古代中国の最初の王朝の夏は日本列島の弥生時代を始めた稲作農民の先祖が建てた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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中国大陸の古代王朝の各々の支配民族は何だったのか調べている。

漢民族(Y-DNAハプログループO3とO2)は自らを華夏族と呼んでいる。華族の周王朝は現在の漢民族の主流のY-DNAハプログループO3であったが、夏族の夏王朝はどうであろうか?O3、若しくはO2であろうか?

夏王朝と周王朝に挟まれた殷(商)王朝は漢民族に対して異民族であり、実は縄文人と同族のY-DNAハプログループD2(旧分類)であった。また、彼らは中国大陸に広く分布していた先住民であった(参考)。

これに対し、実は中国大陸最初の夏王朝は揚子江下流域で稲作を始めた農耕民が、気候の温暖化に伴って温帯ジャポニカの耕作域を拡大して建てた王朝であったようだ!春秋戦国時代の彼らの末裔の呉と越の国の民の一部が日本列島に渡来して、日本の弥生時代を開始した。彼らはY-DNAハプログループO2であった。

彼ら夏王朝の稲作民が気候の温暖化で拡大していた時は、後に殷(商)王朝を作る縄文人の同族は北に押し上げられていたが、気候の寒冷化に伴って南下して殷王朝を建国したことになる。


参考

① 漢民族の由来(wikiより)

シンガポール日本文化協会会長 顔尚強によれば、「漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。漢民族という名称は漢王朝(BC 206~AD 220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(BC 1066~BC 256)の創立者である周武王が商王朝(王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農黄帝をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている」という。


すなわち、漢民族は自らを華夏族と呼び、自分達のルーツは周王朝(BC 1066~BC 256)と夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)であると言う。夏と周に挟まれた殷(商)王朝(BC 16世紀~BC 1066)は異民族であったと言う(参考)。


② 夏王朝の時代的な背景(宝貝と玉文化、参考)

縄文後期は温暖期だったので、湖北省の稲作民が華北に北上した。この時期の華北の遺跡から発掘された温帯ジャポニカの痕跡が、その事実を示している。この時期の中国の著名な遺跡には、山西省の汾河流域の陶寺遺跡(BC2300~BC2000頃)、夏王朝期の遺跡だった洛陽盆地の二里頭遺跡(BC1800~1600年頃)がある。

縄文後期後半に温暖期が終了すると、華北から稲作民が南下し、アワ栽培者の殷王朝(BC16世紀~BC11世紀)が生まれ、その前期の鄭州時代(二里岡遺跡)の遺跡と、後期の安陽時代(殷墟)の遺跡が発掘されている。殷代に寒冷化が進んで華北に稲作民がいなくなると、殷は黄河南岸の鄭州からアワ栽培の中心地だった安陽に遷都したと考えられる。 

寒冷化してアワ栽培地に北上したのは、寒冷化すると降雨が増え、黄河以南の温暖な地域の森林化が進んだから、石器の農具しか持たなかったアワ栽培民は森林の脅威に負け、乾燥した北部にアワ栽培地が移動したからだと考えられる。その観点で言えば、安陽はアワ栽培地の南限に近く、最も生産性が高い地域だったと推測される。 

コメは森林地域での栽培が可能だったのは、単位面積当たりの収量が多いから広大な森林を開墾する必要がなく、湿田では連作も可能だった上に、アワ栽培民より豊かだった稲作民は、一足早く青銅器時代を迎えていたからだと考えられる。稲作民の豊かさが交易活動を活発化させていたから、森林を開墾するための磨製石斧などが流通していた可能性もある。

その様な事情から殷代の中国では、アワ栽培地と稲作地の中間地にある淮河流域は、石器の素材が得られない広大な沖積地だったから、稲作民とアワ栽培民を隔てる広大な森林に覆われていたと考えられる。


③-1 夏王朝の実在(wikiより)


従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。

しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばしたはこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。

しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に「『夏』と後世に呼ばれた政権が実在した事」が証明された事と、史書のいう「『夏王朝』が実在した事」を混同してはならない

現代の中国史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている


③-2 二里頭遺跡(wikiより)


③-3 二里頭文化と先商文化と岳石文化(参考)

先商文化と岳石文化は共に縄文系の文化か!(参考)


④ 稲作の起源(wikiより)

2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている。(かつては雲南省遺跡から発掘された4400年前の試料や遺伝情報の多様性といった状況から雲南省周辺からインドアッサム州周辺にかけての地域が発祥地とされていた。)

長江流域にある草鞋山遺跡プラント・オパール分析によれば、約6000年前にその地ではジャポニカ米が栽培されており、インディカ米の出現はずっと下るという。野生稲集団からジャポニカ米の系統が生まれ、後にその集団に対して異なる野生系統が複数回交配した結果、インディカ米の系統が生じたと考えられている。

中国での伝播

中国では紀元前6000年から紀元前3000年までの栽培痕跡は黄河流域を北限とした地域に限られている。紀元前3000年以降山東半島先端部にまで分布した。


⑤ 稲作の日本への渡来、江南説(wikiより)

農学者の安藤広太郎によって提唱された中国の長江下流域から直接に稲作が日本に伝播されたとする説。

考古学の観点からは、八幡一郎が「稲作と弥生文化」(1982年)で「呉楚七国の乱の避難民が、江南から対馬海流に沿って北九州に渡来したことにより伝播した可能性を述べており、「対馬暖流ルート」とも呼ばれる。

本説は下記に述べる生化学分野からのアプローチからも支持されている。

2002年に農学者の佐藤洋一郎が著書「稲の日本史」で、中国・朝鮮・日本の水稲(温帯ジャポニカ)のSSR(Simple Sequence Repeat)マーカー領域を用いた分析調査でSSR領域に存在するRM1-aからhの8種類のDNA多型を調査し、中国にはRM1-a〜hの8種類があり、RM1-bが多く、RM1-aがそれに続くこと。朝鮮半島はRM1-bを除いた7種類が存在し、RM1-aがもっとも多いこと。日本にはRM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類が存在し、RM1-bが最も多いことを確認。RM1-aは東北も含めた全域で、RM1-bは西日本が中心であることから、日本の水稲は朝鮮半島を経由せずに中国から直接に伝播したRM1-bが主品種であり、江南ルートがあることを報告し、日本育種学会の追試で再現が確認された

さらに、2008年には農業生物資源研究所がイネの粒幅を決める遺伝子「qSW5」を用いてジャポニカ品種日本晴とインディカ品種カサラスの遺伝子情報の解析を行い、温帯ジャポニカが東南アジアから中国を経由して日本に伝播したことを確認し、論文としてネイチャー ジェネティクスに発表している


⑥ 大野晋の日本語の起源

長江あたりからインドのタミルや日本に渡来した稲作農耕民が、旧分類のY-DNAハプログループでO2であった(厳密には呉系弥生人がO2b、越系弥生人はO2aである)。

注1: ハプログループO2から見たタミル語と日本語の関係(参考)
 注2: タミル語ゆかりの日本語は九州弁に相当するか!?(参考)
注3: 九州と東国の武士にゆかりの言葉に相当か!?(参考)
注4: 中国南部、九州そして朝鮮半島の犬肉食文化(参考)


⑦ 現在の漢民族(Y-DNA O3とO2)のうち、O3は3000年前に黄河流域の中原に侵入して周王朝を建国した(参考)、、、このO3が漢民族の主流となる。


⑧ 殷王朝は日本列島の縄文人と同族(Y-DNAハプログループD2、旧分類)の王朝で、縄文文化を受け入れていた