古代の遊牧民の国、烏丸、鮮卑、柔然、契丹、東胡は殷人の後裔であり、すなわち縄文人の末裔であり、原日本語を喋った。
この事実は契丹古伝に記載されている。
3000年前、中原を占めて周王朝を樹立した漢民族から見て北狄とは縄文人と同族の殷人の末裔達であり、東夷に属する日本列島の人々と同族であった。
もちろん、朝鮮語を喋る人々(挹婁やその後の靺鞨など)とか、その他の人々も存在したことは間違いない。
雑談1
ハプログループDは日本列島とチベットに色濃く分布するが、東アジアに広く薄く分布している。
雑談2
隋帝国や唐帝国の皇帝達は鮮卑族の出身で、漢民族の民衆を支配したとされている(wikiより)が、鮮卑族は殷人の後裔、縄文人の末裔であった(参考)。
追加
契丹と同時期に存在した西夏は羌族の末裔の建国した国で、羌族は現在のチャン族につながっている(参考)。チャン族はY-DNAハプログループD1a1であり、矢張り殷人(Y-DNAハプログループD1a2)と同族と言える。彼らは西夏文字と言う漢字によく似た文字を発明したことで知られている。また、斉の始祖、太公望は羌族の出であった。
参考
① 鮮卑(wikiより)
② 契丹(wikiより)
③ 東胡(wikiより)
他には上記の夏家店上層文化に属する墳墓から一緒に埋葬された犬が見つかった(烏丸の習俗)ことと頭頂部を剃る習慣から、同地域にあった土方や後の周代に在った屠何を東胡の先祖とする説、春秋時代に燕の北方に居た山戎などの遊牧民を戦国時代以降に東胡と呼ぶようになったとする説などがある。
④ 夏家店下層文化(wikiより)、、、殷の一文化
同地域の紅山文化から続く、紀元前2000年から紀元前1500年頃の現中国東北部、北西は内蒙古自治区東部のシラムレン川北岸から張家口にかけて、南東は河北省北部から遼寧省西部を中心とした文化で、山東半島にあった大汶口文化から岳石文化にかけての文化を含むとする研究者もいる。内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡の下層を標式遺跡として、小河沿文化に続く。
生活の中心は雑穀栽培で、他に牧畜、狩猟、漁労も行われた。遺跡からは豚、犬、羊、牛、鹿などが見つかっている。多数の大規模集落が発見されており、北東アジアの乾燥、寒冷化が進行した紀元前二千年紀後半以降はもとより、戦国時代や前後漢の時期よりも人口密度が高かったと推定されている。石器、骨器、陶器が見出されており、他に少数の金、鉛、漆器、翡翠、銅器、青銅器も見つかっている。陶器は三足型、銅器・青銅器は耳輪型が多い。骨を使った卜占も行われた。家は多くは円く、土と石で造られた。集落は崖や急斜面のそばに造られて防御され、あるいは石壁が集落の周囲に立てられていた。
土器・陶器や青銅器の様式などは殷(商)の物とよく似ており、殷文化に属する人々が北東へ移住した、或は逆に遼河文化に属する人々が気候変動によって中原へ南下し殷文化を形成したと考えられている。同地域はその後、乾燥化と寒冷化が進み生産様式の異なる牧畜を主とする夏家店上層文化が広まった。
⑤ 日本語の起源(参考)、、、日本語は中国大陸で広く喋られていた。
⑥ 契丹古伝によると、契丹や鮮卑など多くの非漢民族が殷人をルーツとして、古代中国大陸に活躍して原日本語を喋っていた(参考)
⑦ 縄文人は中国大陸にも生活して、殷王朝を樹立して、漢字のルーツの甲骨文字を発明したが、秦などの末裔は結局のところ日本に渡来した