<水戸城・弘道館 訪問> 2021年4月
大河ドラマで徳川斉昭という人に興味を惹かれ、はるばる水戸まで行ってきました。目的地は水戸城跡にある弘道館という藩校跡です。水戸藩は従来、尊王の意識が高く水戸学として受け継がれてきました。斉昭の時代になって外国船が頻繁に出没するようになり海防の重要性、そして攘夷なる思想が生まれます。そのリーダーシップを摂ったのが徳川斉昭です。正直、最近まで攘夷思想って神道かぶれの時代錯誤的な考え方と思っていましたが、どうやら斉昭は時代の流れは分かっていたものの清国のように欧米列強の植民地になることを避けるため国民一致団結という手段のための攘夷運動をめざしていたふしがあり考え方を変えられました。確かに開港地を言われるがままどんどん増やしていったらあっと言う間に欧米列強に蹂躙されていた気がします。その意味で幕末に置ける斉昭の存在は非常に大きかったかと。
斉昭は国を守るため藩士の教育が最重要と考え城内の藩士の屋敷を取り壊してまで弘道館という学校を建設しました。かなり広くて庭も大きく馬術修練場などもあり、まさに大学のキャンパスという感じでした。この弘道館で藩士達は学びそして攘夷に傾倒していったんだなあと思いを巡らせました。弘道館には水戸出身の最後の将軍徳川慶喜が将軍辞退の後、蟄居していた部屋が残されており、正座して慶喜の気持ちを知ろうと思いましたが、こちとら将軍やったことがないので今ひとつわからず・・。でも清楚な庭が横にあったので気持ちを落ち着けて過ごせたのかと。
その水戸藩ですが攘夷思想が膨れ上がり桜田門外の変で井伊直弼の暗殺を藩士が行い、その後天狗党の乱という攘夷運動を行いましたがこれが悲惨な結末を迎え大半の党員は斬首(徳川慶喜を頼ったのに無視。ひどい人です)。藩内でも改革派と保守派の血で血を洗う争いになり維新直後に弘道館を舞台にした弘道館戦争と言われる内乱で改革派は保守派に復讐を果たします。そして何が残ったかというと何も残らず維新後の政府には主立った水戸出身の人間は見当たりません。空しい限りです。興味のある方は吉村昭の「天狗争乱」或いは伊藤潤の「義烈千秋・天狗党西へ」をお読みください。まあ水戸藩は時代を先走りすぎたのでしょうか?現代の企業でもイノベーティブなビジネスを生み出しても早すぎてコストと利益が噛み合わずに潰れてしまい、それを見た二番手三番手がいいとこ取りをしていい目をみるってそんな感じでしょうか。
さて小腹も空いたのですがせっかく水戸まで来たのだから日本三代名勝園と言われる偕楽園にも行かねばと思いバスに乗っていきました。聞きしに勝る奇麗で広い公園。ここも徳川斉昭が藩の人々の憩いの場として作ったそうです。梅の木が半端なく多く開花の季節はさぞ見事だと思います。公園の出口に食堂があり納豆ぶっかけ蕎麦というのを注文しました。見た目気持ち悪かったのですが結構美味しかったです。蕎麦を混ぜると納豆のせいでずっしりした感じ・・。水戸駅では黄門さんと助さん角さんの銅像があり挨拶して帰りました。正直、水戸って観光にはイマイチかなと誤解してましたがなかなかどうして素晴らしいところです。