少子化になって全入が可能な大学であるが、聞いたこともない大学の名は一杯ある。たしか全部で800ぐらいだったと思う。
さて、大学が淘汰されていく中で、大学の意味は何かというのは改めて考えて整理し、大学を分類するなり、法人格を変えるなりする必要があるだろう。このまま続いていくことはあり得ない。現実を言えば、地方の私大あたりになると、大学というよりは職業訓練や高校の補修的内容に終わっているものも少なくない。通信制の大学も出てきている。
もともと大学に行くなどと考えたことはなく、高校1年の家庭訪問あたりから、担任からどうするかと言われたことから始まったのではないかと思うが、いつ決めたか全く記憶がない。それに出身大学に入りたくて入ったわけでもない。希望の大学は理工系学部の質の高さがあった。しかし、地元を遠く離れて暮らすお金が非常にかかる。入学後、奨学金をもらっていたが、それで足りるレベルではなかった。貧乏人には無理と諦めたのは正解だった。当然、私学などあり得ない。
東芝は不正会計で揺れているが、東芝の旧中央研究所と言えば、東大以外は大卒に非ずのようなところで、会社全体もその風潮があったと思う。全国区の我が職場において、もし1つの大学だけが勢力を誇っていたとしたら、これほど活性化された状況にはならなかっただろうと思う。その中においても東大出身者はちょっと数の割りに問題が多い。そのブランド力のせいか、ここを辞めてもやっていく先はあるという思いがあるようだ。事実、それでやめてどうなったか不明の人間もいる。
職場を見る限り、東大とその他で実力差が明確にあるというようなことはない。差があると言えばあるが、それは平均的には東大の方がむしろ下だということである。
ホリエモンは東大中退である。しかも、入ったのは理系ではなく文系で、短期間の準備で入れそうなところとして選んでいる。そして中退している。東大はブランドとしての道具にしかならない。まして、ほかの大学には行く意味がないのですぐに退学すべきだと言っている。
大学名を最初からこういう活用をする考えもあるかと少し感心するが、何を目指すかによるが、企業興しと拡大なら、東大に拘る必要もないだろうし、大学に行かなくてもいいわけである。あの人物像からすれば、東大出身者との間でもそれほど特別に配慮してもらえる気はしない(慶應なら別)。それは、職場から消えていった多くの東大出身者を見ていてそう思う。昔のように東大出てますと言えば、誰もが平伏すなどという時代でもなし、原発問題などではむしろ東大の先生は誰でも御用学者(東工大もそういわれるような感じだが、京大とかほかではあまりないようなのは官僚大学としての性か)と見なされて非難されるような風潮からすると、却ってブランドが仇にもなっているとも言える。
私が例えば新人採用者だとする。そこへ国公私の難関大の学生が来たとする。大卒と院卒では同じ扱いにはならないので、技術即戦力で院卒対象としよう。まず、私大にはあまり期待できない。私大の研究環境は医学部を除くと地方国立にも及ばないことがほとんどである。特に理工系で差が顕著(理工系で学者を目指すなら早慶でも行くべきところではない。大学院で旧帝大クラスに移らないとまず難しい)。なので、その研究能力は相当吟味しないと不安である。一部の学部や研究室は例外的なものがあるが、それは専門分野の担当の人が判断する。さて、そうなるとほとんどは早慶上智、東京理科、関関同立程度のところまでで、それより下はちょっと学力に不足感を抱く。あとは旧帝を中心とした国立大からの選択になる。専門性を吟味して採用を決める。でも、性格まではなかなかわからない。
大学出てどこに勤めて何をしたいかというのは入学時に決めることはできなかったし、入社してからも不可能だった。現在は大学で研究していたこと、自分が一番に力を入れていたものが仕事の下地になっている。幸せなことだと言える。ただ、これは偶然であって、外れて嫌気がさして辞めていたかもしれない。会社は人を遊ばせておくわけにはいかない。全員の希望を満たすなど不可能だ。
このあたりが大学から就職の難しさがある。何を具体的にしたいかとか、何を任されるかとか、大学に入る時点ではまずわからない。卒業時でも決まっていないだろう。そして、長く同じ業務が続いて行くかどうかはさらに不透明で、時代の流れと置かれた環境を自力で見極めて乗っていかないといけない。それが生きるということでもある。
少なくともこんな態度で人生を無駄にしてほしくはない。
http://withnews.jp/article/f0150805003qq000000000000000W00h0201qq000012328A
生活していくという点で彼女の生き方を否定する気はないが、こんなふんわり意識で普通の会社に勤めようというのが土台おかしい。そういうものとそぐわない人物なのだから。それをよくわかっていないし、大学生らしい頭の持ち主とは言い難い気がする。(津田塾でここまで相手にされない原因を客観的にとらえることができていない)
大学で何か専攻していたと言っても、人生の不確実さを考えると、やはり自分が一生をかけてもいいと思える分野を見つけることが何よりその人の人生を形作っていくと思う。そういうものがない人や見つけられない人は大学に進んだ意味をかなり失ったと言え、最後はホリエモンのような使い方しか残らなくなるだろう。大学は学ぶものに制限がない。どこまで進んでも構わないし、そうすべき場所である。就職とか何とかというのもわかるが、1つ何か長い一生をかけて極めてみようと思ってほしいと思う。
上っ面の知識で何とかできる時代ではとっくにない。基礎からとなると時間がかかる。数学科などは研究者になるには学ぶことが多すぎて博士課程が最低限と言われるまでになってしまっている。それが与えられている時期が大学時代なのである。一方、あまりに研究に没頭しているとみなされると、そのまま大学に残れば?と思われるだけなので、会社か高等研究機関に残るかは決めておく必要はある。
まさしく自分の一生を決定づけてしまう時期と言える。(日本の企業は採用のほとんどを新卒に求めるという悪習が続いているため)
それにしても学習してきた内容など、とにかく幅広いのに、この使えなさ振りは何だろうというのが東大に多いのにはちょっと驚くばかりというか、日本の将来の危機感が湧く。東大出身者がダントツに多いというわけでもないのに。ほかの旧帝にしても地方にしてもここまでのは見たことがないのである。卒業まで挫折を味わうことなく、会社で大変になったときに特に出てしまうのか。。。もちろん、驚くほど能力の高い人もいるのだが。
※これまで何度か折に触れて、もっと上へもっと先へいくべきと鼓舞してきた。どうしてかはこちらを読むともっとわかると思う。自分を省みても、大卒の実力と教養の低さは理解できる。
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/306192/060400009/?P=1
ただ、欧米の研究者や博士号を持った実務設計者と専門で議論した限りでは彼らの実力は思ったほどではなかったし、値しないというのが少なくないことも付け加えておく。
一方、知性という点で必ずしもノーベル賞受賞者でも高いという印象を持てないことがあるのは以下の中の茂木氏の話にもある和仁氏の例のようなことがあるのも理解できる。教養は努力して学んでいくらでも積み上げることができるが、知性は性格に似て天賦のような気がする。