騎馬民族は渡来氏族、秦氏のことであった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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江口波夫の
東北アジア騎馬民族系王朝の
日本征服・統一国家(大和朝廷)樹立説

宮地嶽神社の近くの津屋崎の渡半島に大陸から同伴してきた馬たちの牧場があったとのことです。まさに、秦氏は騎馬民族であった。

馬など生活必需品を船に乗せてくるので、やっぱりこの船はノアの箱船であった。

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県道502号線から左手が渡半島


参考





渡の牧跡(わたりのまきあと)
福岡県福津市津屋崎町渡
神代に放ち給う馬の牧跡、「つやざき」という津屋崎町の誌史に「神代に放ち給うた馬の牧跡」があるとのこと。昔、大陸から京泊(牧の大明神ちかく)に馬を陸揚げして、渡の山に放牧して調教し、日本国内に積み出した。馬出、馬込という地名があった。名馬・スルスミもこの牧の産。(参考)

渡半島には恋の浦海岸を初めとした貴重な自然と、古代から近世の牧場跡や、かっての船着き場である京泊,小泊等の生活遺産が沢山あります。ただ道路が未整備なため、大部分は藪や灌木で通行が困難となっています。今回津屋崎郷土史会で明和年間の修験者の墓や、恋の浦ウミガメの産卵場所,半島北部の京泊・小泊,疱瘡権現等の探訪を計画し、3月15日に道作り先発隊が下見に出掛けました。この中でかって渡半島が「牧」であった事をしめす牧ノ大明神の石祠が、昨年の福岡県西方沖地震のため倒壊し、御神体(石の坐像)の首が取れて転がっているのを発見しました 。廻りの様子は14年前に津屋崎郷土史会が調査した状況とあまり変わっていませんでした。3月29日、本隊12名は応急修理のためセメントと水の入ったペットボトルを担いで登りました。応急修理の状況は以下の写真の通りです。津屋崎郷土史会では市内の貴重な文化財を守るため、定期的にパトロールし、現状を記録しています。壊れているものは市に報告して修理を依頼する活動を続けています。(参考)

『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている。この日向(ひむか)は、筑紫の日向、すなわち宮地嶽神社である。馬は朝鮮半島からの輸入であり、この日向は北九州の筑紫国内であるべきであり、宮地嶽神社の近くに馬の輸入基地である「渡の牧」があった。

日向の駒 文庫書紀④122-8
福岡県遠賀郡の岡垣町 波津 湯川に小字「馬駈原」 があり、馬牧だった説がある(
参考)。




⑥ 下関の梅ケ峠の高天原の西に本州最西端の岬、毘沙の鼻があるが、ここは御崎馬とよばれる馬の産地で、磨墨伝説がある。対岸の蓋井島に、ライバルであった生づきがいた云う。

 島根半島の高天原(出雲)では簸川辺りなどが古来、名馬の産地とか。古文書にはヤマトタケルノミコト(日本武尊:『古事記』『日本書紀』に登場する英雄)が生きた馬の皮をはいだとか、オオクニヌシノミコト(大国主命:出雲神話の中心的な神)に馬肉を献上(けんじょう)したと記されています。(参考)

⑧ 北九州市八幡の高天原戸畑区の牧山に、昔、この地域は馬の産地で、牧場があったことから「牧山」という町名が付けられました。「平家物語」の中で活躍した名馬「するすみ」は、牧山の牧場で育った馬という伝説が残っています。牧場で育った馬は、天籟寺川を渡って、各地に送り出されたことから、現在も「御馬橋」という名の橋が天籟寺川にかかっています。名馬「するすみ」の話は、民話になって残っています。(参考)

⑨ 牧山の洞海湾に接したところが古墳群となっており、元、名護屋の大済と呼ばれた。小倉北区の藍島の近くの馬島に古墳時代の遺跡があり、また島の名前の由来の一つに馬の牧場があったとか。

10 wikiによると、日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという。また、古墳時代には馬骨や馬具が考古遺跡から出土しており、日本在来馬の存在が確認される。