第5章 インド鉄道の旅(5) | 還ってきたバックパッカー

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 本稿は、定年前後の閉塞感にみまわれた著者が、これからの人生を切り開こうと試みた紀行エッセイ集であります。ドイツのロマンティック街道をバイクで、キリマンジャロに登り、インド北方をチョット放浪し、エヴェレストに至る高地の街道をトレッキングしてみました。

仏教の聖地、ブッダ・ガヤー

お寺とわたし

 わたしの母の実家は小さなお寺です。したがいまして幼少のころより母の実家を訪れた際には、境内や本堂を走り回って、相当バチあたりなこともしてきました。そのころに染み付いたお寺のにおいが年齢を重ねるにつれて思い出され、ときおり寺社仏閣に浸りたい衝動にかられます。とはいっても特に信心深くはありませんし、苦しいときの神頼みのたぐいでしょう。しかしいつの日か、もうすこし仏教を勉強してみたい気はしています。2003年に中国の西安を訪ねる機会がありましたが、その西方車で2時間のところに法門寺という古刹があって、いにしえの仏教に触れて感動しました。それ以来、仏教発祥の地を訪れたいと思ってきました。

まずはガヤーで準備

 早朝5時半の汽車にのってヴァラナースィーを出ます。ところが待てど暮らせど列車は来たらず、結局55分遅れて到着しました。しかも直前にホーム変更でアタフタします。同じ汽車を待っていると思われる欧米人の動きでわかりましたが、貧弱な英語のわたしにとっては構内放送は聞きにくいものです。車掌さんが予約車両の入口で待っていてくれて助かりました。車内はまだベッドのままであったため、乗車中はほとんど寝転んで移動できたので楽な旅でした。1.5時間ほど遅れて1040分ごろ、どうにか仏教の聖地近くのガヤー駅に到着しました。これから南方のブッダ・ガヤーまでは15kmほどありますが、再度戻って来て夜行列車に乗るため、駅前に荷物置きと休息を兼ねた安宿を確保しておくつもりです。安宿になればなるほどインドの庶民の文化がいっぱい詰まっているのではと思うからです。ただし治安とドロボーだけには注意しなければなりません。

 列車が着いたばかりの駅前広場は、例によって雑踏です。観光客と思しき人にはタクシー運転手が付きまといます。彼らをかき分け、100mほど先に見えるドヤ街をめざします。比較的小ぎれいなホテルがあったので訪ねますと満室です。今度は数軒隣を訪ねますと部屋を確保できました。200ルピーですから500円ちょっとでしょうか。しかし相当にオンボロな外観で、1階は吹きさらしに近い現地人向けの食堂でした。カウンターにいるお爺さんをはじめ、息子たち一家で経営しているようです。子供が鍵を持って、うす暗く狭い階段を通って3階の部屋まで案内してくれました。

 安いだけあって部屋はさもありなんです。南京錠を開けると木製のベッドが置いてあり、天井には大きなプロペラ型の扇風機が取り付けられています。これに一畳に満たないシャワー兼トイレ室がありました。ところが驚いたのは、トイレのむき出しの水道管の上を小さなネズミが歩いています。さらに壁には、白っぽいヤモリが這っています。部屋に戻ってベッドに転がると、こんどは南京虫を3匹みつけました。蚊も飛んでいます。さすがに、これはえらいところに飛び込んでしまったワイと思いましたが、待てよ、これはわたしたちの子供時代と同じではないかと思い出され、なんだか急に懐かしくなってきました。これがインドの現実であるのなら全部経験してやろう、の気分です。

 わたしの子供時代、すなわち1950年代ごろは、住んでいた社宅街で毎年ネズミ捕り大会やハエ捕り大会が行われていました。すなわちネズミを捕まえてしっぽを持っていくと帳面や鉛筆をくれます。ハエはマッチ箱いっぱいが必要です。あちこちでネズミ捕りを仕掛け、ハエタタキを使って追っかけ回しています。さらに家のなかはDDTが撒かれて南京虫などの退治です。要するに不衛生な時代ですから、かような撲滅運動が行われていました。インドもこれからでしょう。

階下のわびしい食堂で、ブランチをとってまず腹ごしらえです。決して衛生的とはいえませんが、地元の人が食事をしています。店先では小さなホットケーキみたいなチャパーティーを焼いています。これを必要な枚数注文し、これにベジタリアン向けのサブジーといわれる野菜カレーをたのみます。チャパーティーをちぎってサブジーに浸けて食べるのです。非常に質素ですが、けっこう美味しく食べました。インドではベジタリアン料理かそうでないか希望を聞かれます。宗教的理由からのようで、街なかで食事する場合でも必ずどちらかを選ぶようになっています。隣のお兄ちゃんは、不浄の左手はいっさい使わず、右手だけで器用にチャパーティーをちぎって食べていました。

ブッダが悟りをひらいた地を行く

この地方一帯はブッダが歩いた地域ですので、そういう意味では全域が聖地でしょう。今回は悟りを開いたといわれるブッダ・ガヤーを訪ねます。いまは列車が去って閑散とした駅前でタクシー運転手を見つけだし、値段交渉です。ゴチャゴチャした、そしてデコボコ道路のガヤー市街をぬけ、郊外に出ます。よく手入れされた畑地が広大に広がっていますが、農耕に従事している人は思ったほど多く見かけません。その中を通る幹線道路は幅員も広く、舗装状態もほぼ良好でした。

ブッダ・ガヤーは、ブッダが悟りをひらいた場所にあるマハーボーディ寺院のまわりに開けた門前町です。40分ほどで寺院に着くと、早速ガイドやお土産店の呼びかけがはじまり、呼びこみ屋さんが近づいて離れようとしません。かれらを振り切ってすぐさま寺院に入ってみます。ここでは、母に頼まれた数珠を購入するのを忘れてはいけません。

マハーボーディ寺院そのものは高さ52mの搭状の石造建物で、紀元前3世紀にアショカ王が寺院を建立して以来、なんども建替え・改修が行われてきたとのことです。しかし2500年の歴史を感じさせるような荘厳な空気はそれほど感じませんし、日本や中国の木造寺院の様式とはまったく異なります。全く違った文化の仏教建築ですが、タイのそれとも異なる興味深いものでした。1階を入ったすぐに黄金の仏像が鎮座しています。ガラス張りの中に保護されていますが、驚くほど近くまで寄れます。さっそく寄進です。寺院の裏手に回りますと、ブッダがその樹の下で悟りをひらいたといわれる大きな菩提樹が茂っています。もちろん世代を重ねてきたのでしょうが、瞑想したとされる場所には黄金座がしつらえてありました。それに向かってお参りしたり、あるいは座禅を組んで瞑想している人達もいます。すぐ横では巡礼者たちが、40前とおぼしき僧侶から仏法を聞いています。日本語でないのでサッパリ分かりませんが、なかなかの修行僧とみました。寺院周辺の境内はそんなに広いものではありません。しかし蓮池や仏像群が配置され、それらが寺院と一体となって独特の雰囲気をかもし出しています。やはり仏教は、宗教戦争などを引き起こさない平和の宗教だと思います。時を超え、空間を越えてわたしたちの心に安心感をもたらす何かを持っているようです。このことは、わたしはお寺の孫息子なのに、もう少し仏教の勉強をしなければいけないなぁと改めて思い起こさせてくれました。

マハーボーディ寺院の近くには各国の仏教寺院が建立されています。もちろん日本寺もあって、各宗派が基金を出し合って建立したとのことです。日本寺はいかにも日本の仏寺らしい佇まいで、そのデザインは非常にシンプルなものです。ここでも深々とお参りしておきました。

マハーボーディ寺院と日本寺にお参りした後、ショボい工芸品店で数珠をUS$120で買いました。母の頼みでありましたし少しいいものをと思ったのですが、その造作のていどからしてすこし高かったかもしれません。数珠をあまり値切るのはイヤです。ここで作られ、ここで売られていることに重きをおきました。この店主の弟と称する男は始めからわたしに付きまとっていましたが、好人物で日本語を多少ですが話します。「近いうちに日本に行って商売をはじめる」といっていましたが、すでに日本語のホームページも開設しています。少しお人よしかもしれませんが、購入したのはかれら兄弟の実直さをかったのも事実です。さて肝心の数珠ですが、菩提樹の実を連ねて作ったものでいかにも素人芸風です。しかしこれがよい意味での素朴さをたたえています。数珠を購入後、再度マハーボーディ寺院を訪れて入魂しました。帰国後に、母はどう反応するか楽しみでしたが、数珠を見ると「ホホー」と言っていました。

ガヤーに戻ってひと休み

 再びガヤーの安宿に戻って来てひと休みです。シャワー(といっても水)を浴びてベッドに転がりました。上を見るとプロペラがユックリ回っており、結構涼しいものです。階下で夕食をとりましたが、付近には喫茶店のひとつもありません。ただ人だけはゾロゾロいます。部屋にこもっていても侘びしくなるので、夜行寝台に乗るまでまだ時間はあったのですが駅で過ごすことにしました。

まずビックリするのが駅での雑踏です。特にに夜から朝にかけては、改札がありませんので駅舎やホームまでヒトがたむろし寝たりしています。まっすぐに歩けません。よく見ると駅を住み家にしているようです。うす暗いプラットホームからオシッコしたりしています。待合室のトイレやシャワーを、自分の家のように使い、タオルを腰に巻いた姿で待合室を歩いています。はてはヒモをはって洗濯物を干しています。とてもかれらは旅行者には見えません。さらによく見ていますと、駅の施設のどこをだれが使うか、それぞれに縄張りがあるようです。たとえば、2階の待合室は一等乗客用でしたが、夜の11時過ぎにひとつだけ空いていた椅子にわたしが腰掛けていますと、トイレから出てきた老人(長者風?)が、自分の席に座るなよと目で合図しました。どうやらこの待合室を仕切っているヌシのようでした。さらにこの老人は、自分が寝ころぶ場所も決めているようでした。貧しいかれらは、それぞれの縄張りを尊重してひとつのコミュニティを形成しているようでした。

ヒッピーの聖地、コルカタ

安宿街、サダル・ストリートに直行

これから寝台列車でコルカタ(旧カルカッタ)に向かうのですが、前夜23:42発の予定が1時間半遅れでここガヤーに到着です。暗いこともあり、自分の車両を探すのに手間どり多少あわてます。インドの鉄道は車両間を移動できないため、指定の車両を見つけて直接のり込まなくてはいけません。1等車は乗車口に予約者の名前が張り出してありますが(走行中に剥がれているのもある)、列車編成は長く、その中から5分間の停車時間で探すのは大変です。22段寝台車に乗り込みました。わたしの予約は下段のはずでしたが、なにやらトドみたいに太ったおばさんが、わきに小さな子供をかかえて寝ています。もう一方の下段はその旦那さんでしょう。グッスリ寝込んでいます。しかも上段ベッドにはかれらの荷物がどっさり置いてあります。深夜でもあり起こすのも気が引けて、わたしは困って車掌さんを探しにいきました。物理的にいってそのおばさんは上段ベッドに登れそうにありません。それは譲るとして、上段ベッドの荷物を取り除いてもらわねばなりません。寝込みをおそわれて不愉快そうな顔がありありです。翌朝はやくコルカタに着く一つ前の駅で、かれらは手を取り合い、荷物を何回も運び出して降りていきました。このように夜行寝台の旅は、かっては日本もそうでしたが、なんとなく旅愁を感じさせるものがあります。

1時間15分遅れの8時半すぎに、コルカタの終着地ハウラー駅に到着しました。明け方から天気が悪く雨が降っていましたが、コルカタに近づくにつれ小降りになり問題ありません。プリペイドタクシーの列に並びましたが、天気が悪いためかなかなか順番がきません。1時間以上待って、乗り合いでやっと安宿街で有名なサダル・ストリートに向かいます。どういうわけか子供が4人乗っており、そのすき間はせまく窮屈です。サダル・ストリートは、お金がなく長逗留を決めこむヒッピーや、新しい世界観や価値観をもとめてインドをめざした人々に安宿を提供した街として有名です。コルカタ市の中心部に位置し、現在は地下鉄も開通し、バスターミナルにも近く交通の便に恵まれたところです。チョウロンギ通りからちょっと入ったところでタクシーを降り、ブラブラしながらホテルを探します。やはりオンボロ宿を探すのですが、両側にたくさんある中から門がまえは貧弱ですが名前のりっぱなホテル・ディプロマト(外交官)を選び出しました。部屋は木製のギシギシいうベッドと天井にはプロペラ扇風機、それに水シャワーと洋式トイレのバスルームです。窓がなく裸電球の明かりですが、なかなかの風情です。ここではネズミこそ見かけませんでしたが、南京虫は住みついていました。ベッドに寝転んで、回る天井プロペラ扇風機を見ながらうたた寝しましたが、歴代の投宿者の汗と匂いを十分に嗅ぐことができました。

ひと休みしてサダル・ストリートを散策してみました。思ったより衛生的で静かですし、街並みにも新しい建物がぽつぽつと見えます。やはり街並みは変わりつつあるのでしょうが、それでもインドらしい空気が支配しているようです。そこを長逗留していると思われるヒッピー族ないし芸術家のように見える欧米人のサンダル姿を多く見かけます。この近辺では比較的マシな食堂でブランチをとっている際にも、なじみ客と思われる欧米人がけっこう出入りしていました。いまでも西洋文明で育った多くの人々がこの街を訪れているようです。やはり当地コルカタには、現代精神文明に飽き足らない人にとって何か感じさせるものがあるのでしょう。

インドは物乞いが多いと聞いてきました。しかし今回の行程ではそんなに多く見かけません。たしかにどの街に行っても貧しい人々はすごい数いるようですが、物乞いを生業としている人はそんなに多くないようです。このサダル・ストリートでは少しの物乞いを見かけ、旅行者と見ると喜捨を要求してくるようです。わたしはこのような場合にそなえて小銭をつねに準備しておくようにしています。すこしでも豊かな人が、貧しい人に僅かでも施すことは必要なことでしょう。豊かな人は義務と思っているかもしれませんし、貧しい人は権利と思っているのかもしれません。このへんは日本人には分かりにくい微妙な感覚があるようです。しかしながら、わたしに限って言えば、日本では躊躇しがちなこのような行為も、インドでは素直にできるようです。このほかに“バクシーシ”というのがあります。これはちょっとしたサービスをして謝礼を得ようとするもので、たとえ押し売り的であっても代価に相当するともいえます。いずれにしても今回の旅行では貧しい街なかを訪れましたが、思ったほど物乞いやバクシーシをせまる子供たちが少なかったのは、人々の生活が多少なりとも改善されてきているのかもしれません。