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simachyanのブログ

シャンソンを日本語に訳詞して唄ったりして遊んでいます。
ご隠居さんの手慰みであり、自己充足的な世界です。

ラ・リベルテ (自由と踊れ!) 
La Liberte
パトリシア・カース Patricia Kaas

1993年のアルバム「永遠に愛する人」へに発表・収録された一曲。
作詞 Marc Lavoine 作曲 Fabrice Aboulker
このアルバムには「ホテル・ノルマンディ」
「はかない愛だとしても」等の名作も含まれ­ている。
カースの場合、作曲はだれかに任せても
歌詞については自分の想いを作詞者に伝え、こだ­わると言われる。
「はかない愛だとしても」の中の一節、
「人生が影のように虚ろな時があったとしても、­
夢は決して奪われたりすることはない」というフレーズは、
誰しもがいろんな想いを喚起­させることだろう。
曲のそれぞれにシュールな面やブルース、ロック等の
底に流れるエスプリ、人間臭さを共­通して感じさせてくれる。
このアルバムから、自分自身をあからさまに語るかのような
曲作りに入って行ったと言わ­れる。
そして歌う時はいつも、その時点の等身大でぶつけているのだそうな。

 はかない愛だとしても
 マ・キャゴール・ア・モワ
 ヴィーナス達の涙

訳詞・歌 Sima
Pf 砂原嘉博   in ライヴ・カフェ”凡” 
訳詞 no.125 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
ラ・リベルテ (自由と踊れ!) La Liberte パトリシア・カース Patricia Kaas
じっとこうして Reste
(シャルル・アズナヴールCharles Aznavour) 
1964年にアズナヴール自身が作詞・作曲し歌った作品。
 
アズナヴールの作品群は、総じて「愛の変奏曲」だと言われる。
激しく、悩ましく、惨めさや痛み、苦しみと時には甘く・・。
「愛とは、占有の本能であり、それを失うことの怖れ、
尽きぬ苦悩、冷酷・惨めさに反して窒息しそうなほどの歓喜、
あるいは避けがたい破滅への闘争、
本能の中での妥協・和解・・・悦楽」とは、アズナヴールの言葉。
人生は「愛」であり、愛憎こそが人生の軌跡を為すのだと言うことだろうか。
時にはエロチックに生々しさの漂う作品もあるが、
ゲンズブールのそれとは少し(かなり?)違っているように感じる。

和訳による男性詞があるのかどうかの知見は無いけれど、
日本では女性のシャンソン歌手たちによって歌われている人気曲。

訳詞・歌 Sima
Pf    にしかわまこと   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.124 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル
chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/featured
貴女なしでは 
Without You & Tres Palabres (三つの言葉)

1942年にキューバのシンガーソングライターで、
「キサス・キサス・キサス」等、多くの名曲を残している 
オズヴァルド・ファレス Ozvaldo Farrestが発表した作品で
「Tres Palabras (三つの言葉)」が原曲。
後にレイ・ギルバート Ray Gilbertが
「without you」と言うタイトルで英語の詞を付けたものが広まり、
東京キューバン・ボーイズの楽団テーマソングにもなった。
「Tres Palabres」とは、「三つの言葉」という意味だが、
「コモ・メ・グスタス」(どんなに 貴女が 好きなことか)である。
「without you」は、「貴女なしでは」と訳されているが、
同じ「without you」で
「貴女なしには」というスタンダードジャズの名曲もあるが、
別物である。

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.123 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
愛すれば愛するほど Più m'innamoro di te 
ルイジ・テンコ Luigi Tenco 
作詞モゴール 作曲カルロ・ドニーダ によって作られたカンツォーネ。

テンコの死後15年以上経った、1984年に見出された未発表曲で1994年発売された「Quando...tributo a Luigi Tenco」 と言うアルバムに収録。

1967年のサンレモ音楽祭でダリダの出場の為に作られたCiao amore ciaoを初日に歌ったものの、予選落ちをしてしまったルイジ・テンコは独りホテルに帰り、ピストル自殺をはかり28歳という短い生涯の幕を閉じた。
ルイジ・テンコとパートナーを組んで歌う予定だった二人は何度か会っているうちに恋に落ちる。
この時彼女は34歳。
彼の死に直面したダリダは半狂乱となるも傷心のまま帰仏し、一か月程してテンコと初めて会ったホテルの部屋で服毒自殺をはかる(発見が早く未遂)。
その後、彼女自身がエントリー曲Ciao amore ciao(チャオ・アモーレ・チャオ)を歌っているが「歌うのは良いのだけれど、聴くのは耐えられない」と言っていたとか。
そしてダリダ自身は、、54歳の1987年5月にパリ・モンマルトルの自宅で 「人生にもう耐え難い。私を許して」と遺言状を残しバルビタールという睡眠薬を服用して自殺。
そんなダリダが年下の男性を想って歌った名曲が、「18歳の彼(il venait d'avoir 18 ans)」である。
この曲のヒットは1973年だが、彼女はルイジ・テンコのことを想って歌っていたのかも。

ルイジ・テンコ (vm)  Luigi Tencoは、1938年3月21日ジェノヴァの北北西50kmにある小さな町カッシーネ (アレッサンドリア)生まれ、やがて養子となってジェノヴァで育ちました。
ジェノヴァ大学工学部で理論物理学を学んでいる間に作曲を始め、イタリア音楽界に新風を吹き込もうと活動していたグループの一員となります。
後にジェノヴァ派カンタウトーレと呼ばれたこのグループは以後のカンツォーネに多大な影響を与えることになりました。
58年ミラノに出来たばかりのレコード会社リコルディにジェノヴァ派カンタウトゥーレ達が入社し、ルイジ・テンコも59年3月に歌手としてデビューしました。
また他のシンガーソングライター同様に違うペン・ネームで作品を作っています。
62年には、そのイケ面からか映画「La cuccagna」に出演しその後も俳優として活躍していた。
彼の死後、残された曲は多くの歌手に歌われている。

カンタトゥーレ、ルイジ・テンコの傑作「愛のめざめ / HO CAPITO CHE TI AMO」は、「花のささやき」等でよく知られるウイルマ・ゴイクに提供した曲で、ゴイクを一気に知らしめる曲でもあった。

この作品は、「春瑠」さんのブログを通じて知り合った「ccckaさん」の愛蔵写真をお借りして自由に構成させていただきました。
ありがとうございました。

訳詞・イントロ編曲・歌 Sima
Pf      にしかわまこと   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.123 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル 
chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
1972年(昭和47年)に「大塚たけし」と言う芸名で歌手デビューするも、不発。
その後、博多のクラブでの弾き語りの活動などが評判になり、
渡辺プロからの誘いを受けて上京。
1976年(昭和51年)6月26日、「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で
大塚博堂として32歳の再デビュー、この曲が評判となりジワジワとヒット。
続いて「めぐり逢い紡いで」「過ぎ去りし想い出は」や「季節の中に埋もれて」などの
名曲を次々と発表し、活発な音楽活動を行ったが、
1981年(昭和56年)5月18日に脳内出血のため37歳で急逝した。
5年間の活動に凝縮された彼の作品は、レコード化されたものが約80曲、
没後に発表されたものを含めて約90曲あると言う。
その他、岩城滉一氏、ペギー葉山氏等・他の歌手に提供した曲が40曲程あるようだ。
根強いフアンが現在も多く存在して「博堂を歌おう」と言うような会を
毎月主催しているライヴハウスもあるほどだ。

参考(私選・和シャンソン)
  歩きつづけて
    https://youtu.be/M21qmIwXb5I
  時代おくれの酒場
    https://youtu.be/_mRZYO4wh0U
  涙をふいて
    https://youtu.be/UmcXcv6wcE8
  身も心も
    https://youtu.be/IoBKqW9Oy8Q         
     見送った季節のあとで
    https://youtu.be/Tw_-kmBdw-E

Cover歌 by Sima
Pf    江口純子   in  ラ・メール

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109...
何故私に愛を語らない 
TU NE ME PARLES PLUS D'AMOUR(愛の苦しみ) 
シルヴィー・ヴァルタン & ミーノ・レイターノ

ヴァルタン版は1976年「そよ風のブロンド」と言うタイトルのアルバムに
「愛の苦しみ」として収録。

原曲は、1974年サンレモ音楽祭入賞曲「INNAMORATI(恋人たち)」で
ミーノ・レイターノの作品。
スペイン語の歌詞も「Ya no me hablas mas de amor」で歌われているようだ。
原詞 Liciano BERETTA
原曲 Mino REITAINO & Franco REITANO
と言うのが通説だが、レイターノ兄弟は作詞としてベレッタと共作、
作曲は Mariano Dettoだと言う説もある。
フランス語歌詞は、ピエール・ドラノエがつけ、パトリック.ラリュが編曲として関わっています。 
ヴァルタンは「アイドルを探せ」で日本でも100万枚を売り上げて一世を風靡したが、
1965年5月、20歳の時に初来日した機会に制作された
婦人服メーカーレナウン「ワンサカ娘」のCMソングは巷にあふれた。

日本語歌詞の「何故私に愛を語らない」は、カンツォーネ歌手の
松宮一葉氏が多分スペイン語の歌詞からの訳詞した際に付けられたものと思われる。
スペイン語とフランス語の詞の内容はほぼ同じと言われています。
私の日本語詞はフランス語版を元にしていますが、
完璧とも思える松宮さんの訳詞に対してかなり躊躇し迷いましたが、
思い切って取り組んでみましたら・・・恐れ多いことですが、
なんだかアンサーソングみたいになったと感じるのは
思い過ごしでしょうか・・失礼しました。_(_ _)_

この作品も、いつもお世話になっている「村田ナオミ」氏の「INNAMORATI」の
下記ページも参考にさせていただきました。
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/112199601202/innamorati-恋をして

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.122 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
これが私の人生 &  人生を歌う    
Ma vie je la chante & Questa è la mia vita
ダリダ & Dalida
ドメニコ・モドゥーニョ & Domenico Moudugno

ダリダの「人生を歌う」は、Questa è la mia vita「これが私の人生」でドメニコ・モドゥーニョが74年のサンレモで準優勝した作品が原曲。
作詞 LUCIAN BERETTA(伊) 作曲 DOMENICO MOUDUGNO 仏作詞 PASCAL SEVRAN

★ドメニコ・モドゥーニョは、シンガーソングライターとして1958年のサンレモ音楽祭で「ヴォラーレ」を歌い見事入賞し、一躍世界的に知られるようになる。
それまでのカンツォーネの潮流を変えたと言われる存在となってゆく。
米国で第1回グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞も受賞。
その後も1959年「チャオ・チャオ・バンビーナ」1962年「Addio Addio(アディオ・アディオ)」1966年「Dio come ti amo(愛は限りなく)」で通算4度、サンレモ音楽祭で優勝している
そして1987年にイタリア国会議員に当選、1994年にランペドゥーザ島で66歳で没した。
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★ダリタは、1933年1月17日エジプトのカイロで生まれ、ミスエジプトにも選ばれてモデルになるも、女優を目指して渡仏。
生活の為にナイトクラブで歌っているところをオリンピアの支配人の目にとまり、レコード会社に紹介されて才能が開花し運が開く。
1957年「バンビーノ」を発表して大ヒット、フランスで初めて踊りながら歌う歌手として大成功を収め、ヨーロッパから世界制覇へと羽ばたいていく。
‘67年のサンレモ音楽祭に出場するに当たり、彼女の曲を作ることになった若きシンガーソングライターのルイジ・テンコと知り合い恋に落ちる。
パートナーとしても歌うことになったルイジ・テンコは初日の審査に落ち、落胆とダリダとの格の違いも感じショックを受けたのか、一人ホテルに帰り自殺をしてしまう。
第一発見者はダリダで、半狂乱となったと言う。
一ヶ月後、傷心の彼女は彼と初めて会ったパリのホテルの一室で服毒自殺を図り昏睡状態に陥るが、発見が早く命を取り止めた。
そして、隣人でもあったアラン・ドロンの励ましもありデュエットした「甘いささやき(Paroles,paroles)」が大ヒットとなり見事に復活。
ダリダは生涯4回結婚し、内3人の夫も自殺していて魔性の女などとも称された。
ルイジ・テンコが自殺して20年目の87年5月パリ・モンマルトルの自宅で 「人生にもう耐え難い。私を許して」と遺言状を残し、睡眠薬自殺、モンマルトルの墓地に眠る。
「人生を歌う」は、1976年1月発表の「愛の追憶」と言うアルバムに収録されている。
「私は、人生、それ自体をあまり良く見ないで、渡ってきた。
 私は、私の人生が何なのかを知っている。
 私の夫、それは大衆。歌は、私の子供達。」<ダリダ> 

この作品は、いつも対訳でお世話になっている「村田ナオミ」さんに今回もお願いしたところ、仏語のみならず原曲の伊語も訳していただきました。
双方を見て取り組み、相変わらずSima World の日本語歌詞を作成させていただきました。
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/137249649407/questa-e-la-mia-vita-これが私の人生
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/137514456872/ma-vie-je-la-chante-人生を歌う

参考
 「ブリュッセルに注ぐ雨」(雨のブリュッセル)
https://youtu.be/hSbuF7m6uds
 「それぞれのテーブル」
       https://youtu.be/exhVbpiwbyM
 「めぐり逢いたくて」(めぐり逢うために)
       https://youtu.be/gQBOFy_JoMY

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.121 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
 ダウン・タウン・ブギウギ・バンド DTBWB cover
作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童
1973年12月に東芝/エキスプレスレーベルからシングル「知らず知らずのうちに」でデビュー。
翌’74年にリリースした「スモーキン・ブギ」が70万枚の大ヒットとなり、一躍人気バンドとなる。
更に1975年、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で不動の地位を築く。
DTBWBとしての活動期間は1973年~1981年。
その後、1987年12月、2002年8月にシークレットライブ、2003年6月 “dmx in YAON ”でライブ、2007年11月と特別企画のライヴ毎に、度々再結成している。
「身も心も」は、松田優作の「探偵物語」の最終回、主人公の工藤俊作が刺されて死んでいくシーンでも使われたことでも知られている。
ブルースロックを基調としたようなDTBWBの曲の中でも珠玉の作品と感じていますが、私的に和シャンソンと勝手に採り上げcover&upさせていただきました。
「人生をかけて、一生歌い続けていく一曲」とは、宇崎竜童氏自身の言葉。
1977年9月5日シングル盤発売 「身も心も / ダウン・タウン・エンジェル」
1977年10月20日「身も心も」をタイトルとしたアルバム盤発売 

Cover歌 by Sima
Pf    砂原嘉博   in  ラ・メール

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos
後姿 & 去りゆく君に 
Pra Não Ver Voce Ir Embora 
ベニート・ジ・パウラ & Benito Di Paula 

日本では、長谷川きよし氏が最初に採りあげて「後姿」というタイトルで紹介された。
別れの朝、見送る男の複雑な葛藤を描いたブラジルのシンガーソングライター
「ベニート・ジ・パウラ」のラテンポップス。
「去りゆく君に」 として訳詞。

既に、Ver.2としてアップしていましたものが、
リズムを踏み外したりしていてピアニストさんに申し訳ないと
以前から思っていましたので、不得手なボサノヴァですが
同じピアニストの江口さんで録り直しをさせて貰ったものです。
既にアップしてある同曲のピアニストの違うバージョン
Ver.1との奏法の違いを楽しんでいただくのも一興かと思います。
よろしかったら、下記「去りゆく君に」Ver.1 もどうぞ。
http://youtu.be/4m5--r53WxQ

参考
  歩き続けて(長谷川きよし 作詞・作曲) Cover版
    https://youtu.be/M21qmIwXb5I

訳詞・歌 Sima          /   Ver.2
Pf      江口純子         /   in  市川 ラ・メール
訳詞 no.29 (up no.123)

シャンソン・訳詞のチャンネル
http://www.youtube.com/user/fwhy3109?ob=0&feature=results_main
ピア・コロンボ & PIA COLOMBO
作詞 リュック・ロマン 作曲 オスワルド・ダンドレア
日本では’75年に発売されたエスプリ・ドゥ・シャンソンという
アルバムに収録されている珠玉の一作。
このアルバムにはピアの代表作の一曲としても知られる
「スカーフ」を筆頭に「五月の夕べ」「すでに」等の
傑作が収録されているが、未だCD化されていないのが残念。
作曲のダンドレアは、ピアの専属ピアニストで彼女の為に幾多の作品を提供している。

ピア・コロンボは、イタリア人の父親、仏系ジプシーの血を引く
母親の間に産まれたが(1934年とも、’37年とも言われるが不明)、
生後まもなく修道院の前に捨てられ、孤児として幼少期を過ごした。
1956年パリ左岸のキャバレーで歌い始めた推定19歳の時、彼女に転機が訪れる。
若い作詞作曲家モーリス・ファノンと出会い、
恋に落ち結婚に至るも離婚することになるが、
ふたりは生涯の友として音楽で結ばれていたという。

そしてバルバラ、グレコとともに、セーヌ左岸を代表する歌手となった。
主としてモーリス・ファノン、レオ・フェレ、ムスタキ、ブレヒト等の作品を歌い、
現実派の歌手としてエディット・ピアフと比較されたこともあったようだ。
歌詞を重視して、歌うということよりも語る歌い手として「ディズーズ」とも言われる。
ピアは、常に自分の政治的立場を鮮明にし、
68年の5月革命では、ストライキ中の工場を慰安・激励したりし、
大統領選挙では、一貫してミッテランへの支持を表明したりしていた。

1979年から81年にかけては、自ら癌と闘いながら、
主としてかつては夫であり生涯の友人となっていた
モーリス・ファノンの曲を歌い、そして1981年4月22日、
彼女はオランピア劇場に髪の毛のない病身の最後の姿を現して
ステージに立ち、大喝采を浴びる。
1986年4月16日、闘病から身を引くように、享年51歳(52歳?)でその生涯を閉じた。

参考
 「すでに・・」
   https://youtu.be/oazKJCiHA0I
「スカーフ」
   https://youtu.be/bPuMN0W9dY4

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in  銀座 月夜の仔猫 
訳詞 no.122 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos