運動会
もう、今年は小学校の運動会なんてものはまるっきり他人事でした。
日程も知らなくて、直前になって近所のスーパーに「祝9月30日○○小学校運動会」なんてでっかく書かれてるのを見て初めて知ったって感じ。
ところが、前日になって、R君に誘われたんだかなんだか、「午後2時に、R君と一緒に運動会を見に行く。」というのです。 午後2時から5年生の演技があるんで、それを見に行くことになったらしい。
よく分からないけど、R君ママが連れて行ってくれるっぽかったので、まあ好きにさせとけと思っていたら、
何故か当日になって、お昼頃、「今から行ったらお昼休みでT君に会えるかなぁ?」「ちょっと行ってみるー。」と言って一人でさっさと家を出て行ってしまったのです。
なんかちょっとびっくりでした。 R君と一緒にというのならまだ分かるのですが、一人でみんながいる学校に? 同級生に会うの、嫌じゃないのだろうか?
その後すぐ帰って来るかと思いきやなかなか帰ってこないので私も後から小学校に行ってみました。 妹一家が同じ小学校で運動会を見に来ていたので、「倫太郎来なかった?」と聞くと、「来てたよ。来てたからおにぎり1個食べさせたんだけど、すぐどっか行っちゃって、しばらく校庭をうろうろしてたよ。」と言うのでした。
それで私もうろうろと倫太郎を探したら、倫太郎は後から来たR君と合流して、二人でおしゃべりしながら運動会を見学してました。
参加するわけでもないのに、運動会を見るって苦痛じゃないのかなぁ?と、とても不思議でした。 せまい校庭なので、運動会に参加している同級生に声をかけられたりもしているし。 (そんな時はちょっと照れたように会話してましたが)
倫太郎はR君と一緒だったので、その後私はそのまま妹一家と一緒に運動会を見て帰りました。 よもや今年、運動会を見に来ようとは思ってもみなかった...
帰ってから、倫太郎に「T君には会えたの?」と聞いたら「うん、こっちむいて手を振ってくれた。他の子も気が付いて手を振ってくれてたよ。」と言っていました。
わからん。 1年前は、校庭に同級生がいたらこそこそしてなかったっけ? よく、一人で運動会に来れたよね。
分かんないけど、そうやってこれからも、へんに卑屈にならずに伸び伸び自分らしくいてくれればいいなと思った私でした...
放課後登校
昨日、倫太郎はまたR君とR君ママに誘われて夕方学校へ行って来ました。
R君は基本的に午前中に少人数教室に登校して少し自習をして帰って来るらしいのですが、午前中に行く気分になれなかった時だけ夕方に登校するのです。 そこでたまたま倫太郎が一緒に遊んでいたりすると誘ってくれるわけ。
今回でこういうのも3回目だし、私もまるっきりまかせっきりなのも悪いかなと思って、授業が終わる頃を見計らって学校へ行ってみることにしました。
学校に着いてみると、倫太郎の担任の先生が「おしべとめしべ」の授業をしてくれているところでした。
倫太郎とR君がいて、R君の担任の先生もいて、R君ママがいて、私がいて、みんなで先生の授業を聞きました。
でもそのシチュエーション、私はどうにも落ち着きませんでした。 子供二人を大人4人で取り囲んでいるような状況が... 親は一緒にいなくてもいいよね。 今度来る時はぜひ別室で待たせてもらおう。
授業が終わって玄関に戻る途中、(たぶんR君が午前中いつも校長先生にお世話になっているからだろうけど)わざわざ先生が職員室から校長先生を呼んで来てくれて、みんなで校長先生にも挨拶しました。
校長先生が倫太郎を見て、「お、この前会った時より顔色がいいみたいじゃないか。」と言いました。
顔色なんて、まるで病気の子に言うみたいな話だよなぁ~...と思うわたし。
でも倫太郎の担任の先生は家に帰れば主婦の仕事が待っているのに、こうして突然行く倫太郎に授業をしてくれて、とても感謝です。 倫太郎の先生にお礼を言えたのは良かった。
そして、実は今日も倫太郎はR君と一緒に夕方登校しました。 私はまた終わる頃に迎えに行こうとしたのですが間に合わずに帰り道で3人と出くわしました。 今日は花粉を顕微鏡で見せてくれたそうです。 運動会の前の日だっていうのに、先生方すみません。
なんかな、今度こういう機会があったら、R君ママに、帰りは私が迎えに行くから先に帰って家のことしてていいよって言ってみようかな。 午後5時過ぎて、子供だけで学校にやるのは私も出来ないし、送るのと迎えるのをどっちか私が負担すれば私も何も気兼ねしなくて良いし。
そうしよう、そうしよう。 ま、また誘ってもらえたらの話だけど。
携帯電話が...
携帯電話が壊れてしまったんです...
1週間くらい前から、たまにメールを打っている途中で急にキーを受付けなくなるという現象が起きていて、これはアドレス帳のバックアップを取らないとやばいかな?と思っていたんです。
けど、自力でバックアップを取るのはめんどーだし、かといってパソコンにバックアップする用のソフトって3千円くらいするしーなんて考えているうちにある日突然、もー電源を入れてからキー入力を数回しか受け付けなくなっちゃってんの!
ピンチ! これはめんどくさいなんて言っていられない、自力でバックアップしようと思ったんだけど、なにしろ電源を入れてから5回くらいキー操作をするとフリーズするもんだから、1回に2人分くらいのアドレスを書き写すことしか出来ません。
電源を入れて2人分のアドレスを書き写し、電源を切って(電源OFFのキーも受け付けないのでバッテリーをはずす)、また電源を入れて2人分のアドレスを書き写すなどということをしていたら...
今度はなんと、電源を入れて立ち上がった瞬間にもうフリーズしてしまうのでした。
しくしく... 完全にいかれてる...
しかたなく、AUショップにそのまま持って行きました。 通常は代替機にアドレス帳をコピーしてくれるらしいのですが、私のいかれた携帯電話はそのコピーすらも出来ませんでした。 お店のお姉さんは、サービスセンターの機械はここにあるのとはコピーの方法が違うので、ひょっとしたらバックアップ取れるかもしれませんと言ってくれましたが、なんか、望み薄い気がします。
それに、取り扱い説明書にも載ってるけど、修理の際にデータが消えても責任は負いかねるそうです。
私のアドレス帳、カムバ~ック!!
しかし、別に水に濡らしたわけでもないのに、壊れるって、やっぱSONY...だから?(-"-;A 今だかつて、SONY製品で永く使えたものってホントに無いんですが、どーにかしてください...
私は私
子供のことをあるがまま認められるようになって気付いたことは...
自分のこともあるがまま認められるようになったこと...
人に「そんなんじゃダメだ」なんて言われていたら、以前だったら自分の全てが否定されたように感じてしまっていた。
でも今は、「私は私」。 人から見てダメでも、それが私のパーソナリティだと思える。
あなたから見て私がどんなにダメでも、それが欠点かどうか決めるのは私。 直すべきかどうか決めるのは私だ。
人に強制されることではないんだと思える。
何よりも、人にダメだと言われてしまう、その弱っちいところが、私の核でもあるのだから。
夜の教室で
昨日、仕事で日中出かけた後、夕方帰宅しようと家に向かって歩いていたら、家の方向から見慣れた男の子が二人楽しそうに歩いて来るじゃないですか。
誰かと思えば倫太郎とR君です。 そろそろ家に帰らないといけない時間なのに、これからR君ちで遊ぶつもりか? と思って声をかけました。
「こんにちは。これからどこ行くの?」
すると二人から返って来た答えは、「学校行ってくる~」でした。 一瞬、「は?」と思ったけど、ああそうか、今日もR君ママが連れて行ってくれることになったんだなーと思って、「あ、そう。それじゃ行ってらっしゃいませ~。」と言って別れました。
なんか学校に行くにしちゃあ二人ともにっこにこ楽しそうに歩いてるじゃないかと思いました。
夜7時近くなって帰って来た倫太郎は、その時は何も言いませんでしたが、寝る前になってその日の授業のことをいろいろ教えてくれました。
なんでも、頭に「和」のつく言葉や、「漢」のつく言葉、「外」のつく言葉をR君と一緒にいろいろ探したのだそうです。 「和」だったら「和菓子」「和歌」「和紙」などなど... 私の想像では、そういう言葉をあげて行くことで、「和」という文字に「日本のもの」という意味があることを教えようという意図ではないかと思いますが、なかなかオモシロそうな授業じゃないかと思いました。
他にも「訓読み」と「音読み」を習ったらしくて、私に漢字の読み方クイズを出してきてくれました。
生徒二人と、先生二人で、夜の教室で漢字クイズなんて、なかなか素敵じゃない。 なんだかさながら夜間小学校だよね。
その日習ったことを楽しそうに教えてくれる倫太郎を見ていたら、「ああ~、なんかこういうのもあってもいいなぁ。」と思えて来ました。
教科書の進度について行くことが目的じゃなく、昼間の教室に戻ることが目的でもない、昼間の学校には入れないけど、夜みんながいない時なら来れるっていう子がぼちぼち集まって来てさ、純粋に「学ぶことを楽しもうよ」みたいな教室があってもいいなぁなんて思いました。
例えばそういうのの先生は、退職した先生がやってくれるとかしてさ。 先生も純粋に教えることがただ楽しいと感じられるような、夜の教室。
その日の夜、たまたま倫太郎と一緒にビデオの予約をしてたら、夜中の番組表に「高校数学」「高校社会」「高校理科」などの番組があったんです。1科目30分で合計2時間、深夜の教育テレビでやってました。 「おお、倫太郎、高校に行かなくてもこの番組見れば勉強出来るじゃん。」と言ったら、倫太郎が「そうだね!これなら間違ってもいいもんね。」などと言ってました。 こいつは、人前で間違うのが相当嫌なのか?と思いました。 「そだね。それにさ、こういうのやる先生はすごくいい先生を選んで来てるはずだから、普通の高校に行くよりよっぽど分かりやすいかもしれないよー。」なんて、高校なんて行かなくても、勉強しようと思えばどうとでもなるよ。 ということを伝えたくて、ついそんなことを面白がって言ってしまいました。
そして今日は、パソコンのことで教えてくれと父から電話があり(たまにある)、父の仕事場まで行って来ました。 帰り際、「倫太郎のことはどう考えてるの?」と聞かれたので、「あの子は、固定観念に縛られない、素晴らしい子になると思うよ。」と言ったら笑っていました。
もう最近じゃ本人も「自分だけ学校に行っていない」ということを忘れちゃってんじゃないかと思うほど不登校ライフをエンジョイしている様子です。 不安とかは、あるにはあるのかもしれないけどナチュラルに、楽しそうに生きているように感じます。 それでいいんだよ、倫太郎。 自然に、あるがままに生きておくれ。
子供のアニメ
子供達がアニメを毎日のように見るもんで、私も付き合わされてだいぶいろんなくだらないアニメを見させられましたが(^^;
たまに私の方が夢中になってしまうようなアニメに出会います。
最初のは、「ヒカルの碁」。
ああ、もう、ハマリましたね~。 最後の方なんてテレビの前で正座して見てました(笑) 「ヒカルの碁」は言わずと知れた、小学生に囲碁ブームを巻き起こしたアニメですが、私もGBAのゲーム「ヒカルの碁」を買って来て囲碁を始めてしまいました(笑) ああいうゲームは、囲碁をやったこと無い人にも一からレッスンしてくれるんです。 本なんかで説明を読んでもさっぱり分からないのですが、ゲームソフトは実際に打たせながら教えてくれるのでとっても分かりやすいんですよ~。
基本ルールを覚えたところで倫太郎と対戦したり、ゲーム中にある詰め碁をやって遊んでいたのですが、詰め碁も少し難しくなって来ると、解答を見てもなんでそういう打ち方になるのか理解出来ない問題が出て来るんです。 もーね、散々考えるんですよ。 しまいにはマグネット碁盤まで買って来て詰め碁の問題をああでもないこうでもないと碁石を打ってみて、それでも分からなくって。 これはもう、囲碁の分かる人を探して来て教えてもらうしかないと思ったのですが、案外、周りに囲碁をたしなむ人なんてだ~れもいなくて、そこであきらめてそれっきりです...
チェスは毎年世界チャンピオンとスーパーコンピュータが対戦してほぼ互角みたいですが、囲碁で人間に勝つコンピュータを作るにはまだあと100年かかると言われているそうです。 囲碁ってすごい。 人間の頭脳って素晴らしい~。
二つ目は今やっている「カペタ」。
これは、父と二人暮しで貧しいカペタというクルマの大好きな少年が、父が手作りしてくれたカートでレースを始め、お金が無いというハンデを背負いながら、父や友達に支えられてレースの世界で頭角をあらわして行くというストーリーです。 いつもいつもオンボロのカートでハンデを背負っているのに、情熱と負けん気と天性のカンと技術で他のクルマを追い抜いて行くカペタ。 レースのシーンではほとんど泣きそうになって見ています。
しっかし、なんと、来週は最終回だと言うのです! そんなわけないじゃーん。 まだ宿命のライバル対決もしてないっていうのにっ!! 視聴率が稼げないから打ち切りになったのか、それともマンガの方にストーリーが追い付いちゃったか、それは分かりませんが、ともかくいつか続きをやってね。テレビ東京さん。
あともう一つ、タイトルを忘れちゃったのですよ~。
これは夢中になって見たというより、もうシリーズの最後の方でやっと、「えっ、こんないいアニメやってたんだ!」って気付いたもので、実は詳しいストーリーも良く分かってないのです。 犬が主人公のアニメでね、たぶん買主の女の子とはぐれちゃったか何かで、野良犬の仲間たちと暮らしているの。 そこでいろいろな野良犬と出会うんだけど、ご主人が帰って来ないって分かっているのにずーっと駅で待ちつづける犬に出会ったりして、主人公の犬はまだ子供っぽいところがあるので、その犬に飼い主がもう死んでいることを伝えようとするんだけど、別の犬が、「待て、...あいつだってそんなことはもう分かっているさ。」みたいなことを言うわけ。 深いのよ~、子供向けのアニメにしては。
最後はなんとかいう世界をつかさどっている大きな木が枯れそうになってしまって、人間が動物に冷たくなっちゃうの。 それで主人公の犬がその木を助けに行くのです。
誰かこのアニメのタイトル知ってる方いませんかね~。 もう何年も前にやってたんですよ。
思うのですが、昔の名作アニメを夕方とか日曜日とかにまた再放送したらいいのにね。 「宇宙戦艦ヤマト」とか「銀河鉄道999」とかは、けっこう今の子供達が見たって面白いと思うんだけどな。 「二度と帰らないかもしれない旅」への感傷なんて、今の子供達には流行らないのかなぁ...
思い込みエネルギー
先週、相談センターに行く日だったのに私はすっかり忘れていつものように「今日はカフェで英語の勉強しようっと!」などと思って出かけてしまい、倫太郎は倫太郎で、前日、へんな時間に寝てしまったのがたたって思いっきり朝寝坊していて私が出かける時にもまだ寝ている始末でした。
帰宅すると相談センターから留守電が入っていて、そこでやっと気付いた私と倫太郎。 この呑気ぶりがいいねぇ。 相談センターの人は「すっぽかしやがって。」と思っているかもしれないけど(^^;
翌日、またセンターから電話があったので「昨日は申し訳ありませんでしたー。すっかり忘れてて。(^^;」とあやまり、ついでなので相談員のSさんといろいろお話しました。 私からは、このあいだのTさんの話を聞いていて、今後中学生と遊ばせて欲しいとか、適応指導ルームの仲間に入れて欲しいとかいう気持ちは無くなったと話しました。
Sさんが言うには、この前、ルームの雰囲気に慣れさせようと思って指導員の男性に倫太郎君と遊んでもらったんですが、「倫太郎君ががちがちに緊張してしまって、この状態では中学生の仲間に入れるのは無理と判断したと言うのです。 だから、なんで雰囲気に慣れさせるために「大人」と遊ばせるのさ? 子供ってさぁ、子供どうし同じ部屋に入れておいたら、最初は距離を取ってても、時間が経てば自然に一緒に遊び始めるものじゃないの? なんで自然の力に任せないで、知らない大人となんか遊ばせるのか全然分からないよう。 と思い、そのようなことを言ったら、「そうですかねぇ...」なんて曖昧な返事でした。
Sさんは、倫太郎君は最初は相談センターに来られなかったのに最近は来られるようになって、それはそれで達成感みたいなものはあるんじゃないかと言うのですが、ええと~、いつ倫太郎が相談センターに「来られない」ようなことがありましたっけ?と思うのです。 相談センターの雰囲気は好きじゃないだろうけど(いつもシーンとしてて、小さい面接室がいくつもあって、クスリの匂いはしないけど、病院みたいなとこだよ)、最初から別に来ようと思って来られないような場所じゃないのですが。
実はその前の週、R君の家に遊びに行っていた倫太郎が、R君の放課後登校に便乗してR君ママに一緒に学校へ連れて行ってもらったということがあったのです。 (なんかそれぞれの担任の先生二人が授業をしてくれたらしい) その話を学校の先生から聞いたSさんが、「先週学校へ行けたんですってね。すごいじゃないですかー!」と言うのです。 しかしそれが、なんかとてもずれてる感じなんです。 私にとっては倫太郎が放課後学校に行ったというのは別にすごいことでもなんでもないのです。 別に今までだって周りが機会を作ってやれば放課後登校や保健室登校してたわけで、その機会を作ってやることを1年前に意図的にやめただけなんだから。
本人だって別に「ええ~っい、がんばって学校行くぞー」なんて思って行ったわけじゃないと思う。 なにがすごいんだか。 なんか思うに、Sさんの頭の中では「不登校というのはこういう子だ」という定義が出来上がっちゃってるんじゃないかと思う。 「不登校の子にとっては外に出るのすら大変なことである。不登校の子は学校という建物に近寄るだけで恐怖である。不登校の子は人間関係を築くのが困難である。」みたいな。
なんかさ、私は、この人がそんなふうに思うことで、逆にそのマイナスイメージを倫太郎に植え付けてないか? とも思うわけです。 そういう目で見られて、ただ相談センターに行っただけで「今日はここまで来られてすごい頑張ったね。」なんて言われたらどう思う? 自分にとっては普通のことだったのに、「自分みたいな子は他の子と違って、こうやって外に出るだけでも大変なことなんだ。」って思うんじゃないの。
倫太郎がちっちゃい頃に読んだ育児書に、子供のぜんそくについて、「子供は自分が病気だなどという意識がない。意識がないのに、夜中に咳が出たと言ってはおじいちゃんおばあちゃんまでが起きてきてちやほやするからいつしか自分は大変な病気だと思ってしまう。病気だ病気だと思わなければ、学童期になれば自然にぜんそくはおさまる。」というようなことが書いてあったのです。 その頃倫太郎は、発作までは行かないけど毎日のように咳が延々と続くということがあったのですが、私はだいたいにおいて放っておくか、「風邪ひいちゃったかな?」と軽い調子で言って市販の子供用咳止めシロップを飲ませるくらいしかしませんでした。 実際それで学童期頃には咳が続くことはなくなりました。
思い込みエネルギーってすごいと思うんです。 プラスに思い込めばすごいプラスエネルギーになるし、マイナスに思い込めばマイナスエネルギーになる。 周りの人が「この子はこんなふうな子だ。」って思ってると、それって本人に伝わるんじゃないかと思います。
指導ルームの子達も、ひょっとして「この子達は人間関係が築きにくい子達だから大人が入ってやらねば。」って思われてて、実際にそうなっちゃっているんじゃないのかなーと思ったりして。 知らないけど。
それと問題はもう一つ。 倫太郎にいつも接しているのはSさんで、私と面接するのはTさんと、別の人なので私がいつもTさんにしている話がSさんにほとんど正確には伝わってないと思われることでしょう。 Sさんにはそのことも言っておきました。 倫太郎が、Sさんと遊ぶのはとっても楽しみにしてるので、家庭訪問はこれまで通りお願いしたいけれど、Tさんとの面接は無意味なのでやめたいとも言いました。 こちらで検討してみるとのことでした(^^;
久しぶりに「親の会」
週末、久しぶりに「親の会」に参加して来ました。
1年半前に一度行った時は17才とか18才とか、大きいお子さんのお母さん達ばかりだったので、小学生のお母さんがいないかなぁ~と、お友達づくりのために行ったのですが、残念ながらメンバーは1年半前から全く増えていないということでした。
「親の会」の考え方自体は、私は全部納得してるわけではないんですが、
学校というのは行かなくても行ってもいいんだよ。 学校に馴染めないだなんて、うちの子ってなんて素晴らしい子なんでしょう。
というところまでは一緒なので、そういう考えのお友達を探すにはそこしかないと思ったんです。
1年半ぶりに行ってみて、う~ん、やっぱり根本のところが私が思うのとは違うな~と思いました。
あまりにも全部を受容しすぎていて、反省がない?
うちの子は素晴らしいのだから、親にも子にも反省すべき点は無いってことになっちゃってるみたいな気がします。 家で子供が暴力を振るってるとしても、なすべきことは「我が子のありのままを認めてあげる。」ことしかないみたいな。
子供も親も今まで何も間違ってなかったということは、子供を全面的に受容する以外に、よりいい親子関係になるために、親はどう子供に接したらいいかというような議論が生まれない気がするのです。
例えば、その日来てたお母さんが言うには、17才とか18才の息子さんがゲームを買うためにゲーム屋さんに親が一緒に行かないといけなくて、しかも、親だけ別の売り場で暇つぶしするのは許してくれなくて、息子と同じ売り場にずっと一緒にいて息子が「ねえお母さん、どっちのゲームがいいかなぁ?」とか聞いてくるのに付き合わなくてはいけないと言うのです。しかも息子さんが迷ってるあいだ2時間くらい立ちっぱなしで付き合わされるらしい。
そんなのって親は「この子はこの子だからいいのだ。」って言いながら耐えるしかないの?
でもその話が出た時のみんなの反応といったら、「ああ~」(大変だねみたいな?同情の「ああ~」)だけで、あとはそのまま子供にとってゲームがどんなに必要かって話しに戻って行ってしまうのでした。
そんなの私は嫌だよ~。自分の息子がそんなんなったら嫌だって思うけど、そんな本音はそのお母さんの前で言ってはいけない気がして言えず...
元代表者の方(私の母親に近い年齢の方です)が、実は一度は社会に出た息子さんがうつ病になってしまって家に戻っているらしいのですが、その息子さんが最近ちょっと母親に対して文句を言うようになった。その子は親に対して文句を言うような子じゃなかったので、最近になってそういうことが言えるようになったのは良かったと思うとか、その息子さんがウツになる前に「お母さんは俺が何か議論しようとして意見を言っても、俺が全部言い終わる前に持論を展開しだすじゃないか。最後まで聞いてくれないじゃないか。」と怒られたというような話をしていました。
私はそれを聞いて、やっぱり、こんなに長い間不登校についてはいろいろ勉強してきた人でも、今までずっと自分の親としてのあり方、子供への接し方については全く目を向けて来なかったんだなぁと思いました。
少しでもそういう方面に目を向けていたら、子供が話し終わる前に持論を展開してしまったり、母親に文句を言えない雰囲気を作ってしまったりということは避けられたんじゃないかと思うから。
でもそういうことも、結局私は何も話せずに帰って来てしまいました。
ほんとは、そういうふうな親子関係にならないために、またなってしまった場合にどうしたらいいかっていうのを話し合える場が欲しいんだなぁ、きっと私は。
ただ、いい話もいろいろ聞けました。
元不登校の青年が、「自立というのは全く人に頼らずに一人で生きることだと思っていたけど、自分に出来ないことは出来ないこととして他人に頼り、なおかつお互い言いたいことをちゃんと言える関係が、本当の自立っていうことなんじゃないかと思う。」と言っていました。
おもしろいなと思いました。 彼が言っていたのは身障者と健常者の関係だったのですが、夫婦関係とか、同僚とかの関係に置き換えたらどうなのか? 言いたいことをちゃんと言える関係というのはすごく大切だけど、頼れる部分は頼るというのは線引きが難しいかな~。いろいろ考えてしまいました。
他にもいくつか。代表者の方がメモしておきたいようないいことを言っていました。
この会は、お母さんどうし本音を語り合うというより、中心メンバーの元代表の方と、現代表の方と、元不登校の青年の3人の話を他のお母さんがほとんどだまって聞いてるという感じです。 たぶん、現役不登校児のお母さんどうし共感しあったりというより、そういう、不登校が過去のことになってしまった人達から出てくる「いい言葉」を聞きにやって来るんだろうなぁーと思います。
学校の勉強は
高校生の頃、なんでだか知らないが一時期、数学の授業をまるで聞いていなかったことがあった。
たぶん隣のクラスの友達に授業中に手紙を書くので忙しかったからかもしれない(^^;
とにかくそんなんで、定期テストの直前だというのに授業内容はさっぱり理解出来ていなかった。
さすがにこれでは0点確実でやばいなと思った私は、テスト1週間くらい前になって数学の教科書を読み始めた。
微分積分のところだったが、驚いたことに教科書を読んだだけで、微分と積分の理論が理解出来たのだ。
・・・今はすっかり忘れてます。すみません(^^;
「なんだ、教科書って、読んだだけでちゃんと理解出来るように書いてあるんだ~~。」と感動してしまった。
別に何故というわけでもないが、それまで、勉強というのは先生がいて教えてくれるもので、教科書というのは単なる教材くらいに思っていたのかもしれない。
しかし教科書は、先生なんかいなくてもちゃんと理解出来るように書かれていたのだ。
難しいことを理解出来るように説明するというのは、実はすごく大変なことだ。 しかも紙の上だけで。 数学が得意で、高度な応用問題も解けるという人が、何も知らない人に微分積分を分かるように説明出来るかというと、そうとは限らないと思う。
そんなことが出来るとは、私は数学の教科書を作った人を尊敬してしまった。
それから、高校の勉強は独学出来ると気付いた私は、授業は聞かずにテスト前だけ自分で勉強するという手をよく使うようになってしまった。 物理の独学はちょっと難しかった。 「テーブルの上に置いてあるボールに重力加速度がかかっている」というのを理解するのに2時間くらい費やしてしまい、一緒に試験勉強していた友達に、「そんなとこでひっかかってたら他のことが勉強出来ないじゃん。」と怒られてしまった。 適当に「そういうもんだ。」と思っとけというわけである。
その時はまだはっきり気付かなかったが、勉強というのはどんな分野であれ興味があれば独学出来るものなのだ。 というか先生に教わってるだけではダメなのだ、本当は。
本当の勉強というのは、「知りたい」という気持ちが一番最初にあって、自分からその知識を取りに行くこと。 先生はその補助でいいのだ。 しかし実際の学校は、興味のあることを自分でさらに追及するなどというヒマを与えてくれない。 この試験勉強の時のように、何かを追求しようとすると他の沢山のことを捨てないといけないからだ。
高校の時、中国に興味を持って中国語を勉強したことがあるのだが、その話を友達にすると、「自分は高校生の頃は受験のことで手いっぱいで、そんなことをしている余裕はなかった。さくらはすごいね。」などと言われてびっくりした。
そうか、高校生は受験をめざして勉強しないといけないのに、私は余裕をぶっこいていたので受験に失敗したんだなと思った(笑)
しかし本来の教育は、受験のためにあっちゃいけないだろう。
現在の高校の教育は大学受験のためにあるようなもので「中国語を勉強してます。」などと言ったら「遊びはいいから、勉強しなさい。」と言われてしまいそうである。
何も全員が全員、微分積分を理解してないと国が滅びるわけでもないのに、学校では好むと好まざるとにかかわらず、全員が、全て上から与えられたことだけを勉強させられる。
そして大学生になっても、自分が本当は何をしたかったのかすら分からない人間になるのだ。
知りたいことを自分で勉強して、レポートでも書いて出せば単位として認めてくれるような学校があればいいと思う。 独学して分からないことがあれば、先生が一緒になって考えてくれる。 そんなふうに全国の学校がなったら面白い。
そこまで自由ではないかもしれないが、イギリスの中学校ではクラスという単位がほぼ無いらしい。 クラスメートとは朝と夕に出席を取る時だけ一緒だが、あとは選択科目なのでみんなバラバラだというのだ。 柔軟な選択科目制度も、日本でももっと取り入れたらいいと思う。
もちろんそのためには、知識一辺倒の、高校や大学の受験制度が先に変わる必要があるだろうが。
「パッチ・アダムス」
パッチ・アダムスが言っていた言葉がとても印象に残った。
「死を恐れてはいけない。死は誰にでもやってくるもの。医者が最も大事にしなくてはならないのは、クオリティーオブライフであって、死を遠ざけることではない。」
誰にとっても死は怖いものだから、誰でも患者が死なないことに全神経を集中してしまう。 映画では出て来なかったが、死なないことにだけ力を注いだ結果が、機械につながれて一生ベッドで寝たままに生きる植物人間なのだろう。 でも、パッチアダムスは、本当に大切なのは生きている今の命の質を高めることだという。 本当にそうだと思う。
倫太郎が小さい頃、たった5日間だけだったが手術のため入院したことがあった。 その時、小児病棟には重い病気で何ヶ月も、何年も家に帰れないでいる子供達が沢山いた。 看護婦さんは病気の手当てはしてくれるが、子供達はいつも殺風景な病室に放っておかれていた。 命のクオリティーが大切にされているとは言い難い光景だった... お医者さんが病気そのものだけを見て、人間を見ていない例だろうと思う。 病院を去る時にアンケート用紙を渡されたので、病院はもっと子供のメンタル面に心を配るべきと書いて来た。
この映画でもう一つ思ったのは、もしかしたら、今の世の中を生き辛いと感じている人達こそ、世の中を変えて行く人達なのかもしれないということ。
アダムス自身、最初は人生に何の希望もなく、自殺癖があり、自分から精神病院に入院したのだが、そこで自分の生きる意味に目覚めていく。 医者になることを決意した彼は、大学病院で病気に苦しむ子供達に笑いを与え、死ぬ間際の人に心から寄り添う。 最初は常識破りで煙たがられていた彼だが、その信条に賛同する人が徐々に増えて行き、病院の医者達の固定観念を打ち砕いていくのだ。
「そんなことしてどうなるの?」「変えられるわけないじゃない。」「あいつは変わり者。」 などなど言われ、追い出されそうになりながらも、ついには世の中を変える原動力となっていくアダムス。
アダムスを見ていたら、今の世の中で「あいつおかしいよな。」と言われたり、生き辛くて引きこもっていたりする人達こそ、人類にとって必要な人達なんじゃないかと思った。