漢民族のルーツとされる夏と周について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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漢民族は自らを華夏族と呼んでいる。華夏の夏とは漢民族の歴史書で最初の国家であり、次の殷を挟んで、次の国家の周の一族を華族と呼び、夏と周を漢民族のルーツとして、華夏族と呼んだようだ。次いで、秦の始皇帝に国を滅ぼされたが再生して、漢の国として中国大陸を統一したことになる。

中国の歴史の最初の国家の夏の民族は何処から来たかよく分からなく、実在もはっきりしない伝説上の国で、それに相当すると期待される遺跡は出ているが、漢民族との繋がりは考古学的には証明されていない。二番目の殷(商)は、漢民族とも羌族(+秦)とも異なる凶暴な遊牧民であったようで、羌族などは殷の生贄にされたりしている。結果、周の初代王と羌族が協力して、中原の北西の民族(実質の漢民族)を連合して殷を滅ぼして、周の国が出来た。

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華夏族の故郷の中原(wikiより)


参考

① 漢民族とは(wikiより)

シンガポール日本文化協会会長 顔尚強によれば、「漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。漢民族という名称は漢王朝(BC 206~AD 220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(BC 1066~BC 256)の創立者である周武王が商王朝(王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農黄帝をちなんで「華族」と称した。

また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている」という。

紀元前221年、始皇帝が中国を統一し、ばらばらとなっていた華夏族が統一となり、その後の漢の時代に文明が高度に発達した。漢の時代は前漢及び後漢合わせて408年間にも及び、版図が空前に拡大し、文化も高度に発達した。この時期の華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ始めた。これは漢族の由来である。漢民族は漢の時代に形成し、その後幾度の民族融合及び異民族の漢化を経て現在の漢民族を形成した。


② 中国の歴史(漢まで、wikiより)

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③ 漢民族の直接なルーツは3000年前の周であり、中原に北西方向から侵入してきた(参考)。一時的に秦に統一されたが、漢として中国大陸を再度、統一し、漢民族のアイデンティティを確立した。


④ 夏の実在性(wikiより)

従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す考古学上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。

しかし、宮殿を持つ都市文化である河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、の建国(二里岡文化)に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした殷はこの二里頭文化を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがってこの二里頭文化が、史書のいう夏の時代に相当することになる。

しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。考古学的に『「夏」と後世に呼ばれた政権が実在した事』を証明された事と、史書のいう『「夏王朝」が実在した事』を混同してはならない。

現代の中国歴史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている


⑤ 殷(商)の起源(参考)

以下、『図説 中国文明史Ⅱ』を参考にした。

・夏→殷→周へと王朝が転換したが、この3部族はほぼ同じ時期に形成され並存してきた。つまり、新部族外からやってきて旧王朝を滅ぼしたのではなく、支配-服属関係だったのである。そのうち、最初に覇権を握ったのが夏で、それに服属していたのが殷・周。服属していた殷が夏を倒し、その後、殷に服属していた周が殷を倒して覇権を握った。

☆殷の起源は実はよくわかっていない(北狄=モンゴル系orツングース系という説も多いが・・・)。初期殷人の移動経路も諸説あって未だ定まっていない(前掲書では、モンゴル高原から南下して北京の西側を通り、黄河流域に至った可能性が高いとしている)。

殷人は遊牧部族発であったことは間違いないようで、初期の殷人集落は頻繁に居を移すことが特徴。

夏王朝の時代には夏が黄河中下流域を支配し、殷はその北東に拠点を置いて夏に服従していた。殷の祖である契(せつ)は夏の治水事業に功労して、商の地に封ぜられた。自らは商族と称しており、その後3600年前に、殷族(商族)の長である湯が商族を率いて夏を倒し、殷王朝を建てる。

また、周の始祖は棄(き)という名で、後代に「姫」(き)姓を名乗る(ちなみに夏の先祖である黄帝の姓も「姫」である)。夏王朝では、棄の子孫は十数世代に亙って代々農業の役人を世襲していた(先周族と呼ばれる)。この先周族は陝西省の関中西部を流れる漆水流域に起源をもつ。

以下、殷王朝の特徴を述べる。

●殷の好戦性・侵略性
殷は好戦的な王朝であり、周辺諸部族に対して頻繁に戦争を仕掛けている。かつ、馬に引かせる戦車や盾や青銅製の冑(かぶと)など、当時の世界でも際立って強力な装備を擁する軍隊であった。征服されて服属した部族もあったが、羌族(チベット族)などは殷と敵対。また北方では、殷の西北部から北方はオルドス地区に隣接する位置にいた鬼族(匈奴の祖、トルコ系orモンゴル系)が殷にとって最も強敵であった。殷はようやく鬼族を征服し服属させた。(やがて殷後期になると、鬼族は南西の陝西省西部にいた周族を圧迫して、周族は岐山の麓の周原の地へと追いやられた。)羌族は中国西北部の甘粛・青海を拠点としたチベット族。東は陝西省北部の鬼族に隣接。殷代の初期には羌族は殷に服属。ところが殷代後期になると、殷は頻繁に羌族に戦争を仕掛け、羌族を奴隷にして、農作業などの労役に従事させた。また、殷人には祭祀の場で生贄を捧げる習慣があったが、生贄にされたのは全て奴隷。殷王の祭祀では一度に300人の奴隷を生贄にしたが、最も犠牲にされたのが羌族。この殷の侵略性・好戦性に対して周辺部族はそうとう怒りを感じていたようで、後に、周族は羌族をはじめとする諸部族と連合して、殷を倒す。

●殷の残酷な統治
殷人の世界は鬼神崇拝の世界。夥しい量の甲骨卜辞は殷人が神に伺いを立てた記録。神に捧げる生贄や殉死が習慣。その中で、殷王は政治的世界における絶対権力者であると同時に、信仰世界における最高位のシャーマンもであった。王権と神権が合体した殷の統治は過酷を極めた。特に奴隷たちの反乱と逃亡を阻止する目的で監獄が建設され、さまざまな酷刑が設けられた。斬首、剖腹(腹を切開する)、鼻削ぎ、生け埋め、足斬り、みじん斬りの刑など残酷な肉刑が横行。

●殷には商業活動の伝統があり「商」と自称し、私権性・蓄財性が高かった。
南海やインド洋沿岸に産するタカラガイは既に夏代から通貨として使用されていたが、殷代からは本格的な流通貨幣として使用されるようになった。大量のタカラガイを私有・蓄財することは富と権力の象徴だった。


⑥ 周の起源(参考)

殷は、東方の夷族を服属させて周族のいた陝西省の関中平原へ進出。夏王朝の遺民である周人は北方へ逃げ、羌族の拠点甘粛へ。2世代の後、再び南下して陝西省へ。ここに水源を見つけて農業を起こした。この部族が周という名を得る。

ところが、殷に征服され服属した鬼族(後の匈奴)に押されて、周人は再び、岐山の麓の地(周原)へ移り住む。ここは、夏殷の時代には、周原は姜(きょう)姓の羌族の居住地で「姜原」と呼ばれた。周族がこの地に移住したため「周原」という名になった。

そこで、周族は西南・西北の部族と連合して、次第に殷に対する包囲網を形成する。周原の先住民である羌族および西北の羌族と同盟を結んで、周原から関中西部にかけての親殷勢力である犬戎(秦人の祖先)を追い払う。さらに、西南の巴・蜀などの部族の支持を得て、後に3050年前、殷を倒して周王朝を建てる。


注: けん‐じゅう【犬×戎】古代中国の西戎(せいじゅう)の一。殷・周・春秋時代に陝西(せんせい)省方面で勢力を振るったが、秦に圧迫されて衰えた。犬夷(けんい)。昆夷(こんい)。

注: 羌族はチベット族となっているが、当時の秦、日本人とY-DNA Dを持つ同族であることが証明されている(参考)


⑦ 殷人は縄文人と同族であり、唐の時代までに日本に帰化(渡来)した(参考)