高句麗からの渡来人が多摩地区(旧武蔵国)に住んでいた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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東京都の府中市は武蔵国府のあったところで、北隣の国分寺市には武蔵国分寺の遺跡があることは有名です。

この辺りは縄文時代の遺跡は沢山あるが、武蔵野台地の特性上、弥生時代の水田などは多摩川や野川などの周辺などに限られている。8世紀になって武蔵国府が置かれたころ、朝鮮半島の例えば高句麗からの渡来人の遺跡が出土するようになる。

すなわち、彼らは従来から住んでいる住民(縄文人の末裔達)と仲良く(戦争の傷跡など一切なく)、そしてより高位の官僚的な立場で武蔵国を開発したことになる。

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旧武蔵国府周辺


参考

① オンドルが出てきたぞ!@府中の遺跡発掘

多摩と入間の雑学的散歩(2011/02/25 9:23:27、参考)

府中市清水が丘という所の竪穴建物を掘ったら珍しいものが出てきた。L字型かまどだ。府中の郷土の森博物館の「特別展 発掘!府中の遺跡 古代国司館と家康御殿」で展示されていた。

普通のかまどは、焚き口、煙道、煙出しが一直線に並んでいるが、これは焚き口に対して煙道が直角に曲がっている。つまりL字。

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煙は焚き口から右に行き、煙出しから外に出るようになっている。何が珍しいのかというと、L字型かまどは、九州北部や近畿地方では比較的に多く分布しているが、関東・東北地方からの発見例はほとんどなく、これが2例目なのだ。1例目も府中市内の武蔵台からで、武蔵国分寺の創建にかかわる建物跡に設けられていたものだ。

類似のかまどは朝鮮半島でも発見されていて、オンドル状遺構と呼ばれることもある。これでは短いが煙道が暖房の役目も少し担っていると考えるわけだ。オンドルは言ってみれば床暖房、この煙道をもっと長くして床を設ければオンドルになる。このL字型かまどは当然、渡来系の人々との関係が深い。これまでのものは、渡来人が住んでいた集落や寺院の近くから発見されている。ということは府中にも渡来人がまとまって住んでいたということになる。

狛江=高麗江にも近いしね。狛江郷は今の狛江市から調布市、三鷹市、武蔵野市に及ぶ広い範囲だった。井の頭公園に狛江橋が架かっているのは、いにしえの記憶が残されたもの。深大寺を開いたのも渡来人。というより、渡来人と倭人ははっきりと分けられないのではないか。蘇我氏や秦氏は渡来系だけど大和朝廷で重きをなしている。「騎馬民族王朝征服説」そのままではないだろうが、渡来した人たちが高度な文化や技術をもたらし、国をつくっていく上で大きな役割を果たした。彼らがいなかったら大和朝廷はつくられなかったろう。

オンドル状遺構が出たのは京王線東府中駅の南東。東京競馬場に行くときに乗り換えるか、そのまま降りて歩いて行ってもいい。競馬場へは下り坂になっていて、その崖の上に竪穴建物はあった。武蔵国衙にも近い。

L字型かまどは4世紀頃以降のものが発掘されているが、今度のものは8世紀末と推定されている。国府が置かれたのが8世紀の初め。平安京に遷都する少し前のことか。府中市郷土の森博物館だよりの「あるむぜお90」はこう結んでいる。「古代武蔵国を統治するために重要な拠点であった国府と国分寺にかかわりの深い地域から発見されたことが、この竃(かまど)のなぞを解くカギとなるかもしれません」。

公式の見解だから遠慮しているが、個人的には国府の統治に渡来系の人たちが深くかかわっていたと考えている。専門家に、きっちりとなぞを解いてほしいもんだ。


② 高句麗滅亡後、高麗王若光の現在の埼玉県日高市の旧高麗郡へ渡来している(参考)

霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置しているが、若光もその一員として移住したものと推定されている