第6章 エヴェレスト街道トレッキングの旅(5) | 還ってきたバックパッカー

還ってきたバックパッカー

 本稿は、定年前後の閉塞感にみまわれた著者が、これからの人生を切り開こうと試みた紀行エッセイ集であります。ドイツのロマンティック街道をバイクで、キリマンジャロに登り、インド北方をチョット放浪し、エヴェレストに至る高地の街道をトレッキングしてみました。

ゴンパの村、タンボチェへ(第4日目)

けわしい上り下り

朝晩はけっこう冷え込みますので、ナムチェ・バザールを出る前に中間着としてブレーカーを購入しました。745分に出て、まずプンキドレンカ村をめざします。出発当初はかなりの上り勾配でゼーゼーハーハーします。けわしい谷の中腹に付けられた道で、下は目もくらむ深さです。歩くと、どうしても山側へ重心がかたむきます。つまずいたりよろけることを想像すると、思わず寒気がはしります。12m幅の道路上には、上方から落下してきた岩がころがっていて、上方も下方も危険がいっぱいです。この道を維持するのは大変でしょう。雨の中は通りたくありません。対岸にも踏み分け道みたいなものが付いているのが見えますが、ところどころに地すべりで遮断されています。ところがよく見ると、地すべり塊の上部に新たな道が付いていたり、安全なその上方に迂回して新設されています。すべて人力あるいは蓄力だと思われますが、何とか交通を確保していることが分かります。じょじょに高度が上がりますが、下流で薪を採ったあとに山焼きしているようで、その煙が谷を吹き上がってきて、タムセルクやアマ・ダブラムの視界を悪くしています。

こんどは急勾配を下って谷底の川面まで達します。じょじょに高度が下がってきたからか、ふたたび樹相が緑っぽくなってきました。

2年前の洪水でつり橋が流失したそうで、現在の小さな仮橋を渡ります。そして間もなくプンキドレンカの村で昼食です。途中の急坂で、休憩している日本の62歳のおじさんに会いました。「次のテンボチェまで行ったが、頭痛がしてきたので戻る」とのこと。「わたしも途中で調子が悪くなったらいさぎよく撤退しますよ」といって慰めました(ところが後述しますが、わたしは本当にバテてしまいました)。なおこのおじさんは、1ヶ月有効の航空券を有効に使ってネパール中をまわるそうです。ぶじな旅を祈ります。ご婦人方だけでなく、元気なおじさんがいるのは心強いものでした。今日は気温が22℃まで上がり、セーター、ブレーカーと順々に脱いでいきます。ゴアテック製であれば、こんな忙しいことしなくて済むんですが。

プンキドレンカを12時ごろ出て、今日の宿泊地テンボチェへ午後2時に着きました。川面までいったん下ったので、今日はほとんど高度が稼げませんでしたが、後半は上り600mの難行苦行でした。勾配がきつく、踏みあがるさいにひざがいたみます。昨日よりいたみますが疲労性のようなので、もう少し先に行ってみることにします。が、多少不安です。平地は大丈夫ですが、坂道では左ひざに負担をかけない歩き方が必要です。

ふたたび4,000m近くまで上がってきたので木々が少なくなってきました。やがてゴンパのある丘の上にたっしました。標高3,860mのテンボチェです。風が強くなり、ホコリが舞っています。ゴンパとはチベット仏教の僧院のことですが、ここは、ヒマラヤで最高地かつ最奥地のゴンパだそうで、おおくのお坊さまが泊り込みで修行しています。ゴンパはありますが、村は下の方にあるのかと思っていたら、そばにある56軒のロッジが村そのものでした。おどろいたことに、こんなところにもあります。その一軒とはネットカフェです。

この地は小高い丘にあり、遠くに昨日訪れたエヴェレストビュー・ホテルがあったシャンボチェの丘が見えています。そしてこの地方の高峰が周りをとりかこんでいます。東にアマ・ダブラム、南にタムセルク、西にクンビーラ、そして東北の方向23kmほど先にはエヴェレストやローツェなどが一望できます。すさまじいばかりの神々しさで、おごそかな気分になります。さらに、これらの神々の座から吹いてくる風々が交差し、わたしの疲れたこころを洗浄してくれるようです。ここは聖地の中の聖地なのかもしれません。ゴンパが建てられた理由がわかるような気がします。

ゴンパでお参り

ゴンパでは、2人の修行僧が大仏さまの前でお経を唱えていました。わたしたちはそのお経を聞くために、すみっこで眼を瞑ります。が、最初は正座していたのですが、不覚にも途中でくずれてしまいました。わたしはこれでもお寺の孫息子であり、学生のころは板張り上でも正座していました。また母が茶道の先生をやっていたころ、しばしばお手前の席に座ったものです。昔はがんばれたのに情けないことです。勤行が終わったあと、“カタ”という白い布を買ってお坊さまにかけてもらいます。お参りは日本式で行いました。べつに五体投地してもよかったのですが、ガイド氏が気を利かしてお坊さまの了解を得てくれました。この布は幸運とともに旅の安全をもたらすとされているため、わが家にだいじに取ってあります。

チベット仏教とシェルパ族

 チベット仏教はシェルパ族の間にふかく根づいています。かれらが500年前チベットより移住してきたさいに同時に持ち込みました。各所に礼拝の場所があり、シェルパ族は敬虔な気持ちをもって信心しているようです。

 まずは“ゴンパ”ですが、これは前に述べました。ナムチェ・バザールにもありましたが、多くのお坊さまがきびしい自然環境のもとに日夜修行に励んでいるようです。テンボチェのその内部は、金色をした大仏さまの前に、経文をとなえる修行僧がすわる台座が78列ならんでおり、50人ぐらいは座れるでしょうか。一般の信者や観光客もすわれる席がはしっこに設けられています。

 それから、亡くなった高僧を供養したり、あるいは自然の神々に祈りをささげるための“チョルテン”、あるいは“ストーパ”といわれるものがあります。仏塔と訳していますが、ちょっとした村の出入り口や特別の信仰の場所、たとえばエヴェレスト街道の途中に建っています。ふつうは道の中央付近にあって、信者はグルグルと巡拝しますが、行き交う人びとはかならずチョルテンの左側をとおることになっています。わたしたちも宗教に敬意をはらってそうしました。

 おなじように村の出入り口には“マニ石”といわれるものがあります。これは大きな自然の岩面に経文を彫りつけたもので、古いチベット文字であるため最近は読めない人も多いといっていました。これらチョルテンとマニ石は、村の守護神みたいなものでしょう。

 それから「マニ車」という、これはわたしみたいな無精者には非常にありがたいものですが、信心を示すことができる道具があります。円筒形の筒のなかに経文が入っており、それを1回まわすと1回お経を読んだことになるそうです。祠みたいな中に固定された大きなもの、したがって回すのに骨がおれるものもありますし、チョルテンに埋め込まれてあったり、また携帯型のもあります。前回きたときに買った小さなマニ車を、わたしは毎日自宅で回しています。

 ゴンパ、チョルテンやつり橋などには“タルチョ”、すなわち祈祷旗がはためいています。これは、5色の小さな旗をロープにつなぎ、そのロープを高いところからこちらへ渡したものです。五色にはそれぞれ宗教的意味があるようで、一部には経文が書いてあります。これは“ルンタ”といわれ、悪霊を追い払う聖なる布です。この地方が持つ宇宙的雰囲気、すなわち天・地・人を結びつけているようで、なにか深い哲学のにおいがしています。そういえば、仏教の基本原理に、この世のすべての事象には原因と結果の因果律があり、生成と消滅が輪廻する、何かの本で読んだことを思い出します。

このようにシェルパ族は、昔からチベット仏教に囲まれて生活してきました。今でもかれらの奥底で社会の規範として位置づけられています。わたしたち日本人は、いまや宗教は葬式仏教あるいは苦しいときの神頼みぐらいしか接する機会がありません。宗教はその国の文化の根本でありますし、倫理や道徳の源泉となるものです。戦後以来、米国文化やグローバル化の時代に入り、わたしたち日本人の文化基盤が忘れ去られていっているようで残念なことです。世の中がこわれ自分がこわれていっているような気もしますが、見方を変えれば、現代はカオス的あるいは多様化時代をむかえて、新しい価値観と文化が生まれる前夜なのかも知れません。

ディンボチェ、そしてチュクンで高度順応(第5,6日目)

大自然の中をひたすら歩く

早起きして外に出てみます。快晴です。周囲の山々が朝陽をうけて、この世のものとは思えない絶景を放っています。熱い、しかし静かな感動をおぼえました。寒いのにくわえて、欧州からのデカイ夫婦とその23歳の息子がいたからでしょうか。朝からストーブがたかれています。国籍不明で無愛想な両親ですが、家族の仲はよいようです。子供も無邪気についてきていますが、ポーターがキャリアに入れて運んでいると聞きました。後日、ペリチェからロブチェに向かう親子とふたたびすれ違いましたが、欧米人の家族主義の良い点がかいま見えました。

8時前にテンボチェを出て、エヴェレストを見ながら坂を川面へ下っていきます。高度が下がるため、林がところどころに見えます。その中に尼寺があるそうです。橋を渡って対岸にでて、今度は上っていきます。今まで歩いた側には大規模な土砂崩れ箇所があちこちに見られ、小規模なせき止め湖ができています。今日も大自然の中をひたすら歩くことになります。途中にはチョルテンが建ち、マニ石もけっこうあります。エヴェレストに向かって山腹を歩きますが、じょじょにその前に立ちはだかる標高7,861mのヌプツェの岩壁に隠れて見えなくなってきました。わたしたちはこのヌプツェの前を横切って、カラ・パタールの丘からエヴェレストをまぢかに見る予定です。このヌプツェは“西の峰”の意味で、エヴェレストをがっちりガードしている存在です。したがってエヴェレストの視界を、ネパール側のどこから見ても悪くしています。このあたりより標高は4,000mを越え、さらに高度が上がっていきます。この高度では、キリマンジャロでもそうでしたが、もう背の高い木はありません。

20mほど上方の斜面の出っ張ったところに、山ヤギの一種であるヒマラヤタールが現れました。風にゆたかな胸毛をなびかせ、ゆうぜんと彼方を見ています。イェッティでも見つけたのか、人間どもには目もくれません。まるで超俗の仙人のようです。ちなみに年配の地元民は今でもイェッティ、すなわち雪男の存在を信じているとのことです。

途中パンボチェ村をとおり過ぎましたが、ここは帰りに泊ることになります。これから先は、地元住民の定住者はいません。ヤクの放牧場やジャガイモを栽培する農地に小屋があり、季節に応じて農夫や牧夫がきているのみです。ただしトレッカーのためのロッジやその関係者はあちこちに多く住んでいるのはいうまでもありません。

エヴェレストの西側にプモリが見えてきました。これは“エヴェレストの花嫁”の意味をもち、標高7,165mです。その麓にある小高い丘が、わたしたちのめざすカラ・パタールです。これは“黒い岩”を意味し、黒い岩石からなっていることによります。あんな遠くまで歩いて行くんだなぁと、思わず武者ぶるいします。荒涼たる斜面を上ったり下ったりしつつ歩きます。今日は行程も長く、アップダウン、石積み階段も多くて疲れました。やはり、ひざは昨日と同様に痛みますが、無理しなければ何とかなる感じです。無理しなければ、といっても無理せざるをえないのですが、ただできることは、できるだけユックリ歩くことしかありません。したがって歩行が遅いため、みんなの足を引っ張っていることになります。加納さんは元気いっぱいで、先導するガイド氏の後にぴったりくっついており、わたしとの差が大きくなると待っててくれます。それはよいのですが、かれらは断続的に休みが取れますが、わたしは、遅いといいながらも歩き続けることになります。いずれにしても加納さんは若くてビッグイーターであり、体力もあるので高山病の恐れはなさそうです。

3時前にやっとこさロッジ10数軒のディンボチェに着きました。アメリカやオーストラリアからきたトレッカーを見かけます。ロッジはトイレ付きの最高級部屋とのふれこみですが、部屋の入口は外に面しており、窓枠から風がピューピューはいってきてそれは寒いものでした。それでも、やることも行くところもないので、レストランに暖房がはいるまで部屋にいました。

ふたたび高度順応

ディンボチェは高度4,350mですが、今後5,000mを越えていくことからここでふたたび高度順応をはかることにします。すこし方向を変えて、東方のチュクン4743mを訪ねることにしました。朝、腰にちいさな痛みを感じました。疲労がたまると出てくる持病で、ひどくならないことを願うのみです。天気は良好です。やはり谷の中腹をとおっていきますが、河床の跡であったり落石であったり、礫がごろごろ転がっています。沢では水が凍りつきアイスバーンになっているため、飛び石伝いにわたっていくときは怖いものです。突然ひとりの日本人女性が、ポーターとともに降りてくるのに出会いました。標高6,189mのアイランド・ピークをめざしている登山隊の一員だそうで、高山病にかかったので引き返しているところといっています。たしかに顔が多少むくんだ、いわゆるムーンフェースになっており、さらに、頭痛がして自信がないのでディンボチェで仲間の帰りを3日ほど待つといっていました。

急坂もあり、けっこうきつい斜面を上っていきました。チュクンまで400mほど高度を上げることになります。数軒のロッジがあるチュクン到着に続いて、近所の小高い丘を周遊しますが、アイスバーン箇所もあって滑りかかりました。もしすべったり、氷が割れることを想像するとゾーッとします。多少かすみがかかっているため周辺の山々はクッキリとは見えませんが、きれいなことに変わりはありません。ローツェ、ヌプツェをはじめ各高峰の岸壁がせまってきてすごい迫力です。この先300mほど上っていくと、地球温暖化で決壊洪水が懸念されている氷河湖、イムジャ湖があります。氷河の後退で土砂がせき止められてできたものです。

チュクンのレストランでスエーデンから来たおじさんに会いました。62歳の陽気な人物で、沖縄でスキューバダイビングしたり、北海道の富良野でスキーをしたことのある国際的旅びとです。わたしたちと同様、これからカラ・パタールをめざすとのことです。遠くにヘリコプター音が聞こえます。その後も時おり聞こえましたが、救助用とのことです。そういえば各地のロッジに、救援ヘリの手配ができると張り紙してあります。高山病や負傷者など、病院のあるペリチェに運んだり、重症の場合はカトマンズまで運びます。

 4時過ぎから小雨となり、やがて小雪になりました。どうなることやら、本格的な雨具をもっていません。この時期は好天が続くものと思い込んでいたのです。ガイド氏に白状すると、ダイジョーブ、心配ないとのこと。簡単な雨具があるし、所どころのロッジには知人がいて助けてくれるとのことでした。寝るころには雪は止んでいました。

カラ・パタールへの前進基地、ロブチェをめざして(第7日目)

ゾプキョとヤク

 昨夕の雪が薄化粧して、銀一色の世界です。何度もいいますが、神々しい美しさです。しばらく行くとヤクが20頭ほど放牧されていましたが、なにやらボスの座をめぐって2頭間にもめごとがおきています。角を突き合わせたり、うなりあったり、にらんだりしてけん制しあっています。さすがに迫力があります。メスをふくめ他のヤクはチラチラと様子見しています。過酷な自然条件の中であり、仲良くすればよいのにと思いますがそうもいかないのでしょう。ヒトも社会的動物ですので組織にそって行動することが多いのですが、同じような問題が起きて困ることが多いものです。サラリーマンにとって無能な上司をいただくと悲劇ですが、われわれも同じようなことしてるなぁと、あらためてため息がで出てきました。さらに興味深く感じるのは、かれらは哲学者だからです。雪の降る夕闇の中、一頭のヤクが座り込み、頭に白いものを冠りながら、カウベルをカランコロンといわせて反すうしている姿は、まさしく哲学している風情です。

前にもゾプキョとヤクは述べましたが、ゾプキョとはヤクと牛の混血種で、外観上はヤクよりたしょう尻尾が短めで丸みをもっていることから区別できます。標高4,000mを境にしてそれぞれ活躍する場所がことなりますが、ヤクは4,000m以上の高地に強く、荷物運搬用あるいは家畜として飼われ、乳製品や肉も食べられています。ゾプキョも同様の家畜ですが、やや高度が低いところで使われています。

 そしてかれらはよく調教されています。小さいころから牧童にしつけられているようで、荷物運搬では115頭ほどが隊列を組んで行軍していますが、牧童の叱咤激励、小さなムチ、ときには小石をぶつけられながら、重い荷物を背負い、悪路急坂をユックリと確実にどこまでも運んでいきます。わたしは3年前に初めてきたときに、ゾプキョの一団ととつぜん出会いました。まだ慣れていないこともあって思わず谷側の石積みの上に飛び乗り、避けようとしました。ところが後で知ったのですが、ゾプキョやヤクは本能的に谷側にジャマ物を突き落とそうとする習性があるとのことで、わたしは突き落とされそうになりました。とそのとき牧童のするどい制止の声がとんで、そのゾプキョはおとなしく引っ込んでくれました。ちなみにこのような場合は、かならず山側に避けるのが原則です。それでも、すぐ横を大きな角をもったゾプキョが通りすぎるさいには思わず緊張します。かならず横目でわたしを一べつし、やさしい目ですが警戒している様子もうかがえます。深い哀愁に満ちた視線を感じました。一頭が6080kgの荷物を運んでいますが、かれらもヤクの子、勾配がきつい箇所では数段上るごとに息を荒げながら一息ついていました。一部には自分たちの餌の干草を運んでいるのもいますし、なんとポーターがそれを運んでいる姿も見ました。このように、人とゾプキョやヤクは、切っても切れない仲で共生しているのです。このように強く依存しあっている例をわたしは知りません。

 ところでヤクやゾプキョの“ふん”が有力な燃料になっているのをご存知でしょうか。ポタポタとそこら中に落ちていますし、放牧場ではもっとたくさんあります。このふんを集めて乾燥させ、ストーブの燃料として使うのです。積み上げて山のようにして保存している家もあります。その火は強く優しく長持ちするようです。すこしにおいがしますが、その効用は高いものがあります。ロッジでは薪と併用しているところもありました。自然のきびしい環境下では、何ごともむだなく循環型社会をずっとまえから実践しているのです。