資本の本質と、その成長の原理は?

第八章、賃労働と資本の関係は?

 

資本家と賃金労働者の間には一種の「取引」が行われている。ならば、何を交換しているのか?資本家と賃金労働者の交換を観察すると、表面的には単純な取引でありながら、その意味するところは非常に奥深いことが分かるであろう。労働者は労働力と引き換えに一日の生活の糧を受け取り、資本家は生活の糧と引き換えに労働力、すなわち労働者の生産活動を受け取る。この生産活動は通常の努力に留まらず、労働者が消費するものを交換するだけでなく、蓄積された労働に、それまで持っていた以上の価値を与える「創造的な力」である。そういうわけで、この交換において労働者は既存の生計手段の一部を手に入れる。しかし、これらの手段は何のためにあるのであろうか?即座に消費するためである。

 

しかし、この即時の消費はそれ自体が目的ではない。労働者が生計の手段を消費するやいなや、これらの手段が生活を支えている時間を、新たな生計の手段の生産に、すなわち消費によって失われた価値に代わる新たな価値を労働によって創造することに使わない限り、これらの手段は彼らにとって取り返しのつかないほど失われてしまう。この崇高な再生産力ー新たな価値を創造する能力ーは、正に労働者が受け取った生計の手段と引き換えに、資本家に明け渡すものである。その結果として、労働者はこの再生産力を自ら失ってしまったのである。もっと具体的な例を挙げよう。労働者は6万円で農家の畑で一日中働く。その労働によって、労働者は農家に12万円の見返りを確保する。農民は日雇い労働者に与えた価値を回収するだけでなく、それを倍増させる。こうして農夫は、日雇い労働者に与えた6万円を実りある生産的な方法で消費した。その6万円で日雇い労働者の労働力を購入し、初期に与えたものの2倍の価値の生産物を生み出し、6万円を12万円にしたのである。

 

それどころか、日雇い労働者は自分の生産物の代わりに6万円を受け取る。日雇い労働者は、自分の6万円を生活手段と交換して、多かれ少なかれすぐに消費する。すなわち、資本家にとっては、労働者として12万円をもたらす労働力と交換されたからであり、労働者にとっては、永遠に失われて農民との同様の交換を繰り返すことによってのみ再びその価値を得られる生計手段と交換されたためである。従って、資本は賃労働を前提とし賃労働は資本を前提とする。表裏一体なのである。両者は互いに条件づけ合い、それぞれが他方を存在させるのである。綿花の生産する工場の労働者は、果たして綿花だけを生産するのか?違う、資本を生産するのである。労働者は労働によって新たな価値を創造するために新たに役立つ価値を生産する。資本は、それ自身を労働力と交換することによってのみ、賃働を生命に呼び込むことによってのみ、自己を増殖させられる。賃金労働者の労働力は資本を増大させることによってのみ、その奴隷である労働者を増殖することによってのみ、資本と交換できるのである。従って、資本の増大は労働階級、すなわち「プロレタリアート」の増大である。

 

そして、資本家階級と親資本の経済学者は、資本家と労働者の利益は同様であると主張している。そして実際、そうなのである!資本が労働者を忙しくさせなければ労働者は滅びる。資本は、労働力を搾取しなければ滅びる。労働力を搾取するためには、労働力を買わなければならない。生産に必要な資本(生産時の資本)が急速に増加すればするほど、産業はより繁栄し、資本家階級はより富み、商売はより上手くなっていく。その結果として、資本家がより多くの労働者を必要とすればするほど、労働者は自分をより高く売る。従って、生産資本を可能な限り急速に成長させることは、労働者が耐えうる生活を営むための不可欠の条件である。しかし、生産資本の成長とは何なのか?それは、生活労働ができる労働力の成長の、労働者階級への資本家階級の支配の成長の証である。

 

賃労働が、それを支配する富を生産すると、それが再び資本の一部となるという条件の下で、雇用の手段、すなわち生計の手段の形として労働者に逆流する。これは資本が加速された拡大運動を余儀なくされる梃(テコ)に再びなることを示している。資本の利益と労働者の利益が同一であるということは、資本と賃金労働が同一の関係の表裏であるということである。一方が他方を条件づけるのは、貸主と借主が互いを条件づけることと同様である。賃金労働者が賃金労働者であり続ける限り、彼らの地位は資本に依存している。これが労働者と資本家の間にある自慢の利益共同体の正体。資本が成長すれば賃労働の質と量も増加し、賃金労働者の数も増加する。生産資本が増大すれば労働需要が増大する。従って、労働力の価格、すなわち賃金が上昇する。この例えを考えてみよう。家は大きくても小さくても良い。近隣の家が同様のように小さい限り、その家は「住居地」としての社会的要件を全部満たす。しかし、小さな家の隣に宮殿ができたとしよう。

 

小さな家は今、その居住者が維持すべき社会的地位を全く持たないか、非常に取るに足らないものでしかないことを明らかにしている。そして、文明化の過程でそれがどんなに高騰しようとも、近隣の宮殿がそれと同等かそれ以上に高騰すれば、相対的に小さな家の居住者は、常に四つの壁の中でより居心地が悪く、より不満で、より窮屈(キュウクツ)であることに気付く。賃金の顕著な上昇は生産資本の急速な成長を前提とする。生産資本の急成長は富の急成長、贅沢の急成長、社会的必要性の急成長、そして快楽の急成長を同様にもたらす。従って、労働者の快楽は増大したが、それがもたらす社会的満足は資本家の快楽の増大に比べれば低下した。社会全体に発展する段階と比べると、我々の欲求と快楽は社会に由来する。従って、我々はそれらを社会との関係において測定する。それらは「社会的な性質」であるため「相対的な性質」である。

 

しかし、賃金は単に交換可能な商品の合計によって決定されるのではない。この問題には他の要素も絡んでくる。労働者が労働力の対価として直接受け取るものは一定の金額。賃金は、単にこの貨幣価格によって決まるのか?そうではない。16世紀のアメリカにおいて、より豊かで容易に採掘できる鉱山が発見された末、ヨーロッパにおける金銀の流通量が増加した。その結果として、金と銀の価値は他の商品との関係で下落した。労働者は労働力へ過去と同額の銀貨を受け取った。彼らの労働への貨幣の価格は変わらなかったが、彼らの賃金は下がったのであった。これが、18世紀に資本の成長、資本家階級の台頭を促進したことの一つなのである。別のケースを考えてみよう。1847年の冬、凶作のせいで穀物、肉、バター、チーズなど、最も必要不可欠な生活手段が大幅に値上がりした。労働者が労働力へ過去と同様の金額を受け取っていたとしよう。彼らの賃金は下がったのではないであろうか?確かにそうである。同様の金額で、代わりに受け取るパンや肉などの量が減った。彼らの賃金が下がったのは銀の価値が下がったからではなく、生計手段の価値が上がったためなのである。

 

最後に、労働力への貨幣の価格が同様のままで、新しい機械の利用や季節の好転などのために、あらゆる農産物や製造品が値下がりしたとしよう。同様の金で、労働者はあらゆる類の商品をより多く買うことができるようになった。従って、労働者の賃金は、その貨幣価値が変化していないにもかかわらず上昇したのである。従って、労働力への貨幣価格ー名目上の賃金ーは実際の賃金、すなわち賃金と引き換えに実際に与えられる商品の量とは一致しない。それ故、賃金の上昇や下降について語ると労働力の貨幣価格、すなわち名目上の賃金だけでなく、実質的な賃金も念頭に置かなければならない。

 

しかし名目上の賃金、すなわち労働者が資本家に自らを売る金額も実質的な賃金ーこの金額で買うことのできる商品の金額ーも、「賃金」という用語に包含される関係を網羅するものではない。賃金は、何よりも資本家の利潤との関係によって決定される。言い換えれば賃金は比例的及び相対的数量なのである。一方で相対賃金は、労働力によって新たに創造された価値における現場での労働の割合を、蓄積された労働、すなわち資本に帰属する割合との関係で表現する。社会主義が賃金に及ぼす影響について述べるにあたり、社会主義社会のビジョンと、労働と資本の領域におけるその変革の可能性に目を向けよう。社会主義の下では、労働力の商品的地位を廃止することが大前提となる。労働はもはや、他の商品と同様のように「売買される単なる手段」とは見なされない。代わりに、労働は人間の可能性の発展と無限なる繁栄に不可欠な、活力に満ちた創造を引き起こす力となる。賃金制度、そして資本家と賃金労働者の取引は、資本主義的関係の本質を凝縮(ギョウシュク)しており、労働能力が商品化され生活手段と交換される。この取引は一見単純に見える。

 

労働者は賃金と引き換えに労働力を与え、資本家は資本の蓄積を強くするために労働者の生産活動の産物を受け取る。しかし、この一見単純な交換の下には、奥深い権力の力学、すなわち搾取とか、疎外の網が張り巡らされている。資本家にとっての目標は、労働者の労働から「剰余価値」を引き出すことによって利潤を最大化することである。剰余価値とは、上記の通りに労働者が労働として生み出した価値と、労働者に支払われる賃金の差額である。この剰余価値こそが資本主義的蓄積の礎を作り出し、資本の拡大と資本家階級の手中への富の集中を推進する。生産手段を所有する資本家階級は、あらゆる労働階級の労働を搾取し、賃労働的な関係を通じて剰余価値を引き出す。

 

他方、賃金労働者にとっては、労働力を賃金と交換することが、資本主義体制内での生存手段である。労働者は賃金と引き換えに労働能力を売り、それによって生存と再生産に必要な生計手段を手に入れられる。しかし、こんな類の取引は本質的に不平等である。労働者に支払われる賃金の価値は、労働によって生産される財やサービスの価値よりも常に低いためである。その結果として、労働者は資本主義の下の雇用に依存する永続的なサイクルの中に取り残され、富を蓄積することも真の経済的自立を達成することもできない。資本が労働者に与える影響は甚大かつ広範囲に及ぶ。資本主義社会では、あくなき利潤の追求が労働者の搾取と疎外をもたらし、労働者は市場で売買される単なる商品として扱われる。資本主義的生産方式は労働を商品化するだけでなく、労働者が生産手段や労働の成果を管理できないため、労働の成果から労働者を疎外する。この疎外は労働者が自らの労働から、互いから、そして自然界から疎遠になるなど、様々な形で現れる。

 

主流派の経済学者は、資本家と労働者の利害は一致しており、両者は経済的生存のために互いに依存している、という見解を支持することが多い。しかし、この観点は資本主義体制に内在する搾取と不平等を認めていない。労働者が生計を資本主義的雇用に依存していることは事実であるが、彼らは強制と搾取の条件下でそうしており、そこでは彼らの労働は組織的に過小評価され、資本家階級によって横領されている。しかも、資本家と労働者の利益は根本的に対立している。資本家は賃金を引き下げ、搾取を強化することによって利潤を最大化しようとし、労働者は公正な賃金と良い労働条件を確保しようと闘っているためである。資本主義の下で、労働者の運命は不安定であり不確実。彼らは市場の気まぐれに左右され、需要の変動、技術の進歩、世界経済の力に弱い。資本主義が発展し、危機や再編成の時期を迎えると、労働者は屡々こうした変化の矢面に立たされ、失業や賃金カット、雇用の不安に直面する。さらに、あくなき利潤の追求は、長時間労働や危険な労働条件の押しつけ、基本的な権利や手当の否定など、様々な形で労働者の搾取に繋がる傾向がある。

 

こうした課題にもかかわらず、労働者は歴史的に搾取に抵抗し、自らの権利と利益を主張するために組織化され、動員されてきた。労働組合や団体交渉から社会運動や政治活動まで、労働者はより良い賃金、労働条件の改善、より大きな経済的公正を求めて闘ってきた。しかし、資本家階級が搾取と抑圧を通じて権力と特権を維持しようとしているので、資本主義との闘いは相変わらず続いている。集団の自発的な行為と連帯によってのみ、労働者は資本主義の邪悪な支配に立ち上がり、より公平であり、より公正な社会の創造できるのである。すなわち、生産手段を所有する資本家階級と、ただ生き残るために労働力を売らなければならない労働階級は明白に「対立関係」である。この拮抗(キッコウ)関係は、階級闘争の礎を形成し、労働階級が資本主義の下の抑圧の搾取から自らを解放しようとする大事な過程を前進させる。

 

資本主義の下の生産の核心は、労働階級の労働から剰余価値を抽出することにある。剰余価値は、どうしても資本家の利潤の源泉ではないか?資本家階級はこの剰余価値を横領し、労働者大衆を犠牲にして自分達を富ませる。この搾取が、資本の蓄積の原動力であり、資本主義社会における階級的不平等の永続化である。資本家階級の利益に忠実な主流派の経済学者は、資本主義的搾取の本質を屡々曖昧にする。彼らは資本と労働の調和の神話を喧伝し、資本家と労働者の利益が一体であることを示唆する。しかし、この主張は誤りであり、労働への資本の搾取の継続を正当化するために広まっている。現実には、資本家階級の利益は労働階級の利益とは全く正反対なのである。前者は後者の生活と幸福を犠牲にして利潤の最大化を追求するためである。さらに、資本主義内における労働者の運命は暗く不安定である。市場の気まぐれとあくなき利潤の追求の対象となる労働者は搾取、疎外、そして不安にさらされている。労働者は賃金のために労働力を売ることを余儀なくされるが、その賃金では基本的なニーズや生活必需品すらも賄えないことが多い。

 

さらに、技術の進歩と資本主義の下の競争の激化は労働力の搾取を悪化させ、失業、貧困、不平等を増大させる。しかし、この抑圧の闇の中には「社会主義革命」という希望の光がある。資本主義がその特有の矛盾と危機に達するにつれて、世界の労働階級は、資本主義的生産方式を打倒できる革命の主体として現れるであろう。自発的行為、連帯、階級意識として、人民大衆は生産手段を掌握して協力、平等、そして民主主義の原則に基づく社会主義社会を確立できる。賃労働の未来を描く上で、共産主義者は社会主義の必然的な勝利に目を向けなければならない。20世紀の未来、資本主義が衰退と衰退の最終段階に入ると、労働階級は革命によって立ち上がって、社会的及び経済的変革の新時代を切り開くはず。

 

社会主義の下では、労働力の商品的地位は完全に廃止されて、労働力はもはや市場で売買される「単なる商品」として扱われることはない。代わりに、労働力は人間の潜在力の発展と無限なる繁栄に不可欠な、活力に満ちた「社会の自分の手で創造する力」として気付かれるようになる!しかし、この社会主義革命というものは、どのようにして実現するのであろうか?労働階級が生産手段を掌握し、社会主義社会を確立するためには、どのような条件が必要なのであろうか?とりあえず、これらの問題は、マルクスが主張した理論の核心にあり、慎重な考察を必要とする。第一に、資本主義の発展そのものが、最終的な打倒の条件を作り出していると気付くことは不可欠である。資本主義は、利潤へのあくなき追求と労働力の搾取から生じる固有の矛盾と危機によって特徴づけられる。資本主義がその限界に達し、より矛盾が深刻になるにつれて、世界の労働階級は、資本主義の下の抑圧に反発して組織化し、動員するよう駆り立てられる。

 

さらに、資本主義的競争の激化と資本のグローバル化は、共通の利益と共通の不満を持つ世界的な労働階級を生み出してしまう。あらゆる労働階級の人間は国境を越えて国際的に連帯し、世界的の規模で資本主義に対抗する「統一戦線」の礎を築くであろう。さらに、資本主義の下の技術と生産力の発展は、生憎にも社会主義のための物質的条件を作り出す。技術の進歩は、生産性の向上と豊かさという未来の可能性をもたらし、資本主義の下の搾取が依拠する希少性を物質の弱体化させる。自動化と機械化は労働需要を減らし、人間の必要性よりも利潤を優先する体制の矛盾を露呈させる。

 

資本主義の矛盾は定期的な経済危機の中で顕在化し、それが体制自体を不安定化させて、革命による大変革の機会を生み出してしまう。過剰生産、金融投機、そして失業の危機は、資本主義の下の生産の非合理性を暴れ、大衆の不満を煽る。しかし、資本主義は単に危機に直面するだけでは十分ではない。労働階級は、革命の瞬間を手に掴むために必要な意識と組織も持たなければならない。階級意識とは、社会階層の中での自分の立場を認識し、労働階級の他の構成員と共通の利益を認識することで、これは社会主義革命には不可欠なのである。教育、扇動、そして組織化として、労働階級は資本主義の覇権に立ち上がり、社会主義の大義を前進させることに必要な意識と連帯を発展させられるのである。

 

革命のための崇高(スウコウ)な闘争は労働階級の解放に献身する革命的な政党、すなわち「共産党」によって指導されなければならない。共産党は労働階級の前衛として機能し、資本主義との闘いにおいて指導し、指示し、団結のために組織を与える。共産党は完全に「労働階級」に根ざし、民主的な中央集権主義に徹し、社会主義革命の追求における行為の統一と戦略的明確性を確保しなければならない。結論として、社会主義革命というものは、抽象的な考えやユートピア的な空想ではなく、資本主義そのものの矛盾から生じる歴史的必然。資本主義が衰退と衰退の最終段階に入ると、世界の労働階級は社会を変革し、人間の解放の新時代を切り開くことのできる革命的主体として現れるであろう。集団行動、連帯と階級意識として、人民大衆は生産手段を掌握して協力、平等、そして民主主義の原則に基づく社会主義社会を確立できるであろう。賃労働の未来は、資本主義の下の搾取の永続ではなく、抑圧と搾取のない世界を求める革命的闘争の中にある。