壇の浦の電信柱、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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明治6年、長崎から東京まで電信線が敷設され、明治10年の西南戦争では九州の戦況が時々刻々と東京に伝えられた。

関門海峡では、門司から海底ケーブルで下関の前田に陸揚げされた電信線が、現在の国道9号線に沿って、壇の浦を経由して唐戸の交換局に接続された。

下の写真では電信柱は見えるが、前田の発電所からの電柱が見えないので、明治6年から大正10年の間の撮影であろう。

壇の浦

下関といえば関門海峡、しかも壇の浦を思い出すのは誰しも同じことであるだろう。この狭い海峡に潮は一定の時間をおいて流れ、去り、また流れる。いくら見ていてもあきることがない。そしてこの地に立って先ず思われるのは源平合戦であり、そして明治維新のいくつかの出来事であろう。

(写真集 明治大正昭和 下関より)


壇の浦

下関は商人の町であり、長府は武士の町であった。この二つの町はどのような道でつながれていたのだろうか。壇の浦から少し山に登り、今の国民宿舎のあたりを通って前田に出る。前田からこんどは山の方に入って行って野久留米から功山寺の前を通って長府では旧道を通るのである。

(写真集 明治大正昭和 下関より)


源平古戦場壇の浦

万葉集の第一人者柿本人麻呂の歌に「大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ」というのがある。どこといってはっきりしないが関門海峡にあてはめて考えてもよい。それからこんどは壇の浦の合戦がある。「かなしきかなや無常の風、忽に花のすがたをちらし奉る」と平家物語にある。

(写真集 明治大正昭和 下関より)


参考

① 情報通信の歴史と下関(参考)


② 明治29年に馬関電灯会社が設立された(参考)、、、前田の発電所の運転開始は大正10年か!


③ 明治6年に敷設された電信柱