賃金や利潤の上がりと下がりを決めるものは?

 

第十章、資本と賃労働の利害関係は?

 

第一に、資本と賃労働の利益は正反対であることを認めなければならない。資本と賃労働の力学を分析すると、両者の利益が本質的に相反することが明らかになる。資本家は利潤の最大化を追求するが、それは屡々労働者の賃金や条件を犠牲にする。この対立関係は資本主義の下の生産方式の基礎であり、より広範な社会及び経済的景観を作り出している。資本家は蓄積の要請、すなわち資本拡大のあくなき追求に突き動かされている。これは単なる個人的野心ではなく、資本の本質に内在する制度的必然である。蓄積するためには、資本家は労働の過程から剰余価値を引き出さなければならない。

 

剰余価値の最大化という資本家の利益は、より高い賃金とより良い労働条件の確保という労働者の利益と直接対立するので、この抽出の過程は本質的な対立を生み出してしまう。資本の急成長は、利潤の急成長と同義である。利潤が急増することは労働の価格、すなわち相対賃金が同様に急減する瞬間だけである。資本の拡大は賃金の抑制を必要とする。実質的な賃金が名目で上昇しても、利潤が遥かに速い速度で増加すれば、相対的な賃金は依然として下落しうる。例えば、豊かな時代に賃金が5%上昇する一方で利益が30%上昇した場合、所得の絶対的増加にもかかわらず、労働者の相対的地位は悪化してしまう。資本家階級が収奪する富の割合は、労働者のそれに比べて不釣り合いに大きくなる。資本の蓄積の原理は資本が増大すればするほど、搾取率も増大することを規定しているのであった。

 

すなわち、資本家階級は毎日労働の生産性を高める方法を、技術の進歩やより厳格な管理として、絶えず追求しなければならない。しかし、こうした手段は労働者一人当たりの生産高を増加させる一方で、同時に生産の過程の人間的要素を切り捨てることになる。労働者は機械の付属品となり、産業装置の単なる歯車となる。この非人間化は、資本主義の下の生産方式の本質的特徴であり、資本の成長は労働階級の搾取と疎外の増大と直接結びついている。そういうわけで、資本の急成長によって労働者の所得が増加すれば、同時に労働者と資本家を分かつ社会的溝が拡大する。

 

その結果として、労働への資本の力は益々増大し、資本家への労働者の依存も益々深まる。労働階級は資本家階級に従属したままであり、資本家は彼らへの支配を守り続けており、強くしたりもする。この力学は、資本主義に内在している矛盾を浮き彫りにしている。資本主義の成長は社会的不平等を悪化させ、資本家階級の権力を強固にする。資本の拡大は、資本家階級の物質的富を増大させるだけでなく、彼らの社会的及び政治的権力を強化する。資本家階級は生産手段の支配を通じて法的、政治的、そしてイデオロギー的制度を含む社会の上部構造に対しても大きな影響力を行使する。こんな類の搾取は既存の社会関係を強化し、労働に対する資本の支配を永続させる。労働者は、その物質的条件が僅かながら改善されたとしても、相変わらず資本家の利益のために労働を搾取する体制に捕らわれたままである。

 

従って、労働者の見かけの繁栄は、その労働者自身の屈従と搾取の深化を隠す蜃気楼である。労働者が資本家の富をより迅速に増大させればさせるほど、彼らに落ちる「パンくず」はより大きくなるということである。この成長への労働者の参加は、労働者を縛っている鎖そのものを鍛えることに似ている。資本の蓄積が速ければ速いほど、同様の搾取条件のもとで雇用できる労働者の数が増え、それによって資本の力に服従する労働の質量が増大する。この成長は労働者を解放するのではなく、むしろ労働者の服従の力を強くするだけ。労働者の労働は解放の源泉となるどころか、正に抑圧の手段となってしまう。労働者が資本の成長に貢献すればするほど、彼らを搾取する体制を強くすることになる。

 

こんな逆説的な話は、資本主義の下の生産方式の決定的な側面である。資本蓄積の見かけ上の利益ー賃金の上昇、労働条件の改善や雇用の増加ーは、一過性で表面的なものである。それらは資本と労働の間の基本的な搾取的関係を変えはしない。それどころか、搾取の現実を曖昧にし、資本と労働の利害関係の共有という神話を永続させる役割を果たしている。そういうわけで、労働階級にとって最も有利なこと、すなわち資本の最も急速な成長でさえも、それが労働者の物質的生活をいかに改善しようとも、労働者の利益と資本家の利益との間の対立を解消するものではないことを、我々は見てきた。

 

利潤と賃金は依然として反比例している。資本が急速に成長すれば、賃金は上昇するかもしれないが、資本の利潤は不釣り合いに速く上昇する。労働者の物質的地位は向上するかもしれないが、その代償として社会的地位は低下する。労働者と資本家を隔てる社会的溝は拡大し、権力の不均衡はさらに強固なものとなる。資本家は、剰余価値の蓄積を通じて、絶えず支配的地位を強化している。この蓄積の過程は本質的に不平等であり、資本家は利益を再投資して生産を拡大し、富と権力をさらに増大させる。他方で、労働者は労働力を売って生き残っている。彼らの社会的地位は不安定であり、生産手段を統制できず、資本主義市場の気まぐれに左右される。従って、彼らの物質的条件の改善は、社会的及び経済的従属の深化を伴う。最後に「賃労働にとって最も有利な条件は、生産資本ができる限り速く成長することである」と言うことは、以下のように言うことと同様である。労働階級が労働階級に不都合な力、すなわち、労働階級を支配する他の者の富を、より速く増大させて強くすればするほど、労働階級は資本家富の増大、資本力の増大のために新たに労働することを余儀なくされる条件は、より有利になるであろう。こんな観点は資本主義の倒錯した論理を浮き彫りにしている。

 

そこで、労働階級の最良の未来は、依然として深い搾取と従属の一つなのである。労働者の労働は、自己啓発の手段となるどころか、相変わらず「抑圧の道具」となってしまっている。資本の成長が速ければ速いほど、労働者は自分を搾取する資本の拡大に貢献することになる。この力学は、資本主義の根本的な矛盾を明らかにしている。資本主義の成長と繁栄は、労働階級の搾取と服従の上に成り立っているのである。従って、労働者の見かけの繁栄は、資本の継続的な成長と支配を前提としているので幻想である。生産資本の増大と賃金の上昇は、親資本家の経済学者が主張するように、本当に不可分に結びついているのか?彼らの単なる言葉を信じてはならない。資本が肥えれば肥えるほど、資本の奴隷はより甘やかされることになるという彼らの主張なんて、あえて信じてはならない。資本家階級は、あまりに賢明であり、あまりに注意深く会計を管理しているので、自分の従者の豪華さを誇示する封建領主のような偏見を共有はしていない。

 

資本家階級の存立の条件は、帳簿(チョウボ)のつけ方に注意深くならざるを得ない。生産資本の成長は賃金にどのような影響を及ぼすのか?経済学者達は、その分析において屡々資本主義に内在する矛盾と搾取の力学を説明しない。彼らは体制の表面的な利益に焦点を当てつつ、その深い不公正を無視し、資本主義への無味乾燥な観点を示している。生産資本の成長と賃金の関係を真に理解するためには、資本主義の下の生産方式の根底にある力学を掘り下げる必要がある。そのためには資本の蓄積、技術の革新、労働の搾取の過程を批判的に検討する必要がある。これらの過程を理解することによってのみ、賃金と労働階級のより広範な社会及び経済的条件への資本成長の真の影響を明らかにできるのである。

 

全体として、資本主義社会の生産資本が成長すると、より多面的な労働の蓄積が起こる。個々の資本は、その数と規模を増大させるであろう。個々の資本の増大は、資本家間の競争を激化させるであろう。資本の増大は産業の戦場において、より巨大な戦争の道具をもって、より強い「労働者の軍隊」を率いる手段を与えるかもしれない。各資本家は他の資本家に打ち勝ち、費用を引き下げ、効率を最大化して、より大きな市場を確保しようとする。この資本家間の競争が、生産性の向上を執拗に追求する原動力となっている。競争力を維持するために資本家は絶えず革新を続け、新技術を採用し、生産の過程を改良しなければならない。この絶え間ない技術の革新の推進は、多くの作業において機械が人間の労働者に取って代わるので、労働の機械化が進むことに繋がる。この過程は、労働の全体的な生産性を向上させる一方で、労働者個人の貢献を軽んじ、労働者を機械の単なる付属品に貶(おとし)める。生産工程の多くを機械が担うようになり、労働者の技術や知識は益々無意味になっていく。こんな労働の切り下げは、労働者の搾取を悪化させ資本への依存を深める。

 

一方の資本家は、より安く販売することによってのみ、他方を現場から追い出し、資本を持ち去ることができる。自らを破滅させることなく、より安く売るためには、より安く生産しなければならない。労働生産力は何よりも、より大きな分業と、より一般的な機械の導入と絶え間ない改良によって増大する。労働が細分化される労働者の数が多ければ多いほど、機械が導入される規模が巨大であればあるほど、そして生産コストが減少すればするほど、人間の労働はより実り多いものとなる。こうして、資本家の間に労働と機械の分割を拡大し、できる限り大規模に搾取しようとする普遍的な競争が生じる。資本家は、生産コストの低下を追求するあまり、労働の絶え間ない分業と機械の絶え間ない改良を推し進める。

 

各資本家は、生産の過程の効率を高めることによって、より高い競争力を得ようとする。そういうわけで、生産性を最大化するために作業が細分化及び専門化され、特定の作業の絶え間ない再編成が行われる。新たな機械が導入されるたびに、労働の生産能力が高まるので、この過程はさらに加速される。しかし、この絶え間ない効率化の推進には犠牲が伴う。産業に使われる機械の単なる歯車に成り下がった労働者は個性と自律性を失う。労働者は生産の過程や生産物をほとんど統制できないので、労働は益々疎外されていく。この疎外は資本主義の下の生産方式の基本的特徴であり、労働者の労働は資本家の利益のために商品化され、搾取される。今は大きな分業によって、新たな機械の適用と改良によって、より大きな規模での自然の力のより有利な利用によって、資本家が同様の労働力(それが直接労働であれ蓄積労働であれ)で、競争の相手よりも大量の製品を生産する手段を見つけたとしたら、例えば、競争の相手が50cmを織るのと同じ労働時間で、100cmの麻布を生産できるとしたら、この資本家はどのように行動するであろうか?50cmのリネンを従来の市場価格で売り続けることはできるが、これでは競争相手を畑から追い出し、自分の市場を拡大する効果はないはずではないか?

 

市場の必要性は、増大した労働者の生産力と同じだけ増大したのである。より強く、より高価な生産手段が登場して、自分の商品をより安く売れるようになったのは事実であるが、それは同時により多くの商品を売ること、すなわち自分の商品のより大きな市場を支配することを、労働者に強いることになる。その結果として資本家は、50cmのリネンを競争の相手よりも安く売ることになる。しかし、この資本家は50cmを売る競争の相手よりも、すべてを安く売ることはない。そうでなければ、利潤は増えず、生産に要した費用しか戻ってこないからである。より大きな資本を動かしてより大きな収入を得ることはできても、他の資本よりも大きな利益を得ることはできない。さらに、競争の相手より僅かな割合で商品の値段を安くするだけで、資本家は自分の目指す目的を達成できるのである。競合他社を市場から追い出し、過小販売することによって、少なくとも市場の一部を奪い取るのである。この競争の力学は、資本家を絶えず生産コストを削減し、効率を高める方法を追求するように駆り立てる。競合他社を過小評価することで資本家はより大きな市場を確保し、それによって利潤を増大させることを目指す。

 

しかし、こんな過程は、価格と生産コストの絶え間ない変動をもたらすので、本質的に不安定なのである。技術の革新と効率化によって競争力を獲得した資本家は、その地位を維持するために絶えず技術の革新を続けなければならない。この絶え間ない革新と効率性の追求は、新たな技術や方法が採用されるにつれて、生産の過程の絶え間ない再編成に繋がってしまう。この力学に巻き込まれた労働者は益々搾取と疎外を経験する。彼らの労働は、生産性を最大化するために絶えず再編成され、屡々幸福と自主性を犠牲にしている。今の価格は、商品の販売がその産業にとって有利な時期に行われるか不利な時期に行われるかによって、常に生産費を上回るか下回るかのどちらかになっていることを覚えておこう。

 

50cmのリネンの市場価格が、その以前の生産費より高いか低いかによって、より効果的であり新たな生産手段を使った資本家が、その実質的生産費より高く売る割合が変わる。しかし、この資本家の特権は長くは続かない。競合する他の資本家も、同様の機械、同様の分業制度を導入し、同様の規模、或いはそれ以上の規模で導入する。やがて、このような導入は普遍的なものとなり、麻布の価格は旧来の生産コスト以下に引き下げられるだけでなく、新たな生産コスト以下にまで引き下げられるようになる。従って、資本家は相互関係において、新たな生産手段の導入以前と同じ状況にあることに気づくのである。

 

これらの手段によって、旧価格で2倍の製品を与えられるようになったとすれば、今度は旧価格以下で2倍の製品を提供せざるを得なくなる。新たな地点、新たな生産コストに到達した以上、市場における覇権を巡る戦いは新たに繰り広げられなければならない。分業が進み、機械が増えれば、分業と機械が利用される規模も大きくなる。競争は再び、この結果への同様の反作用をもたらす。競争的蓄積のサイクルは容赦ない。新たな技術が進歩する度に、それを最初に採用した個々の資本家は一時的に利益を得るが、最終的には生産コストと商品の価格の全般的な引き下げにつながる。こんな過程は資本家間の競争を激化させ、生産コストを削減し、生産性を向上させる新たな方法を絶えず追求するように駆り立てる。一方で、労働者は技術の革新と資本の蓄積の中で搾取が深まり、資本家との間の社会的溝が広がるので、この容赦ないサイクルに巻き込まれたまま。資本主義の競争力学は、新たな効率と革新の絶え間ない追求を促し、生産の現場を絶えず変える。

 

しかし、こうした変化は全体的な生産性を高める一方で、屡々労働者の搾取と疎外を悪化させる。効率と利潤へのあくなき追求は、資本家が競争力を維持しようとする中で、労働の過程の絶え間ない再編成に繋がってしまう。この力学は、資本主義の本質的な矛盾を明らかにしている。資本主義体制の成長と繁栄は、労働階級の搾取と服従の上に成り立っているためである。現場に利用される生産資本が成長するにつれて、資本主義の特有のシステムは、資本家階級の富を絶えず増大させるよう労働者に強いる。労働者の物質的条件が改善しても、労働者の所得と資本家の利潤との間の相対的格差は拡大してしまう。労働者の資本への依存は高まり、搾取を永続させる権力の力学が変わる。技術の進歩と資本の蓄積の約束は、労働階級にとって空虚なものであることが明らかになった。生産資本の成長は、労働者の物質的条件に一時的な改善をもたらすかもしれないが、資本と賃労働の対立関係を根本的に悪化させる。資本と労働の利益は正反対なのであり、資本の拡大は結局、労働者の従属と依存を深めることになる。これは資本主義体制に内在している矛盾を浮き彫りにし、労働階級を搾取から真に解放するためには、どうしても生産関係の根本的な変革が必要である。

 

資本家は利潤を最大化し、富を蓄積するという命令によって動かされるが、それは本質的に労働階級への搾取を伴う。資本の蓄積の過程は、労働者の労働から「剰余価値を抽出」することを必要とし、それによって労働者への搾取を永続させるのである。資本が拡大するにつれて、この搾取が強化され、労働階級の従属と被支配がさらに深まる。資本の拡大は、生産性の向上と潜在的な賃金の上昇をもたらすかもしれないが、資本家と労働者の間の基本的な権力の力学が変わることはないであろう。賃金の上昇や労働条件の改善など、労働者が得るかもしれない見かけ上の利益は、屡々一時的であり表面的なものである。これらの利益は、資本主義体制の根本的な構造問題に対処するものではない。労働者の労働は、資本家階級の利益のために商品化され搾取され続け、資本主義に内在する制度的不平等と権力の不均衡を強化するだけである。

 

さらに、生産資本の成長は、屡々技術の進歩と機械化の進展をもたらし、生産性を高める一方で、労働者を生産の過程からさらに疎外する。新たな機械の導入と分業化は、労働者の個人的な貢献を軽んじ、彼らを産業に利用される機械の単なる歯車に貶める。この疎外は、労働者から自主性と労働との結びつきを奪うという、資本主義体制の重大な側面である。労働者の役割は益々細分化され、専門化され、生産の過程への主体性や所有者意識が薄れていく。資本主義の競争原理もまた、こうした力学を激化させる。資本家は互いに凌ぎを削るために生産コストを削減し、効率を高める方法を絶えず模索している。これには、長時間労働や過酷な労働条件、或いは省力化のために技術を導入することによって、労働者からより多くの生産性を搾り取ることが屡々含まれる。こうした措置は経済の成長率を押し上げるかもしれないが、労働者の福利や雇用の安定を犠牲にしている。利潤のあくなき追求は底辺への競争を招き、労働者は費用の削減策の矢面に立たされ、搾取と不安定さをさらに深刻化させる。資本主義の下の競争の結果として、資本が少数の手に集中することは社会的不平等を悪化させる。大資本家が小資本家を廃業に追い込むにつれ、富と権力は益々少数の手に集中するようになる。

 

こんな少数者への経済的権力の集中は、政治的及び社会的権力に変換され、資本家階級が自分達に有利な政策や制度を作り出すことを可能にしてしまう。他方で労働階級は、交渉力や政治的影響力が低下していることに気付き、資本主義体制の中で従属的な立場をさらに強固にする。資本の拡大は、より広範な社会及び経済的環境にも影響を及ぼす。絶え間ない資本の蓄積の推進は好況と不況のサイクルをもたらし、労働者に経済的不安定性と不確実性をもたらす。景気の後退期には、多くの場合労働者が最初に被害を受け、解雇や賃金の削減、そして労働条件の悪化に直面してしまう。

 

幾度も述べた通り、この景気変動は資本主義体制における労働者の立場が不安定であることを浮き彫りにしており、そこでは労働者の生計は市場原理と資本の利益の気まぐれに左右される。要するに、資本主義の下での生産資本の成長は、こんな体制に内在している矛盾と搾取の力学を強調するものである。それは労働者に一時的な物質的改善をもたらすかもしれないが、最終的には資本主義を支える構造的不平等と力の不均衡を強化するだけ。資本と労働の利益は根本的に対立したままであり、資本の拡大は労働階級への搾取と服従を深める役割を果たす。そういうわけで、これは労働者への搾取の上に成り立っている資本主義体制の本質的な不安定性と持続不可能性を明らかにしている。これらの問題に真に取り組み、労働階級を搾取から解放するためには、革命として生産関係の根本的な変革が絶対的に必要なのである。これには、資本主義を支える社会及び経済構造の真実を、どうしても根本的に見直することが必要であり、これこそが労働者の幸福と問題解決能力を優先する体制へと移行する方法なのである。そうでなければ、革命が実現することはないであろう。