シングルママと不登校児のまいにち -9ページ目

いじめ緊急提言だって

政府の教育再生会議で出された提言に、「いじめた側の出席停止」なんてのがあると聞いてびっくり。 いったいどういう人が会議に出てそんなこと決めてるのかと思ったら、義家先生(ヤンキー先生)が担当室長だって? なんかもうがっかり。 もっと子供の気持ちに寄り添える人かと思ってたのに... 勘違いだったのか...


結局、いじめる子にも義務教育を受ける権利があるとかで出席停止という文言はなくなったらしいけど、そういうことじゃないと思う。 いじめる子だって私は不幸な子だと思う。 心が満たされてたら人にいじわるしようなんて思わないよ。 どこかすさんでしまっているのに、そういう子に罰を与えたって何の解決にもならないと思う。


担任一人に任せず、校長や教委がサポートするんだって。 そんなの、今まで何一つやってなかったの? 政府に言われないとそんなことも思いつかないのかな。 何か問題があった時、ひとりに任せないでみんなで解決するって、すーごく普通に思いつく話だよね。 人に言われないと行動出来ない人ばっかし?学校って。 


いじめに加担した教師を懲戒処分にするって、そんなの当たり前でしょ。 いじめに加担する大人なんて、教師である前に人間としてだめでしょう。 気付かなかったり放置した教師を処分するって、誰が判断するの? しかもそんなの問題が大きくなってからの話で、いじめが起きたら後どうするかって話ばかり。 単なる恐怖政治で犯罪を押さえ込もうということでしかないじゃない。


これだけいじめで苦しんでる子がいて、社会問題になっても、学校という制度そのものに言及してくれる人っていないんですね。 今の学校がどれだけ子供にストレスを与えているか、学校の制度そのものがいじめを発生させてるって発言してくれる人っていないんだ。


私が自分の経験からも、自分の子供を見ていても思うのは、子供って本来優しさを持ってるのだということ。 でも自分自身が人に優しくされたり大事にされていないと、つらい気持ちばかり表に出てきて、優しい気持ちが心の奥の方にひっこんでしまうんですよね。 ひとりひとりが大事になんてされていないよね。 今の学校は。 一日中他の子と比べられて、ストロー一本落としたら迷惑だと言われて。 そういう根本的なこと、あの有識者会議とやらでは誰も一言も言わなかったのかな。


今の大人もみんなその学校で育ってきて、ベルトコンベアーの上から落ちずにやって来たから、学校ってそれほど絶対の存在なんでしょうね。 上から与えられたことだけやってれば点数をもらえる世界で育って、その世界そのものに疑問を感じることって相当に難しいことなのかも...


でも今日の政府のあのいじめ緊急提言を聞いて、「ああこれでだいぶ学校も良くなるだろう。」なんて思った人っていないよね。



「太陽の子」

灰谷健次郎さんが亡くなってしまいました...


私と、彼の代表作のひとつ「太陽の子」との出会いは私が小学5年生の時、映画化された「太陽の子」を見たのが最初でした。


主人公の女の子、「ふうちゃん」と私はその時ちょうど同い年くらいの小学生。 ふうちゃんのお父さんは戦争の後遺症で心の病気です。 お父さんは時々家で病気が出て恐いことになる時もあります。 だけどそんな家庭の事情を抱えながら明るく強く生きているふうちゃん。 強くありながら、すごく優しいふうちゃん。 そんなふうちゃんに私は強い尊敬と憧れの気持ちを抱きました。 当時の私にとって、活発で明るく勉強も運動も出来るというタイプの女の子が、同時に家庭に暗い事情を持ち、周囲を思いやれる繊細さを持っているというのがものすごく驚きだったのです。 私はひたすら、なんて素敵な子だろう、こんな女の子になりたいと思いました。


そうして「太陽の子」に強い印象を持っていた私は、大人になってからその小説を読みました。 小学生の時に思っていたよりももっとずっと重い内容でした。 沖縄戦での防空壕で、自分の子供を手にかけなければならなかった人、沖縄出身者で都会でひどい扱いを受けて自殺した人、そういう重い重い出来事、大人たちの苦しみを、子供なりの視点でみつめ、いのちとは、いきるとは何か考えるふうちゃん。 児童文学でありながら、沖縄戦を真摯に扱い、子供を子供扱いしていない書き手の態度に私は再び心を打たれ、涙が止まりませんでした。


その後「兎の眼」「わたしが出会った子供たち」「天の瞳」と読んで行ったのですが、灰谷作品はどれも、フィクションであってもフィクションではないと思いました。 登場人物は作者が作ったものなのでしょうが、作品の根底に流れているものが、沖縄戦であれ、学校であれ子供達であれ、全てノンフィクションなのです。(「わたしが出会った子供たち」は元々ノンフィクションです) だから読んでいてずっしりと重く、時にはつらくて読み進めない程なのでした。


あれからまた数年たち、最後に「太陽の子」を読んでからは随分時間が経ちました。 今また、子供の不登校を通して子供をとりまく問題を考えるようになった私が読んだら、印象も違うのでしょうか。


灰谷さんが亡くなって本当に残念です。 かつて「ふうちゃん」に憧れた私は、今は「ぎっちょんちょん」になりたい。 子供を一人の人間として信じ、真摯に接する大人になりたいです。



死なないで逃げて

今朝の朝日新聞の朝刊一面に、「いじめられている君へ」というコラムがあり、鴻上尚史さんがいじめられている子へメッセージを寄せていました。


「あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。 あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げつづけることです。 学校に行かない自分をせめる必要はありません。 大人だって、会社がいやになったら、会社から逃げているのです。 次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです。 そのために、自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう。思い切って、「遺書」を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。 学校に行かず、一日ブラブラして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです。 それでも、あなたの親があなたを無視するのなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです。 はずかしがることはありません。その学校から、ちゃんと逃げるために「遺書」を送るのです。 死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。 あなたは、「遺書」を書くことで、死なないで逃げるのです。 だいじょうぶ。この世の中はあなたが思うより、ずっと広いのです。 あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。それは、小さな村か南の島かもしれませんが、きっとあります。 僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました。 どうか、勇気を持って逃げてください。」


こんなふうに、「学校に行かなくてもいい、逃げてください。」と書いてくれる人がいるのを見て、私はすごくほっとする思いでした..


実際には、逃げ切るのはすごく大変なことと思います。 だって、子供が自殺未遂までしても、それでもその通っていた学校へ「行け」と言う親もいるのだから。 逃げる過程で、どんな絶望を味わうかもしれない。 でも、学校だけがすべてじゃないよと言ってくれる大人が、たとえ新聞紙面からでも呼びかけてくれることは、もしかしたら希望を与えてくれるかも。


こういうことを言ってくれる人が、世の中にもっといたらいいと思う。


教育委員会の隠蔽体質がどうこうとか、責任追及をしているだけでは、今この時に、命の灯火が消えそうになっている子供達を救うことは出来ない。 「今すぐ逃げて」「学校へ行かなくても大丈夫」というメッセージをテレビや新聞で言ってくれる大人がもっといたら、もしかしたら死にそうになっている子供に届くかもしれない...


デスノート

先週、「デスノート the last name」を観てきました。


面白すぎる!! 


こないだ前編をテレビで放映していたので試しに見てみたらあんまり面白くて、続きがどうなるのか知りたくて知りたくて、映画館に行ってしまいました。


後編も期待を裏切らないおもしろさで大満足でした。


こういう、ハラハラドキドキで緻密に計算されたストーリーって大好きなんですよね。


原作のマンガの方は知らないんですが、読んでみようかな。


早くもハリウッドからリメイクのオファーが殺到しているらしいですが、どーもハリウッドの人達ってプライドってないのかしら?と思っちゃいます。 日本や韓国で作った映画をそのまま作り直して上映するのってどーなのー。 映画はアメリカが本家なんだから、ちゃんと自分達でオリジナルのを作りなさ~い。


2ヶ月ぶり親の会

先週また親の会に行って来ました。


ちょうど良いのでこないだのストローがどうたらこうたらという学級通信を持って行ってみんなに見てもらい、ついでに授業中挙手の回数をチェックしてることなど話してきました。


「なんだこれ、北朝鮮みたい。」「これじゃあいじめも起きるよね。」「こんなことばかりやってて忙しい忙しいって言ってるんだよね、先生達って。」「いや、先生達はさ、俺たちが冗談かと思うようなことをホントに真面目な気持ちでやってるんよ。先生という職業は、残業代も出ないのに、これ作るのに最低でも1時間はかかるでしょう。(ピントはずれてても)大変な思いしてやってるんよ。本当に頭が下がるよ。」「この人、校長とかのウケはいいでしょうね。ほぼ毎週学級通信出してるんだから。」「熱血先生?」「いい迷惑ですよ、子供にとっては。」「(チャイ着アウトについて)なんか工場の広報みたいですね。 今月はこれだけチャイ着アウトが減りました。効率がよくなりました。みたいな。」「私の息子が小学生の頃なんて、名指しでクラスメートの欠点を洗い上げるようなことしてたのよ。○○さんは忘れ物が多いので注意して欲しいですなんてね。」「それこそ北朝鮮みたい!」などなどいろんな話が出てきました。


とりわけ中学校で不登校になった元不登校の青年はその学級通信に文句を言いたいようでした。


なんか私の中でこのばかばかしい学級通信に対するやりきれない気持ちを誰かと共有したいという思いが消化されて良かった。


ただ、意見を言う人はいつもそうなんだけど、代表者の二人と元不登校の人ばかりで他の私と同年代のおかあさんたちは何も言わないんですよね。 言うことがないのか、発言しづらいのか。


途中、一人のおかあさんが、なんか息子さんが最近自分に対して「死にたい」というようなことを延々と言うんですって、冷静な時は「ただそういうふうに言いたいだけかな。」と思うんだけど、延々と聞かされてるとこっちも追い詰められちゃって、「そんなにつらいならいっそ死なせてやった方がいいのだろうか。」って本気で思ってしまうって、それで「お母さんが殺してあげようか。」って首に手を持って行くと「やめてくれよ。」って言うから、まあ本気じゃないんだろうけど、なんて話をしたのです。


そしたら元代表の女性がすぐその話を引き取って、自分のお友達がそういう経験をしたわよという話をなんか笑いながらしたのです。 本気で死にたいわけじゃないのに「死にたい」っていうところが、いろんな事例を見ている代表の人には半分笑えちゃう話なんだろうなとは思うけど、代表の人が話しを引き取ったことで話題がそこから違う方向に行ってしまったので、「あれ?」って感じでした。


私はなんかそのお母さんの気持ちがすごく分かるのです。 倫太郎も、5才頃すごかったんだもん。 「死にたい」とも言ったし、とにかく私の横で延々と、本当に嫌なことを延々と話しつづけるの。 延々と延々と、どうにもならないことを横で言いつづけられる時の、ほんとにもうこっちが追い詰められて気が違いそうになる気持ちよく分かる。 5才ですらそうだから、もう大きくなった子に言われたらどんな気持ちがするか... 私、また話しを元に戻したかったんだけど、あろうことかトイレに行きたくなって、席をはずして戻って来たら完全に全く違う話題になってしまってました。


あのお母さん、ほんとはもっと「わかるよ」とか誰かに言って欲しかったんじゃないのかな。 そういう時、どんな態度で子供に接してあげたら良いかとか議論したかったんじゃないだろうかと思いました。 もしかしたら、そういうことは期待してなくて、ただ話せれば満足なのかもしれないけども。 なんか、たとえ答えは出なくとも、さらっと流しちゃっていい話だったのかな?と思いました。


他に、その日の新聞の一面に、東京都が小学校の学力テストの成績で、補助金の額を決めるとかいう記事が載っててその話になりました。 学力テストの成績の良い学校に多くの補助金を出すというのです。


すんごいな、日本の教育はどこいっちゃうの?


私は、先生のストレスが、出来ない子に向かって行ってる様子がもう目に浮かぶよ。 頭のおかしくなった先生が、「このテストが出来なかったやつは宿題いっぱい出すからなー。」とか言ってる姿も想像出来る。 テスト出来ない子が、肩身の狭い思いをするのも目に見える... 


それにしてもこれだけあれやこれやでがんじがらめになってるというのに、先生達だって、これ以上何せいっていうの?って感じでしょうね。 学力(ここでいうところのテストの成績)ってそんなに大切? 文科省のえらい人達って受験戦争に勝って来た人たちだから、そこにしか人間の価値を認めることが出来ないんでしょうね。


恐いです、とても。


人の気持ちの分かるクラスを目指して

中学校の担任の先生が週一で書いている学級通信。 いつも見るたび「なんだかなぁ~」と疑問に思ってしまうんだけど、今週も非常な違和感を覚える内容でした。。。 


タイトルは、


とどけ、みんなの想い

~人の気持ちの分かるクラスを目指して~


へえ、何かいいことでも書いてあるのかしらと思って読んだ内容は。。。 「ストローのゴミ」についてでした。 再三再四、班長や担任からの呼びかけにもかかわらず、掃除の前になると教室に一つストローが落ちていると、もしわざとだとしたらそれはさびしいこと、呼びかけている人達の気持ちを踏みにじることだと書いてあり、その下に、みんなの想いとして生徒達が書いたと思われる意見がずらずらと列挙してありました。


曰く、「ストローのことは何回も注意しているのに、まだ分からない人がいるのがザンネン。これから気をつけてほしい。」「クラスにこういうことが起きるのは非常に残念に思う。今後、こういうことが無くなるようクラス全体で意識して欲しいと思う。」「やっぱし、一人ひとりのけじめがなってない。ストローに番号を書くようじゃダメ。今後このようなことがないようになりたい。」「ストローに番号を書くのは、みんなを信用していないみたいで嫌なので、別の方法で無くしていきたい。」「他の人はちゃんとやっているのに、たった一人のせいで、みんなに迷惑をかけているということに早く気付いて欲しい。」などなど....


そして最後に、担任の先生から、「これからもみんなで協力して、人の気持ちの分かる優しいクラスを目指して欲しいと思う」という言葉で結ばれていました。


いやいやいや... ストローってたぶん給食の牛乳パックについてくるストローのことだと思うんですが...


私は、この先生は何かもんのすごーく勘違いしているような気がしてしょうがないのですよ。


他にも、「チャイ着アウト」といって、チャイムが鳴り終った瞬間に席についていないとその人数を係りの人が控えているらしくて、そのチャイ着アウトの率が下がって良かったふうなことを学級通信に書いて来たり。


ゴミひとつ落ちていない教室をつくることと、チャイムが鳴り終わったら全員席に着いていることが、どうやったら人の気持ちの分かる優しいクラスに結びつくのかさっぱり全然分からないです。 うっかりストロー1本落としたら、「みんなの迷惑だぞ!」と非難の目を向けるようなクラスを作りたいのでしょうか、この人は。 人への優しさって、こんな規律から生まれるものじゃないでしょう。。。


この先生、前にも話した、授業中に生徒に手を挙げさせて、いちいち挙手の回数を数えて、発言する人をジャンケンで選んでる人なんですけど、なんか他のお母さんに聞いたら、それ、3年生までずっとやるそうです。 あ、あんなバカバカしいこと、3年間も付き合わされるの...


この人にとっては、ゴミ一つ落ちていない教室をつくることや、みんなが授業中に挙手をする(点数のためであっても)クラスを作ることが、担任として指導力がある証拠だと思っているんだろうなぁ。 なんか、ある意味この人も哀れだ。 たぶん、先生は先生でそういうふうな観点で評価されてるんでしょうね。 すごくどうでもいいことがすごく大事なことだとどこかで入れ違ったまま勘違いして生きている。 今の世の中、子供達も先生も哀れだ...


こども

引っ越してから4才の甥っ子が通う保育園が近くなり、今まで2度ほど、妹の代わりに私がお迎えに行く機会がありました。


そんな時、なんだか知らないけど倫太郎が保育園まで一緒に付いて来るのです。


4才のいとこと遊べるのが楽しみっていうふうには見えないんだけど。。。、でも甥っ子の方はお兄ちゃんが来てくれたとばかり大はしゃぎ。


保育園を出たとたん、うれしくて跳ねるようにうちに向かって走り出しちゃう4歳児に、道路に飛び出さないようにとちゃんと気を配りながら一緒に歩いてあげている倫太郎が、とても頼もしく見えました。 普段は家の中で一番小さいから、小さい子の面倒を自然に見てあげてる倫太郎ってあまり見る機会がないのですよ。


そんな倫太郎の後姿を見ていたら、いったいこの子に、世間はこれ以上何を望むのかと問い掛けたくなりました。 私は何も望まない。 人間として大事なものを、この子は既に持っているものを、他に何も入りはしない。 この子はこの子で満ち足りているんだと思いました。 なのに世間はきっと、「学校に行けないとは、この子には何かが『足りない』」と考えるんだよね。


思うに、子供ってどの子も、生まれる時に、その子が持てる限りの全てのものを持って生まれて来るんじゃないだろうか。 どの子もどの子も、例えば四肢に障害を持っている子も、その子はその子としての満ち足りた状態で生まれて来たんじゃないかな。


「あれが足りない」「これが足りない」「不完全だ」というのは、人間が勝手に思い描いた100%の像から引き算しただけであって、思い込みなんだと思う。


本当はみんな、生まれた瞬間から、その子その子の100%めいっぱい持てるものは全て持っているんじゃないかしら。 満月のように、満ち足りているんじゃないかな。 しかも、その100%を生かして、自分の能力を花開かせる力も秘めているんだと思う。


本当は生まれた時に持っているものだけで十分満ち足りているのに、あれは足りない、これは足りないと、勝手な100%の像に近付けるために訓練させられたり、知識を押し付けられたり、欠点をののしられたり、ああしろこうしろととかく型に押し込められたり、だから本当は持っていたはずの満ち足りた優しさや、本来持っている才能がどこかへ押しやられたりするんじゃないかと思う。


何年か前に、キリスト教の人の言葉で、「神は子供をひとりひとり心をこめてベストなものとして作られた。」というのを聞いたことがあったんです。 その時は、「ええ~、そんなのってある?ある人には沢山才能を与えたかと思えば、ある人は生まれつき病気を抱えている人もいる。それをひとつひとつベストを尽くしただなんて、そんないい加減なのってないよなぁー。」と思ったのです。


でも私、今その言葉の意味が分かった気がする。


本当に、ベストなのだ。どの子も。 生まれたままの状態で既に満ち満ちていて素晴らしいのだ。 勝手な人間としての理想像と比べたり、他の子と比べて何が足りないなんて思うこと自体がおかしかったんだ。


ああ、なんかすごく、嬉しい気持ち...


 

疑問なんだけど


先生になる人って、大学でどういうことを教わって来るのかな? 例えば教育大学って先生になるための大学だよね。 どういうことを教えてるんだろう?


思うに先生達って、クラスにいじめ等の問題が起きた時にどうするかとか、ADHDやLD、アスペルガー症候群とはどういう障害か、そういう子がクラスにいた場合にどう接したらいいかとか、学校に来るのを嫌がる子に対してどう対処するかとか、わがままな要求をしてくる親にどういう態度を取るべきかとか、そういうイレギュラーなことに対する知識が何もない気がします。


そういう数々の問題に対して何をどうしたらいいかって、すごく重要だし、多大なエネルギーがいることなのに、なんか先生達は何の専門知識も持たないために、どうしたらいいか分からず、しかもひとりでそれを任されてあっぷあっぷしている気がする。 


クラスで起こりがちな問題をいろいろ取り上げて、実際にシュミレーションしてみて、こういう時はどうしたらいいか、こういう場合はどうするかなど行動してみて、みんなで議論するというような訓練を、先生になる前に少しでもしているのかな。 


なんか、何もしてないんじゃないのかな。


そういうのはあくまでもイレギュラーなことなので、実際に先生になってから一人一人が行き当たりばったりに対処してくださいって感じ?


私は、先生というのはいろんな子を見るわけで、単なる教科を教えることだけでなくて、いろいろな問題に対する対処方法をある程度専門的に勉強して訓練しておく必要があるんじゃないかと思うんだけど。


知識があって訓練もしていて、それでも難しいことなのだから、何も知らないで先生になってるとしたら、うまく行くわけがないと思う。


先生の質を向上させるような努力をしないで、単に教員免許の更新制度なんか導入して、先生の精神的負担を増やして何かいいことあるのかな?? なんかすごく疑問なんだ。


あとさ、公立の小学校や中学校を出てもいないおぼっちゃま官僚が、しろうとのテキトーな推測で教育改革なんてやるのやめてほしいよ。 あの人達、実際に授業に落ちこぼれてる子のことなんか見たこともないんじゃないかな?


F1

「カペタ」の影響もあって、最近、倫太郎と一緒に時々テレビでF1を見てます。


クルマなんてさっぱり分からないし、選手の名前もミハエル・シューマッハくらいしか聞いたことないし、という状態なんだけど、見てるとやっぱり面白い。


特に昨日の最終戦は今期で引退するミハエル・シューマッハの最後のレース、しかもアロンソが失敗した場合はワールドチャンピオンの座もまだ可能性ありということで、私もだいぶ前から楽しみにしてたのですが、なんせ放送が深夜なもので、とうとう放送開始前に私は睡魔に襲われて録画予約して寝てしまったのです。


ところが翌朝、起きてみると、倫太郎はなんと全部見たと言うのです。 はい?午前4時くらいまでやってたのを寝ないで見たらしい。。。 すご。 


「それでどうだったー!!?」と聞くと、「シューマッハがねぇー、タイヤパンクしちゃったんだよ。それで結局アロンソは2位だった。」と言うのです。 「はあ?タイヤがパンク~!?」


そうです、シューマッハは最後のレース、アロンソとの1位争いのレースだというのに、レースの序盤でタイヤがパンクして(前にクラッシュしたクルマの破片を踏んだか何かしたらしい)一瞬にして最後尾を走ることとなったのです。 タイヤを新しく替えたものの、1位のマッサとほとんど1周差がついてしまったシューマッハ。


しかしそこからがすごかった。 1周走るごとに順位を上げて行き、あれよあれよという間に上位陣に迫って行くのです。 すごいよ、すごい! 中でも、5位のクルマと、4位のクルマを抜き去った時はすごかった。 いつも上位に入賞してくるような実力のあるドライバー達を、いくらなんでもそう簡単に抜けるはずがないだろうに、コーナーでインサイドをついて抜いて行くのです。 恐い。 本当に一瞬のドラマ。 私はほとんど「ひーん」と泣きそうになって見ていました。


結局、2位のアロンソに8秒差くらいまで追い付きながら、4位で終わってしまったけど、解説の人も、シューマッハの人生の中でもベスト10に入る素晴らしいレースだったのではないかと言ってました。


唯一、私が名前を知っていたドライバーが引退してしまって、来年はいったい誰を応援したらいいのやら(^^;


でも、興味を持つ対象が増えて行くのは本当に楽しいですね。 今まで何ら関心を持たなかったものを好きになると、その分だけ世界が広がる気がします。 まだまだ私の世界は広がり続けるのだ。


兄弟喧嘩

私は3人兄弟の一番上で、下の二人とほとんどケンカをした記憶がない。。。


6つ下の弟とはどう考えてもケンカになりようがない。 私が中学1年の時に弟は小学校1年生だもんね。


4つ下の妹とも年齢が離れているからケンカにならないのだと思っていたが、友人が高校生になっても3つ下の妹と取っ組み合いのケンカをしていたというのを聞くと、4つ離れているというのはケンカをしなかった理由にならないのかも?と思う。


妹とケンカした記憶は一度だけ、私が小学校低学年の頃、何が原因か分からないがお互いに腕にかみつきあったというのを覚えている。


腹が立っているのだが、どの程度力を入れて噛み付いたものか、相手が痛がるけど、傷にはならない程度にと、迷いながら噛み付いた覚えがある。 


それが、ケンカらしいケンカの最後だったんではないかと思う。


同じ頃だと思うが、ある日、父がめずらしーく、私達姉妹にと、キャンデーの入ったかわいらしいかごを二つ買って来た。 かごの色は一つはピンクで、もう一つはブルーだった。


その時、妹は家にいなくて、父はどっちがいい?と聞いてきた。


私はピンクが大好きだったので当然ピンクの方を取りたかったが、妹があとから来てピンクを欲しがるのは火を見るより明らかだったので、私はブルーを選んだ。


ピンクを選べなかった気持ちを紛らすために、私は、「青だってすてきだ。」と、自分に言い聞かせた。


母に「何色が好き?」と聞くと、青とか緑とか言うので自分もそうだと思い込もうとした気持ちもあった。


その時以来、私は自分が本当に好きだったピンクを心の奥に封印してしまった。


大人になって、なんであの時、ケンカになっても良いからピンクがいいって主張しなかったんだろうと思った。 結果は、「お姉さんなんだから我慢しなさい。」と、結局は妹に譲ることになっただろうけども、それでも親は、「この子はピンクが好きなんだ。」ということだけは分かってくれただろうし、好きでもなかった色を好きだと思い込まなくても済んだのに。


思うに私は、負けると分かってる勝負をするのが嫌だったんじゃないだろうか。


もしくは、争い事自体がすごく嫌だったか。


とにかく、妹と争うことと自分が身を引くのとでは、自分が身を引く方が不快度が低かったのだ。


そんなわけで妹とも弟ともほとんど全くケンカをしなかった私だが、じゃあ兄弟仲が良いかというと全然仲良くないと思う。 両親は(特に父は)妹をかわいがった。 妹はかなり大きくなるまで父にべったりだったので、そりゃあかわいかっただろうなと思う。 反対に私は小学生の頃から母に父の悪口を聞かされて、父のことが大嫌いだったし。 そういう、親子関係に加えて、私は妹という人が好きになれなかった。


私の友達の弟が、妹と同級生だったのだが、とても優しくていい弟なのに、妹は「あの子ヘンだから嫌。気持ち悪い。」などと言うのだ。 そういうことを平気で言う人なのだ。 私のことも、私は高校生の時に心の病気から身体に変調をきたしていたのだけど、「こんな人が私の姉なんて信じられない。」と言ってたくらいなので軽蔑していたのではないかと思う。


今では普通に付き合っているが、人間的に好きだとは言い難い。


小さい頃にもっとケンカをしていたら、兄弟がもっと仲良かったのだろうか... それとも、ただ単に性格が相容れないのだろうか...


そんなふうに妹弟達と距離を置いて来た私にとって、我が子達が年中姉弟喧嘩をしているのがただただ理解不能。


お風呂に一人が入ろうとするともう一人が自分が先に入ろうとしてケンカになり、一人がパソコンを始めようとするともう一人が自分もやろうとしてケンカになる...


あんたたちバカ? と言いたくなる。


もしくは、不機嫌なふうちゃんが、わざわざ倫太郎に相手がむかつくような言葉を投げかけて言葉の応酬が始まる。


もうホントー耐えられない。 たいがいは我慢して無視するか、見えない場所に移動するけど、時々耐えられなくて、「ケンカするのはいいけど、外でやって!!!!!」とキレてしまう。


争い事が目の前で繰り広げられていると、心がものすごくざわざわするのだ。 「あああああ、耐えられない。」って叫びたくなっちゃう。 ついさっきまで二人仲良く遊んでいるのを見て、「二人子供産んで良かったなぁ。」などとしみじみ思ったばかりだというのに、とたんに、一人っ子の親御さんが無性にうらやましくてたまらなくなる。


だいたい、「むかつく!」「ばか!」「おまえなんか死ね!」などの口喧嘩から始まり、放っておくとモノを投げあったり暴力に発展して行く。 こないだは一人が空き缶を手に取って至近距離から投げようとしたので、一瞬「あ、あれは危険!」と思ったけど、わざと一度テーブルに当ってから相手に当るように投げてたのでちょっと安心した。 マジギレしてても、加減をしているのだ。


以前は「おかあさん、倫太郎がー!」とか、「おかあさん、ふうちゃんが○○してくる!」などと私に解決を求めてくることが多かったが、私が取り合わないのが分かって来たのか、最近は私のところへ言ってくることがなくなった。 大喧嘩になった後、まだ腕力でかなわない倫太郎が負けて終わることも多いけど、以前より不機嫌をひきずらなくなった気がする。 大喧嘩に負けてさぞ不機嫌かと思いきや、けろっとしてたりもする。


ケンカが多い原因は私にあるのだろうとも思う。 ちゃんとひとりひとりが十分愛情を感じて満足していればこんなことにはならないのかも、とも。 


そういうのもあって、最近、ふうちゃんと意識してちゃんとした会話をするように心がけている。 年中家にいる倫太郎と違ってなかなかゆっくり話す時間もないふうちゃんなのだ。 私から話し掛けるわけではなく、向こうから話し掛けて来た時に、以前は「ながら」で聞いていたのだが、一旦手を休めて、ちゃんとふうちゃんの方に向かってすわり直して聞くという具合だ。 やろうやろうと何年も思って出来なかったことなのだ。


そうするとまあ延々と話してくる。 部活のことなんかで、「それはサボってるあんたが悪いんでしょ。」と言いたくなるような愚痴とかも、頑張って(^^;、うんうんと聞く。 しかし本当に際限がないうえに内容が幼稚(中学生にしては)なのでしまいにはやっぱり退屈してしまう。 話題が途切れたところで、「そろそろお風呂に入れば?」などと言ってしまう。 次回はふうちゃんが自分から離れるまで頑張ってみようか...


そういえばここんとこバカバカしい口喧嘩を見てないかも。


確かこないだ二人が口喧嘩をしてた時、私はイライラして、「相手にやられたからってこっちもやり返すって、延々と繰り返してるから世界から戦争が無くならないんだよっ!!」と捨て台詞を吐いて2階に避難したんだっけ。


二人も、世界平和と姉弟ケンカの因果関係について考えてくれたのだろうか...(笑)