人生を歌う (これが私の人生) Ma vie je la chante ( ダリダ & ドメニコ | simachyanのブログ

simachyanのブログ

シャンソンを日本語に訳詞して唄ったりして遊んでいます。
ご隠居さんの手慰みであり、自己充足的な世界です。

これが私の人生 &  人生を歌う    
Ma vie je la chante & Questa è la mia vita
ダリダ & Dalida
ドメニコ・モドゥーニョ & Domenico Moudugno

ダリダの「人生を歌う」は、Questa è la mia vita「これが私の人生」でドメニコ・モドゥーニョが74年のサンレモで準優勝した作品が原曲。
作詞 LUCIAN BERETTA(伊) 作曲 DOMENICO MOUDUGNO 仏作詞 PASCAL SEVRAN

★ドメニコ・モドゥーニョは、シンガーソングライターとして1958年のサンレモ音楽祭で「ヴォラーレ」を歌い見事入賞し、一躍世界的に知られるようになる。
それまでのカンツォーネの潮流を変えたと言われる存在となってゆく。
米国で第1回グラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞も受賞。
その後も1959年「チャオ・チャオ・バンビーナ」1962年「Addio Addio(アディオ・アディオ)」1966年「Dio come ti amo(愛は限りなく)」で通算4度、サンレモ音楽祭で優勝している
そして1987年にイタリア国会議員に当選、1994年にランペドゥーザ島で66歳で没した。
  - 
★ダリタは、1933年1月17日エジプトのカイロで生まれ、ミスエジプトにも選ばれてモデルになるも、女優を目指して渡仏。
生活の為にナイトクラブで歌っているところをオリンピアの支配人の目にとまり、レコード会社に紹介されて才能が開花し運が開く。
1957年「バンビーノ」を発表して大ヒット、フランスで初めて踊りながら歌う歌手として大成功を収め、ヨーロッパから世界制覇へと羽ばたいていく。
‘67年のサンレモ音楽祭に出場するに当たり、彼女の曲を作ることになった若きシンガーソングライターのルイジ・テンコと知り合い恋に落ちる。
パートナーとしても歌うことになったルイジ・テンコは初日の審査に落ち、落胆とダリダとの格の違いも感じショックを受けたのか、一人ホテルに帰り自殺をしてしまう。
第一発見者はダリダで、半狂乱となったと言う。
一ヶ月後、傷心の彼女は彼と初めて会ったパリのホテルの一室で服毒自殺を図り昏睡状態に陥るが、発見が早く命を取り止めた。
そして、隣人でもあったアラン・ドロンの励ましもありデュエットした「甘いささやき(Paroles,paroles)」が大ヒットとなり見事に復活。
ダリダは生涯4回結婚し、内3人の夫も自殺していて魔性の女などとも称された。
ルイジ・テンコが自殺して20年目の87年5月パリ・モンマルトルの自宅で 「人生にもう耐え難い。私を許して」と遺言状を残し、睡眠薬自殺、モンマルトルの墓地に眠る。
「人生を歌う」は、1976年1月発表の「愛の追憶」と言うアルバムに収録されている。
「私は、人生、それ自体をあまり良く見ないで、渡ってきた。
 私は、私の人生が何なのかを知っている。
 私の夫、それは大衆。歌は、私の子供達。」<ダリダ> 

この作品は、いつも対訳でお世話になっている「村田ナオミ」さんに今回もお願いしたところ、仏語のみならず原曲の伊語も訳していただきました。
双方を見て取り組み、相変わらずSima World の日本語歌詞を作成させていただきました。
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/137249649407/questa-e-la-mia-vita-これが私の人生
http://shinshun-chanson-show.tumblr.com/post/137514456872/ma-vie-je-la-chante-人生を歌う

参考
 「ブリュッセルに注ぐ雨」(雨のブリュッセル)
https://youtu.be/hSbuF7m6uds
 「それぞれのテーブル」
       https://youtu.be/exhVbpiwbyM
 「めぐり逢いたくて」(めぐり逢うために)
       https://youtu.be/gQBOFy_JoMY

訳詞・歌 Sima
Pf      江口純子   in 市川 ラ・メール 
訳詞 no.121 (初稿)

シャンソン・訳詞のチャンネル chanson de Sima (Sima World)
https://www.youtube.com/user/fwhy3109/videos