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十三、繰り返される商業的危機がもたらす結果は?

 

商業的危機が周期的に起こる影響を掘り下げると、我々が生きている世界の経済構造の本質とその変貌の可能性についての深い洞察を得られる。初めに、大規模な産業がまだ芽生えの段階にあった頃は、自由競争の枠組みの中で繁栄を極めてきた。この環境は活力を生み、革新を引き起こして、成長を促進したのであった。しかし時間が経つにつれて、いきなり状況は変わり始めた。かつて進歩を助長した要因が、もはや進歩の妨げとなり、競争の精神が産業を前に推し進める力としてではなく、その進化の障害となっているのであった。生産の個人主義的な組織形態、それはかつて効率の象徴であったが、今では大規模な産業の潜在した能力を制約するものとなってしまっている。大規模な産業を持続させ、さらに進展させるためには、この現実に直面し、「時代遅れの枠組み」からの解放を求めなければならないのである。

 

さらに、これらの危機が持つ周期性を認識することは不可欠。7年ごとに経済の激動が社会の構造に波紋を広げる中、社会は混乱の瀬戸際(セトギワ)に立たされる。これらの危機は単なる経済的後退以上のものであり、労働階級に苦難をもたらし、資本家階級の大半に混乱を引き起こす。この影響は一時的なものではなく、文明の礎そのものを脅かすほどに広がりを見せる。すなわち、これは「持続不可能な現状」を維持し続けるか、或いは社会の再建へと向かう変革の旅に出るかという、最も重要な選択を迫られることを示しているのであった。しかし、これらの挑戦の中にも希望の光が見える。大規模な産業によって可能となる生産の広がりは、社会の豊かさの新たなビジョンを示している。読者よ、想像してほしい。資源の不足は過去の物語となり、全個人が制約もなく自分自身の潜在した能力を最大限に発揮できる世界を。このビジョンは現代の混乱の坩堝(ルツボ)から生まれたものであり、我々の経済体制が持つ変革の力を垣間見せてくれる。

 

究極的に我々の社会を苦しめる危機は、人間にとって変わらないことではなく、時代のニーズから逸脱した社会構造から生じているもの。しかし、この時代遅れの社会の中には楽観の種が含まれている。集団的な計画と包摂(ホウセツ)的な統治を前提とした枠組みの転換を受け入れることによって、今の我々が直面している制約を超えて、恒常(コウジョウ)的な危機の幽霊から解放された未来を築ける。新たな道を定める力は、資本家階級でなく労働階級の団結した力にある。それは全個人の天賦(テンプ)の尊厳を尊重し、世代を超えて繁栄する社会を育むことを目指すのである!

 

十四、この社会の新たな秩序はどんな様子なのか?

 

我々が描いたこの新たな秩序の特徴を考えるにあたり、産業及び生産の組織と管理の根本的な再評価に取り組むことになる。これは個々の行為者が生産の様々な分野を制御(セイギョ)するために死闘を繰り広げる現行の社会からの脱却を示している。むしろ、社会全体がこれらの生産の分野を共同で監督し、指導する責任を負う体制として転換することが必要であると思われる。この共同の監督は利己心や個人の利益に基づくものではなく、むしろ「共通の利益」を核として機能する。生産にとっての全側面が社会全体のニーズを満たすようにすることである。これは包括的な計画によって導かれることであり、社会の共同の願望と優先事項を反映している。重要なことは、この体制が社会の全人民を積極的に参加させ、彼らの意見が検討するか受け入れ、意思決定の過程において人民のニーズが考慮されることなのである。

 

要するに我々が求める変革は、現在の産業活動を支配している「激しい競争心」を廃止することを必要とする。競争は、屡々革新と効率の促進要因として持ち上げられるが、激しくなったら結局は「分断」と「不平等」を生み出す。この競争の社会からの脱却し、協働の文化を受け入れることによって、より調和の取れた公正な社会の礎を築ける!我々共産主義者は全人類の幸福が「階級の撤廃」に関連していることに気付いており、真の進歩は一方が他方を打ち負かすことではなく、集団の努力と相互の支援によって達成されることに気付くことである。さらに、「産業の個別の管理」と「私有財産の概念」との間の密接な関連性を認識することが重要。現行の体制では、産業の所有及び管理は「選ばれた少数」の手に集中している。すなわち、私有財産を持っている者、資本家階級なのである。その結果、競争はこの仕組みの自然な結果となり、各所有者が他者を犠牲にして自己の利益を最大化しようとする。この搾取と不平等のサイクルから解放するためには、その礎の「私有財産」を消滅させる必要がある。代わりに、我々は資源の共同の所有と産業の共同の管理を提唱する。

 

これにより、生産の利益が特権を持っていた少数者に不均等に集中するものではなく、社会の全人民と公平に共有されることが保証される。明白に「私有財産の廃止」ということは、社会の変革の中核となる要素。これは資源と(工場や農場での)生産の制御権を社会の集団に再分配することを示し、私的な富の蓄積の確立した概念に挑戦することで、より公正で包括的な社会の道を築くものである。私有財産の廃止という要求は単なる政策の提案ではなく、体系的変革のための叫びであり、共同の所有及び繁栄の原則が最高の権威である共産主義の革命的精神と世界の求道に包括されている。

 

十五、過去には私有財産の撤廃ができなかったか?

 

そうである。私たちが歴史を振り返ると、私有財産の廃止が過去の時代、例えば古代のエジプトや中性のドイツには実現不可能であった理由が分かってくる。社会の秩序の変化や財産関係の革命は、生産力のための新たな道具の出現に伴う必然的な結果なのである。その新たな道具は、過去の財産関係に適応しなくなった時、急進的な変革を求める。まず、「私有財産が常に存在していたわけではない」ことへの理解がこれを分かることに重要である。中世の終わり頃には新たな生産の形が現れた。それは当時の封建制度や「ギルド」などの制度の下では運営できないものであった。機械を利用したこの新たな生産の形、すなわち製造業は旧財産関係を超えて新たな財産の形として、より高い水準の財産を要求した。「私有財産」を必要としたのである。この時期において、私有財産は唯一の実行可能な財産んp形であり、社会の秩序はそれに基づいていた。

 

歴史の流れからみると、社会階級の構成は発展の段階によって段々変化してきた。農業が主流であった中世には「領主」と「農奴」が社会に支配的であった。それから社会が進化するにつれてギルト長、職人、或いは日雇い労働者が登場した。さらに、17世紀には製造業の分野で働く労働者が増え、19世紀には「職工」と「労働階級」が現れた。しかし、これらの変化にもかかわらず、当時の生産力はあらゆる人のニーズを満たしたり、さらに成長のための余剰を生み出せたりする段階には達していなかった。それが産業革命以前の世界で、ロマンはなかった。この制約が、社会の資源を管理する支配階級、そして抑圧される労働階級、すなわちプロレタリアートの存在を続けさせてきたのである。

 

私有財産の支配が続く限り、生産力がさらなる発展することへの障害となってきた。ところが、大規模な産業の登場により、我々は新たな時代の入口に立っている。資本と生産能力は飛躍的に拡大し、将来的には無限の成長が約束されていた。しかし、この拡大は結局、工場での生産を特権の持つ少数者の手に委ねる結果となり、多くの人が労働階級の仲間入りをし、資本家階級、すなわちブルジョアジーの富が増加するのに比例して、労働者の状況は益々悪化していた。さらに、過去より生産力は発達し、生産の道具は容易に拡大可能であるので、それが資本家階級の最初の進歩の心の失って、ただの「搾取者」になってしまった今、その不均衡はこの社会の秩序をいつでも激しく乱す脅威となっている。そういうわけで、資本家階級が進歩的であり、階級の対立はなかった過去よりは、今の世界が私有財産の廃止はもはや単なる理想ではなく、絶対に必要なものとなっているのであった。階級の撤廃は単なるユートピアではなく、必然的な結果なのである。

 

初期の人類には階級がなかった。たとえ序列はあったとしても、その序列が詳細に細分化されてはいなかった。私有財産の概念がなく、皆が平等に資源を所有した。事実上そうするしかなかった。資源が極めて足りなく、科学技術も皆無であった時代である。従って、人間が生き残るためには共有が必須であった。この「資源」というものは生産道具と生産物(採集、狩猟、そして漁労などの労働の結果)である。 誰かが資源を持っていなければ、それは集団の存立に直結したので、搾取することは不可能であった。生産力が低くて余剰がなかった時代なので、分配の必要性も感じられなかった。自然に平等であった。しかし人類が定着し、農作業を始めた日から「私有財産」と「階級」が生まれた。そして搾取の概念も生まれた。これをマルクスは「原始共産制」と言った。共産主義はこの原始共産制の末裔で、階級的対立が消えると再び実現できると信じた。

 

十六、私有財産を平和的に撤廃できるのか?

 

我々共産主義者は、私有財産の平和な廃止が可能であると望ましいと思っており、そのような移行に断固として賛成している。我々は社会的正義と平等の熱心な支持者であり、革命によって生じる混乱や動揺から無数の命を救うために、より公正な社会への平和な進化が重要であると思っている。さらに、我々は秘密の陰謀や計画が効果的でないだけでなく、実際には自らの目的を損なうことを理解している。我々は意義のある変化をもたらすことに必然的な、集団の行為や地元の運動の力を信じている。労働階級の連帯と結束を促進することで、我々は社会の変革のための無限な力を創り出そうとしている。

 

しかしながら平和な変化を願う一方で、我々共産主義者は、特に「先進国」と言われる国々において労働階級が直面している厳しい現実に切実に気付いている。歴史から見ると労働階級の進歩は、根強い権力の構造からの激しい抵抗に直面してきた。政府や支配層は、自己の利益と旧秩序を維持する欲求に駆られ、屡々暴力と抑圧を用いて、改革の試みを封じ込めてきた。この体制による労働階級への抑圧は特権を持っている少数の利益が、大衆の幸福よりも優先される既存の社会の秩序を永続させることに役立っている。読者よ、これが果たして「正しい」と思っているのか?こんな最悪な状況下では、労働者の権利と公正な扱いのための闘いは益々困難になり、平和な変化の道を妨げられている。

 

これらの課題を踏まえると、共産主義者は社会の正義への道が「いつもスムーズである」わけではないことを確かに理解している。平和な手段を好むにもかかわらず、労働階級が耐え忍んできた不正義が耐え難くなる瞬間が訪れるかもしれないと思っている。万が一、世界の労働階級が制度的な抑圧や搾取によって反乱の瀬戸際に追いやられた場合、共産主義者は彼らの解放のための闘いを支援する用意がある。さらに、共産主義者は革命の必然性が分かる際、歴史的な文脈の重要性を強調している。労働階級は革命が「選ばれた少数者」によって意図的または無作為に企てられたことではなく、長期間に渡る「不満」と「制度による外道の結果」であると主張している。社会主義革命は、不平等や抑圧と言った条件が時間をかけて蓄積され、結局変革が必要不可欠となることに達した時に生じるものである。

 

そういうわけで、我々共産主義者は平和な変化を起こせる手段が体系的に妨げられたり拒否されたりする場合に、「革命的」な動乱が起こってしまう可能性を考慮している。要するに、私有財産の平和的な廃止の可能性に関する共産主義者(我々を含めた)の見解は、変化への道の険しさを理解するための洗練されたアプローチを反映している。これは平和的改革の願望と根強い権力構造の厳しい現実との間の内在する緊張を考慮しているのであった。しかし、これらの課題に直面しても、共産主義者は労働階級の権利と利益を守るという揺るぎない決意を持っている。その一つは変わらない。

 

十七、私有財産は一気に撤廃できるのか?

 

それは違う。私有財産を一気に廃止することは不可能である。これは常識である。実際に、今の世界的に足りない生産力を一気に共同体の社会を支える水準まで引き上げることはできない。旧体制が定着した社会を変革することは困る過程なのであり、一夜にして成し遂げられるものではない。私有財産の廃止について話すと、それが段階的な過程であることへの理解は何よりも重要である。より公平であり、より平等な社会を目指す社会主義革命は、段階を踏んで進める必要がある。この革命は、労働階級が直面している即時のニーズと不平等に対処することから始まるのであった。

 

時間が経つにつれ、新たな社会が発展し、その生産能力が強化されることで、初めて私有財産の廃止という目標に近付けるるのである。この過程が「段階的」でなければならない主要な理由の一つは、生産手段ー工場、機械、道具、そして生産に必要な資源ーが今、完全な共同体の社会を支えることに十分な量で存在していないためである。今の体制では、これらの生産手段は個人の利益のために利用する「少数の私有者」によって管理されている。これを変革するためには、まずこれらの生産手段を拡大し、あらゆる人が利用できるようにする必要がある。労働階級による社会主義革命の初期の段階では、既存の資源をより公正に再分配し、労働条件を改善し、生産へのより民主的な管理を確立することに重点が置かれるであろう。このためには労働者階級のニーズに応ずるために法律、経済構造、そして社会の政策に大きな変更が必要となる。このような変化が根付くにつれて、社会は公正と共同の所有の原則に基づいて再編成され、国の生産力は徐々に増加するのである。

 

技術が発達するにつれて、そして生産手段がより広く共有されるにつれて、私有財産という制度の完全な廃止に向かうことが益々現実的になるのである。この移行は突然ではなく、経済的及び社会的条件の進化を反映するもの。共産主義者の目標は、資源と生産能力があらゆる人のニーズを満たし、私有財産の必要性がなくなる段階に達することである。結論として私有財産の廃止は、慎重な計画と段階的な実施を必要とする長期的な目標なのである。社会主義革命は、まず即時の不平等に対処し、共同体の社会のために必要な経済的な礎を徐々に構築していくことを目指している。このアプローチは移行が地球にとって持続可能であり、新たな社会があらゆる人のために十分な供給ができることを確実にする。

 

十八、社会主義革命の過程は?

 

何よりも、この革命は「より民主的」な憲法を確立するであろう。これが労働階級、すなわちプロレタリアートの直接または間接的な支配の礎となるはず。例えば、ヨーロッパのイギリスのような一部の国では、既にプロレタリアートが人口の大半を占めているので、ブルジョアジーがない支配の形は直接的なものとなるであろう。こうした国々では、労働階級が政府の実権をすぐに握り、自らの利益を反映した政策を実施する可能性が高い。一方で、フランスやドイツなどの他の国では、恐らく、支配は間接的なものとなるであろう。ここで、革命の多数派はプロレタリアートだけでなく、小作農及び小資本家も含まれている。

 

これらの集団は経済的困難や社会的地位の低下に直面することで、益々労働階級の一部となってしまっている。彼らの経済的安定性が揺らぐにつれて、彼らは政治的代表や支持を求めて、結局はプロレタリアートに頼るようになる。時間が経つにつれて、これらの小作農や小資本家階級は、自らの将来が労働階級の将来と直結されていることに気付き、その利益を一致させるはず。この移行は円滑にいかないかも、さらなる努力や闘争を必要とするかもしれないが、彼らが直面する経済的及び社会的圧力を考えれば、究極的にはプロレタリアートの偉大な目標を支持することがほぼ確実である。従って、革命はプロレタリアートが直接的にまたは広範な下位の階級の連合を通じて、初めて優位に立つのを見ることになるであろう。

 

しかし、資本家階級的な民主主義の団体ではプロレタリアートにとっては無価値である。それは即座に私有財産への措置を実施し、労働階級の生計を確保する手段として使用されなければならない。民主政府の樹立は最初の一歩に過ぎない。労働階級が真に利益を得るためには、民主主義はただの実質的な経済の変革を達成するための手段でなければならないのである。以前の状況とプロレタリアートのニーズから自然に生じた主な措置には以下のものがある。

 


 

  1. 累進課税と相続税の問題:私有財産の制限は、富裕層が貧困層に比べて所得に占める税金の割合を高くする「累進課税」によって達成される。これは世代を超えて受け継がれる富を減少させ、莫大な財産を蓄積することを防ぐ重相続税によって補完される。兄弟や甥(オイ)と言った担保による相続を廃止すれば、一部の家族への富の集中がさらに制限される。しかも、社会保障制度や公共インフラの資金調達のために富裕層に強制的な融資(ユウシ、国または個別の機関が個人の資金を借りる行為)が課され、社会全体に資源がより公平に再分配される。

  2. 国家所有と競争の問題:地主、実業家、鉄道王、船主の漸進的な収用は、国有産業と民間産業との競り合いと、国債(コクサイ)という形での補償の組み合わせによって実施される。あらゆる産業の国有化によって、これらの財産は「私利私欲」のためではなく、専ら「公共の利益」のために使われるようになる。国営企業が成長し、より効率的になるにつれて民間企業との競争に打ち勝ち、益々衰退していくであろう。一連の過程は、経済の混乱を最大限に避けるために徐々に行われ、国家が計画的かつ効果的に産業を引き継ぐことを可能にする。

  3. 革命の反対派への対処の問題:人民の大半の情操(ジョウソウ)に反抗する移民者や反逆者の財産は容赦なく全部没収される。すなわち、革命的変化から逃れるために国外に出る者や「反革命」的活動を行う者など、新たな秩序に積極的に反対する者に、財産を保持することは決して許されない。彼らの財産を没収することは反革命の勢力を弱体化させるだけでなく、国家が再分配し公共の利益のために使用するための新たな資源を提供するのである。

  4. 皆への雇用と賃金の問題:労働階級公有地、工場、そして作業場で雇用される。労働者間の競争は廃止され、あらゆる労働者が安定した雇用と公正な賃金を得られるようにする。残された工場主は、国家が支払う賃金と同程度の高い賃金を支払うことを義務付けられ、あらゆる労働者にとって公平で公正な生活水準が作り出される。これにより、民間の雇用主が低賃金を支払って労働者を搾取することができなくなって、全体的に良い労働条件が促進される。

  5. 労働の義務の問題:私有財産が完全に廃止されるまで、社会の誰もが働くことを義務付けられる。これには誰もが社会に貢献できるようにするため、特に農業に従事する「産業軍」の結成も含まれる。あらゆる人を生産に参加させることで社会はその資源を最大限に活用し、あらゆる構成員が共通の目標に貢献することを保証できる。また、この政策は経済の様々な部門で誰もが利用できる仕事があるので、失業や不完全な雇用の解消にも役立つ。

  6. 国家による金融の問題:あたゆる資金と信用は、国家資本による国立銀行を通じて国家の手に一元化される。民間の銀行は国有化されることで民間の銀行家も消滅して、個人から搾取したり私利私欲のために経済を操作したりすることはできなくなる。政府機関が金融を全般的に管理することで、資本家のような少数者を富ませる「投機的」な事業ではなく、社会全体に利益をもたらす生産活動を支援するための信用が確保される。この中央集中化によって、国家が国民全体の利益のために金融政策を管理できるので、経済計画の高い安定性も保障される。

  7. 公営企業の拡大の問題:国営の工場、農場、鉄道、そして船舶の数が段々増加する。人民の資本と労働力の増加に比例して新しい土地が耕作され、既存の土地は効率的な産業のために改良される。公営企業を拡大することで国はより多くの雇用を創出し、経済の成長があらゆる人に恩恵をもたらすようにできる。この拡大は産業の近代化にも役立ち、より効率的で生産性の高いものとなる。共産主義の下での国営産業は、資本家のような私的所有者のために利益を生み出すものではなく、人間のニーズを満たす方向に向かうであろう。

  8. 普遍的な公教育の問題:十分に成長して、これから母親の下を離れられるようになった時点から、あらゆる子供は国費で国立の教育機関で定期的な教育を受ける。教育は生産と組み合わされ、子供達が社会に貢献しつつ価値のある技術を学ぶことを保証する。この制度は生まれた環境に関係なく、あらゆる子供達に「平等な教育の機会」を提供し、その子供達が経済に完全に参加できるようにする。教育を実践的な労働と一体化させることで、共産主義の下での子供は実社会での経験を積み、将来に社会で果たすべき役割をより良く果たせるようになる。

  9. 共同生活の変わりの問題:工業と農業に従事する人民の共同住居として、公有地には大宮殿が建設される。これらの住居地は、都市での生活と農村での生活の利点を組み合わせ、それぞれの欠点を補完したのである。共同生活は住民の共同体意識と協調性を育むと同時に、より現代的な設備と緑地へ接することを容易にする。これらの共同住宅は高級で建築され、持続可能な生活ができるようにし、都市化による環境への悪影響を軽減するよう設計される。

  10. 生活環境の改善の問題:都市部にある、あらゆる不完全であり粗末な住居地は破壊する。代わりに、あらゆる人民により健康的な新しい住宅が与えられる。この措置は誰もが安全であり快適かつ衛生的な住宅を利用できるようにすることで、公衆の衛生及び生活水準を向上させることを目的としている。共産主義での移行のために、国はあちらこちらにある「スラム」を最大限になくし、あらゆる国民のニーズを満たす現代的である設計の行き届いた住宅の建設に最大限に投資する。こうするだけで、人間はより幸せになるであろう。

  11. あらゆる子供への平等の問題:婚内子と婚外子に平等な相続権が与えられる。これにより、生まれた環境にかかわらず、あらゆる子供があらゆる分野で平等に扱われる。例えば教育や経済活動など。誰もが平等な相続権を与えることで国は社会的平等を促進し、家柄による社会的及び経済的の差別を減らす。この政策は、あらゆる人に同じ成功の機会が与えられる、より公正で包括的な社会の実現に役立つのである。

  12. 国有の交通機関の問題:あらゆる交通手段を中央政府の手に集中させる。これにより、あらゆる人に効率的であり公平な輸送が保証される。交通を一元化することで、国は民間企業の利益を優先するものではなく、あらゆるの国民のニーズを満たすインフラを計画及び開発できる。また、中央政府が交通を公有化することで、国は安価で利用しやすいサービスを与えられ、交通が環境に与える悪影響を軽減し、より持続可能な社会を促進するのである。

 


 

これらの措置を一気に全部実施することは、勿論不可能である。しかし、各段階が次の段階を自然に導くであろう。最初の私有財産への根本的な攻撃が始まると、プロレタリアートは前進し続ける必要があると見なすであろう。段階的に、彼らは国家の手に資本、農業、輸送、及び貿易を集中化するはず。これらの措置はすべて、プロレタリアートがその労働によって国の生産力を倍増させるにつれて、実用的かつ達成可能なものとなるかもしれない。この段階的なアプローチにより、共同社会への移行が持続可能で管理されたものとなる。最終的に、あらゆる資本、生産、及び交換が国によって制御されるようになると、私有財産は自然に消滅する。お金は不要になり、生産は大幅に拡大し、社会は旧経済的制度を脱皮する。人々は変わり、社会は新たな方法で生きられるようになって過去の不平等と搾取は、もはや過去のものとなるであろう。究極の目標は全人民のニーズが満たされ、旧体制の搾取と不平等が取り残される社会を作ることなのである。この新たな社会では人々が共同の利益のために協力し、公正かつ平等な経済体制の恩恵を享受するであろう。

 

十九、革命は一国にだけ起こられるのか?

 

それは違う。この革命は単一の国内で進行することはできない。大工業の進展によって促進された世界市場の登場は、あらゆる国、特に文明国と見なされる国々を複雑に結びつけてしまったのである。一国での経済的及び社会的変化の結果は、地球全域に影響を及ぼし、他国にも深い影響を与える。国際貿易や通信手段によって容易になった経済の相互依存は、各国の運命が他国のそれと密接に絡み合っていることを示している。この相互依存性が、「孤立した革命の不可能性」を浮き彫りにし、共産主義への協調した、そして世界的な運動の必要性を強調しているのであった。

 

さらに、文明国の社会的進化によって、独自の社会階級ーブルジョワジーとプロレタリアートーが台頭してきた。ブルジョワジーは工場の生産手段の所有者を代表し、プロレタリアートは各地の労働者で構成される階級である。彼らの経済的及び政治的権力をめぐる闘争は、社会の軌道を決定づける中心的要素となっている。この特徴付けは、社会主義革命が資本主義社会に基本的な階級の矛盾に対処することを示しており、その普遍性を強調している。文明国の社会的事象が絡み合うことから、社会主義革命は全世界の国境を超える。これは複数の国で同時に起こるべき同期した蜂起を必要とする。これはイギリス、アメリカ、フランスとドイツなどの列強が、革命活動の焦点となるのである。革命が同時に発生することで、プロレタリアートの運動間に共同の力と連帯が生まれ、その影響が拡大して成功の可能性が高まる。ただし、革命が進行する速度や将来は、経済の発展、階級意識、政治的状況などの要因に影響を受ける可能性がある。

 

例えばイギリスのように、先進的な産業の基盤と高い階級意識を持つ国は、共産主義への移行がより速やかで順調なものとなるであろう。一方でドイツのような、産業が未発展で階級間の対立が根深い国々では、より大きな抵抗に直面し、より長い闘いを強いられるかもしれない。しかし、これらの変化の影響は世界的なものであり、確立された権力構造を覆し、既存の社会規範に挑戦し、世界中で解放の運動を鼓舞する。社会主義革命は国境を越える普遍的な現象。その必要性は、地球全域で共有される経済的な相互依存性と、ブルジョワジーによるプロレタリアート間の共通の闘争に基づいている。革命の進行速度や将来が国によって異なるとしても、その究極の目標は不変であり、それは階級のない社会を確立することである。国境を超えることで、社会主義革命は歴史の軌跡を変えて、社会の平等及び正義と人類の解放の新時代を切り開く。

 

二十、私有財産が消えると、結局は何が起こるか?

 

社会は、生産力と商業手段、生産物の交換と流通のあらゆる過程で発生する「私有財産」を資本家の手から引き離し、資源の利用可能性と社会全体の必要性に基づく計画に従って管理する。こうすることで何よりも重要なことが起こる。それは、今の大企業が行っている事業に伴う弊害がなくなるということである。拡大された生産は、今の社会にとっては「過剰生産」であり、それ故に不幸の主な原因となっている。しかし、過剰生産は不幸を生み出す代わりに、社会の単なるニーズを超えて、あらゆる人の欲求を満たすようになる。それは新たな進歩の条件となり、またその刺激となり、これまでの進歩が常にそうであったように、この社会の秩序を混乱に陥れることはなくなる。私有財産の圧力から解放された大工業は、今の我々が目にしているものが、現代の大工業と並べると、製造業がちっぽけなものに思えるほどに拡大を遂げるであろう。このような工業の発展は、すべての人のニーズを満たすことに十分な量の製品を社会に提供することになる。

 

同じことが農業にも当てはまる。現行の農業も私有財産の圧力に苦しみ、私有地の小区画化に阻まれている。ここでは既存の改良と科学的手順が実践され、その結果は、社会に必要なあらゆる生産物を保証する飛躍的な進歩を遂げることに達する。こうして、こんな豊富な商品は構成員の全員のニーズを満たすことができるようになるのである。すなわち、社会を互いに敵対する様々な階級に分ける必要はなくなることを示している。実際に、新たな社会秩序においては、階級は不要になるだけでなく、耐えがたいものになるであろう。「階級」という概念存在は分業に由来するものであり、今までのような複雑な分業は完全に消滅する。工業での生産と農業での生産を我々が述べた水準にまで引き上げるには、機械的及び化学的過程だけでは不十分であり、これらの過程を利用する人間の能力も、それに見合った発展を遂げなければならないからである。

 

前世紀の農民や職工が大工業に引き込まれた時、生活様式を一変させて過去とは全く別の人間になったように、社会全体による生産の共同の管理も、その結果もたらされる新たな発展も全く別の類の人間を必要とする。あらゆる人はもはや、今日のように単一の生産部門に従属させられ、それに縛られて搾取されることはない。今日の産業界ですらm、そのような人々の有用性は益々低下している。社会全体によって管理され、適切な計画に従って運営される産業はバランスの取れた方法で発達した能力を持ち、生産の過程を全体的に見られるバランスの取れた人間を前提としている。

 

ある者は農民、ある者は靴磨き、ある者は工場労働者、ある者は株式市場の経営者となるような分業は、既に機械によって損なわれており完全に消滅するはず。教育によって、若者は生産の過程に素早く精通することができて、社会のニーズや自分の志向に応じて、ある生産部門から別の部門へと移ることができるようになる。従って、教育は今の分業が各個人に与えている一方的な性格から人間を解放する。このようにして共産主義社会は、その構成員が総合的に発達した能力を十分に活用することを可能にする。そうなれば、階級的対立は必然的に消滅する。共産主義に基づいて組織された社会は一方では階級の存在と両立せず、他方では、そのような社会の構築そのものが、階級差を廃止する手段を提供するということになる。こんな帰結として、都市と田舎の違いは消滅する運命にある。農業と工業を二つの異なる階級の人によってではなく、同じ類の人によって管理することは純粋に物質的な理由だけであるとしても、共産主義社会の必要条件なのである。

 

農業の人口が土地に分散し、工業の人口は大都市に押し寄せていることは農業と工業の両方が未発達のままに相当し、既にさらなる発展の障害となっている。生産力の計画的な利用を目的とした社会の全構成員のあらゆる協力、あらゆる人のニーズを満たすまでの生産力の拡大、一部の人のニーズが他の人のニーズを犠牲にして満たされる搾取的状況の廃止、階級とその対立の完全な清算、葛藤を引き起こす今の分業の廃止を通じて、産業の教育を通じて、そして様々な活動に従事することを通じて、あらゆる人が生産する享楽に参加することを通じて、あらゆる都市と田舎の結合を通じて、社会のあらゆる構成員の能力を丸く発展させることは、明白に「私有財産の廃止」がもたらす主な結果である。

 

二十一、共産主義社会が「家族」の制度に及ぼすものは?

 

資本主義とは異なる、「共産主義」だけが家族に与える影響は大きく、これまで関係、結婚、または家族の構造において長く支配的であった枠組みを根本的に変えてしまう。共産主義社会では個人間の関係、特に性別間の関係は中々変わってしまう。資本主義社会の家族の概念は、かなり「金銭の問題」に限られる。例えば、子女が生存のために親からお金を借りるとか。これらの関係は完全に「個人的な問題(金銭とは関係がない)」となり、社会からの干渉や監視は一切存在しない。この劇的な変化は、私有財産の廃止と共同体による子育てなどによって可能になるのである。女性の男性への経済的依存や子供の親への依存をなくすことで、共産主義は結婚や家族の枠組みの伝統の礎を完全に破壊する。

 

これにより、歴史的に家族関係を支配してきた権力構造が解体され、平等と相互の尊重に基づく新たな関係の形が築かれる。さて、これらの批評家が良く挙げる「女性の共同体」という概念について深く掘り下げてみよう。こんな考え方は、屡々道徳家たちに非難されてしまっているが、それはただ資本主義社会の産物であり、その極端な形は「売春」の形で現れる。ここで、売春自体が私有財産制度に根付いていることに気付くことは重要である。共産主義は私有財産を廃止するので、売春のような慣行が生まれる環境も同時に改善される。従って、共産主義社会は女性の共同体を奨励(ショウレイ)するものではなく、実際には完全にそれを廃止する。搾取的関係を生み出す経済的格差や権力の差異をなくすことで、共産主義は個人を強制や商品化から解放して、相互の同意と尊重に基づく本物の繋がりを作るのである。

 

まとめると、共産主義が家族に与える影響は、人間関係の包括的な再定義と伝統のジェンダーや家族の役割の根本的な再構築をもたらす。私有財産の廃止と共同体による子育ての実施を通じて、共産主義は個人間の関係が平等、自律、そして連帯の原則に基づく社会を確立することを目指している。不平等や搾取の礎となっている経済構造を解体することで、共産主義は本物の愛情と相互の支持に基づく、意義のある繋がりを作り出すための土台を築ける。金銭の問題から抜け出し、ただ愛だけで成り立つ家族なら、お金のために親が子供に、または子供が親に物乞いをすることはないであろう。

 

二十二、民族への共産主義の態度は?

 

共産主義の既存の民族及び国籍へのアプローチは、共同体と共同体間の連合の原則に影響された変革の一つである。共産主義社会では、この原則に基づいて集まった人々の国籍は互いに交流し、融合することを余儀なくされる。この相互作用は、私有財産の廃止によって様々な地所や階級の違いが消えていくのと同じように、国境や区別を徐々に解消していくことになる。この意味をもう少し掘り下げてみよう。所有権の共有と共同生活が重視される共産主義社会では、異なる国籍を隔てる伝統の障壁は徐々に侵食されていくのである。共通のイデオロギーと共通の目標に基づいて人々が集まれば、自然と相互交流が深まる。この相互作用によって多様な背景を持つ人々の間に理解、共感、そして協力が育まれる。

 

やがて、こうした交流が深まるにつれて、異なる民族や国籍間の区別が曖昧になり始める。人々はもはや、自分を特定の民族や国籍としてだけでなく、伝統の境界を超えてより大きな共同体の一員とみなすようになるのである。こんな混ざり合い、溶け合う過程は、徐々に民族主義的なアイデンティティーの解消に繋がり、今より統一された調和の取れた社会への道を開くはずである。重要なことは、この変革は一夜にして起こるものではないということ。それは、共同体の団結と集団的行為の進化する枠組みによって形作られる緩やかな過程である。しかし、人々が共通の目標や理想を追い求めるようになるにつれて、かつて人間を分断していた障壁は徐々に消え去り、異なる民族間の団結と協力の新時代が到来するであろう。

 

二十三、宗教への共産主義の態度は?

 

共産主義は、既存の宗教をあらゆる「民族」や「社会」における歴史的発展の産物として捉え、独自の視点でアプローチしている。歴史を通して、宗教は人類の発展のさまざまな段階で優勢であった文化的、または社会的条件を表現するものとして機能してきた。しかし、共産主義は歴史的進化の新たな段階を象徴するものであり、既存の宗教を不要なものとし、究極的には消滅へと導くものである。この視点を良く理解するために、社会におけるこの「宗教」の役割を掘り下げてみよう。

 

宗教というものは歴史的に未知のものへの説明を提供し、道徳的指針を示し、古代や中世の社会の枠組みとして機能してきた。宗教は屡々、その宗教が生まれた社会の価値観、信念、そして構造を反映してきた。例えば、古代の文明は複数の神を崇拝する多神教を発展させ、様々な社会階層や多様な文化的慣習を反映していた。その後、「キリスト教」や「イスラム教」のような一神教が台頭し、益々「中央集権化」し、相互に結びついた社会に適した統一的な信仰体系と道徳的規範を提供するようになった。しかし、社会が進化を続ける中、共産主義はそれまでの社会構造からの根本的な脱却を主張するようになった。共産主義は生産手段を集団が所有し、それを社会の全構成員が共有する、階級のない社会を提唱していたのである。こんな社会では、宗教的説明や道徳的指導の必要性は減少する。共産主義は「宗教的教義」や「精神的信念」に頼るのではなく、「物質的手段」を通じて社会の不平等や外道に対処しようとする。

 

共産主義が進むにつれて、個人が教義による束縛から解放される社会を目指すようになる。超自然的な力に慰めや導きを求める代わりに、人々は合理的な思考、科学的探究、そして集団行動に頼って、自分達のニーズや懸念に対処することが奨励される。「神」から「物質」へと焦点を移すこの転換は、伝統の宗教の枠組みから大きく逸脱している。これは要するに、共産主義は既存の宗教をその時代の産物、すなわち宗教が生まれた歴史的、社会的状況を反映したものと見なしているのである。しかし、社会が共産主義に向かって進むにつれて、宗教的な制度や信念の必要性は減少し、究極的にはそれらの廃止に繋がる。共産主義社会では宗教的教義や儀式を守ることよりも、人間の連帯、平等、そして集団的進歩が重視される。

 

二十四、共産主義者は過去の社会主義者と何が違うのか?

 

今の共産主義者と過去の社会主義者は重要なところで異なっている。政治思想の広い観点を確保するためには、これらの違いを理解することが最も重要なのである。いわゆる社会主義者は三つのカテゴリーに分けられる。まずは「反動的社会主義者」である。そして「右翼的社会主義者」、最後に「民主的社会主義者」である。社会主義者を自称するこれらの人はそれぞれ、共産主義者とは異なる明確な信念と目標を持っている。これらのカテゴリーを詳しく理解することで、共産主義者が何故他の社会主義者と距離を置くのか、何故彼らの革命目標が独特なのかを明らかにできるのである。

 


 

反動的社会主義者

最初のカテゴリーは「反動的社会主義者」である。これらの人は、近代の産業と世界的貿易によって大半が解体され、資本主義社会の勃興(ボッコウ)に繋がった封建社会や家父長制社会への回帰を切望している。反動的社会主義者は経済的不平等、社会不安や伝統的価値観の侵食と言った現代社会の問題に目を向け、旧態依然(キュウタイイゼン)とした社会への回帰が問題を解決すると結論づける。彼らの提案は全部、過去の社会秩序を復元することを目的としており、それがより安定的で公正であると信じている。彼らは生活がもっと単純で、地域社会が緊密で、階層が明確に定義されて尊重されていたとされる時代を理想化している。共産主義者は、いくつかの理由からこの「反動的社会主義者」に強く反対する。

 

一、目標の不可能性。過去の封建制に戻るという考えは、どうしても全く非現実的なのである。既に世界は進歩し、封建社会を可能にした「条件」はもはや何も存在しない。工業化と技術進歩がもたらした現代の世界の経済及び社会構造は、単純に元に戻すことはできない。封建制度に戻ろうとする試みは科学、技術、そして人権など様々な分野における数世紀に渡った進歩と発展がもたらした不可逆的な変化を完全に無視するものである。

 

二、圧政の復活。あらゆる反動的社会主義者は、貴族、ギルド長、小規模な生産者、君主、役人、兵士、そして司祭からなる側近による支配を復活させることを目指している。この旧社会には、現代の資本主義社会で現れることのような問題はなかったが重大な弊害があった。深刻な階級間の分裂、社会的流動性の欠如、下層階級への抑圧が蔓延していたのである。共産主義者にとって基本的な目標、すなわち抑圧された労働者の解放の希望はなかった。封建制度は本質的に「搾取的」であり、農民や農奴は土地に縛られて領主の気まぐれに従うだけで、生活の向上の見込みはなかった。

 

三、資本家との同盟。労働者が革命的になって、社会主義の理想を採用すると、反動的社会主義者は労働階級に対して資本家階級に味方することで、真の忠誠を明らかにする。これは彼らの第一の関心が、労働階級のニーズに取り組むことではなく、旧権力構造を復活することにあることを示している。彼らは労働階級に利益をもたらす可能性のある真の社会的及び経済的改革を支持するよりも、むしろ新興の資本家階級と連携することによって、自分達の影響力と地位を維持したいと思っている。この裏切りは、平等と正義に向けた真の進歩への彼らの根本的な反対を強調している。

 

右翼的社会主義者

第二のカテゴリーは「右翼的社会主義者」である。これらの人は今の社会を支持しているが、それが生み出す問題に警鐘(ケイショウ)を鳴らしている。彼らは屡々善意者であり「貧困」、「不平等」、そして「社会的不公正」と言った問題を懸念している。彼らは今の社会構造を維持しつつ、その裏面だけを排除したいと思っている。彼らの目標は「資本主義を人間化」し、その基本的原理は根本的に変えることなく、より受け入れやすく、より害の少ないものにしたいと思っている。これを達成するために医療、教育や社会保障制度の改善と言った小手先の福祉措置を提案する者もいれば、緻密な改革を提案する者もいる。これらの改革は社会を再編成すると主張する。しかし、実際には現行の制度の礎を維持することを目的としている。

 

富裕層への課税の強化、労働者の保護の強化、企業の責任への取り組みなどが主張されるかもしれない。しかし、これらの措置は社会的及び経済的不平等の根本の原因に対処するものではなく、単にその影響を緩和しようとするもの。共産主義者は右翼的社会主義者に反対し続けなければならない。何故なら、彼らの努力は「共産主義の敵」を支持するものであるので。右翼的社会主義者は、今の社会を保護することによって、共産主義者が実行しようとする革命的変化を妨げている。右翼的社会主義者は資本主義体制を維持することを目的としているが、それはより優しく穏やかな形ではあっても、結局のところ、資本主義に内在する搾取と抑圧を永続させるだけ。すなわち、彼らのアプローチは大衆をなだめすかし、共産主義者が真の解放と平等のために必要であると思う「急進的な変化」を防ぐ方法であると思われている。

 

民主社会主義者

第三の、最後のカテゴリーは「民主社会主義者」である。これらの人は、この「共産主義の諸原理」の第18問で述べられているように、共産主義者が提唱する施策と同様なものを支持している。これらの施策には主要な産業の公有化(国家による所有)、包括的な社会福祉制度、労働者の権利の広範な保護などが含まれる。しかし民主社会主義者は、これらの措置を「共産主義への段階」ではなく、現代の社会の問題を単に解消するための十分な解決策と見なしている。民主社会主義者は漸進(ゼンシン)的な改革と選挙的政治を通じて達成される社会主義への民主的アプローチが、旧秩序を完全に転覆させる必要なしに資本主義の制度に内在している問題に対処できると信じている。

 

これらの民主社会主義者は、自らの階級の解放に必要な条件を「まだ十分に認識していない」労働階級の個人であるか、或いは農民や医者などの小資本家階級の代表である。小資本家は中小企業の経営者、商人などの自営業者、その他の中流以下の人間から成り、特に完全なる民主主義と社会主義的な措置を達成する前は、一旦労働階級と利害が一致することがある。彼らは経済的安定、公正な賃金、真面(マトモ)な生活条件への懸念を共有しており、これらの目標を促進する政策を支持することが多い。このような共通の基盤があるので共産主義者は行動時には、とりあえず民主社会主義者と協力する必要がある可能性がある。こんな類の社会主義者が支配階級の資本家と同盟を結び、共産主義者に反旗を翻(ひるがえ)さない限り、これらの民主社会主義者と共通の政策に従える。この協力は労働者の権利と社会正義の向上を目指すストライキ、社会運動、政治的キャンペーンなどの取り組みに見られる。

 

しかし、この協力は「共産主義者が民主社会主義者との相違点について議論しない」ことを示しているものではないことに注意する必要がある。民主社会主義者との協力は単に「イデオロギー的」なものではなく実践的なものであり、両集団が根本的な意見の相違を認識しつつも、共通が当面している目標に向かって協力することを可能にしている。我々を含めた共産主義者は民主社会主義者が支持する対策はまだ不十分であり、結局は資本主義体制の一部を温存していると見ている。一方で共産主義者は、あらゆる形の搾取と抑圧の存在を消すために、社会の完全かつ根本的な変革を求めている。

 


 

この問題から見ると、あらゆる社会主義者は「社会に蔓延している問題に取り組みたい」という願望を共有している。しかし、その方法と最終目標は大きく異なっている。反動的社会主義者は、封建的であった過去に時計の針を戻すことを望み、時代遅れで抑圧的な社会構造の復活を目指す。右翼的社会主義者は、その礎を変えることなく現行の体制を修正することを目指し、中核的な資本主義の矛盾をそのまま残す改革を提案する。最後に民主社会主義者は、今の社会の悲惨さを終わらせるのに十分であると考える適当な「改革」を求め、民主的な手段を使って段階的な変化を実現する。

 

一方で、共産主義者は私有財産の概念を廃止し、無階級(すなわち原始人の生活の仕方を受け継ぐ)の共同体的な制度を確立することで、社会の完全な「大改革」を目指している。我々を含めた共産主義者は、全く革命的な変革によってのみ真の平等と正義が達成されて、「搾取」と「抑圧」を生み出す経済的及び社会的な環境が排除されると確信している。これらの違いを理解することは、カール・マルクスを始めとする我々の社会主義及び共産主義思想のすべてを把握し、公正であり公平な社会を実現するために、そして我々のイデオロギーが提案する様々な道に気付くために極めて重要なのである。共産主義は単なる理想ではなく、このあらゆる社会主義者(自称であるが)が直面する問題点を考慮すると、「現実」である。

 

二十五、現時代の諸政党への共産主義者の態度は?

 

共産主義者の諸政党への態度は、各国の詳しい社会政治的状況に応じて異なる。イギリス、フランス、そしてベルギーなどの資本家、すなわち、資本家階級が支配権を持っている国々では、共産主義者は屡々資本家階級的民主主義の政党と共通の立場を求める。これらの政党が共産主義者の目標と密接に一致する社会主義の政策を提唱すると、この協力関係はより顕著になる。例えば、イギリスでは労働階級を代表する労働運動家達は、労働階級の権利をより促進し、資本家階級の権威に挑戦する共産主義者との共通の利益を持つと見なされる。

 

これらの資本家階級的民主主義の政党が社会主義の思想を少しずつ受け入れるほど、彼らとの同盟関係は強化される。アメリカでは民主的な憲法がすでに確立されている。そのアメリカで共産主義者は、この憲法の枠組みを資本家に対抗して労働階級(またはプロレタリアート)を支援する政党と一致させる傾向がある。これは屡々工場労働者や農村の小作農の利益や懸念(ケネン)を解決する改革を提唱する改革者との協力に繋がるのである。共産主義者はこんな団体と連携することで、旧政治構造を利用して資本主義の支配と搾取に挑み、世界の労働階級の運動を推進しようとする。

 

スイスは多様な構成を持つ中で、「急進派」が共産主義者の主要な同盟者として機能している。急進派内の様々な派閥(ハバツ)の中で、その考え方が最も進歩的であると見なされる分派が多い傾向がある。共産主義者は、これらの分派との共通の「民主主義的」及び「社会主義的」な思想への開放性によって、とりあえず彼らとの同盟を結ぶ。急進派との協力を通じて、共産主義者はその国で進歩的な改革を促進し、根強い保守的な価値観に果敢に挑戦する。ドイツでは、主な政治的闘争が「資本家階級」と「絶対君主制の支持派」の間で展開されている。ドイツの共産主義者は、資本家階級との究極的な対立は、その資本家階級が完全な政治的権力を握るまでは起こり得ないことに気付いている。従って、共産主義者は資本家階級の早期の打倒を急ぐために、彼らの政治的台頭を戦略的に支援している。絶対君主制の支持派に対しては、共産主義者は慎重でなければならないにもかかわらず、急進的なリベラル派の政党を支援する。

 

共産主義者は資本家階級が「未来の利益」を約束することによって、労働階級の支持を取り込もうとする試みへ警戒心を持っている。資本家階級の勝利が労働階級に様々な譲歩をもたらすかもしれないが、結局は、それが労働階級の組織を促進する行為なのであり、絶対君主制の崩壊後に資本家階級との将来の階級闘争を確実なものとすることが共産主義者の優先事項である。究極的に、共産主義者は資本家階級が既に権力を握っている諸国で採用している手法と同じように、君主制の崩壊後のアプローチには、社会主義(及び共産主義)の利益を世界的に前進させるための統一された及び調整されたアプローチを確実にする。そうするには、共産主義の組織の指令に従うしかないのである。