第6章 エヴェレスト街道トレッキングの旅(2) | 還ってきたバックパッカー

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 本稿は、定年前後の閉塞感にみまわれた著者が、これからの人生を切り開こうと試みた紀行エッセイ集であります。ドイツのロマンティック街道をバイクで、キリマンジャロに登り、インド北方をチョット放浪し、エヴェレストに至る高地の街道をトレッキングしてみました。

エヴェレスト街道への道

それは思いつきから始まった

2005年の暮れから年始にかけて、航空会社のマイルエージがだいぶ貯まってきたのでどこかに行くことを考えていました。ロマンティック街道バイクの旅を経験したこともあって、すこしワイルドな旅をしたいと思います。文化遺産を中心とした旅あるいは自然遺産の旅かですが、後者のほうが何やら心を震わせるようなような感じがしました。獲得したマイルエージで渡航可能な国のリストの中に“ネパール”の文字が見えました。わたしにとってネパールはそれまでは遠くて遠い国でしたが、急に興味が湧いてきてさっそく観光ガイドブックやインターネットで情報収集です。やはり思いつきのたぐいです。

とりあえず航空券を予約しなければなりませんが、すでにマイルエージが利用できる航空便は満席でした。しかしもう行きたい気持ちが満々ですので、格安チケットを予約します。カトマンズに着いて何をするかは、それから考えることにします。観光ガイドブックなどによりますと、ネパールは魅力がいっぱいのようです。その中のひとつにヒマラヤトレッキングがありました。何だかこれもおもしろそうです。前にも述べましたように、わたしは山歩きの経験は子供時代の遠足をのぞいてありませんし、また好きでもありません。とうぜんながら道具はいっさい持っていません。しかしガイドやポーターを同行すれば、そして道具をレンタルすれば、わたしみたいな素人でも行けそうなことが分かってきました。しかしこの時点ではトレッキングは選択肢の一つであり、行程計画のなかにまだシッカリとは組みこんではいません。

エヴェレスト街道とは

 ネパールにはトレッキングのルートが数多くあります。日帰りコースから1ヶ月以上要するコースもあります。このように定番のコースメニューもありますし、自分で自由に組み立てるトレッカーも多いようです。人気のあるコースでは随所にロッジがありますし、キャンピング道具を持ち込んでテント宿泊することもできます。どれを選択するのかが問題となりますが、わたしたち日本人にとって“エヴェレスト”の響きには特別のものがあります。行くならエヴェレスト街道かなぁとふと思いました。

 エヴェレスト街道とは、標高8,848mのエヴェレストを近くに見に行く、あるいは登りに行く人がアクセスに利用する道路につけられた愛称です。カトマンズ東方の、バスで7時間にある村、ジリからスタートし、ルクラ、ナムチェ・バザールをとおって標高5,545mのカラ・パタールの丘や5,360mのゴーキョ・ピークあるいは5,364mのエヴェレスト・ベースキャンプにいたるルートで、いずれも片道2週間ほど要します。もちろん急坂もおおく、またデコボコの悪路のため車のたぐいはまったく使えません。自分の脚だけがたよりです。しかし一般のトレッカーはそんなに長く休みが取れませんので、カトマンズからルクラまでフラフラと飛ぶチッチャなプロペラ機を利用し、そこからスタートするのが普通のようです。ルクラから、エヴェレスト山を10km先に展望できるカラ・パタールの丘までは60kmほどでしょうか。

 なおエヴェレスト山は、ネパールではサガルマータ、また中国ではチョモランマと呼ばれています。

いざアマチュアトレッカーの初陣

 ネパール内の行程を決めずホテルも決めず、成田-バンコック-カトマンズ間の往復航空券のみをもって出発です。航空券は往復フィックスですから、往復に要する日数を除いた8日間はカトマンズに着いて決めることにしました。エヴェレスト街道トレッキングを短期間でも経験することを第一目的に考えていましたが、この時点ではまだなんの具体的手配や準備はしていません。行き当たりバッタリで決めるのですが、ひとり旅ですから気楽なものです。トレッキングシーズンの2006226日午後1時ごろに、カトマンズのトリブヴァン国際空港に到着しました。当時は政治勢力のマオイストがネパール各地を占拠する内戦状態でした。しかし外国人や観光客には危害を加えないといわれていましたし、これから向かおうとするエヴェレスト街道ぞいは、外務省危険情報を見ても大丈夫そうでしたのでとりあえず行ってみることにしました。

 ビザの発給と入国審査を受けてロビーに出ました。まず現地通貨に交換しておかないと市内へのバスにも乗れません。できればこのまま国内便に乗り換えてルクラまで行きたいものとキョロキョロしながら出口方向を見ると、わたしみたいなフリーなお客を探しているエージェントがうるさく声をかけてきます。その中に、各社の旅行代理店が案内ブースを開いているのが目にとまりました。ここでルクラ便を予約してやろうと近づきます。たちまち3人の営業マン(?)が、いいカモがきたと思ったらしく、わたしをとり囲んで熱心にまくしたてはじめます。「ルクラ便は天候が悪くなったので今日はおしまいである。明日からのトレッキングの手配を、市内のわたしたちのオフィスでやりましょう」といいます。みんな正直そうな顔をしていますし、空港に営業所を構えている会社なら大丈夫だろうと思ってついていくことにしました。すごい喧騒と雑踏の裏道をとおり、そのなかでも一番ゴチャゴチャしたタメル地区にある小さな旅行会社に案内されました。チョット危ない感じで不安になります。

 日本やわたしの出身地である福岡にも行ったことのあるという社長サンが出てきて、さっそく行程や値段の交渉開始です。ジーパン、スニーカー、何枚かのインナーシャツぐらいしか準備していないわたしの服装を見て、またトレッキングに振り向けれる日数を数えて、さらにわたしが高所や山歩きにズブの素人であることを考慮して行程を組んでくれました。ほんのサワリのエヴェレスト街道トレッキングの旅です。すなわち明朝早くに空路でルクラにとび、ナムチェ・バザールとその周辺まで行ってもどってくるガイド兼ポーター付きの55日の旅です。手書きですが、以上の旅行条件にパスポートや旅行保険証のコピーをアタッチして契約書を取り交わします。ついでに今晩のホテルも探してもらいました。

いつかもう一度

この短期間ながらのエヴェレスト街道トレッキングの旅は、わたしに強烈な印象を残してくれました。この経験が、後日のキリマンジャロ登山に、さらに今回の2回目のエヴェレスト街道トレッキングの旅につながっていきます。ネパールを訪れる観光客のうち40%はリピーターといわれます。それだけ人びとを惹きつける何かをもっているのでしょう。わたしもリピーターとして帰ってきたのです。

前回の旅では標高2,800mのルクラから出発し、いったん2,600mまで下がってナムチェ・バザールの先のシャンボチェの丘に建つエヴェレストビュー・ホテルに立ち寄り、標高3,800mに達しました。ネパールのトレッキングルートはいずれもそうですが、もともとはその地方一帯に住む人びとの生活道路であり交易路です。そしてトレッキングや登山のために、延長されたり新たに開発された道が付加されたものです。エヴェレスト街道もそうです。ポーターたちは重い生活用品を背負い、ヤクやゾプキョ(ヤクと牛の混血種)とともに行き交っています。その道を世界中からきたトレッカーや登山隊がお借りするのです。付近は6~8,000m級の山々がそびえたち、シャンボチェの丘からは名峰タムセルクはすぐそこに見えます。遠く30km先には標高8,848mの世界最高峰エヴェレストや第4位の8,516mローツェがくっきりと望めて、静寂ななかに荘厳な雰囲気が感じられます。たしかに、“神々の座”といわれるだけあってヒトの世界を超越した存在感があります。わたしは出発点のルクラから、ドォーダコシ(川)の深い峡谷ぞいにとおるエヴェレスト街道、そこに点在する民家、そのズーッと奥にそびえ立つ雪氷をいただいた高峰の第一景を見て、今までにない不思議な感動と厳かさにうたれて体がしびれたのを覚えています。

住んでいるのはチベット系のシェルパ族です。わたしたちから見ると電気も水も不十分な質素な生活ですが、かれらは厳しい自然にいだかれ、チベット系の文化や宗教をたいせつにする誇り高い人たちです。誠実そうな澄んだまなざしが印象的でした。

技術社会の便利な生活とはかけ離れたなかから得られるトレッキングの精神的充実感と肉体的疲労感は、自然のなかに生きるヒトの原点を感じさせてくれるものでした。詳細は次においおい述べていきたいと思いますが、いつの日かもう一度おとずれることを願っていました。

めぐってきたチャンス

 200623月にエヴェレスト街道のホンの入口をトレッキングして以来、衰えつつある体力を意識しつつ、その間、キリマンジャロに行ったり、その後にひざを痛めたりしました。そして今回のチャンスまで3年の月日が経ってしまいました。こんども空路でルクラに入り、前回おとずれたナムチェ・バザールまでは同じ行程ですが、その最奥地のカラ・パタールの丘、標高5,545mをめざします。エヴェレストから西方ほぼ10km地点で、1212日の行程計画を2008年の11月ごろからひそかに立てはじめました。

 ここで現在の職場の同僚、加納さんが参加したいといってきました。かれはわたしより30歳以上も若く、わたしと近くをバイクで走ったりするスポーツマンです。道中、体調をこわしたり事故でもおきると、ふたり旅のほうがずっと心強くなります。かれの婚約者も土地カンのあるわたしと行くことで、もちろんわたしの家内も同行者がいることで安心していました。ところでわたしの家内は、わたしが60歳をこえて危なっかしいアマチュアの旅をはじめたので、なかばあきれるとともに、そのうちどこかで行き倒れるのではないかと心配しています。今回の旅も最初は反対のようでしたが、最後はあきらめて「海外旅行保険にシッカリ入っといてね」といっていました。

 ともかく、今回の機会を逃すわけにはいきません。こんどは前もって現地の旅行会社とeメールで相談しながら周到に行程計画をつめるとともに、持参あるいは現地でレンタルする装備品を確認します。標高5mをこえる高地に行くことから、気温は-10℃ぐらいに下がることも想定しておかねばなりません。大きなものは、寝袋、レインスーツ、ダウンジャケットを借りることにします。またトレッキングシーズンなので、ちゃんとしたガイドやポーターを手配しておく必要があります。わたしはシェルパ族のファンなので、それも特別に要望しておきました。さらに宿泊するロッジも確保しておかねばと思いましたが、行き当たりバッタリにガイドの判断で宿泊することになっていました。メールなどを利用した予約システムは不備だし、第一予定どおりに歩けるかどうかも分かりません。

 いよいよ体づくりに入ります。キリマンジャロ行きでも利用した近所の神社の階段を昇り降りしたり、ジョギングで体調を整えます。冬は体重が落ちにくいので、短時間ながらハードに毎日のようにトレーニングします。チョットやりすぎるとどこか痛んだり、風邪をひきます。年をとるにしたがい、調整が困難になるのがわかります。それでも体重を61kgにしぼって何とか出発できました。

ふたたびエヴェレスト街道に立つ(第1日目)

出発前のバタバタ

またまた体調を整えるのに失敗です。キリマンジャロに行くときもそうでしたし、インドでもそうでした。ロマンティック街道バイクの旅のさいには、出発1日目の夕方に、風邪ぎみにくわえて軽い腰痛に見舞われて大いにあわてたものです。原因はわかっています。すなわち体力をつけるための事前トレーニングのやりすぎ症候群です。疲労がたまってくることからくる風邪です。悪いクセで、できるだけ運動しないと気がすみません。ほどほどがよいのですが。すぐに治るだろうとたかをくくっていましたが、成田空港に着くとなにやら頭痛、寒気そして熱っぽくなってきました。せっかくの旅立ちの高揚した気分が萎えてしまいます。あわてて総合感冒薬や頭痛・解熱剤をのみます。機内では症状は軽減しましたが、薬でおさえているせいか何となく違和感があります。用心して機内ではアルコール抜きにしました。これからバンコックで一泊のトランジットをしますが、あまり歩き回らないようにしたいと思います。が、栄養はつけねばなりませんので、タイスキをたらふく食べました。

 カトマンズに到着しますと、空港に旅行社からの迎えがきていました。サービスの一環です。今回は、わたしはけっして若くないので、案内や安全サービスも充実した大きな旅行社に依頼しました。とうぜん緊急時の安心感は向上しますが、費用も高めになるのは仕方ありません。さっそく彼らのオフィスをおとずれ、日程計画と契約内容の確認、さらにトレッキングのレンタル用品の受けとりです。ところが契約書らしきものがありません。口頭での説明と、注意書きやガイドやポーターへのチップの相場などが書かれたメモのみです。前回きた際には、小さい会社ながら契約書らしきものがあったので、これには不安になりました。途中で置いていかれたのでは命にかかわりますので、なんども確認です。そして残金を支払いました。結果的には口頭によるあるいは事前のメールによる契約事項をキチンと履行してくれたのですが、現地の慣習に不案内な者にとっては不安なものです。   

 あすは早朝の出発ですが、日本料理屋さんで出陣式をしました。カトマンズのタメル地区は、わたしの好きな日本料理屋が多くて助かります。わたしは何でも食べますが、トレッキング中は日本料理はしばらくガマンです。早々にホテルに戻りましたが、気持ちが高ぶってなかなか寝つけません。

カトマンズから空路ルクラへ

ルクラ空港は、標高2,800mの山腹の一部をけずりとって建設されています。何も知ら

ずにこの空港を最初に見たときは「ギョッ」としました。なんと滑走路への進入部は断崖絶壁、終端部は岩壁、しかも滑走路は3400mぐらいしかありません。それに加えて、飛行機の加速・減速を高めるように滑走路にかなりの勾配がついています。したがって谷側からしか離着陸できません。今でこそ舗装してありますが、数年前までは粉じんを巻きあげながら滑走していたようです。わたしは土木屋さんですが、こんなあぶない飛行場は見たことも聞いたこともありません。案の定、事故が多いようです。半年前に大事故があったばかりで、滑走路先端の岸壁に激突し搭乗者全員が亡くなったそうです。風向きや気流により運休することも多く、そのつどトレッカーが空港に滞留して混雑するようです。こんどの行程中、もっとも危険なのはルクラ空港の離着陸といっていいかもしれません。

5時半にカトマンズのホテルを出て6時半の飛行機に乗ります。時間表は有ってないよ

うなもので、気流、天候の安定した早朝にピストン輸送(1520人乗りの双発プロペラ機)するのです。ルクラ空港での着陸にはキモを冷やしました。“ゴッツーン”とすごい衝撃の着地です。同乗者も驚いたようで、複雑な苦笑いをしています。ともかくも行程上もっとも危険な箇所をクリアしました。すでに手配してあるわたしたちのガイド氏と2人のポーター君が出むかえてくれました。いずれもこの一帯に住むシェルパ族です。まだ陽があたらないこともあって、寒くてビックリです。レストランで小休止している間に、8時過ぎから日ざしがとどきはじめました。

手袋、スティック、水筒などを買い込みます。わたしは山歩きの装備はほとんど持っていません。趣味でもないし今後つづける年令でもないことから、必要なものはありあわせでまかなうか、借りればよいと思っています。それに山岳用品は高価で、最新式の完全装備を購入するとなるともったいない気がします。これらの用具で頭の先からつま先までキメこんで、まるでサイボーグのようになるのも嫌です。話は少しそれますが、米国ボストン市内の“ザ・カントリークラブ”でゴルフを楽しんだことがあります。ここはUSオープンも数度開催された超名門クラブです。もちろん会員の同伴がないとプレーできません。付き合ってくれた会員のジョン・ウェイン氏は(本名です)、その辺の豪華な家のひとつから、どう見てもゴルフウェアではない、いままで日曜大工よろしくやっていた一見みすぼらしい出で立ちと古そうなゴルフ道具とともに現れ、あまり上手ではありませんが紳士的にプレーして、また日曜大工をやるといって帰っていきました。これがごく自然なのです。感服しました。それ以来、道具や服装にこらない趣味のあり方はこうあるべきだと思い込んでいることが、わたしの貧弱なトレッキング装備の理由にたしかにあります。