縄文人は日本列島内に閉じ込められていた訳ではない! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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分子人類学者の篠田謙一は、縄文人は日本列島内に閉じ込められていた訳でなく、朝鮮半島南部にも居たことを明らかにしている。

実は3600年前頃からの中国大陸の殷は縄文人の同族が樹立した国であった。例えば、タカラ貝漆器の文化を共有していたし、天皇の亀卜祭祀の源流でもあった(参考)。

そして、時代が降って春秋戦国時代末期の秦、楚、宋、斉などが殷人の末裔の国であったが、朝鮮半島の三国時代では、例えば高句麗・百済は殷人の末裔の国であった(参考)。


雑談1

遣隋使・遣唐使が往復していた頃、遷都を繰り返して都を拡張したのも、縄文人と同族の殷人の末裔の渡来人を収容して日本列島の人口が急激に増えたためであった。

この時代、隋・唐から文化を受容したことは定説となっているが、人の受け入れは余り明らかでないのは、日本国内の縄文人の末裔と殷人の末裔の渡来人の概念とその区別が明確でなかった為である。


雑談2

弥生時代の縄文人と渡来人の二重構造モデルは、地元の縄文人に対し、北部九州の銅剣文化と関西地域の銅鐸文化の渡来系弥生人に当てはまる。彼ら弥生人は中国大陸の揚子江中下流域(江南)にあった呉・越の国に証拠を残す稲作農耕民である。

彼らの後を追うように渡来して大和を中心として古墳時代を開始する人々は殷人の末裔の渡来人であり、強いて言えば江上波夫が提唱した騎馬民族の一派と言えるが、地元の縄文人の末裔と区別が難しかった。三重構造モデルを考える必要がある。


参考

① 九州北部と朝鮮半島南部の縄文人

河内飛鳥から古代史を考える(2011.5.14、参考)

縄文時代、九州北部と朝鮮半島南部に同じDNAを持つ縄文人が住んでいた ?!

篠田謙一著『日本人になった祖先たち:DNAから解明するその多元的構造』   NHKブックス2007年 抜粋編集/四木 信


火山が多く基本的には酸性の土壌に覆われた日本では、カルシウムを主体とした人の骨は土中で速やかに分解されてしまいます。そんななかで、福岡県や佐賀県などの北部九州地方を中心とした地域では、弥生人が遺体を甕棺(かめかん)という巨大な素焼きの甕(かめ)に入れて埋葬する風習を持っていたために、人骨が分解されずに発見されます。これまで日本中で発掘された弥生人骨は、大部分がこの地域から出土したものなのです。これらの弥生人は縄文人とは姿かたちが異なっており、朝鮮半島や中国の江南地方から水田稲作をもたらした人たちだと考えられていますので、現在では渡来系弥生人と称されています。

渡来系弥生人は最初北部九州に現われ、その後稲作の伝播とともに全国に広がっていったと考えられています。私たち日本人は、在来の縄文人の末裔とこれら渡来系の弥生人が混血して成立したと考えるのが、現在主流となっている「二重構造論」です。ですから、弥生時代には、大陸からわたってきた人たちと、縄文時代から日本に住んでいた人たちの少なくとも二つの集団が存在していたことになります。

これまでDNA分析の結果が報告されている弥生の遺跡は、ほとんどが北部九州地方に集中しています。多くは甕棺に埋葬された渡来系弥生人と呼ばれる人たちですが、佐賀県の玄界灘に面した大友遺跡は、支石墓と呼ばれる墓に人々が埋葬されていた遺跡です。この支石墓は同時期の朝鮮半島南部に多く見られるもので、北部九州と朝鮮半島の結び付きを示すものと考えられています。となるとこのお墓に埋葬された人たちは渡来系の弥生人だったと考えたくなるのですが、形態学的な研究からは、彼らは在来の縄文人に似た人々であったことがわかっています。このような弥生時代にあっても縄文人の形質を残した人骨は、大友遺跡だけでなく北部九州の沿岸地域、平戸や五島列島の遺跡で発見されており、総称して西北九州型弥生人と呼ばれています。

どうして朝鮮半島に起源を持つお墓に在来系の縄文人に似た人々が埋葬されているのか。以前縄文人のDNAを分析したときに、そのヒントになるかもしれない発見をしました。注目されるのは、朝鮮半島の人たちのなかにも縄文人と同じDNA配列を持つ人がかなりいることです。

これまで朝鮮半島と縄文人の関連について考えられることはほとんどありませんでした。それは朝鮮半島からは縄文時代に相当する時期の人骨がほとんど出土していないためで、人類学者はその関係を考える材料を持たなかったのです。その結果これまでの人類学の理論は、弥生時代になって急に朝鮮半島との間に交流が生まれたような印象を与えるものでした。

しかしDNAの相同検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNAを持つ人が住んでいたと考える方が自然です。考古学的な証拠からも、縄文時代の朝鮮半島と日本の間の交流が示されています。縄文時代、朝鮮半島の南部には日本の縄文人と同じ姿形をし、同じDNAを持つ人々が住んでいたのではないでしょうか。玄界灘の沿岸にある支石墓に眠る人たちは、朝鮮半島から渡来した縄文人と同じ姿形をした人々だったのではないでしょうか。

日本人の起源を考えるときには、私たちは無意識のうちに現在の日本の国土を意識します。朝鮮半島など周辺の地域は最初から別の歴史があると考えてしまいますが、この問題はそもそも国境もない時代のヒトの移動を考えているのですから、そのような偏見を取り去って考える必要があります。DNA分析の結果を見ていると、少なくとも北部九州地方と朝鮮半島の南部は、同じ地域集団だったと考えたくなります。そうであれば、二重構造論の枠組みのなかに、朝鮮半島南部まで含めて考えた方が実際のヒトの動きを理解しやすくなるでしょう。私たちは自身の由来を考えるとき、「日本人の起源」に囚われずに、朝鮮半島の南部や沿海州などを含めた東アジアの東端における集団の成立を考えることが必要なのかもしれません。

「第八章 日本人になった祖先たち:弥生人の姿を追う・朝鮮半島にも縄文人はいたのか」より

しのだ・けんいち

1955年静岡県生まれ。京都大学理学部卒業。博士(医学)。佐賀医科大学助教授を経て現在国立科学博物館人類第一研究室長。専門は分子人類学。日本や周辺の諸国の古人骨DNA解析を進めて、日本人の起源を追求している。

共著『日本列島の人類学的多様性』(勉誠出版2003)ほか


② 鳥取県の青谷上寺地遺跡の渡来系弥生人が土井ヶ浜の渡来系弥生人と同じ文化・形質を持ち、彼らの男性のほとんどがY-DNAハプログループDを持ち、縄文人と同族であった(参考)


③ 3800年前の縄文人女性の遺伝子が中国大陸の現代の人々からも見つかっている(参考)


④ 日本語の起源(参考)

現在、チベット周辺と日本列島を除いて見出し難いY-DNAハプログループD、すなわち縄文人の男性遺伝子が、かつては東アジア全域に広がっていたとことを明らかにする。

これはY-DNAハプログループDを持つ現在のチャン族の先祖の羌族と秦や斉の男性が同族であったとの伝承から着想した。


⑤ 漢字のルーツの甲骨文字を発明した殷人が同時期の日本列島の縄文人と同族であった(参考)

殷人の末裔は滅びることなく、秦や斉の人々も末裔であるが、平安時代の頃までに日本列島に帰化(渡来)して来る。


⑥ 弥生時代後期に下関市豊北町の土井ヶ浜に渡来して来た弥生人は、中国の春秋戦国時代末期の斉の国の臨淄あたりから渡来したことがDNA分析で分かっている。彼らは西北九州の縄文人とよく似た特徴を持っていた殷人の末裔であった。

ただし、吉野ヶ里など福岡県から佐賀県辺りの弥生人「揚子江中下流域(江南)の河姆渡遺跡に証拠を残す、稲作農耕民で、銅剣を鋳造し、甕棺に埋葬される文化を持ち、日本列島に稲作をもたらしたY-DNAハプログループO2(参考)の人々」とは異なる文化と特徴を持っている。