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simachyanのブログ

シャンソンを日本語に訳詞して唄ったりして遊んでいます。
ご隠居さんの手慰みであり、自己充足的な世界です。

水に流して
Non, je ne regrette rien
エデイット・ピアフ Edith Piaf
1960年発表のシャルル・デュモンCharles Dumont作曲のシャンソンで、
原題の訳は Non, je ne regrette rien、「私は決して後悔しない」となる。。
最初は折からのアルジェリア紛争もあり、
軍隊行進曲として作られたとも言われているが、
コラ・ヴォケールの夫であり、作詞家のミシェル・ヴォケール(Michel Vaucaire)が
この曲に歌詞を作るに当たり、大変に苦悩した末に
「Non, je ne trouverai rien, non, je ne trouverai rien
(だめだ、何も浮かばない)と
デュモンに嘆いたということからタイトルが浮かんで、
内容が作られたと言われている。
出来上がったこの作品をヴォケールは、
絶対ピアフに歌ってもらうべきだと主張したが、デュモンは渋ったという。
それまでに何回もピアフに持ち込んでみたが、
全て拒否されていたので、デュモンはヴォケールの提案を受け入れる替わりに、
ピアフに曲を提案するのはこれが最後にしたいと思っていたという。

その頃のピアフは、1958年ムスタキの車に乗っていて
事故に遭い重症を負い、その後の深刻なモルヒネ中毒に
苦しんだりしていたこともあり、静養して居たのだが再起が危惧されていた。
しかし、このデュモンの作品ををピアフは大いに喜び、
寝室から出てきて何回も何回も弾かせて聴いていたという。
そして、この曲に支えられでもしたかのように見事再起して、
当時倒産に追い込まれそうになっていたオランピア劇場のため、
1960年12月29日~1961年4月6日まで、
4回目の奇跡のオランピア劇場公演をし、
この「水に流して」が歌われ、大喝采を浴びレコーディングもされ、
劇場も再起・復活した。

そして、ピアフにとって最後の大ヒット曲となるが
デュモンにとっても人生の大変換となった曲でもある。
その後、ピアフは’62年に23歳年下のテオ・サラポ Théo Sarapo
 (ヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身) と
マレーネ・ディートリッヒの介添えで結婚する。

翌’63年パリの「オランピア劇場」での公演を、
衰弱していてようやく立てるという体調を
サラボの献身的な支えで成功させた後、
最後の曲「ベルリンの男 L'homme de Berlin」を録音したが、47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラで癌により死去する
夫であるサラポは妻ピアフの死後、
妻の残した多額の借金を独力ですべて返済した。
だが、彼もピアフの死後7年後に自動車事故で亡くなる。

ピアフは、シャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、
自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させたりしてバックアップした。
また、その他にも、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー、ジョルジュ・ムスタキなどピアフに才能を見出され世に出て、しかも大成功した歌手は数多に及ぶ。

今回の私の歌の方は、ブルースロックをイメージしていたのですが、
技量が伴わず中途半端になり、未消化となりました。
かなり違和感を持った方もおられると思いますが、
終わりのない究極の自己満足を追求している”Sima World”のプロセスです。
イメージを損ねているとしたら、大変に申し訳ありません。m(__)m

参考
愛の讃歌(改定版) Ver.2
     https://youtu.be/-Wvtj8bBFxY
愛の讃歌(再改定版) Ver.3
    https://youtu.be/dZCi7UuA8X0
群衆
    https://youtu.be/sACq9BEjOqA

訳詞・歌 Sima
Pf    江口純子   in 市川 ラ・メール
訳詞 no.126 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/featured
モダンシャンソンと言われる流れを受け継ぐと言われる、セルジュ・ゲンズブール & SERGE GAINSBOURG  の代表的シャンソンの一つ。
”枯葉によせて”(訳詞改訂版) LA CHANSON DE PREVERT 

イヴ・モンタン主演の「夜の門」の挿入歌で有名な「枯葉」の詩人 プレヴェールにゲンズブールが1961年に作詞作曲して捧げたと言われる名曲。
一説では、この不滅の名曲「枯葉」対しての嫉妬心から生まれたともいわれる。

ゲンズブールを押し上げてくれたミッシェル・アルノーが創唱したほか、本人はもとよりイザベル・オーブレやコラ・ボケール等、多くの歌手がリリースしている。
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既にアップしていた訳詞初稿・改訂稿がコンテンツの一致と言う警告を受けましたので、再考・改編し直しての再アップ作品です。
前アップ作品をお気に入りや、共有をして頂いた方、チャンネル紹介をして頂きました方々には、「削除されました」という画面になってしまいますが、ご迷惑をおかけして大変申し訳なくお詫び申し上げます。m(__)m
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訳詞・歌 Sima  
Pf. 江口純子        /    in 市川 ラ・メール
訳詞  no.43 (再・改訂版)

シャンソン・訳詞のチャンネル
Chanson de sima (Sima World)
http://www.youtube.com/user/fwhy3109?ob=0&feature=results_mainured

「光る河」は長谷川きよし自身による作曲だが、作詞は当時の妻であった津島玲。

1967年18歳で「銀巴里」のオーディションに合格、日本アマチュアシャンソンコン­クールにも入選して、1969年「別れのサンバ」で鮮烈的なデビューをした。
今回の「光る河は」1970年の2枚目のアルバム「透明なひとときを」に収録された作­品。
勝手にに和シャンソンとして位置付けて私選させていただきました。

尚、この曲の背景にさせていただいた写真の数々は、何回もお世話になっている"春瑠"­さんの貴重な愛蔵作品の中から、今回も好き勝手に選ばせてもらって、構成させていただ­いたものです。
ありがとうございました。
(画面の切り替わりに、プレや揺れ等で歪みの生じている個所がありますが、アップ時の­処理が上手く機能しなかったようです。見苦しい点については申し訳ありません)

参考(私選・和シャンソン)
  歩きつづけて     https://youtu.be/M21qmIwXb5I
  時代おくれの酒場     https://youtu.be/_mRZYO4wh0U
  涙をふいて     https://youtu.be/UmcXcv6wcE8
  身も心も     https://youtu.be/IoBKqW9Oy8Q
  見送った季節のあとで     https://youtu.be/Tw_-kmBdw-E

cover By Sima
Pf 江口純子   in 市川 ラ・メール

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
ラ・リベルテ (自由と踊れ!) 
La Liberte
パトリシア・カース Patricia Kaas

1993年のアルバム「永遠に愛する人」へに発表・収録された一曲。
作詞 Marc Lavoine 作曲 Fabrice Aboulker
このアルバムには「ホテル・ノルマンディ」
「はかない愛だとしても」等の名作も含まれ­ている。
カースの場合、作曲はだれかに任せても
歌詞については自分の想いを作詞者に伝え、こだ­わると言われる。
「はかない愛だとしても」の中の一節、
「人生が影のように虚ろな時があったとしても、­
夢は決して奪われたりすることはない」というフレーズは、
誰しもがいろんな想いを喚起­させることだろう。
曲のそれぞれにシュールな面やブルース、ロック等の
底に流れるエスプリ、人間臭さを共­通して感じさせてくれる。
このアルバムから、自分自身をあからさまに語るかのような
曲作りに入って行ったと言わ­れる。
そして歌う時はいつも、その時点の等身大でぶつけているのだそうな。

 はかない愛だとしても
 マ・キャゴール・ア・モワ
 ヴィーナス達の涙

訳詞・歌 Sima
Pf 砂原嘉博   in ライヴ・カフェ”凡” 
訳詞 no.125 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
ラ・リベルテ (自由と踊れ!) La Liberte パトリシア・カース Patricia Kaas
じっとこうして Reste
(シャルル・アズナヴールCharles Aznavour) 
1964年にアズナヴール自身が作詞・作曲し歌った作品。
 
アズナヴールの作品群は、総じて「愛の変奏曲」だと言われる。
激しく、悩ましく、惨めさや痛み、苦しみと時には甘く・・。
「愛とは、占有の本能であり、それを失うことの怖れ、
尽きぬ苦悩、冷酷・惨めさに反して窒息しそうなほどの歓喜、
あるいは避けがたい破滅への闘争、
本能の中での妥協・和解・・・悦楽」とは、アズナヴールの言葉。
人生は「愛」であり、愛憎こそが人生の軌跡を為すのだと言うことだろうか。
時にはエロチックに生々しさの漂う作品もあるが、
ゲンズブールのそれとは少し(かなり?)違っているように感じる。

和訳による男性詞があるのかどうかの知見は無いけれど、
日本では女性のシャンソン歌手たちによって歌われている人気曲。

訳詞・歌 Sima
Pf    にしかわまこと   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.124 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/featured
貴女なしでは 
Without You & Tres Palabres (三つの言葉)

1942年にキューバのシンガーソングライターで、
「キサス・キサス・キサス」等、多くの名曲を残している 
オズヴァルド・ファレス Ozvaldo Farrestが発表した作品で
「Tres Palabras (三つの言葉)」が原曲。
後にレイ・ギルバート Ray Gilbertが
「without you」と言うタイトルで英語の詞を付けたものが広まり、
東京キューバン・ボーイズの楽団テーマソングにもなった。
「Tres Palabres」とは、「三つの言葉」という意味だが、
「コモ・メ・グスタス」(どんなに 貴女が 好きなことか)である。
「without you」は、「貴女なしでは」と訳されているが、
同じ「without you」で
「貴女なしには」というスタンダードジャズの名曲もあるが、
別物である。

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.123 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
愛すれば愛するほど Più m'innamoro di te 
ルイジ・テンコ Luigi Tenco 
作詞モゴール 作曲カルロ・ドニーダ によって作られたカンツォーネ。

テンコの死後15年以上経った、1984年に見出された未発表曲で1994年発売された「Quando...tributo a Luigi Tenco」 と言うアルバムに収録。

1967年のサンレモ音楽祭でダリダの出場の為に作られたCiao amore ciaoを初日に歌ったものの、予選落ちをしてしまったルイジ・テンコは独りホテルに帰り、ピストル自殺をはかり28歳という短い生涯の幕を閉じた。
ルイジ・テンコとパートナーを組んで歌う予定だった二人は何度か会っているうちに恋に落ちる。
この時彼女は34歳。
彼の死に直面したダリダは半狂乱となるも傷心のまま帰仏し、一か月程してテンコと初めて会ったホテルの部屋で服毒自殺をはかる(発見が早く未遂)。
その後、彼女自身がエントリー曲Ciao amore ciao(チャオ・アモーレ・チャオ)を歌っているが「歌うのは良いのだけれど、聴くのは耐えられない」と言っていたとか。
そしてダリダ自身は、、54歳の1987年5月にパリ・モンマルトルの自宅で 「人生にもう耐え難い。私を許して」と遺言状を残しバルビタールという睡眠薬を服用して自殺。
そんなダリダが年下の男性を想って歌った名曲が、「18歳の彼(il venait d'avoir 18 ans)」である。
この曲のヒットは1973年だが、彼女はルイジ・テンコのことを想って歌っていたのかも。

ルイジ・テンコ (vm)  Luigi Tencoは、1938年3月21日ジェノヴァの北北西50kmにある小さな町カッシーネ (アレッサンドリア)生まれ、やがて養子となってジェノヴァで育ちました。
ジェノヴァ大学工学部で理論物理学を学んでいる間に作曲を始め、イタリア音楽界に新風を吹き込もうと活動していたグループの一員となります。
後にジェノヴァ派カンタウトーレと呼ばれたこのグループは以後のカンツォーネに多大な影響を与えることになりました。
58年ミラノに出来たばかりのレコード会社リコルディにジェノヴァ派カンタウトゥーレ達が入社し、ルイジ・テンコも59年3月に歌手としてデビューしました。
また他のシンガーソングライター同様に違うペン・ネームで作品を作っています。
62年には、そのイケ面からか映画「La cuccagna」に出演しその後も俳優として活躍していた。
彼の死後、残された曲は多くの歌手に歌われている。

カンタトゥーレ、ルイジ・テンコの傑作「愛のめざめ / HO CAPITO CHE TI AMO」は、「花のささやき」等でよく知られるウイルマ・ゴイクに提供した曲で、ゴイクを一気に知らしめる曲でもあった。

この作品は、「春瑠」さんのブログを通じて知り合った「ccckaさん」の愛蔵写真をお借りして自由に構成させていただきました。
ありがとうございました。

訳詞・イントロ編曲・歌 Sima
Pf      にしかわまこと   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.123 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル 
chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
1972年(昭和47年)に「大塚たけし」と言う芸名で歌手デビューするも、不発。
その後、博多のクラブでの弾き語りの活動などが評判になり、
渡辺プロからの誘いを受けて上京。
1976年(昭和51年)6月26日、「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で
大塚博堂として32歳の再デビュー、この曲が評判となりジワジワとヒット。
続いて「めぐり逢い紡いで」「過ぎ去りし想い出は」や「季節の中に埋もれて」などの
名曲を次々と発表し、活発な音楽活動を行ったが、
1981年(昭和56年)5月18日に脳内出血のため37歳で急逝した。
5年間の活動に凝縮された彼の作品は、レコード化されたものが約80曲、
没後に発表されたものを含めて約90曲あると言う。
その他、岩城滉一氏、ペギー葉山氏等・他の歌手に提供した曲が40曲程あるようだ。
根強いフアンが現在も多く存在して「博堂を歌おう」と言うような会を
毎月主催しているライヴハウスもあるほどだ。

参考(私選・和シャンソン)
  歩きつづけて
    https://youtu.be/M21qmIwXb5I
  時代おくれの酒場
    https://youtu.be/_mRZYO4wh0U
  涙をふいて
    https://youtu.be/UmcXcv6wcE8
  身も心も
    https://youtu.be/IoBKqW9Oy8Q         
     見送った季節のあとで
    https://youtu.be/Tw_-kmBdw-E

Cover歌 by Sima
Pf    江口純子   in  ラ・メール

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109...
何故私に愛を語らない 
TU NE ME PARLES PLUS D'AMOUR(愛の苦しみ) 
シルヴィー・ヴァルタン & ミーノ・レイターノ

ヴァルタン版は1976年「そよ風のブロンド」と言うタイトルのアルバムに
「愛の苦しみ」として収録。

原曲は、1974年サンレモ音楽祭入賞曲「INNAMORATI(恋人たち)」で
ミーノ・レイターノの作品。
スペイン語の歌詞も「Ya no me hablas mas de amor」で歌われているようだ。
原詞 Liciano BERETTA
原曲 Mino REITAINO & Franco REITANO
と言うのが通説だが、レイターノ兄弟は作詞としてベレッタと共作、
作曲は Mariano Dettoだと言う説もある。
フランス語歌詞は、ピエール・ドラノエがつけ、パトリック.ラリュが編曲として関わっています。 
ヴァルタンは「アイドルを探せ」で日本でも100万枚を売り上げて一世を風靡したが、
1965年5月、20歳の時に初来日した機会に制作された
婦人服メーカーレナウン「ワンサカ娘」のCMソングは巷にあふれた。

日本語歌詞の「何故私に愛を語らない」は、カンツォーネ歌手の
松宮一葉氏が多分スペイン語の歌詞からの訳詞した際に付けられたものと思われる。
スペイン語とフランス語の詞の内容はほぼ同じと言われています。
私の日本語詞はフランス語版を元にしていますが、
完璧とも思える松宮さんの訳詞に対してかなり躊躇し迷いましたが、
思い切って取り組んでみましたら・・・恐れ多いことですが、
なんだかアンサーソングみたいになったと感じるのは
思い過ごしでしょうか・・失礼しました。_(_ _)_

この作品も、いつもお世話になっている「村田ナオミ」氏の「INNAMORATI」の
下記ページも参考にさせていただきました。
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/112199601202/innamorati-恋をして

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.122 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
これが私の人生 &  人生を歌う    
Ma vie je la chante & Questa è la mia vita
ダリダ & Dalida
ドメニコ・モドゥーニョ & Domenico Moudugno

ダリダの「人生を歌う」は、Questa è la mia vita「これが私の人生」でドメニコ・モドゥーニョが74年のサンレモで準優勝した作品が原曲。
作詞 LUCIAN BERETTA(伊) 作曲 DOMENICO MOUDUGNO 仏作詞 PASCAL SEVRAN

★ドメニコ・モドゥーニョは、シンガーソングライターとして1958年のサンレモ音楽祭で「ヴォラーレ」を歌い見事入賞し、一躍世界的に知られるようになる。
それまでのカンツォーネの潮流を変えたと言われる存在となってゆく。
米国で第1回グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞も受賞。
その後も1959年「チャオ・チャオ・バンビーナ」1962年「Addio Addio(アディオ・アディオ)」1966年「Dio come ti amo(愛は限りなく)」で通算4度、サンレモ音楽祭で優勝している
そして1987年にイタリア国会議員に当選、1994年にランペドゥーザ島で66歳で没した。
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★ダリタは、1933年1月17日エジプトのカイロで生まれ、ミスエジプトにも選ばれてモデルになるも、女優を目指して渡仏。
生活の為にナイトクラブで歌っているところをオリンピアの支配人の目にとまり、レコード会社に紹介されて才能が開花し運が開く。
1957年「バンビーノ」を発表して大ヒット、フランスで初めて踊りながら歌う歌手として大成功を収め、ヨーロッパから世界制覇へと羽ばたいていく。
‘67年のサンレモ音楽祭に出場するに当たり、彼女の曲を作ることになった若きシンガーソングライターのルイジ・テンコと知り合い恋に落ちる。
パートナーとしても歌うことになったルイジ・テンコは初日の審査に落ち、落胆とダリダとの格の違いも感じショックを受けたのか、一人ホテルに帰り自殺をしてしまう。
第一発見者はダリダで、半狂乱となったと言う。
一ヶ月後、傷心の彼女は彼と初めて会ったパリのホテルの一室で服毒自殺を図り昏睡状態に陥るが、発見が早く命を取り止めた。
そして、隣人でもあったアラン・ドロンの励ましもありデュエットした「甘いささやき(Paroles,paroles)」が大ヒットとなり見事に復活。
ダリダは生涯4回結婚し、内3人の夫も自殺していて魔性の女などとも称された。
ルイジ・テンコが自殺して20年目の87年5月パリ・モンマルトルの自宅で 「人生にもう耐え難い。私を許して」と遺言状を残し、睡眠薬自殺、モンマルトルの墓地に眠る。
「人生を歌う」は、1976年1月発表の「愛の追憶」と言うアルバムに収録されている。
「私は、人生、それ自体をあまり良く見ないで、渡ってきた。
 私は、私の人生が何なのかを知っている。
 私の夫、それは大衆。歌は、私の子供達。」<ダリダ> 

この作品は、いつも対訳でお世話になっている「村田ナオミ」さんに今回もお願いしたところ、仏語のみならず原曲の伊語も訳していただきました。
双方を見て取り組み、相変わらずSima World の日本語歌詞を作成させていただきました。
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/137249649407/questa-e-la-mia-vita-これが私の人生
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/137514456872/ma-vie-je-la-chante-人生を歌う

参考
 「ブリュッセルに注ぐ雨」(雨のブリュッセル)
https://youtu.be/hSbuF7m6uds
 「それぞれのテーブル」
       https://youtu.be/exhVbpiwbyM
 「めぐり逢いたくて」(めぐり逢うために)
       https://youtu.be/gQBOFy_JoMY

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.121 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos