第三章

 
 

一、共産主義とはどういう意味なのか?

 

共産主義は、労働者階級の解放に必要な条件に焦点を当てた包括的かつ革命的な教義である。あらゆる財産と資源が共同所有され、各人がその能力と必要性に応じて社会に貢献し、社会から利益を得る、無階級社会の実現を目指す政治的及び経済的イデオロギーである。共産主義の核心は、資本主義体制に内在している不平等や不正義に対処し、これを根絶することにある。資本主義社会では生産手段(工場、土地及び企業など)の私有化によって、富と権力が少数の手に集中する。その結果、労働者は生産した商品やサービスの価値よりも低い賃金しか得られず、搾取されることになる。

 

共産主義は、こうした格差をなくすために、社会の抜本的な再構築を提案する。これには、私有財産、特に生産手段を廃止し、共同所有に移行することが含まれる。共産主義社会では、共同体全体が資源や生産設備を所有及び管理し、生み出された富があらゆる構成員に公平に分配されるようにする。共産主義の基本原則の一つは、それぞれが自分の能力に応じて社会に貢献し、必要に応じて社会から恩恵を受けるべきだという考え方である。すなわち、社会的及び経済的地位に関係なく、誰もが食料、住居、教育や医療と言った基本的な生活必需品を手に入れられるという。その目的は、個人が経済的搾取から解放され、個人的及び集団的な幸福を追求できる社会を作ることである。

 

このビジョンを達成するために、共産主義者は革命的変化の必要性を信じている。これには、既存の資本主義体制の打倒と、労働者階級が政治権力を握る過渡的な社会主義国家の樹立が含まれる。この期間中、国は資本主義構造を解体し、完全な共産主義社会への移行を促進する措置を実施する。やがて階級の区別がなくなり、共同所有が当たり前になると、国家そのものが衰退し、無国籍及び無階級の社会が到来する。歴史的に共産主義は様々な運動や革命と結びついており、特にカール・マルクスと我フリードリヒ・エンゲルスの著作に触発されたものが多い。我々の代表作『共産党宣言』は、共産主義の理論的基礎を概説し、労働者階級が団結して資本主義体制を打倒するよう呼びかけている。

 

二、労働階級とはどういう意味なのか?

 

「労働階級」とは、生計を立てるために労働力を売ることだけに頼っている、社会内の特定の階級を指す言葉。資本を所有し投資することで収入を得る類の「資本家階級」とは異なり、この労働階級は賃金を得るために働く能力だけに依存している。彼らの幸福、生存、そして存在そのものが、経済における労働の需要に直接結びついている。このことは、あらゆる労働階級の運命が、資本主義体制における経営状況の変動や競争の予測不可能な性質と密接に結びついていることを意味する。もっと簡単に言えば彼らは工場、畑、事務室などの、様々な産業で賃金を得るために働く個人を構成している。彼らは機械を操作し、サービスを提供し、経済を前進させる商品を生産する類の人間なのである。

 

しかし、生産過程において不可欠な役割を担っているにもかかわらず、彼らは通常、生産手段に対する所有権も支配権もほとんど持っておらず、賃金と引き換えに労働力を資本家に売らなければならない。あらゆる労働階級の生活は、不安定で不公正な資本主義の経済力によって形成される。彼らの収入、雇用の安定、そして全体的な幸福は市場の力の気まぐれに左右され、繁栄の時期もあれば苦難の時期もある。この脆弱性は労働階級、そして生産手段を支配し労働者の労働から利益を得る資本家階級との間の力の根本的な不均衡を浮き彫りにしている。

 

現代(19世紀)を通じて、賃金をもらうことで生きている「労働階級」という人間は産業革命後に出現した大量の産業労働者を表している。これらの人々は工場や都市中心部で働き、工業化社会の屋台骨を形成した。より良い賃金、労働条件、権利を求める彼らの闘いは、この時期に生まれた労働運動や社会主義イデオロギーの中心となった。本質的に労働階級は、一定の労働として資本主義的な経済体制に燃料を供給しつつも、屡々既存の社会秩序の中で搾取され、疎外されていることに気付く労働大衆を体現している。あらゆる労働階級の役割と苦境を理解することは、階級対立の原理と、資本主義社会に内在する不平等に対処しようとする社会主義的運動の願望を理解するために不可欠である。

 

三、そうなら労働階級は、いつも存在していなかったのか?

 

それは違う。歴史の中で、いつも貧しい人々や労働階級が存在してきた。貧困にあえぐ労働階級はいつの時代にも存在したが、今の形のような「労働階級」を特徴づける特殊なことは、人類の文明から見ると普遍的なものではなかった。もっと簡単に言えば、現代の工業の社会で見られる労働階級と言われる、工場とかで働く類の人間が常に存在していたわけではなく、自由で奔放(ホンポウ)な競争の環境が常に優勢であったわけでもない。歴史から見ると、社会は「奴隷制」から「封建制」、そして初期の資本主義に至るまで、様々な形の経済組織を中心に構成されてきた。こんな様々な社会の体制では、屡々過酷な条件と制限された権利の下で自分を、両親を、子女などを守るために労働を行う個人が確かに存在した。

 

しかし、今読者が理解するような「労働階級」という特定の階級は、18世紀から19世紀にかけての工業化と資本主義の台頭によって出現したのでった。産業革命は生産組織、労働関係、社会構造に前例のない変化をもたらし、人類史の重要な転換点となった。産業が段々機械化され、工場に生産が集中したことで、「賃金労働者」という新たな階級が出現した。労働階級とは、職人としての小規模な環境で独立して働く代わりに、大規模な工場や特定の企業で働くようになった人々のことである。この「労働階級」が働く条件は、長時間の労働、低賃金、そして屡々危険な環境であった。彼らは生産手段の所有権や支配権を持たず、利潤の最大化を目指す資本家の雇用主の気まぐれに左右された。産業が代表的な「資本主義」が拡大するにつれ、労働階級の層も厚くなり、何百万の労働者が雇用を求めて都市部に集まった。

 

産業革命による資本主義の台頭は、「自由奔放な競争」という新しい現象ももたらした。ギルドや封建領主が人間の経済活動を統制していた過去の規制市場とは異なり、資本主義的の経済は競争と利潤最大化の原則に基づいて運営された。そういうわけで、屡々資本家間の酷くて、冷酷な競争が繰り広げられ、賃金が引き下げられ、搾取が増大して、大半の労働階級の苦境は悪化してきた。史上にとって、経済的苦難に直面する労働階級や個人は常に存在したが、産業資本主義の下で暮らす「労働階級」という類の特殊な環境は、比較的最近のことなのである。労働階級の出現と自由競争の普及は資本主義の台頭と、それが社会にもたらした大きな変革と密接に結びついているのであった。

 

四、労働階級はどうやって生まれたのか?

 

産業革命の時代、すなわち18世紀の後半にイギリスで生まれたものが労働階級である。それ以降、この産業革命は世界中の文明国に広がって、労働階級を誕生させた。この産業革命は蒸気機関、様々な類のの紡績(ボウセキ)機、織機などの発明によって引き起こされた。これらの機械は非常に高価であったので、巨額を持っている資本家だけが買えた。そうして生産の方式は変わり、かつての労働者を機械に置き換えた。それから人間の地位は下がったのである。その結果、これらの機械は労働者の効率の悪い紡績車や手織り機で生産される商品よりも、安くて優れた商品を生み出した。

 

機械は産業を完全に巨額を持っている資本家に権限を渡せ、労働者の貧弱な財産ーすなわち道具とか織機などーを無駄にした。その結果、資本家はすべてを手中に収め、労働者には何も残らなかった。これが工場の制度が織物業に導入された印である。機械と工場の導入の刺激が与えられると、この制度はすぐに他の産業にも広まってきた。特に布地や書籍の印刷、陶器、そして金属の産業に及んだ。労働は益々個々の労働者に分かれ、以前は一つの作業を行っていた労働者が、その作業の一部しか行わなくなった。この分業により、物事をより速くて安く生産することが可能になった。これにより、個々の労働者の活動は単純であり、繰り返しの機械的な動作に限定され、それらは機械でも同様に、むしろ良く行うことができた。こうして、これらの産業は紡績や織物業が既に行われたように、次々と蒸気、機械と工場の制度の支配下に置かれた。

 

しかし同時に、これらの産業は巨大な資本家階級の手にも落ち、労働者は自らに残された僅かな独立性を失ってしまった。徐々に純粋な製造業だけでなく、その資本家階級によって手工業も工場のカテゴリーに入って行った。これは、多くの費用を節約し、労働の分業を許可する巨大な作業場を設立することで、小規模な職人を資本家階級が置き換えられるようになった結果なのである。これにより現代の文明国では、ほぼすべての類の労働が工場で行われるようになり、ほぼすべての作業の分野で、手工業や製造業が置き換えられた。この過程は旧中間階級、特に小規模な職人達を益々破滅させ、労働への労働者の状況を完全に変えた。そして、他のすべての階級を徐々に呑み込んでいく二つの新たな階級が生まれた。

 

まず一番目は、ほぼすべての文明国で、生活手段やその生活手段の生産に必要な道具(機械及び工場)と材料をほとんどは独占的に持っているものは、いつも巨額を持っている資本家階級である。これは「ブルジョアジー階級」とも言える。または「ブルジョアジー」とも言える。そして二番目は、完全に無産であり生存のために「ブルジョアジー」に労働力を売るしかない者の階級のことである。これを労働階級、すなわち「プロレタリアート階級」と言える。または「プロレタリアート」とも言える。称したい通りに称せよ。変わらないことは、資本家階級と労働階級は過去から対立してきたのである。

 

五、資本家階級への労働力の販売は、どんな条件で行われるのか?

 

労働階級が資本家階級に労働力を売ると、それは彼らがどれだけ稼ぐかに影響を及ぼす特定の条件の下で行われる。労働を何か、例えば食べ物や生活必需品を買ったり売ったりする時の「商品」であると考えてみよう。この「商品」の価格、すなわち労働者の賃金は、他の商品の価格を決定するための同様の法則によって決まる。さて、大規模な産業が支配するか、或いは企業間の競争が激しい体制では商品の価格は普通、それを作ることにかかる費用と同じであることが多い。同様に労働の価格、すなわち労働者が支払われる額も、ただ労働者が生活を維持し、生きて「働き続けるために必要な費用」に基づいている。資本家にとって、労働者というものは人間の形をしている「ただの機械」に過ぎない。

 

これから労働者のことから考えてみよう。では彼らにとって、これはどういうことなのであろうか?それは、彼らが基本的な必需品を賄(まかな)うために十分なだけの報酬を受け取ることを示す。これを「賃金」と呼ぶ。しかし、ビジネスは時には良くなったり悪くなったりするので、労働者は仕事への報酬が時には増えたり減ったりすることがある。平均的には、彼らは生活費を賄うだけの額をもらうことが多い。この賃金の経済的な法則は、特に大企業が支配するところでは厳格である。これらの大企業がほとんどの生産を支配する場合、法則はさらに厳格になり、労働者は生存に必要な最低限のものしか受け取らないようになる。従って、一人の労働者が自分の労働力を売る条件は、彼らが「いくら稼ぐか」を決定する上で重要な役割を果たし、これらの条件は屡々労働者と経営者の間の「利害関係」によって形成されるのである。

 

六、産業革命の以前には、どんな労働階級があったのか?

 

産業革命以前、社会における労働階級は、当時の経済や社会の状況によってさまざまな立場にあった。古代の文明、例えばエジプト、ギリシャ、またはローマでは、労働者は「奴隷」として生きることが多かった。これらの人は「主人」の所有物と見なされ、彼らにはあまり権利も自律もなかった。当代の労働者は田畑、鉱山や家事に従事しつつ、主人の要求や気まぐれに対応することを強いられた。奴隷制は社会に深く根ざし、物質の生産や支配階級の富の礎(イシズエ)となっていた。中世に入ると労働関係は変わったが、労働階級は様々な形の隷属(レイゾク)に直面し続けた。

 

ヨーロッパの諸国は、奴隷制から離れて「封建制度」の社会へと移行した。ここでは農奴制が主要な制度となった。農奴は働いた土地に縛られ、自分の生計を立てるために労働力を与え、代わりに領主から保護を受け、少しの土地を耕作(コウサク)する権利を持っていた。この仕組みは奴隷制よりは圧倒的に軽いが、農奴の(移動を含めた)自由は制限され、依然として封建領主に生計を依存していた。一方で急成長する都市では、別の労働階級が現れた。それは「職人」である。これらの熟練した職人の人々は、通常の職人はギルドの中で主人の監督下で働いた。職人は規則や労働条件を規制するギルドの組織内で、修行を積み自分の技術を磨いた。職人はその専門知識を通じて働き、屡々都市から都市へと移動し、雇用の機会やさらなる教育を求めた。しかし、彼らは依然として主人の下で従属的な地位にあり、賃金、労働条件、職業の昇進に関するギルドの規則と規定に従う必要があった。そして製造業への移行は、労働階級にとって重要な転換点となった。

 

機械化と工場への生産の台頭により、職人は新たな産業労働階級に取り込まれた。蒸気機関、または後に登場する電力で動く工場は生産を集約化し、資本家が大規模な労働力を利用することをできるようにした。これらの労働者は過酷な条件の下で長時間働き、監督の目の届くところで単調な作業を行っていた。この変革は経済の景観を変えるだけでなく、社会構造を再定義し、産業化が階級対立という新たな概念と権力の構造を生み出す原動力となった。要するに、産業革命以前の労働階級は、奴隷制や農奴制から熟練した職人や見習いまで、多様な労働関係の複雑な網を通じて社会を歩んでいた。これらの多様な役割と関係は、史上の労働者の生活における経済的及び社会的構造の深い影響を示していたのである。

 

七、労働階級と奴隷の違いは?

 

労働階級と奴隷の違いは、それぞれの経済的・社会的条件および解放への道筋にある。どちらも労働を搾取される類の人間であるが、その経験や自由への見通しを形作るいくつかの重要なところで異なる。まず、労働の取り扱い方が異なるところである。奴隷の場合、彼らは主人に完全に所有されており、その労働と生活は日々交渉なしに管理されている。それに対して、労働階級は労働力を競争市場で日々、或いは時間単位で売らなければならず、常に雇用を探す必要がある。この絶え間ない仕事探しの必要性が、奴隷の安定した存在に比べて労働階級の不安定と不確実を強調している。しかし、労働階級は資本家階級に「所有」されていない。すなわち、資本家階級は労働階級の一挙手一投足を管理できない。

 

奴隷と労働階級の社会的地位と扱いも全く異なる。奴隷は厳しい条件や虐待に耐えることもあるが、一種の「財産」として扱われるので、主人の利益のために一定の保護や生活の保証がある。しかし一方で、近代から現代までの労働階級は上記の通りに個々の資本家に所有されるわけではなく、彼らの労働が「必要とされる時にのみ」雇われる。従って、資本家階級は労働階級の生存を良く保障してくれない。この個々の所有や保護の欠如が、労働者という階級を経済の変動や搾取へ脆弱にしているのである。さらに、競争に対する関係も「古代の奴隷」と「今の労働階級」を区別する要因である。奴隷は競争市場の外にあり、その労働は専(もっぱ)ら主人の意志によって決まる反面、労働階級は資本主義体制の競争の原理に巻き込まれて、雇用を確保し、賃金の変動や仕事の不安定さと戦わなければならないのである。

 

これらの違いにもかかわらず、今の労働階級と古代の奴隷は、共通の解放の闘いを共有している。奴隷は「奴隷制の廃止」を通じて、遂に労働階級の地位に移行することで自由を獲得できる。一方で、労働階級は「私有財産や階級の違いによる差別や搾取を廃止」することで解放を目指している。従って、たとえその解放の道筋は異なっているとしても、両者は究極的にそれぞれの社会的地位を定義する搾取的及び抑圧的な体制を克服することを求めていると言える。

 

八、労働階級と農奴の違いは?

 

封建制度から生まれた「農奴(ノウド)」は伝統の封建領主から与えられた土地を所有し、そこで作物を栽培したり他の生産的労働に従事していた。この土地の使用権と引き換えに、農奴は生産物の一部または労働サービスの一部を地主に提供しなければならなかった。この仕組みは、農奴が経済的に土地と領主に結びつき、封建制度の農業経済の基盤となっていた。一方で労働階級、またはプロレタリアートは生産手段を所有しておらず、これらの資源を管理する個人や団体のために働いている。彼らは資本家が提供する道具、機械、そしてインフラを利用して、製品の製造やサービスの提供などの生産活動に従事している。農奴とは異なり労働階級には土地や財産がなく、生計を立てるために労働力を売る必要がある。この賃労働に依存することが、労働階級の資本主義社会内での経済的関係を特徴づけている。

 

さらに、「農奴」と「労働階級」の違いを明らかにするには、彼らの経済的及び社会的の状況をより深く検討する必要があると思われる。農奴は土地を得ることから、生計に対して一定の安定感を持っている。封建制度の下では、土地の利用権が農奴にとって生活手段を提供して、日常生活に安定感をもたらしている。一方で労働階級は、雇用を確保することによって生計が左右されるので、そんな保証なんてはない。彼らの賃金を稼ぐ能力は、市場の状況の変化や労働の需要、労働者間の仕事の競争に左右される。農奴と労働階級のもう一つの顕著(ケンチョ)な違いは競争市場との関係。農奴は普通、封建的な取り決めに基づく閉鎖的な経済内で活動しており、土地所有権や労働の義務が封建的階層内で予め決められている。そういうわけで、農奴は広範な市場経済の競争的圧力から隔離されている。これに対して、労働階級は直接的に競争的の労働市場に夢中になり、仕事や賃金を確保するために他の労働者と競争しなければならない。この市場の制度への露出は、労働階級の生計の不安定性を作り、経済の変動への脆弱(ゼイジャク)性を浮き彫りにする。

 

解放の戦略に関しては、農奴と労働階級は自己の自立を主張し、経済的及び社会的環境を改善するために異なるアプローチを取る。まず農奴は、都市に移住して職人とかの職を持って独立した生計を立てるか、または地主に賃金や料金を支払って借地人の地位を得ることで、封建的束縛から解放されようとすることがある。より過激な想定で、農奴は蜂起(ホウキ)として封建領主を打倒して、土地所有権や自己決定権を得ることを主張することがある。この理解を深めるには、歴史的文脈や社会の複雑さに目を向けることが不可欠なのである。過去の社会の制度や労働の形が、現代の社会構造や経済関係にどのように影響を与えてきたのかを理解して、労働階級の役割や解放のための戦略がより明確になるのである。

 

九、労働階級と職人の違いは?

 

「労働階級」と「職人」との違いは、経済的の役割と上昇の機会にある。職人、または職工としても知られる者は、歴史から見て、自分の道具や時折は小さな作業場を所有していることが普通であった。彼らは独立して作業し、または数人の見習いと共に働き、究極的には資本を蓄積(チクセキ)し他の労働者を雇うことで、実質的に小規模な事業主となるか、または中流階級に入れる。従って、職人は資本家自身になるという目標を持っているので、資本と独立を得ることと関連している。これは「資本家自身になることを目指している」職人と、「自分の労働を売り払わなければならない」労働階級とを区別する。職人がこの目標を達成する可能性が高いものは、ギルドが依然として存在している地域や時代である。

 

ギルドは各種の職人の利益を保護し、競争を制限する組織で、これにより職人は独立した地位を維持できる。しかし、労働の機械化及び大規模な工場の台頭に伴い、状況は劇的に変化してきた。工場の最先端の生産方法が広がって競争が激化するにつれて、職人が競争できるようになるのが益々難しくなったのである。大規模な工場は、より安価かつ効率的に商品を生産することができ、多くの小規模な職人を追い出してしまった。こうなると、多くの職人は自らの独立した作業場を維持することができないので、結局は「賃金労働者」として生き延びるしかなくなり、実質的に彼らは労働階級の一員に加わることになってしまう。職人にとって、この移行は社会的及び経済的地位の重要な変化を表している。彼らは上昇の可能性を持つ独立した生産者から、生存のために労働力を売らなければならない労働者へと移行する。

 

この過程は伝統の労働や生活の方法が、競争の激しい資本主義の経済のニーズによって変化することを反映している。職人が自由を求める方法も異なる。もし彼らが自分の仕事で成功して十分な富を蓄積することができれば、彼らは資本家階級や中流階級の一部として進化できる。しかし競争が彼らを圧倒すると、彼らは労働階級になってしまう。この場合、彼らの解放への道筋は労働階級のそれと一致し、資本主義の制度を打倒して、生産手段が共有される社会を作り出すことしかない。彼らは屡々、共産主義的の理想と関連付けられる労働運動に参加することになる。要するに、労働階級と職人は皆「労働階級」のカテゴリーに属しているが、職人は経済的に上昇する機会がより多かった歴史がある。しかし、機械化の台頭により、多くの職人が労働階級に追いやられ、他の労働者と同様に苦闘や解放への潜在的な道を辿るのである。

 

十、労働階級と織工の違いは?

 

労働階級と織工の違いは、特に16世紀から18世紀にかけてのものを考えると、産業化が労働階級をどのように変えたのかを理解する上で重要である。まずは、産業革命以前の職工について調べてみよう。こんな類の労働者は屡々自分の道具を所有し、時折は小さな土地すらも持っていた。例えば織工は自分の織機を持ち、紡績工は家庭用の紡ぎ車を使い、多くの人は余暇に自分の田畑で農作業をしていた。この所有権は彼らにある程度の独立性と、自分の仕事や生活への確実な統制権を持っていた。それに対して、今の労働階級はこれらの道具や資源すらも持たず、完全に雇用主に依存しているので、ただ自分の労働力を売りつつ生きていかなければならない人間なのであった。

 

次に、職工は生活環境と雇用主との関係も全く異なっていた。これらの職工は普段は田舎に住み、地主や雇用主との間にある程度の「家父長的な関係」があった。これはすなわち、彼らの関係は「純粋に経済的なもの」ではなく、相互の「義務やコミュニティの感覚」が存在したのである。それに対して、労働階級は主に都市に住み、雇用主との関係は完全に経済的なものである。労働階級はただ賃金を得るために働き、仕事が終われば雇用主との関係も終わる。この現金を基づいた関係は個人的でなく「取引的なもの」に感じられる。さて、職工が労働階級になってしまう過程について考えてみよう。この変化は機械による産業革命の到来によって起こった。工場や大規模な産業が段々成長するにつれて、多くの労働者が依存していた小規模な製造の道具は機械に置き換えられた。この産業の成長は職工を伝統の家父長的な関係から引き離し、彼らが所有していた小さな財産や道具すらも失わせた。職工という類は工場での生産の効率と低い費用に対抗できなかったためである。時間が経つにつれて、これらの労働者は新しい工場での仕事を求めて都市に移り、結局は労働階級となった。

 

この変化は職工の生活に深刻な影響を与えた。かつて彼らが持っていた安定性と(相対的な)独立性は、競争の激しい市場での賃労働の不確実性に取って代わられてしまった。彼らは自らの仕事にある程度の統制権を持っていたままから、完全に市場の需要に左右される雇用、そしてその雇用主に依存するままへと変わった。この変化は彼らの経済的状況だけでなく、社会的地位やコミュニティの感覚も変えたのであった。要するに、労働階級と職工の主要な違いは道具や土地の所有、雇用主との関係の性質、そして産業化の影響にある。過去の職工はより独立しており、それなりに雇用主との個人的な関係を持っていたが、今の労働階級は完全に賃労働に依存し、雇用主との関係は現金に基づいた取引的なものに過ぎない。職工から労働階級への移行は人間が個人の財産を失い、新たな産業で仕事をするために田舎から都市へ移ることを示し、これが彼らの生活と社会的地位に中々変化をもたらしたのであった。

 

十一、産業革命や、資本家と労働者との分裂の即時的な結果は?

 

産業革命と社会階級の分裂(ブルジョアジーとプロレタリアート)の即時的な結果は、非常に深遠で広範囲にわたるものであった。この影響を理解するために産業、社会、そして政治の変化に焦点を当てて一つずつ見ていこう。まず、機械での労働の導入により、商品の生産費が劇的に下がった。これは、工場で機械によって作られた製品が、手作業で作られたものよりも遥かに安くなったことを示す。その結果、伝統の手工業や小さな工房は工場生産と競争できなくなった。この変化はヨーロッパだけでなく世界中に広がった。例えば、インドや中国のように長い間も手工業に依存していた国々は、安価なヨーロッパ製品を受け入れざるを得なくなり、彼らの伝統の産業は崩壊した。従って、何千年も進歩のなかった国々が急激に変革され、インドのような国では伝統の産業が消え、社会全体が大きく変わったのである。

 

次に、大規模な産業の発展により、資本家階級は非常に裕福で強い存在となった。彼らは工場や生産手段を所有することで資本(お金や資源)を蓄積した。経済力が増すと共に、彼らは政治的権力も求めることになった。多くの国で資本家階級は、以前から土地や政治的権力を握っていた貴族階級などに挑戦した。資本家階級は「自由競争」を主張し、必要な資本を持っていれば誰でも商業活動に従事する権利があると言った。特権を撤廃するようにしたわけで、彼らは進歩的であった。この考え方はギルドや貴族の特権のような旧制度を撤廃することに役立った。自由競争と大規模な産業の台頭により、社会の富の不平等が拡大した。資本が最も重要な要素となり、資本の持つ者が経済的にも政治的にも支配するようになった。

 

資本家階級は、君主が憲法に権力を制限される「立憲君主制」のような政府の体制を確立したが、そこで資本の持つ者だけが投票権を持ち、公職に就くことができた。これにより、国の法律や政策は「資本家階級の利益を優先」するように作られたのである。三番目に、資本家階級が段々裕福で強力になると同時に、労働階級も人口と重要性を増していった。上記の通りに、労働階級は生産手段を持たず、生活のために労働を売る必要がある労働者のことである。工場や機械での労働の拡大により仕事が増えたが、それは多くの人々が「賃金に依存」することを示した。これらの仕事は多くの場合、低賃金で過酷な労働環境で行われていた。資本家階級が資本を増やすにつれ、彼らは生産量を増やすためにより多い労働力を必要として、労働階級の数も増加した。大規模な工場や都市に労働者が集中することには、重要な社会的影響があったのである。

 

これらの労働者は、自分達が「共通の利益と問題」を持つ独立した階級であることに気付き始めた。大勢が一箇所に集まって生活し働くことにより、労働階級は自分達の力を自覚するようになった。この意識の高まりは、労働環境や賃金への不満の増加とともに、労働者間の連帯感を育んだ。労働者が自分の搾取に段々気付くと、彼らはより良い環境を求めて組織し始めた。これにより、社会運動や「プロレタリアート革命(社会主義革命)」を推し進める動きが生まれ、資本主義体制を打倒して、全ての労働者に公平な待遇と平等を確保するための社会を作り出すことを目指したのである。まとめると、産業革命は商品を生産する方法と社会構造に中々変化をもたらした。それは伝統の手工業の衰退(スイタイ)、資本家の支配階級としての台頭、そして労働階級の数と影響力の増大を引き起こした。これらの変化は、労働者が新たな資本主義体制の不平等と不正に挑戦しようとする重大な社会的及び政治的な動揺の舞台を整えたのであった。

 

十二、産業革命がもたらした付随(ふずい)的な結果は?

 

産業革命では、蒸気機関などの新たな技術が導入され、工業の能力が大幅に向上してきた。これらの革新によって、商品の生産がより迅速(ジンソク)かつ安価に可能となった。生産が簡単で安価になると、多くの資本家階級の人が利益を得るチャンスを見出して、様々な産業に参入した。これにより彼らの間に激しい競争が生まれた。しかし、益々多くの商品を生産し続けることにより、重要な問題が生じてしまった。どういう意味か、工場は人々が必要とする以上の商品を作ってしまったのであった。この状況では企業は商品を売ることはできず、商品が余り過ぎるという商業的危機が起こった。

 

こうした危機の際には、工場が屡々閉鎖されて利益が出ないので倒産することがあり、その結果で労働者は自分の職を失い、収入を失い、広範な貧困と苦しみが広がってきた。こうした商業的危機は一度きりではなく、経済の「周期の一部」となった。危機の後、余剰な商品が売れ、工場が再開して人々は再び仕事を得るようになった。この経済の回復期には屡々ブームが訪れ、ビジネスは過去よりも良くなり、賃金も上がった。しかし必然的に、工場は再び「過剰生産」を始めて、別の危機が発生することになった。このブームと不況のサイクルは、おおよそ5年から7年ごとに繰り返された。労働者にとって、このサイクルは非常に厳しいものであった。危機の時には失業と貧困に直面し、好況の時期でも次の危機への恐れが常に付きまとった。

 

こんなに不安定な経済的状況は、多くの苦しみや不安を引き起こした。しかも、これらの頻繁(ヒンパン)な危機は屡々社会的不安や革命的運動を引き起こした。人々は、こんな苦難を引き起こす体制に不満を抱き、変革を求め始めた。この果てしない変動とそれに伴う苦難は、社会の安定と既存の社会の、経済の秩序への脅威を示した。まとめると、産業革命は機械での生産を変革する新たな技術の開発をもたらしたが、過剰生産と商業的危機のサイクルを生み出した。このサイクルは労働者にとって中々苦労をもたらし、彼らは失業や貧困に直面した。これらのサイクルによって引き起こされる不安定性は、社会的不安や変革の要求を引き起こして、産業化が社会に及ぼす深い影響を浮き彫りにしたのであった。