騎馬民族征服王朝説への反論の反論! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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江上波夫の騎馬民族征服王朝説の反論(wiki)への反論を行う。

江上波夫は扶余族を北方遊牧民の騎馬民族と規定しているが、これに対し私は滅亡した秦の末裔(または同族)と考えており、日本列島に居住する日本人と元々同族で、やや進んだ文化を持ち、方言程度に異なる言語を喋る原日本人であったと論証した(参考)。

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① 以下、wikiにある江上波夫への反論に対して、私による再反論を赤字と青字で挿入する。

1 考古学の成果からみて、古墳時代の前期(2世紀後半-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には、両者の文化に断絶は見られず、強い連続性がみられること。

始皇帝が統一した秦が滅亡してから約600年後であり、ほぼ同じ文化を持っていたので、大きな変化は無くて当然。

2 「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書に揃って、その記載はなく、それどころか中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」を用いており、連続性が見られること。

大移動はあったとしても、征服ではなく渡来であり、同族の行なったイベントであり、誰にも興味を持たれなかった。白村江の戦い以降の百済、高句麗の滅亡により東アジアの勢力地図が大幅に変り、日本列島に勢力が集中したため、唐は従来の倭の呼称をやめて日本の呼称を受け入れた。

3 騎馬民族であるという皇室の伝統祭儀や伝承に馬畜に由来するものがみられないこと。また、『記紀』において馬に乗って活躍する英雄の話がまったく出てこないこと

新羅の末期に渡来した東国武士(参考)に騎馬文化が残っており、神社での流鏑馬神事は現在でも行われている。武士道のルーツはやはり中国大陸の春秋戦国時代にあった(参考)。

神社の神官の着る斎服に狩衣というものがあり、モンゴルの男性が馬に乗るときの服装とデザインがよく似ていることを指摘したい。襟元に着目して欲しい。

4 日本列島の王墓とされる大規模な墳墓には高句麗や百済の王陵である積石塚新羅地域の王墓である双円墳がほとんどなく、これらと日本の前方後円墳では形態等がまったく異なること。つまり、王陵の形態に共通性がまったくないこと。

始皇帝が統一した秦が滅亡してから約600年後であり、その間に他民族の文化と混合して弱冠の文化の相違が生じたのであろう。しかし、日本列島に渡来後に文化の再融合がおこった。

5 日本独自の古墳形式である前方後円墳は、2世紀後半から3世紀前半にかけての畿内で発生していることが明らかで、朝鮮半島や中国大陸にそれに相当する古墳は存在せず、4世紀から5世紀にかけて最盛期をむかえ、6世紀に至るまで墳形や分布にとくに際だった断絶がみられないことから、日本の王権が畿内を発祥とする土着の勢力である可能性が高いこと、及び副葬品も征服を示すものが皆無であり、関東地方や九州で確かに馬具やが出土されているが、これは戦闘用のものではなく、一般の乗馬用のものであったり、また持ち主の社会的地位や権威を誇示する威信財としか考えられず、これをもって征服があったとはいえないこと。

在来の畿内政権と後から渡来してきた集団を比較すると、後から来た集団に秦の始皇帝の直系子孫(応神天皇か?参考)がおり、さらに大陸の新しい文化や技術を携えて来たために、例え征服や王権の移譲があっても極端な断絶は無く、大政奉還みたいなものであった。出土する馬具や轡は秦時代の皇帝の権威の象徴であったのかも知れない。

源頼朝が鎌倉に幕府を開くが、天皇家を滅ぼすことなく鶴岡八幡宮に八幡大菩薩(応神天皇)を祀り、流鏑馬神事を奉納し、馬に乗って鷹狩りを行うは騎馬民族へのオマージュであった。現在、八幡宮が全国的に最も多く祀られていることも、応神天皇の征服王朝を示唆している。

6 近世に至るまで日本では家畜の去勢などの遊牧民的な習慣がほとんど無かったこと。

日本人には遊牧民の文化は失われているが、海人族の魚介類を食べるため遊牧文化は不要となった。神社の神饌が穀物・野菜・果物そして魚介類などの海産物であり、牛馬羊鶏の肉が無いことがこの証である。

D系統の羌族(チャン族、参考)は秦、タングート(西夏族)そして斉などと同族であり、元は遊牧民であった。現在の日本人もD系統が主流であることが証明されている。現在、中国大陸の大部分にD系統がほとんど見出せないのは、漢民族に駆逐されて日本列島に渡来した為である。

家畜の去勢については、山口県下関市では1950年代まで雌牛を農耕に使っていたが、山仕事などで力のいる作業には特牛牛(こっというし、雄牛)を去勢して使っていた。伯楽(ばくろう)という調教師が取り出したキンタマを鍋に入れて煮て食べていた。

日本の国技の相撲は遊牧民の文化であり、モンゴルの草原を横断して東西に分布している(参考)。毛利氏の祖先の土師氏の祖が相撲の元祖、野見宿禰であるが、出雲の天孫族であると主張している。また、現在でも八幡宮には土俵があり、相撲神事が残っているし、50年くらい前まで子供達は相撲を楽しんでいた。

7 北方遊牧民のあいだでは短弓の使用が一般的であるが、日本では戦国時代に至るまで長弓であったこと。

北方遊牧民は関係無い。扶余族(高句麗、百済など)は秦の末裔であった。また、日本列島は温暖・湿潤で竹が豊富であり、竹を使った弓は長くせざるを得なかった。

8 馬は神経質な動物であり、当時の船による大量輸送は不可能であって、現に13世紀の蒙古襲来の際にもモンゴル・高麗連合軍は軍馬をまったく輸送していないこと。

子馬で運んで、育てた。下関(吉母の御崎)や北九州(福津市や北九州市戸畑区)に馬を育てた牧があったとの伝説があり(参考)、牧山の地名が残っていたり、近くに古墳群が分布している。直接、育った牛馬を持ち込むと伝染病を持ち込む為、検疫も必要であった。

9 倭王武の上表文では、「…昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず…(中略)…渡りて海北を平らぐること九十五国…」と記しており、畿内大和を中心とした視点で四方に出兵したという観念が認められ、外部からの征服を主張していないこと。

征服ではなく、渡来であった。日本民族(ヤマト民族)の列島での再結集と統一であった。

10 遺伝子調査の点では、日本人固有で最多を占める遺伝子はD2系統であり、後から渡来してきたとされる(日本史上のいわゆる渡来人とは一致しない)O2系統遺伝子は江南系統と言われ中国南部地域に見られるが、どちらも騎馬民族系統とは言えないということ。

O2系統遺伝子は江南の呉や越の弥生人や朝鮮半島から渡来した。さらにD2系統遺伝子は縄文人の他、斉や秦の民がこれを持っており、朝鮮半島(三韓)経由で渡来した(参考)。朝鮮半島にとどまった民が後の百済、高句麗を建国し、ここからの渡来人もD2が主流であった。新羅人はO2が主流であろう。秦の民は元々は騎馬民族と言える。

現在、大部分の中国大陸にD2がほとんど見出せないのは、漢民族に駆逐されて日本列島に渡来した為であり、日本列島の中で発生したものでは無かった。元々はアフリカでDとEが分岐した。

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古代の原日本人の分布(D)

チベットのD系統は羌族が持ち、かつての羌族は古代の秦と競うように広大な領域を占め、斉やタングート(西夏)、日本(倭)などと同族であった(参考)。

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現在のDの分布(赤)、漢民族と朝鮮民族(O)の分布(青)

11 日本語の基本語彙の中には満州地域や朝鮮語の語彙はほとんど無く、僅かに見られる語彙も羊など本来日本には無いもので借用語の可能性の域を出ず、また、前述される高句麗語百済語なども実態が判明しておらず漢文以外の文章も残っていないため憶測の域を出ないということ。

秦からの渡来人も扶余族に分類される高句麗や百済の民、そして在来の日本人も同族で原日本語を喋り、満州語や朝鮮語とは関係無い。特に、朝鮮語は新羅が滅びた頃か、それ以降に新しく朝鮮半島にやって来た民の言語であった(参考)。朝鮮人や朝鮮語についてはwikiにあるが、エベンキ族との関係が明らかになりつつある。

12 古事記や日本書紀神話は騎馬民族に特徴的なトーテム獣(トルコ・モンゴルでは狼、朝鮮では熊など)が見られず、比較神話学上別種に分類されるということ。

秦からの渡来人と考えれば、狼や熊のトーテムとは無関係である。日本のトーテムは鹿と鶏である。秦の始皇帝は龍、日本は青龍とも考えられる。

などがあげられる。

日本には弥生時代後期から古墳時代にかけて倭国と大陸や朝鮮半島との交易や戦火を契機に騎馬文化が穏やかに流入したが、少なくとも大規模かつ急激に王朝が交代するような事態は無かったとしている。

例え大規模で急激な渡来があっても同族の融合であり、目立った違いが無かった。

大きな変化があったとすれば、乙巳の変(645年)であり、考古学的にも断絶がある。4から7世紀は軒先を借り、中大兄皇子がクーデターで主屋を乗っ取ったのであった。それまでの家主は実は蘇我氏と彼らのルーツの海人族安曇氏(ウガヤフキアエズ王朝)であった。


② 日本語の起源(参考)


③ 秦の始皇帝は原日本語を喋った