還ってきたバックパッカー

還ってきたバックパッカー

 本稿は、定年前後の閉塞感にみまわれた著者が、これからの人生を切り開こうと試みた紀行エッセイ集であります。ドイツのロマンティック街道をバイクで、キリマンジャロに登り、インド北方をチョット放浪し、エヴェレストに至る高地の街道をトレッキングしてみました。

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私は九州男児の末裔で、地方の田舎まちの出身だ。そして大企業の技術者から大学教授へ転身した。一方、孫は都会っ子でIT漬けの毎日だ。何を言っているか分からんし、昔の子供文化の香りがまるでない。消えそうで、イジメなぞ聞くとまったく見ちゃおれん。本来の子供気質を知ってほしい。

そこでおじいちゃんは、息子夫婦に代わって孫へ手紙を書いた。遊び呆けながら子供らしく成長した記憶だ。

あるヒトがクラウド出版をすすめる。しかしこんな中途半端な本が売れるものだろうか、関心をひくキーワードは何だろう?

ご意見等をいただければ有り難く思います。

ニックネーム TREKKER

最後の行進、ルクラ帰着(第11日目、最終日)

ガイドとポーター

7時半にロッジを出ましたが、昨夜の雪は止んで晴れています。山々の、屋根屋根の銀世界がまぶしく反射しています。往きと反対に、パクディンまで下りの勾配が続きます。最後の1日になりました。ここでわたしたちのトレッキングをサポートしてくれたガイドとポーターについて話しておきましょう。

最初に訪問した際には、カトマンズに着いて旅行社を探しました。というか押しかけられました。さっそく値段などを交渉し、明日からのトレッキングの準備です。ルクラなど現地でフリーのガイドやポーターを直接さがす方法もありますが、信頼がおけるかれらに出会えるとは限りません。食事代や宿泊費もつど自分で直接支払っていきますから、費用はいくらか安くなるでしょう。しかしその分、手間がたいへんです。そこで今回も、長期になること、奥地まで行くこと、わたしの体力が落ちてきていること、もちろんほとんど経験がないこと、ふたり旅であることなどを考慮して、数ヶ月前からeメールによりカトマンズの複数の旅行社と慎重に交渉しました。そして総価契約で比較的高いのですが、これは安心料として、シェルパ族やエヴェレスト方面にも強い大きな1社を選びました。絶対の条件として、ガイドはこの地方の民族、シェルパを指定しておきました。わたしたち日本人によく似ていますし、第一にこの地方の住民でいろんなことをよく知っているからです。ただトレッキングするだけでなく、生活や文化、宗教なども知りたかったのです。

“シェルパ”とは民族名ですが、往々にして高山で登山隊をサポートする人びとの意味で使われます。シェルパ族が欧米からの登山隊をサポートして、非常に優秀な能力を示したことからのようです。今ではシェルパ族のガイドやポーターは、名刺の名前の後に自分がシェルパ族であることを示すために“Sherpa”をつけて誇りにしているようです。トレッカーや登山隊をサポートするチームは、通常ガイド、ポーター、クッカー(料理人)、キッチンボーイなどから編成されますが、その長を、すなわちリーダーを“サダール”といいます。かれはガイドするだけでなく、トレッカーやポーターなど一団を適切に管理して安全な道中をはかります。そのガイドをやるには資格が必要とのことで、各種の知識と経験が要求され、5年ごとに資格更新しなければならないとのことでした。わたしたちのガイド兼サダールは45歳の経験豊富な好人物でした。繰り返しになりますが、「若いときに2回エヴェレスト登山隊に同行したが、天候に恵まれず不成功だった」といっていました。なんでも父君が、40年ほど前に日本のエヴェレスト登山隊に同行していて遭難死したとかで、母親が自分のエヴェレスト行きを望んでいないのでそれ以来挑戦していないとのことでした。合掌。ともあれガイドの仕事はたいへんです。道案内はとうぜんながら、トレッカーの実力や高地順応力、また健康状態や疲労ぐあいを見きわめ、行程やルートを見直さなければなりません。わたしたちは、ガイドにとってはクライアントです。けがを予防したり、命を守らなければなりません。もちろんかれはプロのガイドですから、わたしたちはクライアントといってもかれの指示や命令を守らなければなりません。この辺は、企業における組織長の指示にしたがうのと同じです。キリマンジャロ登山でもそうでしたが、今回のトレッキングでもガイド、ポーターはわたしたちとともにチームを組んで行動します。わたしたちの社会、会社でもそうでしょう。よい仕事に恵まれるか、よい上司あるいは同僚に恵まれるかは運の要素も大きいでしょう。いずれにしても暗君に当たると悲劇です。部下が上司を名君に育てることもありますが、一般にはむずかしいことです。要は、かれらにはリーダーシップが必要で、わたしたちのサダールは、いくつかの小さな不満はあったにせよ十分にその役割りを果たしていました。

つぎにポーターですが、これほど過酷な職業が世界の他にあるでしょうか。わたしは戦前の炭鉱夫ぐらいしか思い浮かびません。かれらはルクラ南方の貧しい地方出身者が多いそうです。1617才から働きはじめ、その過酷さがゆえに50才ぐらいが限度とのことでした。ポーターにもいくつか種類があるようで、まず交易商人としてです。すなわち商品を背負ってバザールにビジネスに行きます。たとえばナムチェ・バザールでは毎週土曜日にバザールが開かれますが、5,000m以上の峠をこえてチベットから、また南はインドから商品を運んできていたそうです。また単に荷物を送り届けるポーターもいます。そして観光業、とくにトレッカーや登山隊の荷物を運ぶ人たちです。わたしたちはこのトレッキングで、2332才の2人のポーターのサポートを受けました。

何といってもポーターの仕事を過酷ならしめているのは、その荷物の重さにあります。その重い荷物を、悪路急坂、高温・低温下、雪や雨が降ろうが風が吹こうが、うすい空気の中をどこまでも運んでいくのです。その背負う重さは、60kg以上、ときには100kg超えるとのことです。わたしはポーターが、日本と同様の大きさに見える石油ポリタンク7缶を運んでいるのを何回も見ました。足裏は荷物運搬に合わせてゴムマリのように変形し、全身スリムに見えますが強靭な体つきをしています。そしてかれらは本当に着たきりすずめです。たとえばわたしたちのポーター君はうすいジャンパーを着ていましたが、それで高度5,000m以上、気温-10℃以下まで対応して、おおくの荷物を運んでくれました。その間、一度も着替えません。しかし寒いときはやはり寒そうにポケットに手を突っ込んでいましたし、ロッジではわたしたちと同様にストーブにかじりついていました。かれらはポーター用の安いロッジに泊まったり、客人と同じロッジのポーター部屋あるいはレストランの長いすに寝たりしているようです。お客より先に到着しますのでその辺をブラブラしながら待ち、ストーブがはいると客人と囲みながら、ときには他のポーターやロッジ経営者を交えて議論がはじまります。いずれにしてもかれらの体力や忍耐力には頭が下がります。

それから、もうひとつの特徴はその特異な荷物のかつぎ方にあります。荷物をカゴに、あるいはかつぎ易いようにパックにして背負います。バランス的に腰が曲がることになります。そして紐を肩と額にかけて支えるのです。したがって額から首におおきな荷重が作用することになります。この方法は、その重さと長年の労働により、年齢を重ねるにつれ職業病として首、腰などに傷害を生じ、さらに脊椎を痛めて記憶障害を招くことも多いと聞きました。それでも運ぶ荷物が重いほど報酬がよいこともあって、重い荷物を運ぶポーターは後を絶たないとのことでした。今回のわたしたちの荷物はそれぞれ2550kgほどでしたが、重い酸素ボンベなどの救急用品、果物なども持ち運びます。このようなポーターの献身的な労働により、わたしたちトレッカーをはじめ街道すじの人びとの生活が保たれているのです。最終的には、肉体労働が人びとの生活を支えているのを実感します。したがってモノを大切にする精神は、これらの場所では大切に守られているようです。わたしたちは、これほど苦労して運んでくれた食物や副産物などを残して捨てるのは避けたいものです。

シェルパ族の生活

ナムチェ・バザールを出て間もなくですが、明日は土曜日のバザールのせいか、あるいは小さなお祭りでもあるのか、多くの地元のひとが着飾ってナムチェ・バザールへ向かって上っていく姿とすれ違います。お婆ちゃんも着飾って元気に上っていきます。ちっちゃな子供が四つん這いになって上っていく姿はなんとも可愛いものです。はだしの子もいますし、おおくはサンダル履きで、特にご婦人方は足首まである民族服をまとって不自由そうに歩いています。また小さな子供たちが、貧しそうな家が散在するあちこちで遊んでいます。もちろんおおくのポーター達が荷物を運搬しています。この地区に住んでいる人びとの多くはシェルパ族です。

 シェルパあるいはシェルパ族とは、500年ほど前にチベットからヒマラヤ山脈を越えて移住してきた数家族をもとにするといわれています。いまではこの地方に広く居住しています。かれらは文化や生活様式も同時に持ち込み伝承してきました。いまでもチベット仏教や伝統文化を大事にしている誇り高い人びとです。このようにもともとは、この人たちの一団をシェルパ族というのですが(民族名)、おうおうにして高地で登山隊をサポートする人たちをシェルパという場合もあるのは前述しました。高地の山岳地帯であり、厳しい自然条件から主要な産業というほどのものはなく、零細な農・牧業と、合わせてインドからチベットをつなぐ交易の民として生きてきました。そして今では観光業に関係する仕事が多くを占めるようになっています。ただしおおくの登山隊やトレッカーが来るようになると、かれらに貧富の差が目立つようになっているようでした。そして学校も数ヶ所で見かけましたが、教育格差もますます大きくなってきているようです。

 キビしい大自然の中で宗教とともに生きてきたからでしょうか、かれらは物質欲に侵されていません。精神欲に浸っているようです。かれらの眼はキラキラと光り、しかも深く澄んでいます。キビシイ生活をしているにもかかわらずです。かれらには信じる心が残っています。衣食足らずとも礼節を知っています。思い出しますに、わたしたちの育った戦後は似たような環境下にあったのかもしれません。これらのことを、わたしたちはすでに失ってしまったのでしょうか。この地でのかれらの生活を見ることは、過酷な自然環境下で、貧しさ、不自由さを余儀なくされても、宗教とともに生きていく意味と、ヒトとしての存在を考えさせてくれました。ここには、ヒトの生き方を探すのに何かがあるような気がします。たしかな強い印象が残りました。

終わってしまいました

じょじょに高度が下がるにつれ、木々も高さや緑を増し、ネパール紙の原材料も見かけるようになりました。初日に泊まったパクディンで昼食をとり、1時過ぎに最後の行進に出発です。大いに楽しまなければなりません。ところがとつぜん雨が降り出し、大あわてで近所の雑貨屋さんで頭からすっぽりかぶるビニール合羽を買い込みました。こうもり傘をさしている地元の人もいます。なんとなく景色にそぐわずユーモアを感じます。わたしも折りたたみ傘をわざわざ日本から持ってきていたのですが、先行しているポーター君に預けたバックパックの中に入れていたため、肝心のときに役立たずでした。20分ぐらいで雨が止みヤレヤレです。雨合羽は、着たり脱いだりするうちにバリバリに破れてしまいました。日本人20名ほどの一行と行き交ったり、けがして松葉杖をついた現地の中学生ぐらいの子供に追い抜かれてしまいました。小学生が下校しています。今回の旅ではほとんどあらゆる人びとから、またゾプキョなど動物にも追い抜かれてしまいました。

午後420分、最後の急坂を登りきってルクラ到着です。残念無念、もう終わってしまいました。無事に終わったことを3人で握手して祝います。ゴラク・シェープへの往きだけでもきつかったものですが、帰ってこれたことに安堵感を強く覚えます。さすがに疲れましたが、大きなえもいわれぬ満足感です。

ルクラでのロッジはトイレ、シャワーつきの部屋で、今迄で一番リッパです。ただしのどの調子が悪いため、湯冷めを警戒してシャワーは使わずです。2週間近く風呂・シャワーとご無沙汰なので、さすがに自分自身で異臭がわかるようになってきました。しかし気になりません。なおひげはあまりに貧相になったので、ナムチェ・バザールで剃りおとした前述したとおりです。香港からの旅びと3人に出会ってしばし世間話します。道中に出会った各国からのトレッカーの誰もが言っていましたが、景気が悪いので旅びとは減っているとのことです。世界同時不況は、トレッキング愛好家の世界にも確実に影響してきているようでした。

ロッジでシャツ、スティック、帽子、手袋、キャメルバッグ、チョコレート、使い捨てカイロ等々の不用品をガイド氏とポーター君たちに分与します。また、わたしたちのトレッキングのサポートをよくしてくれたので、チョット多めのチップを感謝のことばとともにそっと渡しておきました。そして現地ビールを飲んで乾杯です。最後の心配は、明日は晴れて飛行機が飛べるかどうかです。今日の到着便(同時に出発便でもある)は1便のみであったそうで、どおりで行き交うトレッカーが少なかったものでした。

321日、今朝は天気快晴でカトマンズからのフライトが次々に到着します。日本人もパラパラ見えます。ガイド氏と握手して別れ、予定どおり830分に離陸しました。この離陸も心配で、風向きを確認し、傾斜した滑走路を駆け下りながら加速し、深い谷間に飛び出していく感じです。山間をフラフラと気流にもまれながら、9時ごろカトマンズの国際空港に着陸しました。終わってしまいました。

トレッキングを無事に終わった安堵感とともに、大自然への畏敬感、そこに住む人びとの生きざまなどが心の中を舞っています。

エヴェレスト街道トレッキングを終えて考えたこと

エヴェレスト街道はまさしく天空の世界でした。しかも宇宙につながっているのです。“母なる大地の神”といわれるエヴェレストが、その間を結び付けているようです。なにやら宇宙論につながる仏の世界を思わせます。この荘厳な世界に人びとが住みつき、チベット仏教とともに独特の文化を作り出してきました。道中の印象や魅力については前に述べてきました。この中をトレッキングすることは、肉体的にははげしい苦痛をともないますが、一方、その苦痛が大きいほど精神的快感が大きくなるようでした。ここでは自分との対話がはじまります。過去や現在を見つめ、この先を考えるのです。そして第3者の立場で、すなわち客観的にこの会話を聞いている自分がいます。道中、さまざまな国からきた多くのトレッカーに出会いました。かれらの目的はそれぞれでしょうが、修行や巡礼あるいは現代社会で疲れた心をリフレッシュしているようです。

エヴェレスト街道とシェルパ族の文化やかれらの生きざまは、複雑で多様さらには矛盾に満ちたわたしたちんの社会を純化してみる目をもたらしてくれるのかもしれません。なにも複雑さの中で振り回され苦しみもがくことはないんだよ、人間生活ないし社会生活は、本来は純朴・素朴なものなんだよ、と教えてくれているようです。今回のトレッキングでは、自然や宗教をうやまい、謙虚に生きること。そして、苦しくとも、貧しくとも、遅くとも、止まっても、少しずつの前への一歩一歩がいかに大切か、をあらためて思い起こさせてくれました。


いよいよ聖地に近づく

今日も宇宙的に雄大な景色なのはすでに述べましたが、ロブチェ川にそって上流をめざします。左岸をとおるのですが、ゆるやかな斜面の中腹にきざまれた、昨日までとちがって起伏の少ない道です。転石ゴロゴロの河床にそってもう一本の街道が平行して見えており、この道は帰りに利用する予定です。その途中の大きな村、ペリチェが下方に見えています。

この地は、聖霊が住むようなある種のエネルギーに満ち溢れた大地を思わせます。一見荒涼としているようですが、キリマンジャロで見たそれとは異質に感じます。それは同じ高地でも、雪や氷河に覆われた山々、川と水などがこの地に生気をもたらしているのかもしれません。わたしは、恐れおおい神々が住む地方に不思議な感動をおぼえました。 

韓国人ご夫妻がトボトボ歩いているのに追いつきました。指示されているのか、ひとりのポーター・ガイドがかなり前方を見え隠れしながら先導しています。ご婦人は背すじをピンと伸ばし、小さなデイパックを背中に、ほんとにユックリユックリと歩を進めています。その脇にご主人がピッタリと寄り添い介助しています。最初は疲れはてているのかなと思いました。歩き方とその速度、装備、さらに、60才前後と思われるその上品なたたずまいからはトレッキングの熟達者には見えません。なにか理由のある巡礼の旅かもしれませんが、一歩一歩を大切そうに踏みしめている姿からは、風雪を乗り越えてこられたご夫婦の愛情とともに強い何かしらの意志がほとばしり出ているようでした。何となく気になるご夫婦で翌日もすれ違いましたが、あい変らずの雰囲気をかもし出しながら旅を続けておられました。

この区間はそんなに起伏はきつくありませんが、あまりに私がノロいので、5頭のヤクの輸送隊に追い抜かれそうになります。それでも遠くに、先にも見たプモリが見えてきました。その麓にわたしたちのめざすカラ・パタールがあるのです。やがて数軒のロッジがあるドォクラに達して休憩です。テラスで昼食をとりながらノンビリしていますと、アメリカ人グループの一人が腹痛を起こしたとかで、ひとりのポーターとともにヨロヨロと近づいてきます。どうやら置いていかれたようで、それこそ夢遊病者のようにフラフラしています。加納さんが駆けより助けぶねです。わたしは自分の身を守るに精一杯で、とても人の世話まで手が回りません。この御仁はその後回復し、カラパタールをめざして仲間を追って行ったそうです。ヤンキー魂に感心。

ドゥクラを出てロブチェへ向かいますが、間もなくするとエヴェレスト登山に同行して亡くなったシェルパの慰霊の碑であるチョルテンが並んでいる箇所に着きます。その数は50人以上だそうで、わたしも手を合わせました。この区間はほとんど上りで、小さな尾根をなんども横切って4,910mまで300mほど、今朝出てきたディンボチェからは500mほど高度が上がります。午後になったためか風が強まり、おまけに小雪が舞いはじめました。気温は-2℃に下がり、キャメルバッグの吸い口が氷結してうまく水が飲めません。それでも1時半過ぎにロブチェへたどり着きました。この地は5mをこえています。空気は平地の半分ほどしかありません。寒くてやることもないので、ついうたた寝をします。今日の夕食は、韓国製の辛みのきいたインスタントラーメン、それにご飯とふりかけ、すなわちラーメン定食です。ときおりりんごなども出てきます。いずれもわたしたちの旅行社の用意で、ポーター君が運んできてくれました。 

あしたは午前4時に起きて、4時半に出発しなければなりません。ここロブチェを発進基地としてゴラク・シェープに行き、そのすぐ脇のカラ・パタールの丘をめざし、エヴェレストやその周囲の絶景を楽しんだのちふたたび戻ってくる予定です。そうとうにハードな行程になりますが、カラ・パタールの丘からの絶景を眺望するには、風が強くなる前、すなわち午前10時までに登頂しなければなりません。そのため早朝に出発するのです。これまでに疲労が積み重なっており、かつ酸素が薄いことも考慮に入れておかねばなりません。このとき不吉な予感がよぎりましたが、本当にそのとおりになってしまいました。

あろうことかカラ・パタールに立てず(第8日目)

ロブチェからカラ・パタールをアタック

早朝4時でもあり寒くてたまりません。トイレのバケツの水が氷結しています。それにしても毎日熟睡できないのには参ります。ときおりウツラウツラ。寝付いたと思ったらトイレで、眠り直しの繰り返しです。これも高山病症状のひとつなのでしょうか。今日は430分にロブチェを発って、8時前にロッジが数軒の標高5,170mゴラクシェープに着く予定です。ここからすぐ裏の標高5,545mのカラ・パタールをアタックします。10時前に頂上に立ち、風が吹かない内にエヴェレスト絶景を見ることを期待するのです。わたしたちふたりと、ガイド氏にポーター君1名で出発しましたが、日帰りの用具のみ持参です。この用具の中には、緊急時のための酸素ボンベも入っています。約10kgの重さを、ポーター君は軽そうに背負っています。いずれにしても寝袋などの装備は運んでいないため、ゴラク・シェープでは泊まれません。どんなことがあってもここロブチェまで帰ってこなければならないということです。

最初は河原や山腹を歩きますが、転石だらけで歩きにくいルートです。そして小さな尾根をいくつも渡ります。夜に降雪が5cmほどあったみたいですが氷河はありません。この中をヘッドランプをつけて、まるまるに着ぶくれて歩きます。気温はこの日を通じて0℃を上回ることはなく、また-10℃以下で測定が不能な時間帯もありました。この中を、半そでと長そでのインナーシャツ2枚、ネルのシャツ、セーター、ブレーカーみたいなウェア、それにふかふかのダウンジャケット、下は、ももひき、登山ズボン、ジーパンの重ね着、それに手袋、毛糸の帽子をすっぽり被って進みました。

積雪があるため注意深く歩くので疲れますし、疲労がたまっているのを感じます。体が悲鳴を上げはじめました。天気は曇りがちで、じょじょに風が強まります。とともに気温もさがります。低温のためかカメラ、キャメルバッグが不調になりました。が、歩いているときはそんなに寒さは感じません。むしろ暑いぐらいで、ウェアを脱ぐのもしばしばです。川ぞいに歩くのですが、けっこうアップダウンがあるので、ペースを守りユックリユックリ歩きます。しかし疲労のため休憩も多くなってきました。ひざも痛み体力的にきつくなってきました。無理すると危険かもと感じますし、帰りは大丈夫かな、まで心配になりはじめました。脱力感とともに一瞬無意識に陥りそうです。いままでは距離が離れると待っててくれましたが、予定時間に遅れてきたのでガイド氏があせりだします。ここでガイド氏は、元気な若者、加納さんを同行し先行することに決定しました。ゴラク・シェープで先に朝食をとり、カラ・パタールに向かうのです。ということは、わたしはユックリこのまま進軍し、無理をしないでポーター君とともにゴラク・シェープで引き返しなさい、ということです。わたしもこの時点では、無理だなと理解しました。わたしは登山家ではないし、高いところに上ることを目的としていません。むしろ行程の厳しさの中から何かを得たい口です。すなわち巡礼者、修行者の目的であります。したがって当時の行程と私の残存体力から潔くあきらめることができましたが、もう一日行程が取れれば、ゴラク・シェープに泊まって翌日カラ・パタールに登ることができたかも知れません。現地不案内なため、および余裕日の無さが原因でしょうが、行程計画の失敗といえるでしょう。

ゴラク・シェープに近づくにつれプモリが大きくなり、その下の三角錐の形をしたカラ・パタールの丘の全容がみえてきました。ゴラク・シェープの裏庭の築山みたいで、簡単に登れそうな気ががします。ここまでに費やした体力、高山症から難儀するトレッカーが多いようです。またヌプツェの向こう側にエヴェレストの頂部がわずかに見えています。強い風にあおられて、雪煙がチベットのほうにたなびいています。しばしばこの風景は見えますが、写真で見るよりも大自然の審美さを感じます。さて、それでもわたしはゴラク・シェープに何とかたどり着き、朝食を取っている加納さんたちと再会しました。840分にかれらはカラ・パタールの丘へ発っていきました。

ゴラク・シェープから分かれてこのさき数時間のところにエヴェレスト・ベースキャンプがありますが、さぞやエヴェレスト登山隊やトレッカーでにぎわっていることでしょう。わたしとポーター君は、すこし休憩を取ってロブチェへ戻ることにします。とにかく帰りの体力を取っておかねばなりません。1055分ゴラク・シェープを発って、120分にロブチェに帰り着きました。そうとう難航すると覚悟していましたが、ゴラク・シェープで長めの休息をとったせいか、わりと順調に歩けました。またまた残念に思いますが、もう一日あればカラ・パタールに登れたでしょう。少なくとも途中までは。キリマンジャロの例では、朝陽がのぼる絶景を見るために、深夜発のシロウトにはかなりキビシイ行程が組んでありました。わたしのようなシロウトは、体力不足に加え高山では意識朦朧としているため景色どころではありません。景色優先で時間行程を組むのではなく、むしろ十分に睡眠と食事をとり、いつもの時間どおり気温の上がる朝に出発して、時間はかかってもより確実に目的地に達するほうがよいと思いました。

午後3時すぎに、加納さんがガイド氏とともにいかにも疲れた感じで戻ってきました。登頂し、カメラに絶景を収めたのこと、何よりでした。カラ・パタールの丘では高山病症状のためフラフラになったそうです。その夜も、強い紫外線にあてられたためか、すこし頭痛がするといっていました。が、ひと晩寝ると回復してピンピンしていました。

雪あり風ありのキビしい帰路(第9,10日目)

ペリチェまでの快適な行程

 ロブチェを8時すぎに発って帰路につき、しばらくして再びトォグラに到着しました。往きとちがって下り主体ですが、やっぱりキツイものです。これから先はロブチェ川の河床をとおって下流の大きなロッジ村、ペリチェに向かいます。河床ぞいですので、勾配はゆるく比較的楽に歩けます。余裕も出てきますので、前後左右を眺めまわし雄大な大自然を楽しみます。テンボチェのロッジで会った欧米人親子に出合いました。ポーターがキャリアに子供を積んで運んでいます。また例の韓国人ご夫妻とも行き違いました。やはり彼らはユックリユックリ歩いています。どんなに遅くとも、余裕をもって、そして一歩一歩前進することの大切さをあらためて学びました。

風が出てきて気温が下がります。雲も出てきました。やがてペリチェに着きました。ここには救急病院があります。この病院は2008年英国のBBS放送で紹介され、NHKでも放映されましたが、シーズン中は30隊をこえるというエヴェレスト登山隊の後方支援機能をもち、登山シーズンのみ医療スタッフが駐在しています。TVで見覚えのある女性医師らにお会いしました。「今年は昨年にくらべて事故は少ない」といっていました。

パンボチェまでの厳しい行程

昼食をとり、12時ごろペリチェを出ました。しばらくしてロブチェ川をわたりますが、以前の橋は洪水で流されたそうで簡易な仮橋が架けられています。そして山腹を上りますが、ジグザグの急斜面で道幅は50cmもありません。強風の中を、バランスを崩さないように腰を落として一歩一歩と上ります。たいした距離ではなかったのでしょうが、踊場もなく本当に怖い思いをしました。これまでにも危ない箇所は数多くありましたが、ここが一番だったように思います。やっと中腹の広がった箇所に出てひと息つきます。ここで往きにとおったルートに合流し、後は同じルートでルクラまでもどります。カラ・パタールやエヴェレスト・ベースキャンプに行く人のおおくはこちらのルートを通るらしいのですが、トレッカーはあまり見かけません。後で判明したことですが、ルクラ空港が悪天候で3日間閉鎖されたため、トレッカーが来れなかったのが原因のようでした。

このころより足裏に魚の目ができたらしく、痛くてまいりました。疲労にひざ痛も重なって満身創痍です。じょじょに曇り空になり、小雪が舞いはじめます。気温は5℃ほどです。それでも何とか2時半ごろパンボチェに着きました。地図を見ると分かりますが、所要時間はたいしたことありませんが、今日は長い行程で疲れました。ロッジに着いて、ガイド氏からシェルパ式魚の目治療法を教わります。すなわち、お湯に足をつけて新しい靴下に履き替え、これを数日くり返すと治るというものです。1日だけやって面倒なのでやめてしまいました。外を見ますと、雪が本ぶりのようで明日が心配になります。

投宿したロッジの経営者は、15回もエヴェレストに登頂したガイドで、14回登頂のライバルとトップを争っているとのことです。ひとりのオーストラリア人トレッカーが小雪の中をわたしたちのロッジに入ってきました。まったくのひとり旅で、かれがカトマンズでの3日間足止め情報をもたらしてくれたのです。わたしたちは、ルクラで天候不良で留め置かれることは大いに困るので、ガイド氏と相談して行程を1日早めることにしました。すなわち、明日はナムチェ・バザールまで、そして明後日は空港のあるルクラまで長躯歩くことに予定変更しました。

ふたたびナムチェ・バザール 

昨夜もよく眠れませんでした。わりと温かったのですが外は銀世界です。積雪量は少ないようですが、山々は山ろくまで薄化粧してそれはそれは美しいものです。

7時半にパンボチェを出ました。薄い雪が融けた道を行きます。56人の日本人一行とすれ違いましたが、空路が再開したせいかトレッカーが増えてきた感じです。天気は快晴なれど霞がかっています。テンボチェへの上り坂でヤクやゾプキョの一行と出会いましたが、急坂をあえぎあえぎ登っていきます。わたしも黙々とこの苦痛を楽しみましたが、あと何回ぐらい楽しめるかときおり思います。対岸の斜面でヤクが転落したとかで、村人がその始末にあたっています。そして2時間弱で、例のゴンパのあるテンボチェに着きました。

テンボチェでふたたびゴンパや周囲の山々の写真をとり、でかいマニ車を回して帰途の安全と家族の幸せを祈願します。そしてプンキドレンカで昼食休憩です。下り坂の連続といっても、足元は悪くきついものです。疲労は仕方ありませんが、ひざやマメの調子はよくありません。しかし幸いなことに、腰はなんともありません。天気は晴れです、雲が出て霞がうすくかかりはじめました。今日もけっこうトレッカーとすれ違います。元気そうなひと、すでにヨロヨロ歩いているひと、欧米の比較的若いひとも目立ちます。残りも少なくなってきたので、できるだけトレッキングを楽しまなくてはと思います。このころよりわたしは、行きかうトレッカーに「ナマステ(こんにちわ)」という代わりに、「Are you enjoying?」というようになりました。

軽い昼食をとり、昼前にプンキドレンカを出ます。これまでと同様に、街道ぞいのあちこちにエコかごが置いてあります。そういえばトレッキング通路のほとんどにゴミは見あたりませんし、かごの中のゴミもすくないものです。エヴェレスト・ベースキャンプからのエヴェレスト登頂ルートには、多くの登山隊が残したゴミであふれていると聞いたことは前に述べましたが、一般道ではそんなことはないようです。

2時半ごろナムチェ・バザールが見え、そのまま前にも来たこじんまりしたシェルパ文化博物館を見学します。昔のシェルパ族の生活様式を見ることができますし、それが今でも脈々と受け継がれてきていることがわかります。またエヴェレスト登頂者の写真などを見ることができます。3時前より小雪が舞い、だんだんひどくなってきます。朝は晴れ、じょじょに風が出てきて曇りに、やがて雪が舞う、こんな日々が続いています。3時半に、ガイド氏経営のロッジにふたたび戻ってきました。 

ゴンパの村、タンボチェへ(第4日目)

けわしい上り下り

朝晩はけっこう冷え込みますので、ナムチェ・バザールを出る前に中間着としてブレーカーを購入しました。745分に出て、まずプンキドレンカ村をめざします。出発当初はかなりの上り勾配でゼーゼーハーハーします。けわしい谷の中腹に付けられた道で、下は目もくらむ深さです。歩くと、どうしても山側へ重心がかたむきます。つまずいたりよろけることを想像すると、思わず寒気がはしります。12m幅の道路上には、上方から落下してきた岩がころがっていて、上方も下方も危険がいっぱいです。この道を維持するのは大変でしょう。雨の中は通りたくありません。対岸にも踏み分け道みたいなものが付いているのが見えますが、ところどころに地すべりで遮断されています。ところがよく見ると、地すべり塊の上部に新たな道が付いていたり、安全なその上方に迂回して新設されています。すべて人力あるいは蓄力だと思われますが、何とか交通を確保していることが分かります。じょじょに高度が上がりますが、下流で薪を採ったあとに山焼きしているようで、その煙が谷を吹き上がってきて、タムセルクやアマ・ダブラムの視界を悪くしています。

こんどは急勾配を下って谷底の川面まで達します。じょじょに高度が下がってきたからか、ふたたび樹相が緑っぽくなってきました。

2年前の洪水でつり橋が流失したそうで、現在の小さな仮橋を渡ります。そして間もなくプンキドレンカの村で昼食です。途中の急坂で、休憩している日本の62歳のおじさんに会いました。「次のテンボチェまで行ったが、頭痛がしてきたので戻る」とのこと。「わたしも途中で調子が悪くなったらいさぎよく撤退しますよ」といって慰めました(ところが後述しますが、わたしは本当にバテてしまいました)。なおこのおじさんは、1ヶ月有効の航空券を有効に使ってネパール中をまわるそうです。ぶじな旅を祈ります。ご婦人方だけでなく、元気なおじさんがいるのは心強いものでした。今日は気温が22℃まで上がり、セーター、ブレーカーと順々に脱いでいきます。ゴアテック製であれば、こんな忙しいことしなくて済むんですが。

プンキドレンカを12時ごろ出て、今日の宿泊地テンボチェへ午後2時に着きました。川面までいったん下ったので、今日はほとんど高度が稼げませんでしたが、後半は上り600mの難行苦行でした。勾配がきつく、踏みあがるさいにひざがいたみます。昨日よりいたみますが疲労性のようなので、もう少し先に行ってみることにします。が、多少不安です。平地は大丈夫ですが、坂道では左ひざに負担をかけない歩き方が必要です。

ふたたび4,000m近くまで上がってきたので木々が少なくなってきました。やがてゴンパのある丘の上にたっしました。標高3,860mのテンボチェです。風が強くなり、ホコリが舞っています。ゴンパとはチベット仏教の僧院のことですが、ここは、ヒマラヤで最高地かつ最奥地のゴンパだそうで、おおくのお坊さまが泊り込みで修行しています。ゴンパはありますが、村は下の方にあるのかと思っていたら、そばにある56軒のロッジが村そのものでした。おどろいたことに、こんなところにもあります。その一軒とはネットカフェです。

この地は小高い丘にあり、遠くに昨日訪れたエヴェレストビュー・ホテルがあったシャンボチェの丘が見えています。そしてこの地方の高峰が周りをとりかこんでいます。東にアマ・ダブラム、南にタムセルク、西にクンビーラ、そして東北の方向23kmほど先にはエヴェレストやローツェなどが一望できます。すさまじいばかりの神々しさで、おごそかな気分になります。さらに、これらの神々の座から吹いてくる風々が交差し、わたしの疲れたこころを洗浄してくれるようです。ここは聖地の中の聖地なのかもしれません。ゴンパが建てられた理由がわかるような気がします。

ゴンパでお参り

ゴンパでは、2人の修行僧が大仏さまの前でお経を唱えていました。わたしたちはそのお経を聞くために、すみっこで眼を瞑ります。が、最初は正座していたのですが、不覚にも途中でくずれてしまいました。わたしはこれでもお寺の孫息子であり、学生のころは板張り上でも正座していました。また母が茶道の先生をやっていたころ、しばしばお手前の席に座ったものです。昔はがんばれたのに情けないことです。勤行が終わったあと、“カタ”という白い布を買ってお坊さまにかけてもらいます。お参りは日本式で行いました。べつに五体投地してもよかったのですが、ガイド氏が気を利かしてお坊さまの了解を得てくれました。この布は幸運とともに旅の安全をもたらすとされているため、わが家にだいじに取ってあります。

チベット仏教とシェルパ族

 チベット仏教はシェルパ族の間にふかく根づいています。かれらが500年前チベットより移住してきたさいに同時に持ち込みました。各所に礼拝の場所があり、シェルパ族は敬虔な気持ちをもって信心しているようです。

 まずは“ゴンパ”ですが、これは前に述べました。ナムチェ・バザールにもありましたが、多くのお坊さまがきびしい自然環境のもとに日夜修行に励んでいるようです。テンボチェのその内部は、金色をした大仏さまの前に、経文をとなえる修行僧がすわる台座が78列ならんでおり、50人ぐらいは座れるでしょうか。一般の信者や観光客もすわれる席がはしっこに設けられています。

 それから、亡くなった高僧を供養したり、あるいは自然の神々に祈りをささげるための“チョルテン”、あるいは“ストーパ”といわれるものがあります。仏塔と訳していますが、ちょっとした村の出入り口や特別の信仰の場所、たとえばエヴェレスト街道の途中に建っています。ふつうは道の中央付近にあって、信者はグルグルと巡拝しますが、行き交う人びとはかならずチョルテンの左側をとおることになっています。わたしたちも宗教に敬意をはらってそうしました。

 おなじように村の出入り口には“マニ石”といわれるものがあります。これは大きな自然の岩面に経文を彫りつけたもので、古いチベット文字であるため最近は読めない人も多いといっていました。これらチョルテンとマニ石は、村の守護神みたいなものでしょう。

 それから「マニ車」という、これはわたしみたいな無精者には非常にありがたいものですが、信心を示すことができる道具があります。円筒形の筒のなかに経文が入っており、それを1回まわすと1回お経を読んだことになるそうです。祠みたいな中に固定された大きなもの、したがって回すのに骨がおれるものもありますし、チョルテンに埋め込まれてあったり、また携帯型のもあります。前回きたときに買った小さなマニ車を、わたしは毎日自宅で回しています。

 ゴンパ、チョルテンやつり橋などには“タルチョ”、すなわち祈祷旗がはためいています。これは、5色の小さな旗をロープにつなぎ、そのロープを高いところからこちらへ渡したものです。五色にはそれぞれ宗教的意味があるようで、一部には経文が書いてあります。これは“ルンタ”といわれ、悪霊を追い払う聖なる布です。この地方が持つ宇宙的雰囲気、すなわち天・地・人を結びつけているようで、なにか深い哲学のにおいがしています。そういえば、仏教の基本原理に、この世のすべての事象には原因と結果の因果律があり、生成と消滅が輪廻する、何かの本で読んだことを思い出します。

このようにシェルパ族は、昔からチベット仏教に囲まれて生活してきました。今でもかれらの奥底で社会の規範として位置づけられています。わたしたち日本人は、いまや宗教は葬式仏教あるいは苦しいときの神頼みぐらいしか接する機会がありません。宗教はその国の文化の根本でありますし、倫理や道徳の源泉となるものです。戦後以来、米国文化やグローバル化の時代に入り、わたしたち日本人の文化基盤が忘れ去られていっているようで残念なことです。世の中がこわれ自分がこわれていっているような気もしますが、見方を変えれば、現代はカオス的あるいは多様化時代をむかえて、新しい価値観と文化が生まれる前夜なのかも知れません。

ディンボチェ、そしてチュクンで高度順応(第5,6日目)

大自然の中をひたすら歩く

早起きして外に出てみます。快晴です。周囲の山々が朝陽をうけて、この世のものとは思えない絶景を放っています。熱い、しかし静かな感動をおぼえました。寒いのにくわえて、欧州からのデカイ夫婦とその23歳の息子がいたからでしょうか。朝からストーブがたかれています。国籍不明で無愛想な両親ですが、家族の仲はよいようです。子供も無邪気についてきていますが、ポーターがキャリアに入れて運んでいると聞きました。後日、ペリチェからロブチェに向かう親子とふたたびすれ違いましたが、欧米人の家族主義の良い点がかいま見えました。

8時前にテンボチェを出て、エヴェレストを見ながら坂を川面へ下っていきます。高度が下がるため、林がところどころに見えます。その中に尼寺があるそうです。橋を渡って対岸にでて、今度は上っていきます。今まで歩いた側には大規模な土砂崩れ箇所があちこちに見られ、小規模なせき止め湖ができています。今日も大自然の中をひたすら歩くことになります。途中にはチョルテンが建ち、マニ石もけっこうあります。エヴェレストに向かって山腹を歩きますが、じょじょにその前に立ちはだかる標高7,861mのヌプツェの岩壁に隠れて見えなくなってきました。わたしたちはこのヌプツェの前を横切って、カラ・パタールの丘からエヴェレストをまぢかに見る予定です。このヌプツェは“西の峰”の意味で、エヴェレストをがっちりガードしている存在です。したがってエヴェレストの視界を、ネパール側のどこから見ても悪くしています。このあたりより標高は4,000mを越え、さらに高度が上がっていきます。この高度では、キリマンジャロでもそうでしたが、もう背の高い木はありません。

20mほど上方の斜面の出っ張ったところに、山ヤギの一種であるヒマラヤタールが現れました。風にゆたかな胸毛をなびかせ、ゆうぜんと彼方を見ています。イェッティでも見つけたのか、人間どもには目もくれません。まるで超俗の仙人のようです。ちなみに年配の地元民は今でもイェッティ、すなわち雪男の存在を信じているとのことです。

途中パンボチェ村をとおり過ぎましたが、ここは帰りに泊ることになります。これから先は、地元住民の定住者はいません。ヤクの放牧場やジャガイモを栽培する農地に小屋があり、季節に応じて農夫や牧夫がきているのみです。ただしトレッカーのためのロッジやその関係者はあちこちに多く住んでいるのはいうまでもありません。

エヴェレストの西側にプモリが見えてきました。これは“エヴェレストの花嫁”の意味をもち、標高7,165mです。その麓にある小高い丘が、わたしたちのめざすカラ・パタールです。これは“黒い岩”を意味し、黒い岩石からなっていることによります。あんな遠くまで歩いて行くんだなぁと、思わず武者ぶるいします。荒涼たる斜面を上ったり下ったりしつつ歩きます。今日は行程も長く、アップダウン、石積み階段も多くて疲れました。やはり、ひざは昨日と同様に痛みますが、無理しなければ何とかなる感じです。無理しなければ、といっても無理せざるをえないのですが、ただできることは、できるだけユックリ歩くことしかありません。したがって歩行が遅いため、みんなの足を引っ張っていることになります。加納さんは元気いっぱいで、先導するガイド氏の後にぴったりくっついており、わたしとの差が大きくなると待っててくれます。それはよいのですが、かれらは断続的に休みが取れますが、わたしは、遅いといいながらも歩き続けることになります。いずれにしても加納さんは若くてビッグイーターであり、体力もあるので高山病の恐れはなさそうです。

3時前にやっとこさロッジ10数軒のディンボチェに着きました。アメリカやオーストラリアからきたトレッカーを見かけます。ロッジはトイレ付きの最高級部屋とのふれこみですが、部屋の入口は外に面しており、窓枠から風がピューピューはいってきてそれは寒いものでした。それでも、やることも行くところもないので、レストランに暖房がはいるまで部屋にいました。

ふたたび高度順応

ディンボチェは高度4,350mですが、今後5,000mを越えていくことからここでふたたび高度順応をはかることにします。すこし方向を変えて、東方のチュクン4743mを訪ねることにしました。朝、腰にちいさな痛みを感じました。疲労がたまると出てくる持病で、ひどくならないことを願うのみです。天気は良好です。やはり谷の中腹をとおっていきますが、河床の跡であったり落石であったり、礫がごろごろ転がっています。沢では水が凍りつきアイスバーンになっているため、飛び石伝いにわたっていくときは怖いものです。突然ひとりの日本人女性が、ポーターとともに降りてくるのに出会いました。標高6,189mのアイランド・ピークをめざしている登山隊の一員だそうで、高山病にかかったので引き返しているところといっています。たしかに顔が多少むくんだ、いわゆるムーンフェースになっており、さらに、頭痛がして自信がないのでディンボチェで仲間の帰りを3日ほど待つといっていました。

急坂もあり、けっこうきつい斜面を上っていきました。チュクンまで400mほど高度を上げることになります。数軒のロッジがあるチュクン到着に続いて、近所の小高い丘を周遊しますが、アイスバーン箇所もあって滑りかかりました。もしすべったり、氷が割れることを想像するとゾーッとします。多少かすみがかかっているため周辺の山々はクッキリとは見えませんが、きれいなことに変わりはありません。ローツェ、ヌプツェをはじめ各高峰の岸壁がせまってきてすごい迫力です。この先300mほど上っていくと、地球温暖化で決壊洪水が懸念されている氷河湖、イムジャ湖があります。氷河の後退で土砂がせき止められてできたものです。

チュクンのレストランでスエーデンから来たおじさんに会いました。62歳の陽気な人物で、沖縄でスキューバダイビングしたり、北海道の富良野でスキーをしたことのある国際的旅びとです。わたしたちと同様、これからカラ・パタールをめざすとのことです。遠くにヘリコプター音が聞こえます。その後も時おり聞こえましたが、救助用とのことです。そういえば各地のロッジに、救援ヘリの手配ができると張り紙してあります。高山病や負傷者など、病院のあるペリチェに運んだり、重症の場合はカトマンズまで運びます。

 4時過ぎから小雨となり、やがて小雪になりました。どうなることやら、本格的な雨具をもっていません。この時期は好天が続くものと思い込んでいたのです。ガイド氏に白状すると、ダイジョーブ、心配ないとのこと。簡単な雨具があるし、所どころのロッジには知人がいて助けてくれるとのことでした。寝るころには雪は止んでいました。

カラ・パタールへの前進基地、ロブチェをめざして(第7日目)

ゾプキョとヤク

 昨夕の雪が薄化粧して、銀一色の世界です。何度もいいますが、神々しい美しさです。しばらく行くとヤクが20頭ほど放牧されていましたが、なにやらボスの座をめぐって2頭間にもめごとがおきています。角を突き合わせたり、うなりあったり、にらんだりしてけん制しあっています。さすがに迫力があります。メスをふくめ他のヤクはチラチラと様子見しています。過酷な自然条件の中であり、仲良くすればよいのにと思いますがそうもいかないのでしょう。ヒトも社会的動物ですので組織にそって行動することが多いのですが、同じような問題が起きて困ることが多いものです。サラリーマンにとって無能な上司をいただくと悲劇ですが、われわれも同じようなことしてるなぁと、あらためてため息がで出てきました。さらに興味深く感じるのは、かれらは哲学者だからです。雪の降る夕闇の中、一頭のヤクが座り込み、頭に白いものを冠りながら、カウベルをカランコロンといわせて反すうしている姿は、まさしく哲学している風情です。

前にもゾプキョとヤクは述べましたが、ゾプキョとはヤクと牛の混血種で、外観上はヤクよりたしょう尻尾が短めで丸みをもっていることから区別できます。標高4,000mを境にしてそれぞれ活躍する場所がことなりますが、ヤクは4,000m以上の高地に強く、荷物運搬用あるいは家畜として飼われ、乳製品や肉も食べられています。ゾプキョも同様の家畜ですが、やや高度が低いところで使われています。

 そしてかれらはよく調教されています。小さいころから牧童にしつけられているようで、荷物運搬では115頭ほどが隊列を組んで行軍していますが、牧童の叱咤激励、小さなムチ、ときには小石をぶつけられながら、重い荷物を背負い、悪路急坂をユックリと確実にどこまでも運んでいきます。わたしは3年前に初めてきたときに、ゾプキョの一団ととつぜん出会いました。まだ慣れていないこともあって思わず谷側の石積みの上に飛び乗り、避けようとしました。ところが後で知ったのですが、ゾプキョやヤクは本能的に谷側にジャマ物を突き落とそうとする習性があるとのことで、わたしは突き落とされそうになりました。とそのとき牧童のするどい制止の声がとんで、そのゾプキョはおとなしく引っ込んでくれました。ちなみにこのような場合は、かならず山側に避けるのが原則です。それでも、すぐ横を大きな角をもったゾプキョが通りすぎるさいには思わず緊張します。かならず横目でわたしを一べつし、やさしい目ですが警戒している様子もうかがえます。深い哀愁に満ちた視線を感じました。一頭が6080kgの荷物を運んでいますが、かれらもヤクの子、勾配がきつい箇所では数段上るごとに息を荒げながら一息ついていました。一部には自分たちの餌の干草を運んでいるのもいますし、なんとポーターがそれを運んでいる姿も見ました。このように、人とゾプキョやヤクは、切っても切れない仲で共生しているのです。このように強く依存しあっている例をわたしは知りません。

 ところでヤクやゾプキョの“ふん”が有力な燃料になっているのをご存知でしょうか。ポタポタとそこら中に落ちていますし、放牧場ではもっとたくさんあります。このふんを集めて乾燥させ、ストーブの燃料として使うのです。積み上げて山のようにして保存している家もあります。その火は強く優しく長持ちするようです。すこしにおいがしますが、その効用は高いものがあります。ロッジでは薪と併用しているところもありました。自然のきびしい環境下では、何ごともむだなく循環型社会をずっとまえから実践しているのです。

シェルパのふるさと、ナムチェ・バザール(第2,3日目)

パクディンからの急坂

720分にパクディンを出て、9時にチュマワでひと休みです。ここのレストランはガイド氏のお姉さんの嫁ぎ先であり、そのお母さんも同居しています。近くでは、石工が石垣を積んで建築中でした。資材は石と木材が主で、ときにはヘリコプターでコンクリート材料を運ぶこともあるそうです。一方、おおくの貧しい家屋が点在して見えます。

途中、標高6,618mの名峰タムセルクが見えはじめました。子供や幼児が遊んでいます。モンジョを通ってジョルサレのサガルマータ国立公園事務所で入園の手続きです。1020分をさしています。入山許可証は旅行社を通じてあらかじめ入手しておきました。早めの昼食をとります。これから先ナムチェ・バザールまでは急坂が続き、レストランや売店などはありません。ゾプキョとも行き交いますが、なにやら意思のありそうな目でこちらをチラリとみていきます。風がでてきて、また上り勾配で汗をかき、セーターを脱いだり着たりで大いそがしです。勾配のきつい尾根ぞいに標高差600mを上っていくのですが、今まではダマシダマシであった膝がもつか、これからの様子で占うことにします。

午後245分、ナムチェ・バザールの入口の“カンニ”といわれる仏門塔に到着しました。これは悪霊が村に入るのを防いでいます。あえぎながら上りましたが、意外に早く着きました。前回はもっときつかった覚えがありますが、ひざも大丈夫のようです。今夜投宿するロッジは、わたしたちのガイド氏夫妻の経営です。

ロッジと食事

たとえばナムチェ・バザールのロッジの宿泊費は、一泊200ルピーと決められているようです。日本円で330円ほどでしょうか。むしろ食事のほうが高くなります。食材のほとんどが、ポーターによって遠方から運ばれてくるのも一因でしょう。したがって奥地に行くほど値段が高くなります。ペットボトル500mlも、ナムチェバ・ザールでは100ルピーでしたが、あす行くテンボチェでは240ルピーもしました。これは日本人にとってもそうとうに高額です。もうひとつの特徴として、ロッジにはかならずレストランが併設されていますが、宿泊者はそのレストランで食事をとらなければなりません。違反すると3倍の罰金というはなしも聞きました。真偽はともかく、競争が激しくなってきているロッジ業界の秩序を保つルールないし知恵なのかもしれません。

今回のトレッキングでは比較的上級のロッジに泊まりました。しかし奥地に行くにしたがって、上級といえどもその設備や建てつけが悪くなってくるのは仕方ありません。夜中にすき間からつめたい風がビューっと入ってきます。前回きたときは中級ロッジでしたからすき間も多く、夜の冷気がビュービューと入ってきて思わず身ぶるいしました。寒いものですから、昼の服装のままマジョルカ人形よろしくふたつの寝袋を重ねてもぐりこみます。それでも初日は寒かったため、使い捨てカイロを胴体と足先に入れたものです。翌日のナムチェ・バザールでは、ガイド兼ロッジ経営者が昔なつかしいゴム製の湯たんぽを貸してくれました。これが威力ばつぐんで、以降これを借りっぱなしにして毎晩重宝しました。

食事は日本人に合うものがおおいと感じました。焼きそば、焼き飯、ラーメン、餃子にそっくりのものまであります。また具がたっぷりのスープや、値段は高いのですがヤクのステーキもありました。しかしこれは乾燥肉を温めたような感じでまったく美味しくありませんでした。現地の人が食べる、ご飯や豆のスープにおかずをつけた“ダルバート”といわれるものなどがあります。これは家庭料理的で、味や食材は千差万別と聞きました。レストランで頼むと作ってくれました。というより、自分たちのために作ったものを分けてくれました。以上は大きくいえばチベット料理に含まれるのかもしれませんが、外見や味付けもふくめて日本人にはなじみ易い感じがします。それから水分の補給です。体力維持、高山病予防からも水分は多めにとる必要があります。ペットボトルを欠かさないようにしますが、ひと休みに立ち寄るレストランでは、ホットレモンやチャーを頻繁に飲みます。チャーとは砂糖入りのミルクティーです。なお同じ水分でも、ビールなどアルコール類は飲みません。ロッジのレストランには置いてありますが、高山病にはよくないとのことです。

 仕事をバリバリやる人は、中高年でも食べる量がちがいます。若い人もそうです。これはエネルギー消費が多いからでしょう。体力が必要条件とサラリーマン時代に悟りました。したがってわたしも若いときはたくさん食べたものですが、60歳を越えるころから急速にその量を減らしました。心なしか体力も急速に低下したようです。トレッキングは、高地ではより体力が必要です。すなわち食べる力がないと、途中でバテてしまいます。わたしもできるだけたくさん食べようとするのですが、今回のトレッキングでは不眠などもあって小食家になってしまいました。体調を整えるのに失敗したといえます。同行の加納さんはビッグ・イーターです。驚くほどの量を驚くほどのスピードで食べます。したがって毎日元気一杯に、わたしの数倍の速度でそこらじゅうを歩きまわっていました。ちなみにシェルパ族もそうです。まさしく“根は食うにあり”です。

ナムチェ・バザールのにぎやかな一夜

わたしたちのガイド氏は、大人しいのですが芯は強そうです。いま45歳ですが、キッチンボーイを14年やってガイドへ昇格したそうです。ガイドになるには、知識に加えて経験、5年更新の資格が必要だそうです。肉体がおとろえる55歳ぐらいがこの仕事の限界ともいっていました。気の毒なことにかれの父親は、40年ほど前に日本の登山隊をガイドしていて遭難死したそうです。自分は物ごころつかないときです。かれもガイドになってエヴェレストにも2回行ったそうですが、天候不順で直下のサウスコルで撤退しました。それ以来、母親が反対するのでエヴェレストには行かないことにしたといっていました。子供は4人で、長男、長女はカトマンズで勉強中であり、次男はロッジを手伝いながら間もなく高等学校に進学です。レストランを手伝いながら勉強していました。ひじょうに純朴な少年で、他の子供たちもそうですが、とても幼くみえます。さらに、親を亡くした子供を引き取って育てています。このようなセーフティネットがシェルパ族の社会でできているようで感銘を受けました。不在がちの夫に代わって、事実上は女将さんがロッジの経営や生活をきりもりしています。家族全員が助け合いながら生活している姿は、日本ではもう見ることは少なくなったようです。

ロッジのレストランは、今夜は日本人だらけです。10人のご婦人に2人の男性の一行が食事をしています。かれらは通常の旅には飽きた人たちで、人のあまり行かないようなところを選んで旅している一行のようです。みなさん60歳を越えている冒険旅行大好き人間とみました。食事もペロリとたいらげ、中々たくましいご婦人方です。これに正体不明の写真愛好家の怪人おじさんとわたしたちが入ってしばし談笑しました。この他にもふたりの母娘が泊まっているとのこと。世界中どこに行っても日本人は見かけます。何かを求めて放浪している人、見聞を広めにきた人などなど。そのほとんどがマナーを守って旅しているようです。日本人の海外旅行も、多様化し成熟してきたのかもしれません。

どこのレストランでもそうですが、ストーブは夕方45時ごろに火が入ります。それまでわたしたちは寒くてたまりません。燃料は薪が主体ですが、これにヤクやゾプキョのふん、油などが補助的に使われます。一般に2時間程度でもえつき、薪の追加はありませんので、お客はその間に食事をすまさねば寒いことになります。資源節約の精神が生きています。

また温水シャワー室が別にありましたが、部屋間の移動で湯冷めすると大変なので今日もなしです。けっきょく成田を発ってトレッキングをしてカトマンズに戻るまでの14日間、シャワー、風呂なしですごしました。さすがに自分自身が臭く感じられたものです。ここで怪人おじさんが、「アカでは人は死なない」と力説してくれました。なお髭も剃りませんでしたが、あまりに貧相になってきましたので帰路も宿泊したこのロッジで剃り落としてサッパリしました。また、シェルパ族が風呂に入らないことが話題になりましたが、怪人おじさんが、「かれらは数日に一度は体をきれいに拭いている」と、また「手足、顔のアカは紫外線防止に役立っている」ともいっていました。

村を散策してみます。といっても高低差が厳しいので息が切れます。欧米人もチラホラ見かけますが、混んでるほどではありません。インターネットカフェでわたしへのメールを点検します。ついでに外貨交換し、電池やキャメルバッグを購入します。何でもできますし、何でもあります。

やることもないので早めに寝ますが、水分を多くとっているのでなんどもトイレに起きてまいりました。ライナーから出たり入ったり、寝袋、靴の脱ぎ履きもあり、寒いこともあって眠気も吹っ飛んでしまうのです。ただでさえ寝つきの悪いこともあって、旅のあいだ不眠に悩まされたのは誤算でした。11日は朝から軽い頭痛を感じましたが、キリマンジャロでもあったことですが、高山病症状の一種だと思われます。ひと晩寝ると良くなることを期待します。

高度順応でシャンボチェの丘、そしてクムジュンへ

ナムチェ・バザールの標高は3,440mです。といってもかなり急な斜面に村が張りついていますので、上部と下部とでは200m近くの高低差がありそうです。ここで高度順応を図るためもう一泊します。その日は高いところに上って低いところで寝るのが高度順応の基本ですので、シャンボチェの丘やクムジュン村を日帰りで訪ねます。

朝から頭痛はほとんどしません。すずめ、カウベル、犬、子供の声で起床しました。湯たんぽはまだ温かく、また気温も意外と温かく感じました。9時にロッジを出てシャンボチェ空港やパノラマホテルを経由して、11時ごろ標高3,800mのエヴェレストビュー・ホテルに着きました。高低差は360mほどですがきびしい坂道です。高所では、とくに朝の体の動かし始めがきついものです。ヤクやゾプキョがとんでもない急斜面で枯れたようにみえる草を食んでいます。やっとこさホテルに着き、テラスでひと休みです。休憩しているトレッカーはチラホラと見かけますが、宿泊客は値段が高いこともあるのか少なそうです。建設時には、景観保持をはじめ環境問題で物議をかもしたようですが、ホテル自体は木立ちで巧妙に隠され目立たちません。この洋風の近代的ホテルは日本人の出資と経営によるもので、ホテル建設と先ほどとおった空港はセットで開発されたのですが、開港とどうじに墜落事故をおこしそのまま空港は閉鎖されてしまいました。数ヵ月先には再開して、カトマンズからお客を運ぶ予定だそうです。何といってもこのホテルや一帯の丘の“ウリ”は、8,000m峰のエヴェレストやローツェ、外観上から“母の首飾り”といわれる標高6,814mのアマダブラム、ナムチェ・バザールの村を見守るタムセルクなどが一望に見渡せることでしょう。その景観に圧倒されますが、空気を吸い込むと心や命が洗われたような感じがします。ただし今日はすこし霞んでおり、これは谷ぞいの焼畑の煙が風とともに吹き上がってきているのが原因とガイド氏がいいました。遠くには、明日宿泊予定のひとが常時住む最奥地であり、またチベット仏教のお寺であるゴンパで有名なタンボチェの村が見えています。

これからクムジュンへ周りますが、この村を護る標高5,761mのクンビーラもくっきりと見えています。水の神“の意味をもっていますが、豊富な地下水を供給し、農地や村人の生活を支えているとのことです。ネパールのほとんどの山々は登られているそうですが、この山は信仰の対象のため登山禁止とのことでした。クムジュンに入るとどこからか犬が出てきて、散歩している途中なのかわたしたちを案内してくれました。静かな村です。多くの家屋とロッジ群は、ナムチェ・バザールより多そうです。ここも交通の要衝であり、地形的に平坦地が多く生活しやすそうですが、なぜナムチェ・バザールのほうが発展したよくわかりません。

村内には、エヴェレスト初登頂者エドモンド・ヒラリーが建てた、通称ヒラリースクールがあります。あまり知られていませんが、かれの偉いところは、世界中から寄金を集めて貧しい地元の発展に寄与してきたことにあります。どこでもそうですが、子供たちは希望の星です。教育に力を注いできたかれが、この地方で深い尊敬をうけていることは言うまでもありません。起伏にとんだみちを、2時間ほどかかるんではないかと思いますが、ナムチェ・バザールからも多くの子供たちが通ってきているそうです。みんなの目はキラキラと輝いています。なお日本からの寄付校舎もあって、なにか誇らしいまた清々しい気持ちを持ちました。最近は日本人も、ごく自然にボランティア活動にいそしんだり寄付したりなど、社会貢献する人がおおくなってきました。わたしもその気持ちが理解できる年齢になってきたようです。

ナムチェ・バザールへの帰途、国営のヤク牧場がありました。といってもその辺に放牧してあるのですが、ヤクとゾプキョはこの地方の人びとの生活を支えています。荷物の運搬用に、農耕用に、そして食料になります。そしてかれらの“ふん”は燃料にもなります。生活に役立つだけでなく、かれらから教えられることも多くあります。話題の多いヤクとゾプキョについては、あとでも述べる機会があります。

午後3時すぎにナムチェ・バザールに帰り着きました。その前に立ち寄った小さなシェルパ文化博物館では、シェルパ族の古い生活様式や道具などが展示されています。今になお伝統が受け継がれてきているのに気づきます。また、エヴェレスト登頂者の写真などがあります。新聞切り抜きの写真の質は悪いのですが、植村直巳氏、田部井淳子氏、三浦雄一郎氏らの名前も見えますし、多くの登山隊をサポートした数多くのシェルパがほこりを持った顔でかざられていました。

部屋で休むと昼寝してしまうので散策にでかけることにしました。昨日、来るときにとおったストーパの横で、農婦さんたちが耕作中でした。人力でたいへんそうです。もちろん前に述べましたように、ゾプキョなども使います。明日からの道中のあちこちで農地は見かけましたが、地形上から一区画の面積はせまく、それぞれ石垣で隔てられています。石垣は農耕作業にじゃまで、また設置するのもたいへんだと思われますが、敷地境界を示すだけでなくゾプキョなどが進入して畑を荒らすのを防ぐためもあるとのことです。さらに休耕中は、ゾプキョを囲い込んでおくのにも使われていました。作物は、土地がやせていることもあって小ぶりのジャガイモが多いようでした。日本からの農業開拓の支援事業もあるようで、“りんご”の試験栽培も試みられています。いずれにしても農業だけでは経済が成り立ちません。ネパール国の収入の4割は観光業だそうですが、この地方の人びとも多くが世界中からのトレッカーに依存した観光業関連の仕事についているようです。ただし観光業は治安や経済不況の影響を受けやすいので、そのつどこの地方の人びとの生活を脅かしていると聞きました。世界不況の影響がこんなところにも現れています。

武者ぶるいしながらの出発

 これから今夜の宿泊地パクディンへ向かいます。このルクラからパクディンをとおってナムチェ・バザールに至るみちは、ドォーダコシ(川)の深い峡谷の中腹にきざまれています。そしてエヴェレスト街道中もっとも交通のにぎやかなところです。トレッカー、ポーター、行商人、地元住民などなどがひんぱんに行き交っており、ヒマラヤにきたなぁとあらためて感じ入ります。太っちょの欧米人、どう見ても65歳以下には見えない日本人のお元気な一行、またヨレヨレに疲れて降りてくる人びとも多く見かけます。年間2万人のトレッカーが訪れるそうです。またゾプキョがカウベルを首につけて闊歩していきます。アルプスのカウベルをつけた放牧牛といっしょです。今日はのどかな天候で、暑くなってきたのでセーターを脱ぎました。また標高2,6002,800mの低い箇所を歩くため、木々は多く緑も豊かな風景です。桜、桃もチラホラ、また高山植物でしょうか、小さなリンドウみたいな花も咲いています。

 今日明日は、今回のトレッキングの準備区間といえます。ひざの調子をたしかめながら、また、スティックの使い方をトレーニングするのです。街道は、踏み分け道、石だたみ、じゃり道、石積み階段などで非常に歩きにくいものです。危険でもあり、またキリマンジャロ登山いらい完治していない左ひざの問題もあるので、一歩一歩が歩き方の練習です。体重を左ひざにかけないようバランスをとる練習もします。先は長いし、標高は高くもっともっと険しくなりますので、それも無意識に自然にできるようにならなければなりません。したがってどうしてもピッチが上がらずノロノロ歩行になりますので、重い荷を背負ったポーターやゾプキョにも抜かれてしまいます。ひざの痛みはありませんが、時間とともに疲労がたまっていく感じがしてきます。なんとか最後までもってくれればよいのですが。

前回にも感じましたが、ふかい谷間の中腹を歩きながら、遠くに白雪をいただいた高峰と大自然、点在する民家やロッジ、行きかう人びとや家畜などが一枚の絵に描かれています。ここに天・地・人のすべてが凝縮されています。まさしく絶景の連続で、歩きながらすごい興奮を覚えますし武者ぶるいします。

パクディンまでは下りがおおくて距離もみじかく、いわば予行演習ですが、早くも2時前に到着してしまいました。ロッジのテラスで日向ぼっこを楽しみます。日ざしがあるところでは暖かいのですが、陽が落ちると急激に温度が下がり寒くなります。部屋に入るとさらに寒いので、レンタルした上物のダウンジャケットを着込みます。川べりに降りてヒマラヤの雪解け水にさわりましたが、冷たくてビックリしました。

さっそくですが高山病対策の準備もしなければなりません。主な準備と対策は、水をたくさん飲む、その水に粉末のポカリスウェットを溶かし込む、“食べる酸素”を食べる、深呼吸をする、ゆっくり行動する、高度順応日を設ける、昼寝はしない、アルコールは飲まない、などです。これらに加えて、ポーター君が酸素ボンベを運んでくれています。わたしたちは携帯式の軽量のそれを依頼したつもりでしたが、10kgほどの重量物で、わざわざ運んでもらったのですがけっきょく使うことはありませんでした。

食事の注文は、わたしたちのガイド氏がロッジ備えつけのノートに書き込みます。そしてそこの女将さんが中心となって作ってくれているようで、その家の子供やお手伝いのひとが応援をします。このスタイルは、その後どこのロッジに行っても同様でした。坊さまが泊まっているようで、お経をとなえる声がきこえてきます。また隣室では数人があつまってラジオを聴いたり駄弁ったり、トランプしたりでうるさくて眠れやしません。寝るのは、昼の着たきりスタイルのままライナーに入り、そして2重の寝袋に潜りこんで寝ます。慣れていないので、寝袋におさまるまで時間がかかったりジッパーが食い込んだりで毎晩往生しました。私はトイレが近いので、そのつど寝袋への出入りでつかれます。が、目はバッチリさえて寝つけません。電気は3年前にきたときはソーラー発電だったのですが、いまは小水力発電で供給されていました。しかし発電容量が小さいためかすぐに停電します。ただちにソーラー発電に切り替えているようですが、暗くて頼りにならないので持参のLEDヘッドランプを脇において眠ります。キリマンジャロのときとは違って、今回は新兵器を持参しました。

インフラとトイレ考

 まず人や物資の運搬ですが、地形の険しさから車の類はまったく使えません。したがっておおくをゾプキョやヤクあるいはポーターに頼ることになります。あとは自分の脚のみです。調子に乗ってどんどん奥地まで歩いていくと、帰りも同じ区間を歩かねばなりませんので大変なことになります。あたりまえですが、帰りの体力も必要なのです。途中でタクシーを呼んだり、バスに乗ってトレッキングを中断するわけにはいきません。しかし実際には、たとえば極度の疲労、重傷、重い高山病などで動けなくなるトレッカーも多いようで、救援のサービス体制も年々整備されてきているようです。ヘリコプターをはじめ馬、ヤク、ポーターなどのお世話になることになります。わたしはひざが本調子でなかったので、最悪ヤクかポーターにかつがれることも想定していましたが、とにかくユックリ歩き、ひざに負担をかけないスティックの使い方をマスターして何とか自力で帰り着くことができました。また、後述しますが、最後のカラ・パタール登頂に固執せず、あっさり撤退して体力の温存をはかったことも正しい選択であったかなと思っています。何はともあれわたしはまったくの素人ですから、決して無理をしない方針をとることにしていました。

 電力が急速に普及してきているのにビックリしました。3年前にきた際には、大きな村(町?)ナムチェ・バザールを除いて、途中のチョットした村やロッジではソーラー発電の導入がやっとでした。昼間にそれぞれのロッジが太陽光発電でバッテリーに充電しておき、夜にそのレストランの豆電球を灯すしくみです。その光量は乏しく、点灯時間も短いものでした。ところがパクディンでは、ナムチェ・バザールと同じく、付近の沢水を利用して水力発電をし、ロッジや裕福な家庭に送電していました。まだ発電容量は小さく停電も多いようですが、着実に生活の近代化が進んでいるようです。わたしは、まだ電気もきていないところを旅するのが好きなのですが、現地の人の生活向上も必要なのはいうまでもありません。電力の普及により今後この地方はますます近代化がはかられ、一般の観光客でもどんどん訪れることができるようになるのでしょう。

 電気が通じると、電話やケータイも普及してきます。前回きたときも、道中は無理としてもルクラやナムチェ・バザールでは自由に使えましたし、インターネットも可能でした。わたしはトレッキングなどに文明の利器を持ち込むのは嫌いなこともありますが、この旅でケータイを持ち込もうなんて思いつきもしませんでした。ところが同行の加納さんが衛星電話を持っていくというので驚きましたが、後で分かったことですがかなり田舎の地方でも今ではケータイが使えるようです。わたしたちのガイド氏もときおり使用していました。また、お坊さまとトレッカーしかいないテンボチェでも、ネットカフェがあってビックリした覚えがあります。これではますます聖地ヒマラヤの俗化が進み、現実と離れた世界を求めて来ているわたしからするとすこし残念な気がします。ついでに、キリマンジャロ登山では、ガイドが標高3,700m地点からケータイしているのを見て、何だかがっかりしました。どうやらどこまで行ってもわたしたちは、技術文明の網から逃れることができないようです。

 わたしはお腹は丈夫なほうで、先進国では生水を飲んでも平気です。しかし発展途上国や低開発国ではいくらなんでも控えることにしています。ところがうっかりして、トレッキングを無事におわりカトマンズに着いた夜、久し振りにビールを飲んで打ち上げをしました。そして夜中にのどが渇いて水道の水をがぶ飲みしてしまいました。そのあとひどい目にあったのはご推察のとおりです。いまでは値段はともかく、低開発国でもペットボトルが売られているので安心になりました(全面的信頼は危険という人もいますが)。エヴェレスト街道でもどこでも売っています。奥地に行くほど値段が高くなるのは仕方ありません。ポーターが運んでくるのです。現地の人びとは、付近の沢水や湧水を汲んできて、あるいは細いホースで導水して利用しているようです。生水のまま使うのは洗顔程度でしょうが、煮沸している様子はあちこちで見かけました。なおヒマラヤ奥地を水源とするドォーダコシ(川)の水は、氷河の雪解け水であることから白くにごっており、上水としては使いものにならないようでした。

 エヴェレストはゴミだらけと聞いていました。登山家の野口健氏が清掃運動に取り組んでいるのをTVで見たことがあります。しかしわたしたちが通った街道すじはそんなことはありませんでした。ゴミはめったに落ちていませんでした。エヴェレスト登山隊が利用するエヴェレスト・ベースキャンプやその奥などでは汚れているのでしょうか。道すがら、所どころに大きなゴミ篭(“エコかご”といっているようです)がおいてあります。あまりゴミは入っていませんので、多くはトレッカーが持ち帰っているのかもしれません。わたしたちも、チリのひとつも捨てるようなことはしませんでした。地形は険しく高度も普通ではありませんが、それにしても誰がエコかごを置き、誰が集積しているのでしょうか。あとで、国際機関のサポートを受けながら、サガルマータ大気汚染防止委員会やネパール観光局が主体となって運営していることが判明しました。あまりにも荘厳なそして気高い生活道路、こんなところにゴミを置いてくるなんてとんでもないことだと思います。                       

食いだめ、寝だめ、それにトイレの時間コントロールができないのは、ヒトの進化上の課題でしょう。それはともかく、旅びとにとってトイレは最大の関心事です。いつ襲ってくるかわからない変事に対応しなければなりません。都会ならまだしも、先進国でも地方にいくと、どこにトイレがあるか気がかりになります。まして発展途上国や低開発国になるほど不便になりますので、ある種の度胸や気持ちの柔軟性が必要になります。私は意外と順応しやすいようで、どの国のどこでもそこのやり方をよく観察してすぐに合わせることができます。ところで、エヴェレスト街道ぞいはどうでしょうか。最悪の場合は、いわゆる“きじうち”せざるを得ません。ところが急斜面の中腹を歩くことが多く、足場がわるくて危険です。平地でも、高山のため樹木がなく隠れ場所を探すのにひと苦労です。要するに、環境汚染もありますが意外と適地は少ないので、やはりトイレはあらかじめ済ませておくことです。ロッジや店では、屋外にトイレ小屋を設置している場合があります。これがなんともローカル的で風情があります。板づくりですがすき間だらけです。やはりすき間のおおい床は比較的ひろいのですが、まん中に穴があいているだけです。なんとなく落ち着かないのですが、困ったときにはこれでも嬉しいものです。このトイレの特筆すべき点は浄化方法でしょう。床に細い枯れ木や枯れ葉が積まれています。どうやら、ことが済むと上からパラパラとまいて被せているようです。すなわち、サンドウィッチ状に重なっていきます。これにより有機物の分解が早められるのではと思われますが、最後は肥料として使うとのことでした。まさしく循環型社会の一例です。中には崖からせり出して作られているトイレもあり、柱も細く落下しないかチョット怖い感じがしますが、モノはそのまま落下して沢などに流れ込みます。次に多いのは、便器の色やデザインはまったく異なりますが、インドや日本でも使われている水洗式のトイレでしょう。水洗式といっても、前方に空いている穴へバケツに汲んである水を空き缶で汲んで押し流すものです。その際には決して紙を使ってはいけません。現地の人は左手で処置しますが、わたしみたいな紙を使う民族は脇のゴミ篭に入れることになっています。たぶん排水管は細くて詰まりやすく、紙の処理設備もないことによるのでしょう。今回のトレッキングでは比較的ハイクラスのロッジに泊まりました。おどろいたことに、奥地に行ってもそうでしたが、ほとんどが洋式トイレを装備していました。もちろん便器は座るのみで、紙を使ってはいけないことは同じです。

以上、いくつかのインフラ事情を書いてみました。先進国からのトレッカーを対象とした観光業がますます重みをもってきているのが垣間みえます。ロッジ間の競争、サービスの競争などが、急速にこの地方の生活を変えていっているようです。便利な生活をもたらす文明化は多くのトレッカーを招くことができますが、一方、過度な競争からくる人心の荒廃、さらには貧富の差の拡大を招いている感じがしてなりませんでした。ロッジ経営などで成功している人はよいのですが、途中途中には貧しい家屋や子供たちも多く見かけます。急速な発展は社会にひずみを残すことは、わたしたちは経験ずみです。シッカリとした社会基盤整備など、日本がサポートできることは多いのではないでしょうか。

エヴェレスト街道への道

それは思いつきから始まった

2005年の暮れから年始にかけて、航空会社のマイルエージがだいぶ貯まってきたのでどこかに行くことを考えていました。ロマンティック街道バイクの旅を経験したこともあって、すこしワイルドな旅をしたいと思います。文化遺産を中心とした旅あるいは自然遺産の旅かですが、後者のほうが何やら心を震わせるようなような感じがしました。獲得したマイルエージで渡航可能な国のリストの中に“ネパール”の文字が見えました。わたしにとってネパールはそれまでは遠くて遠い国でしたが、急に興味が湧いてきてさっそく観光ガイドブックやインターネットで情報収集です。やはり思いつきのたぐいです。

とりあえず航空券を予約しなければなりませんが、すでにマイルエージが利用できる航空便は満席でした。しかしもう行きたい気持ちが満々ですので、格安チケットを予約します。カトマンズに着いて何をするかは、それから考えることにします。観光ガイドブックなどによりますと、ネパールは魅力がいっぱいのようです。その中のひとつにヒマラヤトレッキングがありました。何だかこれもおもしろそうです。前にも述べましたように、わたしは山歩きの経験は子供時代の遠足をのぞいてありませんし、また好きでもありません。とうぜんながら道具はいっさい持っていません。しかしガイドやポーターを同行すれば、そして道具をレンタルすれば、わたしみたいな素人でも行けそうなことが分かってきました。しかしこの時点ではトレッキングは選択肢の一つであり、行程計画のなかにまだシッカリとは組みこんではいません。

エヴェレスト街道とは

 ネパールにはトレッキングのルートが数多くあります。日帰りコースから1ヶ月以上要するコースもあります。このように定番のコースメニューもありますし、自分で自由に組み立てるトレッカーも多いようです。人気のあるコースでは随所にロッジがありますし、キャンピング道具を持ち込んでテント宿泊することもできます。どれを選択するのかが問題となりますが、わたしたち日本人にとって“エヴェレスト”の響きには特別のものがあります。行くならエヴェレスト街道かなぁとふと思いました。

 エヴェレスト街道とは、標高8,848mのエヴェレストを近くに見に行く、あるいは登りに行く人がアクセスに利用する道路につけられた愛称です。カトマンズ東方の、バスで7時間にある村、ジリからスタートし、ルクラ、ナムチェ・バザールをとおって標高5,545mのカラ・パタールの丘や5,360mのゴーキョ・ピークあるいは5,364mのエヴェレスト・ベースキャンプにいたるルートで、いずれも片道2週間ほど要します。もちろん急坂もおおく、またデコボコの悪路のため車のたぐいはまったく使えません。自分の脚だけがたよりです。しかし一般のトレッカーはそんなに長く休みが取れませんので、カトマンズからルクラまでフラフラと飛ぶチッチャなプロペラ機を利用し、そこからスタートするのが普通のようです。ルクラから、エヴェレスト山を10km先に展望できるカラ・パタールの丘までは60kmほどでしょうか。

 なおエヴェレスト山は、ネパールではサガルマータ、また中国ではチョモランマと呼ばれています。

いざアマチュアトレッカーの初陣

 ネパール内の行程を決めずホテルも決めず、成田-バンコック-カトマンズ間の往復航空券のみをもって出発です。航空券は往復フィックスですから、往復に要する日数を除いた8日間はカトマンズに着いて決めることにしました。エヴェレスト街道トレッキングを短期間でも経験することを第一目的に考えていましたが、この時点ではまだなんの具体的手配や準備はしていません。行き当たりバッタリで決めるのですが、ひとり旅ですから気楽なものです。トレッキングシーズンの2006226日午後1時ごろに、カトマンズのトリブヴァン国際空港に到着しました。当時は政治勢力のマオイストがネパール各地を占拠する内戦状態でした。しかし外国人や観光客には危害を加えないといわれていましたし、これから向かおうとするエヴェレスト街道ぞいは、外務省危険情報を見ても大丈夫そうでしたのでとりあえず行ってみることにしました。

 ビザの発給と入国審査を受けてロビーに出ました。まず現地通貨に交換しておかないと市内へのバスにも乗れません。できればこのまま国内便に乗り換えてルクラまで行きたいものとキョロキョロしながら出口方向を見ると、わたしみたいなフリーなお客を探しているエージェントがうるさく声をかけてきます。その中に、各社の旅行代理店が案内ブースを開いているのが目にとまりました。ここでルクラ便を予約してやろうと近づきます。たちまち3人の営業マン(?)が、いいカモがきたと思ったらしく、わたしをとり囲んで熱心にまくしたてはじめます。「ルクラ便は天候が悪くなったので今日はおしまいである。明日からのトレッキングの手配を、市内のわたしたちのオフィスでやりましょう」といいます。みんな正直そうな顔をしていますし、空港に営業所を構えている会社なら大丈夫だろうと思ってついていくことにしました。すごい喧騒と雑踏の裏道をとおり、そのなかでも一番ゴチャゴチャしたタメル地区にある小さな旅行会社に案内されました。チョット危ない感じで不安になります。

 日本やわたしの出身地である福岡にも行ったことのあるという社長サンが出てきて、さっそく行程や値段の交渉開始です。ジーパン、スニーカー、何枚かのインナーシャツぐらいしか準備していないわたしの服装を見て、またトレッキングに振り向けれる日数を数えて、さらにわたしが高所や山歩きにズブの素人であることを考慮して行程を組んでくれました。ほんのサワリのエヴェレスト街道トレッキングの旅です。すなわち明朝早くに空路でルクラにとび、ナムチェ・バザールとその周辺まで行ってもどってくるガイド兼ポーター付きの55日の旅です。手書きですが、以上の旅行条件にパスポートや旅行保険証のコピーをアタッチして契約書を取り交わします。ついでに今晩のホテルも探してもらいました。

いつかもう一度

この短期間ながらのエヴェレスト街道トレッキングの旅は、わたしに強烈な印象を残してくれました。この経験が、後日のキリマンジャロ登山に、さらに今回の2回目のエヴェレスト街道トレッキングの旅につながっていきます。ネパールを訪れる観光客のうち40%はリピーターといわれます。それだけ人びとを惹きつける何かをもっているのでしょう。わたしもリピーターとして帰ってきたのです。

前回の旅では標高2,800mのルクラから出発し、いったん2,600mまで下がってナムチェ・バザールの先のシャンボチェの丘に建つエヴェレストビュー・ホテルに立ち寄り、標高3,800mに達しました。ネパールのトレッキングルートはいずれもそうですが、もともとはその地方一帯に住む人びとの生活道路であり交易路です。そしてトレッキングや登山のために、延長されたり新たに開発された道が付加されたものです。エヴェレスト街道もそうです。ポーターたちは重い生活用品を背負い、ヤクやゾプキョ(ヤクと牛の混血種)とともに行き交っています。その道を世界中からきたトレッカーや登山隊がお借りするのです。付近は6~8,000m級の山々がそびえたち、シャンボチェの丘からは名峰タムセルクはすぐそこに見えます。遠く30km先には標高8,848mの世界最高峰エヴェレストや第4位の8,516mローツェがくっきりと望めて、静寂ななかに荘厳な雰囲気が感じられます。たしかに、“神々の座”といわれるだけあってヒトの世界を超越した存在感があります。わたしは出発点のルクラから、ドォーダコシ(川)の深い峡谷ぞいにとおるエヴェレスト街道、そこに点在する民家、そのズーッと奥にそびえ立つ雪氷をいただいた高峰の第一景を見て、今までにない不思議な感動と厳かさにうたれて体がしびれたのを覚えています。

住んでいるのはチベット系のシェルパ族です。わたしたちから見ると電気も水も不十分な質素な生活ですが、かれらは厳しい自然にいだかれ、チベット系の文化や宗教をたいせつにする誇り高い人たちです。誠実そうな澄んだまなざしが印象的でした。

技術社会の便利な生活とはかけ離れたなかから得られるトレッキングの精神的充実感と肉体的疲労感は、自然のなかに生きるヒトの原点を感じさせてくれるものでした。詳細は次においおい述べていきたいと思いますが、いつの日かもう一度おとずれることを願っていました。

めぐってきたチャンス

 200623月にエヴェレスト街道のホンの入口をトレッキングして以来、衰えつつある体力を意識しつつ、その間、キリマンジャロに行ったり、その後にひざを痛めたりしました。そして今回のチャンスまで3年の月日が経ってしまいました。こんども空路でルクラに入り、前回おとずれたナムチェ・バザールまでは同じ行程ですが、その最奥地のカラ・パタールの丘、標高5,545mをめざします。エヴェレストから西方ほぼ10km地点で、1212日の行程計画を2008年の11月ごろからひそかに立てはじめました。

 ここで現在の職場の同僚、加納さんが参加したいといってきました。かれはわたしより30歳以上も若く、わたしと近くをバイクで走ったりするスポーツマンです。道中、体調をこわしたり事故でもおきると、ふたり旅のほうがずっと心強くなります。かれの婚約者も土地カンのあるわたしと行くことで、もちろんわたしの家内も同行者がいることで安心していました。ところでわたしの家内は、わたしが60歳をこえて危なっかしいアマチュアの旅をはじめたので、なかばあきれるとともに、そのうちどこかで行き倒れるのではないかと心配しています。今回の旅も最初は反対のようでしたが、最後はあきらめて「海外旅行保険にシッカリ入っといてね」といっていました。

 ともかく、今回の機会を逃すわけにはいきません。こんどは前もって現地の旅行会社とeメールで相談しながら周到に行程計画をつめるとともに、持参あるいは現地でレンタルする装備品を確認します。標高5mをこえる高地に行くことから、気温は-10℃ぐらいに下がることも想定しておかねばなりません。大きなものは、寝袋、レインスーツ、ダウンジャケットを借りることにします。またトレッキングシーズンなので、ちゃんとしたガイドやポーターを手配しておく必要があります。わたしはシェルパ族のファンなので、それも特別に要望しておきました。さらに宿泊するロッジも確保しておかねばと思いましたが、行き当たりバッタリにガイドの判断で宿泊することになっていました。メールなどを利用した予約システムは不備だし、第一予定どおりに歩けるかどうかも分かりません。

 いよいよ体づくりに入ります。キリマンジャロ行きでも利用した近所の神社の階段を昇り降りしたり、ジョギングで体調を整えます。冬は体重が落ちにくいので、短時間ながらハードに毎日のようにトレーニングします。チョットやりすぎるとどこか痛んだり、風邪をひきます。年をとるにしたがい、調整が困難になるのがわかります。それでも体重を61kgにしぼって何とか出発できました。

ふたたびエヴェレスト街道に立つ(第1日目)

出発前のバタバタ

またまた体調を整えるのに失敗です。キリマンジャロに行くときもそうでしたし、インドでもそうでした。ロマンティック街道バイクの旅のさいには、出発1日目の夕方に、風邪ぎみにくわえて軽い腰痛に見舞われて大いにあわてたものです。原因はわかっています。すなわち体力をつけるための事前トレーニングのやりすぎ症候群です。疲労がたまってくることからくる風邪です。悪いクセで、できるだけ運動しないと気がすみません。ほどほどがよいのですが。すぐに治るだろうとたかをくくっていましたが、成田空港に着くとなにやら頭痛、寒気そして熱っぽくなってきました。せっかくの旅立ちの高揚した気分が萎えてしまいます。あわてて総合感冒薬や頭痛・解熱剤をのみます。機内では症状は軽減しましたが、薬でおさえているせいか何となく違和感があります。用心して機内ではアルコール抜きにしました。これからバンコックで一泊のトランジットをしますが、あまり歩き回らないようにしたいと思います。が、栄養はつけねばなりませんので、タイスキをたらふく食べました。

 カトマンズに到着しますと、空港に旅行社からの迎えがきていました。サービスの一環です。今回は、わたしはけっして若くないので、案内や安全サービスも充実した大きな旅行社に依頼しました。とうぜん緊急時の安心感は向上しますが、費用も高めになるのは仕方ありません。さっそく彼らのオフィスをおとずれ、日程計画と契約内容の確認、さらにトレッキングのレンタル用品の受けとりです。ところが契約書らしきものがありません。口頭での説明と、注意書きやガイドやポーターへのチップの相場などが書かれたメモのみです。前回きた際には、小さい会社ながら契約書らしきものがあったので、これには不安になりました。途中で置いていかれたのでは命にかかわりますので、なんども確認です。そして残金を支払いました。結果的には口頭によるあるいは事前のメールによる契約事項をキチンと履行してくれたのですが、現地の慣習に不案内な者にとっては不安なものです。   

 あすは早朝の出発ですが、日本料理屋さんで出陣式をしました。カトマンズのタメル地区は、わたしの好きな日本料理屋が多くて助かります。わたしは何でも食べますが、トレッキング中は日本料理はしばらくガマンです。早々にホテルに戻りましたが、気持ちが高ぶってなかなか寝つけません。

カトマンズから空路ルクラへ

ルクラ空港は、標高2,800mの山腹の一部をけずりとって建設されています。何も知ら

ずにこの空港を最初に見たときは「ギョッ」としました。なんと滑走路への進入部は断崖絶壁、終端部は岩壁、しかも滑走路は3400mぐらいしかありません。それに加えて、飛行機の加速・減速を高めるように滑走路にかなりの勾配がついています。したがって谷側からしか離着陸できません。今でこそ舗装してありますが、数年前までは粉じんを巻きあげながら滑走していたようです。わたしは土木屋さんですが、こんなあぶない飛行場は見たことも聞いたこともありません。案の定、事故が多いようです。半年前に大事故があったばかりで、滑走路先端の岸壁に激突し搭乗者全員が亡くなったそうです。風向きや気流により運休することも多く、そのつどトレッカーが空港に滞留して混雑するようです。こんどの行程中、もっとも危険なのはルクラ空港の離着陸といっていいかもしれません。

5時半にカトマンズのホテルを出て6時半の飛行機に乗ります。時間表は有ってないよ

うなもので、気流、天候の安定した早朝にピストン輸送(1520人乗りの双発プロペラ機)するのです。ルクラ空港での着陸にはキモを冷やしました。“ゴッツーン”とすごい衝撃の着地です。同乗者も驚いたようで、複雑な苦笑いをしています。ともかくも行程上もっとも危険な箇所をクリアしました。すでに手配してあるわたしたちのガイド氏と2人のポーター君が出むかえてくれました。いずれもこの一帯に住むシェルパ族です。まだ陽があたらないこともあって、寒くてビックリです。レストランで小休止している間に、8時過ぎから日ざしがとどきはじめました。

手袋、スティック、水筒などを買い込みます。わたしは山歩きの装備はほとんど持っていません。趣味でもないし今後つづける年令でもないことから、必要なものはありあわせでまかなうか、借りればよいと思っています。それに山岳用品は高価で、最新式の完全装備を購入するとなるともったいない気がします。これらの用具で頭の先からつま先までキメこんで、まるでサイボーグのようになるのも嫌です。話は少しそれますが、米国ボストン市内の“ザ・カントリークラブ”でゴルフを楽しんだことがあります。ここはUSオープンも数度開催された超名門クラブです。もちろん会員の同伴がないとプレーできません。付き合ってくれた会員のジョン・ウェイン氏は(本名です)、その辺の豪華な家のひとつから、どう見てもゴルフウェアではない、いままで日曜大工よろしくやっていた一見みすぼらしい出で立ちと古そうなゴルフ道具とともに現れ、あまり上手ではありませんが紳士的にプレーして、また日曜大工をやるといって帰っていきました。これがごく自然なのです。感服しました。それ以来、道具や服装にこらない趣味のあり方はこうあるべきだと思い込んでいることが、わたしの貧弱なトレッキング装備の理由にたしかにあります。


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 エヴェレスト街道トレッキングの旅



1回目:2006227日~33日(5日間)、当時61

2回目:2009310日~320日(11日間)、当時64



                       行程図                                     

還ってきたバックパッカー







還ってきたバックパッカー


出発して間もなく、この風景を見て感動しました。天・地・人を思い起させるからです。






還ってきたバックパッカー


低地部の、といっても3000m以上ありますが、街道沿いには多くの民家があります。






還ってきたバックパッカー


シェルパ族の故郷、急斜面に張り付いていて住みにくそうなナムチェ・バザール。






還ってきたバックパッカー


高峰に囲まれた厳かな雰囲気の中をカラ・パタールに向かいます。






還ってきたバックパッカー


左より、加納さん、わたし、ポーター君(別にもうひとりいますが),ガイド氏。







還ってきたバックパッカー


ロッジ村、ゴラクシェープの後ろのカラパタール(黒い三角形の丘)。この丘からエヴェレストを見るのです。






還ってきたバックパッカー


カラ・パタールから見た、中中央の雪煙をあげているエヴェレスト。この景色を見に来たのですが、私はゴラクシェープで疲労のため断念です。(写真-加納さん提供)

































































































コルカタを徘徊する

 国内旅行もそうですが、その街を知るにもっともよい方法は名所旧跡だけでなく官庁街、繁華街、下町、バザール等々をひたすら歩き回ることです。そのためにわたしはジョギングなどして健脚を保ってきました。

 まずモイダン公園脇のチョウロンギ通りを南下します。ここは目抜き通りで州政府庁舎、大企業の入る高層ビル、ブランド店などが散在しますがあまり面白くありません。それにあまり活気も感じません。それで、下を通る地下鉄で北上しようかと思いましたが、土曜日は午後2時まで休憩とかで止まっています。やはりもっとも確実な自分の足で北上することにします。同じ道を戻りネール通りに入って、大きなバスターミナルがあるエスプラネードに達しました。バスがひっきりなしに発着し、人をどっさり積込み、乗降口の手すりからはみ出している人もいます。驚くのはひどいオンボロバスが多いことで、デコボコなのはまだしも木材等で補強したものさえ珍しくありません。しかし喧騒と人々の多さも手伝って、すさまじいエネルギーを感じますし、バスが市民の足として機能していることがうかがい知れます。

 続いて、ダルハウジー広場に向かおうとしますが、道に迷ってしまいました。人々は忙しそうに歩きまわり、車など混雑がはげしく、ぼやぼやしていると車にはねられそうで道を聞ける状況ではありません。それでも何とか辿り着きましたが、コルカタのオフィス街と言われているわりにはあまりパッとしません。やはりわたしは下町やバザールが好きのようです。それで、次にもう少し北上して、ナコーダ・モスクとその周辺のバザールを訪ねることにしました。ところが、人や車、リクシャーなどが徐々に増えて、そのうちにっちもさっちも行かなくなってしまいました。ちょうどお祭りに引っかかったみたいで大渋滞です。交通規制を一切やっていませんし、はては大型車までもが進入してきて状況はさらに悪化します。クラクションや店の音楽、人々の怒鳴り声などが重なり、わたしはほとほと疲れてしまいました。バザールを見て歩く余裕は失せてしまいます。その真ん中にあるナコーダ・モスクはコルカタ一のイスラム寺院ですが、混雑に気おされて外観を見学するに留めたのは残念でした。とにかくどこに行っても人が多く気疲れします。

さすがに歩くのに疲れてきましたので、今度は南北にはしる地下鉄に乗ってカーリー女神寺院に行ってみることにしました。地下鉄の入口はどこでもそうですが、広い歩道の一部に独立して作ってありかなり大きいものです。ただし、メンテナンスが悪いためか新しいわりには古ぼけて見えますし、照明も暗く感じました。しかし、コンコースやプラットホームなどは広くスペースが取ってあり、日本よりもそうとう余裕ある設計とみました。しかしせっかくたどり着いたのに「地下鉄にはトイレがない」といわれたのにはガックリです。また地下鉄に乗るため小銭に両替しようとすると、これも「おつりがないためダメ」と言われてさらにガックリです。電車は荷置棚のない欧米の標準型であり、地下鉄システム全体をみてもデリーのそれとほぼ同様であり、旧宗主国イギリスの影響が大きいようです。

 地下鉄をカリガートで降りると、ヒンドゥー教のカーリー女神を祭ったカーリー女神寺

院はすぐそこです。なおヒンドゥー教は多神教ですが、それも途方もない数の神々で数千をこえると聞いたことがあります。それはともかく、有名なのはビシュヌ神やシバ神、さらにはカーリー女神などでしょう。地下鉄より寺院にいたる路は、さながら不思議な参道ないし門前町の雰囲気が漂ってきます。ところが先ほどのバザールでの疲れか、わたしは脱水症状ぎみになり目がまわってきました。すこし休んでもだめです。ここはヤギの生贄儀式などがある世界的に有名な寺院であり残念でありましたが、投宿しているサダル・ストリートへ撤退することにしました。今日は、雨上がりの蒸し暑さと、今までの旅の疲労と、人いきれと喧騒さに参ってしまいました。ひとり旅のときは、健康管理にとくに注意しなければなりません。近くの食堂でコーラを立てつづけに2本のみ、シャワーというより水をかぶってひと休みすると元気回復です。地図を見ますと、サダル・ストリートのすぐ北側にニューマーケットがあります。さっそく行ってみることにしました。ここは昔は古いバザールだったのかもしれませんが、今ではすっかり地上2階地下1階のショッピング・モールに建て替わっています。なんの変哲もありませんが、地下街の通路はせまいもので、火災が起きないように祈りながら見物しました。

 帰国便は明朝午前2時発ですから時間はまだタップリあります。しかし夜にひとりで出歩くのは心配だし、他にやることもないので早めに空港に行くことにしました。空港で一杯やったり食事をするつもりです。ホテルのチェックアウトですが、チェックインのさいには確か1200ルピーだったと思いますが、いつの間にか250ルピーに上がっています。マネージャーも朝とは交代しているのですが、交渉してもラチがあきません。大した額ではないので適当に引き下がりますが、このようなことはあちこちで経験しました。すなわち、最初は安く言って取り込んでおき、後で高めに請求するです。わたしの勘ぐりかもしれませんが。ホテル前にいたタクシーで空港に向かいます。週末で街なかが混雑していることもあって1時間ほどかかりました。何度もいいますが、道路幅はけっこう広いのですが、人々があっちにもこっちにもどこにでもいます。チャンドラ・ポーズ国際空港のすぐ近くまで市街地が押し寄せています。

人口1300万人(広域的には4500万人だそうです)のコルカタの国際空港としてはターミナルビルは非常に貧弱です。デリー空港もそうでしたが、空港インフラへの投資はまだまだこれからのようです。空港で飲み食いするつもりでしたが、倉庫みたいな食堂しかなくてとても食べる気になりません。バーやアメニティー設備もないため、ただひたすら待つのみです。そのうち外貨交換の窓口が開きました。使い残したインドルピーを換えておかねばなりません。ここではごまかしが多いと聞いていましたので、わたしは一計を案じました。ガラスごしのカウンターにいるふたりの男の係員に向かって、500ルピー札9枚を、声を出しながら「one,two,・・・,nine」と確認してわたしました。するとひとりがお札を数えながら1枚を抜きだし、「これは偽札の可能性があるからコピーしてよいか」と聞きます。むろん「よい」と答えますと、背後のコピー機でもうひとりがコピーします。そして再び最初の係員がお札を数えなおします。とうぜん8枚で1枚たりませんが、「それはコピー機に残っている」というわたしの指摘に、もうひとりがコピーカバーを上げますとなんとそこには何もありません。「さっきのお札はもどした」と言いはります。ふたり組みにチョロまかされたのです。多少やりあいましたが、多勢に無勢、英語力不足で降参です。多少のことは分かりつつだまされてきましたが、このときは悔しい思いをしながらインドを飛び立ちました。


人種・文化・宗教のるつぼ、カトマンズ

 ここでネパールの首都、カトマンズに触れておきましょう。

 まず国家としての政治の中心であり、近代国家の形態をしめす首都機能が集約されています。つい最近までは王政が敷かれていましたので、それに関係する文化遺産もたくさんあります。ダルバール広場にある旧王宮や寺院、古都パタンなどです。ただ最近の政治的不安定な時期があったためか、停電時間が異常に長くなっていました。3年前は夕方6時過ぎから8時過ぎまでの23時間でしたが、今回は16時間になっている始末です。あまりのひどさにインドが電力支援をしているようですが、インフラの崩壊が国家の不安定を招かないように健全な発展を願うばかりです。

それから商業の中心地でもあります。さまざまな生活用品や食料などが、カトマンズを介してインドやパキスタン、また中国チベット自治区との間で交易されています。これは、雑然としたタメル地区やその近くにあるインドラ・チョークなどのバザールに行くとすぐに分かります。小さな商店が軒をつらね、すさまじい量の大衆物品がならんでいます。そこには、いったい何をしているのでしょうか、けっして豊かとはいえない無数の人々が行き交っています。世界一の“バザール密度”といっていいかも知れません。

また宗教の中心地でもあります。ネパールでは最古の仏教寺院、スワヤンブナート寺院の仏塔(ストーパ)に描かれた仏様の目は、慈愛に満ちた視線を人々に注いでいます。あろうことかこの寺院一帯では、野生のサルと野良犬が仲よく共生しています。チベット仏教の巡礼地であるボダナートの寺院には、遠くチベットから来た巡礼者が五体投地でお参りしています。さらにはヒンドゥー教のネパール最大のパシュパティナート寺院では、インドのバラナースィーとは規模が違いますが、ガートや火葬場があります。ここでは奇妙な格好をした行者もいて、写真を撮ろうとすると寄進を求めてきたりします(本物は目立たないところで修行しているようです)。これらが市街地にあります。したがってこの街では宗教的雰囲気が色こく漂っています。

このように多くの宗教が集まり文化も交流しますから、人種のるつぼになるのは当然でしょう。インド系、中東系、チベット系、東南アジア系のさまざまな顔つきをした人々が暮らしています。そして観光の中心でもあります。世界各国から多くの観光客が訪れ、実際市内を歩いていても欧米からの観光客を多く見かけます。

 したがって、ここカトマンズは、あらゆる文明や文化の結節点といっていいのではないでしょうか。カオスの世界です。このようなすさまじいエネルギーをもつ人々や生活環境が、次代の新しい文明や文化を、また新しい価値観や生活様式を創造するのではないかと思うのは期待しすぎでしょうか。ネパールはインドと似たところも多くあるようです。しかしインドがヒンドゥー教の背景というか影響を強く受けて一部硬直化、形骸化しているのに比べ、ネパールのほうが、貧しいのは同じとしても、多様かつ自由な社会構造をもっているような感じがしました。

途方もない国、インドで考えたこと

今回は国際会議と建設現場見学の合間を利用した短かいちょっとした鉄道の旅でしたが、それでも多くのことを見聞きすることができました。ひと言での印象は、インドからネパールにかけてのこの一帯は、途方もない地方であるということです。しかもこれからの人類の精神文明に、どれだけの価値あるものを生み出してくるかわからない力を秘めているということです。かれらは4000年にわたる太古の昔から文明を生み出し育んできました。ヒンドゥー教や仏教をはじめ多様な精神の世界を展開してきています。今では新しい技術文明が導入されて、新たな可能性を含む世界に挑戦して行っているようです。すなわち、より多くの多様性や可能性さらには複雑性を包含した、また古代と現代が混在したカオスの世界から新しい秩序を生み出そうとしているように見えます。ここにエネルギーを吹き込んでいるのは、やはり民衆のパワーでしょう。貧しくても、多民族による巨大な人口がそのパワーを生み出しているのでしょう。言い方を代えますと、存在感のある悠久の文明、生活に根ざしたヒンドゥー教とカースト制度、圧倒的に貧しい多くの人々、人種のるつぼ、多様な食文化、喧騒な街々、核保有国、ITにもとづく急激な産業の発展、などなどがキーワードとして上がってきます。これらがカオス状に混じりあって、新しいかつ独自性の高い多様な哲学、すなわち自然観、社会観、宗教観、人生観、生活観などをもたらしていることを感じさせます。数十年前、あらゆるものに閉塞感を持った世界中の若者がインドを目指した理由が分かるような気がするのです。すなわちこの文明は、近代の欧米文化や日本文化では単純には捉えきれない多次元の軸を持っているようです。わたしたちの尺度で見ようとすると不可解なことだらけですが、悠久の時間と多次元空間、この時空間には何が解として含まれているのでしょうか。

いずれにしましてもインドは、数年後に再び訪れてみたいと思わせる未知の魅力を持っていました。すなわち、わたしみたいな定年前後の人間は、つい何ごとにも限界を自分で定めて悲観的になったり閉塞感におそわれがちです。しかしインドには、短絡的かもしれませんが、別の思考基準や価値の判断基準など、わたしにはない多様な “ものさし”があるとみました。先行きの不透明さがもたらす不安感のなかで、このものさしは、いかに安定して生きるかを考えさせてくれるものなのかもしれません。


仏教の聖地、ブッダ・ガヤー

お寺とわたし

 わたしの母の実家は小さなお寺です。したがいまして幼少のころより母の実家を訪れた際には、境内や本堂を走り回って、相当バチあたりなこともしてきました。そのころに染み付いたお寺のにおいが年齢を重ねるにつれて思い出され、ときおり寺社仏閣に浸りたい衝動にかられます。とはいっても特に信心深くはありませんし、苦しいときの神頼みのたぐいでしょう。しかしいつの日か、もうすこし仏教を勉強してみたい気はしています。2003年に中国の西安を訪ねる機会がありましたが、その西方車で2時間のところに法門寺という古刹があって、いにしえの仏教に触れて感動しました。それ以来、仏教発祥の地を訪れたいと思ってきました。

まずはガヤーで準備

 早朝5時半の汽車にのってヴァラナースィーを出ます。ところが待てど暮らせど列車は来たらず、結局55分遅れて到着しました。しかも直前にホーム変更でアタフタします。同じ汽車を待っていると思われる欧米人の動きでわかりましたが、貧弱な英語のわたしにとっては構内放送は聞きにくいものです。車掌さんが予約車両の入口で待っていてくれて助かりました。車内はまだベッドのままであったため、乗車中はほとんど寝転んで移動できたので楽な旅でした。1.5時間ほど遅れて1040分ごろ、どうにか仏教の聖地近くのガヤー駅に到着しました。これから南方のブッダ・ガヤーまでは15kmほどありますが、再度戻って来て夜行列車に乗るため、駅前に荷物置きと休息を兼ねた安宿を確保しておくつもりです。安宿になればなるほどインドの庶民の文化がいっぱい詰まっているのではと思うからです。ただし治安とドロボーだけには注意しなければなりません。

 列車が着いたばかりの駅前広場は、例によって雑踏です。観光客と思しき人にはタクシー運転手が付きまといます。彼らをかき分け、100mほど先に見えるドヤ街をめざします。比較的小ぎれいなホテルがあったので訪ねますと満室です。今度は数軒隣を訪ねますと部屋を確保できました。200ルピーですから500円ちょっとでしょうか。しかし相当にオンボロな外観で、1階は吹きさらしに近い現地人向けの食堂でした。カウンターにいるお爺さんをはじめ、息子たち一家で経営しているようです。子供が鍵を持って、うす暗く狭い階段を通って3階の部屋まで案内してくれました。

 安いだけあって部屋はさもありなんです。南京錠を開けると木製のベッドが置いてあり、天井には大きなプロペラ型の扇風機が取り付けられています。これに一畳に満たないシャワー兼トイレ室がありました。ところが驚いたのは、トイレのむき出しの水道管の上を小さなネズミが歩いています。さらに壁には、白っぽいヤモリが這っています。部屋に戻ってベッドに転がると、こんどは南京虫を3匹みつけました。蚊も飛んでいます。さすがに、これはえらいところに飛び込んでしまったワイと思いましたが、待てよ、これはわたしたちの子供時代と同じではないかと思い出され、なんだか急に懐かしくなってきました。これがインドの現実であるのなら全部経験してやろう、の気分です。

 わたしの子供時代、すなわち1950年代ごろは、住んでいた社宅街で毎年ネズミ捕り大会やハエ捕り大会が行われていました。すなわちネズミを捕まえてしっぽを持っていくと帳面や鉛筆をくれます。ハエはマッチ箱いっぱいが必要です。あちこちでネズミ捕りを仕掛け、ハエタタキを使って追っかけ回しています。さらに家のなかはDDTが撒かれて南京虫などの退治です。要するに不衛生な時代ですから、かような撲滅運動が行われていました。インドもこれからでしょう。

階下のわびしい食堂で、ブランチをとってまず腹ごしらえです。決して衛生的とはいえませんが、地元の人が食事をしています。店先では小さなホットケーキみたいなチャパーティーを焼いています。これを必要な枚数注文し、これにベジタリアン向けのサブジーといわれる野菜カレーをたのみます。チャパーティーをちぎってサブジーに浸けて食べるのです。非常に質素ですが、けっこう美味しく食べました。インドではベジタリアン料理かそうでないか希望を聞かれます。宗教的理由からのようで、街なかで食事する場合でも必ずどちらかを選ぶようになっています。隣のお兄ちゃんは、不浄の左手はいっさい使わず、右手だけで器用にチャパーティーをちぎって食べていました。

ブッダが悟りをひらいた地を行く

この地方一帯はブッダが歩いた地域ですので、そういう意味では全域が聖地でしょう。今回は悟りを開いたといわれるブッダ・ガヤーを訪ねます。いまは列車が去って閑散とした駅前でタクシー運転手を見つけだし、値段交渉です。ゴチャゴチャした、そしてデコボコ道路のガヤー市街をぬけ、郊外に出ます。よく手入れされた畑地が広大に広がっていますが、農耕に従事している人は思ったほど多く見かけません。その中を通る幹線道路は幅員も広く、舗装状態もほぼ良好でした。

ブッダ・ガヤーは、ブッダが悟りをひらいた場所にあるマハーボーディ寺院のまわりに開けた門前町です。40分ほどで寺院に着くと、早速ガイドやお土産店の呼びかけがはじまり、呼びこみ屋さんが近づいて離れようとしません。かれらを振り切ってすぐさま寺院に入ってみます。ここでは、母に頼まれた数珠を購入するのを忘れてはいけません。

マハーボーディ寺院そのものは高さ52mの搭状の石造建物で、紀元前3世紀にアショカ王が寺院を建立して以来、なんども建替え・改修が行われてきたとのことです。しかし2500年の歴史を感じさせるような荘厳な空気はそれほど感じませんし、日本や中国の木造寺院の様式とはまったく異なります。全く違った文化の仏教建築ですが、タイのそれとも異なる興味深いものでした。1階を入ったすぐに黄金の仏像が鎮座しています。ガラス張りの中に保護されていますが、驚くほど近くまで寄れます。さっそく寄進です。寺院の裏手に回りますと、ブッダがその樹の下で悟りをひらいたといわれる大きな菩提樹が茂っています。もちろん世代を重ねてきたのでしょうが、瞑想したとされる場所には黄金座がしつらえてありました。それに向かってお参りしたり、あるいは座禅を組んで瞑想している人達もいます。すぐ横では巡礼者たちが、40前とおぼしき僧侶から仏法を聞いています。日本語でないのでサッパリ分かりませんが、なかなかの修行僧とみました。寺院周辺の境内はそんなに広いものではありません。しかし蓮池や仏像群が配置され、それらが寺院と一体となって独特の雰囲気をかもし出しています。やはり仏教は、宗教戦争などを引き起こさない平和の宗教だと思います。時を超え、空間を越えてわたしたちの心に安心感をもたらす何かを持っているようです。このことは、わたしはお寺の孫息子なのに、もう少し仏教の勉強をしなければいけないなぁと改めて思い起こさせてくれました。

マハーボーディ寺院の近くには各国の仏教寺院が建立されています。もちろん日本寺もあって、各宗派が基金を出し合って建立したとのことです。日本寺はいかにも日本の仏寺らしい佇まいで、そのデザインは非常にシンプルなものです。ここでも深々とお参りしておきました。

マハーボーディ寺院と日本寺にお参りした後、ショボい工芸品店で数珠をUS$120で買いました。母の頼みでありましたし少しいいものをと思ったのですが、その造作のていどからしてすこし高かったかもしれません。数珠をあまり値切るのはイヤです。ここで作られ、ここで売られていることに重きをおきました。この店主の弟と称する男は始めからわたしに付きまとっていましたが、好人物で日本語を多少ですが話します。「近いうちに日本に行って商売をはじめる」といっていましたが、すでに日本語のホームページも開設しています。少しお人よしかもしれませんが、購入したのはかれら兄弟の実直さをかったのも事実です。さて肝心の数珠ですが、菩提樹の実を連ねて作ったものでいかにも素人芸風です。しかしこれがよい意味での素朴さをたたえています。数珠を購入後、再度マハーボーディ寺院を訪れて入魂しました。帰国後に、母はどう反応するか楽しみでしたが、数珠を見ると「ホホー」と言っていました。

ガヤーに戻ってひと休み

 再びガヤーの安宿に戻って来てひと休みです。シャワー(といっても水)を浴びてベッドに転がりました。上を見るとプロペラがユックリ回っており、結構涼しいものです。階下で夕食をとりましたが、付近には喫茶店のひとつもありません。ただ人だけはゾロゾロいます。部屋にこもっていても侘びしくなるので、夜行寝台に乗るまでまだ時間はあったのですが駅で過ごすことにしました。

まずビックリするのが駅での雑踏です。特にに夜から朝にかけては、改札がありませんので駅舎やホームまでヒトがたむろし寝たりしています。まっすぐに歩けません。よく見ると駅を住み家にしているようです。うす暗いプラットホームからオシッコしたりしています。待合室のトイレやシャワーを、自分の家のように使い、タオルを腰に巻いた姿で待合室を歩いています。はてはヒモをはって洗濯物を干しています。とてもかれらは旅行者には見えません。さらによく見ていますと、駅の施設のどこをだれが使うか、それぞれに縄張りがあるようです。たとえば、2階の待合室は一等乗客用でしたが、夜の11時過ぎにひとつだけ空いていた椅子にわたしが腰掛けていますと、トイレから出てきた老人(長者風?)が、自分の席に座るなよと目で合図しました。どうやらこの待合室を仕切っているヌシのようでした。さらにこの老人は、自分が寝ころぶ場所も決めているようでした。貧しいかれらは、それぞれの縄張りを尊重してひとつのコミュニティを形成しているようでした。

ヒッピーの聖地、コルカタ

安宿街、サダル・ストリートに直行

これから寝台列車でコルカタ(旧カルカッタ)に向かうのですが、前夜23:42発の予定が1時間半遅れでここガヤーに到着です。暗いこともあり、自分の車両を探すのに手間どり多少あわてます。インドの鉄道は車両間を移動できないため、指定の車両を見つけて直接のり込まなくてはいけません。1等車は乗車口に予約者の名前が張り出してありますが(走行中に剥がれているのもある)、列車編成は長く、その中から5分間の停車時間で探すのは大変です。22段寝台車に乗り込みました。わたしの予約は下段のはずでしたが、なにやらトドみたいに太ったおばさんが、わきに小さな子供をかかえて寝ています。もう一方の下段はその旦那さんでしょう。グッスリ寝込んでいます。しかも上段ベッドにはかれらの荷物がどっさり置いてあります。深夜でもあり起こすのも気が引けて、わたしは困って車掌さんを探しにいきました。物理的にいってそのおばさんは上段ベッドに登れそうにありません。それは譲るとして、上段ベッドの荷物を取り除いてもらわねばなりません。寝込みをおそわれて不愉快そうな顔がありありです。翌朝はやくコルカタに着く一つ前の駅で、かれらは手を取り合い、荷物を何回も運び出して降りていきました。このように夜行寝台の旅は、かっては日本もそうでしたが、なんとなく旅愁を感じさせるものがあります。

1時間15分遅れの8時半すぎに、コルカタの終着地ハウラー駅に到着しました。明け方から天気が悪く雨が降っていましたが、コルカタに近づくにつれ小降りになり問題ありません。プリペイドタクシーの列に並びましたが、天気が悪いためかなかなか順番がきません。1時間以上待って、乗り合いでやっと安宿街で有名なサダル・ストリートに向かいます。どういうわけか子供が4人乗っており、そのすき間はせまく窮屈です。サダル・ストリートは、お金がなく長逗留を決めこむヒッピーや、新しい世界観や価値観をもとめてインドをめざした人々に安宿を提供した街として有名です。コルカタ市の中心部に位置し、現在は地下鉄も開通し、バスターミナルにも近く交通の便に恵まれたところです。チョウロンギ通りからちょっと入ったところでタクシーを降り、ブラブラしながらホテルを探します。やはりオンボロ宿を探すのですが、両側にたくさんある中から門がまえは貧弱ですが名前のりっぱなホテル・ディプロマト(外交官)を選び出しました。部屋は木製のギシギシいうベッドと天井にはプロペラ扇風機、それに水シャワーと洋式トイレのバスルームです。窓がなく裸電球の明かりですが、なかなかの風情です。ここではネズミこそ見かけませんでしたが、南京虫は住みついていました。ベッドに寝転んで、回る天井プロペラ扇風機を見ながらうたた寝しましたが、歴代の投宿者の汗と匂いを十分に嗅ぐことができました。

ひと休みしてサダル・ストリートを散策してみました。思ったより衛生的で静かですし、街並みにも新しい建物がぽつぽつと見えます。やはり街並みは変わりつつあるのでしょうが、それでもインドらしい空気が支配しているようです。そこを長逗留していると思われるヒッピー族ないし芸術家のように見える欧米人のサンダル姿を多く見かけます。この近辺では比較的マシな食堂でブランチをとっている際にも、なじみ客と思われる欧米人がけっこう出入りしていました。いまでも西洋文明で育った多くの人々がこの街を訪れているようです。やはり当地コルカタには、現代精神文明に飽き足らない人にとって何か感じさせるものがあるのでしょう。

インドは物乞いが多いと聞いてきました。しかし今回の行程ではそんなに多く見かけません。たしかにどの街に行っても貧しい人々はすごい数いるようですが、物乞いを生業としている人はそんなに多くないようです。このサダル・ストリートでは少しの物乞いを見かけ、旅行者と見ると喜捨を要求してくるようです。わたしはこのような場合にそなえて小銭をつねに準備しておくようにしています。すこしでも豊かな人が、貧しい人に僅かでも施すことは必要なことでしょう。豊かな人は義務と思っているかもしれませんし、貧しい人は権利と思っているのかもしれません。このへんは日本人には分かりにくい微妙な感覚があるようです。しかしながら、わたしに限って言えば、日本では躊躇しがちなこのような行為も、インドでは素直にできるようです。このほかに“バクシーシ”というのがあります。これはちょっとしたサービスをして謝礼を得ようとするもので、たとえ押し売り的であっても代価に相当するともいえます。いずれにしても今回の旅行では貧しい街なかを訪れましたが、思ったほど物乞いやバクシーシをせまる子供たちが少なかったのは、人々の生活が多少なりとも改善されてきているのかもしれません。