海東の盛国と呼ばれた渤海国とは | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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白村江の戦いの後、百済・高句麗が滅亡し、統一新羅が出来た頃、北方に渤海国が建国された。

この渤海国は高句麗の遺臣の支配者と現地の靺鞨の民から成り立っていた。靺鞨は現代韓国・朝鮮人のルーツの一つであり靺鞨語(古代の朝鮮語)を喋っていたと考えられる。

これに対し、日本国と渤海国の支配者達は共に縄文人の末裔であり、当時の原日本語を喋っていたと考えられる。しかし、被支配者である靺鞨人が主流であり、当初の公用語は靺鞨語、後に漢語(唐時代の漢民族の言葉では無い)になったとされている。

支配者は高句麗の遺臣であり、親日的で渤海使を派遣するなど日本・渤海間で交流していたが、口頭での会話に関しては漢語による通訳を必要としていた。すなわち、当時の原日本語は広大な東アジアの中で方言に分化し、漢語を共通語にして通訳を介する必要があったと考えられる。この事情は明治時代の標準語教育まであり、日本国内も方言で分裂していた。

それでも、渤海国と日本国との文化交流は積極的に行われ、一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録があるように、気質と価値観が一致した同族であったことを証明している。

それでは、南隣の統一新羅と渤海国の関係はどうであろうか?

新羅人は元は揚子江中下流域の稲作農耕民であり、Y染色体ハプログループO2であり、九州の稲作弥生人と同族であった。また統一新羅が滅びると一部が日本に渡来している。この新羅人にY染色体ハプログループO3の漢人とY染色体ハプログループC2bの靺鞨人が加わって高麗国が成立し、現代につながる韓国・朝鮮人のルーツが定まったと考えられる。

渤海国は別名、大震国と名乗ったが、古の秦帝国の震旦国から一字もらったのかも知れない。


参考

① 渤海(ぼっかい)国と日本の交流

渤海 大震国 698年 - 926年(wikiより)

渤海国ー東アジア古代王国の使者た(2006.10.15、参考)

歴史の教科書に載っていたがまったく覚えていない渤海国が気になって上田雄氏の『渤海国ー東アジア古代王国の使者たち』(講談社学術文庫、2004年)を読み終えた。

この本を読む前にインターネットで渤海国について検索したが、中国・北朝鮮・ロシアいずれもが自国の領土として扱っている地域であることが分かった。

現代と重ねると政治的なキナ臭さが伴うが、奈良時代から平安時代(8世紀から10世紀初頭)にかけて30回以上も日本に使節を派遣してきて交流を深め、日本の正史や漢詩集に記録されている国だという事実を重視したい。また、日本から渤海国へ15回の渤海使が派遣されていることも忘れてはならないだろう。

渤海国は、西暦668年に唐と新羅(しらぎ)によって敗れた高句麗(こうくり)の王族やその協力者であった靺鞨(まかつ)人の族長が営州に強制移住させられ、その地にいた契丹など唐に滅ぼされた捕囚とともに反乱して698年に建国した振(しん)が始まりである。

渤海というのは唐の北辺を指し、振王を渤海郡王として柵立したことから国名になった。山東半島と遼東半島の間にある渤海湾と紛らわしいが、渤海国の都は上京龍泉府であって中国の黒竜江省寧安市郊外にあった。926年に契丹に攻められて滅亡するまで200年以上栄えた国である。領域としては、中国の東北部部(かつて「満州」と呼ばれた地域)、北朝鮮の北半分、それにロシアの極東地方、沿海州にひろがる地域である。

渤海国は靺鞨族(ツングース系の狩猟民族)の国であったが、その王や支配層は高句麗の流れを組む朝鮮系の民族であった。

渤海国と日本の交流は遠交近攻の事同盟から始まったようである。高句麗時代から新羅と仲が悪かった渤海国が唐と新羅の挟み撃ちを避けるために、新羅と対立していた日本へ遣使を差し向けたと使節団の肩書きが武官であることをもとに上田氏は推測している。また、渤海国からの派遣回数が多いのは毛皮と麻や絹の繊維製品との交易にあったとみている。そのほかに、同じ漢字文化のよしみで漢詩等の文化交流も行われ、渤海国が滅びてもその記録が日本に残ったという。多いときは隔年日本に訪れ、歓迎費用の負担増加で12年に1度の遣使となったようである。

日本は、渤海国と交流することによって唐との交流経路にパイパスを持ったことも忘れてはなるまい。というのは黄海を横断する遣唐使は難破がつきまとい、東シナ海をベトナムまで流される危険な航海であったことである。日本海航路も危険ではあったが運用実績もあるバイパスであった。ベトナムに漂流した平群広成が唐から渤海国を経由して日本へ帰国したり、唐にいる留学僧への送金なども渤海国を通じて行った記録も残っている。交易を通じて互いの信頼関係が強固であった反映と上田氏はみている。

このほかにも日本海を挟んだ渤海国と日本の航海経路は、初期がウラジオストック寄りのポシェト湾(東京龍原府)から出羽・能登・出雲と広範囲になっていたが、後期は南下した吐号浦(南京南海府)から加賀・出雲間と安定している。200トン足らずの帆船が季節風を利用して行き来したことも興味がある。上田氏はエピローグで渤海国を「二百年の間、ほとんど戦乱や内乱を記録することのない平和国家」と位置づけ、「日本にとってもっとも近しい隣国だったのであるが、そのことが、日本史の上では、ほとんど認識されておらず」と嘆く(295頁)。

コンパクトだが読み応えのある本である。


② 渤海国について(wikiより)

渤海国は、西暦668年に唐と新羅によって敗れた高句麗の王族やその協力者であった靺鞨人の族長が営州に強制移住させられ、その地にいた契丹など唐に滅ぼされた捕囚とともに反乱して698年に建国した振(震とも書き、『易経』にある「帝は震より出ず」から付けたものであり、「東方」を意味する)が始まりである。

渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制するための軍事的性格が強く、唐に対抗するため奈良時代から日本に接触した。日本では渤海を高句麗の後継国家とみなし、渤海は日本に朝貢する国とみなしていた。日本との文化交流が積極的に行われている。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある。

渤海文化は唐の影響が非常に強いが、靺鞨文化の継承もされており、他には高句麗文化の影響も窺える、三つの文化から独自の文化を作り出している。

渤海国の公用語は初め靺鞨語が使用されていた。しかしその後、言語の唐風化が進んで次第に漢語が公用語となった。漢語が使用された証拠として渤海使が来日したときに春日宅成や伊勢興房らのように豊富な入唐経験があり、それらの経験によって培われた実用の漢語に習熟した人物が渤海通訳を務めていたことなどが挙げられ、渤海通訳が使用していた言語である漢語を渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した(wikiより)。その他、渤海国に属する高麗人、突厥人骨、契丹人、室韋人、回紇人などはそのまま自己の言語を使用していた。


③-1 高句麗人は扶余から分かれたが、共に殷人の末裔で日本語を喋った(参考)


③-2 実は東夷諸国は原日本語を喋っていた(参考)。ただし、現在のロシア沿海州にかつていた粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨、、、と呼ばれた民族は例外で古代朝鮮語を喋っていた。


④ 唐の支配階級は縄文人と同族の殷人の末裔で日本語を喋った(参考)


⑤ 契丹・鮮卑も縄文人と同族の殷人の末裔で日本語を喋った(参考)


⑥ 揚子江中下流域の呉から九州へ渡来した呉系弥生人と朝鮮半島の新羅人は共にY染色体ハプログループO2bを持っていた(参考)。


⑦ 日本語の起源(参考)、、、かつては東アジアに広く分布していた。そして、秦の後裔の唐、契丹、鮮卑、渤海国の支配者達は原日本語を喋っていた。


⑧ 漢字のルーツの甲骨文字を発明した殷人がやはり漢文訓読法を作った(参考)、、、漢語・漢文は東アジアのエスペラント語であり、漢民族の言葉では無い(参考)。


⑨ 韓国・朝鮮人のルーツの一つに靺鞨人がいた。彼らのY染色体ハプログループC2bであった。