失敗した予言は屡々人類を鼓舞してきた。宗教的、政治的、そして社会的な予言は、人間の想像力を刺激し、深い感動を呼び起こす力を持っている。 歴史を通して、失敗した予言は人間の現状を理解する枠組みを与えられ、より良い未来への希望、恐れ、そして願望を検討するレンズとなってきた。 終末論的予言の詳しい事例を掘り下げなくても(予言の結果が実現しなかったときに沸騰する傾向がある)、包括的な主題は明確である。明日への希望は両価性、葛藤、不安と苦悩に満ちた現在を超越し、人間の経験の基本的なところなのである。この永続的な希望は屡々満たされないが、それでも人類の目に涙をもたらすのは、現在の限界や苦しみを超越した現実への根強い憧れを反映している。

 

その結果として、終末論的な認識、すなわち歴史の流れを決定する力や原理への信念が常に存在してきた。この信念は屡々、歴史が必然的に定められた終末に向かって進んでいくことを暗示する「歴史の物語」の形で表現される。この物語は歴史が一直線に進むことを前提としており、隙間や新たなものが現れることを許さないように思われるので、必然性と決定論を感じさせる。この絶対的な知識、すなわち歴史は永遠不変の法則とあらかじめ決められた結果によって支配されているという確信は、歴史の流れを即座に変える革命的な行動を我々に要求する。究極の目標や目的の確信に突き動かされたこれらの行動は既存の秩序を破壊し、予測された未来と一致する根本的な変化をもたらそうとするのである。

 

こうした行為が失敗しても、それを可能にする知識や信念は、その本質において決して失敗しない。 宗教的信念であれ、イデオロギーによる一種の「約束」であれ、先見の明であれ、こうした行動の背後にある原動力は個人や運動を鼓舞し、動機付け続ける。終末論者が予言したように、イエスが死後三日で戻ってこなかったように、マルクスが予言した社会主義革命は彼が想定した時間枠では実現しなかった。世俗化された多くの現代の人間にとって人類を裁き、新秩序を確立するためにイエスが再臨するという予言は、依然として無関心や懐疑の的となっている。同様に、資本主義がやがて自らの矛盾によって破壊されるというマルクスの予言も、資本主義を永続的で不変の体制とみなす現代の人間にとっては非現実的に思える。しかし、これらの予言が予測された時代に成就しなかったからといって、決して成就しないということではなく、これらの予言の核心にある原理や批判が無効だということでもない。未来のある時点でイエスが再臨し、人類を救う可能性は十分にあり、マルクスの予言がやがて実現し、結局共産主義社会が到来する可能性もある。

 

絶対確実な未来を知ることは誰にもできない。資本家階級、すなわちブルジョアジーというものは、自分達の利益を守り、支配を維持するための武器を作り出しただけでなく、ある意味で、これらの武器を持ち、自分達の意志を強制する階級も作り出した。 マルクスが当初、革命の前衛として想定していた先進工業国の労働者の中で富を持った人は、労働市場のグローバル化によって貧富の差が拡大し後戻りする可能性がある。新自由主義が蔓延し、市場の法則がゆるがない現代世界では、労働者は再び資本主義の奴隷となっている。マルクスは、ブルジョワジーの奴隷であり、搾取され抑圧された労働階級は、生存が保証されないので、もはや奴隷であることに耐えられない地点に達する可能性が高いと予言した。 特に、経済的不平等が拡大し、労働者の権利が益々損なわれている世界では、これは依然としてもっともな結果である。

 

現代人は「奴隷」という言葉に強い嫌悪感を抱き、歴史的な不正や人権侵害を連想するかもしれない。 しかし、この言葉への嫌悪感は、今日の多くの人々の生活が奴隷制度の生活条件と酷似しているという現実を否定する傾向がある。 奴隷としての生活を、個人の存在が他者の意思や利益に根本的に依存することと定義するならば、多くの人が、かつての奴隷が直面した条件とは似ても似つかない過酷な搾取に既に耐えていることは明らかである。市場に依存し、つかの間のトレンドや流行を執拗に追い求め、一瞬の快楽に飽くなき欲求を抱く我々現代人の様子は、全部この現代型の奴隷制の指標。

 

現代人が「マルクス」という名前を聞くと、希望ー自由と解放ーか絶望ー鎖と破滅ーかを象徴する両極端な反応を呼び起こす傾向がある。こんな対立はマルクスの資本主義への妥協のない批判と、革命的な社会の変革という大胆なビジョンからきているのかもしれない。マルクスは、多数の労働者を奴隷化していると思う資本主義の厳しい現実を暴露し、歴史の流れを変える革命的行動を起こすよう動機付けようとした。マルクスは、資本主義体制の奴隷と呼ばれる労働者が自分達の真の状況を認識し、人間としての不滅の感覚を身につければ、共産主義社会において自由で平等な主体になれると確信していた。被抑圧者ー労働階級ーが人間性を取り戻し、公正で平等な社会を築くために立ち上がるという歴史的論理の断ち切れないビジョンは、現在の資本主義体制に代わるものを求める多くの人々の心に響き続けている。

 

マルクスの予言は「共産主義」という概念に集約されている。 多くの人にとって、この言葉は希望の旗印として機能し、我々を束縛する抑圧的な社会的条件からの解放の可能性を象徴している。同時に、革命的な大変革と旧秩序の解体の可能性を象徴する恐怖ももたらしている。我々を「奴隷化する条件からの解放」という希望は、革命的実践がもたらす壊滅的な結末への恐怖と相まって、我々を悩ます存在、すなわち歴史を通して我々に付きまとう亡霊を生み出す。今の世界で、もはや共産主義はかつてのような刺激的な存在ではなく、その歴史的意義を確認するだけの博物館の片隅に追いやられている。マルクスの予測に反して、資本主義は崩壊していない。それどころか、今は資本主義というものは世界中に広がり、一見無敵の体制になっている。現代の資本主義は、少なくとも表面的には労働者の真の幸福を保証しているように見えた。マルクスの予言は的中せず、もはや共産主義は実行可能な代替案とはみなされていない。

 

保守派を含む右翼はもはや共産主義を恐ろしく伝染性のあるイデオロギー的脅威とは見ておらず、かつては革命的変化の潜在的な担い手と見なされていた労働者でさえ、もはや共産主義を信頼したり熱望したりはしていない。資本主義の快適さと便利さに慣れた多くの人にとって、共産主義社会はただのユートピアの「フィクション」に追いやられている。しかし、マルクスが鋭く分析した資本主義のあらゆる問題が、21世紀において実際に解決されたのかどうかを問うことは極めて重要である。そうでないとすれば、多くの人が亡霊とみなす共産主義のイデオロギーは、我々を悩まし続けることになるかもしれない。

 

共産主義が希望と批判力を失ったイデオロギーであるという認識は、現代資本主義が内在する矛盾や不正義を隠蔽し、緩和する能力を反映しているのかもしれない。現代の資本主義が、その様々なシステムとして現実の問題を覆い隠し、我々の人間性を損なう問題を明らかにしようとしないのであれば、我々はこの体制を批判し、それを超える未来を構想する能力を保持しなければならない。マルクス主義の発展と共に『共産党宣言』は世界中の共産主義者にとって基礎となる文となった。ソ連が掲げた「より現実的な」社会主義、マルクス・レーニン主義は、旧ソ連諸国の多くの国民から疑惑や軽蔑の目で見られ、ソ連崩壊後は共産主義を嘲笑するようになった。マルクスへの嘲笑の多くは、彼の予言が予言通りに実現しなかったことに起因している。 資本主義社会は、マルクスが予言した共産主義革命を阻止し、遅らせるために力を尽くしてきた。

 

予言はその性質上、簡単に検証することも反証することもできない。 究極的に重要なものは、これらの予言に燃料を与える希望と批評の肥沃な大地である。それでは、マルクス主義が多くの人の目に無力に映るのは何故であろうか?資本主義体制には本当に何の問題もなく、マルクスの批判は何の影響力もないのであろうか?それとも、資本主義へのマルクスの批判は今でも有効であり、マルクス主義の厳格な解釈と適用がマルクスの本来の洞察を歪めているだけなのであろうか?資本主義がマルクスの予言したように自らの矛盾の下で崩壊したのではなく、依然として多くの問題を隠しているとすれば、資本主義の何が問題なのかを完全に理解するためには、マルクスの哲学を再検討する必要がある。マルクスは、自らの哲学を「共産主義」という一つの強い概念に要約した。彼は、ヨーロッパの保守的な勢力をすべて「幽霊」と言え、共産主義に新たな意味と目的を与えることで、共産主義への批判者の誤った認識を払拭しようとした。それでは、真の共産主義とは?

 

マルクスの『共産党宣言』は全11章に分かれているが、彼のイデオロギーの本質は第一章と第二章に凝縮されている。 各章は共産主義のイデオロギーの中心的な命題によって要約することができる。 第1章は「これまで存在していた社会の歴史は全部階級闘争の歴史である」として、第二章は「共産主義者の理論は、私有財産の廃止」として要約できる。これらの命題は「プロレタリアート」と「私有財産」という概念を通してさらに詳しく説明でき、共産主義の将来像を概説し、逆説的に共産主義の批判の礎を形成していた。しかし、マルクスは共産主義への批判それなりに対抗した。「私有財産の廃止」を求めていると非難されたマルクスは、ほとんどの人民の私有財産をなくしたことは「資本主義」であると反論したのである。共産主義は人民の生産手段の所有権を回復することを目的としていると彼は主張した。同様に、共産主義者は家族の構造を解体しようとしているという非難に直面した時、マルクスは伝統の家族を弱体化させ破壊したものは、実際には資本主義であると指摘した。

 

資本主義が全世界を「統一した巨大な市場」に変え、生産と消費の境界線を曖昧にしたのであれば、「共産主義が祖国を破壊しようとしている」という非難は取るに足らないのである。共産主義へのあらゆる非難は、実際には資本主義への批判であるというマルクスの主張に、我々は細心の注意を払うべきではないか?マルクスは、産業革命を契機とする資本主義の完全な発展と成熟なしには、真の革命はあり得ないと考えていた。マルクスは今までの、そして将来の歴史の流れに内在する法則を特定しただけでなく、人間の解放を達成するための実際的な方法を模索していた。

 

すなわち、共産主義は、資本主義の完全な実現に基づいてのみ達成されるのである。 生産手段の私有財産の廃止は、その真の社会化を通じてのみ完成し、資本主義を超越できる。「家族」という概念は今、嘘と偽りの隠れ蓑に成り下がっていた。国家の排他性は、グローバルな絆の新たな創造によってのみ克服できる。私有財産の問題を解決するために生産手段をどのように社会化するか、家族に代わる新たな制度はどのようなものか、新しくグローバルな結びつきをどのように創り出すか、こうした問いは現代の21世紀でも重要なのであり、マルクスの主張との関連性がある。マルクスが資本主義の批判を一種の「イデオロギー」へと変貌させることができた理由は、歴史的発展の決定論への確信があったからかもしれない。

 

しかし、このような変容によっても、マルクスの洞察の哲学的意義が薄れることはなかった。従って、マルクスの主張のうち二つは依然として有効である。マルクスは、プロレタリアートのみが本質的に革命的であると示唆した。この主張の普遍性については議論できるが、労働階級に内在する革命的変革の巨大な可能性を強調しているののである。プロレタリアートがあらゆる形の抑圧と搾取を包含できるというマルクスの信念には、確かに疑問の余地がある。しかし、「これまで存在していた社会の歴史は階級闘争の歴史である」という歴史的洞察を本当に否定できるのか?そうなら、根拠はあるか?マルクスの枠組みを我々の分析に当てはめれば、階級対立を完全に排除した社会など存在しないことが明らかになる。今までの社会はすべて、階級と抑圧の古い形を新たなものに置き換え、闘争と対立のサイクルを永続させてきたに過ぎないのである。

 

我々は「私有財産の廃止」というマルクスの希望に疑問を抱く理由もある。しかし私有財産が、ある階級が別の階級から搾取されるための基盤であることを、本当に否定できるであろうか?そして、この観点を否定する人がいるとすれば、その人は自分の立場にどんな根拠を提示できるのであろうか?批判や賛成をすると、その根拠がなければならない。現代の資本主義があらゆる労働者を賃金労働者の地位に追いやるのであれば、労働者はある意味実生活から切り離され、支配階級の利益に「奉仕する限りにおいてのみ」存在しうることになってしまうのである。マルクスはこの力学を強く認識していた。そういうわけで、彼は「これまで存在していたあらゆる所有関係を廃止することは、『共産主義』の際立った特徴ではない」と主張したのであった。

 

共産主義は、資本主義的所有権の撤廃によって特徴づけられるのであって、所有権全般の廃止ではない。マルクスの分析は、人類の真の解放をもたらす革命的実践を考案するために、一方では資本主義に内在する解放能力に焦点を当て、他方では極端な階級闘争をもたらす資本主義の矛盾に焦点を当てる。マルクスは、歴史の法則からこのような行動の必然性を導き出した。 原始の共同体から古代の奴隷制へ、奴隷制から中世の封建制へ、封建制から近代の資本主義へと、マルクスは明確な進歩を見た。そういうわけで、歴史の未来は予測可能であるとマルクスは思っていたのである。生産と分配の体制としての資本主義の特徴的力学と奥深さは、これまでのどの体制も凌駕(リョウガ)している。 しかし、これ将来の体制が資本主義よりも優れていることを保証するものではない。歴史の未来を絶対的に確実に予測することは誰にもできない。マルクスが予測した歴史の絶対的な法則は、決してシンプルな意味では存在しないかもしれない。

 

とはいえ、資本主義の力学に関するマルクスの深い洞察を否定することは誰にもできない。マルクスによれば、資本家の「裕福化」は本質的に労働者の自己搾取を示している。この考え方は、資本家と労働者が資本主義体制において共通の運命を共有していることを示唆している。19世紀の産業革命において、労働者の労働力を奪い、資本家の支配下に置いたものは「機械」であった。21世紀の新自由主義体制下では、労働者の労働力を支配しているものは資本家自身である。マルクスが批判しようとした力学は今でも通用する。新自由主義の時代にあっても、人類は資本の支配からの解放に努めなければならず、生産手段は社会化されなければならない。そのためには、あらゆる形の搾取を撤廃しなければならない。

 

このビジョンが予言的であると見なせるかどうかは別として、我々は、カール・マルクスが我々の生活の中で明確に表現しようとした考えを批判的に問い直せなければならない。この精査ができれば、共産主義はもはや無意味で抑圧的なイデオロギーの遺物としてではなく、我々現代人に歴史的認識と革命的変革の可能性を与えられる急進的であり、実践的な思想として見られるようになるであろう。マルクス主義を通じての批判は、マルクスが分析した資本主義の力学が今もなお存在しているので、今の世界でも十分に通用する。資本主義による労働者の搾取に関するマルクスの分析は依然として適切であり、私有財産の廃止を求める彼の呼びかけは、資本主義社会への強力な批判であり続けている。マルクスの時代以降、世界に大きな変化が起こったにもかかわらず、彼が探求した基本的な問題は依然として残っている。

 

資本主義の本質に関するマルクスの洞察と、社会における革命的変化を求める彼の呼びかけは、今の世界の不正義を理解し、それに挑戦しようとする人々の心に響き続けている。マルクスが思い描いた共産主義は、単なる遺物やイデオロギーの亡霊ではない。現状に挑戦し、より公正であり、より公平な社会のビジョンを提示する強力な思想であり続けている。共産主義を実現しようとした過去の試みは失敗に終わったが、これは資本主義へのマルクスの批判の正当性を否定するものではない。むしろマルクスの思想をより深く理解し、大変革へのより微妙なアプローチを取る必要性を強調している。資本主義へのマルクスの批判は実践への呼びかけであり、我々の社会の根底にある構造に目を向け、搾取と不平等がなくなる未来を思い描くよう促している。マルクスの予測が当たるかどうかは別として、彼の分析は、資本主義の力学と革命的変化の可能性を理解するための枠組みを与えている。そういうわけでマルクス主義は、より良い世界を創造しようとする人々にとって、適切かつ強い道具であり続けている。マルクスの分析の力は、資本主義体制に内在する矛盾を明らかにする能力にある。マルクスによれば、資本主義は労働の搾取、富と権力の少数者への集中、そして不平等と社会的不公正の永続によって特徴づけられる。

 

これらの矛盾は、革命的変化をもたらす可能性のある条件を生み出す。マルクスの批評は、旧社会秩序に疑問を投げかけ、利潤や資本蓄積よりも人間のニーズや社会正義を優先する、社会を作り出す代案を模索するよう我々を促す。さらに、マルクスの分析は、資本主義のグローバルな性質を理解するためのレンズを与えてくれる。資本主義のグローバルな拡大は、労働の搾取の増大、環境の悪化、そして国家間や国内の不平等の増大をもたらした。こんなグローバルな力学へのマルクスの洞察は、世界中の社会正義を求める闘いの相互の関連性を浮き彫りにしている。従って、この観点は現代の世界の資本主義を支える体系的な問題に取り組み、社会の変革のための運動間の連帯を構築するために不可欠なのである。

 

平等、集団による生産手段の所有、そして階級的区別の廃止という原則に基づく社会というマルクスのビジョンは、資本主義体制に代わる急進的な選択肢を与えるものである。このようなビジョンの実現は遠い夢も物語のように思えるかもしれないが、マルクスのビジョンの基本的原理は、より公正、より公平な世界を求める人々を鼓舞し続けている。共産主義のイデオロギーは、少数の特権的階級の利益よりもあらゆる個人の幸福が優先され、競争や搾取よりも協力や相互扶助に基づく社会関係を想像するよう我々に要求している。マルクス主義を巡る現代の議論では、マルクスの当初の考え方と、時代と共に生まれたマルクス主義の様々な解釈や実践を区別することが極めて重要である。 特定のマルクス主義体制の失敗や欠点、特にマルクスの原則から逸脱し、権威主義的な慣行を採用した体制は、資本主義へのマルクスの批判や公正な社会のビジョンと混同されるべきではない。むしろ、こうした歴史的経験はその過ちから学び、社会の変革のためのより効果的な戦略を開発するために批判的に検討されるべきである。マルクスの分析の重要な側面で、今日もなお関連性があるのは彼の疎外の概念。

 

マルクスによれば、資本主義体制の下で労働者は労働生産物から、労働過程そのものから、仲間の労働者から、そして自分自身の未来への可能性から疎外されている。こんな疎外は、人間の業績よりも利潤を優先する資本主義の下の生産方式の結果である。何度も述べたではないか?疎外の経験は現代の資本主義社会にも依然として蔓延しており、労働者は屡々仕事から切り離されたと感じ、労働条件を統制できず、連帯や協力よりも孤立や競争を経験するだけなのである。疎外に対処するには、今の資本主義体制の抜本的改革が絶対必要である。解放ができるためには、個人が有意義な仕事に従事し、潜在能力を最大限に発揮し、社会の幸福に貢献できるような条件を整える必要がある。また、競争や分裂を永続させるのではなく、個人間の共同体意識や連帯感を育むことも必要である。共産主義社会というマルクスのビジョンは、個人が生産手段を制御し、集団で仕事や生活の方向性を決定できるような、疎外に対処するための枠組みを与える。

 

マルクスの分析のもう一つの重要なところは、その名も「商品的フェティシズム」への批判である。マルクスによれば、資本主義体制においては社会関係は商品間の関係によって曖昧にされ、個人が商品やサービスの価値を「自らの労働の産物」としてではなく、ただの「固有の性質」として見るようになる。これは商品の生産を支える搾取的で社会的な関係を曖昧にする。 「商品的フェティシズム」は、現代の資本主義社会では至るところに見られる。何故なら、個人は商品が生産される社会的及び環境的条件よりも、商品の消費と物質的豊かさの追求に関心を持ちがちであるため!この商品的フェティシズムに立ち上がるには、我々を取り巻く世界への理解と関わり方を変える必要が絶対にある。これには、我々の消費のパターンが社会と環境に与える影響に気付き、持続可能な開発と社会正義を優先する選択を意識的に行うことが含まれる。そして、利潤や消費よりも人間や自然界の幸福を重視する別の経済体制を構築することも必要であるこの。「商品的フェティシズム」へのマルクスの批判は、消費と生産へのより意識的で倫理的なアプローチを発展させるための礎を築くものである。

 

マルクスの分析は、社会の変革をもたらす上での労働者間の「階級意識」と「連帯」の重要性を強調した。マルクスは、労働者階級が共通の利益と集団的な力に気付くことで資本主義体制を打倒し、平等と協力に基づく社会を立てると主張してきた。階級意識の構築には、搾取と抑圧の制度的本質への認識を高めると共に、労働者間の連帯感と集団行動を発展させることが含まれている。これは、新自由主義の政策によって労働組合や他の形態の集団組織が益々弱体化し、集団的闘争よりも個人主義や競争が重視されがちな現代社会において特に重要である。階級意識と連帯を再構築するには、労働者が集まり、経験を共有し、自分達の権利と利益のために組織化するための場を創出する必要がある。究極的に、個人主義と競争を永続させる支配的イデオロギーに挑戦し、協力と相互の支援という新たな価値観を促進することも必要である。マルクスが強調した階級意識と連帯は集団の行動を動員し、現代の権力と搾取の資本主義的構造に立ち上がるための強い手段であり続けている。すなわち、資本主義へのマルクスの批判と共産主義のビジョンは、今の世界の不正義を理解し変革しようとする人々に、価値ある洞察とインスピレーションを与え続けているのである。

 

恐らく、マルクスのビジョンの実現は遠い先のことのように思えるかもしれないが平等、集団所有、搾取の廃止、そして人間性の追求と言ったマルクスの分析の根底にある原則は、依然として適切で説得力のあるものである。マルクスの分析は、資本主義の力学と革命的変革の可能性を理解するための枠組みを与える一方で、公正な社会という彼のビジョンは、より良い世界を想像し、それに向かって努力するよう我々に要求している。マルクスの思想に批判的に関わり、それを実践しようとする過去の試みから学ぶことで、我々は社会正義を達成し、あらゆる人の幸福を優先する社会を創造するためのより効果的な戦略を開発できる。マルクスが人間の開放を示す希望の、そして「未来」の象徴になっているとすれば、我々が現代の資本主義社会の下のあらゆる困難にもかかわらず、この本を読んだ理由は確かに「未来」を望んでいるためであろう!

資本と賃労働の利害関係は?

 

第十一章、競争が階級に及ぼすことは?

 

資本主義の下での競争が激化すればするほど、生産方式と生産手段が絶えず拡大され革命化され、分業が必然的にそれ以上の分業を引き寄せ、機械の使用が必然的にそれ以上の機械の使用を引き寄せ、大規模な労働がさらに大規模な労働を引き寄してしまう。この法則は変わらない。これこそが、絶えず古い轍(テツ)から旧生産方式を突き落とし、現場で生産している労働者一層緊張させる法則であり、資本に休息を与えず、絶えずその耳元で叫ぶ法則である。労働者よ!進めよ、進めよ!一生懸命に働けよ!これは商業の周期的変動の中で、必然的に商品の価格をその生産費に調整する法則に他ならない。資本家がいかに強い生産手段を持ち込もうとも、競争はその採用を一般化するのである。

 

しかし、販売量の多さによって販売価格の低さを凌駕するためには、恐らく1,000倍もの市場を見つけなければならないので、もはや広範な販売は、より大きな利潤を得るためだけでなく、生産費に取って代わるためにも必要(生産手段そのものは、これまで分かってきたように、常により高価になる)であり、このより広範な販売は、販売者だけでなく、そのライバルにとっても死活の問題となったので、旧来の闘争を再び始めなければならず、それは既に発明された生産手段がより強力であればあるほど、一層激しくなる。従って、分業と機械の利用は、新たなスタートを切り、さらに大きな規模で行われることになる。

 

使われる生産手段の力がどんなものであれ、競争は商品の価格を生産コストにまで引き下げることによって、この黄金の果実を資本から奪い取ろうとする。安くなる生産と同様の尺度、すなわち同様の労働量でより多くの生産が可能になることと同様の尺度において、競争は不可抗力的な法則によって、さらに大きな生産の安売り、すなわち、より小さな価格でより大量の生産物の販売を強いる。こうして、資本家は、その努力によって、同じ労働時間でより大きな生産物を供給する義務、すなわち、資本を有益に使うためのより困難な条件以上のものを得ることはない。従って、競争がその製造原価の法則をもって絶えず追いかけ、彼らがライバルに対して鍛造するあらゆる武器を、彼ら自身へ敵に回す一方で、資本家は新たな機械が競争によって時代遅れになるまで待つことではなく、労働のさらなる細分化と、より高価ではあるが、より安く生産することを可能にする新たな機械を、落ち着きなく導入することによって競争から最善のものを得ようと絶えず努力していると思われる。

 

今、この「熱狂的」であると言える動揺が全世界の市場で起こっていることを想像すれば、資本の成長、蓄積、そして集中が労働の益々細かい細分化、古い機械の益々大きな改良、新たな機械の絶え間ない適用をどのようにもたらすのか理解できるかもしれない。しかし、生産資本の成長と切り離すことのできないこれらの条件は、果たして賃金の決定にどんな影響を及ぼすのか?分業制度が進むと一人の労働者が5人分、10人分、20人分の仕事をこなすことができるようになり、労働者間の競争が5倍、10倍、20倍と高まる。労働者は一方を他方より安く売ることによって競争するだけでなく、一方が5人分、10人分、20人分の仕事をすることによっても競争している。資本によって導入され、着実に改善される分業によって、労働者はこのように競争せざるを得ないのである。さらに、分業が進めば進むほど、労働は単純化される。

 

こうなると、労働者の特別な技能は無価値になる。肉体的にも精神的にも弾力性のない、単調な生産力へと変貌してしまう。そういうわけで、競争者は四方八方から労働者に圧力をかける。さらに、仕事が単純であればあるほど、また習得が容易であればあるほど、その生産コスト、その習得に要する経費は少なくなり、賃金はより低くならざるを得ないということを忘れてはならない。従って、労働がより不満足になり、より抱くようになる嫌悪感と同様のように競争は激化し、賃金は低下する。労働者はより多くの時間働くか、同様の時間数でより多くのことを成し遂げるかによって、より多くの労働を行うことによって、一定時間の賃金の総額を維持しようとする。こうして欲望に駆り立てられ、労働者自身が分業の悲惨な影響を倍加させる。

 

その結果として、働けば働くほど賃金が減る。そして、この単純な理由から、働けば働くほど、仲間の労働者と競争することになり、自分自身と競争し、自分と同様のような(惨めな)条件で自らを差し出すことを余儀なくされるのである。機械も同様の効果をもたらすが、その規模ははるかに大きい。機械は熟練労働者を非熟練労働者に、男性を女性に、大人を子供に取って代わらせ、新しく導入されたところでは、労働者を大量に路上に放り出し、機械がより高度に発達し、生産性が高まるにつれて、数は少なくなるが、さらに労働者を使い捨てにする。我々は、資本家同士の「産業戦争」について、大まかな概略を急いで描いた。この戦争には、戦闘が労働者の軍隊を動員することによってよりも、排出することによって勝利するという特殊性がある。将軍(資本家)は、誰が最も多くの産業兵士を排出できるかについて、互いに争っている。

 

主流派の経済学者は、機械によって余剰となった労働者が新たな雇用の場を見つけることは確かだと言う。しかし彼らは、その解雇された労働者が新たな労働の分野を見つけるとは、あえて直接には断言しない。実は、この嘘へあまりにも声高に叫んでいる。厳密に言えば労働階級の他の部門、例えば、廃止されたばかりの産業に就こうとしていた若い世代の労働者の一部に、新たな雇用の場が見つかると主張しているだけである。勿論、これは障害者の労働者にとっては大きな満足できるものである。そうなると、資本家階級にとって搾取可能な新鮮な血と筋肉が不足することはない。

 

この慰めは、むしろ労働者よりも資本家自身の慰めを意図しているように思われる。「労働階級」の概念が機械という新たな技術によって消滅するとしたら、賃金労働がなければ資本でなくなる資本なら、どれほど恐ろしいことなのか!しかし、機械によって雇用された場所を追われた人々や、同様の産業部門で雇用の機会を待っていた新進世代が、実際に何らかの新たな雇用を見つけたと仮定しても、その新たな雇用が、失った雇用と同様のように高い賃金を支払うと信じられるのか?万が一、そうであるとしたら、政治経済の法則に反することになる。近代産業が常に、より単純で従属的な雇用を、より高度で複雑な雇用に置き換える傾向にあることは、これまで見てきた通りである。それでは、機械によってある産業部門から放り出された大量の労働者が、より低賃金でない限り、どうして別の部門に逃げ込めるであろうか?この法則の例外として、機械の製造に従事する労働者が挙げられる。産業界で機械への需要が増大し機械の消費が増大すると、必然的に機械の数が増加し、その結果として、機械の製造も増加し、結局は機械による製造業に従事する労働者の雇用も増加すると言われている。

 

1840年以降、それ以前でさえ半分しか真実でなかったこの主張は、もはや真実の面影をまったく失ってしまっている。これは何故なら、最も多様な機械が今では綿糸の製造と全く同様の規模で、ただ機械の製造に応用されており、機械を使っている工場で雇用される労働者は非常に独創的な機械と並んで、非常に愚かな「人間の機械」の役割を演じることしかできないためである。それでも、機械によって解雇された男性の代わりに、工場は恐らく、三人の子供と一人の女を雇うかもしれない!そして、その三人の子供と一人の女性には、以前はその男性の賃金で十分であったはずではないか?最低賃金は、種族の保存と伝播のために十分であったはずではないか?それでは、これらの愛すべき資本家の言葉は果たして何を証明するのであろうか?

 

全員が労働者の一族があるとしたら、彼らが生計を立てるために、以前の4倍の労働者の命が費やされていることに他ならない。要するに、生産資本が成長すればするほど、労働の分業と機械の適用が拡大する。労働の分業と機械の利用が拡大すればするほど、労働者間の競争が拡大し、労働者の賃金は共に縮小する。さらに、労働階級は社会のより高い階層からも採用される。小資本家や資本の利子で生活している人の集団は、労働階級の隊列に押し込められ、彼らは、労働者の腕と並んで腕を伸ばす以外にすることがなくなる。こうして、仕事を求めて伸ばした腕の森は益々太くなるが、腕自体は益々細くなる。小規模の製造業者が、より大規模な生産が成功の第一条件であった闘争の中で生き残ることができないことは明白。そんな製造業者が、それによって労働階級の候補者の数を増やしていることは明白ではないか?

 

資本家が上述の運動によって既に存在している巨大な生産手段を、益々増大する規模で利用することを余儀なくされ、この目的のために、あらゆる信用の源泉を動かすのと同じ尺度で、産業の地震を益々増大させ、その中で商業界は、その富の一部、その生産物、さらにはその生産力さえも下界の神々に捧げることによってのみ、自らを命を守れる。それは生産物の量が増え、従って広範な市場の必要性が増すのと同様であるだけ、世界市場も益々縮小し、搾取される市場が益々少なくなるためである。資本は労働の上に生きているだけではない。支配者のように、そして同時に野蛮なように、資本は危機の中で滅びる奴隷の死体、すなわち労働者の大群を墓場へと引きずり込む。そういうわけで、資本が急速に成長すれば労働者間の競争はさらに急速に成長するのである。すなわち、労働階級の雇用と生活するための手段は、それに比例して、さらに急速に減少してしまう。この容赦ぼない競争の連鎖と、社会の諸階層に及ぼすより広範な影響について、さらに掘り下げてみよう。資本主義競争の本質は資本家に、競争相手より一時的に優位に立てるような技術革新を絶え間なく求めさせる。

 

しかし、こうした技術の革新はそれが新技術であれ、改良された機械であれ、より効率的な生産方法であれ、普遍的に採用されるにつれて、すぐに標準となる。こうして、生産性の向上が標準的な期待になるにつれて、一人の資本家がこれらの技術の革新を実施することによって得たかもしれない当初の優位性は、益々侵食されていく。資本家階級にとって、これは終わりのない競争を示す。各資本家は競争力を維持するために、常に新技術や方法に利益を再投資しなければならない。この再投資は屡々信用の動員を必要とし、金融市場への依存とそれに伴うリスクの増大に繋がる。絶えず技術の革新を行い、生産能力を拡大しなければならないという圧迫は、資本主義体制の不安定性を悪化させて、好況と不況のサイクルを引き起こしやすくする。好況時には資本家は生産を拡大し、労働者を増やし、生産高を増やす。しかし、この拡大は必然的に「過剰生産」、「市場の飽和」、次に訪れる「経済的危機」、すなわち不況をもたらし、余剰生産物が売れなくなり、間もなく解雇、倒産、そして景気後退に繋がる。中小企業の経営者や独立した職人を含む中産階級は、この体制では特に脆弱である。

 

生産の規模が拡大し、より効率的になるにつれて、小規模の生産者は、より大規模な企業のより低い価格とより高い生産高に太刀打ちできなくなる。小規模の生産者は自分の工場の廃業に追い込まれるか、大企業に労働力を売ることを余儀なくされ、労働階級の層は厚くなる。小資本家階級は、経済的地位を維持しようとして労働力をより集中的に搾取したり、劣悪な労働条件を提案したりする。しかし、これらの手段は、大規模の企業との圧倒的な競争に対抗するには、屡々不十分なのである。小資本家の吸収と機械による労働者の移動によって労働階級が拡大するにつれて、労働者間の競争は激化してしまう。各労働者は身近な同業者だけでなく、増え続ける労働力の森とも競争しなければならなくなった。このような労働者の余剰は、労働者が雇用を確保するために低賃金を受け入れることを厭わなくなり、賃金を引き下げる。

 

さらに、分業による人間の仕事の単純化によって、多くの仕事に必要な技能が低下し、労働者というものは容易に代替可能な存在となった。労働能力の切り下げは労働者の交渉力をさらに低下させ、賃金の低下と劣悪な労働条件をもたらす。上記の過程は悪循環を生むのである。賃金が下がると、労働者は生活費を稼ぐために長時間労働を強いられたり、複数の仕事を掛け持ちせざるを得なくなる。これにより労働力の供給がさらに増え、労働者間の競争が激化し、賃金はさらに下がる。労働者同士の競争が激化すればするほど、労働者は条件の悪化を受け入れざるを得なくなり、搾取と不幸が永続化する。

 

この永続的な競争状態と、その結果として生じる経済的不安定性は、社会的にも政治的にも重大な意味を持っている。資本が少数者、すなわち資本家階級の手に集中することで、経済的不平等と社会階層が拡大してしまう。資本家階級は生産手段を支配し、莫大な富を蓄積することで、政治及び経済的制度に不釣り合いな影響力を持つようになる。この影響力によって、資本家階級は屡々労働階級や中産階級を犠牲にして、自らの権力と財産をさらに強固にすることで政策や規制を形成できる。こうなると、労働階級は生活水準の低下と高まる不満に直面し、ストライキや抗議行動、賃金や労働条件の改善の要求として組織化し、抵抗することがある。しかし、政治的及び経済的手段を資本家が掌握する資本主義体制は、搾取と不平等の根本的原因に対処しない弾圧や表面的な譲歩で対応することが結構ある。資本と労働の利害関係は基本的に相容れないので、結果として生じる社会不安や紛争は資本主義体制に内在するものである。

 

工場の過剰生産と市場の飽和によって、資本主義体制に定期的に勃発している危機は、この体制に内在する矛盾を浮き彫りにする。こんな経済的危機の間、ほとんどの資本家は、大量解雇や賃下げによって費用を削減して、自らの富を守ろうとする傾向がある。労働階級はこうした措置の矢面に立たされて失業、貧困、そして社会的な混乱に直面してしまっている。景気の後退期における労働階級の苦しみは、資本主義の搾取的性質を浮き彫りにしている。そんなシステムー経済的不安定の重荷ーは、それに最も耐えられない人々に不釣り合いに伸しかかる。結論として、資本主義体制に内在している絶え間ない競争は資本家階級、中産階級、そして労働階級に深刻な影響を及ぼす。資本家にとっては、リスクと不安定性を孕んだ革新と拡大の終わりのないサイクルを示している。中産階級にとっては、経済的脆弱性と地位の低下をもたらす。労働階級にとっては搾取の激化、賃金の低下、そして生活環境の悪化をもたらす。資本主義の制度的不平等と内在する矛盾は、階級間の紛争と経済的不安定を引き起こし、社会及び経済秩序の根本的な変革の必要性を強調している件である。労働階級の革命として搾取と不平等の根本原因に取り組むことによってのみ、より公正であり、より公平な社会を実現できる!

賃金や利潤の上がりと下がりを決めるものは?

 

第十章、資本と賃労働の利害関係は?

 

第一に、資本と賃労働の利益は正反対であることを認めなければならない。資本と賃労働の力学を分析すると、両者の利益が本質的に相反することが明らかになる。資本家は利潤の最大化を追求するが、それは屡々労働者の賃金や条件を犠牲にする。この対立関係は資本主義の下の生産方式の基礎であり、より広範な社会及び経済的景観を作り出している。資本家は蓄積の要請、すなわち資本拡大のあくなき追求に突き動かされている。これは単なる個人的野心ではなく、資本の本質に内在する制度的必然である。蓄積するためには、資本家は労働の過程から剰余価値を引き出さなければならない。

 

剰余価値の最大化という資本家の利益は、より高い賃金とより良い労働条件の確保という労働者の利益と直接対立するので、この抽出の過程は本質的な対立を生み出してしまう。資本の急成長は、利潤の急成長と同義である。利潤が急増することは労働の価格、すなわち相対賃金が同様に急減する瞬間だけである。資本の拡大は賃金の抑制を必要とする。実質的な賃金が名目で上昇しても、利潤が遥かに速い速度で増加すれば、相対的な賃金は依然として下落しうる。例えば、豊かな時代に賃金が5%上昇する一方で利益が30%上昇した場合、所得の絶対的増加にもかかわらず、労働者の相対的地位は悪化してしまう。資本家階級が収奪する富の割合は、労働者のそれに比べて不釣り合いに大きくなる。資本の蓄積の原理は資本が増大すればするほど、搾取率も増大することを規定しているのであった。

 

すなわち、資本家階級は毎日労働の生産性を高める方法を、技術の進歩やより厳格な管理として、絶えず追求しなければならない。しかし、こうした手段は労働者一人当たりの生産高を増加させる一方で、同時に生産の過程の人間的要素を切り捨てることになる。労働者は機械の付属品となり、産業装置の単なる歯車となる。この非人間化は、資本主義の下の生産方式の本質的特徴であり、資本の成長は労働階級の搾取と疎外の増大と直接結びついている。そういうわけで、資本の急成長によって労働者の所得が増加すれば、同時に労働者と資本家を分かつ社会的溝が拡大する。

 

その結果として、労働への資本の力は益々増大し、資本家への労働者の依存も益々深まる。労働階級は資本家階級に従属したままであり、資本家は彼らへの支配を守り続けており、強くしたりもする。この力学は、資本主義に内在している矛盾を浮き彫りにしている。資本主義の成長は社会的不平等を悪化させ、資本家階級の権力を強固にする。資本の拡大は、資本家階級の物質的富を増大させるだけでなく、彼らの社会的及び政治的権力を強化する。資本家階級は生産手段の支配を通じて法的、政治的、そしてイデオロギー的制度を含む社会の上部構造に対しても大きな影響力を行使する。こんな類の搾取は既存の社会関係を強化し、労働に対する資本の支配を永続させる。労働者は、その物質的条件が僅かながら改善されたとしても、相変わらず資本家の利益のために労働を搾取する体制に捕らわれたままである。

 

従って、労働者の見かけの繁栄は、その労働者自身の屈従と搾取の深化を隠す蜃気楼である。労働者が資本家の富をより迅速に増大させればさせるほど、彼らに落ちる「パンくず」はより大きくなるということである。この成長への労働者の参加は、労働者を縛っている鎖そのものを鍛えることに似ている。資本の蓄積が速ければ速いほど、同様の搾取条件のもとで雇用できる労働者の数が増え、それによって資本の力に服従する労働の質量が増大する。この成長は労働者を解放するのではなく、むしろ労働者の服従の力を強くするだけ。労働者の労働は解放の源泉となるどころか、正に抑圧の手段となってしまう。労働者が資本の成長に貢献すればするほど、彼らを搾取する体制を強くすることになる。

 

こんな逆説的な話は、資本主義の下の生産方式の決定的な側面である。資本蓄積の見かけ上の利益ー賃金の上昇、労働条件の改善や雇用の増加ーは、一過性で表面的なものである。それらは資本と労働の間の基本的な搾取的関係を変えはしない。それどころか、搾取の現実を曖昧にし、資本と労働の利害関係の共有という神話を永続させる役割を果たしている。そういうわけで、労働階級にとって最も有利なこと、すなわち資本の最も急速な成長でさえも、それが労働者の物質的生活をいかに改善しようとも、労働者の利益と資本家の利益との間の対立を解消するものではないことを、我々は見てきた。

 

利潤と賃金は依然として反比例している。資本が急速に成長すれば、賃金は上昇するかもしれないが、資本の利潤は不釣り合いに速く上昇する。労働者の物質的地位は向上するかもしれないが、その代償として社会的地位は低下する。労働者と資本家を隔てる社会的溝は拡大し、権力の不均衡はさらに強固なものとなる。資本家は、剰余価値の蓄積を通じて、絶えず支配的地位を強化している。この蓄積の過程は本質的に不平等であり、資本家は利益を再投資して生産を拡大し、富と権力をさらに増大させる。他方で、労働者は労働力を売って生き残っている。彼らの社会的地位は不安定であり、生産手段を統制できず、資本主義市場の気まぐれに左右される。従って、彼らの物質的条件の改善は、社会的及び経済的従属の深化を伴う。最後に「賃労働にとって最も有利な条件は、生産資本ができる限り速く成長することである」と言うことは、以下のように言うことと同様である。労働階級が労働階級に不都合な力、すなわち、労働階級を支配する他の者の富を、より速く増大させて強くすればするほど、労働階級は資本家富の増大、資本力の増大のために新たに労働することを余儀なくされる条件は、より有利になるであろう。こんな観点は資本主義の倒錯した論理を浮き彫りにしている。

 

そこで、労働階級の最良の未来は、依然として深い搾取と従属の一つなのである。労働者の労働は、自己啓発の手段となるどころか、相変わらず「抑圧の道具」となってしまっている。資本の成長が速ければ速いほど、労働者は自分を搾取する資本の拡大に貢献することになる。この力学は、資本主義の根本的な矛盾を明らかにしている。資本主義の成長と繁栄は、労働階級の搾取と服従の上に成り立っているのである。従って、労働者の見かけの繁栄は、資本の継続的な成長と支配を前提としているので幻想である。生産資本の増大と賃金の上昇は、親資本家の経済学者が主張するように、本当に不可分に結びついているのか?彼らの単なる言葉を信じてはならない。資本が肥えれば肥えるほど、資本の奴隷はより甘やかされることになるという彼らの主張なんて、あえて信じてはならない。資本家階級は、あまりに賢明であり、あまりに注意深く会計を管理しているので、自分の従者の豪華さを誇示する封建領主のような偏見を共有はしていない。

 

資本家階級の存立の条件は、帳簿(チョウボ)のつけ方に注意深くならざるを得ない。生産資本の成長は賃金にどのような影響を及ぼすのか?経済学者達は、その分析において屡々資本主義に内在する矛盾と搾取の力学を説明しない。彼らは体制の表面的な利益に焦点を当てつつ、その深い不公正を無視し、資本主義への無味乾燥な観点を示している。生産資本の成長と賃金の関係を真に理解するためには、資本主義の下の生産方式の根底にある力学を掘り下げる必要がある。そのためには資本の蓄積、技術の革新、労働の搾取の過程を批判的に検討する必要がある。これらの過程を理解することによってのみ、賃金と労働階級のより広範な社会及び経済的条件への資本成長の真の影響を明らかにできるのである。

 

全体として、資本主義社会の生産資本が成長すると、より多面的な労働の蓄積が起こる。個々の資本は、その数と規模を増大させるであろう。個々の資本の増大は、資本家間の競争を激化させるであろう。資本の増大は産業の戦場において、より巨大な戦争の道具をもって、より強い「労働者の軍隊」を率いる手段を与えるかもしれない。各資本家は他の資本家に打ち勝ち、費用を引き下げ、効率を最大化して、より大きな市場を確保しようとする。この資本家間の競争が、生産性の向上を執拗に追求する原動力となっている。競争力を維持するために資本家は絶えず革新を続け、新技術を採用し、生産の過程を改良しなければならない。この絶え間ない技術の革新の推進は、多くの作業において機械が人間の労働者に取って代わるので、労働の機械化が進むことに繋がる。この過程は、労働の全体的な生産性を向上させる一方で、労働者個人の貢献を軽んじ、労働者を機械の単なる付属品に貶(おとし)める。生産工程の多くを機械が担うようになり、労働者の技術や知識は益々無意味になっていく。こんな労働の切り下げは、労働者の搾取を悪化させ資本への依存を深める。

 

一方の資本家は、より安く販売することによってのみ、他方を現場から追い出し、資本を持ち去ることができる。自らを破滅させることなく、より安く売るためには、より安く生産しなければならない。労働生産力は何よりも、より大きな分業と、より一般的な機械の導入と絶え間ない改良によって増大する。労働が細分化される労働者の数が多ければ多いほど、機械が導入される規模が巨大であればあるほど、そして生産コストが減少すればするほど、人間の労働はより実り多いものとなる。こうして、資本家の間に労働と機械の分割を拡大し、できる限り大規模に搾取しようとする普遍的な競争が生じる。資本家は、生産コストの低下を追求するあまり、労働の絶え間ない分業と機械の絶え間ない改良を推し進める。

 

各資本家は、生産の過程の効率を高めることによって、より高い競争力を得ようとする。そういうわけで、生産性を最大化するために作業が細分化及び専門化され、特定の作業の絶え間ない再編成が行われる。新たな機械が導入されるたびに、労働の生産能力が高まるので、この過程はさらに加速される。しかし、この絶え間ない効率化の推進には犠牲が伴う。産業に使われる機械の単なる歯車に成り下がった労働者は個性と自律性を失う。労働者は生産の過程や生産物をほとんど統制できないので、労働は益々疎外されていく。この疎外は資本主義の下の生産方式の基本的特徴であり、労働者の労働は資本家の利益のために商品化され、搾取される。今は大きな分業によって、新たな機械の適用と改良によって、より大きな規模での自然の力のより有利な利用によって、資本家が同様の労働力(それが直接労働であれ蓄積労働であれ)で、競争の相手よりも大量の製品を生産する手段を見つけたとしたら、例えば、競争の相手が50cmを織るのと同じ労働時間で、100cmの麻布を生産できるとしたら、この資本家はどのように行動するであろうか?50cmのリネンを従来の市場価格で売り続けることはできるが、これでは競争相手を畑から追い出し、自分の市場を拡大する効果はないはずではないか?

 

市場の必要性は、増大した労働者の生産力と同じだけ増大したのである。より強く、より高価な生産手段が登場して、自分の商品をより安く売れるようになったのは事実であるが、それは同時により多くの商品を売ること、すなわち自分の商品のより大きな市場を支配することを、労働者に強いることになる。その結果として資本家は、50cmのリネンを競争の相手よりも安く売ることになる。しかし、この資本家は50cmを売る競争の相手よりも、すべてを安く売ることはない。そうでなければ、利潤は増えず、生産に要した費用しか戻ってこないからである。より大きな資本を動かしてより大きな収入を得ることはできても、他の資本よりも大きな利益を得ることはできない。さらに、競争の相手より僅かな割合で商品の値段を安くするだけで、資本家は自分の目指す目的を達成できるのである。競合他社を市場から追い出し、過小販売することによって、少なくとも市場の一部を奪い取るのである。この競争の力学は、資本家を絶えず生産コストを削減し、効率を高める方法を追求するように駆り立てる。競合他社を過小評価することで資本家はより大きな市場を確保し、それによって利潤を増大させることを目指す。

 

しかし、こんな過程は、価格と生産コストの絶え間ない変動をもたらすので、本質的に不安定なのである。技術の革新と効率化によって競争力を獲得した資本家は、その地位を維持するために絶えず技術の革新を続けなければならない。この絶え間ない革新と効率性の追求は、新たな技術や方法が採用されるにつれて、生産の過程の絶え間ない再編成に繋がってしまう。この力学に巻き込まれた労働者は益々搾取と疎外を経験する。彼らの労働は、生産性を最大化するために絶えず再編成され、屡々幸福と自主性を犠牲にしている。今の価格は、商品の販売がその産業にとって有利な時期に行われるか不利な時期に行われるかによって、常に生産費を上回るか下回るかのどちらかになっていることを覚えておこう。

 

50cmのリネンの市場価格が、その以前の生産費より高いか低いかによって、より効果的であり新たな生産手段を使った資本家が、その実質的生産費より高く売る割合が変わる。しかし、この資本家の特権は長くは続かない。競合する他の資本家も、同様の機械、同様の分業制度を導入し、同様の規模、或いはそれ以上の規模で導入する。やがて、このような導入は普遍的なものとなり、麻布の価格は旧来の生産コスト以下に引き下げられるだけでなく、新たな生産コスト以下にまで引き下げられるようになる。従って、資本家は相互関係において、新たな生産手段の導入以前と同じ状況にあることに気づくのである。

 

これらの手段によって、旧価格で2倍の製品を与えられるようになったとすれば、今度は旧価格以下で2倍の製品を提供せざるを得なくなる。新たな地点、新たな生産コストに到達した以上、市場における覇権を巡る戦いは新たに繰り広げられなければならない。分業が進み、機械が増えれば、分業と機械が利用される規模も大きくなる。競争は再び、この結果への同様の反作用をもたらす。競争的蓄積のサイクルは容赦ない。新たな技術が進歩する度に、それを最初に採用した個々の資本家は一時的に利益を得るが、最終的には生産コストと商品の価格の全般的な引き下げにつながる。こんな過程は資本家間の競争を激化させ、生産コストを削減し、生産性を向上させる新たな方法を絶えず追求するように駆り立てる。一方で、労働者は技術の革新と資本の蓄積の中で搾取が深まり、資本家との間の社会的溝が広がるので、この容赦ないサイクルに巻き込まれたまま。資本主義の競争力学は、新たな効率と革新の絶え間ない追求を促し、生産の現場を絶えず変える。

 

しかし、こうした変化は全体的な生産性を高める一方で、屡々労働者の搾取と疎外を悪化させる。効率と利潤へのあくなき追求は、資本家が競争力を維持しようとする中で、労働の過程の絶え間ない再編成に繋がってしまう。この力学は、資本主義の本質的な矛盾を明らかにしている。資本主義体制の成長と繁栄は、労働階級の搾取と服従の上に成り立っているためである。現場に利用される生産資本が成長するにつれて、資本主義の特有のシステムは、資本家階級の富を絶えず増大させるよう労働者に強いる。労働者の物質的条件が改善しても、労働者の所得と資本家の利潤との間の相対的格差は拡大してしまう。労働者の資本への依存は高まり、搾取を永続させる権力の力学が変わる。技術の進歩と資本の蓄積の約束は、労働階級にとって空虚なものであることが明らかになった。生産資本の成長は、労働者の物質的条件に一時的な改善をもたらすかもしれないが、資本と賃労働の対立関係を根本的に悪化させる。資本と労働の利益は正反対なのであり、資本の拡大は結局、労働者の従属と依存を深めることになる。これは資本主義体制に内在している矛盾を浮き彫りにし、労働階級を搾取から真に解放するためには、どうしても生産関係の根本的な変革が必要である。

 

資本家は利潤を最大化し、富を蓄積するという命令によって動かされるが、それは本質的に労働階級への搾取を伴う。資本の蓄積の過程は、労働者の労働から「剰余価値を抽出」することを必要とし、それによって労働者への搾取を永続させるのである。資本が拡大するにつれて、この搾取が強化され、労働階級の従属と被支配がさらに深まる。資本の拡大は、生産性の向上と潜在的な賃金の上昇をもたらすかもしれないが、資本家と労働者の間の基本的な権力の力学が変わることはないであろう。賃金の上昇や労働条件の改善など、労働者が得るかもしれない見かけ上の利益は、屡々一時的であり表面的なものである。これらの利益は、資本主義体制の根本的な構造問題に対処するものではない。労働者の労働は、資本家階級の利益のために商品化され搾取され続け、資本主義に内在する制度的不平等と権力の不均衡を強化するだけである。

 

さらに、生産資本の成長は、屡々技術の進歩と機械化の進展をもたらし、生産性を高める一方で、労働者を生産の過程からさらに疎外する。新たな機械の導入と分業化は、労働者の個人的な貢献を軽んじ、彼らを産業に利用される機械の単なる歯車に貶める。この疎外は、労働者から自主性と労働との結びつきを奪うという、資本主義体制の重大な側面である。労働者の役割は益々細分化され、専門化され、生産の過程への主体性や所有者意識が薄れていく。資本主義の競争原理もまた、こうした力学を激化させる。資本家は互いに凌ぎを削るために生産コストを削減し、効率を高める方法を絶えず模索している。これには、長時間労働や過酷な労働条件、或いは省力化のために技術を導入することによって、労働者からより多くの生産性を搾り取ることが屡々含まれる。こうした措置は経済の成長率を押し上げるかもしれないが、労働者の福利や雇用の安定を犠牲にしている。利潤のあくなき追求は底辺への競争を招き、労働者は費用の削減策の矢面に立たされ、搾取と不安定さをさらに深刻化させる。資本主義の下の競争の結果として、資本が少数の手に集中することは社会的不平等を悪化させる。大資本家が小資本家を廃業に追い込むにつれ、富と権力は益々少数の手に集中するようになる。

 

こんな少数者への経済的権力の集中は、政治的及び社会的権力に変換され、資本家階級が自分達に有利な政策や制度を作り出すことを可能にしてしまう。他方で労働階級は、交渉力や政治的影響力が低下していることに気付き、資本主義体制の中で従属的な立場をさらに強固にする。資本の拡大は、より広範な社会及び経済的環境にも影響を及ぼす。絶え間ない資本の蓄積の推進は好況と不況のサイクルをもたらし、労働者に経済的不安定性と不確実性をもたらす。景気の後退期には、多くの場合労働者が最初に被害を受け、解雇や賃金の削減、そして労働条件の悪化に直面してしまう。

 

幾度も述べた通り、この景気変動は資本主義体制における労働者の立場が不安定であることを浮き彫りにしており、そこでは労働者の生計は市場原理と資本の利益の気まぐれに左右される。要するに、資本主義の下での生産資本の成長は、こんな体制に内在している矛盾と搾取の力学を強調するものである。それは労働者に一時的な物質的改善をもたらすかもしれないが、最終的には資本主義を支える構造的不平等と力の不均衡を強化するだけ。資本と労働の利益は根本的に対立したままであり、資本の拡大は労働階級への搾取と服従を深める役割を果たす。そういうわけで、これは労働者への搾取の上に成り立っている資本主義体制の本質的な不安定性と持続不可能性を明らかにしている。これらの問題に真に取り組み、労働階級を搾取から解放するためには、革命として生産関係の根本的な変革が絶対的に必要なのである。これには、資本主義を支える社会及び経済構造の真実を、どうしても根本的に見直することが必要であり、これこそが労働者の幸福と問題解決能力を優先する体制へと移行する方法なのである。そうでなければ、革命が実現することはないであろう。

賃労働と資本の関係は?

 

第九章、賃金や利潤の上がりと下がりを決めるものは?

 

資本主義的生産方式の下で、賃金や利潤の上がりと下がりを決めるものは果たして何か?今から、その奥深いメカニズムを掘り下げてみよう。この力学を支配する法則を真に理解するためには、政治及び経済の基本的原理と資本主義に内在する矛盾に関与しなければならない。我々はこう述べている。「賃金は、労働者が生産する商品に対する労働者の取り分ではない。賃金は、資本家が生産のために一定量の労働力を購入する、既に存在している商品の一部」であると。この原則は、資本家と労働者の関係を理解するための礎となる。資本家は人の労働力を買うために、既に生産された商品の一部である賃金を前渡しする。この取引は、労働力そのものが商品化されていることを強調するものであり、極めて重要である。

 

労働力を購入するというこの行為において、資本家は、生産の力学と富の分配に重大な意味を持つ取引を行っている。労働力は、他の商品とは異なり、価値の源泉であるという特殊な特徴を持っている。原材料や生産手段が商品へと変化するのは、労働力の投入によるものである。労働が物に価値を付与するこの変換の過程が、資本主義の下の生産の本質。資本家は賃金を上昇させることによって、労働のこの価値創造力を利用する能力を確保する。しかし、資本家は労働者によって作られた製品を販売する価格から、これらの賃金を取り替えなければならない。この交換は原則として、資本家が費やした「生産費以上の剰余金」が残るように行われなければならない。資本主義体制は、この剰余の抽出にかかっており、それは資本主義の蓄積と拡大の活力源である。商品の販売を通じて剰余価値を実現することが、資本主義的生産方式の基本的な目的である。剰余金、すなわち利潤は、資本家によって横領された労働者の「無報酬労働」に相当する。

 

この充当は、資本主義の付随的な特徴ではなく、その決定的な特徴である。剰余価値の絶え間ない追求の貪欲は、資本家をこれまで以上に効率を追求し、費用を削減し、市場を拡大するように駆り立てる。剰余価値の蓄積と生産過程への再投資は、資本主義の絶え間ない拡大のサイクルを促進する。労働者によって生産された商品の販売価格は、資本家から見て三つの部分に分けられる。第一に、労働者が購入した原材料の代価と、同様に労働者が購入した工具、機械、その他の労働道具の消耗の代価である。必要な投入物と生産手段を維持することによって生産の継続性を確保するので、この要素は極めて重要である。原材料の交換と工具及び機械の整備は、生産の過程を維持するために不可欠なのである。

 

これらの要素は「不変資本」を構成して「可変資本(賃金)」とは異なり、新たな価値を生み出すことではなく、以前の価値を新たな製品に移転する。生産の継続は、商品を生産する過程で消費されるこれらの投入物の補充に依存している。従って、資本家は売ったものの収入の一部がこれらの費用を賄うために配分されるようにしなければならない。第二は、支払われた賃金の補充である。資本家は労働者に支払われた賃金を、生産された商品の販売から回収しなければならない。この回収は単なる弁済ではなく、利潤の実現のための前提条件なのである。労働者に支払われる賃金は、労働力の購入費用であり、最終製品の販売によって相殺されなければならない費用である。労働力を維持及び拡大する能力に直接影響するので、先進的な賃金の回復は資本家にとって極めて重要である。賃金は労働力の購入に充てられた資本の一部であり、商品の販売として回収されることで、将来の生産のサイクルのための労働力の継続的な利用可能性が確保される。そういうわけで資本家は、賃金を労働力の搾取と剰余価値の生成を維持するために必要な投資とみなしている。

 

最後に第三は、資本家の利潤である剰余金である。この剰余は資本主義の下の生産の礎であり、利潤の絶え間ない追求の原動力なのである。それは労働の搾取の現れであり、労働者によって生み出されつつ資本家によって横取りされる剰余価値の抽出である。剰余価値、すなわち利潤は資本主義的生産の第一の目的である。剰余価値は、労働によって生み出された価値と労働に支払われた賃金との差額を表している。この差額、すなわち労働者の無報酬労働は資本家によって充当され、利潤の礎を作り出す傾向がある。剰余価値の抽出は資本の蓄積の原動力なのであり、資本の拡大と資本家階級への富の集中を可能にする。最初のところは、単に以前に存在した価値を置き換えるだけであるが、賃金の置き換えと剰余(資本の利潤)は、全体として労働者の労働によって生み出され、原材料に加えられた新たな価値から取り出されることは明らかである。そういうわけで、賃金も利潤も互いに比較するので、労働者の生産物への分け前とみなせるのである。

 

生産の過程で生み出される新たな価値は、原材料と生産手段への労働力の適用の結果である。この新たな価値は、賃金と剰余価値とに分けられる。賃金は、新たな価値のうちに労働者に配分される部分を表し、剰余価値は資本家が充当する部分を表す。この新たな価値の分割は、資本主義的生産の搾取的性質を浮き彫りにしている。労働者は、創造された価値のほんの一部しか受け取らず、資本家は残りを利潤として充当する。実質賃金は変わらないかもしれなく、むしろ上がるかもしれないが、相対的の賃金は下がってしまうかもしれない。例えば、あらゆる生活手段の価格が3分の2に下落したものに対して、一日の賃金が3分の1に、例えば6万円から2万円に下落したとしよう。

 

労働者は、この6万円を持って、過去得ていたよりも多くの商品を得られるようになったが、彼らの賃金は、資本家の利益に比例して減少してしまった。資本家(例えば製造業者)の利益は2万円くらい増加した。こんな想定は、実質的な賃金と相対的な賃金の違いを示している。実質的な賃金は、労働者が受け取る賃金の購買力を示しており、相対的な賃金は、生産された総価値のうち賃金に割り当てられた割合を示している。この例では、労働者は6万円で過去買えたものよりも多くのものを買えるようになったので、実質的な賃金は上昇したと言える。しかし、彼らが受け取る総価値の割合が減少し、資本家の利潤が増加したので、彼らの相対的な賃金は減少した。この増加は、労働者に支払われる交換価値の量が少なくなった分、労働者は以前より多くの交換価値を生産しなければならないことを意味する。労働の割合に比例して資本の割合が増加している。資本と労働の間の社会的富の分配は、さらに不平等になっている。資本家は同じ資本でより多くの労働を命じる。労働階級への資本家階級の権力はさらに増大し、労働者の社会的地位はさらに悪化した。

 

利潤の分配率の上昇と賃金の分配率の低下に見られるように、労働者への搾取の増大は、資本主義社会に内在する不平等を悪化させている。人間の労働への資本家の支配力が強まって、同額の資本がより多くの労働力を確保するようになるためである。この力学は資本家階級の権力を強化し、労働階級の服従と貧困化を深める。資本と労働の格差が拡大するにつれて、労働者の社会的地位は悪化し、資本主義の下の生産に内在する拮抗関係を反映している。それでは、賃金と利潤の相互関係における上がりと下がりを決める大事な法則は果たして何であろうか?両者は互いに反比例している。利潤の割合は、労働による賃金の割合が低下することと同様の割合で増加し、逆の場合も同様なのである。利潤は、賃金が下落することと同様の程度に上昇し、賃金が上昇することと同様の程度に下落する。この逆の関係は資本主義的生産の本質。

 

それは、資本と労働の間の基本的な拮抗関係を反映している。利潤へのあくなき追求は、資本家に労働コストを最小化することを強要し、それによって剰余価値を最大化する。この拮抗は異常なことではなく、資本主義の決定的な特徴である。賃金と利潤の反比例の法則は、資本主義の下の生産方式における価値分配のゼロサム(皆が影響を受ける状況で、皆の利益がゼロの)的性質を示す。労働者により大きな価値の配分を示す賃金の増加は、資本家が利潤として充当する剰余価値を直接的に減少させる。逆に、賃金の減少は資本家が利用できる剰余価値を増加させる。この関係は資本主義の下の生産方式に固有のものであり、労働の搾取として利潤を最大化するという資本家の命令によって推進される。

 

資本家階級は、その生産物を他の資本家と有利に交換することによって、また、その商品への需要が増大することによって、新しい市場が開かれるためであれ、旧市場における一時的な需要の増大のためであれ、利益を得られると主張するかもしれない。その結果として、資本家の利潤は賃金や労働力の交換価値の上がりや下がりとは無関係に、他の資本家を利用することによって、増大することがある。或いは、資本家の利潤は労働手段の改良、自然の力の新しい応用などによっても増加する。個々の資本家が、市場の優位性や技術革新によって一時的な利益を得られることは事実であるが、これらの利益は、賃金と利潤の間の「逆相関」の基本的な法則を変えるものではない。資本主義の下の生方式産の全体的な原動力は、依然として、労働の搾取を通じた剰余価値の抽出によって支配されている。市場の現況や技術の進歩から生じる個々の利潤の変動は、資本主義的経済における価値創造と分配のより広範な枠組みに包含される。しかし、第一に反対の方法でもたらされたとはいえ、結果は変わらないことを認めなければならない。賃金が下がったから利益が上がったことではなく、利益が上がったから賃金が下がったのである。すなわち、資本家にもたらされる純利得に比例して労働の対価は少なくなっているのである。

 

この観察は、資本主義体制における賃金と利潤の相互の関連性を浮き彫りにしている。利潤の増加によって賃金が下落しようが、賃金の下落によって利潤が増加しようが、根本的な力学が変わることはない。資本家は、この結果に至る具体的な出来事の順序にかかわらず、無報酬労働の充当を通じて、交換価値のより大きな分け前を確保する。第二に、商品価格の変動にもかかわらず、あらゆる商品の平均価格、すなわち、それが他の商品と交換される比率は、その生産費によって決定されることを心に留めておかなければならない。資本家の階級内で、互いに無理をし利用しあう行為は必然的に均等化する。機械の改良と生産に奉仕する自然の力の新しい応用は、一定の期間内に同様の量の労働と資本で、より多くの生産物を生産することを可能にする。しかし、このような改良は、必ずしも交換価値の増大には繋がらない。

 

例えば、紡績機の利用によって、1時間に、発明前の2倍の糸を生産できるようになった場合、例えば、5千円から1万円になったとしても、長い目で見れば、この1万円と引き換えに、労働者自身は以前の5千円と引き換えに受け取った商品以上のものを受け取ることはない。技術や生産性の進歩は、生産される商品の量を増加させるが、本来、生み出される交換価値の総量を増加させるものではない。技術改良の結果、そして生産コストが削減されれば、それに対応して各生産単位の交換価値も減少する。そういうわけで、物的生産量の増加は価値の比例的増加には結びつかない。剰余価値に由来する資本家の利潤は、技術の進歩によって容易になった生産の規模にかかわらず、依然として労働の搾取に依存している。最後に、資本家階級が、一国であろうと世界市場全体であろうと、どの割合で生産純収益を分配しようと、この純収益の総額は、常に直接的な労働の収益から蓄積した労働量が増加した額のみからなる。それゆえ、この総額は労働が資本を増大させるのと同じ比率で、すなわち、利潤が賃金に比べて増大することと同様の比率で増大する。個々の資本家に分配される資本家階級の純収入の総額は、結局のところ、直接労働によって生み出された剰余価値に由来する。

 

資本の蓄積とそれに対応する純収入の増加は、基本的に労働の搾取と結びついている。賃金への利潤の増加は、資本によって充当される価値の割合が労働に割り当てられる価値に比して上昇するにつれて、この搾取が強化されることを反映しているのである。利潤のあくなき追求は、技術の進歩と資本の集中を促し、労働階級への搾取と疎外を深めるであろう。労働階級は、その搾取をますます意識するようになり、資本主義的な旧秩序を打倒して、地球の人類は協力、平等、そして生産手段の民主的管理に礎を置く社会主義社会を確立するために、革命的熱狂のうちに立ち上がるであろう。資本主義の軌道は搾取の激化と資本の集中によって特徴づけられ、資本主義体制に内在する矛盾を増大させるに違いない。利潤の絶え間ない追求は、労働がますます資本の命令に従属するようになるにつれて、労働者階級をさらに疎外する技術の進歩を促進するであろう。しかし、決定的に、こうした力学は労働階級を搾取に目覚めさせ、階級意識と革命熱を育むであろう。労働階級は資本主義的搾取との闘いで団結し、この思い描く未来において、賃金労働は根本的に変革されるであろう。

 

始まったついでに我は将来の、20世紀の資本主義について述べてみる。20世紀への資本主義の将来の軌跡を考える上で、我は賃金と利潤の上昇と下降を支配する一般的な法則の継続を予見している。詳しい条件や現れ方は進化するかもしれないが、一旦資本主義の下の生産方式に根ざした基本的な力学は存続し、実際に強まるはず。この進化は、技術革新とグローバル化が格好良い景観を作り出し、労働階級と資本家に同様に重大な影響を与えるであろう。資本主義社会が20世紀に進むにつれて、恐らく技術革新は加速し自動化が進み、生産の工程で高度な機械が利用されるようになるであろう。この技術進歩は、生産性を高め、商品の領域を拡大する一方で、資本と労働の間の矛盾を悪化させる。資本家のあくなき利潤の追求は人間の労働力よりも速く、正確に、安定的に仕事をこなす機械への投資を促すかもしれない。この機械化は単純作業にとどまらず、複雑な製造の工程を網羅し、熟練労働者を自動化された機械に置き換えるであろう。

 

資本家階級のあくなき利潤の追求を原動力とする自動化の台頭は、人間の労働力を益々機械に置き換えていく可能性が高いと思われる。その結果として資本家階級にとっては、人件費の削減によって一時的に利益が増加するかもしれないが、労働力の需要が減少し、結局は賃金に下落圧力がかかることになる。より多くの産業が自動化を導入するにつれて、労働者の置き換えが広まり、余剰労働力が生まれる。この余剰労働力は労働者が減少する仕事を奪い合うので、賃金を押し下げることになる。失業の恐怖は、労働者に低賃金と劣悪な労働条件を受け入れさせ、搾取をさらに根付かせるであろう。

 

さらに、20世紀における資本のグローバル化は、世界中の労働者間の競争を激化させる。資本は、異なる地域間の賃金や規制の格差を利用しようとし、労働基準や報酬の箇所で底辺への競争を引き起こすであろう。こんな類の雇用を巡るグローバルな競争は、特に労働力を費用の低い地域に容易に調達できる産業において、賃金をさらに抑制することになってしまう。資本の移動が益々激しくなるにつれ、企業は労働力の最も安い国に生産を移転して、賃金の高い地域の労働者の交渉力を益々弱体化させるであろう。これは世界的に賃金を押し下げるだけでなく、各国の労働者間に溝を作り、国際的連帯の可能性を弱める。さらに、資本主義が成熟するにつれて、資本が集中化する傾向はより顕著になってしまうであろう。大企業が経済の様々な部門を支配し、巨大な経済的及び政治的覇権を行使するようになる。

 

こうした資本の集中は、大企業が労働者に条件を指図することを可能にし、労働者の交渉力をさらに弱め、利益に対する賃金のさらなる低下を招く。中小企業が競争に打ち勝ち、大企業に吸収されるにつれて、資本主義の独占的傾向は、賃金と労働条件を一方的に決める力を持つ事業体を生み出すかもしれない。この独占化は競争と革新を抑制し、大企業が公正な労働の慣行よりも、ただ利益の最大化を優先することを可能にする。賃金と利潤の上昇と下降は、資本主義の基本的な法則、すなわち、利潤の最大化と労働力の搾取への執拗な推進力によって決定され続ける。技術の進歩や世界の経済の原動力の変化にもかかわらず、資本主義の下の生産方式に内在する根本的な矛盾は存続し、賃金の抑制と利潤の蓄積のサイクルを永続させるだけ。人間の福祉よりも資本の蓄積を優先させるこの資本主義の本質が、こうした力学が経済的関係の中核であり続けることを保証している。より大きな利潤を追求することは、資本家による労働の搾取をより集中的にする原動力となり、一方で技術の進歩と労働のグローバル化は、この搾取をより深化させる道具として機能するであろう。

 

技術の革新、特に「自動化」は、労働の風景を再形成するはず。20世紀には、機械化された生産の過程を、高度な機械工学の産物を、そして最終的には複雑な認知作業をこなすものの普及を目の当たりにするかもしれない。これらの不思議な技術が最初に期待されるものは、労働者を単調で危険な作業から解放し、理論的にはより創造的で充実した仕事に従事できるようにすることであろう。しかし資本主義の下では、このような技術を採用する主なきっかけは、費用の削減と利益の最大化であり、労働者の生活の向上ではない。機械が人間に取って代わる役割が増えるにつれ、失業率は上昇し、賃金や労働条件を引き下げるために搾取できる産業予備軍が生まれる。自動化による労働の需要の減少は、あらゆる箇所に均等に分配されるわけではない。機械化されやすい産業は大幅な雇用の喪失に見舞われる一方で、人間の創造力や社会的相互作用、或いは奥深い手作業の能力に依存する部門は、一時的にはそれほど影響を受けないかもしれない。

 

しかし、技術の進歩に伴い、こうした部門も自動化の圧力に直面することになるであろう。この不均等な分配は、極端な失業や不完全雇用の袋を生み出し、社会的不平等をさらに悪化させる。離職した労働者は新たな雇用を見つけることに苦労し、長期的な失業と技能の低下に繋がるかもしれない。社会的セーフティネットが存在しているとしても、このような移転の規模に対応するには不十分なのであり、貧困と社会的不安が蔓延することになる。一方で、資本のグローバル化は、国際的労働市場の力学を再構築する。資本家は利潤を最大化するために各国間の賃金の水準、労働法、そして規制環境の違いを利用するであろう。その結果として、労働が集約した産業は人件費の安い国へと移転し、生産の再分配が進むはず。従って、賃金と労働条件は世界的に下方修正される可能性が高い。高賃金国の労働者は、海外の低賃金労働者との競争にさらされ、賃金引き下げ圧力に直面する。こんな世界的な底辺への競争は、どこの国でも労働基準を弱体化させることになる。

 

単一な民族や国だけの企業でなく、「多国籍企業」がグローバルな経済の支配者となるかもしれない、それは新たな支配者となるにすれ、その力は増大するであろう。これらの企業は、複数の国の政策の過程に影響を及ぼす資源を持ち、自らの利益に有利な政策が確実に制定されるようになる。政府は国民のニーズよりも「資本のニーズ」を優先するので、労働者の権利と保護はさらに損なわれる。少数の多国籍企業に経済力が集中することで、少数のエリート、すなわち資本家階級が世界の富と資源の大半を支配する寡頭支配体制が生まれる。中小企業は多国籍の大企業の規模に太刀打ちできなくなる。

 

世界の労働者間の競争が激化すると、労働者の団結力や搾取への抵抗力は弱体化する。労働市場の分断化は国、人種や職業に沿った分断を生み出し、労働者が共通の利益のために団結にしくくする。資本家はこうした分裂を利用して労働者を互いに対立させ、統一した労働運動の形成を妨げるであろう。この「分断統治」の戦略によって労働者は分断されたまま無力となり、直面する搾取に効果的に対抗できなくなる。労働組合やその他の労働者組織の弱体化は、この戦略の直接的な結果であり、労働者の交渉力をさらに低下させる。大企業が経済を支配するようになると、資本の集中が労働市場を再編成する。これらの企業は交渉や妥協の必要なく、賃金や労働条件を一方的に決定する力を持つようになる。これにより、労働者は提示された条件を何でも受け入れざるを得なくなり、賃金や労働条件はさらに低下する。資本主義の独占的傾向は、大企業が新たな技術や慣行への投資よりも利益の最大化を優先するので、技術の革新や競争を抑制する。その結果として、生産性が停滞し経済全体の力学が変わる。利潤最大化へのあくなき追求は労働の搾取を悪化させる。

 

資本家は労働者からこれまで以上に大量の剰余価値を引き出そうとし、低賃金で長時間の労働を強いるようになる。新技術の導入は労働条件を改善するためではなく、労働の強度と速度を高めるためである。その結果として、労働者の肉体的及び精神的負担が増大し、怪我、病気や症候群の発生率が高くなる。労働条件の悪化は、グローバル化した経済において競争力を維持する必要性によって正当化されるであろうが、その真の目的は、「労働者の幸福を犠牲にして利益を最大化」することである。20世紀への資本主義の将来の軌跡は、賃金と利潤の上昇と下降を支配する基本的な原動力の激化によって特徴づけられるであろう。技術革新、グローバル化、そして資本の集中は労働市場を再形成し、新たな形の搾取と不平等を生み出すであろう。利潤の絶え間ない追求は、資本家をより集中的に労働力を搾取するように駆り立てる可能性が高い。

 

一方で、技術の進歩とグローバル化は、この搾取を深化させる道具として機能するかもしれない。資本主義の下の生産方式に内在する根本的な矛盾は相変わらず持続し、賃金抑制と利潤蓄積のサイクルを永続させるはず。技術の進歩と資本のグローバル化が約束されているにもかかわらず、資本主義の基本的な原動力は変わらず、労働の搾取が経済的関係の中核にあることを保証する。従って、資本主義の未来は、その過去を特徴づけてきたことと同様の力学によって特徴づけられると思われる。賃金と利潤の上がりと下がりは、利潤の最大化と労働の搾取を執拗に追求することによって決まるであろう。

資本の本質と、その成長の原理は?

第八章、賃労働と資本の関係は?

 

資本家と賃金労働者の間には一種の「取引」が行われている。ならば、何を交換しているのか?資本家と賃金労働者の交換を観察すると、表面的には単純な取引でありながら、その意味するところは非常に奥深いことが分かるであろう。労働者は労働力と引き換えに一日の生活の糧を受け取り、資本家は生活の糧と引き換えに労働力、すなわち労働者の生産活動を受け取る。この生産活動は通常の努力に留まらず、労働者が消費するものを交換するだけでなく、蓄積された労働に、それまで持っていた以上の価値を与える「創造的な力」である。そういうわけで、この交換において労働者は既存の生計手段の一部を手に入れる。しかし、これらの手段は何のためにあるのであろうか?即座に消費するためである。

 

しかし、この即時の消費はそれ自体が目的ではない。労働者が生計の手段を消費するやいなや、これらの手段が生活を支えている時間を、新たな生計の手段の生産に、すなわち消費によって失われた価値に代わる新たな価値を労働によって創造することに使わない限り、これらの手段は彼らにとって取り返しのつかないほど失われてしまう。この崇高な再生産力ー新たな価値を創造する能力ーは、正に労働者が受け取った生計の手段と引き換えに、資本家に明け渡すものである。その結果として、労働者はこの再生産力を自ら失ってしまったのである。もっと具体的な例を挙げよう。労働者は6万円で農家の畑で一日中働く。その労働によって、労働者は農家に12万円の見返りを確保する。農民は日雇い労働者に与えた価値を回収するだけでなく、それを倍増させる。こうして農夫は、日雇い労働者に与えた6万円を実りある生産的な方法で消費した。その6万円で日雇い労働者の労働力を購入し、初期に与えたものの2倍の価値の生産物を生み出し、6万円を12万円にしたのである。

 

それどころか、日雇い労働者は自分の生産物の代わりに6万円を受け取る。日雇い労働者は、自分の6万円を生活手段と交換して、多かれ少なかれすぐに消費する。すなわち、資本家にとっては、労働者として12万円をもたらす労働力と交換されたからであり、労働者にとっては、永遠に失われて農民との同様の交換を繰り返すことによってのみ再びその価値を得られる生計手段と交換されたためである。従って、資本は賃労働を前提とし賃労働は資本を前提とする。表裏一体なのである。両者は互いに条件づけ合い、それぞれが他方を存在させるのである。綿花の生産する工場の労働者は、果たして綿花だけを生産するのか?違う、資本を生産するのである。労働者は労働によって新たな価値を創造するために新たに役立つ価値を生産する。資本は、それ自身を労働力と交換することによってのみ、賃働を生命に呼び込むことによってのみ、自己を増殖させられる。賃金労働者の労働力は資本を増大させることによってのみ、その奴隷である労働者を増殖することによってのみ、資本と交換できるのである。従って、資本の増大は労働階級、すなわち「プロレタリアート」の増大である。

 

そして、資本家階級と親資本の経済学者は、資本家と労働者の利益は同様であると主張している。そして実際、そうなのである!資本が労働者を忙しくさせなければ労働者は滅びる。資本は、労働力を搾取しなければ滅びる。労働力を搾取するためには、労働力を買わなければならない。生産に必要な資本(生産時の資本)が急速に増加すればするほど、産業はより繁栄し、資本家階級はより富み、商売はより上手くなっていく。その結果として、資本家がより多くの労働者を必要とすればするほど、労働者は自分をより高く売る。従って、生産資本を可能な限り急速に成長させることは、労働者が耐えうる生活を営むための不可欠の条件である。しかし、生産資本の成長とは何なのか?それは、生活労働ができる労働力の成長の、労働者階級への資本家階級の支配の成長の証である。

 

賃労働が、それを支配する富を生産すると、それが再び資本の一部となるという条件の下で、雇用の手段、すなわち生計の手段の形として労働者に逆流する。これは資本が加速された拡大運動を余儀なくされる梃(テコ)に再びなることを示している。資本の利益と労働者の利益が同一であるということは、資本と賃金労働が同一の関係の表裏であるということである。一方が他方を条件づけるのは、貸主と借主が互いを条件づけることと同様である。賃金労働者が賃金労働者であり続ける限り、彼らの地位は資本に依存している。これが労働者と資本家の間にある自慢の利益共同体の正体。資本が成長すれば賃労働の質と量も増加し、賃金労働者の数も増加する。生産資本が増大すれば労働需要が増大する。従って、労働力の価格、すなわち賃金が上昇する。この例えを考えてみよう。家は大きくても小さくても良い。近隣の家が同様のように小さい限り、その家は「住居地」としての社会的要件を全部満たす。しかし、小さな家の隣に宮殿ができたとしよう。

 

小さな家は今、その居住者が維持すべき社会的地位を全く持たないか、非常に取るに足らないものでしかないことを明らかにしている。そして、文明化の過程でそれがどんなに高騰しようとも、近隣の宮殿がそれと同等かそれ以上に高騰すれば、相対的に小さな家の居住者は、常に四つの壁の中でより居心地が悪く、より不満で、より窮屈(キュウクツ)であることに気付く。賃金の顕著な上昇は生産資本の急速な成長を前提とする。生産資本の急成長は富の急成長、贅沢の急成長、社会的必要性の急成長、そして快楽の急成長を同様にもたらす。従って、労働者の快楽は増大したが、それがもたらす社会的満足は資本家の快楽の増大に比べれば低下した。社会全体に発展する段階と比べると、我々の欲求と快楽は社会に由来する。従って、我々はそれらを社会との関係において測定する。それらは「社会的な性質」であるため「相対的な性質」である。

 

しかし、賃金は単に交換可能な商品の合計によって決定されるのではない。この問題には他の要素も絡んでくる。労働者が労働力の対価として直接受け取るものは一定の金額。賃金は、単にこの貨幣価格によって決まるのか?そうではない。16世紀のアメリカにおいて、より豊かで容易に採掘できる鉱山が発見された末、ヨーロッパにおける金銀の流通量が増加した。その結果として、金と銀の価値は他の商品との関係で下落した。労働者は労働力へ過去と同額の銀貨を受け取った。彼らの労働への貨幣の価格は変わらなかったが、彼らの賃金は下がったのであった。これが、18世紀に資本の成長、資本家階級の台頭を促進したことの一つなのである。別のケースを考えてみよう。1847年の冬、凶作のせいで穀物、肉、バター、チーズなど、最も必要不可欠な生活手段が大幅に値上がりした。労働者が労働力へ過去と同様の金額を受け取っていたとしよう。彼らの賃金は下がったのではないであろうか?確かにそうである。同様の金額で、代わりに受け取るパンや肉などの量が減った。彼らの賃金が下がったのは銀の価値が下がったからではなく、生計手段の価値が上がったためなのである。

 

最後に、労働力への貨幣の価格が同様のままで、新しい機械の利用や季節の好転などのために、あらゆる農産物や製造品が値下がりしたとしよう。同様の金で、労働者はあらゆる類の商品をより多く買うことができるようになった。従って、労働者の賃金は、その貨幣価値が変化していないにもかかわらず上昇したのである。従って、労働力への貨幣価格ー名目上の賃金ーは実際の賃金、すなわち賃金と引き換えに実際に与えられる商品の量とは一致しない。それ故、賃金の上昇や下降について語ると労働力の貨幣価格、すなわち名目上の賃金だけでなく、実質的な賃金も念頭に置かなければならない。

 

しかし名目上の賃金、すなわち労働者が資本家に自らを売る金額も実質的な賃金ーこの金額で買うことのできる商品の金額ーも、「賃金」という用語に包含される関係を網羅するものではない。賃金は、何よりも資本家の利潤との関係によって決定される。言い換えれば賃金は比例的及び相対的数量なのである。一方で相対賃金は、労働力によって新たに創造された価値における現場での労働の割合を、蓄積された労働、すなわち資本に帰属する割合との関係で表現する。社会主義が賃金に及ぼす影響について述べるにあたり、社会主義社会のビジョンと、労働と資本の領域におけるその変革の可能性に目を向けよう。社会主義の下では、労働力の商品的地位を廃止することが大前提となる。労働はもはや、他の商品と同様のように「売買される単なる手段」とは見なされない。代わりに、労働は人間の可能性の発展と無限なる繁栄に不可欠な、活力に満ちた創造を引き起こす力となる。賃金制度、そして資本家と賃金労働者の取引は、資本主義的関係の本質を凝縮(ギョウシュク)しており、労働能力が商品化され生活手段と交換される。この取引は一見単純に見える。

 

労働者は賃金と引き換えに労働力を与え、資本家は資本の蓄積を強くするために労働者の生産活動の産物を受け取る。しかし、この一見単純な交換の下には、奥深い権力の力学、すなわち搾取とか、疎外の網が張り巡らされている。資本家にとっての目標は、労働者の労働から「剰余価値」を引き出すことによって利潤を最大化することである。剰余価値とは、上記の通りに労働者が労働として生み出した価値と、労働者に支払われる賃金の差額である。この剰余価値こそが資本主義的蓄積の礎を作り出し、資本の拡大と資本家階級の手中への富の集中を推進する。生産手段を所有する資本家階級は、あらゆる労働階級の労働を搾取し、賃労働的な関係を通じて剰余価値を引き出す。

 

他方、賃金労働者にとっては、労働力を賃金と交換することが、資本主義体制内での生存手段である。労働者は賃金と引き換えに労働能力を売り、それによって生存と再生産に必要な生計手段を手に入れられる。しかし、こんな類の取引は本質的に不平等である。労働者に支払われる賃金の価値は、労働によって生産される財やサービスの価値よりも常に低いためである。その結果として、労働者は資本主義の下の雇用に依存する永続的なサイクルの中に取り残され、富を蓄積することも真の経済的自立を達成することもできない。資本が労働者に与える影響は甚大かつ広範囲に及ぶ。資本主義社会では、あくなき利潤の追求が労働者の搾取と疎外をもたらし、労働者は市場で売買される単なる商品として扱われる。資本主義的生産方式は労働を商品化するだけでなく、労働者が生産手段や労働の成果を管理できないため、労働の成果から労働者を疎外する。この疎外は労働者が自らの労働から、互いから、そして自然界から疎遠になるなど、様々な形で現れる。

 

主流派の経済学者は、資本家と労働者の利害は一致しており、両者は経済的生存のために互いに依存している、という見解を支持することが多い。しかし、この観点は資本主義体制に内在する搾取と不平等を認めていない。労働者が生計を資本主義的雇用に依存していることは事実であるが、彼らは強制と搾取の条件下でそうしており、そこでは彼らの労働は組織的に過小評価され、資本家階級によって横領されている。しかも、資本家と労働者の利益は根本的に対立している。資本家は賃金を引き下げ、搾取を強化することによって利潤を最大化しようとし、労働者は公正な賃金と良い労働条件を確保しようと闘っているためである。資本主義の下で、労働者の運命は不安定であり不確実。彼らは市場の気まぐれに左右され、需要の変動、技術の進歩、世界経済の力に弱い。資本主義が発展し、危機や再編成の時期を迎えると、労働者は屡々こうした変化の矢面に立たされ、失業や賃金カット、雇用の不安に直面する。さらに、あくなき利潤の追求は、長時間労働や危険な労働条件の押しつけ、基本的な権利や手当の否定など、様々な形で労働者の搾取に繋がる傾向がある。

 

こうした課題にもかかわらず、労働者は歴史的に搾取に抵抗し、自らの権利と利益を主張するために組織化され、動員されてきた。労働組合や団体交渉から社会運動や政治活動まで、労働者はより良い賃金、労働条件の改善、より大きな経済的公正を求めて闘ってきた。しかし、資本家階級が搾取と抑圧を通じて権力と特権を維持しようとしているので、資本主義との闘いは相変わらず続いている。集団の自発的な行為と連帯によってのみ、労働者は資本主義の邪悪な支配に立ち上がり、より公平であり、より公正な社会の創造できるのである。すなわち、生産手段を所有する資本家階級と、ただ生き残るために労働力を売らなければならない労働階級は明白に「対立関係」である。この拮抗(キッコウ)関係は、階級闘争の礎を形成し、労働階級が資本主義の下の抑圧の搾取から自らを解放しようとする大事な過程を前進させる。

 

資本主義の下の生産の核心は、労働階級の労働から剰余価値を抽出することにある。剰余価値は、どうしても資本家の利潤の源泉ではないか?資本家階級はこの剰余価値を横領し、労働者大衆を犠牲にして自分達を富ませる。この搾取が、資本の蓄積の原動力であり、資本主義社会における階級的不平等の永続化である。資本家階級の利益に忠実な主流派の経済学者は、資本主義的搾取の本質を屡々曖昧にする。彼らは資本と労働の調和の神話を喧伝し、資本家と労働者の利益が一体であることを示唆する。しかし、この主張は誤りであり、労働への資本の搾取の継続を正当化するために広まっている。現実には、資本家階級の利益は労働階級の利益とは全く正反対なのである。前者は後者の生活と幸福を犠牲にして利潤の最大化を追求するためである。さらに、資本主義内における労働者の運命は暗く不安定である。市場の気まぐれとあくなき利潤の追求の対象となる労働者は搾取、疎外、そして不安にさらされている。労働者は賃金のために労働力を売ることを余儀なくされるが、その賃金では基本的なニーズや生活必需品すらも賄えないことが多い。

 

さらに、技術の進歩と資本主義の下の競争の激化は労働力の搾取を悪化させ、失業、貧困、不平等を増大させる。しかし、この抑圧の闇の中には「社会主義革命」という希望の光がある。資本主義がその特有の矛盾と危機に達するにつれて、世界の労働階級は、資本主義的生産方式を打倒できる革命の主体として現れるであろう。自発的行為、連帯、階級意識として、人民大衆は生産手段を掌握して協力、平等、そして民主主義の原則に基づく社会主義社会を確立できる。賃労働の未来を描く上で、共産主義者は社会主義の必然的な勝利に目を向けなければならない。20世紀の未来、資本主義が衰退と衰退の最終段階に入ると、労働階級は革命によって立ち上がって、社会的及び経済的変革の新時代を切り開くはず。

 

社会主義の下では、労働力の商品的地位は完全に廃止されて、労働力はもはや市場で売買される「単なる商品」として扱われることはない。代わりに、労働力は人間の潜在力の発展と無限なる繁栄に不可欠な、活力に満ちた「社会の自分の手で創造する力」として気付かれるようになる!しかし、この社会主義革命というものは、どのようにして実現するのであろうか?労働階級が生産手段を掌握し、社会主義社会を確立するためには、どのような条件が必要なのであろうか?とりあえず、これらの問題は、マルクスが主張した理論の核心にあり、慎重な考察を必要とする。第一に、資本主義の発展そのものが、最終的な打倒の条件を作り出していると気付くことは不可欠である。資本主義は、利潤へのあくなき追求と労働力の搾取から生じる固有の矛盾と危機によって特徴づけられる。資本主義がその限界に達し、より矛盾が深刻になるにつれて、世界の労働階級は、資本主義の下の抑圧に反発して組織化し、動員するよう駆り立てられる。

 

さらに、資本主義的競争の激化と資本のグローバル化は、共通の利益と共通の不満を持つ世界的な労働階級を生み出してしまう。あらゆる労働階級の人間は国境を越えて国際的に連帯し、世界的の規模で資本主義に対抗する「統一戦線」の礎を築くであろう。さらに、資本主義の下の技術と生産力の発展は、生憎にも社会主義のための物質的条件を作り出す。技術の進歩は、生産性の向上と豊かさという未来の可能性をもたらし、資本主義の下の搾取が依拠する希少性を物質の弱体化させる。自動化と機械化は労働需要を減らし、人間の必要性よりも利潤を優先する体制の矛盾を露呈させる。

 

資本主義の矛盾は定期的な経済危機の中で顕在化し、それが体制自体を不安定化させて、革命による大変革の機会を生み出してしまう。過剰生産、金融投機、そして失業の危機は、資本主義の下の生産の非合理性を暴れ、大衆の不満を煽る。しかし、資本主義は単に危機に直面するだけでは十分ではない。労働階級は、革命の瞬間を手に掴むために必要な意識と組織も持たなければならない。階級意識とは、社会階層の中での自分の立場を認識し、労働階級の他の構成員と共通の利益を認識することで、これは社会主義革命には不可欠なのである。教育、扇動、そして組織化として、労働階級は資本主義の覇権に立ち上がり、社会主義の大義を前進させることに必要な意識と連帯を発展させられるのである。

 

革命のための崇高(スウコウ)な闘争は労働階級の解放に献身する革命的な政党、すなわち「共産党」によって指導されなければならない。共産党は労働階級の前衛として機能し、資本主義との闘いにおいて指導し、指示し、団結のために組織を与える。共産党は完全に「労働階級」に根ざし、民主的な中央集権主義に徹し、社会主義革命の追求における行為の統一と戦略的明確性を確保しなければならない。結論として、社会主義革命というものは、抽象的な考えやユートピア的な空想ではなく、資本主義そのものの矛盾から生じる歴史的必然。資本主義が衰退と衰退の最終段階に入ると、世界の労働階級は社会を変革し、人間の解放の新時代を切り開くことのできる革命的主体として現れるであろう。集団行動、連帯と階級意識として、人民大衆は生産手段を掌握して協力、平等、そして民主主義の原則に基づく社会主義社会を確立できるであろう。賃労働の未来は、資本主義の下の搾取の永続ではなく、抑圧と搾取のない世界を求める革命的闘争の中にある。

賃金はどのように決まれるのか?

 

第七章、資本の本質と、その成長の原理は?

 

社会関係と物質的生産手段との間の複雑な関連性を目の当たりにすると、資本の深遠な本質に驚嘆(キョウタン)せずにはいられない。それは有形資源の集合体としての物理的な形を超越して、資本家階級を支える社会関係の複雑な網の目の反映となっている。資本を構成する生計手段、労働手段と材料は、単に恣意的に蓄積されたものではなく、特定の社会的条件の中で綿密に作り上げられ、蓄積されてきたものである。これらの条件は労働がどのように組織され、資源がどのように配分され、価値がどのように生み出されるのかを規定する有力な生産関係によって作られている。そういうわけで、資本は単なる物質性を超えて、経済力と社会力学の複雑な相互作用を反映する社会的規模、交換価値を体現している。

 

生産手段及び労働力を一つの言葉として言うと「資本」である。資本というものは、その本質において単なる物的資源の集合体以上のものである。資本は資本主義社会における富の生産と分配を支配する歴史的及び社会的関係を具体化したものである。それが農産物、産業機械、そして金融資産として現れるにせよ、資本はそれが生産された社会的条件の刻印を伴っている。資本のこの社会的性格はその本質に内在するものであり、経済的価値だけでなく旧社会秩序を永続させ、強化する役割をも果たしている。従って、この「資本」の概念を完全に理解するためには、その物理的な形を越えて、その存在を支える社会的関係を探求しなければならない。実際、資本は進化し続ける形を取りつつも、その本質は不変である。綿であれ羊毛であれ、米であれ小麦であれ、蒸気船であれ鉄道であれ、その基本的な性質は変わらないのである。

 

変容の中でのこの不動性は資本の永続的な回復力、すなわち時代の変化の波、その流れに耐える能力を物語っている。この固有の安定性こそが、資本に永続的な力と影響力を与え、社会的及び経済的生活の輪郭を深遠かつ広範囲に形成しているのである。資本の不屈の性質は単にその物理性の産物ではなく、それを支える社会関係に深く根ざしており、社会への資本家の支配力をより強化し、資本主義社会に内在する階級的対立を永続させている。さらに、資本は驚くべき適応力と拡張力を持っている。富の蓄積の原動力として、今も資本は絶えず新たな投資と成長の道を模索している。

 

技術の革新であれ、領域の拡大であれ、金融の投機であれ、資本は利潤の追求に執拗(シツヨウ)である。この拡大への意欲は、経済の発展の軌跡だけでなく、資本主義社会の社会的及び政治的な力学をも作り出す傾向がある。資本家間の競争を煽り、創造的破壊の過程を推進し、一国の社会内の富と権力の分配を再構築する。従って、資本の回復力はその安定性だけでなく、絶えず変化する状況の中で社会への支配力を永続させる、その耐えずに変化し適応する性質にある。しかし、「単なる交換価値」と「真の資本」を明確に区別することは必要である。あらゆる交換価値の総和はそれ自体が固有の価値を持っているが、あらゆる商品の集合体が資本として認められるわけではない。資本は、単なる蓄積の領域を超越し、今の資本主義社会に固有の資本主義的生産関係を体現している。資本がその真の姿を現すことは、資本主義的関係の坩堝の中であり、深遠かつ広範囲な方法で社会的及び経済的景観に影響力を及ぼす。

 

あらゆる交換価値の総和はすべて交換価値、あらゆる交換価値は交換価値の合計なのである。例えば、10万円の価値のある家は10万円の交換価値であり、100円の価値のある紙切れは、ただ100分の1円の交換価値の合計である。他の商品と交換可能な商品もただの「商品」である。それらが交換可能である明確な割合が交換価値、すなわち、貨幣で表現すれば価格を示す。これらの商品の数量は商品としての性質、交換価値を表すものとしての性質、一定の価格を持つものとしての性質には何の影響も及ぼさない。木が大きくても小さくても、「木」であることに変わりはない。鉄を1千円で交換するか、1万円で他の商品と交換しようが、それが「商品としての性格」や交換価値を変えるであろうか?その量によって、鉄はより価値の高い商品にも、より価値の低い商品にも、より価格の高い商品にも、より価格の低い商品にもなる。

 

それでは、商品や交換価値の総和は、どのようにして資本になるのか?それは独立した社会的力として、すなわち社会の一部の力として、労働者自身を保持し、生きた労働力との直接の交換によって増大するためである。自らには「労働能力」だけしか持っていない階級の存立は、資本主義の必然的前提である。蓄積された労働に資本の性格を刻印するものは、過去の蓄積されて物質化された労働が、直接的な生活労働に支配されることだけ。資本は、蓄積された労働が新たな生産の手段として生活労働に奉仕するという事実によって成り立っているものではない。ただ生きている労働者が、その交換価値を維持し増殖させる手段として、蓄積された労働に「奉仕」するという事実によって成り立っているのである。

 

資本の本質は、単にその物質的構成にあるのではなく、資本主義社会に内在する権力的力学の現れである社会関係としての役割にある。それで資本は階級支配の強い道具として機能し、労働者階級の搾取を永続させ、資本家階級の覇権を強化する。さて、社会主義の変革の可能性、とりわけ資本の原理を通じた賃金への影響に目を向けよう。資本主義の枠組みで、賃金は労働力の価値と表裏一体であり、労働力は商品化されて市場の指示に従う。労働者は、その労働力を資本家に売ることで、労働能力を維持し、再生産するために必要な生計費に相当する賃金を受け取る。しかし、剰余価値(労働者の労働力によって生み出された、労働力の価値を超える超過価値)は、資本家によって利潤として計上される。

 

資本主義の下の賃金制度に内在するこの矛盾は、不平等を永続させ、資本家階級の支配を強くする。資本が蓄積し、労働力を再生産し、労働階級を犠牲にして資本家階級の権力と富を強くすることは剰余価値の抽出を通じて。しかし、社会主義の変革的ビジョンは、労働力の商品的地位を廃止することによって、この搾取的地位を覆そうとしている。社会主義社会では、労働は市場で売買される単なる商品ではない。代わりに、労働は共同体的な努力となり、一部の特権階級のために利益を生み出すものではなく、社会のニーズを満たすことを目的とする。この労働の目的の根本的な転換は、利益が主導する資本主義の倫理観からの深い脱却を示し、労働の本質的な価値が認められ、尊重される新たな時代の到来を告げるものである。社会主義は、労働を商品化の束縛から解放することによって、労働者に力を与え、労働によって生み出された富が社会のあらゆる構成員の間で公平に共有される、より公正であり、より公平な社会を築くことを目指す。社会主義で、生産手段は労働者自身によって集団的に所有及び管理されるので、根本的な変革を遂げる。生産は、利益の追求よりも共同体のニーズを優先する計画に従って組織化され、賃金を含む資源の分配が公平及び公正の原則に基づくことが保証される。

 

賃金はもはや雇用主の利潤の動機ではなく、労働階級の集団による意思決定によって決定され、労働者が集団的に生産した富の公正な分配を誰もが受けられるようになる。こんな「生産手段の民主化」は、資本主義の階級的で搾取的な関係からの根本的な脱却を示しており、より民主的で平等主義的な社会の礎を築く。さらに、社会主義は賃金上昇の問題に取り組む上で、根本的に異なるアプローチを与える。ただ利潤の最大化を求めたせいで賃金の増加が阻害されがちな資本主義とは異なり、社会主義は労働者の無限なる幸福と発展を優先する。生産性の向上は労働者に直接的な利益をもたらし、生み出された余剰は生活水準を向上させるために地域社会に再投資され、あらゆる人の賃金を引き上げるようになる。この再投資は成長と発展の好循環を促進し、社会的条件の改善が必然的に生産性の向上に繋がり、ひいては賃金と生活水準のさらなる向上を可能にする。労働者の利益を社会全体の目標と一致させることで、社会主義は労働の「生産的な潜在力」をフルに活用し、あらゆる人にとって、より豊かで公平な未来を創造しようとする。

 

従って、社会主義の下での賃金の増加は、社会全体の富と生産性の極大化に繋がるのである。社会がより生産的であり効率的になるにつれて、その恩恵は集団全体に共有される。この共有は参加型の予算の編成、共同の計画、労働者評議会などのメカニズムによって促進され、意思決定の過程において社会の全構成員の意見と利益が代表されるようになる。これにより、社会的条件の改善が生産性の向上に繋がり、ひいては賃金や生活水準のさらなる向上を可能にするという好循環が生まれる。富と資源の公平な分配は、個人の幸福を高めるだけでなく、社会的結束と連帯を強化し、持続的かつ包摂的な成長の基盤を築く。さらに、社会主義の下での賃金のあり方の変革は、より広範な社会の変革を伴っている。

 

社会主義は、資本主義の下に存在する社会的不平等を根絶し、職業、性別、人種、または経歴にかかわらず、あらゆる労働者が平等な待遇と報酬を受けられるようにすることを目指している。この平等と社会正義への社会主義者の約束は、資本主義社会で隅に疎外された各集団が屡々直面する差別と搾取に対処するものである。資本主義、利潤を生み出せる人なのかどうかを判断するので、これらの不正義は必然的。あらゆる人に平等な権利と機会を保証することで、社会主義は個人が地域社会の経済的及び社会的政策に完全に参加し、そこから利益を得ることを妨げる障壁を取り払おうとするものである。これは、制度的差別と搾取が著(いちじる)しい賃金格差をもたらす資本主義体制とは対照的。社会主義の下での平等の追求は、単に道徳的な要請というだけでなく、社会の全構成員の可能性と貢献を最大化し、それによって集団の幸福と生産性を高めるための実践的な戦略でもある。加えて、社会主義は各個人の潜在力の発現に焦点を置く。

 

すなわち、賃金は単なる生計の手段ではなく、誰もが自分の能力と才能を最大限に伸ばせるようにするための手段なのである。社会主義社会では教育、医療、そしてその他の必要不可欠なサービスに接することがあらゆる人に保証され、一人一人の発展の礎が与えられる。人的資本への投資は、社会に有意義に貢献するために必要な技能、知識、そして機会を個人に与えるものであり、社会的及び経済的発展の極めて重要な要素であると考えられている。社会主義の下での人間開発への焦点は、屡々幸福の社会的及び個人的側面を見落とす、利潤の最大化を重視する資本主義とは対照的なのである。

 

一人一人の無限なる発展を優先することで、社会主義はより包括的であり潜在力のある社会を育み、そこでは誰もが成長し、潜在能力を最大限に発揮する機会を得られる。人的資本への投資はさらに生産性を高め、社会の富の無限なる拡大に貢献し、賃金の上昇の礎を強化する。この「資本」の力学を深く掘り下げるには、その多面的な性質と経済の構造と社会関係の両方を作り出す役割に気付けなければならない。資本は単なる物的資産の集合体ではなく、資本主義社会に内在する力学の反映なのである。その潜在性と適応性は、資本を支える社会関係に根ざしており、資本家階級の支配を強化し、労働階級の搾取を永続させている。しかし、その一見不変の性質にもかかわらず、資本は決して無敵ではない。社会主義の変革の可能性は労働が商品化の制約から解放され、生産手段が労働者自身によって民主的に管理される社会のビジョンを与える。社会的及び経済的関係のこの根本的な所有関係の転換は、労働によって生み出された富が社会の全構成員の間で公平に共有される、より公正であり、より公平な社会への礎を築くのである。

 

資本主義の下で、賃金は労働力の価値によって決定され、それはただ市場で売買される「商品」として扱われる。労働力の価値は生活必需品だけでなく、医療や教育のような必要不可欠なサービスも含む、労働者の生活に必要な費用によって決まる。資本家は労働力を、その生産に必要な労働時間によって測定される価値で買う。しかし、労働者は労働力の価値を超える価値を生産し、資本家が利潤として充当する剰余価値を生み出す。この剰余価値の抽出は、資本主義の下の賃金制度に内在する搾取を永続させて、資本の蓄積を促進し資本家階級の支配を強くするのである。

 

一方で、社会主義は労働力の商品的地位を撤廃することによって、人間関係を根本的に変えようとしている。社会主義社会で、労働はもはや市場で売買されるものではなく、社会の集合的なニーズを満たすことを目的とした共同の努力となる。労働の本質におけるこの変革は、個人の利益の最大化から、共同体の幸福と発展の最大化へと焦点を移す。労働の本質的な価値と、この社会を維持し、発展させる上で不可欠な役割を認識することで、社会主義は資本主義の搾取的構造を撤廃して、より公平で公正な社会への道を開く。社会主義のビジョンの中心は、生産手段の集団所有であり、少数の利益を生み出すのではなく、共同体のニーズを満たす計画に従って生産を組織することである。

 

集団による所有によって、賃金を含む資源の分配が公平及び公正の原則に基づくことが保証される。賃金は市場の力によってではなく、労働者の集団の意思決定によって決定されるので、労働者が集団で生産した富の公正な分配を全員が確実に受けることができる。この参加型のアプローチは、責任感の共有と相互扶助の意識を育み、社会的結束と連帯を強化する。さらに、社会主義は資本主義とは根本的に異なる方法で賃金上昇の問題に取り組む。資本主義の下では、利潤を最大化するという命令によって賃金の増加が制限されることが多く、構造的な不平等や賃金の差に繋がる傾向がある。しかし、社会主義は違う。労働者の福祉と発展を優先し、生産性の向上が労働者に「直接」利益をもたらすようにする。生産性の向上によって生じた余剰は、生活水準を向上させるために地域社会に再投資され、あらゆる労働者の賃金を引き上げる。

 

この再投資が成長と発展の好循環を促進し、社会的条件の改善が生産性の向上に繋がり、それが賃金と生活水準のさらなる向上を可能にする。そういうわけで、社会主義の下での賃金の増加は、社会の富と生産性の全体的な拡大と繋がる傾向がある。社会がより生産的であり効率的になるにつれて、その恩恵は集団に共有され、社会の全構成員の賃金の上昇と生活水準の向上に繋がる。こんな形の共有は参加型の予算の編成、共同の計画、労働者評議会などのメカニズムによって促進され、意思決定の過程において社会の全構成員の意見と利益が代表されるようになる。経済計画へのより包括的で民主的なアプローチを促進することで、社会主義は持続的であり包括的な成長のための条件を作り出す。

 

賃金の上昇と社会的不平等への対応に加え、社会主義は生産と消費の根本的な原動力の変革も目指す。資本主義の下で、生産は利潤動機によって推進され、過剰生産、資源の過少利用、そして環境の悪化に繋がっている。一方で、社会主義は地域社会のニーズと資源の持続可能な利用を優先し、財とサービスの公平な分配を保証する計画に従って労働の集団を組織する。利潤を追求することではなく、社会的なニーズに沿った生産を行うことで、社会主義はより効率的であり、持続可能かつ公平な経済を育む。さらに社会主義は、資本主義社会に内在する伝統の分業と階層的な労働組織に立ち上がる。職場を民主化し、労働者が生産手段を統制できるようにすることで、社会主義はより平等であり、参加型の労働環境を作り出そうとしている。労働者の協同組合、集団的の意思決定、参加型の経営構造は、社会主義的ビジョンの不可欠な構成要素であり、労働者が生計と未来に影響を与える決定において発言権を持つことを保証する。

 

このような職場での民主化は、仕事の満足度と生産性を高めるだけでなく、労働者の所有意識と問題解決の能力を育む。さらに社会主義は経済、社会、そして環境問題の相互の関連性に気付き、人と地球の幸福を優先する総合的な開発のアプローチを提唱している。持続可能な開発の実践、そして再生可能なエネルギー源を守る活動を推進することで、社会主義は工業生産による環境への影響を緩和し、天然資源の長期的な存続可能性を確保しようとしている。環境の持続可能性へ社会主義者の約束は、社会的責任と世代間の公平性という社会主義のより広範な理念を反映したものであり、将来の世代が健康で活気に満ちた、回復力のある世界を受け継ぐことを保証するのである。結論として、社会主義の変革の可能性は「労働の搾取、富の集中、そして環境の悪化が公平性、連帯や持続可能性の原則」に取って代わられる社会のビジョンを与える。労働と資本の関係を再構築することによって、社会主義はあらゆる個人のニーズと願望が評価され尊重される、より公正で、公平で、人道的な社会の創造を目指す。共同の所有、民主的な意思決定、持続可能な開発実践として、社会主義は社会が常に繁栄し、機会が平等で、尊厳が普遍的である未来への道を開ける。

商品の価格はどのように決まれるのか?

 

第六章、賃金はどのように決まれるのか?

 

それでは、普通の商品の価格を調整することと同様の普通の法則が、賃金、すなわち労働力の価格も当然調整しているという考えを掘り下げてみよう。もっと簡単に言えば、「衣食住」や「技術」と言った商品の価格が需要と供給に基づいて上下することと同様のように、賃金も同様の原理に基づいて変動する。賃金は、労働力の買い手(資本家)と労働力の売り手(労働者)が、どのように競争するのかによって増減する。すなわち、労働者が多くても仕事が少なければ、賃金は下がるかもしれない。逆に仕事は多いが労働者が少なければ、賃金は上がるかもしれない。これは上記した。このような賃金の変動は、普通の商品の価格の変動に対応している。しかし、このような変動の中で、労働力の価格は究極的には「生産コスト」によって決まる。生産コストとは、この商品ー労働力ーを生産することに必要な労働時間を指す。

 

これをより良く理解するために、労働力の生産コストについて考えてみよう。基本的には、労働者を「労働者」として維持し、労働者が働くために必要な教育や訓練を提供するために必要なコストである。例えば、ある者が医者になるために数年間の教育が必要であるとしたら、労働力の生産コストにはその教育に関連するあらゆる費用が含まれる。一方で、訓練がほとんど必要ない仕事であれば、生産コストは遥かに低くなる。従って、一つの仕事に就くまでに必要な訓練期間が短ければ短いほど、労働者の生産コストは小さくなり労働力の価格は下がる。見習い期間がほとんど必要なく、労働者が肉体的に存在するだけで十分な産業では、生産コストは労働者を「労働状態」に保つために必要な商品だけにほぼ限定される。すなわち、労働者の労働の対価は、衣食住と言った労働者の命のために必要な生活必需品の価格によって決定されることになる。

 

しかし、もう一つの重要な考慮事項がある。メーカーが生産コスト、ひいては製品の価格を計算すると、労働の道具の消耗(ショウモウ)を考慮する。例えば、ある機械が1万円で、10年間使えると予想される場合、メーカーはその機械で生産される商品の価格に毎年1000円上乗せする。これによって、10年後には古くなった機械を新たなものに交換できる。同様に単純労働力の生産コストには、伝播のコスト、すなわち労働者ぼ集団がそれ自身の生命を維持し、労働力を再生産する力を含まなければならない。言い換えれば、機械と同様に肉体的にも世代的にも労働者の消耗を考慮しなければならない。これにより退職したり、働けなくなったり、亡くなったりした労働者に代わる新たな労働者が常に存在することになる。

 

従って、単純労働力の生産コストは、労働者の存立と伝播のコストに相当する。この存立と伝播の費用の価格が賃金となる。このようにして決定された賃金は「最低賃金」と言われる。この最低賃金は、あらゆる商品(この場合は労働者の労働力)の生産コストを賄(まかな)うために必要な基本的な価格のようなものである。この最低賃金は必ずしも個々の労働者に適用されるのではなく、労働者階級全体に適用されるということを注意しなければならない。個々の労働者、そして実際には何百万人もの労働者が、自らの存在と増殖能力を確保することに十分な賃金を受け取っていないかもしれないが、労働者級全体の賃金は、平均して時間の経過と共にこの「最低賃金」に調整されていく。

 

賃金を支配する最も一般的な法則を理解したところで、それは他のあらゆる商品の価格を決定する法則と類似している。この検討によって、資本主義体制における賃金と労働力の価値の微妙で多面的な側面が分かるかもしれない。この探求を通じて、我々は仕事と報酬の世界を規定する経済関係の複雑さをよりよく把握することができる。始めに、賃金は商品価格と同様、需要と供給の原則によって左右されることをさらに詳しく説明しよう。労働市場は他の市場と同じように機能し、均衡賃金率は労働力の供給(働く意思のある労働者)と労働力の需要(雇用を求める雇用者)の交差によって決定される。恐らく、経済成長や技術の進歩により、より多くの人手を必要とするようになり、労働力への需要が段々高まると、雇用主は必要な労働力を集めるために高い賃金を提示することがある。逆に、景気の後退期や失業率が高い時には、労働力の供給が需要を上回り、労働者が限られた職を巡って競争するので、賃金が下落する可能性がある。

 

さらに、賃金の変動を理解する上で重要な役割を果たすものは、マルクスが論じた「産業予備軍」の概念である。彼が言った産業予備軍とは、労働の需要が高まった時、参入できる失業者や非正規の労働者のことである。失業者が存在するということは、雇用された労働者がより高い賃金を要求すれば、それに代わる労働力の供給が常に用意されていることを意味するので、この予備軍は賃金に下方圧力をかける。雇用主は、この余剰の労働力を活用して賃金が上昇し過ぎないようにし、労働者の報酬よりも資本の蓄積に有利なバランスを維持できる。

 

次に、労働力の生産コストを決定する要因をより詳細に検討する必要がある。労働者の生命を維持するためのコストには衣食住、医療、その他労働者の肉体的及び精神的幸福を保証する必需品など、様々な必需品が含まれる。さらに、労働者が職務を遂行するために必要な技術を身につけるために必要な教育訓練の費用も含まれる。例えば、高度に熟練したエンジニアを生産するコストは、広範な教育と訓練が必要なので、未熟練労働者のそれよりもかなり高い。その結果、雇用者の下で働いているエンジニアの賃金は、労働力への大きな投資を反映して一般的に高くなる。さらに、特定の社会における生活水準や、一般的な文化的及び社会的規範も、労働力の生産コストに影響を与える。より高い生活水準が期待される社会では、労働者を維持するためのコストはそれに応じて高くなり、より高い賃金に繋がる。

 

例えば先進国の労働者は、低開発地域の労働者に比べて、信頼できる医療、質の高い教育、そして快適な生活環境などの、より多くの快適さを必要とするかもしれない。このような期待が、与えられた社会経済的背景の中で労働者の存在と繁栄を確保するために必要な最低賃金を形成する。さらに、労働者の消耗という概念を肉体的及び精神的側面の両面から考慮しなければならない。肉体的に過酷な仕事は労働者の健康を損ない、労働力を維持するために十分な休息、健康管理、栄養補給が必要となる。同様に、多大な精神的努力を必要としたり、ストレスの水準が高かったりする仕事は、労働者の精神的健康に影響を及ぼす可能性があり、生産性を維持するための対策が必要となる。使用者は、機械設備の減価償却費を考慮するのと同様に、賃金を決定する際にこれらのところを考慮しなければならない。さらに、労働力の拡大には、労働者が次の世代を育てることができるような家族や地域社会の支援体制に対する、より広範な社会的投資が関わっている。これには容易な育児、育児休暇、子どもの教育、そして家族を支える福祉などが含まれる必要があると思われる。

 

こうした社会的再生産に関連するコストは、資本主義的経済に必要な労働力の継続的供給を保証するため、間接的に賃金に織り込まれている。恐らく、これらあらゆる要素をより深く考えることで、資本主義社会における賃金の決定を支配する複雑なメカニズムをよりよく理解できるであろう。違うか?それなら、もう一度読んでみてくれ。需要と供給の相互作用、労働力の生産コスト、生活水準、より広範な社会及び経済的環境のすべては、一人の労働者が受け取る賃金を形成するために集約される。労働市場における需給の力学は、様々な巨視的な要因ー主に経済に関連しているーの影響を受ける。経済的政策、技術的変化、グローバル化、人口の動態の変化はすべて、労働市場の状況を作り出す役割を果たす。さて、労働の機械化のための技術の進歩で例を挙げてみる。特定の産業における労働者の置き換えに繋がって労働力の供給を増加させ、賃金に下方圧力を及ぼす可能性がある。そうなると、逆に技術の革新は新たな雇用の機会を創出し、熟練労働者の需要を増加させ、その部門の賃金を押し上げる可能性がある。どうか?経済というものは、あまり簡単ではない。

 

また、グローバル化は国境を越えた労働者の需給に影響を与えることで、賃金の決定にも影響を与える。他国の安価な労働力が利用可能になれば、資金を調達することや海外への業務が進み、国内の賃金の水準に影響を与える。さらに、移民政策や労働力の移動は、その国での労働力の供給を変化させ、賃金の動態にさらに影響を与える可能性がある。高齢化や労働参加率の変化などの人口動態の変化も、労働需給に影響を与える。決定的に、「人口の高齢化」は労働力の減少をもたらし、労働者の交渉力を高め、賃金を上昇させる悪影響を及ぼす。逆に、女性や若年の労働者の労働市場への参入を含む労働参加率の上昇は、労働供給を増加させ賃金に下方圧力をかける可能性が高い。

 

そうなら、労働力の生産コストを検討する際には、より広範な社会及び経済的環境を考慮しなければならない。政府の政策、労働市場の規制、人民への福祉は、労働力の維持及び再生産のコストを形成する上で重要な役割を果たす。医療、教育や住宅と言った福祉に接することを保証する政策は、労働者の生活費を削減し、それによって労働者の誘致(ユウチ)に必要な最低賃金に影響を与える。逆に、こんな支援制度がないと労働力の生産コストが上昇し、これらの必要不可欠なニーズを補完する高い賃金が必要となる。さらに、文化的及び社会的規範は労働者に期待される生活水準に影響を与える。より高い生活水準が当たり前の社会では、労働者はその期待に応えるためにより高い賃金を要求するかもしれない。

 

逆に生活水準が低い社会では、労働者は基本的なニーズを満たすことに十分な低賃金を受け入れるかもしれない。このような文化的及び社会的要因は、経済的力学と相互作用して、複雑な形で賃金の水準を決定する。労働者の消耗という概念は、肉体的な側面に留まらず、精神的及び感情的な幸福をも含む。仕事のストレス、ワークライフバランス、メンタルヘルスへの配慮は、生産的で持続可能な労働力を維持するための大事な要素として、益々気付いてきている。雇用主や政策立案者は、あの労働力の長期的な存続を確保し、労働者の幸福を支える条件を整備するために、これらの側面に取り組まなければならない。勿論、今は無理である。社会主義が賃金の決定に与える重大な影響について、徹底的な探求に着手しよう!この主題を掘り下げるにあたっては、賃金と労働関係を支配する資本主義の枠組みへ、社会主義が投げかける根本的な挑戦を把握することが極めて重要である。資本主義の下で、賃金の制度は搾取と不平等を永続させている。

 

その主な理由は、生産手段を所有する資本家が労働者の労働から剰余価値を引き出すためである。この剰余価値は、労働力の価値と労働によって生み出された価値との間の格差から生じ、資本家の利潤の礎を作り出す。しかし、社会主義の本質は、この搾取的な賃金の制度を根底から消そうとすることにある。社会主義の下の社会で生産手段は、特権を持っている資本家階級によって管理される過去とは確実に異なり、労働者の集団によって所有されたまま、社会の繫栄のために管理されるようになるので、根本的な変容を遂げる。この所有権の大幅な移行は、賃金の決定の力学を根本的に変化させ、労働者が自らの労働の権利を統制する力を与える。一方で資本主義では、賃金というものは資本家の利潤の動機によって決定されるが、社会主義で賃金は、労働階級のニーズと公共の利益によって形成される。

 

この所有権の民主化は、富と資源のより公平な分配の礎を作り出し、資本主義の「利潤主導」の論理からの脱却を示す。さらに、社会主義は労働力の商品的地位を撤廃することを目指しており、労働は単に市場で取引される商品ではなく、むしろ社会におけるあらゆる価値の源泉そのものであると気付いている。資本主義体制では、労働力の価格は需要と供給の気まぐれに左右され、しばしば労働者の搾取と不安定なことに繋がる傾向がある。しかし、社会主義経済では労働力は市場の変動に基づくものではなく、その固有の社会的意義と共通善への貢献に基づいて評価される。こんな観点は労働者という個人の地位を高め、労働者が社会の機能と発展に不可欠な役割を果たすことで評価されることを保証するのである。

 

社会主義の下では、賃金は市場原理のみによって決定されるのではなく、民主的な計画と集団の意思決定によって決定される。これは、労働者が限られた仕事の機会をめぐって互いに争う、資本主義の競争原理とは異なっている。代わりに、社会主義の枠組みでは、労働者は社会のニーズを満たすために連帯し協力する。賃金の決定へのこんなアプローチは、労働者間の公平、平等、そして相互扶助の感覚を育み、賃金が労働の真の価値を正確に反映し、社会の全構成員の幸福そのものに貢献することを保証する。さらに、社会主義は賃金の差を支える構造的不平等、特にジェンダー、人種や階級などの要因に根ざした不平等に取り組むよう努める。資本主義社会では、社会から疎外された集団は労働市場で差別や搾取を受けることが多く、雇用への不平等な機械と低賃金に繋がってしまう。しかし、社会主義社会では、経歴やアイデンティティーにかかわらず、あらゆる労働者に平等な権利と機会が保障される。この社会正義と包括性への確固としたメリットにより、賃金が公平に与えられ、あらゆる個人が活躍し、社会の集団の発展に有意義に貢献する機会が保障される。

 

資本主義に内在する搾取を理解する上で中心となる剰余価値の概念を発展させ、マルクスの価値に関する労働の理論をさらに深く掘り下げる必要がある。マルクスによれば商品の価値は、その生産に要する社会的に必要な労働時間の量によって決定される。しかし、資本主義の下で、資本家は労働者が生産する商品やサービスの価値よりも低い賃金を支払うことによって、労働者の労働から剰余価値を引き出す。資本家が横取りしたこの剰余価値が、資本家の利潤の礎を形成する。一方で、生産手段が「労働階級の集団」によって所有される社会主義社会では、剰余価値はもはや一部の特権階級の利益のために労働者の労働から引き出されるのではなく、社会全体の福祉のために利用される。

 

さらに、社会主義の下での所有の民主化は、労働者に労働を統制する権限を与えるだけでなく、資源の配分と富の分配を支配する意思決定の大事な過程に積極的に参加することを可能にする。しかし、資本主義社会では投資、生産、そして分配に関する決定は、何よりも利潤の最大化を優先する資本家の所有者や株主によって主に行われる。しかし、生産手段を集団で所有する社会主義経済で、これらの決定は、共同体全体のニーズと優先順位を深刻に考慮して、民主的に行われる。この民主的な計画によって資源が効率的かつ公平に配分され、より合理的で持続可能な経済が実現する。

 

社会主義における労働力の商品としての地位の廃止は、労働の評価と補償のあり方における根本的な変わりを示す。資本主義社会で、労働力の価格は市場によって決定され、需要と供給に基づいて賃金が変わる。しかし、労働があらゆる価値の源泉であると認識される社会主義的経済では、賃金は労働の社会的意義と共通善への貢献に基づいて決定される。これにより、労働者は労働へ公平に補償され、賃金は労働者が生産する財やサービスの価値を正確に反映することになる。社会主義は経済的不平等への取り組みに加えて、資本主義社会に蔓延する構造的不平等、特にジェンダー、人種や階級に関連する不平等への取り組みも目指す。資本主義的経済では、周縁化された集団が労働市場で差別や搾取に直面することが多く、賃金や雇用機会の格差に繋がっている。しかし、社会主義社会では、経歴やアイデンティティーに関係なく、あらゆる労働者に平等な権利と機会が保障されるので、こうした構造的不平等は自然に消滅する。従って、より包括的で公平な社会が実現し、あらゆる個人が成長し、地域社会の政策と福祉に有意義に貢献する機会を得られる。

 

さらに、社会主義への移行には、「資本のエリート」の利益よりも労働階級のニーズを優先させるための、社会制度の抜本的な再構築が必要である。資本主義社会では、国家機関は屡支配階級の「道具」として機能し、搾取と不平等を永続させる政策を執行する傾向がある。しかし、社会主義の下の社会で、国はただ労働階級の利益を代表するように再構成されて、集団の問題解決能力と社会の変革の手段として機能する。これには、労働者が生産手段や資源の配分を直接管理できるようにする、労働者評議会や参加型の意思決定の過程などの社会主義的制度の確立が必要である。さらに、社会主義は資本主義の個人主義的な気風を超越して、労働者間の連帯と協力の文化を育もうとするものである。資本主義社会では、労働者は乏しい雇用機会と資源を巡って互いに競争し、労働階級内の疎外と分裂を招く。

 

しかし、生産手段が集団的に所有される社会主義社会では、あらゆる労働者は社会主義社会のニーズを満たすために連帯し協力するであろう。この集団的な気風は、共同体意識と相互扶助を育み、より結束力のある強靭な社会を生み出す。さらに、社会主義への移行には、労働階級における批判的思考能力と社会意識の育成を優先するために、国内の教育制度を全面的に見直すことが必要なのである。資本主義社会では、教育というものは屡々既存の社会秩序を再生産する道具として機能し、学生に資本主義的イデオロギーを教え込み、既存の権力構造を強化する。しかし、社会主義社会で教育は批判的探求と社会認識の文化を育むように変え、労働者が社会の抑圧と不正義に挑戦する力を与える。

 

これには、階級闘争の歴史、社会主義的理論の原則、社会変革をもたらす集団行動の重要性を強調するカリキュラムの実施が含まれる。社会主義というものは、資本家階級の利益よりも労働階級の幸福を優先するよう、医療制度を大福変革することを目指す。資本主義社会では、医療制度は屡々商品化及び民営化され、富や特権を持つ人だけしか医療に接する現象と質の格差に繋がっている。しかし。社会主義社会で医療は基本的人権として認められ、支払い能力の有無にかかわらず、社会のあらゆる構成員に保証される。これは、あらゆる個人に包括的かつ公平なケアを与える国民保険制度の確立を伴うものであり、健康上の成果が利益ではなく、必要性によって決定されることを保証するのである。

 

さらに、社会主義への移行には、社会における文化と芸術の役割の再評価が含まれ、労働階級のための創造の自由と文化的豊かさが社会の発達にとって優先させる。しかし、資本主義社会では、文化すらも屡々商品化及び商業化されて、資本主義的イデオロギーと過剰消費を永続させる道具として機能しているだけ。一方で、社会主義社会で、文化は上記の通りに表現の自由を保障し、特に批評の手段として再構築され、労働階級の経験と願望を反映し、活気に満ちた様々な形の文化が育まれる。これには「民主的に管理」され、社会の全構成員が接することができる文化機関の推進が必絶対的に必要なのであり、労働者が地域社会の文化的生活に積極的に参加できるようにする。結論として、資本主義から社会主義への移行は既存の資本主義的秩序の大変革を示し、賃金の決定と労働関係の力学を根本的に変革する。生産手段の集団所有、労働力の商品的地位の廃止、民主的な計画と意思決定の過程の確立として、労働階級が自らの運命を支配し、より公正であり、より公平な社会を構築する力を与えようとしている。資本家というエリートの利益よりも労働階級のニーズを優先させることで、社会主義は社会のあらゆる構成員が搾取と抑圧から解放され、繁栄できる未来のビジョンを与えられるのである。

賃金とは?そしてその基準は?

 

第五章、商品の価格はどのように決まれるのか?

 

資本主義の下の経済では、労働力を含むあらゆる商品の価格は、買い手と売り手の競争、そして需要と供給の関係によって決まる。この基本原則が市場経済の中枢(チュウスウ)として機能し、資源がどのように配分され、富がどのように配分されるのかを導いている。この過程をより包括的に理解するためには、価格設定に影響を与える競争の三つの性質を深く掘り下げる必要がある。これには売り手間の競争、買い手間の競争、そして買い手と売り手の相互作用を調べることが含まれる。

 

これが市場の原動力を引き出す上で重要な役割を果たしており、それらの複合的な効果が労働力を含む商品の価格を決定しているのである。まず、売り手間の競争について考えてみよう。この種の競争は資本主義の市場の原動力であり、経済を適切に機能させるために不可欠である。複数の売り手が同様の商品を提供すれば、当然買い手を引き付けるために競争するはず。各売り手は商品を売ることを目的とし、そのために屡々競合他社よりも良い取引を提供しようとする。どの売り手も売上を最大化し、できれば該当の市場を支配したいと考えているので、この競争は激しくなる可能性がある。売り手は買い手を引きつけるために価格を下げたり、製品の品質を向上させたり、より良い顧客サービスを提供したりするなど、様々な戦略を取るかもしれない。すなわち、競合他社よりも低価格で商品を販売することで、商品全体の価格を押し下げられるのである。このような価格の下落の圧力は消費者にとっては有益であるが、売り手にとっては困難なことである。売り手は、収益性を維持するために常に革新を続け効率を改善しなければならない。

 

例えば、ある町に複数の農家があり、それぞれが同じ品質のリンゴを売っているとする。各農家はリンゴを早く大量に売りたいと思っている。お客を引き付けるために、ある農家は価格を少し下げるかもしれない。それに対して、他の農家はかなり値段を下げるかもしれない。このような売り手間の競争はリンゴの価格の低下に繋がる。従って、市場の売り手間の競争は価格を押し下げる傾向がある。こんな想定は、市場原理が現実の社会でどのように働くかを示している。価格や品質で競争できない売り手は、最終的に市場から追い出される可能性が高い。効率の改善と費用の削減へのこの絶え間ない圧力は、技術の革新と技術の進歩に繋がって、経済全体に利益をもたらす。しかし、少数の「支配的」な売り手が市場を支配する寡占(カセン)のような不利な結果を招くこともあって、競争を低下させ、価格の上昇や技術の退歩を招く可能性がある。

 

価格競争に加えて、売り手は品質やサービスの面でも競争する。例えば、売り手はより多くの買い手を引き付けるために、リンゴの品質を向上させたり、より良い顧客サービスを提供したりする。こんな競争は市場全体の改善につながり、より高品質な製品とより良いサービスによって消費者に利益をもたらす。しかし、それは売り手が継続的に事業に投資することを必要とし、特に、より大きく、より確立された競合他社と効果的に競争するための資源が足りたい可能性のある小規模な売り手にとっては困難である可能性がある。次に、買い手間の競争を見てみよう。こんな類の競争は、市場の価格を決定する上で同様に重要であり、商品やサービスの入手の可能性や手頃な価格に大きな影響を与える可能性がある。特に商品の供給が限られている場合には、買い手同士も競争する。ある商品への需要が高いが供給が十分でない場合、買い手はその商品を確保するためにより多くの金額を支払うことを厭わないかもしれない。

 

こんな買い手間の競争は、商品の価格を押し上げる。この現象は、需要が供給を大幅に上回る希少品や嗜好性の高い品目の市場で特に顕著(ケンチョ)である。その結果、価格が上昇し、一部の消費者にとっては手が届かなくなり、最も裕福な人しか購入できないような状況になりかねない。例えば、一つの地域の住宅の需要が供給を上回ると価格が高騰し、普通の家庭が住宅を買うことは難しくなる。同様に医療分野においても、特定の治療法や医薬品の入手が制限されると価格が大幅に上昇し、多くの個人にとって必要不可欠な医療が手の届かないものになる可能性がある。こんなな市場の力学の側面を理解することは、商品やサービスへの公平性を確保しようとする政策立案者にとって極めて重要なのである。

 

このような競争は「バブル経済」にも繋がりかねない。バブル経済では、さらに高値での転売を望む買い手による過剰な需要によって商品価格が膨れ上がる。バブルが崩壊すると価格は急落し、バブル経済の時購入した人々はかなり損失を被ることになる。最後に、買い手と売り手間の直接的な競争がある。この相互作用は市場の力学の最も目に見えるところであり、資本主義的経済における価格の設定のメカニズムの中心である。買い手はできるだけ低い価格で商品を購入したいと思っており、売り手はできるだけ高い価格で販売することを目指す。商品の最終的な価格は、こうした競合する利害の相互作用による。その結果は、各集団内の競争の相対的な強さによって決まる。この激しい相互作用があるので価格は固定的なものではなく、需給の変化、消費者の嗜好、その他の要因を反映し、そして市場の状況に応じて変動するのである。

 

売り手が多く買い手が少なければ、売り手同士の競争は激しくなり、段々価格が下がる。逆に、買い手が多く売り手が少なければ、買い手はより激しく競争して価格の上昇に繋がる。このような競合者間の「パワー・バランス」が市場の価格を決定する。この相互作用は政府の政策、技術の進歩や消費者の行動の変化など、様々な要因によって影響を受ける。例えば、政府が特定の商品に対して補助金を出せば供給が増え、価格が下がる可能性がある。一方で、生産の効率を高める新技術が導入されれば売り手の費用が下がって、価格を下げても収益性を維持できるようになる。

 

これらの原則をより明確に説明するために、例を挙げてみよう。販売可能な綿花が100俵くらいあるが、1000俵の購入を望んでいる買い手がいると想定する。そうなると、商品の需要は供給の10倍になってしまう。需要が高いので、買い手は限られた供給量の綿花を買うために積極的に競争するであろう。他の買い手を出し抜くために高い価格を提示し始め、綿花の価格を押し上げるかもしれない。この例は、供給の不足がいかに大幅な価格上昇に繋がって、個々の買い手だけでなく、その商品に依存している産業全体に影響を及ぼすのかを浮き彫りにしている。例えば、綿花の不足は繊維産業にかなり影響を与えて、衣料品やその他の繊維製品の価格上昇に繋がる可能性があると思われる。

 

歴史的に、綿花のような商品の供給が非常に限られていた時期がある。このような時期には、一部の資本家が市場を支配するために供給量を買い占めようとした。このシナリオは、買い手間の激しい競争がいかに大幅な価格上昇につながるかを浮き彫りにしている。売り手は、買い手がより多く支払うことを望んでいることを知ると、価格を下げようとする競争をやめ、より高い価格で売るために団結するかもしれない。旺盛な需要を認識した売り手は、買い手が必死であることを知っているため、より高い価格を維持することができる。このような行動は、売り手が高い需要を利用して法外な価格を請求する価格破壊につながる可能性があり、しばしば世論の反発を招き、規制を求める声が上がる。これは、買い手と売り手の間の競争バランスは固定的なものではなく市場の状況、政府の政策、より広範な経済動向など、様々な要因に基づいて変化しうることを示している。

 

こうした力学を理解することは市場の動きを予測し、消費者としても生産者としても十分な情報に基づいた意思決定を行う上で極めて重要。需要と供給の概念は、価格がどのように決定されるかを理解するための礎である。これらの原理は経済的理論の礎であり、市場とは何かが分かる上で重要な役割を果たしている。供給とは「ある商品がどれだけ市場に出回っているのか」ということであり、需要とは「買い手がその商品をどれだけ買いたいのか」ということである。需要と供給の相互作用は価格が上がるか下がるかに影響する。この関係を理解することは、市場の動向を予測し、情報に基づいたビジネス上の意思決定を行うために不可欠である。例えば企業は需要の変化を予測し、それに応じて生産水準や価格の戦略を調整する必要がある。供給が需要を上回ると、買い手が買いたいと思うよりも多くの商品が出回ることになる。売り手は買い手を引き付けるために競争し、そのために屡々価格を下げる。これは結果的には商品の価格を下げることになってしまう。

 

こんな想定は買い手が優位に立ち、より良い取引を交渉できる買い手の市場に繋がる可能性がある。しかし、売り手にとっては損失にも繋がってしまいう。生産の費用を下回る価格での販売を余儀なくされて、結局は廃業や雇用の喪失に繋がることもある。この現象は最近の農業の恐慌など、様々な時代において顕著なのであり、過剰生産によって価格が暴落し農家の経済的苦境が広がった。一方で、需要が供給を上回ると、商品の数よりも買い手の数が多くなる。買い手は商品を確保するために競争し、時折はより高い価格を提示する。そうして価格は上昇する。これは売り手市場に繋がり、売り手はより高い価格を要求し、より高い収益性を達成できるのである。しかし、経済全体の物価の水準が上がって段々購買力が低下し、経済が不安定になる可能性のある「インフレ」を引き起こすこともある。限られた供給、そして高い需要が大幅な価格上昇を招いて、経済の混乱も招いた。需要と供給のバランスを理解することは、この市場経済を動かす上で極めて重要である。

 

需給のバランスを理解することは、企業が生産、価格の設定、マーケティングの戦略を計画することに役立ち、消費者が十分な情報を得た上で購買の決定を下すことを可能にする。さらに市場を安定させ、持続可能な経済成長を促進するために効果的な経済政策を立案することに必要なものを政策立案者に提供する。競争と需給の原則は労働市場にも当てはまる。この文脈では、労働力(働く能力)は商品として扱われる。労働者は賃金と引き換えに労働力を雇用者に売る。労働力、すなわち賃金の価格は、他の商品の価格を決定することと同じ要因によって決定される。

 

これは労働市場の複雑さと、賃金や雇用条件を形成する力を理解するのに役立つ。資本主義的経済における雇用関係の明白な取引的な性質と、労働者の交渉力に影響を与える要因を浮き彫りにしている。労働者の数は多いが仕事の機会が少ない場合、労働者は利用可能な仕事をめぐって競争し、賃金を押し下げる可能性がある。逆に、労働者は少ないが就業の機会が多ければ、雇用主は労働者を引き付けようと競争し、賃金を押し上げる可能性がある。この力学は人間への労働力の需給の変わりが賃金や雇用の情勢の変動に繋がる様々な「経済的サイクル」において明らかである。例えば好景気の時は労働の需要が高く、賃金は上昇し、雇用条件は改善する傾向にある。逆に不況期には、労働の需要が減少すると賃金は停滞または低下し、雇用条件は悪化する傾向にある。今の労働市場を理解するためには、労働力が常に商品として扱われてきたわけではないと気付くことが重要なのである。

 

以前の社会では、労働力は今日のように売買されてはいなかった。例えば、奴隷制の社会では、奴隷には賃金が支払われなかった。代わりに、奴隷は主人に所有されて強制の下に働かされた。奴隷の労働力は売れるものではなく、単に服従の一環として奪われたのである。こんなことは、労働市場の発展や労働者の権利を求める現在進行形の闘いを理解する上で極めて重要である。強制的な労働の制度から賃労働への移行と、労働者の自律性と交渉力への影響を浮き彫りにしている。同様に封建制度の社会で、農奴は領主の所有する土地で働いた。彼らは労働力を賃金のために売るものではなく、保護と土地に住む権利と引き換えに労働力を提供した。この労働は相互の義務に基づくものであり、資本主義的労働市場よりも柔軟性に欠けていた。農奴の労働は土地に縛られ、移動は厳しく制限された。このような労働組織の形は数世紀に渡って存続し、資本主義の台頭と労働運動によって初めて変化し始め、共有地が私有地化されて、多くの農民が賃労働に従事せざるを得なくなった。この転換は、労働組織と経済関係の性質に大きな変化をもたらした。

 

労働力が、労働者が賃金と引き換えに売ることのできる商品となったことは、資本主義が勃興してからのことである。この変革は工業生産の発展と、柔軟で機動的な労働力の必要性によって推進された。産業革命はこの過程において重要な役割を果たした。新しい技術と生産方法が、これまでとは異なる労働の組織を必要としたからである。労働者は自分の労働力をどんな雇用主にも自由に売ることはできるようになったが、この自由は屡々経済的な必要性や代替できる手段の欠如によって制限されていた。この転換は、現代の労働市場の始まりと労働力の商品化を示し、労働者は生き残るために自分の労働能力を売らなければならなくなった。この転換は、搾取と依存の新たな形を導入したので、労働者の生活に重大な影響を及ぼした。資本主義の下で、労働者は賃金と引き換えに自分の労働力を雇用者に売る。この取引は、あたかも他の商品を売る行為と類似している。労働者は一定期間働くことに同意し、その見返りとして賃金を受け取る。

 

しかし、上記の通りに労働者は自己全体を売るのではなく、労働時間や労働日数で測った人生の一部を売ることである。この区別が大事な理由は、交換の「部分的性質」を浮き彫りにしているためである。労働者は自分の所有権を保持する反面、自分の時間と努力の一部を疎外する類である。この関係は、資本主義経済における雇用者と被雇用者の力学の礎を形成し、賃労働の「取引的な性質」を強調している。労働者は自分の雇用主から離れ、他の場所で雇用を求める自由を持っているが、この自由は家庭などの生計を立てる必要性によって制限されている。労働者は生き延びるために労働力を売り続けなければならない。すなわち、これは生産手段を所有して雇用の機会を支配する資本家階級への依存を生み出す。この依存は労働者の交渉力を制限し、しばしば搾取的な労働条件をもたらす。例えば、低賃金の産業で働く労働者には代替できる手段はほとんどなくて、ただ劣悪な労働条件と低賃金を受け入れざるを得ない場合がある。

 

この従属性は資本主義的経済体制の核心であり、雇用者と被雇用者の間の不平等な力を天秤にかけているのである。労働者は自分の雇用者に比べて交渉上弱い立場にあることが多い。この不均衡に対抗するため、労働者は賃金や労働条件の改善を求めて組合を組織したり、団体交渉に参加したりする。この集団行動は労働者の交渉力を向上させ、より高い賃金を確保するのに役立つ。組合、すなわち「労働組合」は労働者の権利を保護し、公正な労働慣行を擁護する上で極めて重要な役割を果たす。労働組合は雇用条件の改善に対して交渉し、法的代理権を与え、ストライキや抗議行動などの集団行動を起こすために労働者を動員できる。

 

共産主義者が望んでいることは8時間労働制、最低賃金法と職場安全規制など。これで労働条件の大幅な改善を達成する。しかし、資本主義体制は利益を最大化するように設計されており、多くの場合、労働者の犠牲の上に成り立っている。使用者は人件費を低く抑えるため、賃上げや労働条件の改善に抵抗するかもしれない。労働者と使用者の間のこの緊張関係は、資本主義経済の中心的特徴である。使用者は人件費を含むコストを最小化することで利潤を最大化しようとし、労働者は賃金を最大化し、労働条件を改善しようとする。この対立は、労働争議、ストライキ、その他の形態の産業行動につながる可能性がある。こうした闘争は、しばしば使用者や国家との暴力的な対立に発展し、資本主義経済の根深い緊張を浮き彫りにした。競争、供給、需要の力学を理解することは、資本主義経済の複雑さを乗り切る上で極めて重要である。これらの原則は、商品の価格を決定するだけでなく、賃金や社会全体の富の分配にも影響を与える。

 

これらの概念を理解することで、労働市場における自分の立場をより良く理解し、より公正な経済的慣行を提唱できるであろう。例えば、労働者は需給を理解することで、賃金や労働条件の改善について交渉することができるし、政策立案者は市場の失敗に対処し、経済的公平性を促進するための介入策を立案することができる。資本主義的経済では、商品価格の絶え間ない変動が基本的な特徴であり、無数の相互関連要因によって左右される。これらの要因の中で最も重要なのは需要と供給の関係であり、経済的理論の礎となる概念であるが、その実際的な意味合いは多面的である。

 

供給とは「商品やサービスなど、与えられた商品を市場がどれだけ供給できるのか」ということであり、需要とは「一つの商品やサービスを買い手がどれだけ(数量)欲しがっているのか」ということである。商品の価格は普通、需要量と供給量が等しくなるところ(市場均衡と言われる)で決まる。しかし、需要と供給のバランスが一定であることはめったにない。経済政策、市場の思惑、季節の変化、技術の進歩などの外的要因が、このバランスを崩すことはよくある。一つの商品の供給が需要を大幅に上回ると、市場の「特有の状況」が生じる。それは過剰の在庫を抱えた売り手は、買い手を引き付けようと熾烈な競争を繰り広げ、その結果として、商品の価値や生産費を大幅に下回る価格で強制的に販売されるということなのである。

 

カール・マルクスは資本主義的な経済を批判しつつ、こうした制度を「とんでもなく安い価格での商品の強制販売る」と言え、商品を売り払おうとする売り手の必死さを強調した。この現象は経済に連鎖的な影響を及ぼし、個々の企業だけでなく、より広範な部門の経済的健全性、ひいては国家の経済にも影響を及ぼす可能性がある。すなわち、こんな不均衡は資本主義体制では一般的な「過剰生産」と「過剰消費」の固有のサイクルによって悪化する。商品が過剰に生産されると、市場は飽和状態になって価格は暴落し、商品が売れ残ったり、赤字で売られたりして経済的浪費が増大する。これは個々の生産者に影響を与えるだけでなく経済全体に波及し、解雇、工業での生産の減少、景気の後退に繋がる可能性が高い。何が高価格か低価格かということは本質的に相対的なものであり、比較することによってのみ理解できる。例えば物理的な世界では、一粒の砂は顕微鏡で見ると大きく見えるかもしれないが、山に比べれば取るに足らないものである。

 

同様に経済用語で、生産費(=生産コスト)は、価格が高いか安いかを判断する比較の尺度として機能する。一つの商品の生産コストが他の商品より低ければ、その価格は安いとみなされるかもしれない。逆に生産コストが高ければ、その価格は高いとみなされるかもしれない。価格の高低を評価するには労働力、材料、技術、そして諸経費など、生産に関わる投入物や過程を理解する必要がある。これらの要因は業界や地域によって大きく異なるので、何が価格を「高い」、或いは「安い」とみなされるのかの評価はさらに複雑になる。さらにマーケティング、ブランドの価値、個人の価値評価に影響される消費者の認識は、この評価の過程において重要な役割を果たしている。しかし、価格の上昇や下落とは具体的に何を意味するのか?これらの用語は、需給の力学の変わりに影響された、時間の経過に伴う「商品コストの相対的な増減」を指す。

 

例えば、ある商品の需要が増加し、供給が変わらない場合、価格は上昇する可能性が高い。一方で、需要が増加せずに供給が増加すると価格は通常下落する。こんな価格の変動は単なる数字ではなく、技術の進歩、消費者の嗜好の変化、より広範な経済状況など、根本的な原理を反映している。価格の変動は地政学的な出来事、規制の変更、インフレやデフレと言った経済の動向の影響を受けることもある。グローバル化した市場では、これらの要素が相互に影響し合い、世界のある地域で起こった出来事が、世界中の商品価格に影響を及ぼす可能性がある。例えば、ある商品の主要な生産国で政変が起きれば、供給が途絶えて世界的な価格に影響を与えるかもしれない。ビジネスの観点からはコスト、売上高、利益の力学は単純でありながら非常に重要である。例えば、ある商品の生産コストが10万円で、それを販売すると20万円になる場合、ビジネスの利益は1万円となり、これは妥当と考えられる。そして売上が30万円や40万円になれば、利益率は大幅に上昇する。この増加した利益は再投資したり、貯蓄したり、競合他社を打ち負かすために使ったりできる。

 

逆に、商品が生産コストを下回る価格で売れれば赤字となり、事業の存立が危ぶまれる。このように、企業は持続可能性と成長を確保するために、これらの基礎の計算に基づいて継続的に監視し、戦略を調整している。現実的には企業はコスト計算において人件費、材料費、物流管理、マーケティング、規制の遵守(ジュンシュ)に関連するコストなど、様々な要素を考慮しなければならない。これらの要素は全部、あらゆる生産コストに寄与し、それが価格の設定への戦略に反映される。あらゆる要素を十分に理解することで企業は変化する市場環境に適応し、社業を管理を最適化し、競争力のある価格を維持できる。需要と供給の「ダイナミック」な関係から、ある商品の価格が供給不足や需要の高騰(コウトウ)によって上昇すると、別の商品の価格は相対的に下落する可能性が高い。例えば、絹の価格が上昇すると銀の価値は絹に対して下がり、以前と同様の量の絹(キヌ)を買うためには、より多くの銀が必要になることを示すのである。

 

こんな相対価格の変動は、より高い利益に惹かれて資本(資金やその他の資源)を絹の産業に流入させる。しかし、この流入は屡々「過剰生産」を招き、高値に乗じてより多くの生産者が市場に参入するので、究極的には価格が生産コストを下回り、市場が飽和状態に陥ってしまう。市場が飽和状態になると普通に価格が劇的に下落し、「デフレ」と言われる状態に陥ってしまう。このデフレというものは、さらなる価格の下落を予想する消費者の支出の減少を招き、景気を悪化させるので、経済に悪影響を及ぼす。例えば上記の絹のような産業では、当初は高収益が魅力となって投資と生産能力の流入を招く。しかし、市場が次第に飽和状態になると、供給が需要を上回る。供給過剰は減産によって是正されるが、価格の下落を防ぐには遅すぎることが大半。そういうわけで、高値の時期に市場に参入した生産者は、かなり損失を被ることになってしまう。

 

産業間の資本の移動は市場価格を調整し、長期的に生産コストとの整合性(セイゴウセイ)を確保する上で極めて重要なメカニズムである。しかし、この動きは突発的なものであり、社会の礎を揺るがす地震のように、経済のバランスを崩すことがある。それでカール・マルクスは、「こうした変動は混沌としているように見えるかもしれないが、商品が生産コストに近い価格で交換されるようにすることで、資本主義体制に一種の秩序を導入している」と主張した。しかし、この過程は経済的な不安定性を孕んでおり、資本主義体制内に内在している矛盾と変動性が発してしまって、危機に繋がる可能性がある。

 

資本の移動は、資本家に内在する利潤の最大化の必要性によって推進され、それは投資の収益率によって導かれる。資本がより収益性の高い部門に流れ込むと新技術、より優れた過程、より効率的な生産技術の導入が促進され、当初は収益性が高まる。しかし、これらの部門は混雑し資本が集約すればするほど、利潤率は低下する傾向があって資本流出と、より収益性の高い新たな部門への投資に繋がる。このような資本の循環的な移動は、個々の部門に影響を与えるだけでなく、労働市場や経済成長にも重大な影響を与えるのである。このような循環は好景気の後に不景気が続くという、カール・マルクスが資本主義経済の力学の中心であると指摘したパターンに繋がる。資本主義社会では「労働も商品」として扱われる。労働者は自分の労働力を使用者に売り、それと引き換えに賃金を受け取る。賃金は、労働者の生活と維持に必要なコストを反映したものとされている。この「コスト」には労働者の生産性を維持するために必要な食料、住居、そして医療などの基本的ニーズが含まれる。上記の通りである。労働市場は他の市場と同様、需要と供給の影響を受ける。

 

そして、上記の通り労働者が多く、仕事が少ないと、労働者が雇用をめぐって競争するので、賃金は低下する。逆に雇用は多いが労働者が足りないと、雇用主が利用可能な労働力を奪い合うので賃金は上昇する。しかし、このような原理は、特に労働者の交渉力が限られている場合には、搾取的な労働条件に繋がりかねない。資本主義体制における労働の商品化は、いくつかの倫理的及び経済的問題を提起する。労働者は他の商品とは異なり、その人間性から切り離すことはできない。彼らの幸福と生活の質は、雇用条件と報酬に直接影響される。労働市場の力学は屡々、労働者が労働への報酬を十分に得られないことを招き、経済的不平等や社会的不安をもたらす。さらに、あるコストを最小限に抑えようとする資本主義の必然性は劣悪な労働条件、限られた雇用保障、そして緊張した労使関係をもたらし、あらゆることが労働力の安定性と生産性を損なう可能性が高い。マルクスの分析は、需給の変動とその結果としての価格の変動における見かけ上の無秩序には、根底に秩序があり、長期に渡って「商品が生産コストに応じて交換される」ことを保証していると強調している。

 

利潤の追求を原動力とする産業間の資本のこの体系的な移動は、価格の均衡の様相を保証するだけでなく、資本主義における経済危機の周期的性格を浮き彫りにする。過剰生産、市場の飽和、それに続く市場の縮小や減産を特徴とする好況と不況のサイクルは、資本主義体制の不安定性と持続不可能な側面を示している。こうした経済危機の周期性は、企業だけでなく、労働者や消費者にも重大な課題を突きつけている。好況期には企業が拡大し、雇用が増加し、賃金が上昇する傾向があって個人消費が拡大し、経済成長が促進される。しかし、好況の後には必然的に不況の時期が訪れ、過剰生産がレイオフを招き、個人消費が減少し経済の規模が縮小してしまう。こんな不安定なことは、人口の大半に大きな社会的及び経済的な困難をもたらし、経済の格差と社会的不平等の拡大を助長する。

 

こうしたサイクルは、あのカール・マルクスが指摘した資本主義体制に内在する決定的な矛盾を反映しており、経済成長を促進するメカニズムが定期的な危機や景気後退をもたらしている。結論として需要と供給、競争、そして生産コストの奥深い相互作用を理解することは資本主義経済を探求し、時折は社会主義と移行するために不可欠である。マルクスの批評は、こうした力学を単なる経済的原理としてだけでなく、より広範な社会的及び政治的対立の反映として見られる千里眼を与えられ、経済効率だけでなく、公正さと共産正義を促進する制度の改革の必要性を強調している。

 

こうした経済的原理に「批判的」に関わることで、単なる利潤の最大化よりも人間の幸福を優先する、より公平な経済体制を提唱し、より持続可能で公正な社会を育(はぐく)める。資本主義の下の市場の力学に関するこの幅広い考察は、資本主義体制内に内在する矛盾と経済危機の周期的性格を浮き彫りにしている。マルクスの理論をより深く掘り下げることで、これらの問題に対処するために必要な構造的変化についての洞察力を得られ、より公平で持続可能な経済の未来を促進できるのである。この千里眼を通して、資本主義の下の市場の変動や不安定性は単なる異常ではなく、シ体制の不可欠な矛盾であり、より深い社会及び経済の構造や関係を反映していることが明らかになる。

共産主義の諸原理、2/2

 

第四章、賃金とは?そしてその基準は?

 

何人かの労働者に「あなたの給料はいくらですか」と尋ねたら、それぞれの仕事に応じて異なる答えが返ってくるかもしれない。ある人は単に「1日7000円です」と答えるかもしれなく、ある人は36インチのリネンを織ったり、1ページの活字を組んだりと言った詳しい仕事の内容に応じて賃金を答えるかもしれない。たとえ答えの違いはあっても、「賃金」というものは特定の期間の労働、或いは特定の仕事の終わりへは雇用主が支払う金額である、ということでは皆同様であろう。詳しい仕事の内容や収入額にかかわらず、各労働者は「賃金」が仕事に費やした時間と労力への直接的な対価であることを認めるであろう。この金額は事前に合意されて普通に日払い、週払い、月払いなど一定の間隔で支払われる。そうである。「賃金」という考え方は、労働市場と雇用者と被雇用者の経済的関係を理解する上で基本的なものである。

 

すなわち、雇用者(資本家)は金銭で労働力を買い、その見返りに労働階級は自らの労働力を売っているように見える。しかし、実際はそうではない。資本家に売っているものは「労働」そのものではなく、あらゆる力を含めた「労働力」なのである。資本家はこの労働力を1日、1週間、1ヵ月、或いはその他の一定期間だけ買い取る。一旦労働力を買い取ると、資本家は労働者にその決められた期間に労働をさせることによって、他者の労働力を利用する。この労働と労働力の区別は極めて重要である。「労働」とは実際に「働く行為」であり、商品やサービスを生み出す肉体的及び精神的努力なのである。一方で、「労働力」とは労働を「遂行する能力や可能性」のことである。労働者が雇用契約を結ぶと、既に自分が行った労働を相手に売っているものではなく、将来合意された期間中に労働を行う能力を売っているものである。経済にとって、これは重要。従って、資本家は自分の事業目的を達成するために労働者の労働力を利用する権利を「購入」しているのである。

 

こう考えてみよう。資本家が労働力を買うために使うことと同様な金額、例えば200円があれば、一定量の砂糖やその他の製品を買えたはずであった。資本家が一定量の砂糖を買うことに使った200円は、その通りに砂糖の価格である。同様に資本家が12時間の労働力に費やした200円は、その12時間の労働の対価なのである。労働力は砂糖や他の商品と同様のように「商品」である。砂糖のような他の商品が重さで測られるのに対して、労働力は時間で測られるという違いがある。この比較は労働力が商品の中でいかに特殊であるかを浮き彫りにしている。ほとんどの商品が計量、計測、そして保管ができる有形の商品であるのに対し、労働力は人間とその時間に直接結びついた無形の商品である。上記の通りに資本家が砂糖を買うと、その資本家は自分の好きなように使ったり売ったりできる物理的な製品の所有権を得る。一方で、資本家が人間から労働力を購入する場合、基本的には労働者自身の労働能力を一定期間「レンタル」することになってしまう。この賃借された労働力は資本家の企業内の様々な仕事に適用され、利益を得るために販売できる商品やサービスを生産する。

 

労働者は自分の商品である「労働力」を、資本家の商品である「貨幣」と交換する。この交換は、一定の労働力への一定の金額で行われる。これにはそれぞれのレートがある。例えば12時間機織りをすれば、労働者は数百円以上を得る。この貨幣は肉、衣服、木材や灯火など、他の様々な商品を買うために使える。現実的には「労働者は自分の労働力を円という価値に基づいて、これらの他の商品と交換」したことになる。資本家は労働者に一定の貨幣を与えることによって、事実上、1日の労働と引き換えに、特定の量の商品とサービスを与えたことになる。この取引は、資本主義的経済の基本的な構成要素。労働者は食料、住居や衣服など、生存と福祉に必要な財やサービスを購入するために十分なお金を必要とする。

 

このお金を得るために、労働者は自分の労働力を資本家に売る。そうして得たお金で必要な商品を購入できる。労働力をお金と交換し、そのお金で他の商品を買うというこの一種の「サイクル」が、資本主義社会における労働者の役割の本質なのである。また、資本家もこの交換から利益を得ている。何故なら、資本家は利潤を得るために販売できる商品やサービスを生産することに必要な労働力を手に入れるためである。すなわち、この「円」というものは労働力の交換価値である。貨幣自体が労働力の交換による結果であり、労働力が他の商品でどれだけの価値があるかを示している。

 

円は人間の労働力の価値を表す普遍的尺度として機能する。一定の時間の労働で一定の円を得ることで、労働者は自分の労働力を、市場で様々な商品と変える金額を得られるのである。この変換は、労働力の価値が常に評価され、交渉される資本主義体制の大事なところである。その労働力の価値は、該当の労働者の技能、労働力の需要、経済の全般的な状況など、様々な要因によって決定される。これをより明確にするために、さらに分解してみよう。労働者は契約して雇用されると、一定時間働くことに同意し、働いた見返りとして報酬を得る。労働者が受け取る報酬は「労働量」と「労働時間」に応じて決まる。雇用主、すなわち資本家は「人間の労働力」の対価として彼らにお金を渡すのである。

 

労働力というものの概念を詳しく説明する。「労働力」には労働者の技能、エネルギー、そして時間が含まれる。それは、具体的な労働活動を通じて実現される抽象的な潜在能力である。資本家の目標は、商品やサービスの生産を通じて利潤を生み出すために、この潜在能力を活用することである。労働者と資本家の間の合意は、この交換の条件を概説し労働の期間と提供される報酬を規定する。この協定は雇用の関係の基本的側面であり、労働者が資本主義的経済に参加するための礎となる。もう一度、「砂糖」を買うことに例えてみよう。例えば、80円で9kgの砂糖を買うとしたら、その9kgの砂糖は好きなように使える。一気に全部使っても良く、少しずつ使っても良い。同様に資本家が労働力を買うと、労働者の能力を一定時間、例えば12時間使えるとしたら。この「12時間」の間、労働者は仕事を行い、資本家は労働者が作り出す製品やサービスから利益を得る。この利益から費用を除けば「利潤」になるのである。

 

砂糖は買い手の裁量で消費したり保存したりできるが、労働力は特定の時間枠内で使用されなければならない。労働者の労働力は本来、時間と労力に連動していて、一度使ってしまえば取り戻すことはできない。資本家は購入した労働力の効率と生産性を最大化して、「労働者の努力が生産ということ」で最大の見返りをもたらすようにする。労働者が稼いだお金、例えば12時間働いて1万円を稼げるとしたら、その1万円は衣食住のような他の必要なものを買うことに使える。これは労働者の労働力が、他の財と比較して一定の価値があることを示している。労働力を「お金」と交換することは、お金を「砂糖や他の商品」と交換することと大差はない。ただし、労働力は労働者が安定的に労働できるかどうか、その能力と結びついているので、特殊な商品である。従って労働力の価値は、その労働者のニーズと労働能力を維持するための費用を反映したものである。これには食料、住居、衣服、医療と教育などの生活必需品とかサービスが含まれている。あらゆる労働者が受け取る賃金は、これらのニーズを賄(まかな)えり、健康と生産性を維持することに十分でなければならない。

 

労働力と生活費の関係は、賃金水準と労働者の生活水準全体を決定する重要な要素。労働力と金銭との交換は変わらない過程であり、労働者は自分と家族を守るためにノルマを定期的に更新しなければならない。それでは、これがどのように機能しているのか、さらに深く掘り下げてみよう。資本家は「利益を上げること」を目的としている。そのためには購入した労働力から、その対価以上の価値を引き出す必要がある。そこで、「剰余価値」という概念が登場する。剰余価値とは労働者が労働を通じて生み出す、「賃金の価値以上の余分な価値」のことである。剰余価値の追求は資本主義的生産方式の原動力である。資本家は生産物が投入した費用を上回ることを期待して、労働力と生産手段に投資する。この剰余価値は、労働者によって生み出された製品やサービスが市場で売れると実現される。生産された商品の価値と労働者に支払われた賃金との差額は、資本家の利潤を構成する。利潤は生産を拡大し、より多く雇用し、収益性を高めるために事業に再投資される。

 

このように剰余価値の創出は、資本家の経済的戦略及び資本の蓄積にとって広範な原理の中心なのである。例えば、一人の労働者が12時間の労働を終えて、1万円の賃金を支払われたとしても、その「12時間で生産されたものの価値が1万円以上の価値」があれば、その差額は「剰余価値」となる。この剰余価値は資本家が企業の利潤として手元に残す。労働者の労働は賃金以上の価値を生み出し、この余剰価値が資本家の利潤の源泉となるのである。剰余価値は、労働者の労働によって生み出された価値と、資本家が購入した労働力の価値との差から生じる。

 

この差は、労働者が提供する無報酬の労働に相当するので、資本家による「搾取」の本質である。資本家が剰余価値を引き出せるかどうかは、工場の生産性、生産の過程の効率、労働の強度など、様々な要因に左右される。これらのところを最大化することによって、資本家は剰余価値の発生量を増加させられ、だからこそ収益性を高められるのである。剰余価値の概念は、資本の蓄積の原理と資本主義体制内に内在する不平等を理解するための礎である。この過程を良く分かるために、工場で働く一人の労働者を想像してみよう。この労働者は、12時間で3万円の価値の商品を生産するかもしれないが、給料は1万円しかもらえない。余分な2万円分の商品は「剰余価値」である。資本家はこれらの商品を売って自分の利益を上げ、この利益の一部を再投資して、さらに労働力、材料、そしてその他の必需品を購入し、サイクルを継続させる。

 

この例は、資本主義の下の企業における価値の創造と充当の過程を示している。人間の労働力は、支払われた賃金よりも高い市場での価値を持つ商品やサービスに変換される。資本家はこの「付加価値」を利潤として獲得し、事業を維持や拡大するために使う。この再投資は生産技術の継続的な改善、新技術の獲得、そして市場の範囲の拡大を可能にするので、資本主義的経済の成長と発展にとって極めて重要である。生産と再投資のサイクルは、このように資本主義を特徴づけるものであり、経済の成長と発展を促すと同時に労働力の搾取を永続させる。この過程は、労働力と商品の絶え間ない売買に依存している。労働者は必要なものを買うためにお金が必要なので、生きていくために労働力を売る必要がある。

 

資本家は、自分が売って利益を得られる商品やサービスを生産するために、他者の労働力を買う必要がある。そういうわけで労働力が絶えず買われ、使われ、貨幣や他の商品と交換される、生産と交換のサイクルが生まれる。労働力と商品の継続的な交換が、この経済体制の基幹を形成している。生産手段に接することを欠く労働者は、安定した生活を確保するために労働力を売らなければならない。この賃労働への依存は労働者を搾取されやすくし、市場の気まぐれに従わせる。資本家は、購入した労働力を効率的に活用することによって、利潤を最大化しようとする。労働者と資本家の間のこのダイナミックな相互作用は、両者がそれぞれの利益を追求するので、常に緊張と対立によって特徴づけられる。生産と交換のサイクルは、市場への労働力の絶え間ない流入と、その労働力によって生産される商品への継続的な需要によって維持されている。

 

労働力の価値は、他の商品と同様、生活費、労働者の技能や経験、市場における労働力の需要など、様々な要因に影響される。生活費が上昇すれば、労働者は基本的ニーズを満たすためにより高い賃金を必要とする。労働者に特別な技能や経験があれば、その労働力はより高い価値を持ち、より高い賃金につながるかもしれない。同様に労働力への需要が高ければ、雇用主は労働者を雇うために競争するので、賃金は上昇する。労働力の価値は、経済的、社会的、そして個人的な要因が絡み合って決まる。生活費は、労働者が労働力を維持するために必要な経費を反映するため、主要な決定要因である。これらの費用には、食費や住居費と言った基本的な必需品だけでなく、医療費、教育費と交通費と言ったその他の費用も含まれる。また、労働者の技能や経験も重要な役割を果たす。普通、専門的であり高度な技能を持つ労働力は、市場においてより高い価値を持つためである。しかも労働力需要は、より広範な経済的情勢、技術の進歩、産業や雇用の動向の影響を受ける。労働力への高い需要は賃金を押し上げ、労働力の供給の過剰は賃金水準を押し下げる可能性がある。

 

しかし、賃金は労働力の供給によっても影響を受ける。特定の仕事に就ける労働者が多ければ、雇用者の選択肢が増えるため、賃金は下がるかもしれない。労働者数が少なければ、雇用主は利用可能な労働者を引きつける必要があるので、賃金は高くなるかもしれない。この需要と供給の力学は、市場における労働力の価値を決定することに役立つ。労働市場は需要と供給の原理に従って運営され、労働者の供給力と労働力への需要が相互に作用して賃金の水準が決まる。労働力に余剰がある場合、雇用者は多くの労働者の中から一人を選択して、より低い賃金を提供できるので有利になる。

 

逆に労働力が不足していると、雇用主はより高い賃金とより良い労働条件を提供することによって、労働者を引き付け維持するために競争しなければならないので、労働者は「より大きな交渉力」を持つ。これは人口の動態、移民のパターン、教育の達成度、産業の需要の変わりなど、様々な要因に影響される。労働市場における需要と供給の原理を理解することは、賃金動向や雇用情勢を分析する上で不可欠である。もう一つ考慮すべき大事なことがある。「労働条件」と「労働時間の長さ」である。資本家は労働者を長時間労働させたり、より集中的に働かせたりすることで、購入した労働力を最大限に活用しようとする。これは労働者が過重の労働と低賃金という搾取に繋がる可能性が高い。自らを守るために労働者は組織化し、より良い賃金、労働時間の短縮、そして労働条件の改善などを要求するかもしれない。

 

そこで、公正な待遇と報酬を求めて闘う「組合」や労働運動が登場する。労働者の生産性を最大化しようとする追求は、しばしば労働のスケジュールの強化と長時間の労働に繋がってしまう。資本家は購入した労働力から最大限の価値を引き出そうとするので、過酷な労働条件や長時間の労働に繋がることがある。このような効率性と収益性の追求は、労働者の健康と福祉に有害な影響を及ぼして、肉体的及び精神的な疲労をもたらす可能性が高い。こうしたことに対応したいと思った労働者は歴史的に組合とかを組織して、より良い賃金、適正な労働時間、そしてより安全な労働環境を確保するため交渉を行ってきた。労働運動は、資本家の「搾取的慣行」に異議を唱え、雇用者と被雇用者の間の権力の均衡を図りつつ、労働者の権利を積極的に擁護し、労働基準を改善する上で力を発揮してきた。賃金とは、今の人が日常生活で良く耳にし、使ってくる言葉である。しかし、賃金とは何かを完全に理解するためには、最近「共産主義」を発展させた現代の思想家、カール・マルクスが説明した労働と価値の概念に深く踏み込む必要がある。まず、交換価値の基本概念を理解しよう。

 

一斤のパンであれ、一枚の布であれ、一時間の労働であれ、あらゆる商品には「交換価値」がある。交換価値とは、基本的に商品がお金に換算してどれくらいの価値があるかということである。交換価値を貨幣の価値に換算すると、我々はこれを「価格」と呼ぶ。すなわち、例えば一斤のパンが300円の価値があるとすれば、その300円がその「価格」ということになる。同様に、労働者の1時間の労働が1000円の価値があるとすれば、その1000円がその労働の価格なのである。賃金とは、「労働力の価格」を表す用語である。労働力とは人が働いて商品やサービスを生産する能力のこと。労働者が自分の労働力を雇用者に売ると、見返りとして賃金を受け取る。従って賃金とは、人間に宿る労働力という特殊な商品の使用へ支払われる金銭に過ぎない。この概念を良く理解するために、織工を例にとって考えてみよう。資本家の下で働く機織(はたお)り職人を想像せよ。資本家は機織りに必要な道具、すなわち織機と糸を相手に提供する。職人はこれらの道具を使って糸を布にする。

 

こうして布が出来上がると、資本家はそれを手に取って、例えば200円で市場に売る。さて、ここからが重要である。職人の賃金は「布」の分け前なのか?それとも、布を売って得た200円の分け前なのか?答えは前者にも後者にもない。職人の賃金は、直接的には製品(布)の一部でもなく、製品を売って得たお金でもない。実際に、職人が賃金を受け取ることは普通、布が売れるずっと前なのであり、時折は完全に織られる前であることもある。すなわち、資本家は布を売って得たお金から織工の賃金を支払うのではない。代わりに、資本家は「既に持っているお金」から賃金を支払う。

 

資本家は、「資本」と言われる一定の富を持っている。資本というものは原材料(糸など)、道具(織機など)と労働力(人間の労働能力など)など、生産に必要な様々なものを買うために使われる。資本家が機織り職人の労働力を購入する時も、糸や織機を購入するのと同様に行う。このような購入が行われると、職人の労働力を含む生産過程で使用されるあらゆるものは資本家のものとなる。この想定で職人は織機と同じように、ただ「労働の道具の一つ」となる。資本家の観点から見れば、職人は生産における役割において織機と同等である。織り手も、機織り機も、最終の製品(布)にも、それを売って得たお金にも、何の分け前もない。職人の労働力は買い取られ支払われたものであり、生産された布は全部「資本家のもの」である。これを理解すれば、賃金は「労働者が生産した商品の取り分」ではないことが分かる。むしろ賃金は、資本家が特定の量を生産できる労働力を買うために使う、既存の富の一部なのである。労働者は生きるためにお金を稼ぐ必要があるので、労働力を資本家に売る。労働力を売らなければ、労働者が衣食住のような生活必需品を買うことはできない。

 

生産過程とそれがどのように価値を生み出すかについて、さらに掘り下げてみよう。職人が働くと、一定の価値を持つ布ができる。その布の価値が200円であると想定する。それでも、織工の賃金は80円しかないかもしれない。布の価値(200円)と職人に支払われる賃金(80円)の差額が、「剰余価値」と言われるものである。この剰余価値が資本家の利潤の源泉である。資本家は購入した労働力から最大限、多くの剰余価値を引き出そうとする。すなわち、賃金を上げることはなく職人をできるだけ効率的に、できるだけ長く働かせることなのである。資本家がより多くの剰余価値を引き出せば引き出すほど、資本家はより多くの利益を得られる。これが「資本主義的生産の基本原理」なのである。

 

資本主義社会で、労働力は売買可能な商品として扱われる。他の商品と同様、その価値は様々な要因によって決まる。主な要因の一つは生活費である。労働力の価値は基本的に労働者が生活し、労働能力を維持するために必要な金額である。これには、衣食住などの基本的な必需品が含まれる。生活費が上昇すれば、労働力の価値も上昇する。何故なら、労働者は基本的なニーズを満たすためにより高い賃金を必要とするからである。逆に生活費が下がれば、労働力の価値も下がる可能性がある。「生活費」と「労働力の価値」の関係は、賃金がどのように決定されるのかを理解する上で極めて重要である。

 

労働力の価値は市場の力学、特に労働力の需給にも影響される。ある仕事に就ける労働者が多ければ、雇用主は多くの選択肢を持ち、結局より低い賃金を与えられるので、必ず賃金は低くなる反面、就業可能な労働者が少なければ、雇用主はより良い賃金を与えることで就業可能な労働者を引きつける必要があるので、必ず賃金は高くなる。こんな需要と供給の力学は、市場における労働力の価値を決定するのに役立つ。失業率が高いと、少ない仕事を大勢の労働者が奪い合うので、賃金は低下する傾向にある。逆に人手不足の時代には、雇用主が労働者の雇用を競うので、賃金は上昇する傾向にある。資本主義的生産の搾取的性格に気付いている労働者は、賃金や労働条件の改善を求めるために組織化することがある。組合と労働運動は、そんな公正な待遇と報酬を求めて闘う上で、歴史的に重要な役割を果たしてきた。団体交渉やストライキとして労働者は賃上げ、労働時間の短縮、そして労働条件の改善を確保することができた。この闘争は、労働者が自らの利益を守り、生活水準を向上させようとする労働市場の覚えるべき歴史である。労働者と資本家との権力のバランスは、経済の状況、政府の政策、労働者間の組織と連帯の水準に影響され、絶えず変わっている。

 

国家は賃金や労働条件を規制する役割も果たしている。政府は最低賃金の基準を定め、労働時間を規制し、安全な労働環境を確保する労働法とかを制定しなければならない。これらの規制は労働者を搾取から守り、公正な労働の慣行を促進することを目的としている。しかし、こうした規制の有効性は政治的及び経済的背景に左右されるかもしれない。時折は、強い資本主義的な利害関係が政府の政策に影響を及ぼし、労働者よりも雇用者を優遇するかもしれない。また、強い労働運動がより「保護的」で「進歩的」な労働法を推進すべきである。労働と賃金の力学には国際的なところもある。国際化した経済では、労働市場は相互に繋がっており、世界のある地域の賃金は別の地域の状況に影響される可能性がある。例えば人件費の安い国への仕事の調達は、人件費の高い国の賃金や労働条件を引き下げる可能性がある。

 

この国際的な観点は、労働者間の国際的連帯の必要性と国際的な労働基準の重要性を浮き彫りにする。国際的な労働機関のような組織が生まれて、世界中で公正な労働慣行を促進し、諸国で労働者の権利が尊重されるよう取り組む必要がある。将来を展望すると、労働と賃金の性質は進化し続けている。技術的な進歩は仕事の風景を変えつつあり、特定の種類の労働に対する需要を減少させる一方で、他の種類の労働に対する需要を増加させる可能性がある。こうした変化は、労働者にも資本家にも新たな課題と機会をもたらす。仕事の性質が変われば、賃金と労働力の力学も変わる。労働者は新しいタイプの仕事や技能に適応する必要があり、資本家は剰余価値を引き出す新たな方法を模索するであろう。公正な賃金と労働条件を求める継続的な闘いは、こうした新たなトレンドと技術によって形成されつつ、今後も永遠に続くであろう。

 

「労働」とは単に「働く」という行為以上のものであり、行動によって表現される命の本質。しかし、資本主義社会では、労働は商品となって、個人が生きる手段を確保するために売るものとなる。この議論では労働、賃金と労働者と資本家の関係について、同志のカール・マルクスの分析を掘り下げ、これらの概念の複雑さを解明することを目指す。労働者が自分の労働力を雇用主に売るということは、本質的に自分の生命活動の一部を売るということ。この生命活動、すなわち労働は労働者の存立という目的のための手段となる。労働者が労働に従事するのは、それ自体のためではなく、自分自身を守るため、生き続けるためである。マルクスは、この文脈で「労働は労働者の生活の不可欠な一部とみなされるのではなく、むしろ生活そのものを犠牲にするものとみなされる」と主張した。労働は商品となって資本家という最高の入札者に競り落とされる。

 

資本主義体制では、労働者の労働生産物は、その活動の究極的な目標や目的ではない。代わりに、労働者が自分のために生産するものは賃金であり、労働の対価として受け取る金銭的報酬。絹であれ、金であれ、宮殿であれ、彼らが生産する商品やサービスは、衣食住と言った生活必需品に変換される。従って、労働者の焦点は「労働そのもの」にあるのではなく、「労働によって得られる収益」にあり、そういうわけで基本的な欲求を満たせる。労働者にとって織ったり、紡いだ、建物を建てたりするなど、様々な形の労働に従事するために費やされる時間は、人生の本質を示すものではない。むしろ人生は労働が終わったところ、すなわち食卓、酒場、またはベッドの中から始まる。労働とは労働者から見れば、生存と安楽に必要な「賃金」を得るための手段。マルクスによれば蚕が毛虫としての寿命を延ばすために絹を紡ぐと、それは賃労働者のことに似ている。

 

「商品」としての労働力は比較的最近生まれたものである。奴隷制の社会や封建制度の社会のような過去の社会では、労働力は商品として扱われていなかった。奴隷や農奴は「労働力を売った」のではなく、「労働力そのものを所有者に売った」のである。奴隷は商品とみなされたが、労働力自体は商品ではなかった。同様に、農奴はただ労働力の一部を地主に売っただけであり、地主は農奴から貢納(コウノウ)を受けていた。資本主義の下では、労働は異なる形を取っている。現代には「賃労働」が生産の支配的な様式として登場している。特定の所有者や土地に縛られていた奴隷や農奴とは異なり、賃金労働者は自分自身を、或いは自分自身の一部を資本家に売る。賃金労働者は8時間、10時間、或いは12時間と言った日常生活の一部を、最高入札者ーすなわち生産手段を所有する資本家ーに競り落とすのである。賃金を理解するためには他の商品と同様に、労働力も「需要と供給の法則」に従うことに気付かなければならない。そういうわけで賃金は、あらゆる商品の価格を支配するものと同じ原則によって決定される。労働力の価格は生活費、技能や資格、市場の需要と労働者の交渉力など、様々な要因に影響される。賃金は労働者の恣意(シイ)として決められるものではなく経済力の相互作用による。

 

雇用者は利益を最大化するために人件費を最小限に抑えようとし、労働者は生活水準を向上させるためにより高い賃金を確保しようとする。労働者の交渉力は、ほとんど組合やその他の組織を通じた集団的な行為によって影響を受けて、賃金の水準を決める上で重要な役割を果たしているのである。今日のグローバル化した経済で、労働市場は皆が相互に繋がっており、世界のある地域の賃金は他の地域の賃金に影響を与える。人件費の安い国への雇用の調達は、人件費の高い地域の賃金を押し下げる。このグローバルな観点は労働者間の国際的連帯の重要性と、労働者の権利を守るためのグローバルな労働基準の必要性を示している。技術の進歩が労働の本質を変え続ける中、労働と賃金の力学は進化している。労働の自動化は産業を変革し、新たな機会を生み出すと同時に労働者に課題を突きつけている。こんな変わりに対応するためには、労働者が将来の仕事に対応できるよう、教育や職業訓練への投資が必要である。

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十三、繰り返される商業的危機がもたらす結果は?

 

商業的危機が周期的に起こる影響を掘り下げると、我々が生きている世界の経済構造の本質とその変貌の可能性についての深い洞察を得られる。初めに、大規模な産業がまだ芽生えの段階にあった頃は、自由競争の枠組みの中で繁栄を極めてきた。この環境は活力を生み、革新を引き起こして、成長を促進したのであった。しかし時間が経つにつれて、いきなり状況は変わり始めた。かつて進歩を助長した要因が、もはや進歩の妨げとなり、競争の精神が産業を前に推し進める力としてではなく、その進化の障害となっているのであった。生産の個人主義的な組織形態、それはかつて効率の象徴であったが、今では大規模な産業の潜在した能力を制約するものとなってしまっている。大規模な産業を持続させ、さらに進展させるためには、この現実に直面し、「時代遅れの枠組み」からの解放を求めなければならないのである。

 

さらに、これらの危機が持つ周期性を認識することは不可欠。7年ごとに経済の激動が社会の構造に波紋を広げる中、社会は混乱の瀬戸際(セトギワ)に立たされる。これらの危機は単なる経済的後退以上のものであり、労働階級に苦難をもたらし、資本家階級の大半に混乱を引き起こす。この影響は一時的なものではなく、文明の礎そのものを脅かすほどに広がりを見せる。すなわち、これは「持続不可能な現状」を維持し続けるか、或いは社会の再建へと向かう変革の旅に出るかという、最も重要な選択を迫られることを示しているのであった。しかし、これらの挑戦の中にも希望の光が見える。大規模な産業によって可能となる生産の広がりは、社会の豊かさの新たなビジョンを示している。読者よ、想像してほしい。資源の不足は過去の物語となり、全個人が制約もなく自分自身の潜在した能力を最大限に発揮できる世界を。このビジョンは現代の混乱の坩堝(ルツボ)から生まれたものであり、我々の経済体制が持つ変革の力を垣間見せてくれる。

 

究極的に我々の社会を苦しめる危機は、人間にとって変わらないことではなく、時代のニーズから逸脱した社会構造から生じているもの。しかし、この時代遅れの社会の中には楽観の種が含まれている。集団的な計画と包摂(ホウセツ)的な統治を前提とした枠組みの転換を受け入れることによって、今の我々が直面している制約を超えて、恒常(コウジョウ)的な危機の幽霊から解放された未来を築ける。新たな道を定める力は、資本家階級でなく労働階級の団結した力にある。それは全個人の天賦(テンプ)の尊厳を尊重し、世代を超えて繁栄する社会を育むことを目指すのである!

 

十四、この社会の新たな秩序はどんな様子なのか?

 

我々が描いたこの新たな秩序の特徴を考えるにあたり、産業及び生産の組織と管理の根本的な再評価に取り組むことになる。これは個々の行為者が生産の様々な分野を制御(セイギョ)するために死闘を繰り広げる現行の社会からの脱却を示している。むしろ、社会全体がこれらの生産の分野を共同で監督し、指導する責任を負う体制として転換することが必要であると思われる。この共同の監督は利己心や個人の利益に基づくものではなく、むしろ「共通の利益」を核として機能する。生産にとっての全側面が社会全体のニーズを満たすようにすることである。これは包括的な計画によって導かれることであり、社会の共同の願望と優先事項を反映している。重要なことは、この体制が社会の全人民を積極的に参加させ、彼らの意見が検討するか受け入れ、意思決定の過程において人民のニーズが考慮されることなのである。

 

要するに我々が求める変革は、現在の産業活動を支配している「激しい競争心」を廃止することを必要とする。競争は、屡々革新と効率の促進要因として持ち上げられるが、激しくなったら結局は「分断」と「不平等」を生み出す。この競争の社会からの脱却し、協働の文化を受け入れることによって、より調和の取れた公正な社会の礎を築ける!我々共産主義者は全人類の幸福が「階級の撤廃」に関連していることに気付いており、真の進歩は一方が他方を打ち負かすことではなく、集団の努力と相互の支援によって達成されることに気付くことである。さらに、「産業の個別の管理」と「私有財産の概念」との間の密接な関連性を認識することが重要。現行の体制では、産業の所有及び管理は「選ばれた少数」の手に集中している。すなわち、私有財産を持っている者、資本家階級なのである。その結果、競争はこの仕組みの自然な結果となり、各所有者が他者を犠牲にして自己の利益を最大化しようとする。この搾取と不平等のサイクルから解放するためには、その礎の「私有財産」を消滅させる必要がある。代わりに、我々は資源の共同の所有と産業の共同の管理を提唱する。

 

これにより、生産の利益が特権を持っていた少数者に不均等に集中するものではなく、社会の全人民と公平に共有されることが保証される。明白に「私有財産の廃止」ということは、社会の変革の中核となる要素。これは資源と(工場や農場での)生産の制御権を社会の集団に再分配することを示し、私的な富の蓄積の確立した概念に挑戦することで、より公正で包括的な社会の道を築くものである。私有財産の廃止という要求は単なる政策の提案ではなく、体系的変革のための叫びであり、共同の所有及び繁栄の原則が最高の権威である共産主義の革命的精神と世界の求道に包括されている。

 

十五、過去には私有財産の撤廃ができなかったか?

 

そうである。私たちが歴史を振り返ると、私有財産の廃止が過去の時代、例えば古代のエジプトや中性のドイツには実現不可能であった理由が分かってくる。社会の秩序の変化や財産関係の革命は、生産力のための新たな道具の出現に伴う必然的な結果なのである。その新たな道具は、過去の財産関係に適応しなくなった時、急進的な変革を求める。まず、「私有財産が常に存在していたわけではない」ことへの理解がこれを分かることに重要である。中世の終わり頃には新たな生産の形が現れた。それは当時の封建制度や「ギルド」などの制度の下では運営できないものであった。機械を利用したこの新たな生産の形、すなわち製造業は旧財産関係を超えて新たな財産の形として、より高い水準の財産を要求した。「私有財産」を必要としたのである。この時期において、私有財産は唯一の実行可能な財産んp形であり、社会の秩序はそれに基づいていた。

 

歴史の流れからみると、社会階級の構成は発展の段階によって段々変化してきた。農業が主流であった中世には「領主」と「農奴」が社会に支配的であった。それから社会が進化するにつれてギルト長、職人、或いは日雇い労働者が登場した。さらに、17世紀には製造業の分野で働く労働者が増え、19世紀には「職工」と「労働階級」が現れた。しかし、これらの変化にもかかわらず、当時の生産力はあらゆる人のニーズを満たしたり、さらに成長のための余剰を生み出せたりする段階には達していなかった。それが産業革命以前の世界で、ロマンはなかった。この制約が、社会の資源を管理する支配階級、そして抑圧される労働階級、すなわちプロレタリアートの存在を続けさせてきたのである。

 

私有財産の支配が続く限り、生産力がさらなる発展することへの障害となってきた。ところが、大規模な産業の登場により、我々は新たな時代の入口に立っている。資本と生産能力は飛躍的に拡大し、将来的には無限の成長が約束されていた。しかし、この拡大は結局、工場での生産を特権の持つ少数者の手に委ねる結果となり、多くの人が労働階級の仲間入りをし、資本家階級、すなわちブルジョアジーの富が増加するのに比例して、労働者の状況は益々悪化していた。さらに、過去より生産力は発達し、生産の道具は容易に拡大可能であるので、それが資本家階級の最初の進歩の心の失って、ただの「搾取者」になってしまった今、その不均衡はこの社会の秩序をいつでも激しく乱す脅威となっている。そういうわけで、資本家階級が進歩的であり、階級の対立はなかった過去よりは、今の世界が私有財産の廃止はもはや単なる理想ではなく、絶対に必要なものとなっているのであった。階級の撤廃は単なるユートピアではなく、必然的な結果なのである。

 

初期の人類には階級がなかった。たとえ序列はあったとしても、その序列が詳細に細分化されてはいなかった。私有財産の概念がなく、皆が平等に資源を所有した。事実上そうするしかなかった。資源が極めて足りなく、科学技術も皆無であった時代である。従って、人間が生き残るためには共有が必須であった。この「資源」というものは生産道具と生産物(採集、狩猟、そして漁労などの労働の結果)である。 誰かが資源を持っていなければ、それは集団の存立に直結したので、搾取することは不可能であった。生産力が低くて余剰がなかった時代なので、分配の必要性も感じられなかった。自然に平等であった。しかし人類が定着し、農作業を始めた日から「私有財産」と「階級」が生まれた。そして搾取の概念も生まれた。これをマルクスは「原始共産制」と言った。共産主義はこの原始共産制の末裔で、階級的対立が消えると再び実現できると信じた。

 

十六、私有財産を平和的に撤廃できるのか?

 

我々共産主義者は、私有財産の平和な廃止が可能であると望ましいと思っており、そのような移行に断固として賛成している。我々は社会的正義と平等の熱心な支持者であり、革命によって生じる混乱や動揺から無数の命を救うために、より公正な社会への平和な進化が重要であると思っている。さらに、我々は秘密の陰謀や計画が効果的でないだけでなく、実際には自らの目的を損なうことを理解している。我々は意義のある変化をもたらすことに必然的な、集団の行為や地元の運動の力を信じている。労働階級の連帯と結束を促進することで、我々は社会の変革のための無限な力を創り出そうとしている。

 

しかしながら平和な変化を願う一方で、我々共産主義者は、特に「先進国」と言われる国々において労働階級が直面している厳しい現実に切実に気付いている。歴史から見ると労働階級の進歩は、根強い権力の構造からの激しい抵抗に直面してきた。政府や支配層は、自己の利益と旧秩序を維持する欲求に駆られ、屡々暴力と抑圧を用いて、改革の試みを封じ込めてきた。この体制による労働階級への抑圧は特権を持っている少数の利益が、大衆の幸福よりも優先される既存の社会の秩序を永続させることに役立っている。読者よ、これが果たして「正しい」と思っているのか?こんな最悪な状況下では、労働者の権利と公正な扱いのための闘いは益々困難になり、平和な変化の道を妨げられている。

 

これらの課題を踏まえると、共産主義者は社会の正義への道が「いつもスムーズである」わけではないことを確かに理解している。平和な手段を好むにもかかわらず、労働階級が耐え忍んできた不正義が耐え難くなる瞬間が訪れるかもしれないと思っている。万が一、世界の労働階級が制度的な抑圧や搾取によって反乱の瀬戸際に追いやられた場合、共産主義者は彼らの解放のための闘いを支援する用意がある。さらに、共産主義者は革命の必然性が分かる際、歴史的な文脈の重要性を強調している。労働階級は革命が「選ばれた少数者」によって意図的または無作為に企てられたことではなく、長期間に渡る「不満」と「制度による外道の結果」であると主張している。社会主義革命は、不平等や抑圧と言った条件が時間をかけて蓄積され、結局変革が必要不可欠となることに達した時に生じるものである。

 

そういうわけで、我々共産主義者は平和な変化を起こせる手段が体系的に妨げられたり拒否されたりする場合に、「革命的」な動乱が起こってしまう可能性を考慮している。要するに、私有財産の平和的な廃止の可能性に関する共産主義者(我々を含めた)の見解は、変化への道の険しさを理解するための洗練されたアプローチを反映している。これは平和的改革の願望と根強い権力構造の厳しい現実との間の内在する緊張を考慮しているのであった。しかし、これらの課題に直面しても、共産主義者は労働階級の権利と利益を守るという揺るぎない決意を持っている。その一つは変わらない。

 

十七、私有財産は一気に撤廃できるのか?

 

それは違う。私有財産を一気に廃止することは不可能である。これは常識である。実際に、今の世界的に足りない生産力を一気に共同体の社会を支える水準まで引き上げることはできない。旧体制が定着した社会を変革することは困る過程なのであり、一夜にして成し遂げられるものではない。私有財産の廃止について話すと、それが段階的な過程であることへの理解は何よりも重要である。より公平であり、より平等な社会を目指す社会主義革命は、段階を踏んで進める必要がある。この革命は、労働階級が直面している即時のニーズと不平等に対処することから始まるのであった。

 

時間が経つにつれ、新たな社会が発展し、その生産能力が強化されることで、初めて私有財産の廃止という目標に近付けるるのである。この過程が「段階的」でなければならない主要な理由の一つは、生産手段ー工場、機械、道具、そして生産に必要な資源ーが今、完全な共同体の社会を支えることに十分な量で存在していないためである。今の体制では、これらの生産手段は個人の利益のために利用する「少数の私有者」によって管理されている。これを変革するためには、まずこれらの生産手段を拡大し、あらゆる人が利用できるようにする必要がある。労働階級による社会主義革命の初期の段階では、既存の資源をより公正に再分配し、労働条件を改善し、生産へのより民主的な管理を確立することに重点が置かれるであろう。このためには労働者階級のニーズに応ずるために法律、経済構造、そして社会の政策に大きな変更が必要となる。このような変化が根付くにつれて、社会は公正と共同の所有の原則に基づいて再編成され、国の生産力は徐々に増加するのである。

 

技術が発達するにつれて、そして生産手段がより広く共有されるにつれて、私有財産という制度の完全な廃止に向かうことが益々現実的になるのである。この移行は突然ではなく、経済的及び社会的条件の進化を反映するもの。共産主義者の目標は、資源と生産能力があらゆる人のニーズを満たし、私有財産の必要性がなくなる段階に達することである。結論として私有財産の廃止は、慎重な計画と段階的な実施を必要とする長期的な目標なのである。社会主義革命は、まず即時の不平等に対処し、共同体の社会のために必要な経済的な礎を徐々に構築していくことを目指している。このアプローチは移行が地球にとって持続可能であり、新たな社会があらゆる人のために十分な供給ができることを確実にする。

 

十八、社会主義革命の過程は?

 

何よりも、この革命は「より民主的」な憲法を確立するであろう。これが労働階級、すなわちプロレタリアートの直接または間接的な支配の礎となるはず。例えば、ヨーロッパのイギリスのような一部の国では、既にプロレタリアートが人口の大半を占めているので、ブルジョアジーがない支配の形は直接的なものとなるであろう。こうした国々では、労働階級が政府の実権をすぐに握り、自らの利益を反映した政策を実施する可能性が高い。一方で、フランスやドイツなどの他の国では、恐らく、支配は間接的なものとなるであろう。ここで、革命の多数派はプロレタリアートだけでなく、小作農及び小資本家も含まれている。

 

これらの集団は経済的困難や社会的地位の低下に直面することで、益々労働階級の一部となってしまっている。彼らの経済的安定性が揺らぐにつれて、彼らは政治的代表や支持を求めて、結局はプロレタリアートに頼るようになる。時間が経つにつれて、これらの小作農や小資本家階級は、自らの将来が労働階級の将来と直結されていることに気付き、その利益を一致させるはず。この移行は円滑にいかないかも、さらなる努力や闘争を必要とするかもしれないが、彼らが直面する経済的及び社会的圧力を考えれば、究極的にはプロレタリアートの偉大な目標を支持することがほぼ確実である。従って、革命はプロレタリアートが直接的にまたは広範な下位の階級の連合を通じて、初めて優位に立つのを見ることになるであろう。

 

しかし、資本家階級的な民主主義の団体ではプロレタリアートにとっては無価値である。それは即座に私有財産への措置を実施し、労働階級の生計を確保する手段として使用されなければならない。民主政府の樹立は最初の一歩に過ぎない。労働階級が真に利益を得るためには、民主主義はただの実質的な経済の変革を達成するための手段でなければならないのである。以前の状況とプロレタリアートのニーズから自然に生じた主な措置には以下のものがある。

 


 

  1. 累進課税と相続税の問題:私有財産の制限は、富裕層が貧困層に比べて所得に占める税金の割合を高くする「累進課税」によって達成される。これは世代を超えて受け継がれる富を減少させ、莫大な財産を蓄積することを防ぐ重相続税によって補完される。兄弟や甥(オイ)と言った担保による相続を廃止すれば、一部の家族への富の集中がさらに制限される。しかも、社会保障制度や公共インフラの資金調達のために富裕層に強制的な融資(ユウシ、国または個別の機関が個人の資金を借りる行為)が課され、社会全体に資源がより公平に再分配される。

  2. 国家所有と競争の問題:地主、実業家、鉄道王、船主の漸進的な収用は、国有産業と民間産業との競り合いと、国債(コクサイ)という形での補償の組み合わせによって実施される。あらゆる産業の国有化によって、これらの財産は「私利私欲」のためではなく、専ら「公共の利益」のために使われるようになる。国営企業が成長し、より効率的になるにつれて民間企業との競争に打ち勝ち、益々衰退していくであろう。一連の過程は、経済の混乱を最大限に避けるために徐々に行われ、国家が計画的かつ効果的に産業を引き継ぐことを可能にする。

  3. 革命の反対派への対処の問題:人民の大半の情操(ジョウソウ)に反抗する移民者や反逆者の財産は容赦なく全部没収される。すなわち、革命的変化から逃れるために国外に出る者や「反革命」的活動を行う者など、新たな秩序に積極的に反対する者に、財産を保持することは決して許されない。彼らの財産を没収することは反革命の勢力を弱体化させるだけでなく、国家が再分配し公共の利益のために使用するための新たな資源を提供するのである。

  4. 皆への雇用と賃金の問題:労働階級公有地、工場、そして作業場で雇用される。労働者間の競争は廃止され、あらゆる労働者が安定した雇用と公正な賃金を得られるようにする。残された工場主は、国家が支払う賃金と同程度の高い賃金を支払うことを義務付けられ、あらゆる労働者にとって公平で公正な生活水準が作り出される。これにより、民間の雇用主が低賃金を支払って労働者を搾取することができなくなって、全体的に良い労働条件が促進される。

  5. 労働の義務の問題:私有財産が完全に廃止されるまで、社会の誰もが働くことを義務付けられる。これには誰もが社会に貢献できるようにするため、特に農業に従事する「産業軍」の結成も含まれる。あらゆる人を生産に参加させることで社会はその資源を最大限に活用し、あらゆる構成員が共通の目標に貢献することを保証できる。また、この政策は経済の様々な部門で誰もが利用できる仕事があるので、失業や不完全な雇用の解消にも役立つ。

  6. 国家による金融の問題:あたゆる資金と信用は、国家資本による国立銀行を通じて国家の手に一元化される。民間の銀行は国有化されることで民間の銀行家も消滅して、個人から搾取したり私利私欲のために経済を操作したりすることはできなくなる。政府機関が金融を全般的に管理することで、資本家のような少数者を富ませる「投機的」な事業ではなく、社会全体に利益をもたらす生産活動を支援するための信用が確保される。この中央集中化によって、国家が国民全体の利益のために金融政策を管理できるので、経済計画の高い安定性も保障される。

  7. 公営企業の拡大の問題:国営の工場、農場、鉄道、そして船舶の数が段々増加する。人民の資本と労働力の増加に比例して新しい土地が耕作され、既存の土地は効率的な産業のために改良される。公営企業を拡大することで国はより多くの雇用を創出し、経済の成長があらゆる人に恩恵をもたらすようにできる。この拡大は産業の近代化にも役立ち、より効率的で生産性の高いものとなる。共産主義の下での国営産業は、資本家のような私的所有者のために利益を生み出すものではなく、人間のニーズを満たす方向に向かうであろう。

  8. 普遍的な公教育の問題:十分に成長して、これから母親の下を離れられるようになった時点から、あらゆる子供は国費で国立の教育機関で定期的な教育を受ける。教育は生産と組み合わされ、子供達が社会に貢献しつつ価値のある技術を学ぶことを保証する。この制度は生まれた環境に関係なく、あらゆる子供達に「平等な教育の機会」を提供し、その子供達が経済に完全に参加できるようにする。教育を実践的な労働と一体化させることで、共産主義の下での子供は実社会での経験を積み、将来に社会で果たすべき役割をより良く果たせるようになる。

  9. 共同生活の変わりの問題:工業と農業に従事する人民の共同住居として、公有地には大宮殿が建設される。これらの住居地は、都市での生活と農村での生活の利点を組み合わせ、それぞれの欠点を補完したのである。共同生活は住民の共同体意識と協調性を育むと同時に、より現代的な設備と緑地へ接することを容易にする。これらの共同住宅は高級で建築され、持続可能な生活ができるようにし、都市化による環境への悪影響を軽減するよう設計される。

  10. 生活環境の改善の問題:都市部にある、あらゆる不完全であり粗末な住居地は破壊する。代わりに、あらゆる人民により健康的な新しい住宅が与えられる。この措置は誰もが安全であり快適かつ衛生的な住宅を利用できるようにすることで、公衆の衛生及び生活水準を向上させることを目的としている。共産主義での移行のために、国はあちらこちらにある「スラム」を最大限になくし、あらゆる国民のニーズを満たす現代的である設計の行き届いた住宅の建設に最大限に投資する。こうするだけで、人間はより幸せになるであろう。

  11. あらゆる子供への平等の問題:婚内子と婚外子に平等な相続権が与えられる。これにより、生まれた環境にかかわらず、あらゆる子供があらゆる分野で平等に扱われる。例えば教育や経済活動など。誰もが平等な相続権を与えることで国は社会的平等を促進し、家柄による社会的及び経済的の差別を減らす。この政策は、あらゆる人に同じ成功の機会が与えられる、より公正で包括的な社会の実現に役立つのである。

  12. 国有の交通機関の問題:あらゆる交通手段を中央政府の手に集中させる。これにより、あらゆる人に効率的であり公平な輸送が保証される。交通を一元化することで、国は民間企業の利益を優先するものではなく、あらゆるの国民のニーズを満たすインフラを計画及び開発できる。また、中央政府が交通を公有化することで、国は安価で利用しやすいサービスを与えられ、交通が環境に与える悪影響を軽減し、より持続可能な社会を促進するのである。

 


 

これらの措置を一気に全部実施することは、勿論不可能である。しかし、各段階が次の段階を自然に導くであろう。最初の私有財産への根本的な攻撃が始まると、プロレタリアートは前進し続ける必要があると見なすであろう。段階的に、彼らは国家の手に資本、農業、輸送、及び貿易を集中化するはず。これらの措置はすべて、プロレタリアートがその労働によって国の生産力を倍増させるにつれて、実用的かつ達成可能なものとなるかもしれない。この段階的なアプローチにより、共同社会への移行が持続可能で管理されたものとなる。最終的に、あらゆる資本、生産、及び交換が国によって制御されるようになると、私有財産は自然に消滅する。お金は不要になり、生産は大幅に拡大し、社会は旧経済的制度を脱皮する。人々は変わり、社会は新たな方法で生きられるようになって過去の不平等と搾取は、もはや過去のものとなるであろう。究極の目標は全人民のニーズが満たされ、旧体制の搾取と不平等が取り残される社会を作ることなのである。この新たな社会では人々が共同の利益のために協力し、公正かつ平等な経済体制の恩恵を享受するであろう。

 

十九、革命は一国にだけ起こられるのか?

 

それは違う。この革命は単一の国内で進行することはできない。大工業の進展によって促進された世界市場の登場は、あらゆる国、特に文明国と見なされる国々を複雑に結びつけてしまったのである。一国での経済的及び社会的変化の結果は、地球全域に影響を及ぼし、他国にも深い影響を与える。国際貿易や通信手段によって容易になった経済の相互依存は、各国の運命が他国のそれと密接に絡み合っていることを示している。この相互依存性が、「孤立した革命の不可能性」を浮き彫りにし、共産主義への協調した、そして世界的な運動の必要性を強調しているのであった。

 

さらに、文明国の社会的進化によって、独自の社会階級ーブルジョワジーとプロレタリアートーが台頭してきた。ブルジョワジーは工場の生産手段の所有者を代表し、プロレタリアートは各地の労働者で構成される階級である。彼らの経済的及び政治的権力をめぐる闘争は、社会の軌道を決定づける中心的要素となっている。この特徴付けは、社会主義革命が資本主義社会に基本的な階級の矛盾に対処することを示しており、その普遍性を強調している。文明国の社会的事象が絡み合うことから、社会主義革命は全世界の国境を超える。これは複数の国で同時に起こるべき同期した蜂起を必要とする。これはイギリス、アメリカ、フランスとドイツなどの列強が、革命活動の焦点となるのである。革命が同時に発生することで、プロレタリアートの運動間に共同の力と連帯が生まれ、その影響が拡大して成功の可能性が高まる。ただし、革命が進行する速度や将来は、経済の発展、階級意識、政治的状況などの要因に影響を受ける可能性がある。

 

例えばイギリスのように、先進的な産業の基盤と高い階級意識を持つ国は、共産主義への移行がより速やかで順調なものとなるであろう。一方でドイツのような、産業が未発展で階級間の対立が根深い国々では、より大きな抵抗に直面し、より長い闘いを強いられるかもしれない。しかし、これらの変化の影響は世界的なものであり、確立された権力構造を覆し、既存の社会規範に挑戦し、世界中で解放の運動を鼓舞する。社会主義革命は国境を越える普遍的な現象。その必要性は、地球全域で共有される経済的な相互依存性と、ブルジョワジーによるプロレタリアート間の共通の闘争に基づいている。革命の進行速度や将来が国によって異なるとしても、その究極の目標は不変であり、それは階級のない社会を確立することである。国境を超えることで、社会主義革命は歴史の軌跡を変えて、社会の平等及び正義と人類の解放の新時代を切り開く。

 

二十、私有財産が消えると、結局は何が起こるか?

 

社会は、生産力と商業手段、生産物の交換と流通のあらゆる過程で発生する「私有財産」を資本家の手から引き離し、資源の利用可能性と社会全体の必要性に基づく計画に従って管理する。こうすることで何よりも重要なことが起こる。それは、今の大企業が行っている事業に伴う弊害がなくなるということである。拡大された生産は、今の社会にとっては「過剰生産」であり、それ故に不幸の主な原因となっている。しかし、過剰生産は不幸を生み出す代わりに、社会の単なるニーズを超えて、あらゆる人の欲求を満たすようになる。それは新たな進歩の条件となり、またその刺激となり、これまでの進歩が常にそうであったように、この社会の秩序を混乱に陥れることはなくなる。私有財産の圧力から解放された大工業は、今の我々が目にしているものが、現代の大工業と並べると、製造業がちっぽけなものに思えるほどに拡大を遂げるであろう。このような工業の発展は、すべての人のニーズを満たすことに十分な量の製品を社会に提供することになる。

 

同じことが農業にも当てはまる。現行の農業も私有財産の圧力に苦しみ、私有地の小区画化に阻まれている。ここでは既存の改良と科学的手順が実践され、その結果は、社会に必要なあらゆる生産物を保証する飛躍的な進歩を遂げることに達する。こうして、こんな豊富な商品は構成員の全員のニーズを満たすことができるようになるのである。すなわち、社会を互いに敵対する様々な階級に分ける必要はなくなることを示している。実際に、新たな社会秩序においては、階級は不要になるだけでなく、耐えがたいものになるであろう。「階級」という概念存在は分業に由来するものであり、今までのような複雑な分業は完全に消滅する。工業での生産と農業での生産を我々が述べた水準にまで引き上げるには、機械的及び化学的過程だけでは不十分であり、これらの過程を利用する人間の能力も、それに見合った発展を遂げなければならないからである。

 

前世紀の農民や職工が大工業に引き込まれた時、生活様式を一変させて過去とは全く別の人間になったように、社会全体による生産の共同の管理も、その結果もたらされる新たな発展も全く別の類の人間を必要とする。あらゆる人はもはや、今日のように単一の生産部門に従属させられ、それに縛られて搾取されることはない。今日の産業界ですらm、そのような人々の有用性は益々低下している。社会全体によって管理され、適切な計画に従って運営される産業はバランスの取れた方法で発達した能力を持ち、生産の過程を全体的に見られるバランスの取れた人間を前提としている。

 

ある者は農民、ある者は靴磨き、ある者は工場労働者、ある者は株式市場の経営者となるような分業は、既に機械によって損なわれており完全に消滅するはず。教育によって、若者は生産の過程に素早く精通することができて、社会のニーズや自分の志向に応じて、ある生産部門から別の部門へと移ることができるようになる。従って、教育は今の分業が各個人に与えている一方的な性格から人間を解放する。このようにして共産主義社会は、その構成員が総合的に発達した能力を十分に活用することを可能にする。そうなれば、階級的対立は必然的に消滅する。共産主義に基づいて組織された社会は一方では階級の存在と両立せず、他方では、そのような社会の構築そのものが、階級差を廃止する手段を提供するということになる。こんな帰結として、都市と田舎の違いは消滅する運命にある。農業と工業を二つの異なる階級の人によってではなく、同じ類の人によって管理することは純粋に物質的な理由だけであるとしても、共産主義社会の必要条件なのである。

 

農業の人口が土地に分散し、工業の人口は大都市に押し寄せていることは農業と工業の両方が未発達のままに相当し、既にさらなる発展の障害となっている。生産力の計画的な利用を目的とした社会の全構成員のあらゆる協力、あらゆる人のニーズを満たすまでの生産力の拡大、一部の人のニーズが他の人のニーズを犠牲にして満たされる搾取的状況の廃止、階級とその対立の完全な清算、葛藤を引き起こす今の分業の廃止を通じて、産業の教育を通じて、そして様々な活動に従事することを通じて、あらゆる人が生産する享楽に参加することを通じて、あらゆる都市と田舎の結合を通じて、社会のあらゆる構成員の能力を丸く発展させることは、明白に「私有財産の廃止」がもたらす主な結果である。

 

二十一、共産主義社会が「家族」の制度に及ぼすものは?

 

資本主義とは異なる、「共産主義」だけが家族に与える影響は大きく、これまで関係、結婚、または家族の構造において長く支配的であった枠組みを根本的に変えてしまう。共産主義社会では個人間の関係、特に性別間の関係は中々変わってしまう。資本主義社会の家族の概念は、かなり「金銭の問題」に限られる。例えば、子女が生存のために親からお金を借りるとか。これらの関係は完全に「個人的な問題(金銭とは関係がない)」となり、社会からの干渉や監視は一切存在しない。この劇的な変化は、私有財産の廃止と共同体による子育てなどによって可能になるのである。女性の男性への経済的依存や子供の親への依存をなくすことで、共産主義は結婚や家族の枠組みの伝統の礎を完全に破壊する。

 

これにより、歴史的に家族関係を支配してきた権力構造が解体され、平等と相互の尊重に基づく新たな関係の形が築かれる。さて、これらの批評家が良く挙げる「女性の共同体」という概念について深く掘り下げてみよう。こんな考え方は、屡々道徳家たちに非難されてしまっているが、それはただ資本主義社会の産物であり、その極端な形は「売春」の形で現れる。ここで、売春自体が私有財産制度に根付いていることに気付くことは重要である。共産主義は私有財産を廃止するので、売春のような慣行が生まれる環境も同時に改善される。従って、共産主義社会は女性の共同体を奨励(ショウレイ)するものではなく、実際には完全にそれを廃止する。搾取的関係を生み出す経済的格差や権力の差異をなくすことで、共産主義は個人を強制や商品化から解放して、相互の同意と尊重に基づく本物の繋がりを作るのである。

 

まとめると、共産主義が家族に与える影響は、人間関係の包括的な再定義と伝統のジェンダーや家族の役割の根本的な再構築をもたらす。私有財産の廃止と共同体による子育ての実施を通じて、共産主義は個人間の関係が平等、自律、そして連帯の原則に基づく社会を確立することを目指している。不平等や搾取の礎となっている経済構造を解体することで、共産主義は本物の愛情と相互の支持に基づく、意義のある繋がりを作り出すための土台を築ける。金銭の問題から抜け出し、ただ愛だけで成り立つ家族なら、お金のために親が子供に、または子供が親に物乞いをすることはないであろう。

 

二十二、民族への共産主義の態度は?

 

共産主義の既存の民族及び国籍へのアプローチは、共同体と共同体間の連合の原則に影響された変革の一つである。共産主義社会では、この原則に基づいて集まった人々の国籍は互いに交流し、融合することを余儀なくされる。この相互作用は、私有財産の廃止によって様々な地所や階級の違いが消えていくのと同じように、国境や区別を徐々に解消していくことになる。この意味をもう少し掘り下げてみよう。所有権の共有と共同生活が重視される共産主義社会では、異なる国籍を隔てる伝統の障壁は徐々に侵食されていくのである。共通のイデオロギーと共通の目標に基づいて人々が集まれば、自然と相互交流が深まる。この相互作用によって多様な背景を持つ人々の間に理解、共感、そして協力が育まれる。

 

やがて、こうした交流が深まるにつれて、異なる民族や国籍間の区別が曖昧になり始める。人々はもはや、自分を特定の民族や国籍としてだけでなく、伝統の境界を超えてより大きな共同体の一員とみなすようになるのである。こんな混ざり合い、溶け合う過程は、徐々に民族主義的なアイデンティティーの解消に繋がり、今より統一された調和の取れた社会への道を開くはずである。重要なことは、この変革は一夜にして起こるものではないということ。それは、共同体の団結と集団的行為の進化する枠組みによって形作られる緩やかな過程である。しかし、人々が共通の目標や理想を追い求めるようになるにつれて、かつて人間を分断していた障壁は徐々に消え去り、異なる民族間の団結と協力の新時代が到来するであろう。

 

二十三、宗教への共産主義の態度は?

 

共産主義は、既存の宗教をあらゆる「民族」や「社会」における歴史的発展の産物として捉え、独自の視点でアプローチしている。歴史を通して、宗教は人類の発展のさまざまな段階で優勢であった文化的、または社会的条件を表現するものとして機能してきた。しかし、共産主義は歴史的進化の新たな段階を象徴するものであり、既存の宗教を不要なものとし、究極的には消滅へと導くものである。この視点を良く理解するために、社会におけるこの「宗教」の役割を掘り下げてみよう。

 

宗教というものは歴史的に未知のものへの説明を提供し、道徳的指針を示し、古代や中世の社会の枠組みとして機能してきた。宗教は屡々、その宗教が生まれた社会の価値観、信念、そして構造を反映してきた。例えば、古代の文明は複数の神を崇拝する多神教を発展させ、様々な社会階層や多様な文化的慣習を反映していた。その後、「キリスト教」や「イスラム教」のような一神教が台頭し、益々「中央集権化」し、相互に結びついた社会に適した統一的な信仰体系と道徳的規範を提供するようになった。しかし、社会が進化を続ける中、共産主義はそれまでの社会構造からの根本的な脱却を主張するようになった。共産主義は生産手段を集団が所有し、それを社会の全構成員が共有する、階級のない社会を提唱していたのである。こんな社会では、宗教的説明や道徳的指導の必要性は減少する。共産主義は「宗教的教義」や「精神的信念」に頼るのではなく、「物質的手段」を通じて社会の不平等や外道に対処しようとする。

 

共産主義が進むにつれて、個人が教義による束縛から解放される社会を目指すようになる。超自然的な力に慰めや導きを求める代わりに、人々は合理的な思考、科学的探究、そして集団行動に頼って、自分達のニーズや懸念に対処することが奨励される。「神」から「物質」へと焦点を移すこの転換は、伝統の宗教の枠組みから大きく逸脱している。これは要するに、共産主義は既存の宗教をその時代の産物、すなわち宗教が生まれた歴史的、社会的状況を反映したものと見なしているのである。しかし、社会が共産主義に向かって進むにつれて、宗教的な制度や信念の必要性は減少し、究極的にはそれらの廃止に繋がる。共産主義社会では宗教的教義や儀式を守ることよりも、人間の連帯、平等、そして集団的進歩が重視される。

 

二十四、共産主義者は過去の社会主義者と何が違うのか?

 

今の共産主義者と過去の社会主義者は重要なところで異なっている。政治思想の広い観点を確保するためには、これらの違いを理解することが最も重要なのである。いわゆる社会主義者は三つのカテゴリーに分けられる。まずは「反動的社会主義者」である。そして「右翼的社会主義者」、最後に「民主的社会主義者」である。社会主義者を自称するこれらの人はそれぞれ、共産主義者とは異なる明確な信念と目標を持っている。これらのカテゴリーを詳しく理解することで、共産主義者が何故他の社会主義者と距離を置くのか、何故彼らの革命目標が独特なのかを明らかにできるのである。

 


 

反動的社会主義者

最初のカテゴリーは「反動的社会主義者」である。これらの人は、近代の産業と世界的貿易によって大半が解体され、資本主義社会の勃興(ボッコウ)に繋がった封建社会や家父長制社会への回帰を切望している。反動的社会主義者は経済的不平等、社会不安や伝統的価値観の侵食と言った現代社会の問題に目を向け、旧態依然(キュウタイイゼン)とした社会への回帰が問題を解決すると結論づける。彼らの提案は全部、過去の社会秩序を復元することを目的としており、それがより安定的で公正であると信じている。彼らは生活がもっと単純で、地域社会が緊密で、階層が明確に定義されて尊重されていたとされる時代を理想化している。共産主義者は、いくつかの理由からこの「反動的社会主義者」に強く反対する。

 

一、目標の不可能性。過去の封建制に戻るという考えは、どうしても全く非現実的なのである。既に世界は進歩し、封建社会を可能にした「条件」はもはや何も存在しない。工業化と技術進歩がもたらした現代の世界の経済及び社会構造は、単純に元に戻すことはできない。封建制度に戻ろうとする試みは科学、技術、そして人権など様々な分野における数世紀に渡った進歩と発展がもたらした不可逆的な変化を完全に無視するものである。

 

二、圧政の復活。あらゆる反動的社会主義者は、貴族、ギルド長、小規模な生産者、君主、役人、兵士、そして司祭からなる側近による支配を復活させることを目指している。この旧社会には、現代の資本主義社会で現れることのような問題はなかったが重大な弊害があった。深刻な階級間の分裂、社会的流動性の欠如、下層階級への抑圧が蔓延していたのである。共産主義者にとって基本的な目標、すなわち抑圧された労働者の解放の希望はなかった。封建制度は本質的に「搾取的」であり、農民や農奴は土地に縛られて領主の気まぐれに従うだけで、生活の向上の見込みはなかった。

 

三、資本家との同盟。労働者が革命的になって、社会主義の理想を採用すると、反動的社会主義者は労働階級に対して資本家階級に味方することで、真の忠誠を明らかにする。これは彼らの第一の関心が、労働階級のニーズに取り組むことではなく、旧権力構造を復活することにあることを示している。彼らは労働階級に利益をもたらす可能性のある真の社会的及び経済的改革を支持するよりも、むしろ新興の資本家階級と連携することによって、自分達の影響力と地位を維持したいと思っている。この裏切りは、平等と正義に向けた真の進歩への彼らの根本的な反対を強調している。

 

右翼的社会主義者

第二のカテゴリーは「右翼的社会主義者」である。これらの人は今の社会を支持しているが、それが生み出す問題に警鐘(ケイショウ)を鳴らしている。彼らは屡々善意者であり「貧困」、「不平等」、そして「社会的不公正」と言った問題を懸念している。彼らは今の社会構造を維持しつつ、その裏面だけを排除したいと思っている。彼らの目標は「資本主義を人間化」し、その基本的原理は根本的に変えることなく、より受け入れやすく、より害の少ないものにしたいと思っている。これを達成するために医療、教育や社会保障制度の改善と言った小手先の福祉措置を提案する者もいれば、緻密な改革を提案する者もいる。これらの改革は社会を再編成すると主張する。しかし、実際には現行の制度の礎を維持することを目的としている。

 

富裕層への課税の強化、労働者の保護の強化、企業の責任への取り組みなどが主張されるかもしれない。しかし、これらの措置は社会的及び経済的不平等の根本の原因に対処するものではなく、単にその影響を緩和しようとするもの。共産主義者は右翼的社会主義者に反対し続けなければならない。何故なら、彼らの努力は「共産主義の敵」を支持するものであるので。右翼的社会主義者は、今の社会を保護することによって、共産主義者が実行しようとする革命的変化を妨げている。右翼的社会主義者は資本主義体制を維持することを目的としているが、それはより優しく穏やかな形ではあっても、結局のところ、資本主義に内在する搾取と抑圧を永続させるだけ。すなわち、彼らのアプローチは大衆をなだめすかし、共産主義者が真の解放と平等のために必要であると思う「急進的な変化」を防ぐ方法であると思われている。

 

民主社会主義者

第三の、最後のカテゴリーは「民主社会主義者」である。これらの人は、この「共産主義の諸原理」の第18問で述べられているように、共産主義者が提唱する施策と同様なものを支持している。これらの施策には主要な産業の公有化(国家による所有)、包括的な社会福祉制度、労働者の権利の広範な保護などが含まれる。しかし民主社会主義者は、これらの措置を「共産主義への段階」ではなく、現代の社会の問題を単に解消するための十分な解決策と見なしている。民主社会主義者は漸進(ゼンシン)的な改革と選挙的政治を通じて達成される社会主義への民主的アプローチが、旧秩序を完全に転覆させる必要なしに資本主義の制度に内在している問題に対処できると信じている。

 

これらの民主社会主義者は、自らの階級の解放に必要な条件を「まだ十分に認識していない」労働階級の個人であるか、或いは農民や医者などの小資本家階級の代表である。小資本家は中小企業の経営者、商人などの自営業者、その他の中流以下の人間から成り、特に完全なる民主主義と社会主義的な措置を達成する前は、一旦労働階級と利害が一致することがある。彼らは経済的安定、公正な賃金、真面(マトモ)な生活条件への懸念を共有しており、これらの目標を促進する政策を支持することが多い。このような共通の基盤があるので共産主義者は行動時には、とりあえず民主社会主義者と協力する必要がある可能性がある。こんな類の社会主義者が支配階級の資本家と同盟を結び、共産主義者に反旗を翻(ひるがえ)さない限り、これらの民主社会主義者と共通の政策に従える。この協力は労働者の権利と社会正義の向上を目指すストライキ、社会運動、政治的キャンペーンなどの取り組みに見られる。

 

しかし、この協力は「共産主義者が民主社会主義者との相違点について議論しない」ことを示しているものではないことに注意する必要がある。民主社会主義者との協力は単に「イデオロギー的」なものではなく実践的なものであり、両集団が根本的な意見の相違を認識しつつも、共通が当面している目標に向かって協力することを可能にしている。我々を含めた共産主義者は民主社会主義者が支持する対策はまだ不十分であり、結局は資本主義体制の一部を温存していると見ている。一方で共産主義者は、あらゆる形の搾取と抑圧の存在を消すために、社会の完全かつ根本的な変革を求めている。

 


 

この問題から見ると、あらゆる社会主義者は「社会に蔓延している問題に取り組みたい」という願望を共有している。しかし、その方法と最終目標は大きく異なっている。反動的社会主義者は、封建的であった過去に時計の針を戻すことを望み、時代遅れで抑圧的な社会構造の復活を目指す。右翼的社会主義者は、その礎を変えることなく現行の体制を修正することを目指し、中核的な資本主義の矛盾をそのまま残す改革を提案する。最後に民主社会主義者は、今の社会の悲惨さを終わらせるのに十分であると考える適当な「改革」を求め、民主的な手段を使って段階的な変化を実現する。

 

一方で、共産主義者は私有財産の概念を廃止し、無階級(すなわち原始人の生活の仕方を受け継ぐ)の共同体的な制度を確立することで、社会の完全な「大改革」を目指している。我々を含めた共産主義者は、全く革命的な変革によってのみ真の平等と正義が達成されて、「搾取」と「抑圧」を生み出す経済的及び社会的な環境が排除されると確信している。これらの違いを理解することは、カール・マルクスを始めとする我々の社会主義及び共産主義思想のすべてを把握し、公正であり公平な社会を実現するために、そして我々のイデオロギーが提案する様々な道に気付くために極めて重要なのである。共産主義は単なる理想ではなく、このあらゆる社会主義者(自称であるが)が直面する問題点を考慮すると、「現実」である。

 

二十五、現時代の諸政党への共産主義者の態度は?

 

共産主義者の諸政党への態度は、各国の詳しい社会政治的状況に応じて異なる。イギリス、フランス、そしてベルギーなどの資本家、すなわち、資本家階級が支配権を持っている国々では、共産主義者は屡々資本家階級的民主主義の政党と共通の立場を求める。これらの政党が共産主義者の目標と密接に一致する社会主義の政策を提唱すると、この協力関係はより顕著になる。例えば、イギリスでは労働階級を代表する労働運動家達は、労働階級の権利をより促進し、資本家階級の権威に挑戦する共産主義者との共通の利益を持つと見なされる。

 

これらの資本家階級的民主主義の政党が社会主義の思想を少しずつ受け入れるほど、彼らとの同盟関係は強化される。アメリカでは民主的な憲法がすでに確立されている。そのアメリカで共産主義者は、この憲法の枠組みを資本家に対抗して労働階級(またはプロレタリアート)を支援する政党と一致させる傾向がある。これは屡々工場労働者や農村の小作農の利益や懸念(ケネン)を解決する改革を提唱する改革者との協力に繋がるのである。共産主義者はこんな団体と連携することで、旧政治構造を利用して資本主義の支配と搾取に挑み、世界の労働階級の運動を推進しようとする。

 

スイスは多様な構成を持つ中で、「急進派」が共産主義者の主要な同盟者として機能している。急進派内の様々な派閥(ハバツ)の中で、その考え方が最も進歩的であると見なされる分派が多い傾向がある。共産主義者は、これらの分派との共通の「民主主義的」及び「社会主義的」な思想への開放性によって、とりあえず彼らとの同盟を結ぶ。急進派との協力を通じて、共産主義者はその国で進歩的な改革を促進し、根強い保守的な価値観に果敢に挑戦する。ドイツでは、主な政治的闘争が「資本家階級」と「絶対君主制の支持派」の間で展開されている。ドイツの共産主義者は、資本家階級との究極的な対立は、その資本家階級が完全な政治的権力を握るまでは起こり得ないことに気付いている。従って、共産主義者は資本家階級の早期の打倒を急ぐために、彼らの政治的台頭を戦略的に支援している。絶対君主制の支持派に対しては、共産主義者は慎重でなければならないにもかかわらず、急進的なリベラル派の政党を支援する。

 

共産主義者は資本家階級が「未来の利益」を約束することによって、労働階級の支持を取り込もうとする試みへ警戒心を持っている。資本家階級の勝利が労働階級に様々な譲歩をもたらすかもしれないが、結局は、それが労働階級の組織を促進する行為なのであり、絶対君主制の崩壊後に資本家階級との将来の階級闘争を確実なものとすることが共産主義者の優先事項である。究極的に、共産主義者は資本家階級が既に権力を握っている諸国で採用している手法と同じように、君主制の崩壊後のアプローチには、社会主義(及び共産主義)の利益を世界的に前進させるための統一された及び調整されたアプローチを確実にする。そうするには、共産主義の組織の指令に従うしかないのである。