第6章 エヴェレスト街道トレッキングの旅(4) | 還ってきたバックパッカー

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 本稿は、定年前後の閉塞感にみまわれた著者が、これからの人生を切り開こうと試みた紀行エッセイ集であります。ドイツのロマンティック街道をバイクで、キリマンジャロに登り、インド北方をチョット放浪し、エヴェレストに至る高地の街道をトレッキングしてみました。

シェルパのふるさと、ナムチェ・バザール(第2,3日目)

パクディンからの急坂

720分にパクディンを出て、9時にチュマワでひと休みです。ここのレストランはガイド氏のお姉さんの嫁ぎ先であり、そのお母さんも同居しています。近くでは、石工が石垣を積んで建築中でした。資材は石と木材が主で、ときにはヘリコプターでコンクリート材料を運ぶこともあるそうです。一方、おおくの貧しい家屋が点在して見えます。

途中、標高6,618mの名峰タムセルクが見えはじめました。子供や幼児が遊んでいます。モンジョを通ってジョルサレのサガルマータ国立公園事務所で入園の手続きです。1020分をさしています。入山許可証は旅行社を通じてあらかじめ入手しておきました。早めの昼食をとります。これから先ナムチェ・バザールまでは急坂が続き、レストランや売店などはありません。ゾプキョとも行き交いますが、なにやら意思のありそうな目でこちらをチラリとみていきます。風がでてきて、また上り勾配で汗をかき、セーターを脱いだり着たりで大いそがしです。勾配のきつい尾根ぞいに標高差600mを上っていくのですが、今まではダマシダマシであった膝がもつか、これからの様子で占うことにします。

午後245分、ナムチェ・バザールの入口の“カンニ”といわれる仏門塔に到着しました。これは悪霊が村に入るのを防いでいます。あえぎながら上りましたが、意外に早く着きました。前回はもっときつかった覚えがありますが、ひざも大丈夫のようです。今夜投宿するロッジは、わたしたちのガイド氏夫妻の経営です。

ロッジと食事

たとえばナムチェ・バザールのロッジの宿泊費は、一泊200ルピーと決められているようです。日本円で330円ほどでしょうか。むしろ食事のほうが高くなります。食材のほとんどが、ポーターによって遠方から運ばれてくるのも一因でしょう。したがって奥地に行くほど値段が高くなります。ペットボトル500mlも、ナムチェバ・ザールでは100ルピーでしたが、あす行くテンボチェでは240ルピーもしました。これは日本人にとってもそうとうに高額です。もうひとつの特徴として、ロッジにはかならずレストランが併設されていますが、宿泊者はそのレストランで食事をとらなければなりません。違反すると3倍の罰金というはなしも聞きました。真偽はともかく、競争が激しくなってきているロッジ業界の秩序を保つルールないし知恵なのかもしれません。

今回のトレッキングでは比較的上級のロッジに泊まりました。しかし奥地に行くにしたがって、上級といえどもその設備や建てつけが悪くなってくるのは仕方ありません。夜中にすき間からつめたい風がビューっと入ってきます。前回きたときは中級ロッジでしたからすき間も多く、夜の冷気がビュービューと入ってきて思わず身ぶるいしました。寒いものですから、昼の服装のままマジョルカ人形よろしくふたつの寝袋を重ねてもぐりこみます。それでも初日は寒かったため、使い捨てカイロを胴体と足先に入れたものです。翌日のナムチェ・バザールでは、ガイド兼ロッジ経営者が昔なつかしいゴム製の湯たんぽを貸してくれました。これが威力ばつぐんで、以降これを借りっぱなしにして毎晩重宝しました。

食事は日本人に合うものがおおいと感じました。焼きそば、焼き飯、ラーメン、餃子にそっくりのものまであります。また具がたっぷりのスープや、値段は高いのですがヤクのステーキもありました。しかしこれは乾燥肉を温めたような感じでまったく美味しくありませんでした。現地の人が食べる、ご飯や豆のスープにおかずをつけた“ダルバート”といわれるものなどがあります。これは家庭料理的で、味や食材は千差万別と聞きました。レストランで頼むと作ってくれました。というより、自分たちのために作ったものを分けてくれました。以上は大きくいえばチベット料理に含まれるのかもしれませんが、外見や味付けもふくめて日本人にはなじみ易い感じがします。それから水分の補給です。体力維持、高山病予防からも水分は多めにとる必要があります。ペットボトルを欠かさないようにしますが、ひと休みに立ち寄るレストランでは、ホットレモンやチャーを頻繁に飲みます。チャーとは砂糖入りのミルクティーです。なお同じ水分でも、ビールなどアルコール類は飲みません。ロッジのレストランには置いてありますが、高山病にはよくないとのことです。

 仕事をバリバリやる人は、中高年でも食べる量がちがいます。若い人もそうです。これはエネルギー消費が多いからでしょう。体力が必要条件とサラリーマン時代に悟りました。したがってわたしも若いときはたくさん食べたものですが、60歳を越えるころから急速にその量を減らしました。心なしか体力も急速に低下したようです。トレッキングは、高地ではより体力が必要です。すなわち食べる力がないと、途中でバテてしまいます。わたしもできるだけたくさん食べようとするのですが、今回のトレッキングでは不眠などもあって小食家になってしまいました。体調を整えるのに失敗したといえます。同行の加納さんはビッグ・イーターです。驚くほどの量を驚くほどのスピードで食べます。したがって毎日元気一杯に、わたしの数倍の速度でそこらじゅうを歩きまわっていました。ちなみにシェルパ族もそうです。まさしく“根は食うにあり”です。

ナムチェ・バザールのにぎやかな一夜

わたしたちのガイド氏は、大人しいのですが芯は強そうです。いま45歳ですが、キッチンボーイを14年やってガイドへ昇格したそうです。ガイドになるには、知識に加えて経験、5年更新の資格が必要だそうです。肉体がおとろえる55歳ぐらいがこの仕事の限界ともいっていました。気の毒なことにかれの父親は、40年ほど前に日本の登山隊をガイドしていて遭難死したそうです。自分は物ごころつかないときです。かれもガイドになってエヴェレストにも2回行ったそうですが、天候不順で直下のサウスコルで撤退しました。それ以来、母親が反対するのでエヴェレストには行かないことにしたといっていました。子供は4人で、長男、長女はカトマンズで勉強中であり、次男はロッジを手伝いながら間もなく高等学校に進学です。レストランを手伝いながら勉強していました。ひじょうに純朴な少年で、他の子供たちもそうですが、とても幼くみえます。さらに、親を亡くした子供を引き取って育てています。このようなセーフティネットがシェルパ族の社会でできているようで感銘を受けました。不在がちの夫に代わって、事実上は女将さんがロッジの経営や生活をきりもりしています。家族全員が助け合いながら生活している姿は、日本ではもう見ることは少なくなったようです。

ロッジのレストランは、今夜は日本人だらけです。10人のご婦人に2人の男性の一行が食事をしています。かれらは通常の旅には飽きた人たちで、人のあまり行かないようなところを選んで旅している一行のようです。みなさん60歳を越えている冒険旅行大好き人間とみました。食事もペロリとたいらげ、中々たくましいご婦人方です。これに正体不明の写真愛好家の怪人おじさんとわたしたちが入ってしばし談笑しました。この他にもふたりの母娘が泊まっているとのこと。世界中どこに行っても日本人は見かけます。何かを求めて放浪している人、見聞を広めにきた人などなど。そのほとんどがマナーを守って旅しているようです。日本人の海外旅行も、多様化し成熟してきたのかもしれません。

どこのレストランでもそうですが、ストーブは夕方45時ごろに火が入ります。それまでわたしたちは寒くてたまりません。燃料は薪が主体ですが、これにヤクやゾプキョのふん、油などが補助的に使われます。一般に2時間程度でもえつき、薪の追加はありませんので、お客はその間に食事をすまさねば寒いことになります。資源節約の精神が生きています。

また温水シャワー室が別にありましたが、部屋間の移動で湯冷めすると大変なので今日もなしです。けっきょく成田を発ってトレッキングをしてカトマンズに戻るまでの14日間、シャワー、風呂なしですごしました。さすがに自分自身が臭く感じられたものです。ここで怪人おじさんが、「アカでは人は死なない」と力説してくれました。なお髭も剃りませんでしたが、あまりに貧相になってきましたので帰路も宿泊したこのロッジで剃り落としてサッパリしました。また、シェルパ族が風呂に入らないことが話題になりましたが、怪人おじさんが、「かれらは数日に一度は体をきれいに拭いている」と、また「手足、顔のアカは紫外線防止に役立っている」ともいっていました。

村を散策してみます。といっても高低差が厳しいので息が切れます。欧米人もチラホラ見かけますが、混んでるほどではありません。インターネットカフェでわたしへのメールを点検します。ついでに外貨交換し、電池やキャメルバッグを購入します。何でもできますし、何でもあります。

やることもないので早めに寝ますが、水分を多くとっているのでなんどもトイレに起きてまいりました。ライナーから出たり入ったり、寝袋、靴の脱ぎ履きもあり、寒いこともあって眠気も吹っ飛んでしまうのです。ただでさえ寝つきの悪いこともあって、旅のあいだ不眠に悩まされたのは誤算でした。11日は朝から軽い頭痛を感じましたが、キリマンジャロでもあったことですが、高山病症状の一種だと思われます。ひと晩寝ると良くなることを期待します。

高度順応でシャンボチェの丘、そしてクムジュンへ

ナムチェ・バザールの標高は3,440mです。といってもかなり急な斜面に村が張りついていますので、上部と下部とでは200m近くの高低差がありそうです。ここで高度順応を図るためもう一泊します。その日は高いところに上って低いところで寝るのが高度順応の基本ですので、シャンボチェの丘やクムジュン村を日帰りで訪ねます。

朝から頭痛はほとんどしません。すずめ、カウベル、犬、子供の声で起床しました。湯たんぽはまだ温かく、また気温も意外と温かく感じました。9時にロッジを出てシャンボチェ空港やパノラマホテルを経由して、11時ごろ標高3,800mのエヴェレストビュー・ホテルに着きました。高低差は360mほどですがきびしい坂道です。高所では、とくに朝の体の動かし始めがきついものです。ヤクやゾプキョがとんでもない急斜面で枯れたようにみえる草を食んでいます。やっとこさホテルに着き、テラスでひと休みです。休憩しているトレッカーはチラホラと見かけますが、宿泊客は値段が高いこともあるのか少なそうです。建設時には、景観保持をはじめ環境問題で物議をかもしたようですが、ホテル自体は木立ちで巧妙に隠され目立たちません。この洋風の近代的ホテルは日本人の出資と経営によるもので、ホテル建設と先ほどとおった空港はセットで開発されたのですが、開港とどうじに墜落事故をおこしそのまま空港は閉鎖されてしまいました。数ヵ月先には再開して、カトマンズからお客を運ぶ予定だそうです。何といってもこのホテルや一帯の丘の“ウリ”は、8,000m峰のエヴェレストやローツェ、外観上から“母の首飾り”といわれる標高6,814mのアマダブラム、ナムチェ・バザールの村を見守るタムセルクなどが一望に見渡せることでしょう。その景観に圧倒されますが、空気を吸い込むと心や命が洗われたような感じがします。ただし今日はすこし霞んでおり、これは谷ぞいの焼畑の煙が風とともに吹き上がってきているのが原因とガイド氏がいいました。遠くには、明日宿泊予定のひとが常時住む最奥地であり、またチベット仏教のお寺であるゴンパで有名なタンボチェの村が見えています。

これからクムジュンへ周りますが、この村を護る標高5,761mのクンビーラもくっきりと見えています。水の神“の意味をもっていますが、豊富な地下水を供給し、農地や村人の生活を支えているとのことです。ネパールのほとんどの山々は登られているそうですが、この山は信仰の対象のため登山禁止とのことでした。クムジュンに入るとどこからか犬が出てきて、散歩している途中なのかわたしたちを案内してくれました。静かな村です。多くの家屋とロッジ群は、ナムチェ・バザールより多そうです。ここも交通の要衝であり、地形的に平坦地が多く生活しやすそうですが、なぜナムチェ・バザールのほうが発展したよくわかりません。

村内には、エヴェレスト初登頂者エドモンド・ヒラリーが建てた、通称ヒラリースクールがあります。あまり知られていませんが、かれの偉いところは、世界中から寄金を集めて貧しい地元の発展に寄与してきたことにあります。どこでもそうですが、子供たちは希望の星です。教育に力を注いできたかれが、この地方で深い尊敬をうけていることは言うまでもありません。起伏にとんだみちを、2時間ほどかかるんではないかと思いますが、ナムチェ・バザールからも多くの子供たちが通ってきているそうです。みんなの目はキラキラと輝いています。なお日本からの寄付校舎もあって、なにか誇らしいまた清々しい気持ちを持ちました。最近は日本人も、ごく自然にボランティア活動にいそしんだり寄付したりなど、社会貢献する人がおおくなってきました。わたしもその気持ちが理解できる年齢になってきたようです。

ナムチェ・バザールへの帰途、国営のヤク牧場がありました。といってもその辺に放牧してあるのですが、ヤクとゾプキョはこの地方の人びとの生活を支えています。荷物の運搬用に、農耕用に、そして食料になります。そしてかれらの“ふん”は燃料にもなります。生活に役立つだけでなく、かれらから教えられることも多くあります。話題の多いヤクとゾプキョについては、あとでも述べる機会があります。

午後3時すぎにナムチェ・バザールに帰り着きました。その前に立ち寄った小さなシェルパ文化博物館では、シェルパ族の古い生活様式や道具などが展示されています。今になお伝統が受け継がれてきているのに気づきます。また、エヴェレスト登頂者の写真などがあります。新聞切り抜きの写真の質は悪いのですが、植村直巳氏、田部井淳子氏、三浦雄一郎氏らの名前も見えますし、多くの登山隊をサポートした数多くのシェルパがほこりを持った顔でかざられていました。

部屋で休むと昼寝してしまうので散策にでかけることにしました。昨日、来るときにとおったストーパの横で、農婦さんたちが耕作中でした。人力でたいへんそうです。もちろん前に述べましたように、ゾプキョなども使います。明日からの道中のあちこちで農地は見かけましたが、地形上から一区画の面積はせまく、それぞれ石垣で隔てられています。石垣は農耕作業にじゃまで、また設置するのもたいへんだと思われますが、敷地境界を示すだけでなくゾプキョなどが進入して畑を荒らすのを防ぐためもあるとのことです。さらに休耕中は、ゾプキョを囲い込んでおくのにも使われていました。作物は、土地がやせていることもあって小ぶりのジャガイモが多いようでした。日本からの農業開拓の支援事業もあるようで、“りんご”の試験栽培も試みられています。いずれにしても農業だけでは経済が成り立ちません。ネパール国の収入の4割は観光業だそうですが、この地方の人びとも多くが世界中からのトレッカーに依存した観光業関連の仕事についているようです。ただし観光業は治安や経済不況の影響を受けやすいので、そのつどこの地方の人びとの生活を脅かしていると聞きました。世界不況の影響がこんなところにも現れています。