお薦めしない)。一般家庭用としては大きい方だが、特別バカでかいものでもない。大きいリビング用の1台程度でどうしてこんな広い家全体(約60坪相当空間)を涼しくできるのかと再質問。トリプルサッシと遮光が効いているので可能だと答えた。もともと温度設計もそれなりにして、これでいけると見込んであるとも。ただし、あまり大人数(例えばパーティなどで10人とか)になると発熱が激しくちょっと厳しいとも答えた。扇風機の併用が要る。

さて、i-cubeさんやi-smartさんはこの全国的猛暑、どうお過ごしでしょうか?(構造的に両者は冷房より暖房向きと推察されるので、結構、冷房に電力を使っているのではないかと思う。我が家は逆の傾向で夏の電力はかなり低い)


簡単にできる大事なことは、人がいない部屋など、できるだけカーテンで陽射しや照り返しを入れないこと。ヨシズや簾を外側に設置するとかなり違うので(強風でこれはやっていない。ご近所ではよく飛ばされている)、最新の家でも是非やってみると実感できると思う。少しでもエコで温暖化を和らげていこうではありませんか。



床暖房があるなら床冷房があるはずである。i-cubeにたしかにある。

http://www.smarthouse2.com/?p=5188

ここでは採用断念しているが、それは設定温度が低過ぎたためと思う。また、あまり参考になるデータではない。外気温が26℃しかないからである。連日、猛暑日が続いた展示場なり戸建のデータがほしいところだ。

しかし、仮にそのデータがあったとしても、冷房としてこれはどうかという気がする。エアコンから直接吹き付ける冷風が嫌いな老人や女性などとても多い。これは冷たい空気が直接肌に触れたりするからにほかならない。つまり、体の一部だけがほかと違った温度状態にされるからである。人は一部だけ違う状態に置かれるとストレスとなって不快になる。暑い外から戻った瞬間はいいが、その後もずっとというのは難しいだろう。

一方、床暖房。大変人気だが、これも直接に熱源に触る。床暖房や床冷房に疑念を抱くのはこの手の直接接触型冷暖房は最適な冷暖房とは思われないからである(私は床暖には馴染めない)。冷房については今のところ、微弱連続運転のエアコン冷房以上にとても効率的でまずまず快適な手段はないのではと思う。


※※

以下の記事が出た。断熱の違いがあるにせよ、使用量も料金も我が家の倍近い。記載されているように必ずしも連続運転で安くなるというわけではない。

http://www.j-cast.com/2015/09/09244811.html?p=all

我が家では途中から最低限の風量に固定したので、ON/OFFによる無駄は少ない。入れても風量が最低のままだから高出力運転自体がない。ただし、寝ている間はさすがに音が耳触りなので止めているというのが実態。朝は暑くなり始めるかなという直前に入れるので、室温は一日を通して平均化されている。

少子化になって全入が可能な大学であるが、聞いたこともない大学の名は一杯ある。たしか全部で800ぐらいだったと思う。


さて、大学が淘汰されていく中で、大学の意味は何かというのは改めて考えて整理し、大学を分類するなり、法人格を変えるなりする必要があるだろう。このまま続いていくことはあり得ない。現実を言えば、地方の私大あたりになると、大学というよりは職業訓練や高校の補修的内容に終わっているものも少なくない。通信制の大学も出てきている。


もともと大学に行くなどと考えたことはなく、高校1年の家庭訪問あたりから、担任からどうするかと言われたことから始まったのではないかと思うが、いつ決めたか全く記憶がない。それに出身大学に入りたくて入ったわけでもない。希望の大学は理工系学部の質の高さがあった。しかし、地元を遠く離れて暮らすお金が非常にかかる。入学後、奨学金をもらっていたが、それで足りるレベルではなかった。貧乏人には無理と諦めたのは正解だった。当然、私学などあり得ない。


東芝は不正会計で揺れているが、東芝の旧中央研究所と言えば、東大以外は大卒に非ずのようなところで、会社全体もその風潮があったと思う。全国区の我が職場において、もし1つの大学だけが勢力を誇っていたとしたら、これほど活性化された状況にはならなかっただろうと思う。その中においても東大出身者はちょっと数の割りに問題が多い。そのブランド力のせいか、ここを辞めてもやっていく先はあるという思いがあるようだ。事実、それでやめてどうなったか不明の人間もいる。

職場を見る限り、東大とその他で実力差が明確にあるというようなことはない。差があると言えばあるが、それは平均的には東大の方がむしろ下だということである。



ホリエモンは東大中退である。しかも、入ったのは理系ではなく文系で、短期間の準備で入れそうなところとして選んでいる。そして中退している。東大はブランドとしての道具にしかならない。まして、ほかの大学には行く意味がないのですぐに退学すべきだと言っている。

大学名を最初からこういう活用をする考えもあるかと少し感心するが、何を目指すかによるが、企業興しと拡大なら、東大に拘る必要もないだろうし、大学に行かなくてもいいわけである。あの人物像からすれば、東大出身者との間でもそれほど特別に配慮してもらえる気はしない(慶應なら別)。それは、職場から消えていった多くの東大出身者を見ていてそう思う。昔のように東大出てますと言えば、誰もが平伏すなどという時代でもなし、原発問題などではむしろ東大の先生は誰でも御用学者(東工大もそういわれるような感じだが、京大とかほかではあまりないようなのは官僚大学としての性か)と見なされて非難されるような風潮からすると、却ってブランドが仇にもなっているとも言える。


私が例えば新人採用者だとする。そこへ国公私の難関大の学生が来たとする。大卒と院卒では同じ扱いにはならないので、技術即戦力で院卒対象としよう。まず、私大にはあまり期待できない。私大の研究環境は医学部を除くと地方国立にも及ばないことがほとんどである。特に理工系で差が顕著(理工系で学者を目指すなら早慶でも行くべきところではない。大学院で旧帝大クラスに移らないとまず難しい)。なので、その研究能力は相当吟味しないと不安である。一部の学部や研究室は例外的なものがあるが、それは専門分野の担当の人が判断する。さて、そうなるとほとんどは早慶上智、東京理科、関関同立程度のところまでで、それより下はちょっと学力に不足感を抱く。あとは旧帝を中心とした国立大からの選択になる。専門性を吟味して採用を決める。でも、性格まではなかなかわからない。


大学出てどこに勤めて何をしたいかというのは入学時に決めることはできなかったし、入社してからも不可能だった。現在は大学で研究していたこと、自分が一番に力を入れていたものが仕事の下地になっている。幸せなことだと言える。ただ、これは偶然であって、外れて嫌気がさして辞めていたかもしれない。会社は人を遊ばせておくわけにはいかない。全員の希望を満たすなど不可能だ。

このあたりが大学から就職の難しさがある。何を具体的にしたいかとか、何を任されるかとか、大学に入る時点ではまずわからない。卒業時でも決まっていないだろう。そして、長く同じ業務が続いて行くかどうかはさらに不透明で、時代の流れと置かれた環境を自力で見極めて乗っていかないといけない。それが生きるということでもある。

少なくともこんな態度で人生を無駄にしてほしくはない。

http://withnews.jp/article/f0150805003qq000000000000000W00h0201qq000012328A

生活していくという点で彼女の生き方を否定する気はないが、こんなふんわり意識で普通の会社に勤めようというのが土台おかしい。そういうものとそぐわない人物なのだから。それをよくわかっていないし、大学生らしい頭の持ち主とは言い難い気がする。(津田塾でここまで相手にされない原因を客観的にとらえることができていない)


大学で何か専攻していたと言っても、人生の不確実さを考えると、やはり自分が一生をかけてもいいと思える分野を見つけることが何よりその人の人生を形作っていくと思う。そういうものがない人や見つけられない人は大学に進んだ意味をかなり失ったと言え、最後はホリエモンのような使い方しか残らなくなるだろう。大学は学ぶものに制限がない。どこまで進んでも構わないし、そうすべき場所である。就職とか何とかというのもわかるが、1つ何か長い一生をかけて極めてみようと思ってほしいと思う。

上っ面の知識で何とかできる時代ではとっくにない。基礎からとなると時間がかかる。数学科などは研究者になるには学ぶことが多すぎて博士課程が最低限と言われるまでになってしまっている。それが与えられている時期が大学時代なのである。一方、あまりに研究に没頭しているとみなされると、そのまま大学に残れば?と思われるだけなので、会社か高等研究機関に残るかは決めておく必要はある。

まさしく自分の一生を決定づけてしまう時期と言える。(日本の企業は採用のほとんどを新卒に求めるという悪習が続いているため)


それにしても学習してきた内容など、とにかく幅広いのに、この使えなさ振りは何だろうというのが東大に多いのにはちょっと驚くばかりというか、日本の将来の危機感が湧く。東大出身者がダントツに多いというわけでもないのに。ほかの旧帝にしても地方にしてもここまでのは見たことがないのである。卒業まで挫折を味わうことなく、会社で大変になったときに特に出てしまうのか。。。もちろん、驚くほど能力の高い人もいるのだが。



※これまで何度か折に触れて、もっと上へもっと先へいくべきと鼓舞してきた。どうしてかはこちらを読むともっとわかると思う。自分を省みても、大卒の実力と教養の低さは理解できる。

http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/306192/060400009/?P=1

ただ、欧米の研究者や博士号を持った実務設計者と専門で議論した限りでは彼らの実力は思ったほどではなかったし、値しないというのが少なくないことも付け加えておく。

一方、知性という点で必ずしもノーベル賞受賞者でも高いという印象を持てないことがあるのは以下の中の茂木氏の話にもある和仁氏の例のようなことがあるのも理解できる。教養は努力して学んでいくらでも積み上げることができるが、知性は性格に似て天賦のような気がする。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/20944

これらはほんとに悩ましい。葬儀を行う側にとって最も苦しめられる難題だと思う。


まず、香典返し。

葬儀場での葬儀屋手配の即日返しはここでは除く。葬儀時および四十九日のときに頂く主に親族からの高額香典のお返しについてである。

全く香典返しをしない地域がある一方、半返しが当然という地域もある。通例言われるのは1/3から半分までと言うが、実際を言うと、経済が伸び悩む中、1/3未満でもよしとされる状況のようだ。私は今回は1/3ちょっとを目安とした。親族のこれまでのから見れば多めの方だが、いろいろと不満も受けたのと、お返し先が日本のほぼ端から端に広がっていたので、それに対して、世間範囲は外してないと言えるだけのものにしたかったというのがある。親族にはこれからの葬儀でプレッシャーになった面もあるようだが、こっちも今後のこともあるので香典返しで文句は受けたくなかった。

通常、故人の子息は数万以上の高額の香典を出すのが普通だが、一般と同じで1万とかで半返しを要求する非常識の人もいるらしく、そういう人々が相手だと気苦労が絶えないだろう。

挨拶状も定型のものではなく、独自に書いて特製の封筒に入れて一緒に梱包した。諸事情から定型では済まないだろうと思ったからである。


困るのは上記の異なる地域の出身者が反対側の地域に嫁いだり、養子になったりしたときで、両家の風習の板挟みになって苦しむ人が多い。これに対していい解決方法はないだろうが、残っている親族の実権者は誰で、そちらの了承を得ておけば、その人と相談して決めたので、と答えれば誰も文句は言わないだろう。こういうのは世間常識とか何とか言っても誰も納得しない。その一言が影響力を持つ人を利用させてもらうしかない。それができないような状況では、もう自分を世間常識と思って断行するしかないだろう。


次にお布施。

これも悩ましい限りである。葬式とかでは葬儀屋のベテランから訊くのが一番と思う。父が故郷に移り住んできた関係で墓が無く、加減が全くわからなかった。そのため葬儀屋の助言は非常に助かったが、そこで示された失礼にならない金額として15万を出した。多めにしなかったのには、全く縁も所縁も無い住職がどれだけしっかりしたお務めをしてくれるかわからなかったからである。小さなときから町のお坊さんの評判がよくないことを知っていたこともそうした理由だ。

前にも触れたとおり、葬儀屋(というよりは町の通例)で手配された住職は非礼極まりないものだった。それは枕教の段階からすでに起きていた。葬儀でも手抜きをされたので、私はこの住職に四十九日以降は頼む気は全く無くなった。そして、お布施にさらに上乗せをするのを止めることにした。


四十九日では新たに探した別のお寺さんのご住職をお迎えして行ったことはすでに書いたが、そこでも一般常識の範囲でほぼ上限の金額を出している。お布施、御車料、御膳料3つを5、1,1の計7万を出している。これは小さな町で他人の檀家同然の仏事を奪ったことによるリスクへの見返りとして出すべきものと判断したからである。相手は一度は断ったものをあまりの状況の悪さに危険を冒して受けて頂いている。替えたのもこちらの判断なので、応えないのは倫理に反する。枕教のときからこの御住職にお願いしたかったと残念至極である。

このご時世、この小さな町で高給取りも少ない中、ここまでの金額を出してくれる檀家さんはそういないと思われる。それぐらいのことはしたつもりである。リスクがなければ全部で4万ぐらいで済ましていただろう。


具体的な数値を出すのはどうかとも思ったが、この手の話は本当に目の前に控えている場合、困ってしまうので、あえて出すことにした。

ある有名難関大がTOEICを指標にしていることを最近書いた(成績の一部として申請できるようになっていたと記憶する)。 活用している大学は私大含めほかにもたくさんあるように聞く。

夏休みでもあるのでその点について触れる。


対策をせずに900点前後以上取る人はその実力の高さを活用することができるし、多いにすべきである。しかし、資格テストと捉え、その成績で優位を示すためにトレーニングをしているのであれば、満点であっても実力ありとは言えない。


周囲に満点は何人か居る。1人は米国かどこかでの滞在が長く日本語が怪しいと言われている。一応、難関大出身者ではある。こういうのは我々には越えられない壁を持った向こう側の人だ。同じようにはなれない。人生が違うのだからそれは仕方がない。

ほかは根っからの日本人で海外駐在経験もない。対策だけで頑張ったようだ。1人は東大出身である。なので、もともとある程度は自力があった。しかし、TOEICは初めから高かったわけではない。


その東大出身の同僚の英論文を読んだ。失敗とか変な言い方とかは特に見当たらなかった。概して、プレーンで読み易い。まず、ネイティブが誤解して読むことはないと思われた。さすが東大出身者は違った。TOEIC満点でも目も当てられない英文を見せ付けられることが多い中、日本人としてここまでくれば非難されることはないだろう。しかし、ネイティブではないことはわかるし、また、読み易いということと読んでこれはいい論文だということは別の話である。内容もきちんと伝えてはいるのだが、何か英文としては洗練されてなくて印象弱く、そこがネイティブではないと思わせる所以だ。別の視点から言うと、著者の顔が浮かばないのである。論文とは言え、男か女か若いか年配かの違いが僅かながら出ることが多い。その像らしきものがバラバラではっきりしない点もネイティブではないと思わせる。

それでも、そのとき出た日本人の論文の中で間違いなく彼の英文が一番よかったと思う。例外は私の論文と思う。ここで詳細を書く余裕はないが、私の論文の書き方、英文の作り方は多くの人と違うからである。なので、ネイティブでも違和感は少ない方と思う。そしてその養成にはTOEICも寄与していないし、その対策もやっていない。むしろ、TOEICが役に立たないのだとわかって、全く違うアプローチを取っている。それはいわゆる受験英語の流れの先にある。ただし、受験英語そのものではない。予備校などでの英語指導などとはむしろ真逆の方向にある。


日本人が英語ができないのは日常生活で使う必要がないからである。それ以上でも以下でもない。仮にあっても身に付く人と付かない人がいる。例えば、香港などでは誰でも英語が話せるわけではなく、下流階層ではやはり通じないことが多い。欧州の国でも大なり小なり状況は同じだ。だから、もっと英語を使う必要の無い日本で英語ができないことは仕方がない。ただ、エリートでもできない人が多いのは問題だろう。

逆に誰でも英語を話す国は、独立国家としての基盤が弱かったことを示す。植民地支配の下で教育を受けるとなると昔は冷戦を背景に英語かロシア語だった。日本は漱石の影響力もあってか、英語による学問支配を退けることができた。これは誇るべきことなのである。我々はGHQに支配されたが、言葉すなわち思想まで支配されたことはないのである。

今はこれまでと違ってネットという新たな空間で若い人もいろいろ書き込むことが増えてきてはいる。しかし、彼らの英文を読むときちんとした英文を学んだことがないというのが多い。ちゃんとした学習はしてほしいところだ。ネット上には変な英文が多くはびこっている。


自分の英語力が本物かどうかを知るには京大や慶応といった重厚で難解な入試問題に当たってみてほしい。TOEICの高得点が何の意味があるのかと気付かされるに違いない。いや、その難しさに歯が立たず、愕然と自分の非力さに打ちのめされるかもしれない。

(中身は読めないが早大の例:http://ameblo.jp/imai-hiroshi/theme-10060019396.html

でも実用上はTOEICだと依然主張する人はいるだろう。よろしい。ではTOEICの高得点だけという事実のみで、留学無し、TVや洋画も観ない、小説類なども読まない、ひたすら試験対策だけをした人間が英米の現地に行って対応できるかやってみてほしい。撃沈すること間違いなし。なぜなら、市井で使われる英語はTOEICにはほとんど出てこないからだ。ネイティブ同士の会話は表現が砕け過ぎてて何を言ってるのかさっぱりわからない。実用、実用というが、実際に街に出て使えるような代物ではない。市井に入り込むには映画やTVドラマといったものが一番だろう。TOEICではない。つまり、TOEICは現地生活をする点では無駄な学習に近いのである。TOEIC得点の高さを誇る人は現地入り経験がないはずだ。経験ある人間はビジネス以外その意味の無さをよく知っているはず。まして現地にネイティブの友人がいるとか何とかであれば、英語をツールとみなしてやってきたという見当違いと試験対策に明け暮れたことに後悔するだろう。

英語も国によってかなり違うことを大学教養レベルの数学の講義で見てみよう。インドの研究機関なので、英語が公用語になっていて、それなりの学歴の人たちが聴講しているはずだが、昔から私はインドの英語はうまく聞き取れない。ここの研究に応募して採用されたら、この英語についていかないといけない。英米の英語だけが英語ではないのである。

International Centre for Theoretical Sciences 


読み・書き・聞く・話すと4つの能力を使ってコミュニケーションは取られるが、どれを取っても日本人は英語をある程度使うための練習量があまりに少ない。勉強法の問題もたしかにあるが、何より、それぞれに費やす時間が圧倒的に少ないのができない原因だ。1000時間とかその程度では十分ではない。なので、英語ができるようになる時間をほかに回すべきという考えも当然成り立つ。

中でもできないのが会話。日本人における問題は会話すること自体へのバリアーだ。口下手な人が多い。文法的あるいは表現上で不適切なことを言ってはいけないという思いで恥をかきたくないというのが非常に強い。こういう民族はほかで見たことがない。どこでもブロークンでお構いなしに喋っているのが普通だ。ブロークンのままでは正当な英語は身に付かないが、喋らないことには何も始まらない。


英語がわかるようになったと思う指標は何か。いろいろあるが、一番は有名作家の作品を読んでその良さを感じることができるかどうかだろう。あるいは演説でも映画でもいい。その言語でその文化がわかるようになることがその言語での能力がある基準に達したという証拠である(ただし、自分で適当に解釈して楽しんでいるのは除外)。言語習得としてはさらにもう一段階あるが、それはTOEICやその他の試験という話の次元とは全く違うものなのでここでは触れない。

お前はそんなに英語ができるのかと訊かれれば、ネイティブには程遠い。その爪の垢を飲んだぐらいかというところだ。しかも、久しく使わないとすぐに錆びて努力が水の泡になる。どんなに立派に英語に関わる仕事をしている人でも言うことは皆同じである。それほど言語の壁は高い。時にそれをあっさり越える人がいるが凡人は努力以外に立ち向かう術がない。

実力もないのに、下手にトレーニングで満点取って、交渉英文担当なんかになると大変なだけである。場合によっては人生がおかしくなる。



ほかに何が?となるとTOEFLとか英検、ケンブリッジ英検、国連英検など少しだけいいのがあるが、基本的に似たりよったり。TOEICは世界的には全くと言っていいほど通用しない。TOEICはビジネスシチュエーションをターゲットにしていて、お手軽に参加できる点が日本の特に企業で受け入れられた。つまりお手軽業者テストなのだ。よって大学が流用すべきものとはとても思えない。大体、大学入試と違ってあの中身の無い英文を読んで聞いて、どれほど英語の世界を知れるかちょっと考えればすぐにわかることである。初期学習ツールの1つぐらいにしかならない。企業はそうであっても大学がそれに沿う必要はない。他の試験もそれなりの使用シチュエーションに限定される。市井生活に耐える実用となる試験ではない。

それにもっと問題なのはどれにしても成績の高さが、本当に英語がわかっているかということとそれほどリンクしないという点である。資格上しかたなくても、英語の力をつけたくてこれらの試験対策に取組むのは全く的を外している。


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大学受験では数学は『大学への数学』が主流だったが、英語というとZ会、オリオン社などの通信添削の方が有名で、研究社『高校英語研究』や聖文社『イングリッシュ・コンパニオン』も活用したことがある。大数ほどの広がりはなかったと思う。現在、全て休刊となっているが、復活はこのご時世もうないだろう。会社に入って少し英語がわかるようになって研究社『英語青年』を読み始めた時期がある。すぐに課題に挑戦した。残念ながら解釈および英訳ともに初挑戦でトップレベルには到達しなかったが名前掲載には至った。その後すぐ休刊になってweb版に移行している。残っているのは大修館の『英語教育』だけだと思う。


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後日、昨年からTOEFLが英国留学では基本的に対象外になったことを知った。

http://www.j-cast.com/2014/06/11207346.html

なぜ、こうなったかは知らないが、英国の自国機関優遇の政策と思われる。英語の世界を米語ひいては米国に支配されないためではなかろうか。英語、英語といいながら実は米語ということにいい加減頭にきたという気がする。日本人はスピーキングが苦手だから厳しいだろうと書かれている。表面的にはそうだが、その根源はリスニングである。そのため、スピーキングでちゃんとした音が出せない。突き詰めていくと日本人の肉体機能的ハンディとしての聴覚の問題が大きい。

なお、記事を読んでわかるとおり、TOEICについて触れていない。ほとんどの留学先で対象にはなっていないはずだ。評価指標として役立たずだからだ。もちろん、日本の状況は違う。こちらの女性はロンドンで仕事をしている方だが、後半に書いてあるとおり、英語力とは関係なしにTOEICの点数しか日本の企業は見ないから、新卒予定者は点数を稼ぐように助言している。

http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/05/12/170000

就職後で実力をつけるのも一つかもしれない。しかし、試験対策は要るものの、TOEICでごまかさずに実力を大学や院時代につけておくことは可能だから、二度手間にならぬよう是非本当の実力をつけてもらいたい。ただ、このブログ主が言うように英語+専門は意外に厳しいことを思っていた方がいいだろう。英語で発信すると世界から注目を受けると同時に淘汰もされる。似たような技術や商品は世界の誰かがよりよい形で実現していることはよくあることだ。それほど楽ではない。私の関係などは結局のところ、世界で何人いるかというものだから何とか食べていけてるに過ぎない。つまり、学卒は意味なしということになる。


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http://peticonbu.hatenablog.com/entry/2015/06/15/175600

この方はTOEIC600点で日常英会話ができるようになったとしている。冗談かと。850点まで取っているが、それには試験対策が必要だったと書いているとおり、ほとんどの高得点者は試験として割切り、実力とは関係ない。600、700、800点台とそれぞれたしかに運用スキルの違いは実感できる。900前後にもなればできる気になって大勘違いをする。しかし、所詮TOEICとか英検という小さな世界の中だけの話。ネイティブ並みなんて程遠い。この方は以前も今も現地で意思疎通は大してとれないだろう。仮に満点を取っても状況に変わりないはずだ。TOEICの点数を取る方法と銘打っている時点で実力が無いと言っているも同然。TOEICに重点を置く人たちは皆、商売を考えてこういうことをしているが、特化した能力養成の需要があるからそれ用の力をつけただけの話で英語全体とは何の関係もない。

最新の書籍で次のものが出ている。https://www.amazon.co.jp/dp/4087210235/

新国立競技場の問題などいろいろ取りざたされている2度目の東京五輪を迎え、海外観光客を増やそうとあちこち躍起であり、「おもてなし」を売りにしている。


ところが、現実に海外から来る一般客が驚くのは「おもてなし」レベルの話ではないのである。いきなり空港で冗談抜きで困る人が多いだろう。

http://toyokeizai.net/articles/-/77977

ネットで事前に経験者のサイトで情報得ればいい話ではあるが、せめて海外との玄関の部分では設備やシステムの刷新が要求される。やってみればわかるが、現地にしろ出発地にしろ、通貨を替えていくのは面倒である。特に複数の国を渡り歩くときはほんとに面倒。交換場所がなかったり、レートが悪かったり(ホテルのを使わざるを得なくてとんでもなく悪かったことがある)。スピード時代に対応してもいない。そのためのクレジットカードなわけである。高速道路におけるETCと同じである。


日本は日本で別にガラパゴスで構わないというのは全くその通りだ。でも、海外との玄関口は別だろう。多くの日本人にはそこがカード化併用したからと言って何か困ることがあるだろうか?海外に出ることが多い人を除いてこういう局面に遭うことはない。それに、国内に限っても新幹線や航空機はできているのだから。


翻って海外では問題なくできるかというと状況はほぼ同じ。各国で公共交通を使うのは大変だ。英語表記がないとか、説明がないから使い方のわからない券売機とか。しかし、国際空港に付随している部分でこの手のことは整備されているところがほとんど。特に先進国では。

日本の場合であれば円への換金場所さえ24時間、適切に配置することも必要だろう。それができれば、各地に旅行が可能になる。


日本観光マニアの間で有名なのは「ゆうちょ」。どんな小さな町にもキャッシュコーナーがあるからだ。これに優るもの無し。ただ、使えるカードの問題か何かで通帳の利便性の方が上で、それを持っているらしかった。海外の人が持てるものではないと思うので、日本の友人にお願いして作ってもらったか一時的に借りてるかではないかと思った。そのあたりの細かい事情まで立ち入って訊いたことはない。